兎の事件から一ヶ月程たったある日の午後――。
裏庭の隅に、少女 絢辻詞の姿があった。彼女の前には、兎の小さな墓がある。あの日、御召し物が汚れるのも厭わず兎の亡骸を膝に抱えた「心優しい詞お嬢様」に感銘をうけて使用人達が作ったものだ。先日、警備の警戒体制が解かれて、漸く絢辻詞は庭へ出る事が許されたのだった。
兎の小さな墓を見ながら、絢辻詞は考える。今回の事で大きな発見がいくつもあった。最大の発見は、物心つく前から叩き込まれた、社交の場での振る舞い方が、人心の誘導や掌握など権謀術策に非常に有効であったという点だ。
絢辻詞は、人の注目を集めたり、思う通りの印象を相手や周囲に与えたりといった、これらの技術を自分の為に使った覚えがない事に気が付いて驚愕した。今まで社交の場や接待でのみこの技術を使い、他に応用する発想を全く持ち合わせていなかったのだ。いかに自分が親に洗脳されていたか気付いて、絢辻詞は慄然とした。
そして、やはり自分は何事か起きないと気付けない愚鈍な人間なのだと、少し落ち込んだ。しかし、たとえ自分が愚鈍なカメであっても前に進む事を止める気は無かった。そう――お伽話の「うさぎとカメ」のカメのように。愚鈍なカメにもカメなりの意地があるのだ。
もう一つは、思っていた以上に自分が、権謀術策に長けていたという点だ。やると決めたからには、下手に罪悪感を感じて躊躇などしては、墓穴を掘ってそれこそ身の破滅となる。今回、果断な対応に終始出来たのは、新たに開花した嗜虐性向のお陰だった。
絢辻詞は、兎の小さな墓の前にしゃがみ込んで、手を合わせた。海運グループ会長による強姦未遂事件以来、絢辻詞は自分を守る「力」になる物をずっと探していたが、まさか、既に自分の中に備わっていたものが、武器になるとは思ってもみなかった。今回の件は思いがけず、それを気付かせてくれた。
「あなたのおかげだわ……」
彼女は小さく呟いた。
これまで絢辻詞は、表の顔しか持っていなかった。それは社交の場で自身に課せられた役割を全うする為に、必然的に生まれた仮面だった。どんなに辛い時でも、たとえ心では泣いていたとしても、相手を魅了する笑顔を作り、完璧な作法で対応する為の仮面だ。
今回の事で絢辻詞は、新たな仮面を持つに至った。それは自分を守る為に権謀術策を果断に行使する、嗜虐性向の裏の仮面であった。
そう、それはあくまで仮面である。
身近な者にも「詞お嬢様としてあるべき」姿をして見せているのであって、本当の自分を他人に見せた事など一度もない。偽らない本当の自分を誰かに見せるなんて、そんな時は来るのだろうか。小さな絢辻詞にはわからなかった。
絢辻詞は立ち上がり、長い真っ直ぐな黒髪を翻して兎の墓に背を向けると、一度も振り返らずに裏庭を後にした。
――以来、少女が庭に立ち入ることは無くなり、小動物への虐待もする事はなくなった。