男が帰還したのは、梅雨の雲間に一瞬高い空が覗いた、丁度その時だった。
帰還の報告を済ませた御手杵が自室の障子を開けると、同室の男が書を開いていた。黒髪の男は御手杵を見もせず、けれど誰がいるのかは確信を持って口を開く。
「おお、お帰り。……理由は見つかったか?」
「理由?」
男が頁を捲る。御手杵が後ろ手に障子を閉じる。御手杵からしてみれば十数年ぶりの再開だというのに、此方を見もしない。
「戦う理由は、見つかったか」
まっすぐな口調だった。顔を上げればいいものをと思いながら、しかし御手杵はその質問に内心首を傾げた。
「俺たちにそんなもの必要か?」
槍とは皆、戦うものだ。それがたとえ戦塵を知らぬ宝槍であっても。武家のものですらなくとも。彼らは戦に飢え、血に渇く。
「……ああ。うん、見つかったよ」
本当は、とっくに見つかっていた。ただそれをただしく言葉にすることができなかっただけだ。
歴史を曲げれば、結城秀康が天下を取ることもあるのかもしれない。けれどそれは、御手杵の見た未練を無に帰すことだ。その時間を生きた彼の足掻きを、無為と定めることだ。歴代十七人の主の夢は、葛藤は、道程は、決断は、御手杵の目に今でも眩く輝いている。それはたかが鋼の塊が、手を出していいものではなかった。
目を閉じればそれだけで、今でも炎を夢に見る。人の悲鳴とけたたましいサイレン、家といきものの焼けていく臭い。御手杵の知る、唯一の戦場を。
「末期の夢なら、どうしようと俺の勝手だ」
止まった時計から抜け出ない限りは。
それなら御手杵は、一度称号を捨てることにした。非戦の象徴が武功を求めるその矛盾を、もう何百年と無理矢理飲み下してきた。しかし自分の魂が今でも燃え盛る戦場に在るというなら、非戦を謳うことに何の意味があるだろう。それさえ忘れれば彼に残るのは家の名と、天下に冠たる三槍の一つであるということ。
「三名槍舐めんな、串刺しにしてやる……!」
太陽と紛うばかりに輝く鋼に巨体の鬼がたじろいだ、気がした。奇妙なことに見当違いの場所に手中の大太刀を振り下ろさんとした赤鬼は、迫る大身槍を避けようともせず、瞬きのうちに宣言通り心臓辺りを串刺しにされた。
力の抜けた鬼の体躯がずるりと四尺六寸の槍身から抜けるのを一瞥すると、新たな敵の方へ向かって身を翻す。降り注ぐ陽光よりも、その鋼の芯から輝く光を映して、榛色の瞳は赤銅に輝いていた。
彼の目の戦場の誉れに輝く様が、一度も見たことのない色をしていることに浦島虎徹は気がついた。それは虎徹の刀の知りえない、天下をその鋼でもって己がものにせんとする武家の瞳だった。
すれ違う千歳緑の背にふと違和を覚えた。戦場から戻る男の姿が以前と違うように思えたのだ。
「御手杵」
思わず呼び止めて、振り返った姿に確信する。戦法の違い、というよりこれは。
「ん、同田貫か。どうしたんだ」
かつての彼ときたら手柄をあげては首を団子刺しにして頭上に掲げるものだから、髪から上着から赤く染めて帰るのが常だったものだが、べったりと返り血に濡れているのは腹や腕ばかり。
「首は?」
同田貫の金の瞳が未だ血の流れる三角造りの槍へ向く。当然、以前は度々槍に刺したまま持ち帰っては散々に叱られていた首級もそこにはない。
ああ、と納得したように呟くと、御手杵は困ったように微笑を浮かべた。
「もういいかなって」
かつて見たはずの景色をなぞって鬼の首級を連ねることに、意味を見出せなくなった。骨ばかりの首の軽さが、ほんとうの人の重さがわからなくなったから。
このひとがたの器がものがたりでつくられたことを、御手杵はよく知っていた。
知るはずもない血のにおいを、連ねられた首級の重みを、蛇神の鱗を貫く感触さえ、彼は知っていた。炎の熱と同じように覚えていた。しかしそれももう、何年も前の話だ。
あらゆる「あり得た過去」のうち、正しいものを選び出す。あまたの逸話を砕いて飲み込んでたった一つの真実のみを残す。それはまさに無銘の鋼の製作者を定めるのと同じように。より細く、鋭く、揺れる事なき強靱な
その夜はひどく冷え込んだ。もう七月を迎えようかというのに、細々と降り続く雨も相まって、春も来ない三寒の日のようだった。
「邪魔するぞ」
僅かに開かれていた障子戸を開け、躑躅色の髪の大男が部屋に入る。応えを返したのはこれまた六尺半を数える大男で、男にしては長い黒髪を束ねもせず無造作に流している。
「応。蜻蛉切、主役は?」
「青江に捕まっていた。声はかけたから十分もすれば来るだろう」
蜻蛉切の言葉通り、十五分は過ぎないうちにもう一度障子が開いた。手に何やら銀色のボウルを持っている。本丸のあちらこちらにある台所のどこかから貰ってきたらしい。
「ただいまー。なんか大般若にコールスロー?貰った」
「お、よくやった」
朱塗りの杯が三つ、色違いの猪口も三つ。乾き物が幾らか、御手杵の貰ってきたコールスロー、そしてなぜか大きなカステラが一枚。御手杵は日本号が押入の奥に何本も酒を仕舞っているのを知っているし、蜻蛉切は御手杵のいない四日のうちに日本号が酒を買い足していたのを知っている。場に出ているのは瓶二本だが、それを飲みきれば終わりとはならないだろう。そも彼の持つ徳利が空になることはない。
それじゃあ、と御手杵が言う。修行から戻った祝いなのはいいけれど、だったら音頭は自分ではなく用意した日本号ではないのかなどと思わないではないが、それはともかく。
「乾杯」
杯を何度か乾かした後、予想通りではあるが面倒になって皆手酌で猪口に注ぎだしたあたりで、ふとなんでもないような声で日本号が水を向けた。
「で、何を見てきたんだ?話して貰おうか」
「秀康様に、会ってきたよ」
天下を取れなかった、狙うことさえ叶わなかった、あの人に。手杵の槍を使いえた、我が主君に。
秀康様、と蜻蛉切が繰り返した。不思議なことではなかろうに。栃色が頷く。
「それで、考えたんだけど」
俺はやっぱり武家の槍だった。松平の槍はそう言い切った。
「俺は天下が欲しい。天下一の槍という名が欲しい」
そのための武功が、そのための主君が、俺には必要だ。
その槍身のごとく真っ直ぐな榛色の先で、躑躅色は驚きに丸くなり、紫紺は薄く細められた。
この本丸、閉ざされた異空間にただ三つの槍は、しばらく互いを見つめて何も言わなかった。
最初に視線を逸らしたのは西の槍だった。酒を注ぎ足しながら、薄く笑って口を開く。
「日本一の称号はやれんがな、オレと並ぶ東の槍が、天下一の名槍でないはずがあるかよ」
だいたいお前らズレてんだよ、と日本号は続けた。
「武功なんぞなくともオレが日本一の槍であることに変わりはない」
かつての主人が号を与えた時、倶利伽羅龍の槍はまだ人の血を知らなかった。しかしそれでも彼の名は揺るがない。揺るぎようもない。其は最もうつくしきもの、ひのもといちの、その美において並ぶものなき
「では競う相手は俺か。とはいえ俺も目指すところは
蜻蛉切の槍が目指すのはかつての主人の栄光と名声そのものだ。彼の知るそれが真であると、この世のすべてに知らしめるように。あいにく既に生涯無傷とはいかない身の上ではあるが。
「競うに不足はない」
二槍がどこか攻撃的な笑みを浮かべてそう言ったのは、ほとんど同時だった。
「よし、呑むか!」
難しい話は終わりだと言わんばかりに日本号が大声で言う。それでこそ天下に冠たるもの、自身と並び称される二槍であると、ほとんど笑いながら。
「おー。あ、そう言うならお前も飲めよ?」
これじゃなくてな、と御手杵が「日本」の字の書かれた徳利を持主の手から奪い取る。なにせこれの中身は当の日本号に限れば酒の味がする水と同じ、それどころか泥酔しても一口でほろ酔い未満の正気に引き戻す代物だ。酒の席にこれほど無粋なものもない。それはそれとして風味も何も自在なものだから、普段は何も言われず便利に使われているのだが。
「あ、おい。やめろ。蜻蛉もなんか言えって」
「ふむ。……俺も天下争いから一抜けされるのは気に食わんと思っていたところだ」
そう言うと、躑躅色の瞳の男は紫紺の前に大ぶりの猪口を突き出した。
「呑み勝負だ。よもや九州の男が嫌とは言うまい?」
「嫌だよ。知ってんだろ」
呑み勝負で主人を変えざるを得なかった過去があるのだ。嫌に決まっている。他ならともかくこの二槍を相手に意地を張る必要もなし、ばっさりと切って落とす。そのはずだったのに、横から口を挟んだのは気が抜けて酔いが回ったのだろうか、先より薄らと頬を赤くした御手杵だった。
「まあまあ、なんも賭けるわけじゃないんだからいいだろ別に」
「そら、主役もこう言っている」
「ったく、しゃあねえな。今日だけだぞ」
他の刀どころか現所有者であるところの審神者に言われても断るだろうに、三槍の間ならばと了承してしまうあたりが「槍は互いに甘い」と言われる所以だろう。
「よし来た。潰してやろう」
「俺らあんま強くないし二対一な」
「勘弁してくれ……」
この閉ざされた場所、人工の空の下にただ三つの槍がある。
日本一の正三位の槍。天下無双の常勝の槍。天下一の松平の槍。
過去と未来に積み上げられた無数の鋼らの頂点に、鉄の鬼が流す無量の血に浸って在る。