空いた時間があれば、わたしは手記を書くようになった。日記との区別はついていない。内容によっては業務日誌とすら言える。
日々の出来事を書いて、その所感を書く。ふと思い浮かんだ心証を書いて、そこから連想した、かつてあった会話などを書き記す。
まさに『心に映りゆく由無し事を、そこはかとなく書きつくれば』だ。わたしには兼好法師のように一日中机に向かえるような余裕は無い。それでも文章化という行為は綯い交ぜになった胸の内を整理するのに役立っている。
余暇がどれほど精神の成長を促していたのか、失った今になってわかる。顕著な例を挙げれば『死』や『虚無』について考える時間が圧倒的に少なくなった。死にたいと現実から逃避していたわけではない。ただふとした瞬間、世界に独りで居ることを強く実感したとき、思索の海に溺れた経験は誰にだってあるはずだ。
個人ではどうしようもないこと。答えが出ない問い。無駄に違いないのに、無駄にはならない思考。
そういったものは、すべて貴族の嗜好品なのだと実感する。今日の糧となるひとつのパンを巡って東奔西走する今のわたしでは、とてもケーキにまで手が出せない。
〈大崩落〉後の生活は惨憺たるものだ。社会というものがまだ機能しているとしたら、生き残った全員がやるべきことをやらなければ成り立たないほどに。そこには大人や子供といった区分はない。わたしも趣味だった衣装作りが仕事になった。責任を負う立場になった。雑な仕事でできた衣類は、間違いなく落命に繋がる。職業に貴賎無しとは言うが、かつてとは責任の重みが違う。誰かの失態は誰かの命の危機になる。一事が万事、命に関わるのだ。
『死』というものは、実にありふれたものになってしまった。
わざわざ考えるまでもなく、そんなものは一歩でも外へ出れば至るところに転がっている。かつての世界が徹底して死穢を目の届かないところに押し込んでいたたけに、現状との落差に眩暈がする。次に屍を晒すのは自分かもしれないと不安が過ぎれば、安穏と考え事に耽る時間など消し飛んでしまう。
それでもどうにかこうにか思索する時間を捻出しているわたしは、変わり者と呼ばれるらしい。
キリのいいところまで筆を進めたところで、私室のドアが控え目にノックされた。
「りんりん。まだ起きてる?」
「うん。起きてるよ」
あこちゃんの声に応じながら、わたしは椅子から立ち上がる。部屋のドアをそっと開けば、そこには不安げな表情をしたあこちゃんが寝巻姿で立っている。いつも結われているツインテールは解かれて、癖のない長髪が彼女の頬と背を撫でていた。
「どうしたの、あこちゃん?」
「そろそろ明るくなってきたから、ちゃんと寝ないとダメだよ。りんりん、あこが声かけないとずっと手を動かしてるんだもん。休むときにはちゃんと休むこと! いい?」
「うん、わかってるよ……わかってはいるんだけどね……」
わたしには今日のことしか考えられない。明日のことを余裕を持って考えられるようには、わたしには足りていないものが多すぎる。そして足りないものを補うために、自然と睡眠時間を削る生活が続いてしまう。我が身を削ぐような生活習慣をあこちゃんにとても心配されているとわかってはいるのだが、これがなかなか、改めるのが難しい。
自然と、言い訳のような言葉が滲み出る。
「りんりん!」
咎めるようなキツい口調。後ろめたさを自覚している分、あこちゃんの言葉はわたしの胸によく響いた。
「そんな生活してたらすぐに倒れちゃうんだからね」
あこちゃんはわたしの手を取ると、そのままわたしをベッドの上に押し込めてしまう。
「またカーテンに隙間作ってる。まだ日差しが弱い明け方だからって、油断してると癌になっちゃうんだからね!」
言いながら、あこちゃんは窓のカーテンをぴっしりと締め切った。太陽光はいまや殺人光線と化している。ガンマ線バーストシャークによってオゾン層が破壊されたことにより、紫外線が減衰することなく地上へ届くようになったせいだ。素肌を陽に晒せば、ものの数分で炎症反応を起こしてしまう。十数分も当たれば皮膚癌だ。絶命のリスクが高まる日中は、屋内で体力の温存に努めるべきなのだ。人々の生活リズムが昼夜逆転するまで、そう時間はかからなかった。
防音防炎にも優れた頑丈な遮光カーテンが引かれると、部屋の中は途端に薄暗くなる。
「折角
あこちゃんが卓上の
「資源は大切だよ……黒服さんたちの調達能力にも、限界があるだろうし……できる限り節約しないと……」
それに、直前までやっていたのは仕事ではなくライフワークのようなものだから、より一層、資源の浪費に抵抗がある。数分もあれば済んでしまう雑事は、少しだけカーテンを開けて対処するようにしていた。当然、直射日光を浴びないよう細心の注意を払った上でだ。
「もう! りんりんの身体の方が大事でしょ! ほんのちょっとの節約のために、りんりんが病気になったら意味無いんだよ?」
そう言われてしまうと立つ瀬がない。真紅の瞳に射竦められ、わたしは弱々しく視線を落とした。もうすっかり、あこちゃんの方が年長者であるかのような塩梅だ。
うだうだと言い訳染みた言葉を並べてしまうわたしとは違い、あこちゃんはとてもしっかりと真っ直ぐに成長している。
わたしに改善するつもりが無いと悟ったのか、あこちゃんは布団の中に潜り込んできた。あこちゃんと同じ布団に包まれている。目前にあるあこちゃんの顔にどぎまぎしていると、腰に手を回された。もう片方の手は探るように布団の中を動き回り、わたしの手と指を絡め合う。さらに互いの顔が近づく。わたしとあこちゃんの鼻先が擦れ合う。
「もう、あこにはりんりんしかいないんだよ……?」
吐息のような声がわたしを通り抜けていく。求めるように、わたしたちは触れるだけの淡い口づけを交わした。
荒れた唇は互いに栄養が十分摂れていないことを物語っていた。肌からは瑞々しさが失われ、お互いの手には大小様々な傷跡がある。
不意に、瞳が潤んだ。けれど涙は零さなかった。どうしてこんなことにという悲嘆と、あこちゃんを守れない不甲斐なさが噴出しそうになる。自分の至らなさを認めはする。受け入れもする。しかし、形にはしない。なるようにならかった未来に価値など無いし、そんなものを思いながら生きれるほど、わたしに余裕は残っていない。
「ごめんね、あこちゃん。明日からは、ちゃんと
「今日はもう寝よう。りんりんが寝るまで、あこも起きてるからね」
「……わかったよ、あこちゃん。ちゃんと、寝るから……」
「うん。りんりんがぐっすり寝てくれたらあこも安心する」
そこまで言われてようやく、わたしは目蓋を下ろした。
「りんりんはがんばってるよ。とっても、とってもがんばってる。だから、休めるときはちゃんと休んで」
わたしの横顔にあこちゃんの手が添えられる。じんわりと伝わる熱が心地よく、一度眠ると決めたわたしの意識は簡単に落ちた。
次に目覚めたとき、外はすっかり暗くなっていた。カーテン越しでもわかる白んだ世界は、夜の帳に覆われている。室内の光量はゼロに等しい。
まとまった睡眠は思考をクリアにしてくれる。眠る前に陥ったうじうじとした気分は、意識できないほどに小さくなっている。
ベッドから起き上がろうと身動ぎすると、わたしのすぐ真横から小さな息遣いが聞こえてきた。目前にある温もりに胸の奥がきゅっとなり、眠気が一瞬で吹き飛んだ。わたしが眠りに落ちるのを見届けたあと、あこちゃんはこのままここで眠ったらしい。なんて寝起きに悪い。いや、良いのだけど。歓迎するけども。
ドキドキと速まる鼓動をなだめ、わたしはベッドから抜け出そうとした。その振動のせいか、ぱちりとあこちゃんの目が開く。膝立ちになりそろそろとベッドから降りようとしていわたしの前で、あこちゃんは身を起こしながら「うーーーん」と大きく伸びをした。
「おはよう! りんりん」
「おはよう……あこちゃん……」
覚醒して数秒でハキハキとした挨拶があこちゃんの口から飛び出る。寝覚めが良いというわけではない。ただ、就寝中だろうと、外敵からすぐ逃げ出せるように浅い眠りを繰り返す人が増えているのだ。さながら小動物の処世術のように。
わたしはもう憚ることなくベッドを降りる。真っ暗とはいえ自室である。物の配置関係は把握している。わたしは卓上の
「夜風が気持ちいい。あっ! 見てりんりん。今日は雲も無いから、星がとってもきれーだよ!」
あこちゃんが空を指す。つられて、わたしもついと視線を上げた。わたしたちの頭上には満点の星空が広がっている。東京の夜空だと言うのに、六等星まではっきりと見える。美しさに偽りはないが、それだけ文明が退化したのだと実感する。
「ずっと見ていたくなるけど、身体を冷やさないようにね……」
わたしは窓際から身を引くと、作業机に放られた作りかけの外套を手に取った。そして手動のハンディミシンと一通りのソーイングセットを準備する。
「外でももっとカッコイイ服が着れたらいいのにね」
わたしの手元を見ながら、あこちゃんが言う。
「そうだね。わたしもRoseliaのライブ衣装みたいなのを作りたいけど……布も時間も、ちょっと足りないかな……」
手元の外套に視線を落とす。フリルやレースのような遊びは一切無い。実用一辺倒の外套は日中での活動も考慮して、表地は白、裏地は黒の生地を使ったフード付きのものだ。
「紫外線対策なんだっけ?」
「うん。表地の白い生地で紫外線を反射させて、表地を突き抜けてきたものは裏地の黒い生地で吸収するんだよ。そうやって肌に与えるダメージを最小限にするの」
出来上がった外套は、撥水剤に漬け込んでしまう。風雨も凌げるものでなければ、外で活動するには心もとない。
「頼まれてた数はできたから、これが乾いたら居住区に行こっか」
「わかった。じゃあ、あこは残りが少なくなってるものを確認してくるね」
「うん。わたしはガレージに居るから、よろしくね」
「任せて!」
干したフカはまだまだあるが、飲み水や
部屋を飛び出そうとするあこちゃんに
揺らめく炎に照らされて、
衣類を作る片手間ではあるが、機械工学や物理学の勉強は死ぬ気でやった。電子機器が全滅した際、蒸気機関を蘇らせようという動きがあった。それを知った瞬間から、わたしは我武者羅に知識を詰め込み始めたのだ。脆弱で無力なわたしは、そうでもしなければあこちゃんとともに生きていけないと思ったから。
軍手をはめた手が油で汚れる。