これだけ有れば無印編は完結できる!
シリアスではない(シリアスではないとは言ってない)
賢治の口調が毎度毎度あやふやですが、そういういつも何かの役を演じているタイプである以上に、私自身の賢治に対する印象自体があやふやになっているのが原因だったりします。(オイ
正直一人称は僕の方が良いんじゃないかと思っていたり。
二人で使うにはいささか大きすぎるリビングの中、向かい合うテーブルから静かなタイピング音が響く。目の前の賢治さんは朝から妙にゴツいノートパソコンを叩き続けていた。
「……賢治さん」
ノートパソコンを叩く音がピタっと止まり、家の中から一層音が消える。
「ん、何か分からない所あった?」
「……ここら辺全部」
この自称天才科学者にとってすれば私の行き詰まっている所なんて取るに足りないはずだけど、それでも賢治さんはきちんと目を通してすぐ解決策を出してくれる。
ただ一つ問題があるとすれば……
「ふむ。……なるほど。じゃあ。はい。ここ読んで」
そう言って賢治さんが渡してきた小冊子の名前は『はじめての数学』
「……それ中1の奴」
賢治さんがにんまりと意地の悪い笑みを浮かべる。
「口にして欲しい?」
「いえ、結構です」
「よろしい」
賢治さんは直に教えるのではなく教科書の該当部分を指し示すのだ。
賢治さんの差すのは私が今行き詰まっている部分の大元に当たる場所で一通り読み終えた頃には早く解いて次に進みたくなるぐらい問題が分かるようになるんだけど、こうやって容赦無く言外に「とっくの昔に習った場所だよ」と言われると少し凹む。
賢治さんはこれっぽっちも悪気が無いんだろうけど。
鬱屈した気持ちのままガリガリと数式と答えを書き殴って次へ進もうとするとパッと捲ろうとする手を賢治さんに抑えられた。
「……なに?」
「ここ、計算間違ってる」
「えっ」
計算してみると確かに繰り上げが一つ足されてなかった。
「慌てなくて大丈夫だよ」
さっきまで私の手を抑えていた手が私の頭に伸びる。
けど、そうされるのが気恥ずかしくてその手をすぐに払い落としてしまった。
「別に頭撫でなくていい」
「えー」
「えーって」
「響ちゃんの髪ふわふわで触り心地いいのに」
「……もう二度と撫でようとしないで」
「そんな。少しだけ、ね? 少しだけだから」
賢治さんが私の方へ向けた手の指先が多足の虫のように滑らかに蠢く。
妙に生物的に動くのが肌色と相まって
「……ちょっと、やめて。気持ち悪い」
「ごめんなさい」
本気で気味悪がった私の気持ちが伝わったのか、賢治さんは悪ノリがすぎたとすぐに謝ってくれた。
すぐ謝ってくれたしそれについては許したけど、頭は撫でさせなかった。
◇
「それにしても、勉強しようって急に言い出してどうしたの」
「響ちゃん。君はもう中学3年生であと4ヶ月で高校受験だよ?」
「うっ。でも、私あんまり学校行ってないから内申点悪いし」
「そんなの気にしない気にしない。確かに公立は難しいけど私立だったらいくらでもどうにでもなるよ」
賢治さんは、私が学校のことを言うたびにする半ばお決まりと化した「またくっだらないこと考えてるなぁ」と言った感じを前面に押し出したお気楽な様子で私になんとかなると言ってくる。
「じゃあ、賢治さんのオススメの高校って何かある」
「俺にその質問したらリディアン音楽院しか出てこないよ」
急に真顔になった賢治さんが早口でそう言った。
「……賢治さんってリディアン音楽院好きなの?」
「いや、単純にリディアン音楽院の近くに取引先があるだけ。ちなみにそこが元職場なんだけど、今は俺しか作れないパーツ高値で売っぱらってるのさ」
賢治さんはそう言って愉快そうに、にししと笑う
「まぁ、それ以外は勉強と研究しかしてこなかったからね」
「そうなの」
「そうなんだよ。生まれてこの方、身体が弱くて小さい頃は病院から出たことが無くてね。まともに学校行ったこと無いおかげで本とパソコンだけが友達って感じだった」
「…そうなんだ」
「そうそう。俺の人生は今まで九分九厘勉強と研究で構成されていたけど、響ちゃんが来てくれたおかげで随分と華やいだよ。ありがとうね」
そう言ってにこにこと笑う賢治さんに対して
「……うん」
私は何も言えなかった。賢治さんの身の上話はあまりにも短絡的で詳細も何もあったものじゃなかったけど、賢治さんのこの何処か作り物めいた戯けた雰囲気や物語の人物のような地に足がついていない感じはそういう世間を知らない所から来ているんじゃないかと思った。
「……あの、賢治さん。賢治さんって友達と遊んだことないの」
一つの病院の中には何人かは子供の患者も居るはずだし、入院している子のための院内学習室のような所は大きめな病院ならどこでもあるはず。
「また自分に飛んできたら痛そうなブーメラン投げてきちゃってまぁ……。無いよ。俺、基本面会謝絶だったし」
あっけらかんとそう言ってのける賢治さんの様子に私の心が冷え込んでいくのを感じる。あの日私を助けてくれた賢治さんはとても暖かかったはずなのに、今目の前にいる賢治さんはとても冷たく感じる。
別に賢治さんの態度が冷淡になっていると言う訳じゃない。
ただ、そうただ、私が思っていたより賢治さんの心は冷え込んでいるのだ。
「あ、響ちゃんは友達って事でいいのかな? それなら」
「賢治さん!」
なんだか堪らなくなって賢治さんの名前を叫ぶ。
「ど、どうしたんだい」
ビックリしたぁとオーバーなリアクションを取り、柔和な表情を浮かべる賢治さん。そのいつものコミカルな姿に、今は無性にいたたまれなくなってとっさに賢治さんの手を握った。
「本当にどうしたの。何か怖い事でも思い出した?」
そう言って賢治さんはハンカチを取り出して私の目元を拭う。
知らないうちに涙まで出てしまっていたようだ。
「なんでもない」
「なんでもないって、でも」
「なんでもない!」
語気を強める私に賢治さんは仕方ないと言った様子で手を私のされるがままにして、遠慮がちに私の頭をひと撫でした。
「そっか、なら何か言いたくなったら言ってね」
──言いたいのは貴方のことなんだよ……。
言いたくても何を言えばいいかわからない私に賢治さんはそう言って私の握った手をゆっくりと外そうとする。
とっさに賢治さんの手をもう一度強く握った。
「もう何か言いたくなったのかい」
賢治さんの手を引き寄せて両手でぎゅうぅっと賢治さんの腕を抱きしめる。
ぎゅっと胸に抱く。賢治さんの腕は硬くて冷たくて、氷のようだった。
「あ、ははっ。これはちょっと恥ずかしいね」
ぎゅうううっ
私の熱を移すように賢治さんの腕を強く強く抱きしめる。
「賢治さん」
「何かな」
「……また出かけようよ。私はどこでもいいから」
「いいね。今度はディズニーランドにでも行こうか」
「……もっと普通の所がいい。賢治さんも行ったことがない場所」
「そう……。分かった。また今度どこかに遊びに行こう」
「……うん」
抱きしめた賢治さんの腕は思っていたより冷たくて、それでもその冷たさがなんだか熱くなって火照った身体には心地よくて。しばらくこのままで良いかななんて。
そう思った矢先賢治さんが私の肩を強く押して絡めた腕が強引に離れる。
「さぁ! そうと決まったらやる事終わらせないとね! さぁ頑張るぞぅ。響ちゃんも! 遊びに行ってる最中に宿題のこと思い出したら気分台無しだよ。早く勉強終わらせてって、え、響ちゃんその拳はあ゛ッ!!!」
……せっかくの気分が台無しになってしまった。
天丼。
賢治のモチーフはプールの水です。
暑い日に入ると冷たくて気持ちいいのはもちろんですが、賢治のモチーフになっているのは寒い日に入ると温かくて気持ちいいあの感じです。
まぁ、受け取り方によって印象が変わるって感じで