5世紀の末、崩壊寸前のローマ帝国から見放されたブリテン島は戦乱に見舞われた。偉大な魔法使いマーリンと湖の妖精の援助を受けたアーサー王が、ブリテン島のみならず大陸にまで版図を広げたローグル王国を樹立するも、彼自身の戦死と共に瓦解。マーリンの手によって人々の記憶からも消え去ってしまう。
その後ブリテン島はいつ終わるともしれぬ暗黒時代に入り、魔法使いも非魔法族(マグル)と共にいくつもの戦と亡びを体験した。魔法使い達は戦乱に対して時には抗い、時には加担し、時には自ら企てながら時代の軋みを渡っていった。
10世紀半ば、イングランドの統一によって人々は一時の安定を手に入れる。その頃の魔法使いはマグルと生活を共にする者も多く居たが、魔法使い以外が入る事の出来ない隠れ里や、人を寄せ付けぬ辺境で魔法使いだけの社会をつくる者達も居た。そんな小社会同士がゆるく繋がり、そこにマグル社会で暮らす多くの魔法使いが加わる共同体が、中世初期におけるブリテン島の魔法社会であった。マグルと魔法使いの社会を完全に切り離す国際機密保持法の制定までには、まだ6世紀を待たなくてはならない。
西暦982年。イングランド王は4年前に10歳で即位したエゼルレッド2世。彼は後代<無思慮王>と渾名される。北辺の国境は綻びを見せ、有力貴族は自立を志向し、沿岸にはヴァイキングが舞い戻って脅威を振りまいていた。
1
男達は浜辺から<水中人>が陸に上がってきたのかと目を疑った。
ゴドリックは<姿現し>の魔法で瞬間的に移動してきたので、マグルの男たちからはそう見えたのだった。しかし彼の連れている白馬を見て勘違いだったと納得した。<水中人>は馬に乗らない。ただ、そこにいたのに気付かなかっただけだ……。だからと言って男たちは警戒を解く事無く、酒の入った木彫りのマグを卓に置いて近づく長身の男を見ている。
ブリストル湾は黄昏を受けて輝き、海風は早春の陽気を少しずつ冷ましていった。その村は漁撈よりも畑仕事を主な生業にしていたので、浜辺にいる男達も漁師ではなかった。掘立小屋の軒下で、仕事終わりの一杯を仲間と共にやっていたのだ。ゴドリックはつばが大きく先の尖った帽子を被り、足首までのマントを羽織って肩でまくっていた。帽子のシルエットを除けば旅人らしい衣装だと言える。しかし彼はつばの陰に顔が隠れるよう帽子を目深に被っていたので、それが男たちに出現の奇妙さと合わせて何とも言えない雰囲気を感じさせているのだった。
「腹ペコなんだ。すこし食べ物を分けてくれないか」
男達は思いもよらず若く陽気な声を聴いて顔を見合わせた。ゴドリックは近寄ると男たちの誰よりも背が高かった。しかし、しげしげとゴドリックを観察していた男たちは、徐々に険悪な表情を顔に浮かべて行った。髭面で厚みのある男が低い声で問い質す。
「その服……お前、デーン人か?」
ゴドリックはデンマークで手に入れた服を着ていた。その袖口や襟元には特徴的な文様が施してあり、男はそれを見てゴドリックの出自を連想したのだ。ゴドリックは少し考えた後に答えた。
「だったらどうする」
答えは拳で帰ってきた。頬に受けたゴドリックは吹っ飛んで卓に背中から突っ込んで倒れた。
「よくものこのこやってきたなヴァイキング!」
他の男達もゴドリックを囲み、並みならぬ敵意を込めて睨みつける。日が落ちた浜辺は陰惨に暗くなりつつあった。
ヴァイキングとはデンマークやノルウェーからやってくる戦士集団の総称だ。100年前、彼らは船でやってきてブリテンの各地を襲い、一部は定住した。彼らはまとめてデーン人と呼ばれている。しかし一年前、再び海を越え新たなヴァイキングがやってきて沿岸各地に被害を与えた。その出来事を、ゴドリックは他人ごとではない記憶として知っていたのだった。
髭面がゴドリックの胸ぐらを掴み上げて立たせた、瞬間。ゴドリックの身が翻り、素早く髭面の背後に回り込んだ。その右手は、彼の胸ぐらを掴んでいた筈の髭面の手を掴んでいた。
「俺はデーン人じゃない」
動揺する男達を余所に、ゴドリックは髭面の腕を極めたまま悠然と杖を抜くと、自身が倒れ掛かって壊した卓に向けて呪文を唱えた。
「レパロ 直れ」
魔法は折れた支柱を繋ぎ合わせ丸い天板をその上に置いて、卓を元通り地面の上に立たせた。
男達は沈黙した。髭面の男は息まで止まったようだ。男の一人が震える指でゴドリックをさした。
「ま、魔法使い……」
取り囲む男達は一斉に後ろに下がった。
彼らは生まれて初めて魔法を目の当たりにしたのだ。彼らが聞いた話に登場する魔法使いは、意のままに変身し、竜を従え、敵対する者に恐ろしい罰を与えるのだった。それはおとぎ話ではなく、実録の噂話として伝わっている話だ。髭面の男は、魔女によってカエルに変身させられた挙句馬車に挽き潰された猟師の話を思い出していた。それを話した彼の妻は実話だと力説していた。全身を冷たい汗が覆う。
ゴドリックは杖で砂の地面に転がるマグの一つを指すと、宙に浮きあがらせた。男の一人が悲鳴を上げる。マグが卓の上に乗ると、ゴドリックはその上に杖先を向ける。すると、そこから赤い液体が噴き出し、マグに注がれた。恐怖の状で見つめる男達。とりわけ髭面の男は目を剥いて目の前のマグを凝視している。左手を放されても脱力したままだった。そんな彼にゴドリックはニヤリと笑いかけて言った。
「さあ、飲め。拳骨のお返しだ。一発は一発、だからな」
ごくりと誰かが唾を飲む音が響く。髭面はそれが自分の発したものだと気付かない。横目で帽子の男を見る。ぼさぼさの赤い髪に縁どられた帽子の影の中で猫のような金の目が笑っている。その左手にはゆらゆらと黒っぽい杖が揺れている。それを力づくで奪うのは不可能だと、先程の動きでわかっていた。観念するしかない。これ以上魔法使いの機嫌を損ねる事が恐ろしかった。胸の前で十字を切った。目蓋に幼い娘と息子の顔が浮かぶ。俺がカエルになってもお前たちは父ちゃんと呼んでくれるかい……?男はマグを掴むと、震える手で口に運び、中の液体を舐めた。
「うっ……」
髭面の呻きに、男達がどよめく。マグを持ったまま震える髭面を、遠巻きにぴったり寄り添いながら見守る。髭面がマグを傾ける。男達は泣きそうな顔で十字を切る。
髭面が顔を上げて言った。
「……う、うめぇ……」
目は輝き頬は上気している。急いでもう一口飲む。
ゴドリックはこらえ切れずに笑い出した。
「大陸のワインだ。イングランドの貴族様でも滅多に飲めない上物だぜ」
彼は少し誇張したが、ワインは高価な輸入品の一つなので彼らのような農夫の口に入る代物でない事に変わりなかった。自家醸造のエールしか飲んだことの無い彼らには、まさに神秘の一滴である。
「おい、一口よこせっ」
男達は一斉に髭面に群がったが、彼は断固としてマグを渡さなかった。
「もうちびっとしかねーんだ。これは俺のもんだ。俺の拳固と引き換えにもらったんだ!」
男達は一斉にゴドリックに対し拳を固めた。ゴドリックはわざとらしく腹をさすりながら言った。
「あー腹減った。ちょっとずつでいいから食いもん持ってきてくれた人には、おすそ分けしてやるんだけどな」
髭面が音を立てて卓にマグを置くと走り去った。他の男達も遅れて自分の家に走って帰っていった。数分後、パン、小魚の燻製、ソーセージ、煮豆などが細々とゴドリックの前に並んだ。誰もが妻や母親に貴重な食料を酒と交換するとは言えず、こっそりと持ってこれるものを差し出したのだ。ワインに見合う対価とは言い難いが、ゴドリックはうまそうに食べた。
デンマークから帰ってきたゴドリックは情報を得ようとしていた。ウェールズは魔法使いの隠れ里がブリテン島の中では特に多く点在しており、それらの中に彼の求める『命の泉』の出現に相応しい土地があると考えたからだ。都市に行くのは避けたかった。彼の顔を知る<決闘者>に出喰わすかも知れないからだ。
一介の農夫である彼らから得られる情報は不透明だったが、ウェールズは未だ紛争状態だという事、イングランドとの国境が危うい事――ゴドリックが一年前に認識していた状態と同じ、つまりウェールズの安全な旅行は望むべくもないという事が確認できた。
この春にヴァイキングがこのウェールズ南東にまで及んでいる事は驚異的だった。ヴァイキングの本国デンマークでもイングランド侵略の話を良く耳にしたが、ここまでの物とは思わなかった。
魔法使いも参加しているのだろうか?脳裏にウィリアムの顔が浮かぶ。彼も生きていれば、侵略者としてこの島にやってきたのだろうか……。
「二週間ばかり前だ。ヴァイキングの本命は西の修道院で、俺たちゃあとばっちりさ。修道院は焼打ちに会って酷いもんだったが、奴ら頭数が少なくってよ、村の男達総出で追い返す事が出来た!」
おそらく、そもそもこのブリストル湾に入ってきたヴァイキングが少数だったのだろかつてのように全国的な侵略をするには至っていないようだ。これからの旅路はマグル同士の戦闘との遭遇に注意しなければならない。ゴドリックは心の中でそう締めくくった。避けるか参加するかはその時次第だ。ゴドリックは腰を上げた。
「もう行くのか、魔法使い」
男の一人が尋ねた。控えめに丸みを帯びた半月が水平線から昇り、たき火が早春夕暮れの肌寒さと闇を払っている。
「ああ。もう満足だ」
別の男が言った。
「家に泊まっていきゃあいい。土間だけど」
ゴドリックは苦笑した。
「もうワインは奢ってやらないぞ」
話を聞きながら振る舞い過ぎた感もある。
「別にいいさ、あんたの<水中人>の話は面白かった」
ゴドリックも男達にせがまれて、この湾でも暮らす<水中人>の生活について語ったのだった。男の顔を見る限りまぎれもない親切のようだ。しかしゴドリックは突き放すような声色で言った。
「ありがたいが、遠慮する。寝床はどうにでもなるんだ」
「そうか、魔法使いだものなあ」
男はうんうんと頷いて納得したようだ。
最後にゴドリックは本題の質問をして村を去る事にした。彼は懐から紙片を取り出し、男達に広げて見せた。彼らの口から感嘆の声が漏れる。巻き毛の少女がそばかすの浮いた頬に笑みを浮かべ、輝く瞳でこちらを見ていた。それはインクで描かれた白黒の肖像画だったが、絵画を見る機会すらない男達には生身と区別がつかないほどに生き生きとして、今にも言葉を発しそうに見えた。修道院の聖堂にあった木彫りのマリア像とは比べ物にならない生々しさに恐怖すら感じていた。ゴドリックはこのマグル達の反応に慣れっこだったので、紙をひらひらさせたり横から見せたりして紙に描かれた絵だという事を納得させてから尋ねた。
「この人を見た事はないか?」
男達は驚きと共に十代半ばに見える少女の絵を眺めていたが、やがてそれぞれに首を振った。
「ヴァイキングに焼かれたという修道院に、よそから来た女が入ったという話は聞かなかったか?」
ゴドリックはさらに訊ねた。
「あそこは男ばっかのとこだったからなあ……」
修道士は男女が別れて暮らすのが普通だ。
「そうか」
ゴドリックはそれだけ言うと肖像画を畳んで懐にしまった。
「その子も魔法使いなのかい?」
男の一人が遠慮がちに訊いた。ゴドリックはチラリと笑って答えた。
「いいやこの人は……魔法使いじゃ、ない」
そして男達に最後の質問をした。
「それから、この傍に池や湖はないか?できれば、神様が祭られていたような」
男達は顔を見合わせた。そして一人が答えた。
「ばあちゃんが北の森の池にむっかしは女神が住んでたって言ってたなあ」
男達は頷き合った。この村で共有しているおとぎ話らしい。ゴドリックは池の詳しい場所を訊くと、男達に見送られながら待っている白馬に向かった。
「魔法使い!」
ゴドリックが呼び声に振り向くと、最初にワインを飲まされた髭面の男が、息せき切って駆けてきていた。髭面はウェールズについてゴドリックに語っていたが、いつの間にか見えなくなっていたのだった。彼の後ろには妻と思しき女性がついてきていた。その腕に抱える小さな男の子は二人の子供だろう。
「魔法使い、行くのか。その前にうちの子を見てほしいんだが……もちろん礼はする。出来る限り」
まだ五歳くらいだろう。星明りの下で、男の子は苦しそうに息をしていた。ゴドリックは彼を良く見る為に明かりを灯した。
「ルーモス 明かりよ」
魔法は杖の先に月の明るさの光を灯し、空中に浮かばせた。男達は例によって感嘆の声を上げ、中には何やら祈りをささげる者もいる。この魔法はキリスト者にすこぶる評判が良い。それを務めて無視して男の子を明かりの下で見ると、右腕が膨れ上がって赤く変色していた。二の腕にまかれた包帯に膿が滲んでいる。
「どうしたんだ?」
「ヴァイキングの矢が刺さったんだ。治療はしたんだが……魔法で治す事は出来ねえか?」
ゴドリックは体を癒す魔法を習得していなかったが、とりあえず診てみる事にした。彼は子供を抱えた母親と一緒にしゃがみ込むと、包帯を外して傷口をあらためる。それほど深くは無い。勢いを失った矢だったのだろう。骨は外れているようだ。矢についた泥やサビが傷口の中で炎症を引き起こして腫れ上がったのだと見当を付けた。傷口を消毒して安静にするしかない。
ゴドリックは白馬に載せた振り分け鞄を探り、手のひらに載るほどの大きさの素焼きの白い壺を取り出した。入っているのは彼が手作りした傷薬だ。薬草学は苦手だったが、魔法使いとして農夫よりは薬草の扱い方を心得ているつもりだった。傷口を清潔にしてこの薬を塗ればいずれ治るだろう。数日分わけてやっても量に余裕はある。無くなればまた作ればいい。原料はありふれた薬草だ。彼は白い壺を持って子供の傍に戻った。
明かりの下で男の子が呻きを漏らした。ふと見ると、魔法の明かりに照らしだされた子供の目の下にはクマが出来て憔悴しきっている。襲撃は2週間前。その日から今日まで痛みは増すばかりだったろう。今の腫れ具合からして相当な辛さのはずだ。
「どうした魔法使い?」
髭面が壺を片手に黙りこくったゴドリックに気遣わしげな声をかける。ゴドリックは無言で馬の傍に戻ると白い壺を仕舞い込み、別の黒い壺を取り出して再度子供と向き合った。
「アグアメンティ― 水よ」
ゴドリックの呪文は虚空から水を絞り出した。彼はその水で子供の矢傷を良く洗って包帯で拭う。そして黒い壺の蓋を開けると、人差し指で中身を掬った。刺激臭を発する黒いクラゲの死体のような液体が、高い粘度を持って指にまとわりついていた。髭面や男達が匂いに顔をしかめる。ゴドリックは男の子に目を合わせ語りかけた。
「痛いけど、我慢するんだ」
男の子が頷くと、指先の薬を傷口に埋め込むように塗った。男の子が呻きを上げ、母親が彼の名前を叫ぶ。ゴドリックはさらに薬を取ると、男の子の腫れた腕全体に塗り広げる。子供のうめき声は大きくなった。
「おい、魔法使い!大丈夫なのか」
髭面に肩を激しく揺すぶられながら、ゴドリックは黙って経過を見守った。男の子はますます苦しげな様子で呻いたが、しだいに声は静かになっていった。そしてギュッと閉じていた目を開けると母親を見上げて「もう痛くないよ」と囁くように言った。彼の腕の腫れは大方収まっていた。母親は「神様!」と叫び、男達は驚きの声を上げた。子供はぎこちなく指を動かして見せる。ゴドリックはそれを見て素早く言った。
「まだ動かしちゃ駄目だ。治りきってないからな」
彼が手に持つ壺の中を遠目に確かめると、黒いクラゲの魔法薬は、底にへばりつく一掬いのみだった。彼は壺を目の高さで一瞬眺めるようにしてから、それを母親に差し出した。
「明日の朝にもう一度同じように塗るんだ。そうすれば腫れは完全に引くはずだ」
そう言うと馬に引き返して、白い壺の中身の軟膏を人差し指に高く盛って戻ると母親に差し出して、手のひらに乗せた。
「何か器に入れといてくれ。傷が治るまで毎日それを少しずつ塗って、腕を動かさないようにさせるんだ……良くなるまではジッとしとくんだぞ。腕以外もな」
最後は男の子に向けて言った。彼ははっきり頷いて返事をした。ゴドリックはその頭をくしゃくしゃと撫で、笑顔を向けた。
「よく痛いのガマンしたな、えらいぞ!」
男の子は嬉しそうに声を上げて笑い、母親は我が子を抱きしめた。父親の方はゴドリックを激しく抱擁した。体格のいい髭面は殆ど押し倒さんばかりにして礼を言う。
「ありがとう!ありがとう魔法使い!俺ァもうコイツの腕切り落とさなきゃならねえかと……!」
「ぶっぶへっ離せ、礼はいらないから、とっととぶへっ離せえ!」
ゴドリックは口の中にモジャモジャ入り込む髭を吐き出しながら男の体重に抵抗した。何とか這い出ると立ち上がり、ずり上がった帽子のつばを引き下げる。そして魔法の明かりに照らされた村人たちを見ると、
「じゃあな」
そう言って、こだわりなく背を向けた。髭面は驚いて声を上げた。
「魔法使い!まだ礼をしてねえぞ!」
「礼はいらないって言ったろ?たまたま余った薬を分けただけだ」
髭面の声にゴドリックは振り向かずに答えた。彼は日が落ちる前に村の風景を見ていた。家屋の焼け跡が目に付いた。「ヴァイキングを追い返した」とは言っても、少なくない被害が出たのだろう、と彼は想像していた。
「余ったって言ってもよう、あんな凄い薬を……」
戸惑う声に、ゴドリックは肩越しに振り返るとにっと笑った。
「また作ればいいさ。俺は魔法使いだからな」
彼は歩みを止めず白馬へ向かった。髭面の妻がその背中に声をかける。
「ありがとう!」
男の子と髭面、男達がそれに続いた。声を背に受けながら、ゴドリックは鐙に足を掛けた。その時。
「待ってくれ!魔法使い!」
出し抜けに若い男の声が響いた。
見ると村から駆けてくる若い男がいた。さっきワインを分けてやった男の一人だ。彼はゴドリックに体当たりするように縋りつくと訴えた。
「実は俺の親父もヴァイキングに斬られちまったんだ。足をよぉ!見てやってくんねえか?!」
ゴドリックは片足を鐙に取られたまま男に縋りつかれたのでエビ反りになって倒れそうになったが、何とか片足で持ち直し男を引き剥がした。それから彼の後方に目をやると、若い娘に支えられた壮年の男が足を引きずりながら歩いてきていた。
ゴドリックは新しい患者を引き受けた。傷は肉にまで達していたが幸い深くは無かった。先程と同じように傷口を洗い、今度は白い壺の薬を塗った。それから火で炙った針と糸で傷口を縫い合わせ、痛みに耐えた親父の頭を撫でる気は微塵も起こさず、娘に薬を分けて 朝晩傷口に塗るよう説明し、親父には傷が癒えるまで安静を言い渡した。そして抱き付いてきた若い男を体で躱すと、
「じゃあな」
そう言って、こだわりなく背を向けた。若い男は驚いて声を上げた。
「魔法使い!まだ礼をしてねえぞ!」
「手慣れた針仕事の練習をして、たまたま余った薬を分けただけだ」
「余ったって言ってもよう、あんな凄い薬を……」
親父の傷の痛みは彼が走り出そうとするほど和らいだらしい。薬にそこまでの効能は無いので思い込みの力だろう。ゴドリックは肩越しに振り返るとにっと笑った。
「また作ればいいさ。俺は魔法使いだからな」
彼は歩みを止めず白馬へ向かった。若い娘がその背中に声をかける。
「ありがとう!」
親父とその息子、男達がそれに続いた。声を背に受けながら、ゴドリックは鐙に足を掛けた。その時。
「待ってくれ!魔法使い!」
出し抜けに野太い男の声が響いた。
見ると村から駆けてくる小太りの男がいた。さっきワインを分けてやった男の一人だ。ゴドリックは素早く鐙から足を外すと腰を落とし、男の突進を受け止めた。
「実は俺の幼なじみがヴァイキングに耳を切り落とされたんだ!見てやってくんねえか?!」
彼の後ろには、包帯で左耳を覆った男がいた。彼は勝手に包帯を解くとゴドリックに傷を見せた。耳たぶの上部が切り落とされて半分の大きさになっている。小太りの男は不安そうに尋ねた。
「耳を生やす事なんてできねえかなあ?」
「そういう魔法はあるが、俺には使えない」
ゴドリックがきっぱり言うと、二人の男はしょんぼりと肩を落とした。
「……よく傷を見せな」
ゴドリックは三度傷口を洗い、薬を塗り、それを少し分けた。耳を切り落とされた男は顔を輝かせて小太りの男に言った。
「すげえ!何だか前より耳の聞こえが良くなった気がする!」
「ホントか?!魔法使い、ありがとうッ!」
「そんな効果はねえんだが……」
ゴドリックは抱き付いてきた小太りの男を円の動きで華麗にいなすと、
「じゃあな」
そう言って、こだわりなく背を向けた。小太りの男は驚いて声を上げた。
「魔法使い!まだ礼をして「あんたが魔法使いか?」
小太りの男の声を遮るように、別の男がゴドリックに声をかけた。見ると痩せた男が腹を押さえて立っている。さっきワインを分けてやった男の一人ではない。ゴドリックは思わず聞いた。
「あんた誰だよ」
「ジョゼフ」
名前を訊いたわけではなかったが、ジョゼフは切り出した。
「実は……」
「ヴァイキングに腹をやられたのか?」
ゴドリックは先を制して言った。しかしジョゼフは首を横に振った。
「ヴァイキングじゃない」
「誰にやられたんだ?」
「多分ソーセージが古くなりすぎてたんだ」
「ん?」
「昨日それ食べてから腹が痛くてなあ」
ゴドリックは外傷以外の手当てには自信が無かったが、少しだけ学んだ治療法を思い出そうとした。腹に効く薬は手持ちにあっただろうか……そしてふと、自分が何でこんな事をしなくてはならないのかと疑問に思った。ここに来たのは少なくとも食あたりの治療の為ではなかったはずだ。だがその時。
「魔法使いってあんたのことかい?」
ゴドリックが目を向けると丸々とした中年の女が覗き込んでいた。彼が何も言わない内に女は訴えた。
「うちの山羊のねえ、乳の出が悪くなったんだよ……どうすればいいのかね?」
患者が人間じゃなくなった事にゴドリックがショックを受けていると、
「西の森で黒い影がうようよしてたの。あれ、悪いお化けなの?」
唐突に青白い顔の娘が横合いから質問した。そこに男の声が割り込んだ。
「あんた、ほんとに何でも治してくれるのかい?!」
壊れた車輪を持っていた。中年の女が声を上げる。
「ちょっと!あたしが先よ!!」
「だあっとれ!お前の山羊は年寄なだけじゃっ乳などでるかい!」
「魔法でお化けを退治できるの?」
「ヴァイキングと戦った者を治療してくれるって本当かい?」
ゴドリックが新たな男の声の方を向くと、村から続々と松明を手にした村人がやって来ていた。肩を借りて歩く者、鶏を抱える者、何故か陽気に笛を吹き鳴らす者、連れ立って走り回る子供達……。彼らは口々にゴドリックにそれぞれの悩みを訴え、知恵や魔法の力を借りようとし、あるいは聖人か天使の降臨と勘違いして跪き祈ったりした。最初は戸惑いながらも話を聞こうとしていたゴドリックだが、やがて我慢の限界を超えた。彼は村人たちの悩みを解決する為に来た訳ではないのだ。その時、彼の背後から怒声が上がった。
「いい加減にしろお前たち!俺の恩人を困らせる真似をするな!」
髭面の男だった。彼は抗議を上げる村人たちに威厳を持って命じた。
「一人ずつ順番に聞いてもらえ!一気に喋っちゃあ魔法使いといえども聞き分けられんぞ!」
ゴドリックは無言で立ち上がった。そして髭面に振り返ると、帽子の影から光る眼で睨んで言った。
「そうじゃねえだろ……」
髭面は眼光に慄いた。ゴドリックは村人たちに顔を向けると静かに言った。
「どいつもこいつも自分勝手に喋りやがって。こっちの都合ってものを考えろ」
村人たちに緊張が走る。ゴドリックが勢いよく片手を上げた。
「まずは死にそうな者が最優先だ!次はそれ以外の怪我人と病人だ、そっちに並べ!言っとくが怪我以外の治療は得意じゃないからな!それから家畜の薬は持ってねえ、診るだけだ!壊れた物を直す魔法は不得意だからしっかり直したい奴は自分でやれ!お化けには近づくな!祈りを捧げるのはやめろ!」
ゴドリックは一息に言うと、ざわめきながら移動を始める村人たちを見守った。幸い死にそうな者は居ないらしい。怪我人は十数人。彼は髭面に仏頂面で振り返った。
「手伝ってもらうからな」
「あたりまえだ!」
髭面は笑いを返して肩をどやす。その背後でゴドリックが魔法で修理した卓が音を立てて壊れた。
月が南中して西へ傾き出した頃、ようやくゴドリックは浜辺の村に別れを告げる事が出来た。人々は口々に感謝を述べ、一部はこっそり祈りを捧げ、髭面は固い握手をした。
「魔法使い。魔法使いにはそうしちゃいけない決まりがあるのかも知れないが、できれば名前を教えてもらいてえ」
思いがけず少なくない時間を共に過ごした髭面をしばらく眺め、ゴドリックはこう名乗った。
「ゴディバ・ヒッポグリフだ。ゴドでいい」
「ゴディバ・ヒッポグリフ。俺たちゃあいつまでも感謝するぜ。気前が良くて親切で、変な名前の魔法使いによ。また来てくれよな、ゴド!」