マルティン・ハイデッガー -『存在と時間』より-
地霊殿の奥、書斎で紅茶を注ぎながら少女は一人呟いた。
「……久しぶりの自由は、三日で終わりでしょうか。それとも、私はもう自由なままなのか」
その部屋に姿は一人。カップは二つ。
それはペットに振る舞うものだったのか、或いは待ち人へのもてなしだったのか。
少なくとも、彼女はカップ一つにしか紅茶を注がなかった。
「答えはそれなりに待つつもりでしたが、十分悩んだようですね」
ソファに腰掛け、低いテーブルにカップを置く。
無人の対面には当然に空のカップが静かに待つ。それはまるで誰かが去った後のように。
そして、それを否定するかのように、次の瞬間には別の少女がそこに座っていた。
可愛らしくも妖艶であった容貌は少々やつれて見えた。
「えぇ。もう、十分よ。さとり」
「では、答えを聞きましょうか。紫、あなたは幻想郷をどうする事を選ぶのですか」
さとりの言葉に、紫は微かな侘しさを覚えた。
「私は、私の過去と共にあるわ。少なくとも今はこの変化と決別する」
「そうですか、それではまたよろしくお願いします」
特別何か感情を示すこともなく、さとりは空のカップに紅茶を注いだ。
本当に、普段と変わらないただの古明地さとりだった。
「それでは、私にとってもあなたにとっても、きっと本題でしょう話をします」
「本題……? 今の話が全てではなくて?」
紫の言葉に若干のためらいを見せた。確かに見えたさとりの感情であった。
「紫、あなたは幻想郷の為に戻ったのですか。それとも」
嫌な予感がした。
「私の為に、私の下へ、私がいるから戻ったのですか?」
どんな感情よりも思考よりも早く悪寒が走った。頭より身体が先に強烈に反応した。
「紫、この問いには答えが必要です。それはもう、あなたの心を読むことすら選ぶ程に」
「……」
「もう一度、聞きましょう。紫、あなたは過去の理念と添い遂げる為に戻ったのか、それとも私というただ一人と添い遂げる為に戻ったのか。どちらなのですか?」
「答えが、必要なのね」
「はい」
「それを聞くあなたは全てをわかっているのに、それでも私が答える事を望むのね」
青ざめた少女の嫌悪の表情。それは、残酷な彼女への憎悪か、それとも公人と私人を彷徨う半端な自身への辟易か。
少なくとも、答えを口に出すのは憚られた。それでも、答えねばならなかった。
「あなたがいるから」
「それは、私が幻想郷にとって正しい支援者だからですか」
「それも、えぇ、あるわね」
「それも、ですか。嘘を吐く気はないのですね」
「あなたに嘘なんて吐いても意味がないでしょう」
残った紅茶を飲み干して、さとりは紫の目を見た。
「これはフィリアなのか、マニアなのか、それともエロスなのか」
「エロスよ」
「即答。随分、妙な愛を拗らせたようで」
「その対象があなただと思えば、その歪みも納得がいくでしょう」
呆れたようにため息を吐き、さとりは見上げるようにソファに身を預けて、その顔を腕に覆った。
なぜ、賢者がそんな愛に堕ちたのか。なぜ、大義を前に私情を優先したか。そんな問いが彼女から投げかけられると紫は感じていた。だからこそ、少しばかり開き直ってすぐに先程の答えを返したのである。
しかし、10秒ほど待っても何の言葉も返っては来なかった。
不思議に思い、少し覗き込むように身を屈ませる。少しばかり見えるさとりの頬は普段の青白さもあって、随分赤く見えた。
その意味を理解して、紫は息を呑んだ。
「……あなた、もしかして照れているの?」
「……」
また少し垣間見えた、目元が隠されているにもかかわらず逸らされる目が全てを物語っていた。
「私だって照れます。そういう感情を向けられるのは、なかったものですから」
「それは、好意的な反応として見ていいのかしら」
「……いいえ。たとえ、私が如何にらしくない表情を見せようとも、決してそうではありません」
覆う手が下ろされて、また向かい合ったさとりの顔はまだ熱を若干残すもののいつもの冷淡さを取り戻しつつあった。
「あなたのそれは気の迷いです。献身に情が湧いたのを恋心と勘違っただけ」
「そんなことはないわ。その判断がつかないほど愚かにはなっていない」
「どちらにしろ、私はあなたの思いを受け入れる事はない」
静かな声。冷徹の顔。
「なぜ、私にそんな感情を抱いてしまったのです。よりにもよって、この私に」
「あなたが素晴らしい人だからよ」
「どこが素晴らしいのですか。私は古明地さとりです。嫌われ者で、陰湿で、陰険で、幻想郷が隠すべきものを沢山背負っている。古明地さとりは、素晴らしくなどない」
「それは主観の話でしょう。大事なのは私という客観」
「だから、あなたの主観だから、それを勘違った感情だと言っているんです。こんな事なら定期的にあなたの心を読んでいれば良かった。同志だからとか、あなたの味方だからとか、そんな情はやはり捨て去るべきだった」
「それができなかったから今があるのでしょう?」
それをしなかったから、今も私は半端なのです。
「とにかく、駄目です。あなたは前だけ見ていてください。こちらを見ないでいてください」
「過去を忘れ去った事をあなたはあれ程怒ったのに?」
「過去は覚えているだけでいいのです。振り返る必要は無いのです。少なくとも、この後ろ向きな世界では、運営するあなただけは前向きでなければならない。だから私が後ろにいる事を忘れましたか?」
「いいえ。最初からあなたとはそういう話だった」
「契約の通り。私はただの協力者です。あなたの親友でも恋人でもない。だから、後ろ向きな世界で後ろ向きな私を放っておいてください」
「それでも諦められないといったら?」
随分長いため息を吐いた。
「今の私には応えられません。それでも、と言うのなら、私が変わるのを待ってください」
「千年経っても変わらないあなたが変わるのを?」
「えぇ。それ以外に可能性はありません。ですが、私自身、変わるかわかりませんし、できれば変わりたくないと思っています。随分不平等な話です」
「それでも、待つことにするわ」
「その間に心が離れるか、正気に戻ってくれる事を祈っています」
紅茶をまた注ぐ。
「私は最後まであなたに寄り添います。愛も恋も関係なく、最果てまで。それだけは保証します」
「では、これからも今まで通りの関係で居続けるのね」
「えぇ。私は今までと何も変わりません。契約に更新の必要もない。あなたが変わって、私は変わらない。いつも通りの事です」
「こうなっても私についてきてくれてありがとう。心から感謝しているわ」
「契約ですから」
素っ気ない言葉に、いつも通りのさとりを感じた。
それが妙に嬉しくて、隠すように少し冷めた紅茶を飲み干した。
「では、私は帰ることに致しますわ。親愛なるあなたに応えなければならないものですから」
「さようなら、また、何かあれば来てください。それが幻想郷に必要な事ならば私がやります」
「それが契約だから」
「はい。そして、私が八雲紫の味方だからです」
よく交わす言葉。それが今日は違って感じられた。
だが、それを指摘する事なく、八雲紫は姿を消した。まるでそこには誰もいなかったかのように。
けれど、最初から空だったカップが、飲み干されたカップになっていることが、その来訪を何よりも象徴していた。
静寂。
カップの音がカチと響いた。
さとりは脱力して、ソファに沈むように横たわる。
そして、一人きりの部屋で、穏やかな顔で言葉を漏らした。
それは古明地さとりの心の言葉。感情的な言葉ではなく、少女の心が自然と語る裸の言葉。
「紫、私があなたの最果てに寄り添ったとしても、私の最果てにあなたがついてくる必要はないんですよ」
スランプ継続。
なんとかします。
この作品を読んでいて良いと思う部分
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シナリオ
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キャラクター(性格など)
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台詞回し
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地の文
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表現
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考察できる点
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謎の多さ
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キャラクターへの解釈
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世界観への解釈
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シリアスな点
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ギャグ要素