緑の兄弟どもが行く 作:カロ
クワ・トイネ公国西部の都市ギム。
ここはロウリア王国との国境近くに位置し、亜人に対して敵対的な政策をとり続けているかの国の侵攻に備える為に作られた防衛都市である。
その都市に配属されている軍、西部方面騎士団第一歩兵隊の三百人と兵站を積んだ複数の馬車はギムの東方に広がる平野の中を、黙々と歩み続けていた。
まだ朝と言える時間帯とは言え、夏の日差しは既に容赦なく地表に降り注いでいる。
金属製の胸鎧とすね当て、ガントレットを身にまとった兵士達は汗だくになりながらも行進を続けた。
彼らの顔は一様に緊張で強張り、両手で持った金属製のメイスを強く握り締める者も居た。
やがて彼らの前方に、広さは概ね百メートル四方程度、と事前に教えられた小さな林が見えてくる。
視界を遮るもののない平原の中にポツリと現れたそれは、どこか不気味な印象を見るものに与えた。
「あそこだな?」
総隊長であるマクデは林から三キロメートル程距離をおいて部隊を止めさせると、副官に尋ねる。
「はい、一週間前に虫狩りがあの林の周囲で殺人蟻の大群に遭遇、その後報告を受けた軍が偵察隊を派遣し調査を行った所、複数の巨大な蟻塚を発見したそうです。 推測では森全体で、少なくとも二千体は生息しているかと……」
「ああ、それは聞いている。 林という上空からの警戒が行き届かない地形が、このような都市の近くでの殺人アリの繁殖を見逃したという訳か……。 だがそれも今日で終わりだ。 今の内に兵士を少しでも休ませておけ。 我々は、これから合流する虫狩り達を含めた包囲作戦の最終確認に入る」
マクデの言う虫狩り、というのは二年程前にクワ・トイネ公国で初めて発見された二種類の巨大な虫の駆除を生業とする者達だ。
どちらの虫を専門に狙って狩りを行っているかで、羽狩りと蟻狩りの二つに分類される。
羽狩りとは巨大な羽を持つ茶色い甲虫、通称、茶羽虫をターゲットとするものでこちらは主に都市の中で行動する事が多い。
だが、茶羽虫はもう一方の虫よりは弱いとされているが、小さくても三十センチ、大きいものでは一メートル以上の大きさになる虫だ。
飛行してからの体当たりを生身で喰らえば骨にヒビが入ることがあるし、強靭な顎による噛み付きを喰らえば、傷口から病気に感染する危険もある。
何よりその生理的な嫌悪感を刺激する見た目から触る事はおろか、近づくことさえ出来ないという者も多く、羽狩りは余程の度胸がなければ務まらなかった。
茶羽虫はクワ・トイネ公国に大地から生まれる豊富な食料を栄養源に、たった二年で爆発的に生息地域を拡大しており、今やクワ・トイネ公国の全域と、ロウリア王国、クイラ王国の一部で目撃されている。
人間の生活圏を特に好んでもいるようで、都市の排水管や廃屋などに数百匹単位の茶羽虫が潜んでいた、という事も珍しいことではなかった。
羽狩りのなり手の少なさと危険度から討伐報酬はそれなりに高く、上手くすれば元手無しでひと財産を築き上げる事も不可能ではない。
しかし、それ故に都市の中にわざと茶羽虫を放ち繁殖させる羽狩りが捕まった例もあり、たったの二年でここまで生息域が広がった理由には人の手によるものも大きいと言う見方もある。
そしてもう一方の蟻狩りは殺人蟻と呼称されている、雌の場合、茶羽虫と同じくらいの大きさになる巨大な蟻を専門に討伐する者達である。
殺人蟻は数十~数百体程の群れで行動する性質があり、土を積み上げて作った蟻塚の中で繁殖する。
蟻塚を破壊すれば群れを散らすことは可能だが、女王蟻を持たず繁殖を行う性質から、少しでも蟻を取り逃がしてしまえばまた新たな場所に巣を作るだけだ。
また一体一体の戦闘能力も茶羽虫よりも強く、金属に匹敵する強さを持つ甲殻と分厚い革鎧を切り裂く鎌のような顎を持ち、集団で襲われれば武装した者でさえ殺される危険が高い。
オスは羽蟻と呼ばれており、雌よりは小さく二十から三十センチくらいの大きさにしかならないが、大抵は集団で行動しており、纏わりつかれればあっという間に全身の血管を食い破られてしまう。
蟻狩りはその危険度故に仕事の報酬も茶羽虫を狩る場合よりも高く、退役軍人や武芸者、組織に属しない魔導師が集団で行う事が多かった。
この蟻により村一つが滅んだ事例もあり、フリーの討伐集団である蟻狩りの手に負えない大規模な生息地が確認された場合は、今回のように軍が動員されることになっていた。
平野の中に存在する小さな丘の上に天幕を張っただけの簡易的な司令部で今回の作戦の責任者であるマクデと副官及び各部隊長、ギムの行政機関が雇った蟻狩りのチームのリーダーが集まり、一連の討伐作戦の第二段階である包囲網の形成について話し合っていた。
マクデの指示を受けた副官が、参加者全員に作戦の流れを説明する。
「森の中の蟻は最低でも二千はいると推測され、更に大規模な群れとなっている可能性もある。 今作戦では第一段階として、林全体をギムから出撃した第一飛龍隊のワイバーン十騎の導力火炎弾で焼き払います。 幸いにして蟻の生息地は平野の中で孤立した林であり、大規模な山火事を引き起こす恐れもありませんから。 今回の我々の役目は、その際に群れから離れ、林から逃れて周囲の平野へと散開した殺人蟻を可能な限り討伐する事にあります」
「まあ事前に話は聞いていたが……、たかが虫を狩るために林一つを焼き尽くしてしまうなど大げさではないでしょうか? 国境に配属されている精鋭歩兵三百人に加え、蟻を狩る専門家まで揃っている訳ですし白兵戦で十分殲滅出来るのでは……」
部隊長の一人であるエルフが挙手をし副官の説明に対し意見を述べるが、会議に参加していた蟻狩りのリーダー達は皆一様に呆れたような目で彼を見る。
総勢三人のリーダー達は、それぞれが三十~五十人程の集団を束ねる殺人蟻との戦いの熟練者であり、だからこそ可能な事と不可能な事の区別はついている。
「無理ですわねぇ。 この戦力で二千の殺人蟻と正面から戦えば確実に絶滅しますわ」
リーダーの一人である猫の亜人ラーマがあたりまえの事のように、あっさりと断言する。
「三倍ルールって知ってます? 私達、蟻狩りの間では有名な基準なんですが、自分達の三倍以上の数の群れには挑んではいけないという教えです。 蟻の移動速度は概ね人族の子供の全力疾走程度。 鎧を来た兵士にとっては、速度の面で優位に立っているといって良いでしょう。 殺人蟻の群れを攻撃すれば、群れの蟻が一斉に自分達以上の速度で襲いかかってくるんですよ? もし二千の蟻に襲われればどうなるか……」
ラーマの声に、別のチームのリーダーを務める人族の男が答える。
「ま、死ぬわな。 結局のところ、一人が何とか同時に相手出来る蟻は三体が限度ってこった。 働き蟻か、戦士蟻か、羽蟻かでまた変わってくるから、あくまで一つの目安だけどな。 ……今回は林を焼くことで一匹でも多く始末出来る事を願うしかない」
エルフの部隊長も、蟻との戦いの経験者の声を真っ向から否定することは出来ず、渋面を作りながら押し黙った。
だがギムの付近ではこれまで軍隊が動く程の群れが確認された事が無かったこともあり、個々の兵士の殺人蟻に対する認識に差があるのは仕方がないと言えるだろう。
会議はその後は滞りなく進み、戦力を四つに分けて森の東西南北に配置し、包囲陣形を構築する方針が説明される。
ワイバーンの攻撃は会議が終わった時刻から二時間ほど後に開始される事となっており、四つに別れた部隊はそれぞれの持ち場へと歩き出した。
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上空を華麗に舞う空の王者ワイバーン。
計十体のワイバーン達の大きく開かれた顎から、林へ向けて戦いの始まりを告げる火炎弾が放たれた。
人間とは隔絶した魔力を持つワイバーンにより、魔素で構成された粘性のある炎が林の至る所に着弾する。
一応、威力だけに限って言えば同じ威力の導力火炎弾を放てない事もないが、ワイバーンが数十発の火炎弾を発射出来る程の魔力を体内に有しているのに対し、人間の魔力では撃てた所で精々数発。
そして速度と射程はワイバーンのそれとは比べ物にならない。
非文明圏の対空装備や魔法では空を悠々と飛行するワイバーンを、地上から打ち落とす事はほぼ不可能であり、それがワイバーンを戦場における絶対的な強者に押し上げていた。
殺人蟻にとってもそれは例外ではなく、羽蟻が飛べる限界高度の遥か上から放たれるワイバーンの火炎弾に林の中に急速に炎が燃え広がっていく。
その様子に森から一キロ程の距離を保ち布陣している兵士達は歓声を上げ、どこか楽観的な空気が部隊の間に広がっていた。
険しい表情で林を睨みつけている蟻狩り達や、蟻との戦闘経験のある部隊から転属されてきた一部の兵士達を除いて。
「なんだ、ありゃ」
声を出したのは、大声でワイバーンを応援していた兵士の一人だった。
林の一角から地を這って黒い水がにじみ出てくるように見える。
だが、直ぐにその黒い水の正体を理解した。
いや、理解してしまった。
「あ、蟻だっ! な、何だよあの数はっ」
地表を埋め尽くす程の膨大な量の蟻達が、押し寄せる洪水のように林の中から這い出していた。
今、見えるだけでも千以上は確実にいることだろう。
しかも林から溢れる蟻は留まるところを知らず、なおもその数を増やし続けている。
その光景を見たのか上空のワイバーンから森の外の蟻の群れに向けて火炎弾が放たれるが、まるで川の流れに小石を投げ込んだかのように、群れの勢いを全く弱めることは出来ない。
「ぜ、全員撤退ーー。 申し訳ございませんけど、私達帰りますわー」
林の西側に配置されていた蟻狩りのチームリーダー、ラーマが顔面を蒼白にして仲間に撤退指示を出す。
その言葉に仲間も誰ひとり反論せず、そそくさと地面に下ろした荷物を纏め始めた。
「お、お前達! 行政からの依頼を放棄すると違約金が発生するし、公的な依頼も受けられなくなるぞ。 分かっているのか?」
「死んだら金もクソもありません。 あの数は聞いていませんわ。 無理に決まっているでしょう?」
「こ、この臆病者がぁ!」
激しい剣幕でまくし立てる部隊長の言葉も、蟻狩り達は全く意に介さない。
「知らないんですか? 蟻狩りとして生き残っていく為に必要なのは勇敢さではなく、死ぬ前に躊躇わずに逃げることが出来る臆病さなんですよ。 では、ごきげんよう!」
逃げ去る蟻狩り達、そして森から溢れ出る蟻達を交互に見て、三十人程の兵士達も蟻狩りを追うようにして踵を返し始めてしまう。
「せ、戦争で敵と戦って死ぬならともかく、虫に食われてたまるか! 俺は逃げるぞ」
「か、勝てるわけねえだろ、こんなの。 後はワイバーンに任せるしかねえよ」
口々に弱音を吐き、部隊から遠ざかっていく兵士達に部隊長は必死で引きとめようとする。
「き、貴様ら、敵前逃亡は重罪だ! 私が報告すれば刑務所行きだぞ!? この国土を薄汚い虫けらから救おうという……、何だ魔信係! えっ……、司令部から全軍撤退命令? 遅いわ! もう敵は目の前だぞ。 くそっ、構え、構えだ!」
生き残った兵士達は怯えた形相で手元のメイスを構える。
既に逃げ切れない程に近くまで接近した殺人蟻の群れを迎撃しようとする兵士達だったが、あまりに素早く移動する無数の蟻の群れにあっという間に飲み込まれてしまう。
鈎状の爪を使い兵士の体中に纏わりついた殺人蟻は、鎧に覆われていない関節や首筋、顔を手当たり次第に噛みちぎっていく。
多くの兵士が出来た抵抗らしい抵抗は、最初の会敵時に振り下ろされたメイスの一撃だけであり、それですら殺人蟻の甲殻を正面から捉えられず、多少の傷を与えるに留まることが大部分だった。
結局は持ち場に残った兵士達が全員絶命するまでに、三分と掛からなかった。
死んだ兵士と、生き残った兵士。
それらを分けたのは、撤退命令を告げる魔信が届くまでの僅かな時間の間に逃げ出した者と、そうでない者の違いだけだった。
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「こ、これは……」
マクデは司令部から、壊滅していく部隊を見下ろして呟く。
猛然と押し寄せる濁流のような群れは大切な部下達を瞬く間に飲み込んで、覆い隠してしまった。
群れの出現から、撤退の命令を決断するまでの二分程の僅かな時間。
その時間に、兵士達の命運は決まってしまったのだ。
あの大群を発見したときに直ぐに撤退命令を出せば、兵士達を逃がしてやれたのではないだろうか。
だが、あの時一瞬、自分の経歴や名誉に傷がつくことを恐れて命令を出すのを躊躇ってしまった。
もしかしたら勝てるかも知れない。
勝てる戦から逃げ出せば、自分は臆病者の烙印を捺されるのではないか?
殺人蟻の恐ろしさを知識では知っていたが、実際に見たことがなかったマクデはそう思ってしまったのだ。
そしてその結果は、総勢三百人に及ぶ歩兵隊の壊滅。
ただ後悔と絶望だけが押し寄せ、マクデはただ赤く燃え盛る森を見つめ続けていた。
後に政府により作られた報告書にはこう記されていた。
『ギム東方における殺人蟻討伐遠征』
ワイバーンによる巣の壊滅を目的とした一次攻撃は成功。
しかし事前に行われた偵察において林の地下に自然に存在していた洞窟、及びそこに作られた多数の蟻塚を発見出来ず、結果として想定されていた二千体という数を遥かに上回る推定一万体の殺人蟻が森から溢れ出した。
作戦参加戦力の七割が失われ、生存した三割の内訳は蟻の群れの規模を確認し、即座に撤退を選択した蟻狩りの三チームと、撤退命令が発令される前に逃亡した兵士のみとなっている。
今作戦の責任者マクデは、自身の判断の誤りが撤退命令の遅延を招いたとし、逃亡兵へと罪が及ばないように主張。
世論も逃亡した兵士に同情的であり、その為兵士は十日間の謹慎処分の後、自主退職という形で軍籍から追放した。
自己判断で任務を放棄した蟻狩り三チームには事前調査の不備という軍の失態と、クワ・トイネ公国全体における今後の殺人蟻対策に与える影響を考慮し、処分は下されていない。
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約二年半前、クワ・トイネ王国内に作られた一時的なベルチバード発着場において。
「ふう……、三百人も運ぶのは結構時間が掛かるな」
Vault111の彼は、ベルチバードを用いたスーパーミュータント達のピストン輸送を行っていた。
イカロス島からクワ・トイネ王国までは片道でも三時間はかかる上、ベルチバードが発見される事を防ぐ為に夜間にしか飛行出来ない為、輸送のペースは早いとは言えない。
だが人里離れた森の中に作ったこの臨時拠点もいつ見つかるかも知れず、彼としては出来るだけ早く全てのスーパーミュータントをこの大陸に運び込みたかった。
「大変そうだな。 まあ、早く移動を済ませてしまいたい気持ちも分かるが。 とりあえず輸送が終わるまではスーパーミュータントをこの森に留めておくという頼みについては上手くいっている。 いずれ血が騒ぎだすだろうが、今の所は全員、この世界の食物に夢中のようだ」
イカロス島に戻り、現地で採取したサンプルの分析をしているアマンダに代わり、今はクリストフがクワ・トイネ王国に残りスーパーミュータント達の統率を行っている。
クリストフはスーパーミュータントとなったことで人間を遥かに超える強さを得たが、同族の中での実力は中の上と言ったところだ。
だがリーダーである彼が一時的な指揮を任せたという体裁を取れば、少なくともスーパーミュータントを一箇所に留めておく事くらいは出来る。
「そうか……、予定では後二週間で輸送は終わる。 それまで何事も無いように目を光らせておいてくれ」
「勿論だ。 そういえばスーパーミュータント達は最近狩りに嵌っているようだ。 この土地は食料が非常に豊富だし、動物の生息数も多いらしい」
「そうか……」
そして僅かな会話を交わした後は、今夜中にもう一往復する為、彼は急いでベルチバードを発進させた。
彼が居なくなった所で、クリストフはふと大きな木の根元の部分に積まれた布袋に目をやる。
「イカロス島から、持ってきた食料だが誰も食べていない。 ………腐る前に捨てるか」
食料の内訳はイカロス島に生えている野生の食用植物や、変異生物の肉等だ。
自分達の素性を隠す為にテクノロジーの漏出に過度に気を使うリーダーの彼は、戦前の缶詰等の食料の持ち込みは禁止している。
ただ変異生物といっても大型の動物等は全てスーパーミュータントが狩り尽くしてしまった為、クリストフの指示の元、島に来る前にラッドローチとアリを狩ってその肉を大量に持ってきた。
ただ虫の肉はその不味さからスーパーミュータントにさえ不評であり、美味く新鮮な野菜や果物、肉のある大陸では、もはや誰も食べようとはしていない。
「おーい、そこの君、手伝ってくれ。 これをその辺に放り出しておいてくれないか。 袋は使うから中身だけだ」
実験により生成したスーパーミュータントを、平気で連邦に廃棄するインスティチュートで育ったクリストフには環境保全の意識など微塵もない。
要らないなら捨てる。
仮に島から持ってきたラッドローチやアリの腹の肉の中に、まだ生きている生の卵が眠っている物があったと知った所で、クリストフは気にも留めなかっただろう。