緑の兄弟どもが行く 作:カロ
クワ・トイネ王国経済都市マイハーク、海軍宿舎。
本来は軍の施設であるこの建物は、同時に国内の要人や、外国からの賓客の宿泊施設としても使用される事がある。
現在、その宿舎の中でも特別な来賓に提供される上等な一室で、五人の男がテーブルの上に書類を並べて話し合っていた。
「さて、確認しておくが明日の早朝にこのマイハークを出発。 公都クワ・トイネへはヘリを使い移動し、明日の昼過ぎにはこのクワ・トイネ公国の代表団と会談が行われる予定だ。 今回の会談は、我が国が地球とは異なるこの世界に転移してから初となる他国家との交渉となる。 皆、気を引き締めてことに当たってくれ」
政府より、異世界の国家との初の接触、及び交渉を任された外務官の田中の声に、その補佐の為に同行した外務省の職員達は口々に同意する。
今ですら国内は転移に伴う様々な問題に大いに揺れている。
今のところそれは母国へと帰国できなくなった外国人の暴動や、外国との取引が不可能になった企業の倒産など、まだ致命的ではないものに留まっているが、近い将来、確実に更なる混乱と破局をもたらす問題がある。
それが食糧問題とエネルギー問題であった。
国内で消費する食糧の多くを外国に依存していた日本において、食料の輸入が完全に途絶えてしまえば下手をすれば餓死者さえ発生しかねない深刻な食料不足が引き起こされるだろう。
燃料に関しても、今は計画停電やガソリンの供給の管理を行い国内の備蓄を少しでも長く持たせる為のやり繰りをしているが、長くはもたない。
良い意味でも悪い意味でも、他国に依存した経済構造を作り上げてきた日本にとって、この世界の民族との交流は必要不可欠といって良かった。
「それにしても、驚きましたね。 まさか、エルフや獣人なんてもの……、いえ、方たちと現実で接触する事になるとは」
「確かにそれは言えるが、幸いにも理知的な交渉が出来る方達で良かった。 明日の会談もこの分だと期待できるよ。 さて、船旅の疲れを癒す為にも今日は早めに寝ようか」
「はい」
田中の声で一同はソファから立ち上がり、水を飲んだり、歯を磨いたりと就寝の準備を整えていく。
「すいません、ちょっとトイレへ……」
そんな中、一人の職員が立ち上がり、室外に備え付けられたトイレへと向かった。
クワ・トイネ公国の生活水準は非文明国の中では飛び抜けて高く、この宿舎のトイレに関しても、室内に備え付けられた便座から地下に埋められた下水道へと便を流す、という比較的高度な作りになっている。
とは言え流石に日本の水洗トイレ並、とは行かず便所へと入ると据えた便臭が漂い、職員の男は微かに眉をしかめた。
「この国がもし日本と貿易をする事になったら、上下水道のシステムを輸入出来そうだな………、さて……」
用を足すか、と彼が便座の上に乗せられた木製の蓋を除けた時、その内側から黒い何かが獣が唸るような大きな羽音を響かせ、飛び出した。
「ひっ!」
職員は勢いよくドアの外へと飛び出て、照明の備え付けられていないトイレに行くために持ってきたペンライトを使ってそれが何か確認しようとする。
だが、それを………、茶色い大きな羽で宙を舞い、長い触角を頭から生やし、油を塗ったように黒光りする胴体を持つその虫を……、彼はまともに見てしまった。
「ぎ、ぎやゃゃああああああああ!!!」
大の男にあるまじき悲鳴に、外務省の職員達や、護衛として随伴している自衛隊員達が自分たちの部屋から飛び出し一斉にトイレへと集まる。
「落ち着いてください、一体何が……うぉぉぉぉ」
いの一番に駆けつけてきた自衛隊員の胸に、大きさ三十センチ程のその虫が止まり、常日頃から厳しい訓練を通して培ってきた精神力を無効化するほどの衝撃を与える。
それから数十秒間、駆けつけた日本人たちの間を縦横無尽に這い回り、飛行する虫に阿鼻叫喚の地獄が繰り広げられた。
「えいっ!」
混乱に終始符を打ったのは、騒ぎを聞いて駆けつけてきた海軍宿舎で働く掃除人の少女だった。
彼女は両手で持った箒を使い、虫を地面に叩き落とすと勢いよく何度も打ち据える。
やっと彼らが日本の代表団としての使命を思い出した時には、虫が完全に潰されて、体液を床に撒き散らした頃だった。
「申し訳ございません! 宿舎内の茶羽虫は念入りに駆除していたのですが……、ここのトイレは普段あまり使用されないので、下水道から上がってきてしまったみたいです」
「い、いえ、こちらこそお見苦しい所を……。 我々の知る虫によく似ていたもので、つい取り乱してしまいました。 ところで、この……、巨大な虫はこの国に多く生息するものなのですか?」
「ええ、数年前はそうでもなかったのですが、今ではクワ・トイネ公国の至る所にいますよ。 古い空家などには数十体のこの虫、茶羽虫の群れもよく居ますし……。 何でも、このロデニウス大陸の近くにあるアルタラス王国やシオス王国でも、輸出品に紛れて茶羽虫が侵入した事があって、幸い数が少なかったので駆除は出来たようですが、それが原因で今じゃ殆ど交易停止状態ですよ。 ……あ、それとさっき、この虫が巨大と言いましたが、これは小さい方ですよ。 大きいのだと一メートル以上に……」
「ミーナ、君の職分を越えた事をするな! 外国からの重要なお客様に無駄話で時間を取らせてはいけない」
田中とミーナと呼ばれた少女との会話を遮ったのは、日本からの客たちの接遇を任されるエルフの男性だった。
彼は柔らかな……、だが微かに引きつったような笑みを浮かべ、ミーナを追い払う。
「申し訳ございません、彼女は掃除婦ですので、正しい礼儀など知らなくて……。 さ、明日はお早いと聞いております。 この場は私どもが片付けておきますので、どうぞごゆっくりとお休みください」
「は、はい……、そうさせていただきます」
男性の様子と立場から、この場でこの件について問い詰めても事態は進展しないと考えた田中は自衛隊員や外務省の職員達を促し、部屋へと戻っていく。
だが彼の頭の中は、新たに現れた特大の懸念事項の事で満たされてしまっていた。