書斎をでた絢辻詞は、一目散に自室に駆け込み、ベットの中に潜り込んだ。彼女を見とめた使用人が様子を見にきたが、「へいき!ほおっておいてっ」と追い返した。しばらくして、老人は「悪戯が過ぎた。謝っておいてくれ」と言伝をして帰ったと、使用人がドアの向こうから知らせてきた。絢辻詞は、自分や姉の置かれた状況、親に仕組まれたかもしれない可能性など全てを理解し、ベットの中で声を出さずに泣いた。
一頻り泣いた後、少女はこれからの事について考え始めた。先ず親は助けにならない――あと助けを乞うなら姉だが、今の姉では駄目だ。昔の姉は聡明で美しく、小さい絢辻詞にとって憧れの存在だった。姉はあまりにも全てを持っている為に、自分の矮小さを感じて近くにいるのが辛い程だった。
そんな姉がある日を境に変わってしまった。聡明さは陰を潜め、ただニコニコと愛想を振りまき、ふわふわと暮らすだけの女になってしまったのだ。姉の豹変 に彼女はおおいに混乱し、訝しんだが、絢辻詞は今日、自分の身に起きた事によって、姉がどうしてあのようになってしまったのかを理解した。自分と状況は違いながらも、おそらく姉はある時、全てを悟ってしまったのだ――事が起きなければ気が付けない愚鈍な自分より、遥かに聡明だった姉が気が付かない訳はない。そして、周りに誰も自分を助けてくれる人が居ないと理解した姉は、目を閉じ考える事をやめるのを選んだのだ。その答えを導き出した姉の絶望感たるや如何程であったことだろう。
姉は生きたまま死んでしまった。しかし絢辻詞は、姉と同じ選択をする気は毛頭なかった。何も知らずに姉の背中を追いかける平穏な日々は、はからずも終りを告げた。全てを知ってしまった今、これからは自分一人で前に進んでいかなくてはならない。絢辻詞は考える、その為には力が必要だ。降り掛かる厄災を振り払う力が。
改めて今日の出来事を思い返す。危ない所だった。あと少しの所で、あの破廉恥漢の老人に凌辱されていたのだと思うと、考えるだけで虫唾が走る。獲物を呑み込む爬虫類のような目をしていた老人が、反撃を受けて一転、怯懦の表情を浮かべた様は溜飲が下がる思いだった。
しかし、自分に顔を踏み付けられている時に、老人がなぜ恍惚の表情を浮かべたのか、少女にはまったく理解出来なかった。後に判明する事だが、老人はペドフィリアであると同時にマゾヒズムでもあった。老人は思わぬ反撃に始め動揺したが、天使のように美しい幼女に足蹴にされるという、理想ともいえる奇跡的なシチュエーションに、思わず我を忘れ陶酔してしまったのだった。
ほおを桃色に染め、大人である自分を物怖じもせず足蹴にする美少女のなんと凛々しく可憐で愛くるしいことか――この日「落ちた」のは、絢辻詞ではなく、老人の方であった。絢辻詞を「お仕え」すべき女王様と見初めた老人は、その後、彼女の資金面における大きな支援者となっていくのだが、この時の絢辻詞はまだ知らない。
また、老人を足蹴にしていた時に自分の中で蠢めく、今まで感じたことのない感情を絢辻詞はどう受け止めていいのか思い倦ねていた。老人のマゾヒズムが絢辻詞の嗜虐性向を開花させてしまった事に本人もまだ気付いていなかった。
夜が更け、さらに空が白み始めるまで彼女はこれからの事を思案し続けた。