AD980 コーンウォール グリフィンドールの館
土砂降りの雨の音が石造りの部屋を満たす。雲の中でのたうつ雷鳴がそれを押しつぶすようにして響いた。グリフィンドール家の守護獣は獅子。それを織り込んだタペストリは薄闇の中で力無く縮んだように見える。マントルピースに火は無く質実な調度は寒々として凍えるようだ。感じるのは初秋の肌寒さではない。この部屋の主の殺気がゴドリックの血を凍らせているのだ。
うずくまったゴドリックは対峙する叔父を見つめる他なかった。だがその長身は彫像のような影となって屹立し、開け放した窓からの弱い外光に自分と同じ赤い髪の輪郭と琥珀の目の底光りが認められるだけであった。養子として10歳の頃から7年の間育てられてきた。反発してきたから叱責も折檻も数え切れぬほど受けてきた。しかし、今のように剣で斬りつけられたことは無かった。左手で押さえた脇腹が血で滑る。
白刃と傷や痛みに恐怖を感じない訳ではない。だがそれらは何度も切り抜けてきた事だった。ゴドリックの意思を挫くに値しない。彼の気力を萎えさせているのは育ての親が向ける目だ。獅子のそれを連想させる琥珀の瞳。そこにあるのは怒りでも、ましてや残忍さでもなかった。ただただ使命を遂行するのみという高潔さだった。
間合いは一足一刀。ゴドリックの傷を押さえていた左手が、無意識のうちに腰に佩いた剣の鞘を掴んだ。
グリフィンドール家が魔法使いとして異端なのは剣を好むことだ。自ら騎士を称する程に。剣こそが彼らの第一の魔法であり、誇りであった。
ゴドリックの叔父シドニウスは左手に杖を握っていなかった。魔法を使うつもりはないという事だ。
ゴドリックは理解した。これは、グリフィンドールの作法に則った処刑なのだ。この場に来るにあたって、叔父の怒りを買い罰を受ける覚悟はあった。しかし、今為されようとする事はそういう次元を超えていた。
「叔父上……」
「ゴドリック」
シドニウスはゴドリックの問いかけをかき消すように呼んだ。
「お前は最高の騎士になるだろう……慈悲深く、強い意思を持ち、それを貫徹できる力がある」
ゴドリックにとっては叔父こそが、ブリテン全土から強者の魔法使いが集まるグリフィンドール騎士団において、最高の騎士だった。騎士団は人々を脅かす魔獣を倒し、邪な魔法使いを粛清し、数世紀続く戦乱から魔法社会を守ってきた。その歴史の中でも竜殺しに始まり千年魔女との決闘に至るシドニウスの勇名は計り知れなかった。
ゴドリックが彼から褒められたのは、養子になった7年を通じて初めての事だ。それも「最高の騎士」と。思いがけない言葉はゴドリックの混乱と寒気を増すだけだった。傷が痛む。
「だからこそ、今、ここで」
爆音と白光が部屋を埋め尽くす。至近の落雷が二人きりの部屋を振動させた。
渦巻く思考と感情の底で本能だけが明確に働き、ゴドリックの右手を剣の柄へ引き寄せた。
「ゴドリック。お前を斬る」
シドニウスの剣が高々と掲げられる。
「『新たなる王国』の為に!」
そして稲妻のごとくゴドリックに振り下ろされた。
AD982 デンマーク
それは瀑布から落下する岩山のごとく叩きつけられた。
ゴドリックが一瞬前まで立っていた地面は抉れ陥没し、歪な鉄塊が埋まっていた。
鉄塊は器物として分類するなら剣だった。ただし長さは成人男性の身長の二倍、厚さは指を伸ばした手のひら程。持ち主はそれに相応しく怪物だった。人間ではない。動物でさえなく魔法生物とも呼ぶ事は出来ない。「怪物」だ。
満月を背負って荒地にそびえ立つその巨躯は、不器用に縫い合わされた人形に見えた。身体の構成だけは人間と同じだが、非対称的な全身を犬のような黒い毛で覆われ頭の左右には枝角が大きく伸びていた。顔は鹿とも犬とも見え、そのくせ口は捻じ曲がった人間のそれであった。
目がゴドリックを見下ろす。それは夜空のもとで溶かした鉄のごとく対流し赤く燃え噴き出すそれは憎しみだった。ゴドリックはそれを冷たく見返す。
黒い巨体が纏うスケイルメイルが内側の肉に押されて軋む。
ゴドリックは反射的に後へ飛んだ。
彼の目の前を、鉄塊が地面を抉り爆風となって過ぎ去る。それだけでもゴドリックの長身をなぎ倒すには十分だった。
倒れつつ東の夜空の藍が薄らぎ始めているのが目に入る。転がる勢いで素早く立ち上がった。チェインメイルが音を立てる。それはすでに擦り切れ、肩が大きく剥がれ落ちている。
「ゴドリック、もうすぐ夜明けじゃ」
その女の声はゴドリックの右手の剣から聞こえてきた。洞穴の泉に雫が落ちるような、澄んだ反響を伴っている。剣の刃渡りはゴドリックの腕の長さと同じ程。両刃の刃は真っ直ぐに伸び、弧を描いた白金のつばに収まっていた。夜の闇に薄く輝く刀身と精緻な線刻文様をまとったその長剣は、およそこの世の職人の手による物とは思えぬ美しさだった。
「攻撃は控えよ。時間切れまでにげ……やり過ごすのじゃ!」
黒い巨体が再び鉄塊を振り上げるのを見ながら、ゴドリックは笑いを噛み殺した。彼の相棒が「逃げ切れ」と言いそうになって飲み込んだのが分かったからだ。彼がそれを言われると反発する事を良く理解している。
横に思いきり飛び、鉄塊の巻き起こす暴風に煽られながら地面を転がった。
彼女はしかし、未だこの怪物との戦いを分かっていないようだ。防戦や逃げる一方では無制限に攻撃を食らい、潰されるだけだ。
ゴドリックは長身を折り畳むようにして転がりながら怪物の懐へ入った。
猫科の獣を思わせるしなやかさで立ち上がると、伸びきった黒い毛むくじゃらの腕を渾身の力で斬りつけた。
それは魔法使いの常識においてもあり得ない事に、牛の胴ほどある前腕を骨ごと切り裂いていた。おびただしい黒い血が流れ落ちる。
その傷口は燐光を発していた。
怪物は体を捻じるようにして空手の左拳をゴドリックに振り下ろす。ゴドリックは左手の杖をそれに向けた。
「インペディメンタ 妨害せよ!」
<妨害>の魔法は正しく働いたが、怪物の拳はそれを一瞬で突き破った。魔法の残骸が燐光となって撒き散らされてゆく。それは怪物の腕に付けられた傷口に現れたものと酷似していた。
魔法は壊されたが、拳は逸れてゴドリックの真横に落ちる。
そのときすでに彼は剣を振り下ろしていた。魔法が壊される事を承知でカウンターを狙っていたのだ。
怪物は左腕にも深手を負い、声をあげてうずくまった。ゴドリックは追撃する事も出来たが、気がかりがあった。
「ウィリアム!」
ゴドリックは怪物から距離をとりつつ友の名を呼び、見回した。この海に突き出た草原にいる、自分以外の唯一の人間、魔法使い。魔法を打ち消す“怪物”と戦いたいと、ゴドリックが止めるのも聞かずこの戦場に現れた命知らず。“怪物”との戦いが始まった時は隣にいて、杖を構えて戦いに臨んだはずだ。しかし“怪物”の猛攻を凌ぐうちに姿が見えなくなっていたのだ。それが何分前なのか何時間前なのかは分からないが……。
「ゴドリック!気を逸らすでない、見よ!」
剣の声が警告する。怪物が起き上がっていた。腕の傷は血を滴らせながらも徐々に塞がろうとしているようだ。しかしゴドリックの目を引いたのは怪物の背後だった。地面の上に靴の裏が見える。その先は下り斜面の方にあって見る事ができない。だがそれはウィリアムのはずだった。
「ウィリアム!」
ゴドリックの呼びかけは怪物の絶叫にかき消された。
その姿に反して怪物はいやに人間らしい声を発した。怪物の叫びは野太く、それでいて赤ん坊のように容赦の無い喚き声だった。ゴドリックは顔をしかめる。
「ちっ。相変わらず嫌な声で鳴きやがる」
怪物が前にのめり手を地面に突きながら突進してきた。手を着くたびに傷から血が撒き散らされる。開いた口の白い歯から唾液が溢れだしていた。ゴドリックを睨み据える目は煮え立ち熱く燃えている。なりふり構わずその巨体でゴドリックを圧殺しようとするようだった。ゴドリックは歯を食いしばった。嫌悪に、恐怖に、緊張に。しかしそれでも口の端をぐいと上げていた。
一瞬でもいい。ゴドリックは友の状態を確認したかった。しかしそれには怪物の突進を掻い潜って行かねばならない。そしてウィリアムに向かっている間は怪物に完全に背を向ける事になる。
「ゴドリック!呆けとるのか?!避けよ!」
剣の声がキンキンと甲高く響く。
ゴドリックが怪物を掻い潜る事を決めた時、引きつけた足に何かが当たった。地面に刺さる一本の杭。彼は友がこの戦いの為の罠を仕掛けていたことをすっかり忘れていたのだった。
「よしっ」
光明を見出し、ゴドリックの口の端に心からの笑みが浮かんだ。怪物が眼前で両腕を振り上げる。杖を地面に向け呪文を唱えた。
「ビンダビアラ 突風よ吹け!」
地面に吹き付けられた突風は跳ね返りゴドリックの身体を宙に巻き上げて数メートル後方に運んだ。
ゴドリックの着地と怪物の拳が地面に叩きつけられるのはほぼ同時だった。
立ち上がったゴドリックは怪物に杖先を突き付けた。
「何をしておるんじゃ!気は確かか?!魔法は効かぬのじゃぞ!」
ヒステリックに喚く剣の声。
「さあ、どうかな?」
答える声は不敵だった。
ゴドリックは怪物の動きを注視していた。
叩きつけた両腕をあげ、赤い目でゴドリックを睨み、前屈姿勢をそのままバネに、黒い 巨体を突進させたまさにその瞬間。
「インカーセラス 縛れ!」
ゴドリックの呪文は杭の刺さった地面に埋まった鎖を引き出し、怪物を一瞬にして縛り上げる。怪物は土煙と轟音を上げて顔面から地面に激突した。ゴドリックは勢いで滑ってくる怪物の頭を避けると数歩下がり、魔法の成果を見守った。
怪物を縛る鎖は一つの輪に大人の拳が通る長大なものだった。その先についた錨が地面に食い込み、もう片方にもついている錨はあらかじめ地面に埋め込んである。怪物はがっちりと固定されていた。
怪物が縛めの中でもがくが、その剛力と鎖の強度は拮抗していた。
「よっしゃァ!」
ゴドリックは剣を担いで駆けだした。ウィリアムの足の見える方へ。
剣の声が不審げに問う。
「本当に大丈夫なのか?」
「鎖は小鬼製だって言ってたぜ」
仕掛けた罠が上手くいったことでゴドリックは楽観的になっていた。しかしウィリアムを見下ろした時にそれは間違いだと思い知らされる。
一目で分かる致命傷だ。まだ息はあった。何かを喋りかけている。ゴドリックは頭の傍で跪いた。
「ウィル……!」
ゴドリックは愛称で呼んだ。
「よう、ゴド……ザマァないぜ」
ウィリアムは白い顔を笑顔にして見せた。
ゴドリックは剣を縋るように見つめた。
「ヴィヴィー!」
剣の声は静かに告げた。
「どうする事も出来ぬ。」
「俺の時はこれぐらい治してくれただろう?!」
「あれはそなただからじゃ。そしてあの時だけの事じゃ。分かっておろう、ゴドリック……分かってくれるか、ウィリアム。妾の魔法はゴドリックだけのものなのじゃ」
ウィリアムは擦れた息を漏らして愉快そうに笑った。
「ああ、まさか、『湖の貴婦人』に名前を呼んでもらえるなんてな。光栄の至り、念願叶ったぜ……なあゴド」
「馬鹿やろう!俺の言った通りじゃねえか。あいつに魔法は通じねえ、あんたには傷一つ付けられねえ……死ぬだけだって言ったじゃねえか」
「戦士の意地だ。お前が敵わねえって化け物とどうしても戦ってみたかったんだ」
彼の家は代々魔法使いにしてヴァイキングだ。祖先のブリテン島侵攻の功績をブリテン人のゴドリックに誇らしげに語るような男だった。
「馬鹿やろう!」
ゴドリックが繰り返す。ウィリアムの顔に滴が落ちた。彼は次々に落ちてくる熱い滴を顔に受けながら、自分を覗き込む顔を眺め、微笑んだ。
「なあ、あの仕掛けは上手くいったか?」
ゴドリックは怪物の方を振り仰いだ。濡れた視界が捉えたのは、黒い巨体が縛められたまま立ち上がろうとする姿だった。その背景の空は白んできていた。
「ああ。もうあいつ、動けないぜ」
「高価かったんだぜ、あの鎖……やるよ、持ってきな……旅の荷物にゃ、ちと重すぎるかもしれねえが……この先何度も戦うんだろ、あいつと……あいつを殺すま……で……」
ウィリアムの金髪に光が射した。彼はそちらへ顔を向けると目を細めた。海の水平線から曙光が広がっていた。
「夜明けだ」
そう言って、ウィリアムは事切れた。
「ウィル……!」
応えはない。吹き渡る風がウィリアムの金髪を揺らすのみだった。ゴドリックはそっと目蓋を閉じてやった。風を浴びながら、横たわる友の顔から目を離さずに立ち上がる。
「意地だと?そんなものが何になるってんだ。あんたは自分を過信しすぎた、恐れ知らずで感情まかせに力を振り回して何にも見えねえなんてなァ……」
ゴドリックは振り返り縛められた怪物を睨み据える。
「アイツと一緒じゃねえか!」
その叫びは咆哮と呼ぶにふさわしく大気を揺るがす。
ゴドリックは左腕に乗せた剣の切っ先を真っ直ぐに怪物へ向け、突進した。
ヴィヴィーが何かを叫んでいるが彼の耳には何も届かず、目に入るのは黒い巨体のみだった。
駆けるゴドリックは我知らず雄叫びを上げていた。
“怪物”と目があう。融け合う鉄鋼の如くどろどろと燃え混ざる憎しみと殺意の赤。
ゴドリックは自分の目もそうなっているに違いないと思った。
「てめえが憎いのは俺だけのはずだろう!よくもよそ見をしやがったな!」
瞳を熱く感じた。その熱は顔の横に流れ、風に吹き散らされてゆく。
その時、日が昇り始め荒地を眩しく照らした。
怪物が叫びをあげた。夜明けの空に絶叫が満ちる。
鎖を巻きつけた毛むくじゃらの巨体に異変が起こった。まるで空気に溶けるように透けてゆく。みるみる透明になってゆく。
「逃がすかあぁあ!」
黒い巨体は完全に透明になった。
鎖が重い音を立てて地面に落ちる。
空の空間にゴドリックの渾身の突きが刺さる。何の手ごたえも感じられない。怪物は消え去ったのだ。
ゴドリックは突進の勢いのまま宙を舞い、鎖の海に倒れ込んだ。
朝日が黄金色の光と黒く長い影とに地上を分解する。ゴドリックはそのまま動かず、荒い息をする背中だけが上下していた。
「ゴドリック」
ヴィヴィーの声の澄んだ残響に、ゴドリックは鎖の上で身体を起こした。そして肩で息をしながら体の下の鎖をしばらく見つめ、涙を鋼の環に降らせた。
友の亡骸を振り返る。その向こうにある海の反射する陽光がゴドリックの目を射した。
「ウィル、お前も俺も、あの化け物と何も変わらねえ……感情のままに力を振るうしか能がねえ馬鹿だ」
ヴィヴィーが静かな声で語りかける。
「あの“怪物”を滅ぼすためには『命の泉』へ至らなくてはならぬ。今は“怪物”を殺す事は出来ても滅ぼす事は出来ぬのじゃ。わかっておるな、ゴドリック」
ゴドリックは頷いた。
「ああ、わかってる」
「ならば無茶をするでない!あれとは冷静に向き合うのがそなたのやり方ではなかったのか!」
ヴィヴィーは押し込めた感情を一息に吐き出すように叫んだ。応えるゴドリックは未だ内に渦巻く激情を押さえ込むように吐き捨てた。
「ああ。だがな、あの化け物を生んだのは俺なんだ……俺がウィルを殺したようなもんじゃねえか!」
「ゴドリック……」
ヴィヴィーの声に激しさは無かった。
「ウィルは俺を助けに来てくれたんだ……」
ゴドリックはかすれた声で言うと、俯いて黙りこくった。
「そなたと“怪物”は、同じではない」
ヴィヴィーの声に応えぬゴドリックの伸びた赤毛を、朝の冷たく強い風がかき乱す。
彼は鎖帷子のずしりと纏わりつく重さに耐えて立ち上がると、昇って行く太陽の光の放射を辿るように西を向いた。傷だらけの手の甲で頬を拭うと光の粒が飛び散って風に運ばれていった。
「帰るぞ、ヴィヴィー。俺たちの国へ」
剣を鞘に納める。そして踵を返すとウィリアムのもとへ歩き出した。
「『命の泉』を探し出す。全てを終わらせるために」
応えるヴィヴィーの声は、澄んだ反響をゴドリックに染みこませた。
「そうじゃ、ゴドリック。泉へ至ればすべてが終わる。妾の使命も、そなたの呪いも……」