ゴドリックは白馬に黄色い敷石の街道を横断させ、脇にある舗装されていない側道に入ると街へ向かって駆けさせた。
二人乗りの上、ヘルガ姫が転げ落ちる心配があるので足は抑え気味だが、黄色の街道の向こうの雑木林は素晴らしい速度で流れて行く。右手には白詰草やレンゲを咲かす草原の向こうに緑の丘が青い空に鮮やかに映えていた。
「あの男が目を覚ませば、屋敷しもべ妖精の魔法を使って一瞬で追いついて来るぞ」
ヴィヴィーの声は風の中でも良く通り、ろうたけた様子を保っている。
「ああ、その前に街に着けば上々。姫さんの友達とやらに行き会えば上出来だ……姫さん、そいつはちゃんと他の魔法使い達を引き連れて来るかい?」
「うん。あの子はいつも冷静で賢いから、きっと家人を連れて来てくれると思うわ……もしかしたら若君方も」
「あんたの求婚者か」
ヘルガ姫は前を向いたままコクリと頷いた。
ウェールズに数多ある隠れ里の長の御曹司たち。奪い合う程ヘルガ姫を愛していると言うなら間違いなくこちらに向かっているだろう。噂では40人――一人は殺され、もう一人は処刑され、イアンを抜くと37人だが――というから、全員で守ればイアン一人を撃退するのは容易いはずだ。
「<姿現し>の禁止が無ければな」
「でも<禁止>を解いてしまうと誰もこの道路を使わなくなると思うの。そんなの勿体ないわ」
ヘルガ姫の口調は流れる景色の長閑さが伝染してしまったように能天気だった。
「姫さんよ、今の状況わかってるのかい」
ゴドリックは少し感心していた。ヘルガ姫の上体は安定していて危なげがなく、馬の動きに合わせた騎乗が出来ている。
人づてに聞いた彼女の物語にある、戦場に馬に乗って駆けつけたと言う下りも虚構ではないのかもしれない。
彼はふと、その当時の彼女の年齢なら今の容姿に釣り合うことに気付いた。11歳のヘルガ姫と40人の求婚者達。そして騎士団。6年前の物語の中に、彼女は今この時もいるかのようだ。
「わかってるよ」
ゴドリックを振り返り見上げるヘルガ姫の頬はぷっくりと膨らんでいる。
「噂のゴドリック・グリフィンドールが、嫌がる私を無理矢理馬に乗せて走り去っているんだわ」
先程のエスコートの不備が尾を引いているらしい。
ゴドリックもしかめっ面を返す。
「人聞きの悪い事言うな。」
しゃべり終わらぬうちにヘルガ姫は息を大きく吸い込むと、
「キャーだれか――!さーらーわーれーる――――!」
きんきん響く大声を出した。
「ヤメロ!」
突然発せられた黄色い声にゴドリックは素早く辺りを見回した。たった今ヘルガ姫の捜索をする騎士などに出くわしたら突撃してくるだろう。
そんな彼をよそにヘルガ姫が弾けたように笑い出した。愉快で陽気な甲高い笑い声が緑の草原を渡ってゆく。
ゴドリックが人影がないのを確認して前を見ると、ヘルガ姫はまだ肩を揺すって笑っている。
彼は不思議だった。何故こうも自分を信じきっているのかと。ヘルガ姫は彼の正体を見破っていながら全く恐れていない。危ない所を助けられたとはいえ、“叔父殺し”“人喰い獅子”という悪名を帳消しに出来るとは思えなかった。
肉親殺し。人間種族の中で圧倒的に少ない魔法族の血筋を自ら破壊する行為。魔法使い達はこれを最も忌むべき罪科とし、犯した者を彼らの社会から排除することを躊躇しなかった。ゴドリックはそれを身を持って理解している。
彼は機嫌の良いヘルガ姫の後頭部に毒づいた。
「ったく。本当に分かってるのかよ」
ヘルガ姫は笑うのをやめて息をつくと、前を向いたまま落ち着いた声で言った。
「レアは、わたしの友達は、騎士団も連れて来るわ。きっとロドルフ殿も」
ゴドリックに振り返った彼女は、イアンとの対峙で見せた気品と落ち着きのある姫君の顔をしていた。
「わたしはもう平気。降ろして、ゴド君」
振り仰ぐヘルガ姫の頬に吹き流された金髪がまとわりつく。ゴドリックはきっぱりと答えた。
「だめだ」
「どうして。……元々わたしの事なんて、あなたには関係ない事でしょう?」
責めるような口調にもゴドリックは調子を変えない。
「気が済まねえからだ。決闘までしたってのに今更ほっぽり出して、また拐われたんじゃ収まりが悪いだろうが」
ぶっきらぼうだが、言い聞かせるようなゴドリックを、ヘルガは上目で睨む。
「気が済まないからって、殺されてしまってもいいの?」
ゴドリックは顔を上げてブーケファラスの頭越しに行く手を見据えた。
「俺はゴディバ・ヒッポグリフだ。騎士団やロドルフとやらに恨まれる覚えはないね」
「まだ言うんだ」
ヘルガ姫は呆れ驚いた。
「顔が似ているだけで、あの凶状持ちと間違えられるなんて心外なこった」
「凶状持ちなんて自分の事を言ってはだめよ」
ヘルガ姫はしかめつらしくゴドリックをたしなめた。彼女の中ではゴドリックが“ゴドリック・グリフィンドール”である事は揺るぎない様子だ。
「思い込みの激しい姫さんだな」
「思い込みじゃないでしょっ、ゴドリック殿!」
むきになって答えるヘルガ姫は既に姫君の顔ではなく、ゴドリックをにやりと笑わせた。
仮に騎士団や遭遇しても、誤魔化す術はあった。ゴドリックの被る帽子は完璧に他人に変身できる魔法の帽子なのだ。これを使えば、ヴィヴィーのような妖精でなければ素顔を見破ることはできない。
素顔を知るヘルガ姫の横で変身したとしても、何故か“ゴドリック”に肩入れしてくれている彼女ならロドルフの前で口裏を合わせてくれるだろう。
だが、ゴドリックはそれを避けたいのだった。
口裏を合わせるだけとは言え、この優しい小さな姫君に“叔父殺し”の汚名に触れさせたくはないのだ。だから、彼女の前ではあくまでも“ゴディバ・ヒッポグリフ”を通さなければならない。彼の求めてやまない本当の勇気を持つ娘の名が、血と禁忌に汚されることがないように。
彼女は何も知らず、ただ助けられるだけで良い。
もし騎士団と出くわしたら、ヘルガ姫を渡して一目散に里を出る。不審がられるだろうが、顔さえ見られなければ追いかけては来ないだろう……ゴドリックは敢えて楽観的に見積もった。
「貴婦人さん、あなたはいいの?持ち主が危ない事しようとしているんだよ」
ゴドリックでは埒があかないと見て、ヘルガ姫は彼の剣に助力を求めた。彼女はヴィヴィーが魔法の剣の人工知能だと解釈しているので「持ち主」と言ったのだろう。ゴドリックはそれがヴィヴィーの自尊心に触れると思ったが、予想は外れ、間髪入れずに刺のある返事が返ってきた。
「ふん、こ奴はうつけじゃ。思い込んだら止まらぬ」
その刺はゴドリックに向けられていた。
「どうせ今のこ奴にとっては妾と旅を続けることよりも、そなたの安全の方がよ~っぽど大事なのじゃ。妾が何を言っても無駄というもの。そうじゃろう?ヒッポグリフ卿」
イガグリの形をした支援に顔をしかめながら、ゴドリックはヘルガ姫に言い含める。
「そういう事だ姫さん。余計な事は考えなくていい。自分が助かる事だけを考えろ」
ヘルガ姫は、はっとしたように目を見張ると、前を向いてうなだれた。
急に静かになったヘルガ姫の金髪をゴドリックは気まずく見下ろした。泣いているのか?と耳を澄ますと、彼女はムクリと体を起こして杖を抜いた。見ると片方の足が鞍の上に乗っていて、そのまま立ち上がろうとしている。
「おい、何やってんだ、危ないぞ。尻でも痛くなったのか?」
大真面目で尋ねるゴドリックをよそに、ヘルガ姫は手綱を握るゴドリックの腕と腕の間でうずくまる様にして、ブーケファラスの走る側道と平行した黄色い石の道路を見つめている。ポツリと答えた。
「降りる」
「なんだって?」
風の音に遮られたゴドリックが聞き返すと同時に、ヘルガ姫はぐっと体を屈ませ、バネのように勢い良く伸ばし、左手に流れる黄色い道路に跳躍しようとした。
しかし踏み切る直前にゴドリックの右手に後ろから腰を掴まれて阻止された。
「何考えてんだ!」
突飛な行動に度肝を抜かれたゴドリックの怒鳴り声に、負けじとヘルガ姫も金切り声で返す。
「降ろしてくれないから飛び降りるの!」
彼女はなおも初志貫徹せんとゴドリックの手を振りほどこうとする。
「魔法でどうにかするつもりだろうが簡単じゃねーぞ!」
興奮に頬を染めたヘルガ姫は意固地な声音で答えた。
「平気!わたしこう見えて走ってる馬から飛び降りるの得意なんだから!」
「そんな得意があるかッ」
ゴドリックは意外に強いヘルガ姫の力に手を焼いていた。腕力の加減を間違えると怪我をさせそうだし、加減しすぎれば飛び出して行ってしまう。子供の面倒を見てきたゴドリックでも、走る馬から飛び出そうとする女の子を捕まえるのは初めてだった。
「んにゃろっ」
ゴドリックが思い切って力を入れると、軽々とヘルガ姫の体は引き寄せられ、彼の肩に寄り掛かる形になった。ヘルガ姫が一瞬あえぐ。ゴドリックはヒヤリとしたが、彼女はすぐに腕を突っ張って離れようとする。ゴドリックは逃すまいと腕に力を込めた。
「お返しがしたかったのに!」
ヘルガ姫は肘や膝でもゴドリックを押し返しながら叫んだ。
「よりにもよってこんな時に会うなんて……あなたまで傷つけたくないよ!もう誰も、傷つけたくない……」
「俺が傷つくのはあんたのせいじゃねえ」
ヘルガ姫の肘に頬を押しつぶされながら、ゴドリックは断固として言った。
「俺の戦いは、俺だけのもんだ。例えあんたを助ける事が目的でも、それを決めたのは俺だ。あんたには関係ない、ヘルガ姫!」
ヘルガ姫は、風に吹き流される金髪をさらに乱して首を振る。
「騎士団がここにいるのも、決闘大会が開かれるのも、わたしの為……わたしのせい。全部あの時から始まったの……わたしが間違いを犯したあの時から、千年魔女に呪われた、あの時から!」
呪い。千年魔女。突然現れた不吉な言葉に、ゴドリックは膝で鳩尾を押される苦しさを一瞬忘れた。
その時、疾走する騎馬とすれ違った。ゴドリックの白馬が駆ける狭い側道ではなく、黄色い石の本道を駆けていった。
「レア!」
ヘルガ姫が弾んだ声を出した。
「なに?」
すぐにゴドリックが振り返るが、道路の上に騎影は見えない
「ゴド君こっちよ」
ヘルガ姫は右後方を見ている。ゴドリックがヘルガ姫の体越しにそちらを見ると、騎馬が側道右側の草原を駆けて追い上げて来ているようだ。彼女のひらひらとした服が視界を遮って上手く観察できない。
ゴドリックは嫌な予感を覚えた。
あの騎馬が切り返して自分たちを追ってくるだけなら、走ってきた道路を逆に走ればいい。それにも関わらず余分な機動をして右後方を走っている。
ゴドリックはブーケファラスの足を緩めずにヘルガ姫に尋ねた。
「友達ってあいつか」
「そうよ!レア~!」
手を振るヘルガ姫。泣いたカラスがもう笑ったとはこの事か、彼女は上機嫌だった。それ程レアという人物と親しいのだろう。
「姫様、危険です!座ってくださいっ」
女の声だ。まだ遠いが、切迫した気配を感じる。
「言ってるぜ」
「わかってますよーだ」
ヘルガ姫は拗ねたように答えると鞍に座った。
「妙じゃぞ」
「何?」
ヴィヴィーの声に、ゴドリックが答える間にも右後方からの蹄の音は大きくなり、彼が振り返るとほぼ横並びに並びかけていた。
レアと呼ばれた乗り手の女は濃い色の髪を後ろで結い、ヘルガ姫と同じような白っぽい服を纏い、そして黒に近い茶の瞳で鋭くゴドリックを見据えている。
ゴドリックの背がざわりとした。彼女は弓を持ち矢筒を背負っていた。二騎が並んだ。
レアはその視線を少しも揺らすことなく、弓をゴドリックに向けながら既につがえていた矢を引き絞った―――彼女は射撃の為に、弓持つ左手側へゴドリックを捉えるように機動していたのだ―――ゴドリックの理解とレアの射撃は一瞬のうちに行われた。
矢は腹を狙っていた。馬の背に座った状態ではのけぞっても避けることができない。矢が放たれた瞬間、ゴドリックは左側にその身を投げ出させていた。
馬の背の上を矢が飛び過ぎ、ゴドリックはブーケファラスの胴の左側面にしがみついていた。ヘルガ姫が鞍に乗っているので鐙が使えず踏ん張ることができない。右手で鞍のへりを掴み、右足をなんとか馬の背にへばりつかせる。左手にはレアが矢を引く時に抜いた杖が握られている。
「ゴド君!」
ヘルガ姫の悲鳴とブーケファラスの高いいななきが重なる。馬体がゴドリックのしがみつく左側に傾き蛇行し始めた。今のままではブーケファラスが偏った荷重で不安定になり、転倒しかねない。
「姫様、こちらに!」
「レア!なんてことをするの?!」
射手の女が呼びかける声にヘルガ姫は怒鳴り返した。
ゴドリックは手を伸ばせば届く地面が高速で流れるのを睨みながら魔法に集中した。
「姫さん、しっかり掴まってるんだ!」
「ゴド君?!」
ゴドリックは白馬から手足を離すと同時に呪文を唱えた。
「アレスト・モメンタム 動きよ止まれ!」
魔法は彼の体に働くあらゆる運動を縮小し、地面までの落下を緩やかなものにした。浮遊感の中ゴドリックはブーケファラスが姿勢を立て直すのを見た。
「レア!どうして……」
「姫様はそのまま駆けてください!私は食い止めます」
「レア!」
ゴドリックは、ゆとりある落馬を楽しむつもりはなかった。そのつま先が地面に触れる瞬間に魔法を解除する。不得意の<運動停止>魔法は不完全なまま打ち切られた。彼の体に静止する地面との相対速度が復活し、前方に引き倒そうとする。ゴドリックは前転して勢いを殺し、つんのめるようにして立ち上がった。
顔を上げれば愛馬は主人の落下を意に介さずヘルガ姫を乗せて走り去ってゆく。
射手の駆る葦毛は馬首を返し段差を乗り越え側道から石畳の本道に入り疾走して向かってきていた。
ゴドリックは舌打ちした。
「こっち来やがった。一緒に行きゃあいいのによ」
彼の懸念はブーケファラスにあった。美しい見た目とは裏腹に、多くの男の手を焼かせた荒馬で、そんな気性のために金を持たない放浪者のゴドリックにもタダ同然で手に入れることが出来たのだ。彼が乗るようになって随分おとなしくなったが、小さなヘルガ姫では抑え切れないかもしれない。
「お・の・れ一体どういうつもりじゃーーーっ!!」
ヴィヴィーが怒り心頭に発する一方、ゴドリックは続行する戦闘に集中し冷静だった。
「いつも冷静で賢い、か」
ヘルガ姫はレアという友人をそう評していた。確かに彼女は冷静に確実な攻撃をし、賢明にヘルガ姫を敵の追撃から守るために足止めをするという選択をした。実際、走り去る白馬は未だ魔法使いの杖の攻撃範囲内だ。しかし、ゴドリックが敵では無いという事実が致命的だ。
「あのイアンとか言う男と間違われているか?」
ゴドリックは顔から視線を遮るつばの広い帽子を外し、頭上に放り投げる。そして小さく杖を振ると、ポンと音を立てて帽子が姿を消した。
葦毛の騎馬は彼の左前方十数メートルに迫り、彼を弓矢の攻撃圏内に捉えている。
金髪のイアンと赤毛のゴドリックを遠目にも間違えることはないだろう。
しかし、レアと呼ばれた射手は弓を短く引いて二本の矢を連射した。走る馬上からとは思えない正確な射撃。
「ちぃっインペディメンタ 妨害せよ!」
杖を飛び来る矢に向ける。不可視の障害に矢は軌道を逸らされ宙を漂った。ゴドリックは次の矢を取る射手に追撃する。
「エクスペリアームス 武器よ去れ!」
魔法の衝撃が、走る馬上のレアから弓をもぎ取り弾き飛ばす。
「くぅっ」
レアは呻きながら手綱を捌いてゴドリックの背後に回り込もうとする。弓を失っても戦意を失っていない。ゴドリックは彼女が長剣を佩いている事に気づいた。
「まて、誤解してるぞ!俺はあのイアンとか言う男の仲間じゃねえ!」
体ごと騎馬に振り返り呼びかけた。
「イアン様は、どうしたのです!」
レアは馬の足を緩めつつゴドリックを鋭く見据えている。
「倒した」
ゴドリックは立ち位置を変えず、しかし動き続ける騎馬を常に視界に収めるように動いていた。
「倒した……あなたが、姫様を助けたと?」
レアは問いつつも、さり気なく腰に下げた小さなバッグから手のひら大の何かを取り出す。ゴドリックはそれを見逃さず、意識に置いた。
「ああ、そうだ」
「それなら何故泣いている姫様を羽交い締めにしなければならないのです!」
ゴドリックは合点が行った。飛び降りようとするヘルガ姫を抑えこんで駆ける姿は正体不明の誘拐犯に見えただろう。泣いていたというならなおさらだ。
「馬から飛び降りようとしたからだっ」
「助けられて、そんな事をするはずが無いでしょう!」
入り組んだ事情を悠長に話している時間の余裕はないので簡潔に答えた。
「ちょっと口喧嘩してああなったんだよ!」
「口喧嘩で馬から飛び降りるような人などいません!」
レアはやりとりを重ねるごとに疑念を深めてゆくようだ。
「飛び降りたんだよっ!」
少しも譲らぬ高圧的な態度にゴドリックもムキになって言い返す。
「走る馬から飛び降りるのは得意とか言って……」
それを聞いたレアは「ふ」と一瞬だけ笑みを見せる。
「姫様はそんな得意をお持ちではありませんッ!!」
怒声にゴドリックは言葉を誤った事を悟り、レアは球状の何かを彼の数歩前の地面に叩きつけた。陶器が割れる音と共に白い煙が広がりゴドリックの視界を覆う。
ゴドリックのそばを蹄の音が通り過ぎる。だがゴドリックの五感は前方からの殺気を感じ取って横へ踏み出させた。その肩先を刃がかする。
煙幕が薄れ、ゴドリックの視界に長剣を構えたレアの姿が写った。
細身の刃が白く煙る空間に閃き、その切っ先が標的に走る。ゴドリックが躱すのと剣が引き戻されるのはほぼ同時。間髪入れずに再び鋭い切っ先が襲う。
左手、左肩、左足。その刺突の鋭さ疾さは戦い慣れたゴドリックにも類を見ないものだ。
連続する突きを躱しながらゴドリックは、射手から剣士に成り代わったレアに呼びかける。
「やめろ、剣を引け!」
連撃を全て躱されたレアは猫のはしこさで後退した。
奇妙な戦いだとゴドリックは思った。始まりの唐突さもさることながら、敵が全く魔法を使用せず鉄の刃物だけを攻撃に使っている事は、魔法使いの戦いに置いて例外中の例外だった。そんな物好きは、ブリテン島を探しても彼の実家にたむろする“騎士”ぐらいなものだ。
「あなたが先に杖を捨てなさい!」
言葉と同時の踏み込みは捨て身だった。鋼の切っ先が矢を凌ぐかと思しき速度で彼我の間合いを貫きゴドリックを襲う。
それに合わせてゴドリックも杖を向けて踏み込んだ。
「だめーーーーーーーーー!」
聞こえてきた大声にレアの踏み込みが勢いを失う。彼女はゴドリックの脇を数歩漂って声のした方を向いた。
ゴドリックは思わず口を開いた。彼が見たものはこちらに向かって疾駆する愛馬の姿だった。その背には金色の綿毛のようなものがフワフワと揺れている。ヘルガ姫の髪の毛だ。そして彼女の後ろには、道路から側道をまたがり草原まで横に広がって走る十数騎の騎馬が土煙とともに従い蹄の音を轟かせていた。
「何だありゃ……」
「壮観じゃのう……」
「姫様!?」
ヴィヴィーの呟きはレアの悲鳴にかき消された。
「戻って来てはいけません!」
「レア!その人とケンカしちゃだめーーーー!」
蹄轟く中、ヘルガ姫の叫びはゴドリック達の耳に高く響いた。
ブーケファラスの背に背筋を伸ばして堂々とまたがる小さな姫君の姿は、遠目にもよく乗りこなして見える。あの白馬を乗り始めた頃に文字通り骨を折ったこともあるゴドリックは、安堵しつつも何処か納得行かない気分だった。
「来たぞ、ゴドリック」
ヴィヴィーの囁きにゴドリックは視線を走らせた。
ヘルガ姫の背後の騎馬集団の乗り手の中に三人、揃いの赤い上衣を身に着けている者達がいる。その鮮やかな色をゴドリックは見間違えようもない。グリフィンドール騎士団の揃い服だ。
「三騎か。少ないな」
彼は眉をひそめた。拐われたヘルガ姫を救出しに来たにしては頭数が乏しいと思える。
「妾たちには好都合じゃろう」
「……そうだな」
ゴドリックは杖を軽く振って空中に帽子を呼び出すと目深に被り、マントの襟を口元まで引き上げる。怪訝な顔でレアが見ていた。彼は人差し指でマントの襟を引っ張り、にっと笑ってみせる。
「ケンカはダメだってよ」
「くっ……」
彼女はますます険しくゴドリックを見つめたが、やがて剣を一振りして鞘に収めた。
その時にはもう騎馬軍団は二人の間近に迫り、ヘルガ姫を先頭にしてゴドリックの視界を占領して停止した。ブーケファラスはいきり立つこともなく、小さな手に握られる手綱に従っている。ゴドリックが乗っている時とは大違いだ。心なしかいつもより賢そうに見える。
「姫様!」
レアは一目散にヘルガ姫のもとへ駆け寄った。
「何故戻ってきたのです?!」
「二人のケンカを止める為よ!怪我は無い?」
「はい……」
ゴドリックは愛馬の手綱を取ると、ホッとした表情のヘルガ姫を見上げた。
「大丈夫か?振り落とされてやしないかとヒヤヒヤしてたぞ」
彼女はぱちくりと瞬いた。
「どうして?とてもいい子だったよ?」
ヘルガ姫がブーケファラスの首を撫でると、彼は嬉しそうに顔を傾けた。
それを見たゴドリックは今までこの馬に乗ろうとしたのが男ばかりだった事を思い出していてた。白馬の黒い瞳をジトッと見つめる。
「お前、ユニコーンの血でも混ざってるんじゃないだろうな」
ブーケファラスは鼻を鳴らした。
「ごめんね、レアったら勘違いして……怪我は無い?ゴド君」
気遣わしげなヘルガ姫の顔にゴドリックはいたずらっぽい笑みを返した。
「ああ、走る馬から飛び降りるのは得意でね」
ヘルガ姫が顔を赤くした。
「姫様、この男は何者なのですか」
固い声で問うレアは既に自らの誤りを察している様子だ。しかしゴドリックへの警戒を解く事なく相変わらず鋭い視線を注いでいる。
ヘルガ姫は頬を赤らめたままふくれっ面をレアに向けた。
「わたしを助けてくれた人!」
言うやいなや、彼女は馬上からレアに向けて飛びかかった。レアはのけぞりながらも抱き止める。ヘルガ姫もその首に両腕を巻きつけて抱きついた。
「ひ、姫様?」
「もうっレアったらもうっ!危なっかしいんだから!」
「姫様、くるし……」
声からして首が絞まっているらしい。
「心配したんだからぁ!」
苦悶の声が聞こえないのか、ヘルガ姫は首にぶら下がったまま、ぐいぐいと頬を擦りつけた。レアはヘルガ姫を首に引っ付けたままくらくらとその場を回り出す。
男達の陽気な笑い声が場を包んだ。ヘルガ姫の引き連れてきた騎馬の乗り手達だ。
馬上の彼らはいずれもウェールズの魔法使いのようだ。背格好は様々だが、いずれも若者で、きらめく宝石や金細工の装飾品を身に付けている。イアンを彷彿とさせた。ヴィヴィーがゴドリックにだけ聞こえるように囁く。
「こ奴らがヘルガ姫の求婚者か?」
「だろうな」
「ヘルガ姫を助けてくれたそうだな」
若者の一人が馬上から声を掛けてきた。
「ああ」
ゴドリックは帽子の影から見返し、短く答えた。
「イアンはどうしたんだ?」
「倒した」
別の若者の問いに答えると、見ていた者達が馬を寄せてきた。
「おい、確かにイアンなのか?」
「姫サマはそう呼んでいたぜ」
彼らは顔を見合わせどよめいた。
「姫の言っていたのは本当だったのか……」
「一人だけで倒したのか?」
「どうやって倒した」
「何か秘密の道具でも使ったのかい?」
「不意打ちじゃないだろうなァ」
「どこから来た?」
「なんという名だ?」
「運が良かったんだろう」
「ヤツにどんな弱点があるんだ?」
「何の呪文で倒した?」
殺到する質問にゴドリックは閉口した。イアンは確かに強者として認識されているらしい。
「あいつは死んだのか?」
その質問にゴドリックはハッと目が覚めた。
「失神しただけだ。だが屋敷しもべ妖精が回復させようとしていた。しつこそうな奴だから追ってくると思うぜ」
男たちの間に緊張が走る。
「さすがに戻って来やしないだろう」
「こっちの方が数は多い」
「いいや、奴なら……」
ゴドリックは議論を始める男たちの向こう側にいるグリフィンドールの騎士を盗み見た。そして拍子抜けした。顔を見れば三人共、十三~四歳のほんの子供だったからだ。
「見習いかよ……」
手持ち無沙汰に佇む少年達は心細げだ。
『分家の坊主達だな。せめて哨戒するふりでもしろ。ギルダスにどやされるぞ。』
ギルダスはグリフィンドールの血を引く古参の騎士で、隊長の一人だ。ヘルガ姫の決闘大会に派遣される騎士たちの頭を常任している。若い者や外から来た新人をまとめるのが彼の役割だった。そして幼いゴドリックの師の一人でもある。
ゴドリックの胸に僅かに切なさがよぎり、彼自身が驚いた。
「顔見知りか?」
ヴィヴィーの声に首を振る。
「家の子供とは交流がなかったんだ」
年が近い者はおおむねロドルフの周りについたので、ゴドリックとは敵対という交流を持っていたが、年が離れると顔も分からなかった。
「あんまり家にも里にも居なかったからな」
「ゴド君」
思いに浸るゴドリックの側にヘルガ姫が近づいてきた。その後ろのレアはしおらしげに立っている。
彼女が口を開く前にゴドリックが尋ねた。
「ここにいるのはあんたの求婚者達だな」
こくりと頷くヘルガ姫。
「街からレアを追って来られた所に落ち合ったの」
「他のはどうした。街にいるのか?」
ゴドリックは求婚者の数を正確には知らないが、十三歳の時に見たヘルガ姫の決闘大会では三十人以上の選手が居たはずだ。
「他の若君様達は、イアン殿のセノネースの里へ殴り込みを掛けに行かれました。この方たちは父兄に引き止められて残った方々です」
レアがキビキビと答えた。丁寧な話し方に「殴り込み」という単語が異彩を放っている。
ゴドリックの想像以上に事態は深刻のようだった。求婚者達は皆隠れ里の長の息子であり、彼らが動くとなれば多くの魔法使いが動くはずだ。
「戦争じゃねーか。じゃあ、騎士団もそっちへ行ったんだな。調停するために」
「でも、ロドルフ殿は里の結界のすぐ外で捜索して下さってるそうで、杖の仕掛けでわたしの居場所を知ったレアが使いを出したから、もうすぐ戻ってくると思うわ」
ヘルガ姫はそう言うと、金髪をふわりと揺らしてゴドリックを見上げて微笑んだ。
「もう平気。大丈夫だよ。だから、もうお別れだね」
微笑むその瞳が儚げに揺れているのに気がついて、ゴドリックはどきりとした。何かの答えを今明らかにしなくてはならない気がして、よく光る茶色の瞳を見つめ返す。
「ありがとう、ゴド君」
ヘルガ姫の気持ちのこもった言葉に、彼の何かが急かされている。言い知れぬもどかしさに言葉を返せなかった。
「姫様から話していただきました。無礼をしましたこと、お詫びいたします」
レアの声に目を向けると、ゴドリックに頭を下げていた。彼はもどかしさが紛れて、息をつく代わりに呪文を唱えた。
「アクシオ レアの弓!」
ゴドリックの手に向かって、彼の<武装解除>呪文で叩き落としたレアの弓が宙を滑って来る。しっかりと捕まえてレアに差し出した。
「いいさ。姫さんを泣かしちまった俺にも非はある」
言葉は本心からのものだ。彼はお互いが無傷で済んだ戦いに拘るつもりはなく、レアの意固地な態度に対する不満も消えてなくなっていた。武術を修めた者としての共感がそういう気持ちにさせたのかもしれない。
「な、泣いてないよ!泣いてないからね!」
真っ赤なヘルガ姫の声とともに顔を上げたレアの黒っぽい瞳は、ゴドリックを見上げて硬い光を宿している。弓を受け取る彼女に「油断するものか」という意思を彼は見て取った。共感は片思いのようだ。
「まったく、レアったら物騒なんだから」
ヘルガ姫は赤くした頬を膨らませる。
「姫様を守るのがわたくしの役目です」
「ちがいますっレアの役目は、わたしのお世話をすることです!侍女なんだから」
「侍女?!」
ゴドリックはてっきり護衛に特化した付き人かと思っていたのだ。彼の体験した弓も剣も弛まぬ訓練を積み重ねる他に修得する術はない。貴人の服や髪の毛の世話をする侍女という職業には不釣り合いな技能だった。
「レアったら、いっつも危ない事ばかり。怖かったんだから、二人がわたしのせいで戦って……もしかしたら死んじゃうんじゃないかって……」
ヘルガ姫の語尾は震えながら小さくなった。レアがそのか細い肩に手を添えると、ヘルガ姫は彼女の腰に顔を伏せた。ぴったりと寄り添う二人の若い娘達は主従というよりも姉妹のように見える。
わたしのせい。ゴドリックはこの言葉をついさっきも馬上で聞いた。そして、彼女の“呪い”が千年魔女による物であるとも。
千年魔女。ヘルガ姫の物語の発端となる悪役。
ゴドリックの聞いた話では、そして魔法使いの社会に流布しているうわさ話では、千年魔女に敗北しかけたウェールズの魔法戦士達の反抗のきっかけとなったのがヘルガ姫だった。その結果、千年魔女はウェールズから退きヘルガ姫はウェールズの魔法使いのアイドルとなったのだ。恨まれて呪いを受けるのもうなずける話だ。
ヘルガ姫は、イアンの行動もまた自分のせいだと言った。そしてゴドリックの旅の連れ合いが語る所によれば、そこに呪いが関わってるという。
「ヴィヴィー」
「なんじゃ?」
「……なんでもねーよ」
思わず口にしかけた問いをゴドリックは飲み込んだ。
彼の旅は『命の泉』の探索に捧げるとヴィヴィーに誓っている。ヘルガ姫の事情に深入りすることは出来ない。
「姫、ともかく街へ向かいましょう」
若君の一人がヘルガ姫に声を掛けた。
見ると何人かがフクロウを――魔法で呼び出したのか、元々連れていたのか――飛ばしている。街だけでなく、ヘルガ姫を捜索するものやイアンの里に殴り込みに行った者へも向けているのだろう。ずんぐりとした猛禽達は様々な方角へ羽ばたいていった。
「はい、それが良いと思います」
ヘルガ姫は大人びた声で応じた。
「皆さん、助けに来てくださってありがとうございました」
ヘルガ姫は綺麗な礼をした。
「何を仰る」
声を掛けた若君は馬を降ると、ヘルガ姫のもとに跪いた。
「愛しいあなたの為に出来ぬ事などありません。この身を滅ぼすことさえも」
小さな手を取って真摯に彼女の目を見つめる。
「もう魂は貴女に砕かれていますがね。」
ヘルガ姫は上品に笑みを返した。
「ありがとう、オーウェン殿」
ゴドリックは背筋がむず痒くて仕方なくなった。台詞も仕草も歯が浮いて戻らなくなりそうに甘くて白々しい。しかも成人して数年の大の大人が、十歳そこそこにしか見えないヘルガ姫に愛を語っているのだ。直視できない危うさが漂っている。
「姫、俺なら何でも出来るし何でも上げる事が出来るぜ」
別の男がオーウェンの横に跪きヘルガ姫の空いている手を取った。
「例えマーリンの髭でも俺が毟り取って来てやるよ!」
両手を無骨な男の手に取られてもなお、ヘルガ姫は落ち着いて微笑んでいた。
「まあ、うれしいことを仰るのね。アーノルド殿」
「私の職人はあなたの望むものを限りなく作り出すことが出来ます。でもどんな細工物でも姫には余分なものにしかならないでしょう。あなたは、ありのままが一番美しい」
また別の男がヘルガ姫の元に片膝をついていた。
「最高の職人は姫の母上様だ。いつも感謝しているよ。あなたという美しい人を作り出してくれたのだからね」
「何てこった、昨日会った姫よりも今の姫のほうが何倍も可愛い!明日は一体どうなってしまうんだ?!」
あっという間にヘルガ姫は若君に囲まれていた。
もはやこの場で馬に跨っているのは呆れた表情を浮かべる騎士見習いの少年達のみで、他の男達は皆小さなヘルガ姫の周りに片膝をついたり腰を曲げたりしていた。
若君達の熱い視線と言葉を受けるヘルガ姫は、あくまでにこやかに、そして丁寧に受け答えしている。
「突き放さず、しかし受け入れず。それでいて男を失望させない……ヘルガ姫め、男のあしらいに慣れておる」
「なーに言ってんだよ」
ゴドリックは苛立った口調で答えた。こんなことをしている場合ではない。オーウェンとかいう男が言った通り街へ行くべきなのに、当の本人がヘルガ姫の手を離そうとしない。
「幼い子どもに見えるからといって油断してはならんと言っておるのじゃ」
ヴィヴィーの悋気にゴドリックは呆れた。
「あの姫さんに油断も何もあるか。子供にしか見えないってーのに……」
「そこが危ないんじゃ。見よ、あの娘はああして呪いを受け入れ男を弄ぶ悪女じゃ。そなたの素朴な脳みそでは」
「ヴィヴィー!」
『水の乙女』の性質として、彼女がゴドリックに近づく女性に無闇な嫉妬を抱くのはいつもの事だった。しかし、声を荒らげたのは、別れの言葉を言うヘルガ姫の揺れる瞳に何かを感じたせいかも知れない。
「ったく、何が弄ぶだ。そういう子じゃないって事は、あんただって……ん?」
ゴドリックは耳に引っかかる単語があった事に気づいた。
「妾は最初から言っておるわい、注意しろとな。じゃから」
「呪いが今何の関係があるんだ?」
「……」
ヴィヴィーは黙ってしまった。
ゴドリックは顔を上げ改めてヘルガ姫を中心とする空間を眺めた。
さんさんと降り注ぐ午前の日差しの中、花咲く草原で語り合う若君たちと姫君。数や見た目に不釣り合いがあるものの、陽気で艶やかな一場面と言える。
「呪い」などという陰惨な言葉は全く似合わない。
ヘルガ姫がゴドリックに目を向けた。そして、笑顔のままで頷いた。
ゴドリックに立ち去るよう促している。
それに合わせるようにヴィヴィーは熱っぽく訴えた。
「もう気は済んだじゃろう?ヘルガ姫は保護された。そなた風に言うなら後は彼らの戦いなのじゃ。風来坊が出る幕ではない。そうじゃろう、ゴドリックよ」
「ああ、そうだな」
「そうじゃとも!」
ヴィヴィーの声が喜ばしく弾んだ。
「だが騎士がいねえ」
「ヘルガ姫の求婚者達とて<決闘者>であろう」
「戦闘の専門家じゃあない」
ゴドリックの知る限り、妖精の魔法に抵抗し対処するには魔法戦士としての経験が必要だ。せめてグリフィンドールの赤い揃いを着る見習いの少年達が、本家の血筋を引いているのかを知りたかった。
<剣の魔法>はグリフィンドールの血を引く限られた者にしか宿らない。だがそれさえあれば、例え妖精の魔法が相手でも遅れを取ることはないのだ。
立ち去らないゴドリックに、ヘルガ姫は困ったような笑みを投げかける。
そして、異変が起こった。
最初は若君の一人がヘルガ姫に釣られるようにゴドリックに目を向けた。
彼に続くように別の若君がゴドリックに目を向け、その隣の者が、ヘルガ姫を挟んで向かいに居る者が、またその隣の者が……目を向け、振り返り、肩越しに、ヘルガ姫を囲む男たちの全てがゴドリックを見た。
その目は全て、彼を射抜くように睨んでいた。意中の女性が気を許す相手に警戒するものでは断じて無い。不倶戴天の仇を前にしたような、憎悪に彩られた絶対の敵意。その理不尽な殺気はゴドリックにイアンを彷彿とさせ、圧迫した。
豹変した若君たちの中心で、ヘルガ姫は笑みを浮かべたまま俯く。
晴天のもと花群れる草原の上で、無言の怒れる男達にかしずかれて微笑む少女……それはおぞましくも妖しい光景だった。
その空気を鳴り響く指笛が切り裂く。
レアが自分の馬を呼び戻している。彼女は手綱を取ると若君達へ振り向いた。
「さあ、急ぎましょう!姫様はわたくしと一緒に」
若君達は憑き物が落ちたように活気付き、めいめいの馬に向かったりヘルガ姫をエスコートしようとして断られたりした。
もう誰もゴドリックには関心を持っていない。憎悪も殺気もどこかに蒸発してしまったかの様だ。
狐につままれたようなゴドリックの前に、馬を引いたレアが足を止めて振り返る。
「見ての通り、若君様方は嫉妬深くていらっしゃいます」
黒い瞳が陽光を弾く。
「もう姫様に近づかないで」
顔を背けるように前を向くと、呆気にとられるゴドリックを置いてヘルガ姫の元へ向かっていった。
「なんじゃぁ、あの娘は!ゴドリックに許された分際であの口の聞き方はなんじゃあ!」
突然喚きだした『水の剣』を、ゴドリックは急いでマントの裾でぐるぐる巻きにした。くぐもった声でヴィヴィーの小言は続く。
「全くヘルガ姫は仕える者の教育を怠っておる!けしからん!最初から最後まで無礼な娘じゃ!」
「最後?誰が決めた」
「なんじゃと?」
彼は結局自分の欲求に従うことにした。ヘルガ姫に語った通り、このまま別れて何かがあったのでは「収まりが悪い」のだ。
「乗りかかった船ってやつだ」
「ゴドリック」
咎める声にゴドリックは清々と答えた。
「ロドルフが来るなら好都合。後を任せて退散だ」
「そうではない。“あれ”に、食事を与え過ぎるのではないか?今日はもう、十分に振る舞ったじゃろう」
それはゴドリック自身が良く分かっている事だった。赤い目の“怪物”は、彼の闘争を糧にし、産まれる。ゴドリックの最も深い内から……。
「この上屋敷しもべ妖精や騎士団と揉めるなら、次に産まれる“あれ”は、手に負えなくなるぞ」
ゴドリックは剣に巻きつけたマントを解くと、柄に手を置いた。
「ヴィヴィーは俺を信じてくれないのか?」
「む……」
言葉を詰まらせる。
「……勝手にするがよい」
ポツリと答えたきりヴィヴィーは黙り込んだ。
「心配するなよ、ヴィヴィー」
ゴドリックは腰に佩いた剣に囁きかけるが、答えはない。
その時、奇妙な叫びが聞こえた。
「にゃぁっ!」
「にゃあ?」
反芻して顔を上げたゴドリックが見たものは、レアの馬の背で身を捩るヘルガ姫だった。
「姫様?!ど、どうしたのです?」
「な、何か急にくっくすぐったいくくっ」
取り乱すレアに答えるヘルガ姫は、笑いを必死にこらえ顔を赤く染めている。
その襟元から細長いものが持ち上がり、彼女の頭上に浮かんだ。ゴツゴツとした黒っぽい素材に金細工の柄が嵌っている。
「イアン殿の杖……」
見上げるヘルガ姫はくすぐったさから開放されたようだ。
「そいつを捕まえろ!」
ゴドリックの声にレアは反射的に手を伸ばすが、杖は回転し、弾かれたように宙を飛んで黄色い石の道路の上で静止した。
そこには渦が出現していた。景色を摘んで捻ったようなそれは、軋むような音と共に捻れを緩めていき、一人の男としもべの妖精を出現させて消えた。
「イアン殿……」
ヘルガ姫が緊張したつぶやきを漏らすと、イアンはニヤリと笑い、空中の杖を手にとった。
つづく