第4話 紅い空
魔理沙が霊夢に言い負かされて逃げ帰ってから、数日が経ったある日。
その異変に最初に気づいたのは、他でもない静哉だった。
「霊夢、なんか空が紅くないか?」
「そうね、紅いわね」
霊夢は煎餅を噛み砕きながら、事も無げにそう言ってのけた。
「えっ、これって普通なのか⁉︎ 俺の感覚がおかしいだけ⁉︎」
そのあまりにも自然すぎる態度に、静哉が取り乱す。
「いいえ、空が紅くなったのは初めてよ。何かあったんでしょうね」
「…………『空が紅くなった』のは?」
静哉は鋭い視線を霊夢にぶつける。
「そんな睨まないでよ。こういう現象は、ここ幻想郷じゃ珍しくないのよ」
静哉は驚愕した。自分がいるこの場所が、幻想郷という名前だったことに。
見当外れのことに驚く静哉だが、それも仕方がなかった。霊夢とって、この世界の名を知っているというのはあまりにも当たり前のことだったため、教えるという行為そのものが頭から抜け落ちていたのだ。
しかし、そんなことはおくびにも出さない静哉だった。
「幻想郷じゃ珍しくないっていうのはどういう意味だ?」
「ここはね、忘れ去られたまたは忘れられそうな存在が流れ着く場所なの。まぁ、妖怪や妖精達がその代表みたいなもんよ。そして、私がこの幻想郷のバランスを保つ博麗の巫女ってわけ」
「忘れ去られた、か……。………………じゃあ、俺の持ってきたお金は使えないんじゃないのか?」
静哉は抱いた疑問を口にした。
もしやお金を渡して喜んだのは、霊夢の善意による演技ではないのか。自分はそれで感じていた自責の念を薄れさせて調子に乗っていたのではないか。
一度頭をよぎった疑念はなかなか消えず、静哉の心を蝕んでいく。
自分は相手の善意の上に胡座をかいて、更にはそんな優しい人物を微笑ましい無知な子供の如く見ていたのか。
ああ、なんて自分は愚かで人の機微に疎いのだろうか。
「——気にしなくていいわよ」
自分を責め続ける静哉に、霊夢はあっけらかんとそう言った。
「で、でも……」
「うじうじしないの。大丈夫よ。私の知り合いに幻想郷と外とを行き来できる奴がいるから、そいつに両替してもらうつもりだし。だからそんな申し訳なさそうな顔しないの。あんた、私より年上でしょ」
「うぅ、ありがとう…………ありがとう、霊夢」
静哉は感謝の気持ちが溢れ出て涙が止まらなかった。
世界にはこんなにも優しい人間がいたのかと。
そして、決意する。自分は何があっても霊夢の味方になろう、と。
だがしかし、この決意は数秒後に揺らいだ。
「はいはい。ほら、これで顔拭きなさい。あんた、今酷い顔よ」
「あ、ありがとう……」
静哉は霊夢から手渡された布で顔を拭いた。
しっかりと目元と鼻周り、口周辺を拭いた後、霊夢があっと声を発した。
「ごめん。それ、床を拭いてる雑巾だった……」
「ギャー!」
静哉は手に持っていた雑巾を床に叩きつける。そして顔面がどうにかなってしまいそうな気がして、掌で顔を擦った。
その光景を、霊夢が指を差して笑う。
「あっははは、あんた元気になったじゃない!」
「ま、まさか、雑巾ってのは嘘……?」
「いや、本当だけど?」
「ギャー! ギャー! ……いやいや、こんなことしてる場合じゃないよ! 空が紅いんだって!」
「はいはい、分かったわよ。私の出番よね。行ってくるわ、行ってくるわよ」
霊夢が面倒そうに立ち上がる。しかし、その霊夢の手を静哉が掴んだ。
「待ってくれ、俺もついて行く」
「あんた、本気で言ってる? たぶん、いや絶対に死ぬわよ?」
霊夢は本気で静哉の身を案じていた。
相手が加減したとしても、静哉は弾幕の存在すら知らない外の世界の人間だ。
一方的に嬲られるのがオチだろうと霊夢は推測したのだ。
それに助けた人間のそんな姿は、見たくない。
「だ、大丈夫だ! 問題ない!」
「その残像が見えるくらい震えてる膝をどうにかしてから言いなさいよ……」
霊夢が半目で静哉の膝を見る。
言葉通り静哉の膝はどうしようもないくらい震えていた。それが、静哉は恥ずかしかった。
自分より年下の少女に恐がってると思われるのは、僅かばかりの男としてのプライドに発破をかけるのには十分すぎるくらいだった。
「よし、もう大丈夫だ! 行こう!」
「ところで、あんたどうやって元凶のところまで行くつもり? 私は空を飛ぶ気なんだけど……」
「…………」
「…………」
「…………」
「……安心しなさい。私も一緒に行ってあげるわ」
静哉は絶望した。自分は無意味に無計画に彼女を引き留め、そればかりか彼女に気を使わせてしまう自分が、いっそ死にたくなるくらい情けなく感じた。
だが、立ち止まってはいられなかった。
空を覆う紅い何かは、きっと人々を困らせている。
そして、霊夢にはそれをどうにかできる力があり、自分は霊夢に助けられてばかりなのでここらで一つ、役に立たなければ彼女に申し訳が立たない。
「ありがとう、霊夢。じゃあ、行こうか」
「ふふっ。ええ、ついて行ってあげるわ?」
霊夢が悪戯っ子みたいに笑いながら、静哉の隣をふわふわと浮遊していた。
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