ロバート・ルイス・スティーブンソンー『真実の交際』よりー
「紫様、仔細は語りました。さとり様は、いつも通りの反応に御座いました」
「そう」
「ご心配なさらないので? いくらさとり様とはいえ、此度の者は中々に。油断されているようにも思えましたが」
「必要ないわ」
「それは、利害関係にあるのみの相手だからですか?」
「……フフフ」
想像もしていなかったこもった笑いに、思わず顔をしかめた。
この幻想郷の維持に協力的な賢人、そして、数少ない紫様の御友人である古明地さとり様の危機であるというのに、何も気にしていないという風な振る舞いに、式神に過ぎない身なれど感情を殺すことは叶わなかったのである。
さとり様は良くも悪くも分け隔てのない方だ。誰に対しても、感情を見せず真意を隠し欺瞞を散らして、輪郭を眩ませる。
しかし、それは私にとっては数少ない救いであった。
八雲紫様の式神であることに恥はなく誇りがあれど、式神に堕ちたかと嘲りを受けることはやはり耐え難く、その点に関して、私をも個人として見て眩ます手間をいただいたことには幾らかの温情を感じずにはいられなかったのである。
「あら、ひどい顔。ちょっとあなた、勘違いしてるわよ」
「はい?」
「さとりのことをどうでもいいと思ってるとか考えたでしょう。それは違う。さとりは大丈夫よ」
「なぜ、そう言えるのです」
「あそこまで特異な者は幻想郷にそういないし、今回の件程度なら、私の干渉という情報を以て全ての推察は終えて上手くいくかいかないか程度の考えに落ち着いてるわ」
「上手くいくかいかないか考えている時点で、状況は良いとは言えますまい」
藍の反論に紫はニヤニヤと笑って見せた。
「なぁんにもわかってないわね。さとりはたとえどんなに簡単な案件を任せたとしても、最悪を想定して動く奴よ」
「どうしてそう言えるのです。心が読めるわけでもありますまいに」
「どうしてかしらねぇ。言えることがあるとすれば、いつも表舞台で起きた事に起因する問題を任せているけれど、さとりは決まって舞台には上がらない。まるでまだだって言ってるみたいに、そしてその時まで最善を尽くそうとしているかのように。絶対にしくじったりしない。だけど、その思い込みは過信でしかない、ってね。あと、丁度さっきダメだったら私にって、火車に伝えているしね」
少し憂うように黙り込み、すぐに顔を上げていった。
「私との約束すら通過点に過ぎないほど、さとりは何かに縛られているのかもしれない」
「それであの生き方は、壮絶なものがあります」
「何を見ているのか、どこへ向かっているのか知らないけど。まぁ、普通の生き方ではない」
「妹君の事が関係しているのか……」
「考えてはいるでしょうけど、あの気質は別にあるでしょうね。今は一度諦めているようだし」
「……さとり様は、本当に大丈夫なのでしょうか」
「大丈夫。私も最悪の事態に備えてはいる。……あとね」
少し溜めて、微笑みと共に言葉は放たれた。
「さとりが仕事を全うできなかったことなんて一度もないのよ」
とある昼下がりの迷い家のことであった。
※
遠い。感想はこの一つに絞られる。
館より徒歩1時間の距離であるが、何分幼い身体にて。いや、実際は動かない生活をしているせい。寧ろ、幼児ほど起きている間は疲れを知らぬもの。
こうも辛いならば飛べれば良いものを、それでは目立つからできない。
「為政者とは、なんとも辛いもの。紫の力を羨んだ事は多いけれど、ここまで強くは久しいわ」
少女は、少し上がった息と額に滲んだ汗を伴って、目的の場所に辿り着く。
そこに育つ緑は、こんな日光もない地の底でおかしいほど健康的に育っていて、風もないからただそこにあるだけであった。
撫でるようにして、その葉に触れる。
「お燐がいたら、慌てふためくのでしょうね」
「あれ、久しい顔があるじゃないか」
「……面倒くさいお方がいらしてるようで」
声の方へ振り向くと、そこにはさとりと少し大きい程度で、大人からすると大差ない背丈の少女があった。
紫の服、大きく目玉のついた帽子、そこから覗く瞳は髪色と同じく黄昏の輝きに満ちる。振る舞いはわざとらしく少女然としていて、かえってまるで子供に見えない様子であった。
知った顔である。以前縁があって、外の世界で会った人である。なんなら、彼女がここにいる原因の二割程度は私がある気さえする。
「お久しぶりです、洩矢諏訪子様。ここは貴方の来るような場所で……ないこともないですね。いや、来てはいけないのですが」
「ちょっとくらいはいいじゃないか。私だって責任くらい感じるんだ」
「御心遣い感謝致します。けれど、忘れないで。貴方はもうアンダーグラウンドにいない」
「流石に自覚したさ。巫女に退治されるというのは、一つの権利らしいってね」
「でしたら、大丈夫です。私も多分そのうちにそちらへ行きます。貴方の連れが裏で色々とやっているようで、ここもいよいよ舞台裏程度にはなれるようです」
「ハハァ、そこらも察している辺りは流石だね。そして、止める気もない」
「ただの異変ですよ。歯車が繋がるだけで舞台下の話なら、私は須く共犯者であるべきなのです。私が止めるのは、舞台がダメになること。弾幕の普及と共に多少の平和が訪れました。地底にそれが波及して、ただの場所になるのは当然と言えば当然の話」
街の方を見て、さとりの瞳は瞬いた。そこには、普段ならば少しも感じられないはずの暖かさや、ある種の母性じみたものが感じ取られて、諏訪子は思わず緩やかに息を吐き出した。
「アンタ、冷徹冷酷冷血の人外じゃあなかったんだねぇ」
「失敬な。情は事情に通じ情報となる。だから、私はただ静かでいるだけで、人並みの感情は持ち合わせていますよ」
「ここまで隠せているなら、人並みでは決してないけど、まぁ、それはいいだろう。ところで、さとり」
「はい?」
「アンタがここにいるって事は、任せていいのかい?」
さとりは迷いなくうなずいた。その目には自信が宿るわけでもなく、静かな、ただ折れぬことだけが解る意志だけが灯っている。
諏訪子は苦笑いして、初対面の時にも同じように問題が解決されたことを思い出した。
懐かしい記憶だ。私も神奈子もこんな妖怪一人に何ができるものかと舐めてかかっていたが、なんだかんだ丸くおさまっちまったんだから仕方ない。もう私は信用する他ないのだ。
「何かあれば紫がなんとかしますし」
「ハハハ、頼もしいことだね」
「えぇ、貴方に迷惑をかけはしませんよ」
「……私達が来たせいで最近は迷惑をかけている。今回はその中でも面倒な手合いだって手を貸そうと思ったんだけど、余計なお世話だったみたいだね」
「気持ちだけ頂きましょう。大丈夫、幻想郷は全てを受け入れます。残酷だろうとなんだろうと、それは事実で、それを成立させるために私達がいますから」
「……ありがとう……」
「いえいえ。貴方の力を借りると、良くも悪くも私に色んな因果が纏わり付きかねませんし」
「ハハ、そりゃそうだ。うん、じゃあ、私は帰るよ。何かがあったら声かけて」
「はい。その時はきっと」
穏やかな笑みと共に、諏訪子は去っていった。
その心中は、存外に明るい。それは幻想郷にいることだけを知っていたさとりとの再会や、その意外な側面が見れたこと、或いは冷徹と思っていた彼女がただ述べるだけでなく、心と共に歓迎をしてくれたから。
かつては祟ると脅しても一切怯むことなく、言葉を並べたて、私達を納得させたあの胆力は、長生きだけじゃ手に入らない理性の力は健在だ。ならば、信じよう。
最早振り返ることもないその背中を見送って、さとりは苦笑する。
まさかここまで買われているとは、思いもしなかった。洩矢諏訪子、やはり侮れない。どこまで私の事を察しているのかわからない。
だが、あそこまでの神に認められるというのは、存外に悪くない。
「それでは、ご期待に添えるように頑張りましょうかね」
「おや、来訪者とは珍しい。どちら様ですかな」
さとりが珍しく普通に笑った矢先、気がつけば、すぐ近くに綺麗な身なりをした美しい少女が立っていた。
一般的には異常の範疇にある程度にその「気がつけば」は意識の外にあったもので、誰もが思わず飛び退くに違いなかった。博麗の巫女や花畑の化け物、鬼達ですら例外でなく。戦力の有無でなく、その存在が不可思議なのである。
しかし、さとりは静かに笑みを穏やかにして、少女の方を見るばかりであった。
「これをすると皆驚くのですが、貴女は驚かれないのですね。不思議な人」
「えぇ、少々慣れておりますので。それに、知っていましたから」
穏やかな会話の中の不思議な言葉に、少女は思わず眉をひそめた。
慣れていたと言うのも不思議であるが、摩訶不思議の彩るここにおいてはそういうこともあるかもしれない。だが、続いた内容はそうして流せるものではなかったのである
「知っていたとは?」
「話をしに来たのです、貴女のこれからについて。そして、貴女を拒絶しに」
淡々と、糸を紡ぐように言葉を繋ぐ様に、そして想像より遥かに早い拒絶に、少女は何の切り返しもできずにいた。
少し黙って、喉から声を引き出す。
「ここはなんでも受け入れると聞きましたが」
「そうですね。幻想郷は全てを受け入れる。そして、それはとても残酷な事」
「何を言い出すのです」
「自由ゆえに殺される者がいる。本当の自由だけは決して求められない。古臭い時代。大して広くもない世界。箱庭に見合わない事象の規模。ここは残酷な事に満ちている。だけれど、一番残酷なのはここにいる事」
向き合うのでなく、少女の瞳を覗くようにしてさとりは目を合わせた。
「ここは終わった者の世界。幻想郷とは幻想のような郷であると同時に、幻想に成り下がった者の郷なのです。だから、終わっていない者は来てはいけない。終わっていなければここで続けてしまう。それは最早意志持つ嵐と変わらない。終わりを受け入れた者にその経過を見せる事は、いかにも恐ろしい」
「まるで私の目的が分かっているかのように」
「えぇ、全部わかっているからこう言うのです。たとえ、どれほど酷い道のりであったとしても、まだどこにも辿り着いていない以上、その漂着先はここでは有り得ない」
「……まるで私について何もかも全部わかっているかのような口振りで言う。本当は何もわかっていないのではありませんか?」
「さて、どうでしょう。まぁ、確かに私は紫と違って賢者ではない。ただの傀儡かも?」
「いや、傀儡ではない。噂に聞く賢者は私の近くに来ることを避けているようだ。あるとすれば、そもそもこれが探りであるということ」
「フフ、まぁ、半分正解と言っておきましょう」
時々、少女はさとりの第三の瞳をチラリと見ては目線を戻す。
見透かしたように、さとりは浮遊するそれに触れた。
「覗かれたくないですか。そうですね、今のところ使うつもりはありません。使うと、交渉が難航しそうなので」
「そうですか、その言葉、信用はしていませんが少し安心しました」
「話を戻しましょう。貴女の言うことは半分正しい。私は確かめに来ました。そして、確信した」
「何を?」
「貴女はまだ終わっていないから、結局のところ真似事しかできないということです」
「酷い言いようですね」
少女が軽く睨みつけると、さとりはわざとらしく怯えたフリをしてみせた。
「嗚呼、怖い。では、こんな事はどうでしょう」
懐から取り出したマッチに火を付けて、それを畑に投げ入れる。
炎はあっという間に燃え広がって、その緑を灰に変えていく。
「何をするんですか⁉︎ この麻畑が燃えたらその煙が地底に広がって」
パチンと音が鳴る。
すると、少女の眼前には先ほどまでの緑があった。
動揺を隠せず、唖然とするその有様をケラケラと笑うと、さとりは手をひらひらと揺らしてみせる。
「マッチなんか持っていませんよ。今のは、炎の記憶を見せただけ」
「……なぜそんなことをするのです」
「気まぐれです。貴女のお母様と同じように炎にまつわる体験はどうかと思いまして。ほら、御兄弟じゃありませんか」
「っ! ……やっぱり、全部わかっている」
「えぇ、わかっていますよ、全て憶測ですが」
「よく回る頭ですこと」
「私に仕事が振られるということは、例外中の例外でしょうから。そもそも、本質が歪んでる人なんてそういません。それで、御札の現物を確認して、ようやく大体の予想はつきました。ここで育て、御札の中に入っているのは麻。普通なら、薬物を取り扱う厄介者な所ですが、どうやらその類ではない。地底の方々の被害は、薬物の服用ではなく関心がないから燃やしただけのことみたいですし。まぁ、貴女は神宮大麻の真似事でもしたかったのでしょう。しかし、ただ葉が入っているだけというのが中々におかしい」
「……?」
「貴方は流れ流れている内に、いつかに伊勢神宮だかなんだかを覗き見て、麻に意味があるとでも思ったのでしょうけど、あれは全てを合わせて意味をなすようなもので、麻を入れておけばいいというわけではないのです。そんなこと、地上にいる新参者の土着の神でも知っている。そんな勘違いをするのは、天照大御神の前の時代、概念それぞれを司る神が生まれ単独で意味を持っていた神代の者」
さとりは哀れみの視線を向け、少女はそれを強い視線で切り落とした。
「そんな古い時代の神、幻想郷に辿り着くとか着かないとか、そういった所にいないものです。だって、当たり前の中にいるのですから。貴方はきっと相当に古いのでしょう。でも、そういう存在ではない。該当者があるとすれば、火の神すら生まれぬ時、一番最初の子供、とか」
「……」
なんの返答もない少女に、嫌な微笑みを投げかけて、さとりはようやくその名を呼んだ。
「はじめまして、ヒルコ様。私は古明地さとり。地底の管理人です」
「貴女は、嫌な人だ」
「えぇ、嫌な奴ですよ」
嫌がる素振りもなく肯定する様は、悪党でも悪人でもないのに邪悪さが染みついているようで、ヒルコには向かい合うことが嫌に思えてならなかった。しかし、全てを見透かしたように笑うのをそのままにしておくのは、それはそれで嫌な感じがする。
「麻を育てた目的は、あんな御札のためではないでしょう?」
「そうですよ」
「どこにも流れ着いていなかった貴女は、恐らくは偶然に八坂神奈子と洩矢諏訪子の幻想入りを知り、信仰なき神の逃げ道が此処であると認識した。だから、こうして来た。だが、貴女は社も何もない神。そこにいるだけの者。ならば、何が必要か」
「己を此処にいると断定するもの」
「そう。そして、その為には境界が必要になる。即ち、此処より先は神の常世であると定める必要がある。神道においてその役割を果たすのは注連縄。材料不足といったところでしょうか? まぁ、麻だけで作ろうとするのは、無茶だけど不可能ではない」
「そう、だから、私はこの畑を作った」
さとりは建物に近づいていくと、途中で振り向いて畑の方に視線を向けた。
「これを栽培するだけならば、紫の干渉はまだ猶予があったでしょうね」
「……? なぜ?」
「紫は、終わっていないモノを大体迎え入れないけれど、例外はある。だから、本当なら貴女もしばらく様子見だったはず。だけど、貴女は大麻を御札として配ってしまい、結果的に幻覚作用などが働いてしまった」
だから、どうしたというのだ。毒か何かが作用しただけに過ぎないのではないか。
ヒルコは訝しんで、さとりはそれを見て更に続けた。
「知っていますか? 向こうの世界では、大麻は悪質な薬物として規制されている植物です。ヤクというやつですね。幻想郷という狭い世界では、一旦大麻が薬物として流行すると歯止めが効かなくなる。だから、そういう目で見させないようにしなければならない。今回の件はまだ誤魔化しが効きます。しかし、これ以上は問題になる。貴女は無知だった。無知は、時には罪にすらなり得る」
「たったそれだけの理由で?」
「たったそれだけの理由なのです。不完全に、歪を前提とした存在に生まれた貴方をそれだけで流したように、完全を見逃した未完成のこの世界はそれだけで崩壊する」
「しかし、貴方はこれを知っていたではないですか」
「封じる者はいりますから。誰かがそうした時に誰も知らなかったことにする為には、私達が知っていなければならない」
「私をそちら側に迎え入れてくれればいい」
「ダメです」
「なぜ?」
「さっきも言ったでしょう? 貴方はまだ終わっていない」
「作る側ならば、終わっていない、進み続ける方がいいでしょう」
呆れたようにため息をついて、さとりはヒルコを一瞥すると社予定地に腰掛けた。
「貴方は、この世界を理解していない」
「理解できるはずがないでしょう。どうして諦める。どうして立ち止まる。何も成していない私ですら歩き続けているのに、何度も成して回復している人達が諦めるのです」
「失う事はあるいは持たざる事よりも痛みを伴うものです。そこにいる事に意味があった者にしかここにいる資格はない。いつの間にか手元から消えていた意味の代用品を提供するのが、幻想郷というサービスで、本物を用意することもなかったものを用意することもできない。貴方は、その手に何を持っていますか?」
真っ直ぐに抉る言葉に思わず後ずさる。
「私達、幻想郷を管理する者はそれが代用品と意識しながら生きる者。いつでも手放せるようにして、必要になれば犠牲となって世界を救う者。そこに熱意は必要ない。そこに善意は必要ない。そこに悔いは必要ない。心配ありません、それでここは維持される。立ち止まらぬ不屈の意思も、充血を繰り返した壮烈の瞳も、負担に歪んだ肉体も、全てここではただ足を捉える過去に過ぎない」
諭すような言葉が、あまりに重く語られる。
それは、ただ権威に縋るとか都合のいいように進めるためとかそんな利己的な言葉ではなく、あまりにも平等な響きを持っていた。
それが、ヒルコにとってはある種の救いを伴っていた。
ヒルコという存在はただ不完全な者である。そこに具体性はなく、何かがダメだったから流された。その何かが語られていたならば、きっと不出来な神であっただろう。しかし、「何か」が不完全な彼女はそもそも生きているという状態すら不完全。そこに在り切れていない。神でなく、神でない者でなく。だから、ここで己を神として定義する試みをした。
彼女は何もない何か。何も持っていないし、何かを持つことを望まれない。ただ「ない」ままのヒルコ。
しかし、さとりの言葉はヒルコを肯定する。
ただ流され続けただけの歴史を、ヒルコという人物の全てにさとりは意味を見出している。心も、目も、足も、全部誰も気にしたことなんてなかった。そんな彼女に、ただ平等な言葉で意味を持たせたのである。
「去るがよろしい、お客人。もう少し歩き続けて、たどり着いた場所でどうしようもなくなったなら、その時こそはここに至るとよいでしょう」
「……わかった」
ヒルコは肩を落とすと、疲れ果てたように座り込んだ。
「こうして、言葉だけで引き下がることになろうとは」
「真摯な言葉は、何より重いものでしょう?」
「貴方は、悪い人だ。きっと私のことを思ってなどいない。真摯に思えたところなんて、一つだってなかった」
「なら、なぜ私のいうことを聞くのです?」
「真摯でないからこそ、というべきか。あまりに打算に塗れていて、かえってその先は信用できる。だって、貴方は今から何かを私に吹き込む気でしょう」
「存外に清さばかりを望むわけでもないようで」
「私はそもそもが不完全ですから。あぁ、ところで、私が貴方を殺そうとしたらどうする気だったので?」
「さぁ、どうする気だったのでしょう」
「……これ以上は聞かないでおきましょう」
やけに無感情な言葉に、ひきつった笑顔で追及を避ける。
果たして、このさとりという人は、強いのだろうか弱いのだろうか。妙に底知れない。
そんなことを考えながら適当に笑っていると、不意に更なる問いが思いついた。聞くか聞かないか迷って、これならば答えてくれるんじゃないかと少しだけ思った。
「なぜ、貴方がここに来たのですか? そこまで問題視していて、なお幻想郷の賢者が来ない理由とは?」
「えぇ、えぇ、単純な話です。貴方と彼女は相性が悪い」
「相性?」
「神より生まれし神の子。その存在は神であるようで、神でないかもしれない。そこに明確な境はないのです。我らが賢者はその境を探る者。貴方と会えば、貴方がなりふり構わなくなった時、彼女は下手に動けない。貴方を神と断定したならば、その定着は決定的になる」
「成る程、それならもっと色々とやっておけば良かったかな?」
「さて、どうでしょう。諏訪よりの来訪者に関連して多くの神がこちらに流れ着きましたが、その対応は全て紫が行い、唯一例外的に貴方だけは私がやった。その意味は、なんなのでしょうね?」
「本当に、どうしようもなく卑劣な人」
「そうです。私はそういう妖怪。裏方に徹し、そして誰も触れない厄介事を処理する役割。悪党でも悪人でもないけれど、お天道様に背を向けるハズレ者」
「卑劣の次は卑屈ときますか」
「そうだと言いたいところなんですが、はい、ここからが相談です」
「相談?」
「今日、私は貴方のこれからの話をすると言ったでしょう。お互いにとって有益な、とても良いお話に御座います」
※
日が燦燦と照り付ける。セミの声が重なり重なって、炭酸飲料より頻りに騒ぎ立てる。
夏。そう表現するのが適切である。
春夏秋冬の彩。七、八ヶ月も経てば帰ってくる、人間が六十から八十回ほど経験する季節。
紫にとって当たり前の季節。彼女は今、縁側に足を放り出して、桶に満たされた冷水に浸したり掠めたりして、夏の風情を楽しんでいた。
「夏は良いわねぇ。お素麺も美味しいし、ラムネなんて夏じゃなきゃ甘ったるい」
「……そう、ですか」
賢者の傍には、横たわる詐欺師の姿があった。
普段ならば、目の下に隈を侍らせ、青白い顔で静かに淡々と喋るさとりであるが、今に限っては違っていた。その顔は赤く、首から胸にかけて服が少し緩く広げられていて、息は上がっていた。言葉は一言ですら言うのが辛いといった有様であった。
「本当に、情けないわねぇ」
紫がその首元に手を当てる。さとりは何もすることなくされるがままにいて、ただぐぅと唾を飲んだ。
喉の動きが手のひらを伝う。熱い首をなぞる動きはぎこちなく、弱っている事を語る。
さとりの二つの瞳が見上げるように紫を向く。それに応えるように紫はその手を喉から顎へと滑らせた。
ただ、20秒ほどそうしていた。
やがて、さとりがその眼を閉じて小さく息を吐き出すのを合図に、空気はただの夏に帰る。
紫の手は自身の膝下へと置かれ、代わりにさとりのただ腹に置いていた手が顔を覆った。
その影にある顔の熱は、単に体温の上昇によるものであったのか、或いは感情に作用したものであったのか。
その答えは、彼女しか知らない。
ゆっくりと水彩を馴染ませるように紫が言葉を吐き出した。
「久しぶりに地上に出たからってすぐ熱中症だなんて、自己管理が出来ていないなんて話じゃないわよ」
「余計な、お世話です」
「ふふ、私は悪くないとだけ言っておきましょうか。境界を使おうとしたら、業務が終わり次第勝手に向かうと言ったのはそちらなんだから」
「まさか、ここまで地上の感覚が、抜けているとは」
また、静かになった。
セミは変わらず鳴き続け、桶の水が跳ねた音がやけに大きく聞こえた。
だが、今回は長続きしなかった。
「ヒルコは、どうしたのかしら?」
「…………どうも、していませんよ。ただ、向こうに帰っていただいた、だけのこと」
「貴女はそういうんでしょうね」
「事実がどうであれ、私は、こう言いますよ」
「……」
「……」
「……」
三言分の沈黙を話し終えて、さとりはため息を吐く。
弱った体には酷なそれは寒空の下かのように震えていて、妙な癖のようものに思えた。彼女は、いつだってなぜかため息を吐くのだ。
紫には最早そのため息が何を意味するか分かっていた。このため息は、さとりが観念した時のものだ。あまりにも珍しいから間違えようがない。
「……交渉を、しました」
「あら、話してくれるのね」
「今、助けてもらっている、借りを、返しておきたいのと、大したことでもないのに、変に疑われるのも苦しいので」
「それで、何を?」
「ヒルコには、幻想入りした神々の、いた場所を。たとえ、神が幻想入りを、選ぶほどの場所だとしても、彼女には価値ある、ものですから」
「あまり急いで話さなくていいわよ。見ていて苦しい」
「いいえ、大丈夫です。落ち着いてきましたから。そのラムネ、いただいても?」
「どうぞ」
さとりは本当にゆっくりと起き上がってすこし乱れた髪を撫でると、ぼんやりと庭を見た。
そして、差し出されたラムネを少し震えた手で受け取ると、添えられた紫の手を必要ないといったふうに遮って、一息に残っていたラムネを飲み干した。七割ほどは紫に飲まれていたが、残りだけでも臓腑も四肢も平常の半分に戻るには十分であった。
ラムネを縁側に置いて、さとりはラムネより透き通った夏空を見上げた。そんな彼女の口元を、紫の手が拭った。
怪訝な面持ちでさとりが紫を見ると、彼女は指先を見せた。それは紅く染まっていた。そして、そのままその指先で自身の紅い口元を指す。
納得したような顔のさとりを見ると、紫はそのままその紅を戻すように唇をなぞった。だが、さとりは大した反応を示すこともなく、つらつらと話の続きを語り始める。
「そう、彼女には情報を提供したのです」
「見返りは?」
「向こうの情報。私があちら側で仕事をする時に使えるよう様々な情報を仕入れてもらいます」
「へぇ、まぁ、対等な交渉かしらね」
「そうでしょう。私にしては穏当だと思いますよ」
「本当にそれだけならね」
「はい、それだけなので」
笑顔の仮面が二人の顔に張り付いた。
「大麻は?」
「処理しましたよ。旧地獄の奥で燃えてもらいました」
「本当に?」
「本当に。私は幻想郷をダメにすることだけはしないとしないと知っているでしょう?」
「……そこは信じていいかしらね」
糸が切れたように力を抜いて、紫は後ろに倒れ込んだ。その様子は見た目相応の少女のようで、けれど服装なんかはやけに大人びているものだから、やけに異様な感じがするものであった。
対するさとりは肩だけから力を抜いて、前に傾いた頭で、地面を見た。そこにはこぼれたラムネか何かに惹かれてきたのか、蟻が列を作るばかりであった。
「大丈夫ですよ、紫。私は貴女を裏切りはしない。多くの嘘をついてきましたが、これは本当です」
「知っているわよ。貴女が裏切らないことも、貴女がやることなら裏で何をしていようと下手は打たないことも。それでも、知っておきたいじゃない」
「知ると面倒なこともある。知らぬが仏というでしょう」
「それでも知りたいから、何かがあれば聞くのだけれど」
とある昼下がりの迷い家のことであった。
※
「先程の内容に加えてもう一つよろしいですか?」
「なんです?」
「この植物、大麻を、さっき言った薬物として向こうにまだ残っている神々の間で広めてください」
「なぜ……?」
「今回の件で神が多く幻想郷に来ました。えぇ、はい。多すぎるほどに。今、幻想郷にこれ以上神が流れ込むのを受け入れる余裕はない」
「それで、なんで大麻を広めることになるんですか?」
「八百万の神には少しの間バカになっていただかこうかと思いまして」
「……は?」
「大麻には薬物としての効能がある。これを吸って幸福感を得てもらうことで、幻想郷に来るという選択を遅らせます。幸せだからまだいいや、と思わせるのです。勿論、これで神がダメになることはありません。仮にも神ですから、依存性などほとんど発揮されない。本当にただのその場凌ぎでしかない」
驚愕のあまりに呆然とするヒルコに、さとりは微笑みかける。
「辿り着くまでは流れる貴女に適したお願いです。見返りは、そうですね。これをすると、貴女がここに来る時、既に居座っている神が少ないからやりやすいといった点でしょうか。幻想郷はそう広くない。神々が定着するにも限度がある」
「……本当に、恐ろしい」
「紫は流石にここまでしないでしょうね。だから、私がやります。幻想郷を少しでも安定させるために。私は、ここがどういう結末を迎えるか見届けないといけない。それを大麻なんかに邪魔されては困るのです」
侮っていた。悪人でも悪党でもないと思っていた。
違う。彼女は悪人であり、悪党であり、悪魔でもあるのだ。
「そうです。私は悪魔でもいい」
「っ! 心を……」
古明地さとりはまた微笑んだ。正義など捨て去った笑みを浮かべて。
「さて、煙草を暴く人間と、煙草を広めたい悪魔。同一人物でないと誰が決めたのでしょう?」
『煙草と悪魔』
この作品を読んでいて良いと思う部分
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シナリオ
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キャラクター(性格など)
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台詞回し
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地の文
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表現
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考察できる点
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謎の多さ
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キャラクターへの解釈
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世界観への解釈
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シリアスな点
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ギャグ要素