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<姿現し>という瞬間的に目的地へ移動できる魔法がある。しかしブリテン島の上でそれを利用する際には注意するべき事が一つあった。それは闇雲に長距離の移動をしない事だ。
長く続いた暗黒時代、戦争に参加するのはマグルばかりではなかった。マグルに交じって、またはその裏で魔法使い同士も争っていたのだ。その時の対抗手段として、多くの<姿現し>封じの結界が張られた。効果はまちまちで、それを越えようとする<姿現し>を打ち消すもの、まるで別の場所へ飛ばすもの、「移動」したまま出現できなくなるもの等多岐に渡る。それは数百年の内に様々な魔法使いによって少しずつ、パッチワークのように島を覆い尽くしていった。
問題は、どこからどこまでにどのような結界が張られているのかを、誰も把握していない事だ。うかつに<姿現し>で長距離旅行をしようものなら、行き先はこの世である保証もなかった。これを全て取り除くには数百年を要するだろう。故に、魔法使いも長距離を移動する時は乗り物を必要とした。多くの者は日用品に魔法をかけ、空を飛ぶことを好んだ。しかしマグルと同じく馬に乗るものも多数いた。空を飛ぶことも人語を解す事も出来ないが、従順で我慢強く、多くの魔法生物よりも飼い易い動物だったからだ。
ゴドリックもまた馬を旅の道連れにしていた。それはデンマークで会ったギリシャの魔法使いから譲られたもので、白馬だがタテガミと尻尾は黒い風変りな個体だった。ブーケファラスと名付けられていたがゴドリックはブーケと略して呼んでいる。
ブーケファラスは2日の間雨の中を歩き続けさせられて、大いに不満だった。その上雨ざらしで立たされ続けている事に抗議をしたいと思っていた。小雨の降る、薄暗い早朝の丘の上、彼は目の前で主人がうろうろとしているのを見て鼻を鳴らす。そして背中を蹴ってやろうと前足を上げかけた、その時。赤毛の主人はひょいと振り返り、帽子の下からブーケファラスをまっすぐに見た。「ブーケ、もうちょっと待ってろ」そう言うとまた前を向く。つくづく勘のいい人間だ。彼はもう一度鼻を鳴らすと、大人しく待つことにした。
ゴドリックは丘に突き立つ自然石を調べていた。彼の身長と同じくらいの高さの細長い灰色の巨石が、丘の頂上を分断するように並んで列石を成している。数は8個。3メートル程の等間隔。まん中の二つは、その間に丘の中心が来るように配置されていた。
「どうじゃ、ここで間違いないのか?」
ヴィヴィーが尋ねる。
「ああ、この石が門だ。ルーンが彫ってある。……それに、景色も6年前と変わってない。ここがハッフルパフの隠れ里だ」
ゴドリックは巨石の間から丘を見下ろした。そこは丘陵に挟まれた平野だった。一筋の川に沿って木が密生し、一部は広がって森になっていた。その向こうに小さな丘があり、川はその丘に沿うように曲がっている。木の生えていない平地はヒースと岩の荒地だ。雨に煙るその土地に人家は見当たらず、かつて人が住んだ形跡すらも無かった。
しかしゴドリックは、この景色が見せかけに過ぎないことを知っていた。この土地の真の姿ではないのだ。彼は踵を返すとブーケファラスに跨った。手綱を捌いてまずは列石から10メートルほど離れた。そして白馬を転回させ、中央の巨石二つの間――隠れ里の門に正対した。ゴドリックは白馬に語りかける。
「いいな、ブーケ。門がそこにあると信じて駆け抜けるんだ」
ブーケは顔を上げていなないた。
「よし、行くぞ!」
ゴドリックが声と共にブーケの腹を軽く蹴る。白馬は軽快に走り出した。雨が人馬の顔面を叩く。三つ数える間もなく二つの巨石は近づき、人馬の両脇を通り過ぎて行った。すると、雨が止んだ。肌寒かった風はふわりと暖かくなり、ゴドリックの眼前には光が満ちた。見上げると空には果てしなく青い快晴が広がり、地面には水たまり一つない。東には低い朝日が金色に輝いていた。“外”とは違う天候が動いている。ゴドリック達は結界を越えてハッフルパフの隠れ里に入ったのだ。
ゴドリックはブーケファラスの足を緩めて丘の下の平野を眺めた。地形は先程雨の中で確かめたそれと変わらない。しかし荒地は所々に花を咲かせる草原となり、川に沿って広い道路が続いていた。それは森を抜けて小さな丘に続き、同様の道路5本と合流した所は街の正門だった。川沿いの道路は一番端に位置し、ゴドリックは横から朝日に煌めく街を見ていた。その街には隠れ里の長ハッフルパフ家の館があり、そして多くの魔法使い達が住み魔法使いだけの社会を築いているはずだ。もっとも、ハッフルパフの里は開放的で、結界の門さえくぐればマグルでも受け入れるとゴドリックは聞いていた。それは13歳の頃、一度だけここに来た時に聞いた噂話だ。ヴィヴィーはそれを聞くと興味深げに問うた。
「年端のいかぬそなたが、なぜこの地へ来たのじゃ。子供には遠い道のりじゃろう」
「ドラゴンでひとっ飛びさ。騎士団の仕事について来たんだ。……騎士見習いとして」
「この、のどかな里に成敗すべきものがおったのか?」
「この里で年に二度開かれる決闘大会の審判と警護を請け負ってたんだ。それが開かれる経緯に叔父上……騎士団が関わっていたからな」
「……ほう」
朝の爽やかな風がゴドリックのマントを揺らし、雨粒を吹き飛ばしてゆく。
「7年前、ウェールズに千年魔女が現れた……」
ゴドリックはそれだけ言うと息をのんだ。歩みが進んだことで丘に作られた街の向こう側にあった“コロッセオ”が姿を現したからだ。それは白っぽい短い円筒で、すり鉢状の内側は段状になっており、まん中に丸盆が据えられている。今のゴドリックの視点では手のひら乗りそうに見えるが、この建造物は40000人が収容できる大規模な円形闘技場であった。
「どうしたゴドリック」
「決闘大会が開かれているみたいだ」
その時以外のコロッセオは、小さく畳まれて里長の館の納屋に仕舞い込まれているはずだった。
「今話していた決闘大会か?……それでは街で騎士団の者と鉢合わせる事になるではないか?!」
「ああ、なるかもな」
ゴドリックはしかめた顔の頬をさすった。
「そなたを殺そうとするぞ」
「だろうな……何で今大会が開かれてるんだ。時期が違うぞ」
ゴドリックは一人呟きながらブーケファラスの進路を変えて、街の側からは見えない方の斜面に入った。そして下馬し、白馬を引いて丘を下りて行く。
「さて、どうすっかなァ」
のんびりしたゴドリックの声にヴィヴィーは憤然とした。
「そなた、ここに騎士団がいると分かって来たのではあるまいな」
「そんな訳ないだろ。開催の時期が外れているし、ヘルガ姫はもう成人したから決闘大会が開かれる事は無い筈だったんだ。大会が開催されなければグリフィンドール騎士団はこの里へ来ないんだからな」
ヴィヴィーは突然出た人名に引っ掛かった。
「ヘルガ姫?……だれじゃそれは。大会と関係があるのか?さっきは千年魔女がどうと言っておったが」
「ヘルガ姫の為の大会で、千年魔女がきっかけを作ったんだ」
そう言ったきりゴドリックはヒースがぼうぼうと生える斜面を黙々と下った。
「ゴドリック……そなた、妾と会話するのがそんなに嫌か」
「考え事してるんだよ!ああ、分かったよ話すよ。まず千年魔女だ」
ヴィヴィーの拗ねきった声にゴドリックは殺し合いを避ける為の考え事を中断した。
千年魔女とはいつとも知れぬ昔からブリテン島を暗躍する邪な魔女の呼び名だった。彼女は戦乱の数百年を通じて、時には人々の争いを裏で操り、時には堂々と姿を現して戦を増大させた。数百年間その姿を変えない彼女を、人々は忌み恐れて千年魔女と呼んだ。
「7年前、ウェールズの隠れ里の一つがそいつに侵略を受けた。ハッフルパフじゃない里だ。そんで、ウェールズ中の隠れ里の戦える魔法使い達が、連合魔法戦士団を組んでその隠れ里を開放する為に戦うんだが、吸魂鬼まで操る千年魔女の軍団に苦戦する。でもそこに駆けつけたハッフルパフの末娘が戦士達を励ますと、彼らは元気モリモリになって軍団を蹴散らして魔女を撃破しました。めでたしめでたし。この戦いでグリフィンドール家はウェールズの魔法使いを支援したんだ」
「千年魔女……妾の中にある記憶にもその名は保存されておるぞ。彼(か)のマーリンはその魔女とは上手く折り合いをつけておったようじゃ……。ふむ、その時代では千年魔女の軍団は竜の牙で作られた兵士で揃えられておった。外つ国の軍神の眷属達じゃ。よくぞ撃退できたものじゃのう」
ヴィヴィーは素直な感心を込めて言った。
「しかしそのハッフルパフの末娘とやらは一体何をしたのじゃ?苦戦を好転させるきっかけはその娘にあったように聞こえるのじゃが」
答えは呆気なかった。
「だから、励ましたんだろ。がんばって、って」
「がんばって、くらいで神話の兵士を撃退できる訳なかろう、真面目に答えよ」
「そういや、どんなふうに励ましたのかは聞いてねーな……ま、その兵士もあんたが言うほど強くなかったんだろう。魔法は魔法で破る事が出来るもんだ」
「なるほど。そなたが言うには真実の言葉じゃ」
「それに、途中から叔父上や騎士団が介入したからな。そのタイミングと末娘のお姫さんが戦士達を元気づけたのが重なったんだろう。なにはともあれ、彼女は、ハッフルパフの末娘ヘルガは、勝利を導いた姫君としてウェールズの魔法社会でアイドルになった」
「人気者か」
「そう男女問わず、な。それで、戦でその姿を見て彼女の勇気と健気さに感動した里長の息子たちが、相争って求婚した」
「ほーう、女冥利に尽きるのう」
「ヘルガ姫は齢(よわい)11にして40人の求婚者を得たんだ」
「そんなに若いのかヘルガ姫!若すぎじゃろう、いくらなんでも」
「だからこそ、戦場で諦めかけた男達の心を打ったんだろ。なんでも、たった一人で馬に乗って駆けつけたらしいからな」
「ふむ、なるほどのう……しかし、その年齢の少女に求婚するというのはどういう訳じゃ。人間種族としてはもっとこう、大きくならんとその……夫婦としていろいろと難しかろう、このたわけが!」
「おいどうした、いきなり怒るんじゃねーよ。ビックリするじゃねえか」
「怒ってなどおらぬ、たわけ。大体なんじゃ、決闘大会の話を聞いてると思ったら幼女がモテモテになるストーリーになっておる。話を元に戻すがよい」
「俺はちゃんと決闘大会の話をしているぜ」
ブーケファラスは丘を下りきると足を止めた。広い道路に突き当たっていた。ブリテン全土に張り巡らされたローマ帝国の道路に酷似したものだが、黄色い縞目模様の石が使われている。それらは平らに磨かれて敷き詰められていた。その脇には土がむき出しの側道があり、縁石の外側には楡の木が等間隔で植えられていた。
ゴドリックは当たりを見回したが人影はいない。記憶では放牧をしていた筈だが、丘の上に羊も見当たらなかった。道に並行する川のせせらぎが、花の香りと共にゴドリックに届いた。街路樹と川の間は平坦な草むらになっていて、ゴドリックはここを進むことにした。道路からは街路樹に阻まれて見つかりにくいはずだ。
「たしかにあんたの言う通りヘルガ姫は幼すぎた。しかし40人の求婚者たちの争いは熾烈で怪我人が次々と出た」
「いくら感動したとはいえ、そこまでして11歳の少女を求めるのか?」
ヴィヴィーは訝しんだ。
「名誉の問題もあったんだろうよ。どんな理由でも戦士を自認する男達が一つだけのものを争うんだからな。ともかく事態を上手く治める為に決闘大会が開かれた。審判を立て、取り決めの下に大々的に決闘する事によって、戦闘じゃなく競技で決着つけようって事になったんだ。その審判としてグリフィンドール家の騎士が立ち会う事になった。戦の縁でな。んで、求婚者40人で争って優勝した者が婚約者になった。婚約者ってのはつまり、ヘルガ姫が成人するまで結婚を待つって事だ」
「ヘルガ姫はもう成人したのじゃな?」
「俺と同い年って聞いたから、17か18だな。もうしてる」
ブリテンの魔法使いは16歳を目安に大人と見なされた。
「ふむ?では、大会に優勝した婚約者とヘルガ姫は、晴れて夫婦になったという事……か?」
「いや、その婚約者とヘルガ姫は結婚する事が出来なかった。大会数日後、別の求婚者に殺されたからだ」
「なんと……」
「もちろん殺した者は処刑された。そして空いたヘルガ姫の婚約者の座に誰が座るかが問題になった。順当に大会の準優勝者……じゃあ他の求婚者達が納得しなかった。ヘルガ姫の成人まで時間がたくさんあるのに、急いで決める事は無い。誰がヘルガ姫に相応しいかじっくり決めればいい。ってえ事で、ヘルガ姫が成人するまで婚約者を決める決闘大会を何度も開くことになった」
「……何で決闘大会なのじゃ。他にもあるじゃろう」
「さあな。勇猛な土地柄だからだろう。案外姫が望んだのかも知れねえなぁ」
「ふむ、じゃが今の話は少しもヘルガ姫の意思について触れておらぬぞ。ヘルガ姫は一体どんな幼女なのじゃ」
「今は幼女じゃねえよ」
ゴドリックは少なからず驚いていた。彼女が人間の身の上にこれ程の興味を持つ事は初めてと言ってよかった。魔法使いかそうでないかの別無く人間を下に見るのが彼女の常で、名前を覚える事すら稀だった。ヘルガ姫の数奇な運命に同じ女性として何か感じるものがあるのだろうか?ゴドリックは少し嬉しくなった。
「俺が彼女について知ってんのはこの話くらいだ。言われてみれば何も知らないようなもんだな。そういや遠くから見かけた事もあったけど、全身ベールで覆ってて顔も分からなかったっけ」
「それが13歳の時か」
「ああ、大会が何度も開かれる事になって、そのたびに騎士団が派遣されるようになった。大会も回を重ねるごとに見物人が外国からも来るようになって、どんどん大きくなってった。お祭り騒ぎさ。だから騎士団は審判だけじゃなく会場の警護も負うようになったんだ。俺はそれに参加した。やったのは迷子の世話ばっかりだったけどな」
楡の街路樹が途切れた。道路と境のなくなった草むらは十数メートル先で藪の深い林になり、馬を連れて歩くのは難しそうだ。道路と反対側の川は差し渡し7メートル程。向こう岸は崖になっていて、その上は鬱蒼とした林が薄暗い闇を作っていた。10メートルよりも低い崖はでこぼこと川に沿って延々と続き、その上にかぶさる林も同様だった。
「向こう岸には渡れないな……」
「なるほど、ヘルガ姫が成人したのに未だに大会が開かれている事が妙なのじゃな?婿が決まっていないという事か」
「決まってないんだろうな。さては好みの男が優勝しなかったか?それに、いつもは夏至と秋分に合わせて開催されてたんだが……何か特別な事情でもあるのかもな」
ブーケファラスがその場でのんびりと草を食みだした。彼の傍で黄色いチョウがひらひらと舞う。ゴドリックは草むらを踏みしだいて川際へ歩き、しゃがみ込んで顔を洗った。
「一旦里を出るか……」
ゴドリックの呟きにヴィヴィーは感心した。
「ほう、逃げるのか?」
ゴドリックは敏感に反応した。
「言い方に気を付けろよ、ヴィヴィー。今騎士団と揉める事は無いだろ?」
「純粋に驚いただけじゃ。目の前の敵からは逃げぬのがそなたの信念ではなかったか?」
「まだ騎士団は敵じゃねえ。こっちを見つけてないんだからな……探しているだろうが。一年経って<決闘者>達の目も他に向いてるはずだ。ここで騎士団と事を起こして、しかもその噂が<決闘者>どもの耳に入れば『泉』の探索がやりにくくなっちまうんだぜ」
「しかし、他の隠れ里の場所も分からぬし、魔法薬も手に入っておらぬぞ。大丈夫か?」
「決闘大会は永遠に続く訳じゃねえ。一週間はお祭り騒ぎだが、終われば騎士団は居なくなる。終わりがいつかはわからねえが、それまで待ってから街に入ればいい」
「しかし、月は満ちつつある。その前に怪物が来るぞ」
「何とか水のある、いい地形を見つけて迎え撃つ。ヴィヴィー、そん時は頼むぞ」
「無論じゃ。しかしそんなに都合の良い場所を見つけられるのか?」
「わからん」
「考えなしか!逆に不利な場所で襲われるかも知れぬのじゃぞ?」
「分かってる、だから迷ってんだよ。騎士団を欺いて街に入るとなったらコイツしか頼る物はねえし」
ゴドリックは帽子のつばをぐいっと掴んだ。
「そなたの魔法があるではないか。姿を消す事が出来るじゃろう」
「だめだ。やつら<感知>できる道具を揃えてるからな。下手にやれば返ってマズイ。その点コイツはそういうのに引っ掛からない高級品だ」
「むぅ……妾はそれが好きではないぞ」
「俺だってそうだよ」
ガサ、と言う音が頭上でした。葉擦れの音だ。見上げると、対岸の崖上の林が淵まで迫った箇所の茂みが揺れている。音と揺れは止むことなく大きくなり、葉の茂った枝と枝の間から子供が飛び出した。後ろを振り返りながら、勢いそのままに崖の淵に足を踏み出す。同時に前を向いて先が無いことに気付いたが、もう次の足を踏み出す事は止める事が出来ず、宙に放り出された。
だがその長い金髪と白い服が崖の淵より下へ落ちる前に、ゴドリックはベルトから引き抜いた杖を子供に向け呪文を唱えた。
「アレスト・モメンタム 動きよ止まれ!」
魔法の働きは小さな体の落下を綿毛のようにゆっくりとしたものに変える。本来なら落下が止まる筈なのだが、この魔法はゴドリックの数ある不得意の一つだった。彼はマントと靴を脱ぎ、剣を外して草むらに置いた。そして辺りを見回して人が居ない事を慎重に確認すると帽子を脱ぐ。つばで上が見にくいからだ。
子供を見上げると、まだ崖の半分も落ちていない。ひらひらとした丈の長い服装と長い髪から女の子だと判別できた。落ちた時そのままに手足を広げて川を覗き込んでいる。その顔が岸のゴドリックを向いた。
「今受け止めに行くからじっとしてろ!」
そう呼びかけて、ゴドリックは足から川に飛び込んだ。腰までが水に浸かった。陽気とは裏腹に水は冷たく身を切るようだったが、流れは穏やかだ。水面から川底を見透しながら少女の落下地点を目指す。彼女は少し前屈みになりながら柔らかな色合いの金髪を背後にたなびかせ、水飴の中を沈むようにゆっくりと落ちてゆく。「じっとしていろ」と言われたのを受けてか、固定するように手を体に引きつけ、足を閉じ膝を軽く曲げていた。白い長衣の裾がひらひらと空中を舞う様は小さな体と相まって、ゴドリックに蝶を追っているような錯覚を覚えさせた。
ゴドリックが少女の下に来ると、その茶色の瞳と目が合った。まだ十歳になるかならないかという年頃だ。その足の先がゴドリックの顔の高さに降りて来ている。彼が腕を広げると、少女も体の前に引きつけた手を差し伸ばしてきた。ゴドリックが片腕で少女の両足を引き寄せもう片方を腰に回して抱き留めると、少女は腹のあたりをゴドリックの肩に持たせかけて彼の肩や襟の傍に手を乗せた。
「大丈夫か?」
ゴドリックが少女に振り向くと、再び目と目が合った。茶色に煙って透きとおる瞳が、食い入るようにゴドリックの顔を見つめている。その熱心さはゴドリックを僅かにたじろがせた。異邦人に助けられて驚いているのだろうと解釈したゴドリックは気を取り直して彼女に笑いかけた。
「しっかり掴まっててくれよ。落っこっちまったらもう知らないからな」
少女は長い睫毛で何度か瞬くと、にっこりと笑みを返した。
「うん!」
「ははっいい返事だ。じゃ、行くぞ」
少女はゴドリックの上着を掴んで体を寄せた。ゴドリックは来た時よりも慎重に足を運んだ。途中で深くなった部分も跨ぎ越し、無事に少女の裾を濡らすことも無く岸へ上がる事が出来た。
ゴドリックは腰から下の服を着たままで出来るだけ絞ったが、結局はこのまま乾かす他なかった。着替えにデーン人の服があるが、浜辺の村の出来事からするとウェールズ内でそれに着替えるのは隠れ里といえども止めた方が良いと思われるし、服を脱いでのんびり乾かす時間の余裕は無かった。里を出るにしても街へ行くにしても早く動かねばならない。
「服を乾かす魔法は使えないの?」
少女がおずおずと聞いた。
「そういう生活必需魔法はあんまり教わらなかったんだ」
ゴドリックは思わず正直に答えてからマズイと思った。それがグリフィンドール家ならではの教育方針だったからだ。普通の家庭では当たり前に教わる魔法だったので不思議に思われるかもしれない。しかし少女は「ふうん」と言っただけだった。
「わたし、使えるんだ」
「へえ、すごいじゃないか」
彼女の年齢で習得するには少し難しい、微妙な力加減が必要な魔法だった。ゴドリックはこの呪文に失敗して、着ている服を全部吹き飛ばした上燃やしてしまった者を見たことがある。
「だから、あなたの服を乾かしてあげたいのだけれど」
「そりゃあ、ありがたいな」
幼い少女の魔法に不安はあったが、冷え切った下半身に張り付いた服は温まる気配すらも見せようとしないので、ゴドリックの言葉は素直な気持ちだった。
「でも、杖を持っていないから出来ないの。ごめんなさい!」
「そうか、そりゃ残念だ……」
心からの言葉だった。少女がゴドリックを上目で悲しそうに見上げる。
「わたしを助けたから濡れたのに。寒いでしょう?」
「全然」
ゴドリックは答えるとしゃがみ込み、少女の柔らかい金髪をくしゃくしゃと撫でた。
「そんな顔するな。助けたのに謝られたんじゃ帳尻があわねえよ」
少女は目を閉じて頭をぐらぐらと揺らしながら撫でられていたが、ゴドリックの手のひらが離れると彼を俯き加減で一瞬の間じっと見つめた。ゴドリックはそこに何故か悪戯っぽさを感じたが、彼女は顔を上げると花が咲くように笑みを浮かべた。
「旅人さん、どうもありがとう」
ゴドリックもにっと笑うと、今度は優しく彼女の頭を撫でた。そのとき、ゴドリックの背後からヴィヴィーの声がした。
「こら、早くこっちに来い!」
ゴドリックにはそれが、後ろに少し離れて落ちている『水の剣』から発せられたのだと分かった。少女が不安そうにきょろきょろと辺りを見回す。
「ねえ旅人さん、何?今の女の人の声。怒ってるような……」
「ああ、俺の……連れだ。待っててくれ、話してくる」
「連れ?」
不思議そうな少女を残し、ゴドリックは剣を拾いに行った。そしてその場でしゃがみ込むと剣を肩に持たせかける。即座にヴィヴィーの囁くような怒鳴り声が聞こえる。
「さっきから何度も呼んどるのに何故来ぬのじゃ!」
「聞こえなかったぞ、最後以外」
「小声で呼んでも聞こえぬようじゃから、声を大きくしたんじゃ!ふん、どこの誰だか知れぬ娘とイチャイチャキャッキャウフフとしておるから聞こえぬのじゃ」
「子供だろ、そういう言い方はやめろよ」
ヴィヴィーはゴドリックが女性と接していると妬く事が度々あったが、子供相手には初めての事だ。
「子供?……ふんっ」
「なんだよ、地面の上に放っておいたのを怒ってるのか?」
「それもあるっ。が、まあ良い。そなた、あの娘に関わらぬ方が良いぞ。呪われておる」
「なに?」
ヴィヴィーは嫉妬深くて気位が高く、人間に対して非情なところのある妖精だ。しかし嘘の類を口にした事は決して無かった。そして彼女は、たとえ老練な魔法使いにも見えない物を難無く見抜いてしまう眼を持っているのだ。
「どういう事だ?」
ゴドリックの目からは少女にそんな陰惨な気配が微塵も感じられなかったが、彼に災いをもたらすかも知れぬからこそヴィヴィーは忠告したのだ。しかし彼女はゴドリックの問いかけに答えなかった。
「おい、なんだよ、どうした、お……」
「わあ、きれいな剣!」
甲高い声が急に背後から投げかけられた。振り返ると少女がすぐ後ろで『水の剣』を覗き込み、目を輝かせていた。
「姉さまの持っている妖精の腕輪に模様が似ているわ……もしかしてそれも妖精が作った物なの?」
彼女は粗末な革の鞘に収まった『水の剣』の鍔や柄頭の精緻な線刻に見とれているようだ。
ゴドリックは己の不明を恥じた。気持ちが緩み切って彼女が背後に立つのに気付かなかったのだ。それは少女の持つ能天気ともいえる和やかさにゴドリックの神経が解きほぐされてしまっていたからだ。背後を取ったのが敵だったなら今頃命はあるまい。ゴドリックは少女を見上げて小さく一人ごちた。
「なんて……恐ろしい奴だ」
「それはそなたがボケなだけじゃ。子供とみてデレデレしおって」
「あ、喋った!本当に喋る剣なんだ、初めて見るわ!おはようございます」
少女は『水の剣』に向かって行儀よく挨拶をした。それは何気ない振る舞いだが、作法に適ったもので非常に洗練されていた。ゴドリックは礼儀作法に不得手だったので返ってそれが分かり、驚いた。
しかしヴィヴィーは返事を返さなかった。彼女はゴドリック以外の人間に対して滅多に口を利かないのだ。それどころか声を聴かせる事すらも稀だったが、それはこの少女のように魔法の剣扱いされるのが彼女の矜持を傷つけるからであった。さっき黙ったのも少女の接近に気付いたからに違いない。
少女は少し待った後、目だけでゴドリックに問うた。
「ああ、えっとな。きむず……人見知りなんだ、この……相棒は」
ゴドリックはヴィヴィーと少女の為に言葉を選んで答えた。
「ふうん」
少女は残念さのありのままを表情に写して首を傾げた。
ゴドリックはそんな少女を素早く観察した。着ているのは大昔のローマ帝国風の簡素な長衣だったが、くすみの無い白さと光沢を持つ品質の高い生地をふんだんに使い、襟や袖には細かな刺繍が施してあった。飾りの類は小さな首飾りだけだが、赤い石を花形に組み合わせ金で縁取りしたそれは、ゴドリックがデンマークの都で見た地中海の品と同じ様式だった。産地から離れたこの島ではさらなる高値が付くだろう。
先程の作法と合わせて見れば、少女の家はかなり高い身分なのだと窺える。この里の長の家に近いか、その物でもおかしくは無い。つまり騎士団の上層部と親しい家かも知れず、少女が素顔のままのゴドリックの事を親に喋り、親が騎士団の誰かに伝えれば、その誰かはゴドリックを連想し念のために捜索を始めるかもしれない。ゴドリックの頭に浮かんだのは従兄弟のロドルフだった。彼は未確認の情報でも執念深く探すだろう。
ゴドリックは傍に落ちていた帽子を拾い、物言わず立ち上がった。見下ろすと、少女の背丈は彼の腰にも届かない。彼女はかすかに口を開けてゴドリックを見上げた。
ヴィヴィーの忠告の意味を考えるまでもなく、ゴドリックは少女とこれ以上関わるべきでは無かった。今すぐに里から出て離れるのが最善だ。そして怪物と戦い、騎士団が去ってから再び里に入ればいい。魔法薬の備蓄の少なさで怪物との戦いに不安はあるが、そのような戦いは何度も越えて来たし、ウィリアムの遺した鎖でこれまでよりも有利に戦える筈だ。
ゴドリックの取るべき方針は固まった。だが彼は、危機を抱えた年端もいかぬ少女を放っておく事ができなかった。
「何も言うなよ、ヴィヴィー」
返事は無かった。
「今何て言ったの?」
不思議そうに尋ねる少女に、ゴドリックは口の端に笑みを浮かべて尋ねた
「なんか困った事があるのか?」
見上げる少女はパチクリと瞬きをした。口を開けて、閉じて、また開いた。
「ううん。平気だよ」
明るい笑みだった。
「誘拐されたのに困ってないのか?」
「うん、平き……えっ」
少女は素早く口を押えて目を瞬かせた。
「どうして?」
「何だ、図星か」
ゴドリックはしゃがんで目線を合わせた。
「ここはこんな時間に女の子が一人で来るには街から離れすぎている。それに杖も持ってないし身なりも良すぎる。しかも追われるようにして崖から落ちてきた。だからそう思ったんだ」
ざっくばらんな説明を聞く少女は、俯いて居心地が悪そうにもじもじとしていた。不意にその頭にゴドリックの手のひらが載せられ、彼女は目を上げた。
「大丈夫だ、安心しろ」
少女の目が丸くなった。それを妙に思いながらゴドリックは彼女を抱き上げた。
「た、旅人さん?」
「街へ行くぞ。そうすれば守ってもらえるんだろ」
「でも……」
少女がなおも躊躇いを見せたその時だった。
「貴様ーーーーー!姫を離さんかーーーーーー!!」
その大音声は二人の頭上、川の対岸の崖上から発せられた。
ゴドリックが振り返ると、鬱蒼と茂る林の藪から男が崖の淵まで身を乗り出してこちらを睨んでいる。
「イアン殿……」
少女が呟き漏らすように名を呼んだ。
「この、痴れ者がーーー!」
イアンと呼ばれた男が杖を抜き、大きな動きでゴドリックを指した。
「イアン殿!!いけません!」
少女が庇うようにゴドリックの顔の前に身を乗りだし、男は杖を向ける動作の勢いで足を滑らせ崖から転落し、川に落ちた。