ヒカルは文机に肘を立てて窓の外、空を眺めていた。
折角の休日だが特にやる事が無い。
いや、やりたい事が有っても肝心な‘やる気’が全く湧かなかった。
天気さえ良ければ遊びにも行けたし、こんな陰鬱とした気分にもならなかっただろう。
ヒカルは冷静に考えてそう思った。
正午近いのに外は暗い。
頭上に重たい黒雲を被っているのだから仕方ないと言えばそうなのだが。
「……あーあ。降り出した」
眺めていた曇天がついに雨音を弾き出して、思わず不機嫌な声が漏れた。
ヒカルは雨が嫌いだ。
気付いた時には嫌いになっていた。
雨が好きでないと言う人が大半だろうとはヒカルは思うが、違う。嫌いなのだ。
端緒はきっと物心ついた時期の事だろう。
大好きだった母方の祖母ヒナタの悲報を聞いたあの日。
…ヒナタおばあちゃんが亡くなったの。
涙ぐむ母の言う言葉に理解が追い付かないヒカルは、何となく自分が悪いことをしてしまったような気分になって目を逸らした。窓の外では大雨が降り出していた。
祖母の葬儀の日もまた雨だった。
棺に入った祖母の顔を見た時でさえ泣かなかったヒカルは、外に出て、しとしとと空気を湿らす雨を眺めた瞬間に、堰を切ったように泣き出した。
それからというもの、ヒカルは何か嫌な事があると雨の所為だと思うようになった。
そうやって謂れのない嫌悪感を溜め続けて、ヒカルは雨が嫌いになった。
–––だから、雨の日に無気力になるのも仕方がないのだ。
だらけた自分を恥じるでもなくヒカルはそう結論付けた。
「……ん?」
雨雲の行方を追っていた視線は自然に雨粒へと移り、上から下へと目線を交互にズラしていた時に、ヒカルは其れに気が付いた。
窓の外、向かいには私道を挟んで公園がある。この辺りの子供なら皆知っている、900平米程度の小規模な公園がある。
其れは公園の中央部の大きな樹の下に佇んでいた。
「出たな雨男」
数ヶ月前からその男を見かける。
見つけるのは決まって雨の日で、傘もささずにぼーっとしている。
雨男と名付けたその男の存在は、ヒカル以外の誰にも見えていないらしい。
一時期は頑張って雨男の存在を伝えようとしたがクラスメイトには変な奴と思われるし、家族には「そういう年頃だから」の一言で済まされてしまった。
雨の日にヒカルの機嫌が良くないのもあって、ここ最近の苛立ちは全てその不審者にむけられていた。
「……よしっ」
ヒカルは勢いつけて机を突き飛ばすように跳ね起きた。
簡素な上着を羽織り、部屋を飛び出して一階へと駆け下りる。
この機会を待っていた。
次に見かけたら必ずあいつに文句を言ってやろうと。
ヒカルはビニール傘を差して樹の下に近付いた。
近くに来た事で雨男の容姿がハッキリと認識出来る。
何と言うのか、存在感が無い男だとヒカルは思った。
モデルのような整った容姿だが生気を感じない。青白い肌で身じろぎ一つしないその立ち姿はまるで服屋のマネキンのようである。
ヒカルは雨男の出で立ちに怯むが意を決して話しかけた。
「おい」
「なんだい」
返事が返って来た。
会話することを予想していなかった訳ではないが、その低い声は雨の中にあって良く聞こえた。
「あ…ええと、こんな所で何してるん…ですか」
「何かしているように見えるかい?」
雨男はヒカルの方を見ない。
更におどけたように返されてヒカルはついカッとなった。
「ばっ、馬鹿にしてるのっ」
「してないさ。聞いただけ」
「…じゃあ何してるの」
「何もしてないさ」
雨男はヒカルを流し目で見てニヤリと笑った。
この男は、自分を子供だと思ってふざけているのだ。
今度こそヒカルは怒った。
「やっぱり馬鹿にしてる!」
「してないさ。質問に答えただけ」
「うるさいうるさいっ。この雨男っ」
雨男は微笑んだまま喋らない。
パタ、と木の枝から垂れた雨滴が傘を叩く音ばかりが響く。
ヒカルの怒りが鎮まり始めた頃合いで雨男が口を開いた。
「雨男っていうのは何だい?」
「…あんた雨の日にしか見かけないから、だから雨男」
「そうかそうか」
雨男は納得したようにしきりに頷いた。
何が面白いのか口角は上がったままだ。
ヒカルはそんな雨男の態度が気に食わなくて鼻を鳴らした。
「ふん……あんた、名前は」
「レインマン」
「そのまんまじゃん」
また馬鹿にしてる、とヒカルが睨むと雨男は「してないさ」と笑う。
「君は何しにここに来た」
雨男が木陰から踏み出してそうヒカルに問いかけた。
雨に強く打たれていてもその重い声は真っ直ぐに耳に届いた。
やっと本題に入れる。
ヒカルはキッと眼光鋭く雨男を見据えた。
「文句を言いに来たの」
「聞こうか」
雨男は飄々とした態度を崩さない。
ヒカルはまた沸々と怒りが湧いて来た。
「私は雨が嫌い!」
「ほう」
「雨雲も雨粒も雨音もみーんな嫌い!」
心からのヒカルの叫びである。
故にその叫びには迷いが無い。
「嫌いな雨の中で立ってるあんたが気に食わなくて!実際ニヤニヤして気取ってて嫌なやつで!」
だから––
「私は
言いたい事は全て言った。
もう帰ろう。
叫んだ勢いそのままにヒカルは踵を返そうとしたが、雨男の声を耳が拾ってしまう。
「君は雨が嫌いか」
「違うわ、大っ嫌いよ」
振り返ると視界が真っ黒い。
目の前まで雨男が接近していた。
思わず出かかった悲鳴をヒカルは意地で飲み込んだ。
雨男はヒカルの視線に合わせるように屈むと今までとは違う心からの笑顔で言い放った。
「俺は雨が大好きだ」
「なっ……!」
「君が雨が大嫌いだと言うのなら、大好きな俺が相手になろう。また今度、話をしよう」
「あっ、待ってよ!」
雨男は言い終えるとヒカルを抜き去って歩いていく。
「何なのよ、アイツ」
振り向いた先に、男の姿は無かった。
最初から居なかったかのように。
雨はもう、上がっていた。
次に出会ったその時は、とびきりの悪態を吐いてやろう。
そう考えたヒカルは、不思議と嫌な気持ちでは無かった。
嫌いな雨の日に、一つ楽しみが出来た。
ヒカルはその日、絶対に相容れぬ存在と遭遇した。
ヒカルの最も嫌いな梅雨の季節のことであった。