死の香りを運ぶ不吉の吉兆は同時に
互いの哀しみを埋め合う
愛おしさを知った。
青年と少女
霊感が無くなる。味覚が無くなる。嗅覚が無くなる。聴覚が無くなる。触覚が無くなる。視覚が無くなる。
ふたつの熱線を浴びたキャスターは、耐えきることもできず、何とも呆気なく熱量に呑み込まれ、蒸発して消えた。
記憶が薄れて行く。仲間の名も忘れる。相棒の名も忘れる。家族の名も忘れる。故郷の名も忘れる。自身の名も忘れる。
次の瞬間、クロウはあの真っ暗な世界に堕ちていた。掴むものは何もなく、闇に呑み込まれていくゾーエとズーハオ、何も無い空間に吸い込まれるようにその場から消え去って行った藤丸を目にしながら、ただひたすらに堕ちて行く。
感情が薄れて行く。怒りが失われる。悲しみが失われる。情けが失われる。慈愛が失われる。嫉妬が失われる。恋情が失われる。喜びが失われる。
もう なにも わからない
じぶんが じぶんである こと さえも
じぶん じぶんとは いったい だれ だれとは いったい なに なにとは いったい
ああ さむい こわい いやだ きえて いく おれが きえて
だれか だれか だれか だれか
たすけて たすけて たすけて たすけて
しに たく ない
だれか しにたくない だれか たすけて だれか
――誰か!
「マスター! 手を! 手を伸ばすんだ!!」
不意に、鴉の羽音がした。耳ではない。心に。いや、心ももう亡い。ならばきっと、魂に。失われた視覚が、目の前に揺らぐ黒色のリボンを捉える。
「今度こそ離さない! 離して、たまるものか! さぁ、手を!」
手とは何か、もうわからなくなっていたが、必死にその声に縋る。
「あぁ、あぁ! 掴んだ! 掴んだぞ、マスター! ありがとう! もう二度と離さない! おかえりなさい、私のたった一人のマスター!」
誰かも、もう思い出せない。でも、とても大切な、忘れちゃいけないはずの声だった。同じ声をどこかで聞いた気もするが、問題はそこじゃない。もっと本質的な意味で、忘れちゃいけない声だった。
「すべて『彼女』から聞いた! ……『私』と違って『彼女』はそちらでの召喚記録も覚えているから。無理をさせたな、マスター。ありがとう、心からの賛辞と感謝を。そして――ごめんなさい。」
温かな感覚が最早跡形もない全身を覆い包む。それは直感的に理解した。それは抱擁だった。まるで母親が我が子にするような、無茶をして帰ってきた息子に与えるような、そんな。
「帰るぞ、マスター。……まだ自意識はあるのだな。良かった。ならばアサシンと同様の手法でマスターを『こちら側』へ呼び戻そう。」
瞬間。意識が断絶する。最後に見たのは、鴉羽のような色の魔力の奔流。
気が付くと、クロウはロシア、モスクワ郊外に建つアインツベルンの宮殿、その応接間のソファに腰掛けていた。目の前には、アサシン――シモ・ヘイヘという名の幼女がニヤニヤ顔で床に腰を下ろしつつ、クロウを見つめていた。
「よう、
すべてを知っているかのように、アサシンはモシン・ナガンを手に取り、立ち上がる。
「うまくやれたみてぇだな?」
「全部……。」
「夢じゃねぇよ。」
クロウが言いかけた言葉を遮り、アサシンはその想像を否定する。気を失っている自身のマスターを平手で叩き起こしながら、言葉を続ける。
「全部現実さ。あたいは
キシシ、と笑ってアサシンはついでと言わんばかりにクロウの向かいのソファで気を失うアインツベルンの娘、レイラの頬をぺちぺちと叩く。
「知ってるのか? 向こうでのこと。」
「うんにゃ、なぁんにも。でもあたいが無事に記憶を全部持ったまんま起き上がれたんだ、全部うまくいったって考えるしかねぇだろ。それよりほれ、お前さんにはもっと話すべき奴がいるんじゃねぇの?」
その指摘を聞き、クロウは咄嗟に右横に腰掛けていた『彼女』の方を向く。
「――嗚呼。おかえり、マスター。」
その声を聴いただけで、なぜかクロウの眼球の奥から熱い液状の何かがこみ上げ、次々に目尻から溢れて止まらなくなる。
「なんだなんだ、暫く会えなかったからって、そんな幼児のように涙するなど。みっともないぞ、マスター。」
「だって……だって……っ!」
「辛い思いをしたのだな。悲しい思いをしたのだな。だが安心しろ、私はここにいる。お前のたったひとりの相棒、たったひとりの味方だ。顔を上げろ、マスター。」
「――うん。うん、ただいま、ただいま……! ただいまっ……!!」
クロウは泣きじゃくりながら、彼女の瞳を正面から見据え、精一杯の気力で彼女のクラスの名を呼ぶ。
「ただいま、セイバー!」