ORCHO-PASS PAGES of MEMORY Page.1 「最弱の教官」 作:マクギリシマ
「1階はクリア、誰もいない。俺はいるぞ。」
無線通信で宜野座に伝える。
「了解。お前がいることは言わなくていい。2階に行くぞ。」
宜野座がそう応答した。
御留我は廊下の向こう側にいた縢と合流し、非常階段へ向かう。
二人で階段を駆け上がっていると、縢が口を開いた。
「お前、なんでそんなに熱心になったわけ?」
「何にだ?」
「特訓だよ。最初あんな渋々だったくせに。1週間でリタイアすると思ってたんだけど。」
唐突な問いに御留我はきょとんとした。
「え、そりゃあ…縢が特訓に本気だったからだよ。」
縢のノートを盗み見たことを知られまいと、御留我は言葉を濁した。
「はぁ?んなわけねぇだろ。」
縢がそう否定した途端、御留我は堪忍袋の緒が切れような気がした。憤ってはいないのだが、納得がいかない。御留我の特訓に縢が本気ではなかったということに対してではない。むしろそれは嘘だと思うし、縢がそういうふうに彼自身の努力を否定したことが気に入らない。
「それは違うな。」
後ろにいた縢の顔は見えなかったが、驚いて目を見開いたのがわかった。
御留我は続ける。
「お前は普段不真面目に見える。だが誰かが必要としたとき、それに本気で応えてくれる。真正面からぶつかって、向き合ってくれる。どっかに辿り着かせてくれようと全力で引っ張ってくれるんだ。だから俺は…」
「るせーな、ごちゃごちゃと。」
縢がそう遮り、今度は御留我が目を見開いた。
「御留我、一つ聞いとくけど、先に本気で来たのはお前の方だって自覚ねぇの?」
「?」
御留我は唖然とした。
「お前はすぐ死ぬし、致命的に弱くて特訓でどうにかなる見込みだって低かった。それお前だってわかってたくせに、格闘なんてわかんないくせに、がむしゃらに足掻いてしがみついてきやがって。そんなことされちゃこっちも後戻り出来ねぇのよ。」
縢は一見苛立っているような口調で話していた。しかしその言葉には確かに、それとは相反する感情が込められていた。
「俺はガキの頃からずっと厚生施設に閉じ込められて、そこよりはマシだから執行官になった。それでも潜在犯って格付けされてる限りそれ以上何も求められないって踏ん切りはつけてるつもりだった。けどお前を見てると行ける気がしてしょーがなくなる。ここじゃないどっかへ行けるんじゃないかってな。お前の無茶のおかげで俺も夢が見れるんじゃないかって思っちまうんだよ。」
昔どこかで朧げに聞いたことのあるような言葉。記憶の中から引っ張り出せないが、大切な奴に、心から信じられる仲間に言われた気がする。
「そうやってお前は…。」
御留我はふっと口元を緩めそう呟いた。
二人が2階につき、廊下を移動し始めた時だった。
「おいコラかかってこいよ公安のおまわりさんよぉ!!」
マンションの表の方、それも階下から荒々しい男の声が響いた。
御留我はすぐに宜野座と連絡をとった。
「ギノ、何があった?!」
「細川がマンションの外にいる!ベランダから避難梯子を伝って降りたらしい。」
切羽詰まった声で宜野座が答えた。
御留我と縢は同時に走り出した。
「オラァ、そこにらへんにいんだろぉ?!撃ってみろよ。俺がこのライター落としゃここ一瞬で焼けるぜぇ!!」
避難梯子とは不覚だった。だがそれならば、なぜ逃げずに痰呵を切っているのだろうか。
その疑問は縢の推察ですぐに解消した。
「野郎、俺たちがまだ潜入する前だと勘違いしてるらしい。刑事の姿が見えないもんだからどっかに隠れて待機してるとでも思って、ああやって脅しにかかろうとしてるんだろうよ。」
流石の洞察力といったところか。こういった瞬時の現場の判断においては、狡噛にも劣らぬ刑事の勘を備え始めているのだろう。御留我にはまだまだ真似できない芸当のようだ。
階段を降りきりマンションの正面へ出ると、そこにはグレーのパーカーを着る男が右手に火のついたライターを掲げる姿があった。そしてその先にはドミネーターを構える宜野座監視官。
「ライターの火を消して投降しろ!!」
すかさずこちらも銃口を向ける。網膜投影画面に犯人の犯罪係数が表示され、ドミネーターの淡々とした指向性音声が耳に響いた。
<犯罪係数:オーバー300。執行対象です。執行モード:リーサル・エリミネーター。>
300を超えた高い犯罪係数を計測し、ドミネーターは青緑色の光を発しながら変形を始めた。薄い箱状だった簡体が展開しながら、幾何学型に切り取られた形状の部品が次々とスライドし、回転する。およそ3秒もしないうちに、重黒い銃は棘を露わにして殺人兵器へと変貌した。このエリミネーターに変形したそのときは、執行対象を撃って身体を細切れにし、確実な死を与えるということを意味する。
だが御留我も縢も、そして犯人を挟んだ向こう側にいる宜野座もその引き金を引くことを踏みとどまった。その理由は共通だった。
ライター火をちらつかせて威嚇する男の足元には大量のガソリンのようなものの水溜りが広がっていた。そしてマンションの正面側には可燃性ガスが充満しているのがホログラム照明のおかげでかろうじて目視できた。そして何より、わめき立てる男の遥か頭上、マンションの3階に親子が見えたのだ。
「ホラホラァ!!撃ったら俺と一緒にあの親子死ぬよ?善良な市民もろとも殺すんですかァ?!」
3階のベランダから顔を出す親子。母親と娘だ。恐らく人質にされ部屋に立てこもられていたのだ。娘はまだ五歳ほど。母親に抱かれて大きな泣き声を上げている。
「くそっ…。」
まだ切っていなかった無線通信越しに宜野座の声が聞こえる。
とんでもない膠着状態に陥ってしまった。できることならあの母娘に静かに部屋から避難して裏口から脱出してもらいたいところだが、娘があんな状態だ。犯人に気づかれて火をつけられでもしたらひとたまりもない。
「私はいいです!だからこの子だけでも助けてやってください!!」
母親は恐怖に耐えながらも毅然とした態度で犯人に訴えた。しかし母としての勇ましさも凶悪犯の前では無意味だった。細川は聞く耳すら立てずにこちらを睨みつけている。
「ギノさん、俺が裏からこっそり助けに行く。だから二人はもう少しこの場を保たせられるかい?」
「よし、こっちは奴の気を引く。慎重に行けよ。」
縢が小声で宜野座に通信すると、三人は事態の打開へと踏み出した。縢はドミネーターをそっと降ろし、ゆっくりとマンション内へ引き返し始めた。
「そちらの要求はなんだ?!」
犯人の気を引くためそう宜野座が叫んだとき、三人は目を疑った。
細川が火のついたままのライターを後方へ投げ捨てて一気に駆け出した。こちらが隙を突かれたのだ。
油の中に落ちた小さな火は立ち上るガスを伝ってまたたく間にマンション全体に広がり、夜の闇に大きな炎を浮かび上がらせた。
宜野座は一瞬うろたえる素振りを見せたが、すぐに逃げた犯人を全速力で追っていった。
「御留我、俺たちも追うぞ!」
「ああ。」
そう答えて走りだそうとした御留我の耳に悲鳴が届き、驚いてその声の方を見上げた。
視界の先には燃えさかるマンションの3階のベランダ。炎の向こう側で声を上げる母娘の姿があった。
「助けてください!!この子だけでも、この子だけでも助けてやってください!!」
御留我は目を見張った。まだ生きていたのだ。
束の間の安堵感を抱くと同時に、絶望的な状況に息を呑んだ。
「おい御留我、早く追いかけるぞ!」
「まだあの親子が上にいる!」
「消防に任せりゃいい!俺たちも早いとこ離れないとやばいぞ。」
縢も親子の姿をみとめてはいたようだが、救助するという選択肢はないと言った。消防の到着まで親子の命が持つはずもない。それを承知の上で縢はそういう判断をしたのだ。
御留我は納得がいかなかった。
いますぐそこで助けを求めている人を置いていって何が町の治安維持だ。
御留我は炎の壁を見上げ、出し得る限りの知恵を絞り出した。
「ここからベランダを登って3階まで行って、親子の抱えて飛び降りればなんとか…」
「馬鹿かてめぇ?!そんなことできるやつがどこにいるんだよ!?」
自分でも無茶苦茶だとはわかっている。プランなんて到底呼べる代物ではない。今隣にスパイダーマンがいるか、あるいは右手に寄生獣の相棒が住みついていたりでもしない限り。
縢は踏み留まろうとする御留我に急くように言った。
「階段からダッシュで行ったとしてもどのみちこの火の回りじゃ間に合わねぇ。ましてお前の言った方法は無謀なんだよ!第一誰が出来るんだ?お前か?お前がやるのか?!3階から飛び降りるなんて、お前は生き返っても親子が無事なわけないだろ!!だったらせめて被害を最小限に…」
「少しでも助かる可能性があるかもしれねぇ命を諦めて、それで俺たちは刑事を名乗るってのか!?」
御留我は思わず、縢の胸ぐらを掴んで怒鳴りつけた。縢はあまりの唐突さに言葉を失い、唖然とした。
「お前はそこで待ってろ!俺が親子を連れ出したら、安全圏まで運べ!!」
そう口走ると、御留我はポカンとする縢を放してマンションの方へ駆けていった。
炎はいよいよマンション全体を飲み込み始め、夜空に緋色の壁を立てたようになっていた。
御留我はもう一度目測をする。
まず火の回りが少ない角の方からベランダを伝って3階までよじ登る。母娘を抱えたら、そのまま自分の背中を下にして飛び降りる。それも直下に広がる火の海を避けられるだけ遠くの地面まで。
言葉にしてしまうのは簡単、いやその言葉でさえも不完全すぎる。実現できるビジョンが全く見えない。しかしもう時間はない。
娘は相変わらず大声で泣き叫び、母親は地上にいる御留我を不安そうな目で見下ろしていた。
御留我はここに来て気が動転し始めた。頭の中の整理がつかない。思考が停止する。頭上の母娘を見つめたまま身体が動こうとしない。視界が狭くなっていく。妙な汗が湧き出てくる。呼吸が荒くなる。
その時だった。
「助けてください!!この子だけでも、お願いします!!」
「御留我!!下で俺が受け止める!」
母親のひときわ強い声と、背中からの縢の声が同時に響き渡った。
「だから一瞬でいい、俺が入り込める隙を作れ!!」
刹那、御留我の心臓が大きく脈打った。今まさに覆いかぶさろうとしている炎は、さながら斧を振り下ろさんとする巨大な死神のように見えた。炎の中の母娘に別の人物の姿が重なった。長い金髪の女性と小さな女の子。どこか見覚えのあるその背中は、勇ましかった。
ガッ。
気がつくと御留我は、硬い地面を力一杯蹴り出していた。凄まじい熱気の中、塀をひとっ跳びで跨ぎ、コンクリートの壁面に飛び移った。ベランダの縁に手をかけ両膝のバネを最大限に伸縮させ、地を駆ける獣のごとく垂直の壁を登っていった。
思考は驚くほどはっきりしていた。しかし御留我は敢えて何も考えないようにした。
自分でもどうやってこんな動きをしているのかわからない。ただ頭で考えるよりも先に、身体が目にも止まらぬ速さで動く。骨がひしめき、筋肉が張り裂けそうになる。
一瞬たりとも止まってはいけない。
そう強く感じていた。止まってしまえば、そこからもう二度と動けないような気がしてならなかった。
御留我は数秒のうちに3階にたどり着き、炎の中を進んだ。
「あ、あの、この子だけでも、お願いします!」
御留我の姿をみとめた母親は声を震わせながら、泣きじゃくる娘を差し出そうとした。母娘の周囲は完全に火が回り、残された人一人分ほどの空間にかろうじて立っていた。可燃性ガスが絶えず燃焼する中で、スプリンクラーはもはや役目を果たせていなかった。
御留我は聞く耳を一切立てずに、そして立ち止まる間もなく二人を抱えてベランダの端まで移動した。
人間二人分は想像以上にずっしりと重い。
母娘を抱えた両腕をきつく締めた。ベランダに背を向け両脚にぐっと力を込める。
「重心はちょっとやりすぎなくらい左に…。」
御留我は下に広がる火の海を横目に、そう口ずさんだ。
「ぐおおっ!!」
全身の力を両脚から解き放ち、御留我は母娘を抱え空中に身を投げた。灼熱の煙の中、空が急激に遠ざかっていく。気が飛んでしまいそうなのを歯を食いしばり必死にこらえながら、御留我は背中が着地するタイミングを待った。
何があっても離しちゃならねぇ。
両腕をさらにきつく締めようとしたその時だった。
娘がもがいた拍子に、母の腕からするりと抜け出してしまった。
「!!」
御留我は凍りついた。この瞬間時間が止められたような感覚が走った。しかしどうしようもできない。本当に時間が止まっていればどれほど良かっただろうか。
そんな思いも虚しく、小さな女の子はまたたく間に御留我の視界から消えていった。
そのまま背中から地面に激突し耐えられないほどの衝撃と激痛が全身を走ったのと、すぐ横から鈍い落下音が聴こえてきたのはほぼ同時だった。しかしその直後、そこからは女の子のわめき声が響いてきた。
全身の骨が粉々になった感覚の中、御留我は恐る恐るそちらに目をやった。
「くっそ…背中、痛ってぇ…」
朦朧とする意識の中、御留我は驚くべき光景を目にした。空中で離れたはずの娘はわんわんと泣きわめきながら、仰向けになる縢の腕の中にいた。縢は痛みに顔を歪めて唸っていた。
落下する娘を、縢はとっさにあの火の海に飛び込んで受け止めたのだ。
母親が縢のところへ駆け寄り、泣きながら娘を受け取り、しっかりと抱きかかえたのが見えた。
状況を呑み込み、押し寄せる安堵感に溺れそうになりながら、御留我はふっと笑って呟いた。
「なんだよ…結構できんじゃねぇか…。」
消防ドローンのサイレンがすぐそばで鳴り響き、消防隊のせわしない声が聴こえてきた。
仰向けのまま見上げた夜空が明るくなり始めたのが見えた。御留我は明け方の風のなか希望の華を咲き誇らせ、そのまま意識を失った。