「–––暑い」
意図せず口から漏れた言葉は、青空の下に溶けていく。
産屋敷を離れて幾ばくか。多くの隠を経由して本部を離れた後、しのぶさんに言われて蝶屋敷に向かう–––––––のではなく、その近くの街に滞在して既に半刻が経過している。
東側にあった太陽は既に真ん中に差しかかり、ジリジリと露出している肌の表面を焼いていく。隊服がいくら通気性に優れているとしても、この日光だけはどうしようもない。正直今すぐにでも近くの茶屋に駆け込み、ぜんざいか餡蜜を口にしたいところではあるのだが……。
「手土産を用意しないとなぁ…」
直接蝶屋敷に向かわなかった理由は当然、何か手土産を用意したかったからだ。お世話になるのだから手土産を用意するのは当然な上、自分はかつてあそこを勝手に抜け出した負い目がある。なので、そこそこ以上のものを持っていくのが好ましい所、なのだが……。
「何を持っていけばいいのかわからない……」
持っていく所が男所帯ならばそこまで考えずただ菓子折りを渡せば済むのだが、相手が女所帯の場合はそうもいかない。アオイさんやすみちゃんを初め、彼女らは年頃の少女達なのだから只団子を渡す事も憚れる。かと言って、簪や髪飾りと言った気の利いたものを選ぶ趣味の良さは生憎と持ち合わせていない。
「…みたらし団子じゃダメだろうなぁ」
ふと視界に入った茶屋に掲げられた「おいしいみたらし」の幟を見て零す。自分だったら一もなく飛びつくのだが、自分に贈るものでは無いため頭を振って候補から外す。
「みたらし団子二つ下さい」
「あいよ!」
覇気ある掛け声の男性から二本の団子を受け取る。このまま考えても埒が明かないと考え、取り敢えずみたらし団子を頬張って頭を冷静にする–––––これ美味しい。
「すいません、後二本追加で」
「あいよ!毎度あり!」
追加で出された団子とお茶を受け取り、赤い敷物が敷かれた縁台に座ってお茶をすする。疲れた身体にお茶が染み込んでいくのを感じながら、再びみたらし団子を頬張る。
「美味い美味い」
パクパクと団子を食べ進め、瞬く間に追加した二本のみたらしも食べ尽くす。取り敢えず後三本程みたらしを追加した所で、ぼんやりと空を見上げる。すると、自分の横に誰かが座る。
「–––こんな所で何をやってるんですか」
「お団子美味しいなって」
どこかキツい口調の少女だ、そう思いながらも視線は向けず朗らかに口を開く。–––どこかで聞いたことがあるような声の気がするが、多分気のせいだろう。
「そうですか…。ちなみに蝶屋敷にすぐ向かうとの事ですが、どうしてここで油を売っているんですか?」
「いやね?本当ならすぐ様向かう所なんですけど、いくつか手土産を見繕おうと思って」
「…そうですか」
そこで会話が途切れると、「団子三つお待ち!」と元気のいい掛け声と共に団子が出される。
「取り敢えずお団子でもどうですか?とても美味しい–––––––」
その内の一つを取って横を向く。どこか不機嫌そうな少女に笑みを浮かべながら団子を手渡そうとする–––––––そこで、初めて少女の顔を見た。
「結構です。–––––貴方はこんな所で何をしているんですか」
鬼殺隊の隊服に白の割烹着を羽織り、呆れた視線を隠しもせず向ける可憐な少女–––––––神崎アオイさんだった。
途中まで差し出した団子を無言で引き上げ、そのまま口に放り込む。–––何故だろう、少し苦くなった気がする。
「お久しぶりです、アオイさん。四ヶ月振りですね」
「そうですね。勝手に抜け出した権兵衛さん」
「……………」
無言で団子をモキュモキュ食べる。至近距離から向けられるジト目がとても痛いが、とりあえずは団子を食べ切らなければならない。
「しのぶ様からすぐに蝶屋敷に向かうよう指示されている筈ですけど、どうしてここで団子を食べているんですか?」
「…ごめんなさい」
綺麗に食べ終わった竹串をお盆に戻し、深々と頭を下げる。–––今思うと、何故自分は手土産を見繕う為に寄った街で団子を食べていたのだろうか……。
「アオイさんはどうしてここに?」
「薬の買い出しです。貴方も聞いていると思いますが、那田蜘蛛山での傷病者は全てうちで預かる事になりましたから」
そう言って傍に置いてある大きな竹籠を見せる。–––相当な怪我人を出した今回の件だからこそ、薬も不足するという事か。
「そうだったんですか。でしたら荷物を持ちますよ」
「結構です」
「……荷物持ちますよ?」
「結構です」
「………荷物」
「結構です」
にべもなく断る彼女を見て空を見上げる–––––師範、女性を怒らせた場合はどうすれば良いのでしょうか…。
「それじゃあ私は行きますので、貴方は先に蝶屋敷に向かっていて下さい」
竹籠を背負って席を立つ彼女。–––しかし、その言葉に首を振る。
「そういう訳には。まだ何も用意していませんから」
「…あの、私の話を聞いていましたか?」
「『世話になる人の所に何も持たずに行くのは礼儀知らず』と教わりましたから」
はっきりと口にすると、呆れた様子で額を抑える––––何か変な事を言っただろうか。
「…わかりました。ただし四半刻程度で来て下さいね。人手が足りていないんですから」
「勿論です。早急に見繕って蝶屋敷に向かいます」
「では、私はそこの薬師の所にいますから」
歩き出した彼女を軽く見て、自分も縁台から立ち上がる。灰色のがま口からお代を男性に支払い「毎度!兄ちゃんまたどうぞ!」と元気のいい声に見送られながら街を歩く。
「…四半刻で手土産を見繕う、か」
半刻も無為に過ごした自分にとってあまりに難易度が高い任務に思わず頭を抱えてしまう。–––たったそれだけの時間で俺に見繕う事ができるのか…?
「取り敢えず、手近な洋菓子屋でも行くかな…」
結局食べ物から離れられない自分に呆れつつ、洋菓子屋を探し始めた–––––––。
________________________
ある程度物が詰まった竹籠を背負い、多少の重さを感じながら街を歩く。そんな中、頭の中に浮かんでいるのはひとりの男性の事だ。
「–––全く、あの人は…」
先程まで話していた剣士–––小屋内権兵衛さんを思い出し、口から溜息を零す。当然だが、茶屋で団子を食べていた事に呆れている訳ではない。––––彼の目の下にこびりついた黒い隈を見たからだ。
「やっぱり全然休んでないんだ…」
一日二日寝ずに過ごした所であんなに濃い隈は浮かんでこない。蝶屋敷に滞在してから四ヶ月程度で更に六十程の鬼を殺したというのだからまともな休息は取って居ないとは思っていたが、いざ本人を目の当たりにすると言葉が出てこなくなる。
「あれで倒れていないんだから、人間の身体って不思議…」
蝶屋敷に普段籠っている身ではあるが、実は蝶屋敷の人は私を含めて結構情報通だったりする。何故なら、蝶屋敷には怪我を負って入院する隊員が多いからだ。そんな人達の中には当然小屋内さんと同じ戦場で怪我を負った人が相当数いる。そんな彼等の話を聞くと、戦場で肩を並べた隊員は口々に小屋内さんを賞賛し、次期柱候補筆頭と口にしている。
『あの人の動きは正に流れる水のようだった』『戦場に鳴り響く鈴の音がなにより頼もしく聞こえた』『あの人がいる限り鬼殺隊の柱も安泰だ』と多くの隊士が言っていたのを、よく覚えている。
–––しかし、私は彼がそこまで強い人とは思っていない。
『すいません神崎さん、お水を貰えますか?』
『お団子が食べたいな…。神崎さんはお団子だと何が好きですか?』
『今日のご飯も美味しかったです。いつもありがとうございます、アオイさん』
人並みに笑い、人並みにご飯を食べ、人並みに眠る。蝶屋敷で過ごしていた彼は、まぎれもない普通の人だった。しのぶ様や他の柱の方々から感じる独特の雰囲気も感じない、少し物静かな人。それが自分が持つ彼への印象だ。––––だからだろうか、特に気を使わずに接する事ができて、当たり前のように心配する事が出来るのは。
「…さて、取り敢えずさっさと買い出しを済ませないと」
そこまで考えた後、思考を切り替える。今の蝶屋敷は多くの傷病人を抱えているのだ、あまり悠長に構えているわけには行かない。
「後は包帯と氷嚢。それと……」
買いに来た物を頭に思い浮かべている––––と、目の前にさっきまで一緒にいた小屋内さんの姿が見える。何やら大きな風呂敷を持った彼はキョロキョロと髪飾りの専門店で簪を熱心に見ている–––って、なんで、私は目で追ってるんだ。
(無視よ無視!今は買い出しを済ませないと…!)
頭を振って視線を逸らすが、意図せず目で彼を追いかけてしまう。
(なにをやってるんだろ…)
頭を捻って簪を選ぶ彼–––––心なしか、どこか困ったような表情を浮かべている。そのままあちこち顔を向け、手にとって熱心に小物を選んでいるが、やがて買うのを諦めたのか店主に向かって頭を下げてその場を後にする–––––本当に、あの人は……。
「–––何をしてるんですか、貴方は」
「うわっ!…って、アオイさん?」
見かねて背後から声をかけると、とても驚いた様子で振り返る。その後状況を理解したのか、照れ臭そうに頰を掻く。
「あー…その、もしかして見てました?」
「えぇ。選ぶのを諦めて立ち去る所までばっちり」
「そうですかぁ…」
恥ずかしそうに頰を赤らめると、困ったように口を開く。
「実は自分、こう言った洒落た物を選ぶのが苦手なんです。美意識がないと言うか、審美眼がないと言いますか…」
「選んでいたのって、蝶屋敷への贈り物ですか?」
「えぇ、まぁ…。流石に菓子類だけじゃ不味いかな、と思いまして…」
そう言って大きな風呂敷を少し緩め、中から何かを取り出す。赤い箱に入ったそれは、前に一度だけ口にした事がある高級菓子のキャラメルだった。大きな風呂敷から無造作にそれを取り出したのを見て、まさかと思いおずおずと口を開く。
「…もしかして、その風呂敷の中身って」
外れていてほしい、なんて甘い予想はなんて事ない口調によって粉々に打ち砕かれた。
「はい。キャラメルとか大福、カステラや金平糖が入ってます」
「入ってますって、そんな簡単に…」
大福は兎も角として、キャラメルやカステラは高級なお菓子だ。明らかに大きな風呂敷の中に、それらが詰め込まれていると考えただけで目眩がしてくる。
「あ、もしかしてそう言ったお菓子は嫌いでしたか?」
不安そうな目で見てくる。その姿を見て、この人は常識があるようでない人な事を思い出し、つい溜息を零してしまう。
「…小屋内さん。そんなに高い物を一杯贈っても、相手は迷惑してしまいますよ?」
「そうなんですか?甘露寺さんから、「女性にお菓子を贈る時は多い方が良い!」と豪語されていましたから…」
「あの人は例外ですよ…」
余計な事を吹き込んでくれた恋柱様に心の中で悪態を吐きつつ、先ずは目先の事だと小屋内さんに向き直る。
「良いですか?贈り物は相手の身分に合わない高価な物を選んではいけません。相手が気を使ってしまいますからね」
嗜めるように口を開く。それを聞いた彼は小首を傾げた後、意図を理解したのか「あぁ」と納得したように頷く。
「気を使うことはありません。これは、蝶屋敷の皆さんが怪我を治してくれたお礼も含まれていますから」
「…なっ」
そう言って朗らかに笑う彼に、思わず言葉を詰まらせる。
「勝手に抜け出したこととか、蝶屋敷の塀を貫いてしまった事とか…。まぁとにかく、そう言った諸々が合わさったのがこれなんです」
「物でしかお返しできないのが申し訳ないです…」と頭を下げる彼––––––なんだか怒るのも馬鹿らしくなってきた。
「…というより、そんなに買い込んでお金は足りたんですか?」
「それは大丈夫です。お給金は必要以上に貰っていますから」
そう言ってがま口を見せてくる。とても失礼かも知れないが、あまり入っているようには見えない。するとこちらの視線に気がついたのか続けて口を開く。
「必要な時に必要な分だけ取り出せるようにして、後は鬼殺隊に預けているんです。必要な時に鴉を呼んで伝えれば、二日か三日程で隠の方がお金を届けてくれる仕組みです」
「…拠点を持たない貴方らしい仕組みですね」
「多すぎるお金は時に、災いの種にもなりますから」
どこか影のある口調になった為「そうですね」と会話を切り上げる–––あの様子だと、過去にそういう経験があったのかも知れない。
「小屋内さんは買い物はもう済んだんですか?」
「本当は何か小洒落た物を買いたいんですけど…今回は辞めておきます。似合わない物を貰っても、あまり嬉しくないと思いますから」
寂しげにそういった彼に、少し恥ずかしくなりながら口を開く。
「……すみやなほ達に何か買っていくのであれば、もしかしたら力になれるかも知れません」
「…えっ?」
自分の言葉が理解できなかったのか、ぽかんと間抜けな表情を浮かべ、やがて言葉を噛み砕いて意味を理解したのか「良いんですか⁉︎」と目を輝かせる。
「す、少しだけですよ!急いで帰らないといけないのは本当ですから…」
「大丈夫です。少しだけでも力になってもらえるのなら、それに越したことはありません!」
「ありがとうございます、アオイさん」と微笑む彼––––とても穏やかな笑みだったからこそ、目元に浮かぶ黒い隈がより一層目立つ。
「…あの、やっぱり眠っていないんですか?」
「えっ?」
「目元の隈ですよ。鏡がないので見せてあげられませんが、とても酷い隈が出ていますよ」
隈の事を指摘すると「あぁー…」とばつが悪いように目を逸らして頰を掻く。
「なるべく休息は取っているんですけど…」
「それでそんな隈にはなりません。具体的にどれくらい眠っているんですか?」
「でき得る限り、と言っておきます」
言葉を濁して苦笑する彼を見て溜息を零す。–––––おそらく言う気がないのだろう、こう言うところは強情らしい。
「言っておきますけど、蝶屋敷に来てからも同じ生活が出来るとは思わないで下さいね」
「…手厳しいですね」
「わかりました」と困った笑みを浮かべた彼を見て一息いれる。一睡もせずに怪我人を看病する姿なんて見たくないからだ。
「それで、すみ達には何を贈ろうとしたんですか?」
「あぁ、それはですね–––––––––」
____________________
「ありがとうございました、アオイさん。とても助かりました」
日が西に傾き始めた昼過ぎ。蝶屋敷へと戻る田舎道をアオイさんと並んで歩く。照り付ける日差しも少し弱まり、穏やかな光が降り注ぐ。
「いえ、別に…それよりも荷物、重くないですか?」
「全然重くないですよ」
備品が大量に積まれた竹籠を背負い、大きな風呂敷を抱える。小柄な体躯にあまりある荷物ではあるが、この程度造作もない。持ち方のコツさえわかれば後は筋力でどうとでもなる。
「…やっぱり筋力は相当あるみたいですね」
尊敬しているような、化け物を見ているような視線を向けられる。–––––そんなに変かな…?
「それより、日輪刀はどうしたんですか?先程から見えないですけど…」
「日輪刀は先に蝶屋敷に預けてあります。あれを持って街中には入れませんから」
そう言ってから苦笑いを浮かべる。–––自分がこの一年間で憲兵に追いかけ回された数は計り知れない、具体的な数はもう覚えていないが、とても十や二十では効かない数だ。
「色々と不便ですね…。街中での任務はどうしているんですか?」
「新たに作ってもらった短刀で遂行します。もっとも、今は手元に無いんですけど」
「手元に無い?失くしたんですか?」
「いえ、人に預けているんです。多分蝶屋敷に入院していると思いますから、その時に返してもらいます」
彼女––––尾崎さんが無事なことは既に確認済みだ。那田蜘蛛山での傷病者は全て蝶屋敷にいる事実から、きっと蝶屋敷にいるに違いない。
「あの短刀もそろそろ研いで貰いますかね…」
「でしたらウチで出しておきますよ。当分蝶屋敷にいるでしょうから」
「助かります––––そろそろ着きますね」
視界の端に見覚えのある日本風の屋敷である蝶屋敷が見える。四ヶ月前となんら変わりない景色を見て、思わず頰が綻ぶ。あれから何事も起きていない事がわかったからだ。––––そろそろかな。
「あぁそうだ。アオイさん、手を」
自分の言葉に疑問符を浮かべながら手を出す彼女に、懐からある物を取り出す。
「今日はありがとうございました。これは、ほんのお礼です」
花の装飾が施され、紫に染められた2組の鈴を彼女の手に置く。置かれた鈴は『チリリン』と軽やかに音を鳴らし、田舎道に響かせる。
「鈴…ですか?」
「はい。アオイさんにすみちゃん達への贈り物を選んでもらっている最中に買っておきました」
これを選ぶのにも相当な気苦労があったのだが、それは触れない方が良いだろう。–––つくづく自分はこういう小物を選ぶのが苦手らしい。
「とても綺麗ですけど…良いんですか?」
「勿論です。–––その鈴が、貴方の道を示すことを」
「なんですか、その言葉?」
自分の言葉に疑問符を浮かべた彼女に言葉を重ねる。
「師範からの言葉で、『鈴は自分の居場所を示すと同時に、自らが進むべき道を示す物』だそうです。その言葉にあやかって、ですね」
「進むべき、道……」
「といっても、アオイさんには必要ない物かも知れませんね」
蝶屋敷に努め、多くの隊員達を治療し看護する。それを自らが行うべきことと定めた彼女に、鈴のような道先案内人は必要ないかも知れない。
「––––小屋内さんは、どう思いますか?」
どこか意を決したように口を開く彼女。自らが渡した鈴を固く握り締めて見つめる視線には、言いようもない力が篭っていた。
「…どう思う、とは?」
「私が、正しい道を進めているかどうかです」
そういうと目を伏せ、力なく口を開く。
「–––––私は、鬼から逃げた臆病者です。鬼殺の剣士なのに、鬼を恐れて殺す事が出来ないんです」
微かに震える声色は、彼女の気持ちを表しているかのようだ。
「今はしのぶ様のご厚意で蝶屋敷で働かせてもらえていますけど、本当は鬼を殺さないといけないんです–––––貴方のように」
再び視線が向けられる––––その瞳は、微かに震えていた。その時初めて気がついた、彼女は自ら進んで蝶屋敷で働き始めた訳ではない事に。
「私は今、正しい道を進めているんですか?鬼殺隊の剣士というのも烏滸がましい自分は–––––」
「それは、自分には判断できません」
彼女の言葉に途中で口を挟む。––––これ以上、聞いている事が出来なかった。
「もし仮に、自分が貴方に『貴方の進んでいる道は間違っている』と言ったとします––––それで一体、なにが変わりますか」
無意識のうちに握られた拳を見下ろし、息を吐く。
「他人に委ねてはいけないんです。価値観や目的は、他人に押し付けられて良いものではありません」
「………………」
「自らの意思で動かない限り、道はありません。そしてその道が正しいのかどうかすら、わからないんです。–––ましてや、アオイさんが蝶屋敷にいる事なんて」
口を閉ざす彼女に「けど」と言葉を繋げる。
「––––ひとつだけ確かな事があります」
拳を解き、手を降ろして彼女を見る。
「貴女が蝶屋敷に居てくれたから、今の自分が居ます。–––アオイさんが蝶屋敷に居てくれてよかったと、私は心からそう思います」
「…私は貴方に、なにもしていません」
そういう彼女に首を振る。
「生きていて、声を聞けるだけで嬉しいこともあります。–––人が簡単に死ぬ世界ですから、変わらず居てくれる事が救いになる事だってあるんです」
上総で語り合った隊士の笑い声や、道端ですれ違った少女のはにかんだ笑顔、藤の家紋の家で話した少年の元気な声–––––––ありきたりだった風景はもう、見る事が出来ない。
「昨日出会った人が簡単に死体になるんです。–––変わらず憎まれ口を叩いてくれる人は、それだけで貴重なんですよ?」
「現に、私はアオイさんが変わらずに居てくれて嬉しかったです」と言葉を締めくくる。すると彼女が背を向ける。
「……鈴、ありがとうございます」
「いえ、気にしないでください」
「–––もう少し、ここで足掻いてみようと思います」
そう言って蝶屋敷を見る––––その後ろ姿は、どこか頼もしく見えた。
「…私も、貴方に会えて良かったです」
「––––ありがとうございます、アオイさん」
耳を赤くして言った彼女の言葉に笑みを浮かべる。––––本当に、優しい人だ。
「さぁ!蝶屋敷に入ったらテキパキ働いてもらいますからね!」
「望むところです。一日中働き詰めでもどんとこいです」
「いえ、ちゃんと休んで下さい………」
呆れた口調で話す彼女に苦笑いを浮かべる。––––やっぱり俺って働き過ぎなんだろうか…。
「––––改めてですけど、少しの間よろしくお願いします。小屋内さん」
「此方こそ、よろしくお願いします。アオイさん」
差し出された右手を右手で握り返し、互いに笑い合う。––––鬼が跳梁跋扈する地獄だとわかっていても、笑いあえてるこの時間だけは救われていると、そんな気がした。
____________________
「–––本当にありがとうございました、小屋内さん」
「いえ、尾崎さんこそ無事で良かったです」
蝶屋敷の大病室。すみちゃん達にお土産を渡した後尾崎さんを探していると、病室に横たわる彼女を見つけた。
身体中に包帯を巻いた彼女は健気に笑う–––こちらに気を使わせないためだと言うことがわかる。
「あっ、そうだ!日輪刀を返さないとですね!」
彼女は慌てた様子でベットの横に立てかけられた短刀を手渡す。手に馴染む重さを持つそれは、抜かなくても自分の日輪刀である事がわかる。
「たしかに受け取りました」と懐に入れると、尾崎さんが口を開く。
「本当にありがとうございました。日輪刀を貸して頂いて…怪我は無かったですか?」
「はい、お陰様で。尾崎さんこそ、どれくらいで良くなるんですか?」
「二週間ほど掛かるそうです。肋骨を何本か折っているみたいで…」
そう言って包帯の部分を摩る–––やはり痛みが強いようだ。その様子を見て堪らず頭を下げる。
「–––すいません。自分が不甲斐ないばかりに、尾崎さんに怪我を負わせてしまって」
「気にしないで下さい!元々は私の力不足が原因なんですから…!」
「それでも、です。本当にすいませんでした」
ワタワタと慌てる彼女を見ても尚頭を下げ続ける。謝って許される問題ではないが、それでも頭を下げないと気が済まないからだ。
「…これで二度目ですね、小屋内さん」
落ち着いたのか、尾崎さんが穏やかな口調になる。それを聞いた自分も頭を上げ、口を開く。
「一度目は、上総でしたか」
「はい––––––私は、貴方に助けられてばかりです」
–––上総九十九里浜で行われた、十二鬼月との遭遇戦。当時の下弦の弐と繰り広げられた激戦は、霞柱と岩柱が増援に駆けつけるまで多くの死者を出し続けた。
幸い拓けた場所での戦闘であったから箱根山よりも死者は少なかったものの、それでも多くの死者を出してしまった。その事実が、今でも自分の胸中に残り続けている。
「小屋内さんが居なかったら、私は二回も死んでいる事になります。–––本当に、感謝してもしたりません」
「尾崎さん、自分は……」
「貴方のお陰で、私はこうして病室で寝ている事が出来るんです。それとも小屋内さんは、死体の私と会いたかったですか?」
有無を言わせない彼女の言葉に口を閉ざす––––言い返すことができないからだ。
「貴方は、自分のやってきた事を誇るべきだと思います–––助けられてばっかりな私が言うのもアレですけど」
「…そう、ですね」
「でないと私の立つ瀬が無いです」と苦笑いを浮かべる彼女に笑いかける––––自分の周りには、優しい人ばっかりだ。
「それにしても、明るいところで見ると隈が酷いですよ、小屋内さん」
「アオイさんにも同じ事を言われました…。そんなに酷いですかね?」
「炭でも塗ったのかと勘違う程ですね」
「そんなにですか…」
「隈を消す呼吸でも編み出すかな…」と呟くと「そんな事に努力するより休んだ方が建設的かと…」と返される。–––たしかに言われてみればその通りだ。
「小屋内さんはこれから任務ですか?」
「いえ、しばらくの間蝶屋敷でお手伝いさんをやる事になったので」
「えっ?お手伝いさん?小屋内さんが?」
「疑ってますね?これでも掃除洗濯炊事は全部熟せるんですよ」
と軽く胸を張ると「いや、そう言う意味じゃなくて…」と疲れた顔を浮かべる。
「––––詳しいことは聞きませんけど、あんまり無理はしないで下さいね?」
「勿論です、適宜必要に応じて休憩は取りますよ」
「…本当かなぁ」
「…まぁ良いです」と肩を竦めると、今度は笑みを浮かべる。
「しばらくの間ですけど、よろしくお願いしますね?小屋内さん」
「はい––––といっても、女性部屋は蝶屋敷の方々の担当ですけどね」
「ですよね」と笑う彼女に笑みを浮かべる。––––穏やかな木漏れ日が窓から差し込む中、尾崎さんの浮かべる笑みは眩しかった。
__________________
–––––––小屋内さんとの再会は、唐突に訪れた。
「–––––やぁ炭治郎君。怪我の経過はどうだい?」
小豆色の隊服の上から白衣を羽織り、雑嚢を持って歩く彼。一切の淀みなく流麗な動作で歩くその姿は、まるで水のようだ。
「小屋内さん!蝶屋敷に来ていたんですね!」
「うん、ちょっと事情があってね。暫くここに滞在する事になったんだ」
「そうなんですか…。あの、もしかして何処か怪我を…」
尋ねると「いや?」と首を振るう–––彼からは血の匂いもしないから本当なのだろう。
「蟲柱の胡蝶しのぶさんからの命令だよ–––まぁ、簡単に言えば懲罰だね」
そう言って笑いかけてくれる小屋内さんに、思わず俯いてしまう。彼が懲罰を受けた理由が、簡単に想像が付くからだ。
「–––すいません。妹を庇って貰ったばかりに」
「気にしないで欲しいな。君に言った通り、自分が後悔したくないからそうしただけなんだから」
「俺の自分勝手な行動に、君が気に病む必要なんて無いよ」と言い、なんて事ない風に笑う。心からそう思っているのが匂いでわかるからこそ、余計に胸が痛む。
「それより、怪我は大丈夫かい?随分手酷くやられていたようだけど」
「まだあちこち痛みますけど大丈夫です。––––あっ!」
そこで手首に巻かれた鈴を思い出し、すぐさま腕を見せる。
「この鈴、ありがとうございました。本当に助かりました」
鈴を見ると「あぁ」と零す。と、「助かった?」と疑問符を浮かべる。
「この鈴が何か役に立ったのかい?」
「はい。お陰で妹が刺されずに済みました」
「–––そうか。やっぱり傷をつけられそうになったか」
そう苦笑いを浮かべる彼–––やっぱり柱の人達と面識は深いようだ。
「柱の人達を悪く思わないであげてくれ。彼等は鬼殺隊を支えている人達なんだ、そんな彼等が鬼の存在を簡単に認めるわけにはいかないからね」
「それは理解しています–––けど、禰豆子を傷つけようとしたあの傷だらけの人は許しません」
「あぁ…不死川さんだね…」
「やるとは思ってたよ」と妙に納得した表情を浮かべる。
「それで、君の妹が刺されそうになった時にどうして鈴が役に立ったんだい?」
「はい。咄嗟にこの鈴の存在を思い出して、この鈴と一緒に小屋内さんの名前を叫んだら思いとどまってくれたんです」
「思い留まった…?そうか」
どこか嬉しそうに言う小屋内さんを余所目に「けど、その後が酷かったんです」と憤る–––––今思い出しても、あれは酷かったと思う。
「その後?何があったんだい?」
「それが、自分の言葉を信じてくれなかったんです。「権兵衛がそんなことを言うはずがない」って」
「…流石、疑り深いね」
苦笑いを浮かべる小屋内さんに「そうですよ!」と声を上げる。
「小屋内さんはこんなに優しいのに…!あの人達は全然わかってくれなかったんです!」
「…ちなみに聞くけど、どんな事を言ってたか覚えてる?」
「『小屋内少年がそんな事を言うはずが無い!それは君の勘違いだろう‼︎』とか、そんな事を言われました」
「煉獄さんだな…」
疲れた風に笑う。
「それで柱の人達は、君たちの事を認めてくれたのかい?」
「…分かりません。只、その後お見えになったお館様が自分の言葉を事実だと言ってくれて、鱗滝さんと冨岡さんが………」
自分が言葉に詰まると、頭に手を置いて軽く撫でてくれる。
「大丈夫、そこまでで良いよ–––––よく頑張ったね、炭治郎」
「…はい」
自らの為に腹を切るとまで言ってくれた鱗滝さんと冨岡さんを思い、思わず目に涙が溜まる。小屋内さんは穏やかに微笑むと、心配そうに口を開く。
「それで結局、君たちの処遇はどうなったんだい?」
「今まで通り、妹を連れて鬼殺隊に所属して良いそうです–––––その時、十二鬼月を倒してこいと言われました。そうすれば、柱の人達が妹を認めてくれるって」
「十二鬼月か…中々難しいね」
十二鬼月、との言葉を聞いて難しい表情を浮かべる。しかしそれも一瞬で「なら、もっと強くならないとね?」との言葉に「はい!もっとがんばります!」と返す。
「良い返事だ。そうじゃないとね–––––それで、猪頭の君。怪我の様子はどうだい?」
「ゼンゼンダイジョウブデス」
「–––––大丈夫じゃなさそうだね」
猪頭の被り物を被った少年–––伊之助に声をかけた後、声を聞いて苦笑いを浮かべる。そう言えば、那田蜘蛛山で一度出会っていたっけ。
「強くなるのも重要だけど、まずは怪我を治す事が大事だよ。自分がこの大部屋の担当になったから、何かあったら遠慮なく言って欲しい」
「ありがとうございます!––––それで、この鈴をお返ししたいんですけど…」
「あぁ、ありがとう」
腕から解いた鈴を彼の手のひらの上に載せる。それを懐に入れると「確かに受け取ったよ」と笑う。
「それじゃあ仕事があるから。安静にしているんだよ?」
「はい!ありがとうございました!」
軽く手を振って部屋から立ち去る小屋内さんに頭を下げる。見えなくなったら頭を上げ、一息つく。
「あれが炭治郎が言ってた人か…確かに良い人そうだな」
「良い人そうじゃない、良い人だよ!」
布団から金色の髪の毛を出し、疑わしそうな目で廊下を見る少年––––我妻善逸に口を開く。蜘蛛化する毒を打ち込まれた彼の手足は小さく縮まり、三人の中で一番重症を負っていると判断されている。
「けどさ、あの人はなんで禰豆子ちゃんを庇ったんだろ?–––もしかして、禰豆子ちゃんを狙って……!」
「いや、そんな訳ないだろ。善逸みたいな邪な目的ではない事は確かだ」
「邪ってなんだよー!禰豆子ちゃん可愛いから仕方ないだろ!」
騒ぐ善逸を余所目に、小屋内さんに思いを馳せる。–––––けど確かに、あの人はどうしてあんなに優しいんだろう…。
そうやって考えていると「こら!また貴方は騒いで!」と髪を逆立てながら看護師のアオイさんが部屋に入ってくる。それを見た善逸は悲鳴を上げ布団に隠れる。
「ヒィィ!ごめんなさいごめんなさい!」
「あんまり騒ぐようなら出て行って貰って結構ですからね!」
ガミガミと音が聞こえてきそうな程激しく善逸が怒られていると「どうしたの?」と首を傾けて小屋内さんが再び姿を見せる。
「…炭治郎君、これどう言う状況?」
傍目から見て悲惨な状況に顔を痙攣らせつつ、こちらを伺う。
「えぇと、善逸が騒いだのを看護師さんが怒ってる感じですね」
「そっか…彼の容態は?」
善逸を見る–––おそらく短くなっている手と足に気がついたのだろう。
「鬼の毒を受けて重症です。手足が短くなっていて、感覚が無いらしいです」
「ん、ありがとう」
それだけ聴くと善逸のベットに向き直り、わんわん泣いている善逸の布団を剥がし、口の中に何かを放り込む。流麗な動きで叩き込まれたそれは綺麗に善逸の口に収まり、彼の悲鳴を止める。
「えっ⁉︎」
「む⁉︎むごごご⁉︎」
「お饅頭だよ、ゆっくり落ち着いて食べてね」
それが饅頭だと分かると、コクコクと頷いて黙って頬張る善逸。それを見て毒気が抜かれたのか、神崎さんが呆然とした様子で見ている。
「こう言う時は甘味が一番効果があるんです。お饅頭なら口も塞げて一石二鳥ですよ」
「は、はぁ…」
「善逸君も、あんまり騒ぐと他の怪我人が困るからね?不安なのはわかるけど、もう少し落ち着いた方が良いよ」
再びコクコクと頷く善逸に「ありがとう」と笑いかける。すると「それじゃあアオイさん、行きましょう」と彼女の手を引っ張る。
「あっ、ちょっと!」
「それじゃあお大事に〜」
見えない力で引っ張っているかの如く勢いで彼女を引きずって病室から出て行く––––––なんだか嵐のような一幕だった…。
何かどっと疲れたが、ゴクンと饅頭を飲み込んだ善逸が口を開く。
「良い人だ…」
「–––善逸?」
「だってお饅頭くれる人だよ?ちょっと、いやかなり食べさせ方は強引だったけどさ、すげぇ美味い饅頭だった」
「あれ高い奴だよ…」と嬉しそうに言う善逸を見て思わず息を吐く。–––どこまで現金な奴なんだ。
「…良かったな、善逸」
「うん。あれは良い人だよ。お饅頭くれるんだから間違いない」
どこか確信めいた口調で語る彼を見てから、窓から見える空を見る。日が西に傾き黄色になり始めた空を一瞥し、俺は瞼を閉じた––––––。
_____________________
–––––––結論から述べるのであれば、小屋内権兵衛は蝶屋敷で大層働いた。
「第二病室の問診終わりました。比較的軽傷の方が多いので、多く見積もっても五日後には機能回復訓練に参加出来そうですね」
「蜘蛛化した人達は今は安静にしていますけど、時たま魘されているのか暴れるので監視が必要ですね…」
「きよちゃん、ここの包帯はもう少しキツくした方が患者さんが楽だよ」
ありとあらゆる状況を想定して訓練を施された彼は、当然に応急処置や怪我の対処法を熟知しており、多くの戦場を渡り歩いた為に実戦経験も豊富である。彼自身は治療方面に優れていないと謙遜していたが、多くの戦場を渡り歩いて得た生きた知識は、怪我の治療において即戦力として働いた。
「それじゃあ回復した皆さんにはこれから機能回復訓練を受けてもらいます。相手は僭越ながら自分、小屋内権兵衛が勤めさせていただきます」
「まずは身体を慣らす意味で鬼ごっこを行います。そうですね……取り敢えず半刻ほどやりましょうか。捕まえるのは自分一人です、頑張っていきましょう」
さらに加え柱に匹敵する実力を持っている彼は自発的に機能回復訓練を行い、多くの隊士へ指導を行った。彼と他の隊士とでは実力に天と地ほどの差がある為纏めて十人程行う事が出来、効率が良いからだ。
「全体的に体力が足りないですね…。明日も鬼ごっこをしましょうか、足腰と基礎体力は全ての源ですから」
「今日も駄目ですか…。–––––ちなみに言いますけど、逃げても捕まえてきますからそのつもりで。一緒に頑張りましょう!」
小屋内は十人対一人で掠りもしない事実に打ちのめされそうになる隊士を(無理やり)奮い立たせ、熱心に訓練を施していった。
「薬が切れてる…少し買い出しに行ってきます。すぐに戻りますから」
「夜の回診は自分が。皆さんもお疲れでしょうし、少し休んで下さい」
「洗濯物は終わらしておきました。いつもの場所に干しておきましたけど良かったですか?」
「窓は磨くと綺麗になるなぁ…あ、しのぶさんお帰りなさい」
機能回復訓練を実施しつつ、その他にもありとあらゆる雑用を積極的にこなし、炊事洗濯掃除等の家事まで行うようになった。これも偏に、人並み外れた体力と彼が蝶屋敷に感じている恩ゆえの行動だろう。
「鬼が出たそうなので少し出てきます。行き先ですか?多分上総かなぁ…」
「箱根に人食い鬼の情報があったので、すこし行ってきます。日が昇るまでには帰ってくるので、洗濯物はしなくて大丈夫ですよ」
「『下総に鬼が出たので殺してきます 権兵衛』」
蝶屋敷に拠点を置いても尚、小屋内権兵衛は鬼狩を休むことはなかった。凡そ帰ってこれないであろう所に鬼を殺しに行っては、その日の内に帰ってきて何食わぬ顔で業務に没頭していた。
「今日のお味噌汁は味が濃いかな…すみちゃーん、少し味を見てくれない?」
「大福が安かったので買ってきましたし、少し休憩しましょうか……自分ですか?自分はもう食べたので、あとは皆さんで食べちゃって下さい」
「善逸君がまた騒いでる?しょうがない、金平糖で餌付けしてくるか…」
重ねて言うが、小屋内権兵衛はそれはそれは大層働いた。––––––結果として、蝶屋敷の仕事を一人で半分請け負う程度には。そしてその結果どうなるかは、小屋内自身を除いて誰の目にも明らかだった–––––––。
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「–––––––そこに座りなさい、権兵衛君」
額に青筋を浮かばせたしのぶさんが、ニコニコしながら床に指を指す。–––––これは一体、どう言う事だろうか。
「え、えぇと…」
引き攣った笑みを浮かべつつ、周りに視線を巡らせる。誰か助け舟を出してくれる人を求めての行動だが、それは無駄に終わる。
「す、すみちゃん…」
「むー」
「きよちゃん…?」
「むー」
「なほちゃんは…?」
「むー」
蝶屋敷三人娘は揃えてむくれており、むーと頰を膨らませている。–––––とても助けを求められる雰囲気ではない。
「あ、アオイさん……」
「早く座った方がいいと思いますよ?」
降り注ぐ威圧感に身体を震わせつつアオイさんに目を向けるが、バッサリと言葉で両断される。–––どうして怒っているんだ…?
(カナヲさんは…駄目だ、いつもと変わらずニコニコしている)
我関せずを突き通す彼女に思わず目を覆う–––––キャラメル程度では許さないと言うことか……。
「…はい」
肩を竦めて床に座る。板張り特有のひんやりした感覚を膝下が覚え、今から四ヶ月前にしのぶさんの部屋で正座した記憶が想起される。––––今思えば、あの時もこんな風に怒られていたな…。
「小屋内君、君は賢くはありませんが要領は悪くありません。ですから、私が怒っている理由はわかりますね?」
「––––––えぇと、納屋を勝手に増築した事でしょうか」
恐る恐る口にすると、しのぶさんは「うふふ」とより笑みを深める。すると右手に手に持っていた試験管の蓋を徐に引き抜き、キュポンと気の抜けた音を立てる。
「これは貴方に特別に用意した薬です。貴方専用ですよ?嬉しいですか?」
そう言うしのぶさんの笑みはとても美しく、まるで絵画のような印象を受ける。額に青筋が浮かんでなければ、だが。
「入ってる薬の内容によりますかね…?」
「嫌ですね、普通の睡眠薬ですよ–––––少し命に関わる程度の」
その言葉に「ひっ」と言葉をあげる––––彼女の放つ雰囲気も相まって、冗談に思えないからだ。
「さて––––まず小屋内君。貴方はこの一月程度、本当によく働いてくれました」
「あ、ありがとうございます」
クルクルと試験管を回す手に視線を向けつつ、ぎこちなく口を開く。
「貴方が来てくれたお陰で色々と楽になったと皆んな言っています––––ありがとうございます、小屋内君」
「あ、あはは…」
「–––––ですが」
精巧な人形のような美しい顔が間近に見える。絹のような白い肌とどこか紫がかった綺麗な瞳に視界が占領される。
「あまりにも度が過ぎている、そう思いませんか?」
「ど、どうでしょうか…」
「聞けば、今の貴方は蝶屋敷で炊事や掃除も行なっているそうじゃないですか。傷病人への対応も欠かさず–––けどそれって、時間的に無理がありませんか?」
「効率良く熟せば出来ないことはない、と思いますけど…」
「すみ」
「はい!」
あたふたと視線を彷徨わせ、何か機嫌を直す方法はないかと模索していると、しのぶさんに呼ばれたすみちゃんが帳簿を持ってくる。
「これはすみがつけている帳簿です。何の帳簿かわかりますか?」
「さ、さぁ…」
しのぶさんが見せてくれる帳簿には半刻や一刻と言った時間が不規則に並べられている。一体何の数字かわからない––––––そう思った時、ふと頭に何かが過ぎった。
「これはですね、一日で貴方が取ったであろう休憩時間です。–––おかしいですね、一日に半刻や一刻位しか休んでいません」
そう言って微笑むしのぶさんに、自分は引きつった笑みを浮かべるしかできない。––––今のしのぶさんに何を言っても逆効果であると本能が告げているからだ。
「これが蝶屋敷本来の業務があまりに多忙で仕方なく、と言った事情ならば、むしろ私達が謝らなければなりません–––ですけど、違いますよね?」
そう尋ねる彼女にコクコクと頷く。
「聞けば、アオイは貴方にちゃんと休息を取って欲しいと毎日言っていたそうじゃないですか。貴方はそれを無視したんですね?」
「そう言うわけじゃないんです。ただ、身体を動かさないと落ち着かない性分、と言いますか…」
「あらあら、性分でしたら仕方ありませんね––––お薬、必要ですか?」
より一層笑みを深めるしのぶさんに首をブンブンと横に振る––––駄目だ、やっぱり何を言っても意味が無い–––––!
「貴方には常識というものがないんですか?一日中殆ど働き詰めるなんて普通に考えておかしいと思いますよ?その上さらに鬼を殺しに遠くに遠征?本当に頭がおかしくなってしまったんですね。やっぱり本気で治療した方が良いかも知れません。今なら私が懇切丁寧につきっきりで治療してあげますよ?」
「え、遠慮させて下さい…」
「それが嫌ならちゃんと休んでください」
青筋を浮かべた真顔に震え上がり、コクコクと頷く。「本当ですか?」と念を押す彼女に再び頷く。それを見たしのぶさんは深い溜息を吐いた後、どうしようもない子供を見る目を向ける。
「全く…なほ達が自分達の仕事が取られて仕方がないって嘆いていたんですよ?」
「四ヶ月前の恩義を返すに絶好の機会だと思いまして…」
「だからと言っても限度があります」
ピシャリとした言葉に肩を竦める。こんなに怒られるのは久しぶりだ。
「蝶屋敷にいる間、貴方には一日につき最低三刻の休息を命じます。破ったら–––––分かりますね?」
「了解しました」
「取り敢えず明日は休息日にします。しっかり身体を休めて下さい」
「もう立って良いですよ」と許しを得たので、静かに床から立ち上がる–––酷い目に遭った…。
「当然ですけど、鬼を殺しに行くのも禁止です。良いですね?」
「…なら、明日はそうですね…お団子でも食べに行ってきます」
「そうして下さい––––これで私からの話は終わりです」
「はい…………私?」
何故そこで私なんて単語が出てくるんだと頭を捻ると、今度は正面にアオイさんとすみちゃん達が歩み出てくる。
「それじゃあ私は任務がありますのであとは任せます。アオイ、後は頼みましたよ」
「お任せ下さい、しのぶ様」
「え?ちょっと、しのぶさん……?」
「言ったでしょう?––––––私の話は終わりました、と」
そう言って微笑み、部屋から退出するしのぶさん。
「さて、それじゃあ小屋内さん–––––正座して下さい」
「………はい」
再び床に正座する。まだ暖かい床の感覚を感じながら、降り注ぐ叱責を聞き続けた––––––––。
________________
「––––––いい月だな」
月明かりが降り注ぐ、蝶屋敷の縁台。小豆色の隊服ではなく藍色の甚平を羽織った小屋内権兵衛はそこに腰掛け、ぼんやりと空を見上げている。
彼の傍には漆が塗られたお盆が置かれ、その上には湯気が立つお茶と二つの白い豆大福が置かれている。
「あんなに怒る事ないのにな…」
つい先程まで蝶屋敷の女性陣にこっ酷く叱られていた彼は、その時の情景を思い浮かべて苦笑いを浮かべている。自分を思いやっての行いだと理解しているが、あぁも気持ちよく怒られては形無しというものだ。
「うん、美味い」
無造作に豆大福を口の中に放り込む。程よい塩味と餡子の甘さが絶妙な大福に職人の技を感じつつ、二口頬張る。
夜中のお茶会を一人呑気に楽しんでいる彼だが、その耳に一つの足音が響く。
「今晩は、カナヲさん」
音のなる方を向く事なくそれが栗落花カナヲが歩く音だとわかる。呼ばれた彼女は立ち止まり、いつもと変わらない笑みを浮かべる。
「良ければ一緒にお茶でもどうですか。美味しい豆大福もある事ですし」
そう言ってお盆を見せる。彼女はそれを一瞥した後、少し固まってから懐から銅貨を取り出す。慣れた手つきで宙を舞ったそれは寸分違わず彼女の掌に収まり、それを彼女は見る。
「……でしたら」
そういうと彼女はお盆を挟んで小屋内の隣に座る。それを見た小屋内は少し微笑み、逆さに置いてある湯呑みを元に戻し、急須からお茶を淹れる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
お茶を受け取った彼女はそれを一口啜り、ふぅと一息いれる。それを見て小屋内は再び月を見上げ大福を頬張る。
「こうして二人でゆっくり話すのは初めてですね」
「…そうですね」
「あれから任務が多いと聞きます。隠の隊長は、やはり激務ですね」
「よろしければ大福もどうぞ」とお盆を押し出す。彼女はそれをじっと見つめた後、再び銅貨を投げる。
「–––私の事を嫌っているんじゃないんですか」
その大福を受け取る事無く口を開く。突然投げ出された言葉に権兵衛は目を丸くする。
「どうしてそう思ったんですか」
「那田蜘蛛山で、殺されそうになりましたから」
なんの臆面も無く言い放つ。那田蜘蛛山で彼女が感じた殺気は本物で、あの時鴉の伝令が後一歩遅ければ自分が生きていないと思っているからだ。
それを聞いた権兵衛はばつが悪い表情を浮かべ、大福を一口頬張る。
「一応言いますけど、大福に毒は入っていませんよ?これは近くの兎屋で買ってきた物ですから」
「……………」
無言。互いの間に少しの静寂が訪れると、それから間を空ける事無く口を開く。
「–––––確かに、あの時の私はカナヲさんを殺そうとしました。鴉の伝令が後一歩遅ければ、取り返しのつかない結果になっていたでしょう」
大福を食べ終えるとお茶を飲む。暖かな渋味が甘味を流していく事を感じつつ、権兵衛は言葉を繋げる。
「ですが、今の貴女を嫌ってはいません。もし嫌っているのなら、こうしてお茶に誘ったりしませんよ」
寂しそうに笑う権兵衛。それを見た栗花落は少し沈黙した後、大福を手に取り、一口頬張る。小屋内はそれを見て微笑み、再びお茶を啜る。
「–––––カナヲさんは、どうして鬼殺隊に?」
彼女が大福を食べ終えたのを見計らい、口を開く。お茶を啜る彼女はその言葉を聞いて湯呑みをお盆に置き、再び銅貨を投げる。
「しのぶ様とカナエ様に拾われて、二人に剣士として修行を受けたからです」
「自分から鬼殺の剣士になりたかった訳じゃない、と言う事ですか」
権兵衛の言葉に黙る彼女。銅貨を投げようと一瞬構えるが、やがてそれをやめる。変わらず微笑んでいる彼女だが、その笑みが少し固まった様子を見た小屋内は笑みを浮かべ、湯呑みに口をつける。
「–––良かった。貴女にも意思はあるんですね」
「あの時殺さなくて良かった」と心から安堵したように笑う彼を栗落花は見遣る。
「どうして、そう思うんですか」
「自分の質問に、カナヲさん悩んだじゃないですか。それは意思がないとできない事です。–––普段の貴女は、意思に従う力が弱いんですね」
どこか確信めいた口調で笑う彼は「そっか」とひとりでに納得し、何が嬉しいのかにこにことお茶を啜る。
「–––大福ご馳走様でした」
なんとなく居心地の悪くなった彼女は空になった湯呑みをお盆の上に置き、席を立つ。そのまま足早にその場を立ち去ろうとする––––が、「カナヲさん」と背後から声が掛けられる。
「お休みなさい–––良い夜を」
どこまでも穏やかな口調に少し呆気に取られつつ、栗落花は「お休みなさい、小屋内さん」と口にする。それを聞いた権兵衛は和やかに笑い、再び月を見上げる。
栗落花はその様子を少し見つめた後、その場を後にする。月夜に照らされた二人のお茶会は、そうして幕を閉じた–––––––。
________________________
–––––––静寂が支配する夜。蝶屋敷に用意された自室に戻り、布団の上で横になる。
「休み、かぁ…」
あれ程欲しいと思っていた休みだが、いざそれが降って湧いてくるとなるとやる事が見当たらない。
何もしなくていいと言うことは一日中団子を食べても良い、と言うことなのだろうか…。
「明日から炭治郎君達も機能回復訓練に参加するから、自分も参加したかったんだけどな…」
那田蜘蛛山を生き残った、優秀な剣士達。将来有望な彼等を鍛える事は、鬼殺隊全体の強化から見てとても有用だ–––しかし、明日は休めと言われている以上それは叶わない。
「–––まぁ、取り敢えず寝るか」
薄手の布団を被り、瞼を閉じる。そこで、つい先程まで話していたカナヲさんの事が頭に浮かぶ–––隊服を着ていたから恐らくカナヲさんは任務があるのだろう、隠の隊長は相変わらず激務らしい。
「…一体誰が、彼女の心を動かせるんだろうな」
感情が無いわけではない。意思が無いわけではない。–––ただ、それらが絶望的なまでに弱いのだ。今はそれで良いのかもしれないけれど、いつかその小さな灯火が消えた時、彼女は本当に人形のようになってしまう。
「…自分じゃどうしようもない。時が解決してくれるのを、待つしかないか」
現状では打開策がない事を思い、枕に頭を預ける。柔らかい感覚に包まれながら、意識を闇へ落とす。–––––その時、甘い花のような香りが鼻についた。
「–––うん?」
藤の花の香とは違った、何処か甘ったるい匂い。砂糖に近い臭いがする事から、誰かが菓子でも食べているのかと考える。すみちゃん達がお茶会でもしているのかな、と微笑ましい想像をして再び瞼を閉じる–––––––その時だった。
「–––––––っ⁉︎」
背筋を氷柱が通うような感覚が走る。今まで何度も経験し、ある種慣れ親しんだとも言える感覚。–––––しかし、此処でそれを感じては行けなかった。
「まさか–––––なんで鬼が⁉︎」
その場から飛び起き、傍に置いてある二振りの日輪刀を持ち出す。一瞬隊服に着替えるかと頭に浮かぶが、敵の手が読めない以上悠長に事を構えていられないとそのまま飛び出す。
「なんだ、この匂い……!」
部屋から出ると甘い匂いが屋敷中に充満しているのを感じ、呼吸を解毒に切り替える。するとその直後、クラッと意識が混濁を始める。
(意識に作用する血鬼術か…!)
グルグルと回る視界の中、身体中の巡りを意識し呼吸を整える。ある程度視界が戻るのを感じると、その後に一度部屋に戻って自身の雑嚢から薬草を一房取り出し口の中に含む。–––あくまで気休めだが、ないよりはマシだ。
準備が終わると部屋を再び飛び出し、蝶屋敷の中を駆け巡り病室を目指す。
(無事でいてくれよ…!)
それだけを願い、全速力で屋敷の中を駆け抜ける。客室を出て、病室が並ぶ棟に足を運ぶ––––すると、廊下に何か黒いものが視界に浮かび上がる。それを見越して立ち止まり、日輪刀を構える。自身を視認したのか、黒い靄が言葉を発する。
『この状況でまだ起きている者がいるとは。柱が任務で消えたのを見計らって来たのですが、当てが外れましたかな?』
妙に耳に障る嫌な声を聴き、鞘から日輪刀を抜刀する––––––事なく、そのまま横薙ぎに刀を振るう。
『おや?』
––––––水の呼吸 壱の型 水面斬り
鞘から抜かれなかった刀身を不審がったのか、そのまま刀を受ける靄。刀に相手が乗っかった事を見て筋力を総動員して横に振るい、避けなかった靄をそのまま力任せに壁に叩きつける。靄を叩きつけられた壁はそのまま貫通し、轟音を立てながら何枚かを破って庭先へ鬼を運ぶ。
『屋敷から引き剥がす為ですか、考えましたね』
悠長に地面から立ち上がるそれを前に、大太刀を抜刀する。シャリリンと鈴の音が夜空に響き渡り、月に反射された藍色の刀身を靄に向ける。すると靄が『おや?』と怪訝そうな声を上げる。
『その鈴、藍色の刀身–––成る程。貴方が最近出しゃばっていると聞く鬼狩ですね』
「–––お前、どうやって蝶屋敷に入ったんだ。屋敷には藤の花の香を焚いているんだぞ」
靄の放つ気配から鬼であると判断するが、蝶屋敷には鬼の侵入を防ぐために藤の花のお香を夜毎に焚いている。そうやすやすと鬼に侵入されるとは思いたくないが、現に目の前の鬼は侵入してきていると頭を切り替える。
『それは教えられませんね。強いて言うなら、私は匂いにそんなに敏感ではないんです』
飄々と答える–––まじめに答える気は無いらしい。
「まぁ良い––––これ以上はやらせないぞ」
『クッ、ハッハッハッ!それはどうでしょうか‼︎』
耳うるさい笑い声を響かせた後、黒い靄が取り払われ、身体が顕になる。病的なまでに白い肌が黒の靄から覗かれ、どこか曲芸師じみたふざけた格好が映り、最後に魚を彷彿させる巨大な目玉を載せた異形の顔が浮かび上がる。–––それは、見間違いないほどに鬼だった。
「残念ですが、増援は期待しない方がいいでしょう–––屋敷にいる彼等は呑気に眠りこけていますから」
「眠っている–––血鬼術か」
「ご明察‼︎」
どこか仰々しく手振りを使う鬼から目を離さず刀を握る–––––先程感じた妙な倦怠感はこいつが使った血鬼術の影響か。
「しかし、残念な事に私の術程度では精々人を眠らせるだけで殺す事は出来ないのです…嘆かわしい」
「………」
「–––ですが、眠っているところを私が直々に殺せばいいだけの事」
裂けた口で歪な三日月を描く–––こいつは、早急に殺す必要がある。
「–––––ほざけ、害獣」
––––––肆の型改 荒波・打ち潮
月夜に煌めく鋼が鬼の首に向かう。おおよそ視認できないであろうその太刀筋は、寸分の狂いもなく首元に向かい––––––––黒い靄によって弾かれた。
「効きませんねぇ‼︎」
瞬く間に黒い靄によって全身を覆われる鬼。その靄に刃を幾度なく向ける–––が、その全てが刀を通す事なく弾かれる。柔らかい鋼を打ち付けている感覚を覚え、半身を逸らして型を即座に変える。
––––––漆の型 雫波紋突き
瞬く間もなく放たれる神速の突き–––しかし、それすら簡単に弾かれる。
「無駄ですよ!私の靄を破る事が出来た者は今まで一人もおりません‼︎」
大きく突いた直後、靄の一部が硬くなる事が見えとっさに腰から体を落とす。硬くなった靄は数多の杭へと姿を変え、数瞬先まで自分の胴体があった場所へ突き立てられる。避ける際に掠った杭は藍色の甚平を擦り、布を繊維へと変貌させる。
「あははははは!それそれ!私の手の内で踊りなさい‼︎」
相手から伸びた靄が足元まで伸び、そこから自身めがけて無数の棘が伸びる。
–––––玖の型 水流飛沫・陣
足元から伸びるそれらを瞬時に把握し、先を読ませないために不規則に飛び回って背後へと後退する。直後、正面から押し寄せる棘を見て軽く息を吸って跳躍する。
–––––水流飛沫・跳魚
空に舞い上がった自分は、それでも速度を落とす事なく鬼へと向かう。
「よく避けます!ですがこれならどうですか!」
空に舞う自分目掛けて靄から幾多もの棘が伸びる。身体を捻る事で何本かは避ける事ができるが、中には直撃するものが存在している。それらを切り落とすために鈴を鳴らし、大太刀を振るう。
「な、に⁉︎」
––––––が、その黒い棘に刀が通る事なく、そのまま棘に横薙ぎに叩きつけられる。ガキンと鈍い鋼の音を立てながらそれを防ぐが、勢いを殺しきれず地面に激突する。
「ガッ…⁉︎」
肺から酸素が無理やり吐き出され、視界が明滅し意識が一瞬離れる–––が、背筋の感覚に従い即座にその場から飛び上がる。その数瞬後、自分がいた所に棘が突き立てられる。
尚も追撃してくる棘を日輪刀で弾きつつ土埃を立てながら大きく後退すると、曲芸師のような鬼は下卑た笑みを浮かべる。
「貴方のような小さな剣士の筋力では私の血鬼術『
薔薇の蔦のように靄がうねうねと棘に変形する––––確かに、あの硬さは本物だ。
「–––と言うより、どうして貴方は眠っていないんですか?私の術にかかった者はすべからく眠ると言うのに…」
小首を傾げる鬼に言葉を返す事無く、土埃を立てながら疾走する。地面を踏み抜き、足跡をいくつも作りながら刀の間合いに鬼を入れる。
「ですから、貴方では私に勝てないんですよ」
日輪刀を振り抜こうとする直後、目の前に黒の棘で作られた壁が立ち塞がる。その壁から無数の棘が向かってくるのを見て反転し、不規則に後退する。
「––––厄介だな」
頰に一筋の汗が流れ、裾で一度拭う。
縦横無尽に張り巡らされた棘が行く手を阻み、肝心の本体まで刀の間合いを詰めきることが出来ない厄介な血鬼術。しかもその棘が超硬度であり、自身の筋力で切ることは難しい。加えて、蝶屋敷にいる隊士の増援は期待出来ない––––首を断つのは、どうやら難しいようだ。
「さて–––––––そろそろ時間も押していますし、本気で殺させてもらいましょうか‼︎」
再び鬼の身体が靄に包まれ、そこから数にして十二の棘が向かってくる。
–––––参の型 流流舞い
身体を棘の間に入れ込み、隙間から刀を振るう。当然断ち切ることは出来ず刃が弾かれるが、軌道を逸らされた棘は地面へと突き刺さり多くの穴を作り出す。
「えぇい、ちょこまかと‼︎」
–––––水流飛沫・陣
さらに増えてくる刺々を、今度は切るのではなく動き回る事で避けていく。空から降り注ぐそれらに一本も掠る事なく地を駆け、瞬く間に棘の範囲から抜け出す。
「うざったい猿のようですね…!」
額に青筋を浮かばせる鬼を見て、小さく息を吸う––––首を切る事が難しいのであれば、蝶屋敷への侵入を防ぎつつ耐久し、朝日が昇るのを待つか柱の増援を待てば良いだけだ。
「鴉‼︎」
自身が叫ぶのと同時に「カァー‼︎」と鳴き声が聞こえ、自身の真上で鎹鴉が羽ばたく。
「付近にいる柱、及び丁以上の隊士に緊急招集‼︎蝶屋敷襲撃との伝令を出してくれ‼︎」
「リョーカイ!リョーカイ‼︎」
「させるものですか‼︎」
靄から三本の棘が鴉へと向かうが、それらを刀の峰で全て叩き落とす。鴉が空へ羽ばたいていくのを見て、再び正面の鬼を見据える。
「––––朝日が昇るまで付き合って貰うぞ、畜生」
「浅はかな猿めが……‼︎図に乗るな‼︎」
激昂する鬼の周りに靄が広がり、そこから数えるのも億劫なほどの棘が出現する–––––これは中々、骨が折れそうだ。
「貴様の首を塩漬けにした後、玉壺様に献上してくれる…!」
靄から一斉に棘が放たれる。天高く昇る月を見て長期戦になる事を覚悟し、日輪刀を振るいながらその中へ疾走して行った–––––––。
小屋内権兵衛
六尺半に及ぶ大太刀を用いる鬼殺の剣士。水の呼吸を使用しているが、その刀の特色から通常の型とは大きく異なっている。鍔には二つの鈴が付けられ、振るうごとに鈴の音を響かせる事から他の鬼殺隊員から「鈴鳴りの剣士」と呼ばれ、多くの隊員に知れ渡っている。一部の隊士達の間では鈴が鳴っているのではなく刀が鳴いているのだと密かに話されているが、その確認は取れていない。
彼の鬼殺公式記録は怒涛の二百二体を誇り、一年という短さでこの討伐数は歴代の鬼殺隊の中でも群を抜いている。その功績から現役の柱達から多くの推薦を受けているが、自らの矜持を基にそれを断っている。
文字数について
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