深海さんに渡された一回り重くなったスマホを持ち上げる。お母さん……。今家にいるのはお婆ちゃんだけかな。……どっちにしても気が重い。心の中にも、もう少しここに居たいと駄々をこねる自分がいて。
そのせいか私の指は電話帳を開かずにスマホの上を意味もなく彷徨う。動きの鈍い私に深海さんが大丈夫かい? と心配げに言ってくれるけど、その言葉は指をもっと鈍らせるだけだった。
いっそ……。
はは、いっそどうしようと言うのさ。これ以上好意に甘えるのは間違ってる。
そう思うと、さっきまで重かった指が嘘みたいに軽くなった。そうして軽くなった勢いのまま電話帳を開いて連絡先欄の家をえいっと選ぶ。選んでしまう。パッと画面が変わり通話画面が出た瞬間、なぜか目頭が熱くなるのを感じた。
◇
電話をしたら案の定、お婆ちゃんにこっぴどく怒られた。それを深海さんがなだめてくれたんだけど、そこでまたお婆ちゃんと一悶着。
なんのかんのと文句を言いながら、心配してくれていたお婆ちゃんには本当に悪いことをしたと思う。思ってる。
「まったく、あたしは心臓止まるかと思ったよ」
「……うん」
でも……ごめんなさい。
……私は
……私はまだ
「早く……、ぬぅ……。落ち着いてからでいいから帰って来なさい」
「……うん」
「夕飯は何が良いね? はんばーぐでもおむらいすでも良いよ」
「……ねぇ、お婆ちゃん。私、もう少しこの人の家に泊まってもいいかな……」
帰りたくない
◇
当たり前のことだけど、私のその言葉を聞いて、お婆ちゃんは烈火のごとく憤慨した。たぶん深海さんに何かされたのだと勘違いしたんだと思う。スマホを離しても響く怒号に、私がしどろもどろになりならがら狼狽えていると、深海さんが私からスマホを取り上げて、お婆ちゃんと話を始めた。
まくし立てるお婆ちゃんに対して深海さんはどこまでも丁寧に対応で、私にも言っていなかった自分の情報を惜しげもなくお婆ちゃんに話して、なぜか私のわがままを後押しするように話しを進めてくれていた。
昨日今日の仲でこんなことを言うなんて無茶もいい所なのに。なんでそんな助けてくれるの? 私の困惑を尻目に深海さんはお婆ちゃんに弁明を続けている。
……覆水盆に返らずとはよく言ったもので、わやくちゃになった思考で零してしまった一言のせいで、2人を争わせてしまっている。……その事で胸に熱いものを溜めてしまった私はきっととても悪い子だ。
私が後悔している間も話しはなぜか決裂しないまま続いていた。お婆ちゃんも深海さんが色々と説明しているうちに冷静になったようで、10分ぐらいすると話し合いは落ち着いた調子になっていた。
……別に隠す訳でもなく交わされる話し声は聞き耳を立てれば聞こえる訳で。私の中でも薄々思っていた深海さんが1年の事を知っていることもしっかりと聞こえた。
その上で私を守る……なんてカッコいいことを言ってるのも聞こえてしまった。頰が熱い。ちょっと嬉しい。
最終的に、事件を知っている事と深海さんが自営業を名乗っていたのとは別に自衛隊員という公的な立場を持っていることが決め手となって、私はしばらく深海さんの家にお邪魔できることになった。
望外と言うか茫然と言うか、本当に良いのかと私は自分で言っておきながら驚きと困惑で満たされていた。
そんな茫然としていた私を正気に戻したのは、お婆ちゃんに丁寧に挨拶をして電話を切った直後、げっそりとした様子の深海さんの声だった。
「ほんと、言い方には気をつけてね! 本当に! 下手するとお兄さん捕まっちゃうから!!」
なんとも悲壮感を感じさせる顔芸をした後、ケロッと態度を変えてそれはそうとしてと、私の生活面の話を始める深海さん。
深海さんの話に適当に反応を返しながら、
……それって……言い方さえ気をつけていれば、もっと簡単に家に置いてあげられたのに、って意味なのかな。
そんな都合の良い考えが頭に浮かんだ。
◇
深海さんの話が終わって、堂々と居座れることになってしまった深海さんの家。
リビングのソファで膝を抱えた私が次に考えついたのが、厄介払いという単語だった。
……馬鹿
一瞬で湧く自己嫌悪。
……本当に
……本当にしょうがない人間だと自分でも思う。
何もかもが寒くてぎゅうと身体を縮こませる。
人の家に突然転がり込んでそのまま居座ろうとして、それが上手くいったら、今度は家族に見捨てられたかも知れない。なんて思っているのだから。
身勝手にも程がある。
それなのに、悪い妄想とそんな妄想をした自分自身への嫌悪感で勝手に胸がズキズキと痛む。そんな資格無いのに。
……家族を信じられないどうしようもない自分が、手を差し伸べてくれた人に図々しくすがってしまうどうしようもない自分が、私は嫌いだ。
そしてそんな自分を受け入れてくれて。受け入れてしまってくれて。
「……ごめんなさい。深海さん」
私がそう言ったのが聞こえていたらしくて、深海さんはなんだそんなことかと笑う。
これから迷惑をかけられる側なのに何故か深海さんは私より明るい。
そんなことかで済ませるようなことじゃ無いでしょ。ある日突然、人を家に住まわせるなんて。しかもこんな馬鹿な爆弾娘なんて。
ぐっと膝に顔を押し付ける私の頭に深海さんの手が乗って、優しく撫でられる。
まるで犬や猫の様な扱いだ。……それでも優しい手に抵抗はできない。……したくない。
「謝る必要なんてないよ。そもそも、響ちゃんが言わなくても俺の方から言うつもりだったしね」
「え?」
驚きで顔を持ち上げると、妙に優しげな瞳と目が合った。
「そうなの?」
そんな都合の良いことがあるのか。
ぽかんと開けっぱなしになっていた私の口に深海さんが籠から取り出したクッキーが入れられる。
ホロホロと口当たりの軽いクッキーが砕けて甘みが広がる。
口に入れられたクッキーを頬張りながら目をパチクリさせている私の顔を覗き込むようにして満足げに笑った深海さんが、一転して身体をそらして顔を背けると恥ずかしそうに頰をかいた。
「まぁ、なんと言いますか。響ちゃんみたいな可愛い子に頼られちゃったら、男と言う生物は一も二もなく尽くしちゃうわけで」
忌まわしきは男の性よ。と劇のように片手を胸に片手を上に掲げ大仰にのたまった深海さんはその後に、しゃがみこんで私の目を見つめた。
「だから響ちゃんはいくらでもここに居ていいよ」
胸がドキってした。
私が返事をするより早く深海さんはうわぁカッコいいこと言っちゃったなぁと頭を抱えながらキッチンの向こうに消えた。
胸がドキドキして顔が熱い。
湯気が出そう。
頭がくらくらしてソファに倒れる。
ご飯を食べた後ぐらいからぼーっとしていた頭が、あんなにびっくりして本当ならシャッキリするはずなのに、なぜかもっとぼーっとしてきてる。
もっとちゃんと考えないといけない事があるのに……。
……えっと、まず、なにをしようかな。えっとあたままわんない。
どうしよ……
きゅう
◇
頭冷たい。
のっそりと重たい身体を起こすとそこは数日の間に随分と見慣れたリビング。テーブルが端に寄せられ、私の入った布団がリビングの中央を陣取っている。どうやら風邪を引いたみたい。昨日あれだけ雨に打たれれば当然と言えば当然かもしれない。
かすかにBGMのように流れる音声はテレビから。なぜかついているテレビでは少年が泥棒にイタズラを仕掛けていた。
なんとなくテレビを眺めていると、起きたんだと深海さんの声が聞こえた。
振り返ると何かの乗ったトレーを運ぶ深海さんの姿。
「……深海さん」
「はいはい、深海さんだよ。はいコレ林檎ね」
トレーに乗せられていたのは皮付きりんごの角切り? といくつかのゼリー飲料。
それを私の横に置くと深海さんが私の額に手を当てる。額に貼られた冷えピタがきゅっと存在を主張する。
「まだ冷たいね。……ごめんね。シャワー浴びて着替えて寝たから大丈夫だと思ったんだけど」
申し訳なさそうにする深海さん。悪いのは私なのに。
「……ごめんなさい」
「いいって、いいって、ほらりんご食べな」
深海さんがりんごの乗ったカレー皿を私の布団の上にのせる。なんでカレー皿? 底が深めだから?
そんな疑問は置いておいて、とりあえず言うことは言わないと。
「……ごめんなさい」
パキパキとゼリー飲料のキャップを開けていた深海さんが笑おうとして、渋い顔をした。
「……俺は気にしてないけどね。……やっぱり、ごめんなさいより別の言葉が聞きたいな」
ほら……ね? と聞くように言われたけど、深海さんが何を求めているが分からなくて頭が真っ白になった。
別の言葉?
他に言うことって、
分からない、
何を言えば、
何が欲しいの、
分かんないよ
訳がわからない私は深海さんに待ってと言ってこめかみに手を当てようとして腕を曲げようとして
深海さんが私を横から抱きしめてきた。
ギョッとして身体が強張る。まず起きるのは困惑と恐怖。カチコチになった私の身体を深海さんは柔らかく抱きしめる。
いつまでも硬直し続けられない身体の仕組みと、何をするでもない深海さんの寄せられた胸から聞こえるゆっくりとした鼓動に緊張がほんの少しだけ解かれる。
私の硬直が解けたのを確認して深海さんが腕を解く。振り向いた私と目が合い深海さんは悲しげに笑った。
「俺は……、響ちゃんにありがとうって言ってもらえたら嬉しいなぁって。えと、ほら、ごめんなさいとありがとうって使い所が似てるじゃない? だから、ごめんなさいでもありがとうでもどっちでもいい時ならありがとうの方が良いなって。それだけだったんだよ」
ありがとう
……あぁ、そんな言葉有った。
長い間、そんな言葉を使うことなんて考えもできなかった。
いつのまにか言葉自体を忘れてしまっていた。
こんな簡単な事を忘れて、
ごめんなさい
口ずさむように息をするように言いそうになった言葉をすんでで飲み込む。
さっき言わないでと言われたばかりなのに、もう言いかけていた。
でも……他に何て言えばいいんだろう。
困って黙り込んだ私の口に深海さんが不恰好に切り分けられたりんごのカケラが押し付けられた。
仕方なく口を開いてりんごを受け入れる。この人は話が行き詰まるとお菓子を差し出す習性でもあるんだろうか。噂に聞く大阪のおばちゃんみたい。
そんな事を思いながらりんごを食べる私を見て、深海さんは今度こそ満足げに笑うと、じゃあちゃんと寝ないとダメだよ。と言って立ち上がった。
リビングに布団を敷いているせいか深海さんの顔は遠い。
「……待って」
ピタリと深海さんの動きが止まって振り返る。
「どうしたんだい」
「……寝たくない」
寝るのは……怖い。
小さな子供のように駄々をこねる私に、深海さんはただそっかと言ってテーブルのあった場所に置換された布団の横にソファを寄せるとその上に寝っ転がった。
「それじゃあ、おしゃべりでもしようか。話術に自信は無いけどね」
ポンポンとソファを叩き、りんごの皿を私の布団からどけて、皿からりんごを摘んだ。そして私にも1つ差し出してきて、私はそれを向けられるまま口で受け取った。
サクサクと軽い歯ごたえと爽やか甘みが口に広がる。
胸がぎゅってなる。
この人はどこまで甘いんだろう。
「どうする? 何か用意するかい」
「……えっと……なら、映画、見たいな」
「そう、何がいいかな?」
「……楽しい奴がいい」
「オーケー。古い奴でもいいかな?」
「うん」
深海さんがソファから降りてビデオデッキに向かう途中で私の頭を撫でて行く。
気分は悪くなかった。
バグか仕様か知りませんが何故か他の話数が複製されて焦りました。
消えてたら失踪案件でしたねぇ(滝汗