ORCHO-PASS PAGES of MEMORY Page.1 「最弱の教官」 作:マクギリシマ
壁にかけたアナログ時計の秒針の音が刻む、一定のリズムだけが淡々と響く。そして針は2時17分を指していた。
「やっぱ左が弱いな…。」
照明を一箇所だけ灯らせた薄暗い部屋の中、御留我はひとり呟いた。
十二月も末。年の瀬が近づいてきた真夜中、御留我は自室で数日前に買ったばかりの新品のサンドバッグと対峙していた。夜は冷え込むが、御留我はネイビーのトレーニングウェアに汗を滲ませていた。
縢と特訓を始めてからしばらく経ち、身体訓練の習慣が御留我の生活の中に染み付いてきていた。最近は深夜に時間を取り、自主トレーニングをするようになった。いつも使うトレーニングジムは夜中は閉まってしまうため、御留我はサンドバッグを購入し、自室の天井から吊り下げた。思いの外高価で、今月末発売だったコードギアスのアニメ新章スペシャル視聴パッケージの予約を泣く泣く諦めることになった。
今日は日勤で夜には職場を上がり、カフェテリアで夕飯を済ませたあとは宿舎に戻り、そこから今まで延々と自主トレーニングをしていた。縢が毎度訓練のたびにくれるアドバイスや、自身で見つけた反省点を復習することにしたのだ。御留我の特訓に向き合ってくれている縢の期待に少しでも応えなければ筋が通らない。そう思い始めていた。
明日は朝から捜査会議が待っている。早く寝なくてはと思いつつも、ここでやめるとすべてが無駄になってしまうような根拠のない不安が絶えず付きまとい、御留我の背中を押していた。
ここで足を止めるわけにはいかない。
「もう一回やってみるか…。」
腕ではなく、肩から動かす。
出したら引く。
殴る方と逆に重心。
視線は常に相手へ。
縢に教わったコツを意識しながらサンドバッグを殴りこむ。
ボスン、パスンと重い音と抜けた音がまばらに鳴り続けた。
ひときわ強い力を込めて右フックを繰り出す。すると直後、体が右によろめき足が縺れてしまった。
「っとっと!」
転ばないよう、右足で何度かケンケンを踏むような状態で体制を戻した。
やはり重心が右に寄っているのが直らない。特訓を始めた時期からずっと見えていた課題で、未だに克服できていない。
まだ微かに揺れるサンドバッグを睨み、御留我は深い溜め息をついた。
何度意識して練習しても変わらないことへの苛立ちと、縢に迷惑をかけ続けることへの後ろめたさに頭を犯されそうだ。
これさえ直ってくれれば、これさえ克服できればどんなに気が楽だったろう。
そんなことを考え始めやり場のない怒りを覚えたことを自覚すると、御留我は一つ深呼吸をした。
深夜だからだろうか。情緒が不安定になり始めている。
休憩しよう。一度水を飲んで、汗を拭いて…それからもう一度練習しよう。
足元に無造作に置いたタオルを拾い上げ、冷蔵庫の方へ歩いていった。
2時52分。御留我の頭の中に、今夜はもう切り上げるという選択肢は浮かんでもいなかった。
「…ルガ」
ぼんやりする意識の中、遠くから微かに声が聞こえた気がした。
「御留我、聞いているのか!?」
鋭い怒号で御留我ははっと我に返った。顔を上げると、オフィスの奥からこちらを睨みつける宜野座監視官が目に入る。シワ一つ無い黒のスーツをピシッと着こなし、堅苦しそうにネクタイを上まで締めている。
どうやら居眠りをしてしまったようだ。
会議中の緊張感が漂う刑事課オフィスの中、御留我は冷ややかな視線を浴びる。
「ああ、聞いてた聞いてた。ちゃんとわかってるぜ。」
わかっているわけがない。聞いていなかったのだから。
確か最近台東区で増えている火災に放火の可能性が出てきたという話だったか。
刑事課1係は朝から呼び出されて捜査会議だ。呼び出されたとは言っても、今日はどのみち皆勤務日だったため、なにか損があるわけではないのだが。
「寝不足なのか?」
向こうのデスクに座る狡噛が聞いた。
「いや、まあな。ちょっと深夜番組があって。」
「アニメなら配信でいつでも見られるだろ。」
「リアタイがいいんだよリアタイが。」
呆れた様子で口を挟んだ宜野座に、御留我は大きなあくびを交えて反論をした。
しかしこれは真っ赤な嘘だ。寝不足の原因は明白。最近の自主トレーニングのための夜更しだ。第一アニメはリアタイ派なわけでもないし、ニコニコのプレミアム会員であるため宜野座の言うとおりいつでも見られる。勤務中でもだ。
「今日朝からだってのは知ってただろ。寝とかなきゃ堪えるって思わなかったのかい?」
宜野座と同じく呆れた様子で征陸が聞く。
「マッさん、夜更しってのは気づかないうちに時間がすぎるもんだ。時計見たときはもう3時半なんだよ。」
本当のことを言うつもりはない。縢本人にもこのことは伝えていないし、もしここで言ってしまえば、縢の責任問題にもされかねないからだ。
しかしそれにしても、昨日は流石に遅くまでやりすぎた。今とてつもなく強い睡魔に襲われて初めて後悔する。
「話に戻るぞ。御留我、寝るなよ。」
宜野座が静かに言い放つと、一同は正面に向き直った。
「今月二つ目の火災現場では可燃性ガスが充満していたが、その成分を分析したところ都市ガスとは異なることが…」
宜野座が再び話し始めるとすぐに、御留我は再びうたた寝を始めた。
頭をコクリコクリとさせる御留我を横目に、
「毎晩聴こえてんだぜ、サンドバッグの音。俺の部屋隣だって忘れんなよ?」
と囁いたが、そんな縢の声は、舟を漕ぐ御留我の耳には届いていなかった。もちろん、その時縢がどことなく嬉しそうな表情をしていたのも。