〈大崩落〉を経て人々の生活様式はガラッと変わってしまった。それ自体はいまさら語るまでもないだろう。
しかし変わってしまったものの中に、わたしでは変化の違いに気づけないものがある。
男女の住み分けだ。今は男性エリアと女性エリアとで明確に線引きが成されている。男性の生活圏と女性の生活圏が極力被らないように配慮されている。接触も必要最低限であり、〈大崩落〉後では色恋沙汰のトラブルはなくなったと言っていい。
すべてはジンクスのせいだ。
俗にリア充と呼ぶべきようなカップルが人目も憚らずにいちゃいちゃしたとしよう。そのカップルはどこからともなく現れたサメの餌食になって死ぬ。大概は死ぬ。サメは空気が読めないやつやリアルが充実しているやつが大好きなのだ。彼らの嗅覚は侮れない。
大恋愛を成就させるのは勝手だが、命を危険に晒してまでその道を往く猛者は早々居ない。
重要なのは死なないこと。そのためのリスク回避。男女ともに異性を避けるようになるまで、そう時間はかからなかった。
例外は警邏隊くらいなものだ。彼らは食料調達のために肉欲を満たすくらいは平気でする。基本的にまともな人間性を残した善人ではあるが、如何せん獣性が強い。その中へあこちゃんをひとりで向かわせることなどできるはずもなく、わたしはいつも彼女に付き添って死地へ赴いている。
わたしに限って言えば、むしろ男性との関わりは増えたくらいだ。しかし、丸一日異性の姿を見ない日が続くのは奇妙な感じがする。と、目前の彼女は言った。その感覚は女子校に通っていたわたしには実感しづらい。
「信州じゃ、そんな配慮なんて無かったわ」
遥々長野から逃れてきた彼女は言う。
「あそこじゃみんな何かに飢えていた。食べ物だったり、つながりだったり。即物的なものも、精神的なものも、何もかも、奪うか、奪われるかしかなかったから」
だから、こんな風に見る人全員が穏やかな表情をしているのはとても不思議よ。と、彼女は言った。
病院のベッドに腰かけた彼女は、緩慢に辺りを見回す。元は四人部屋だった。ほかの病院から運んできたベッドを押し込んで、収容人数を増やしている。医者の数が限られる以上、患者の分散は避けたかった。病室には彼女と同じように怪我人や病人が詰め込まれている。その中のひとりにわたしとあこちゃんは会いに来ていた。
散切りにされた黒髪。例に漏れず痩せ細った肢体。腕には痛々しく包帯が巻かれ、未だに血が滲んでいる。その女性の瞳には、ひりつくような冷たさが宿っていた。安穏と安全圏に引き篭もっている人間には無い、殺伐とした色だ。
病室のドアは開け放たれていた。そこからは忙しなく動き回る看護師や院内を徘徊する患者たちの往来が見える。窓からは中庭が見下ろせた。芝や樹木が植えられていたであろう中庭は、すっかり荒涼としてしまっている。月明りだけでも、剥き出しになった地面が見えた。
ガンマ線バーストシャークの襲来は地球から緑を奪いつつある。そして倫理や道徳など人と人の間にあったはずのものすら奪い取り、剥き出しの欲求が曝け出されている。
「何か育てようとはしなかったの? あこたちも最初はお役所が管理してた災害用の非常食を食べてたけど、だんだんじゃがいもとか、きゅうりとか、簡単に育てられそうなのは育てていこうって話になったよ」
「野菜やお米を作ろうって動きは、何度かあった。ジリ貧なのはみんなわかってたから。でも、結局全部失敗した。大抵、実る前に枯れちゃうんだよね」
「それって、酸性雨のせい、だよね……?」
言い切るだけの自信が無かったのか、あこちゃんはわたしに視線を向ける。あこちゃんの説明を引き継いで、わたしは現状における環境問題を述べた。
「ガンマ線バーストシャークが大量の窒素分子を分解し、二酸化窒素を生成しました。それが空気中の水分に溶け込んで、雨滴が酸性を帯びるんです。建物の腐食は早まりますし、植物は枯れます。土壌の金属と反応した雨水が飲み水に混ざれば、人体にも悪影響を与えます。
まあ、ほかにもオゾン層が破壊されたことによる強すぎる紫外線や寒冷化といった要因もありますが……。
わたしたちも野菜を作ってはいますが……あくまでホームセンターから土や肥料を持ってきて、体育館なんかに敷き詰めたものを菜園と呼んでいます。下手に屋外で育てようとすると簡単に枯れますし、なによりわたしたちも死ぬので……」
一歩間違えば、食料どころか飲み水を奪い合う争いすらも起こっていたかもしれない。
東京では、溜まった雨水に灰を混ぜて濾過することで中和を行っている。その上でボイラーを使って蒸留するという徹底ぶりだ。やはり東京の内と外では大きな開きができている。原因は明白だ。〈弦巻財閥〉の庇護下か否か。ここに来る直前に、新人スタッフさんから受けた警句が脳裏をよぎる。
「こっちにはそんな風に説明してくれる人は居なかったな。文明と呼べるようなものは残らなかった。全部祟りだとかのせいになってね。もう何をやっても助からないって空気ができてしまったら、どうしようもなかったな。ただただ享楽的に最期を迎えようとする人間を止められるわけもないし。
逆に理性を残している連中はほとんど〈星の智慧派〉とかいうヤバい宗教団体に連れてかれたし。
私は比較的まともそうなのと、山の中でたまたま自生してた植物や木の根っこを齧りながらどうにかこうにか食いつなぐのでいっぱいいっぱいだった」
「下手に文明人を気取られるのも、それはそれで色々ありましたけどね……」
「へぇ。例えば?」
「……ざっくり言ってしまうと、今の世の中で残留放射線量が規定値に収まってるものなんてないんですよ。なのにそれがわかった途端、騒ぎ立てる人たちがいて」
「あれは酷かったよね。こんなもの食べられるかーって非常食の缶詰とか乾パンとかをまとめて捨てようとして」
それを聞くと、目前の女性は冷笑を浮かべた。会ったこともない人間に向けて侮蔑の色を露にする。
失敗したとわたしは少しだけ後悔した。わたしたちよりも過酷に日々を食いつないできた人に対して振る話題ではなかった。
「それで、その人たちをどうしたの?」
「さあ? 特に話は聞いてないよね?」
と、あこちゃんは答えた。
「……静かにはなったので、宗旨替えしたんだとは思います。あるいは───」
死んでしまったか、だ。主義を貫いた結果なのか、サメの餌になったのかはわからないけれど。
「大変さの質が違うだけで、どこもかしこもって感じね」
不意に、彼女が顔を手で覆った。手の隙間から疲れきった吐息が漏れる。
「大丈夫?」
あこちゃんが尋ねる。彼女は悪くなった顔色で「少し夜風に当たってくるわ」と言った。彼女は唯一の私物となったハンドバックを手に取って、立ち上がろうとする。ベッドとベッドの隙間はとても狭くなっているため、わたしとあこちゃんも立ち上がって道を譲った。
「……では、わたしたちはここでお暇させていただきますね」
「今日は来てくれてありがとう。この間はサメから助けてくれてありがとうね。重ねて、お礼を言うわ」
「じゃーねー! お姉さん! お大事に!」
口々に別れの言葉を交わし合う。ふらふらとしている彼女の背中を心配げに見送りながらも、わたしたちは彼女とは反対方向に進んでいく。
病院から出るところで、意外な人物と遭遇した。わたしたちの前に立った彼女はぴちりと一礼する。
「これは白金様。宇田川様。ご壮健でなによりです」
黒服さんだ。