もしもかごめちゃんが完全に桔梗さまの生まれ変わりだったら 作:ろぼと
────何故だ…
人妖の世の境界、逢魔ヶ時。
黄昏の斜陽に妖しく染まる草原に、ぽつりと浮かぶ鮮やかな紅白色が人目を引く。その白衣緋袴は乱世に喘ぐ無辜を救う救国の旅人、歩き巫女の身分を表す装束だ。しかし纏う女人の顔は蒼白で、瞳は救うべき民草と寸分違わぬ悲愴と絶望、そしてこの世の理不尽を呪う憎悪に淀んでいる。
肩から胸へかけて白衣を己の血で染め、泥に塗れる草原の巫女はそれでも、美しかった。
ふらふらと幽鬼のように歩む堕ちた傾城はただひたすら前を目指す。視線の先に佇むのは、国境いの寒村とは思えぬ見事な瓦葺きの御堂。その方形屋根より、小屋組を突き破り天を駆ける銀色の人影が飛び立った。
御堂に納められていた欲望の宝珠、『四魂の玉』をその手に備え。
────何故だ…!
突然の出来事を前に、巫女がその顔に浮かべたのは驚愕ではなく、悲憤。そんなモノのために、おまえは、私を。
艶やかな睫を涙で濡らし、食い縛る激情が女の美貌を般若へと歪ませる。無事な左肩に担いだ破魔の弓は、主の心を映す必殺の一矢だ。
ゆっくり、ゆっくりと巫女は弓の弦を引き絞る。十八年の生涯で何千何万と繰り返した動作は淀みない。だが番えた矢尻は宿る無数の感情にその鈍色を曇らせ、千鳥の如く震えていた。
────何故、私を裏切った…!
銀色の人影は軽業師も仰天する身のこなしで村の外へと駆けてゆく。何度と目にし、何度と触れたその子供らしくも逞しい背中を見て、巫女は大きく心乱される。
ああ、いっそ全てが悪い夢であったならばどれほど救われることか。だがその願いは届かない。巫女と少年、二人を繋げていたはずの心の糸は最早なく、肩の傷から流れ出る冷たい血潮が無言で現実を突き付ける。おまえはあいつに捨てられたのだ、と。
それでも、この期に及んで尚、彼と自分の間に残された微かな糸屑さえも探してしまうのは何故だろう。いつでもあの憎き半妖の少年を射抜けるというのに、巫女は胸中で荒れ狂う万感の思いに呑まれ、引き絞った矢羽を手放せずにいた。
そこで、女の時が止まる。
村人に追い立てられ踵を返した銀色の少年の横顔に、彼らしい勝気な笑みに隠れた───悲痛を見た気がして。
何故おまえがそんな顔をする。私を裏切った、他でもないおまえが。
それは巫女が、憎しみに呑まれる般若が尚も捨てきれない、何よりも大切だった想いの残滓。「バカバカしい、見間違いだ」と一掃する憎悪の津波の中に垂らされた細い糸は、全てを失った女が最後に縋った救いであった。
番えた矢尻はもう、震えていない。言霊の念珠に定めたかったその尊い言葉を、怨嗟の穢れに耐えたその僅かな美しい心を、女はたった一本の矢に込める。
彼に伝えたかった、その想いの名を。
かくして女の矢は放たれ、少年は──
「────かごめ?」
平成八年度の入学式が終わり、新学年最初の弓道部の部活動の心地よい疲労感が眠気を誘う、最終下校時刻の午後7時。
電車のつり革に揺れていた帰宅途中の女子中学生、清水由香は目の前の席でうとうとしている校内一の有名人の名を呼んだ。
「ちょっとかごめ、大丈夫? なんか
「わ、泣き顔初めて見た……って、感動してる場合じゃないわ! ハンカチ、ハンカチ」
気付いた隣の友人、岡本あゆみと増田絵里の援護もあり、渦中の同級生───日暮かごめが目を覚ます。
儚げな漆黒の瞳を、淵に浮かんだ涙のラメが彩る。入学した生徒は男女問わず誰もが一度は恋に落ちる、とまで謳われる彼女の人間離れした美貌に息を呑むこと少しして、未だ夢見心地な眠り姫より早く我に返った由香ら三人は慌てて友人の目元を拭ってあげた。
「こ、こは…」
「かごめ、しっかり。もう少しであんたの駅着くから」
意外過ぎる友人の姿に戸惑いながら、甲斐甲斐しくその華奢な背中を摩る由香。心配が伝わったのか彼女の呆けた顔に、いつもの全国ジュニア五輪優勝者の微笑が戻る。
「…ああ、すまない。見苦しいものを見せたな」
今日で十五歳になったばかりの少女とは思えない穏やかな声色で、硬く男勝りな口調の謝罪が紡がれた。白魚のように繊細な指でぶっきらぼうに目元を拭うそんな仕草もまた彼女らしく、かごめの調子が戻ったのを確認した三人はホッと胸を撫で下ろす。
「もー、びっくりしたんだから。学校だったら大騒ぎになってたところよ」
「でもお陰でママのお古のハンカチが、北条くんあたりに売れば万単位の値段が付くお宝にちょー進化したわ。洗濯せずに取っときましょ、うふふ」
「あっ、ズルい」
ここぞとばかりに茶化す一同にかごめの端整な眉が山形を作る。困った顔も綺麗だなぁとそれに見惚れる由香は、ここ最近の彼女が立て続けに見せるらしくない振る舞いが気になるあまり、今度こそとその心中を追及した。
「…ねぇ、かごめ。あんたやっぱりヘンよ。
由香はかごめへ向ける目に力を籠める。この神宮大会二連覇中の規格外な弓道部エース殿は容姿端麗文武両道才色兼備と文字通り完璧な女の子だが、完璧故に人を頼れない弱点があることを由香は知っていた。だからこそ、こうして就寝中のような無意識下でもなければ弱音を見せてくれず、このままでは誰にも気付かれないまま、学校はもちろん新聞テレビや女子弓道界など周囲からの高過ぎる要求にいつか潰れてしまうのではないか。そう不安でならないのだ。
だが、苦笑する友人はやはり、今回も彼女を頼ってはくれなかった。
「…大事ない。最近少しばかり夢見が悪いだけさ」
「ッ! かごめ──」
「大丈夫」
食い下がる由香は、そんなかごめの断言に思わず口を噤む。変わらない声色ながらその一言だけ、有無を言わせぬ迫力が籠っていた。
「…なに、心配するな。何かあれば遠慮なく私から寄りかからせて貰うよ。その時はちゃんと相談に乗ってくれるのだろう、由香?」
「──ッ」
ドキリと胸が高鳴るほど大人びた、柔らかい微笑が美少女のかんばせに浮かぶ。苦手な冗談を自然に交え、こちらを落ち着かせるような諭し方。纏う雰囲気も合わさり、かごめの言葉には万人を絆す聖母の子守歌の如き慈愛が満ちていた。
ずるい。由香は熱を持った頬を誤魔化すようにそっぽを向く。腹立たしいほどの子供扱いだと言うのに、彼女の配慮を嬉しいと感じてしまった時点でこちらの負け。また為すすべなく追及をはぐらかされた友人想いの少女は、今回も、渋々引き下がるしかなかった。
そしてそのままもごもごと口籠る由香の鼓膜を、非情な停車アナウンスが震わせる。
「ああ、そろそろ駅か……絵里、あゆみ。おまえたちにも心配をかけたね、すまなかった。今夜は明日の部活紹介のために英気を養ってくれ」
穏やかに「また明日」と友人の三人に言い残し、長身の少女の背中が電車の降車口より去っていく。変わらぬ毎日、時候の挨拶。だがトレードマークの白いリボンで結ばれた長い髪をゆらゆらと翻すかごめの後ろ姿に、由香は何故か言い知れぬ不安を抱いていた。
閉じたドアの車窓から見える朧げな彼女が、まるで二度と届かない遠くへ行ってしまうような気がして。
***
赤い夕焼けが紫紺に染まる中、かごめはぼんやりとした頭で通学路を歩む。脳裏に浮かぶのは先ほど電車で見た、いつもの忌々しい夢の記憶。この街に越してきてから、彼女は毎晩悪夢に侵され休まることがなかった。
あの、今でも信じ難い驚天動地から早十五年。いつの世も変わらない宵闇の夜空を見つめていると、時折今の自分の生きる"時間"が分からなくなる。足下が心許ない学生服の感覚が無ければ、全てが狐に化かされた幻だと言われても信じてしまうだろう。それほど日暮かごめという少女はこの平成の時代において異端で、誰にも理解されない孤独な存在であった。
「ただいま──」
『お誕生日おめでとう、かごめっ!』
そんな彼女が模範的な女子中学生として世間に紛れて暮らしていけるのは、偏に無条件な愛情をくれる心優しい日暮家の存在があるからこそ。
暗い顔で帰宅したかごめを、今世の温かい家族が手放しで歓迎する。未だ慣れない厚意に少女は思わず目を瞬かせた。
「おじいさま、お母さま……草太まで…」
驚くかごめが新鮮だからか、まるで自分のことのように盛り上がる一同。小柄な祖父とどこか浮世絵離れした母、素直でかわいい弟の皆がしみじみと彼女の半生の思い出を語り出した。
「うむうむ、かごめももう十五歳か。時が経つのは早いものじゃ」
「そうですねー。小さい頃と比べたら……比べてもあまり変わらないわね。昔から綺麗で賢くて、いつも通りの自慢の娘よ」
「ねーちゃん主役なのに遅いよー! ほら、お誕生日席こっちこっち。僕も料理作るの手伝ったんだよ」
混乱から立ち直れないかごめはあれよあれよと居間のちゃぶ台に広がるご馳走を口に突っ込まれ、なすが儘に祝われる。常に遠慮してしまう彼女のために毎年行われる日暮家独特のお誕生日パーティーだ。
かつての世では常に気丈に振る舞い、決して弱みを見せることの許されない日々を生きてきた。そんなかごめにとって、陽だまりのような新たな家族との触れ合いは気恥ずかしくて戸惑うことばかり。
そして毎度の誕生日恒例行事。年長者らしく蘊蓄を語ることが趣味な祖父が徐に懐から一つの紙包みを取り出した。
「オホンっ! ではまずはわしからのプレゼントじゃな。かごめ、手を出しなさい」
「じいちゃん、またヘンなのあげたりしないでよ?」
「やかましい! たいへーん由緒ある一品じゃ!」
「それが不安なんだけど…」
代々神社を管理してきた日暮家の子女は神秘の力、霊力に恵まれることがある。宮司を務める祖父もその一人。だがこの老人は時折、その道の「元本職」であるかごめとしては看過出来ない、危険な物品を紹介してくることが多かった。
気配で無害を確認し、許可を頂いた誕生日少女は丁寧に包み紙を開封した。
「これは……鈴でしょうか」
「ただの鈴ではない。それは我が神社に伝わる伝説の宝珠じゃ! そもそもその玉の由来はな、1500年も前の古の巫女が──」
「あ、私と草太からはこれね。いい糸使ってるから大事にしなさい」
祖父の長い御高説の予兆を察知したのか、母が無遠慮に割り込みかごめへ自分のプレゼントを差し出す。嫁入り娘に何かと頭の上がらない舅、という関係が生む老人との上下関係を理解しているようでそうでもない天然な母の手には、一本の美しいリボンがキラキラと輝いていた。
「赤い、髪紐…」
「ええ、草太と一緒に買いにいったのよ。あなた毎日いつもその丈長みたいなダサい髪留めで済ませてるじゃない? 女の子なんだからもっとおしゃれを楽しまないと人生損するわよー」
ニッコリと笑顔でリボンを贈る母にかごめはたじろぐ。別に意識して華飾を控えているわけではない愛娘は、母の女性的な心遣いを紅い顔で受け取った。
「…ありがとうございます、お母さま、草太。大切に致します」
「他の家みたいに『ママ』でいいわよ、相変わらず仰々しい子ですこと。あ、気に入ったのなら付けて見せてくれる? あなたいつも巫女服か制服ばかり着てるんですもの、たまには女の子らしい姿の写真が撮りたいわー」
髪紐の美しい光沢に見惚れていると母がそう興奮気味に要求してきた。幼い頃に着せ替え人形にされた苦い思い出があるかごめは思わず半歩ほど後退り、適当な言い訳で場を凌ぐことにした。
「いえ……今宵はまだ明日の部活動説明会に向けた鍛錬が残っております故、汗で汚れたら敵いませぬ。頂いた髪飾りは明朝にご覧に入れましょう」
「あらそう? 残念ねー。じゃあまた明日お願いね、かごめ」
「はい、必ずや。おじいさまも素敵な鈴をありがとうございます」
髪紐姿をネタに寝るまでおもちゃにされる夜よりも、登校時間に急かされる朝のほうが幾らかマシだ。そんな思いもあったかごめは素直に頷き、嬉しくも気恥ずかしいお誕生日パーティーからそそくさと逃げ出した。
折角祝ってくれたと言うのにあまり嬉しそうな態度を見せられなかった、と少女は席を立ってから後悔する。もっとも肝心の祝い手たちは、そんな長女の精一杯の努力の象徴である不器用なはにかみ笑顔を何よりも好ましく思う奇妙な人々だった。
「──はぁ、どこに嫁に出しても恥ずかしくないくらい良い娘だわ……誰に似たのかしらね」
「まあかーちゃんじゃあないよね」
「なーんですって?」
かごめが席を立ってからも居間に残る日暮家三人衆による長女語りは終わらない。これ幸いと、本人の居ぬ間に勝手気ままな自慢話は続いていた。
そしてこういった場で決まって上がるのが、宮司の祖父が主張する日暮一族の興味深い言い伝えだ。
「…よく聞きなさい、二人とも。かごめはおそらく……我が神社に代々伝わる"四魂の巫女"の先祖返りなのじゃ…!」
「はいはい、昨日もそのお話しましたよーおじいちゃん」
最早何度聞かされたかもわからない、老宮司の一族伝説。かごめには内緒で三人の内輪でのみ語られるため、直接本人に尋ねない祖父のことを「ヘタレ」と失笑しつつも、何だかんだで話半分程度には聞いていた母と草太。それほど日暮家の面々にとってかごめという長女は、家族内で最も存在感がある人物だった。
乳児の頃から人語を解し、気配り上手で、何でも出来た神童。特に神事や弓術においてはまるで生まれる前から天より与えられていたかのように完璧に熟し、弓道部の全国大会では連盟の範士に「武射の極み」とまで言わしめた超実戦的な射法で圧倒的優勝を勝ち取ったほど。
しかしそんな長女の華々しい活躍を誇りに思う一方、家族にとってはどこか、形容し難い距離感を感じさせる不思議な少女でもあった。完璧すぎて一度も大人に甘えたことがない、言うならば子供の姿をした大人のよう。温厚で人当たりも良く、だが心の深いところで他者を越えさせない一線を引いている。祖父、母親、弟として長い年月を接して尚、未だその壁を崩すには至っていない。
そして。
「…でもさ。ねーちゃん、ここに引っ越してきてからヘンだよね。なんかいっつも夜に御神木の前でボーっとしてるし、それによく朝に泣いたあとみたいに目を赤くしてたり……もしかしたらホントに誰かあの木のことを知ってる別の人の記憶があるのかな」
最近になって表れた姉の不可解な行動の数々。
故に幼い弟、草太少年が祖父の語る伝説を真に受けてしまうのも致し方なかった。
「これ草太、『ボーっとしてる』とは何じゃ、罰当たりな! …機会があれば一度よく見ておきなさい。あれは古より転生した巫女として御神木に祈りを捧げておるのじゃよ」
「えー、ホントかなぁ。だってねーちゃんもうずっと顔色悪いよ? もしかしたら前世であの木に何かイヤな思い出があって、それを思い出しちゃったとか…」
「うーむ…あの御神木には"時代樹"という別名も残っておるが、その由来は決して悪しきものではないぞ?」
「じゃあねーちゃんのほうが悪いコトしたの? た、確かにたまに凄い怖い顔で木を睨んでるときもあったし……ねーちゃん、その内あの太い幹を矢の的当てに使って御神木をいじめ始めるかも」
「そ、それは困る! 何とか荒ぶる巫女の魂を鎮める由緒ある品を用意しなくてはならんわい…!」
家族である祖父と草太は、心優しい少女ながら稀に物騒な行動を取るかごめの油断ならない側面を良く知っている。一度妙な方向へ舵が逸れた思考はどんどん転がり落ち、気付けば二人の中でかごめの前世は恐ろしい鬼武者のような存在になっていた。
そんな祖父と草太の想像を丸ごと吹き飛ばす意見が、呆れて聞いていた隣の女性陣代表から述べられる。
「はぁ、これだから男は。…あのですね、古今東西、年頃の女の子が何か奇妙なことをし出したら───それは恋わずらいって相場が決まってるんですよ」
『…………は?』
自信満々な母の高説。キョトンとお互い呆けたまま見つめ合った男性陣は、続けて「はぁ!?」と同時に我に返った。
「『恋わずらい』って……あの"告白百人斬り"の伝説を持つねーちゃんが!? そんなまさかぁ」
「草太の言う通りじゃ。そこらの小娘と一緒にしては、かごめに無礼であろう!」
「無礼はあなたたちでしょ。ウチの長女を何だと思ってるんですかっ」
年頃の娘をまるで隠者か何かと勘違いしている男衆を母親が叱る。ようやく訪れた長女の春を祝福するどころか笑い飛ばすなど万死に等しい。
ああいう一見全てを達観しているように見えるおマセさんほど、情熱的な恋に巡り合えたりするものだ。たとえ家族との間にさえ壁を作ってしまう孤独な子でも、自分で見つけた運命の相手になら心を開けるかもしれない。そんな幸せが娘にありますようにと祈ることが、母のせめてもの責任というものだろう。
「まあ先祖返りでも何でも構いませんけど、私が生んだのだから私の娘に変わりはないわ。願わくば初恋を経験して、もう少しくらい年相応の可愛い姿を見せて欲しいものねー」
「…なんでねーちゃんのアレが恋だってわかるのさ」
「うふふっ。母親だからよ、草太」
ふわりと微笑む彼女の笑顔には、不思議と相手を頷かせる魔法のような自信が満ち溢れていた。
***
「────…」
薄い桜色の唇が、何かを紡ぐように短く震える。
それは誰かの、遠い、遠い場所に居る者の名。漏れ落ちた小さな呟きは、自身の耳にすら届くことなく、桜花舞い散る春風に儚く溶けていく。
「……どうだろう。初めての母と呼べる人に頂いた髪紐なのだが…似合っているだろうか…」
視線の先にそびえ立つ、一本の巨木。結ったばかりの長い髪を拙い仕草で弄ぶ少女は、無人の大樹へぽつりとそう尋ねる。
十五の年を迎えたかごめは、その日の夜も一人神社の御神木の前に佇んでいた。
室町時代以前から記録が残る、日暮家が代々守り継いできた霊樹の下に、少女は毎日のように足を運んでいる。
家庭の事情により、かごめは祖父が守るここ日暮神社へ家族と共に移り住んだ。そこで目にした大木の姿に、彼女の心は酷く掻き乱された。
一目で悟ったのだ。この木が何であるかを。ここがどこであるのかを。
脳裏に浮かぶのは、彼女のみが知る、時代に忘れ去られた記憶の泡沫。宿命に従い、尊人の魂を封じた宝珠を守る巫女として妹と共に歩んだ終わりなき旅のこと。妖怪に力を、人に願いを叶えると伝わる玉を狙う、人妖との戦いの日々のこと。
そして。
「フ……我ながら何と女々しいことか…」
夜闇の中、月明かりに淡く輝く美しい相貌が自嘲に陰る。
既に封印が解かれていることなど、最初にこの身体で目にしたときからわかっていたと言うのに。どうして自分はいつまでも、あの幹に囚われているはずの人影を探してしまうのだろう。
この樹のせいで、少女は永遠に過去の想いを捨て去ることが叶わない。かつての記憶が心を蝕み、"日暮かごめ"としての一生を送らせてくれない。
自分はもう、巫女ではないのだ。なのに何故、こうして二度目の命を与えられたのか。未練も果たせぬ現代の世に生まれ変わったのか。その問いに答える者は未だ彼女の前に現れない。
切れ長の黒曜石が切なげに揺れる。食い縛る歯の隙間から零れた声は、あの強く気高かった巫女のものとは思えぬ、一人の女の悲鳴であった。
「何故……何故あのときおまえは、私を…っ」
押さえた胸の奥に秘められる、彼に付けられた裏切りの爪痕。未だ痛む見えない古傷は決して癒えず、魂に深く刻み込まれている。苦しむ心を支配するのは、ぐつぐつと煮え滾る、醜い憎悪だ。
しかし。肩を震わせる彼女の小さな後ろ姿は、憎しみに捉われた修羅のものではない。握り締める学生服の皺だらけの胸元が、沈痛に歪んだ美貌が、その言葉に知らぬ間に籠っていた相反する想いの大きさを無言で語る。
平和な時代に身も魂も清められ、新たな生、新たな体を得た今でも、少女の心は未だ切り裂かれたままだ。
「…全く、私も焼きが回ったな…」
憎悪ばかりが胸中に溢れていた転生当初。だが今はただ、未来の世に独り生きる寂しさからか、思慕の思いが募るばかり。
昔のように心を交わせずとも良い、封印のことで憎まれても良い。それでもただ、一目でいいから、おまえを…
そんな叶わぬ願いを願い続ける日課も、春の夜風に急かされ終わりを迎える。これは毎晩の夢で乱れる気持ちを整える大事な儀式だ。最早何度繰り返したかもわからない、不毛な祈りを終えたかごめは冷えた体を抱き、溜息を残して社務所の自室へと戻る。
その途中。
少女はふと、境内の端にひっそりと佇む古い祠の前で立ち止まった。眠るように閉じられた、朽ちた隠し井戸を風雨から守るための、何の変哲もない木造の御堂だ。
だが、そこでかごめは息を呑む。
「───バカな、これは。昨日までこんな気配はどこにも…!」
祠から漂ってきたのは、この身体になって初めて感じる、忘れもしないあの虫唾が走るような不快な気配だった。
巫女であった自分が明け暮れた殺戮の日々の記憶。怪異が駆逐された平成の日ノ本にあってはならない異形の獣。
血と瘴気、人の膿が育む魑魅魍魎。妖怪の臭いだ。
ザァッ、と頭の中で何かが翻る感覚にかごめは硬化する。だがそれも一瞬。乱れる"女"の心が凪のように静まり、妖気に当てられた彼女の"巫女"が目を覚ます。瞳は鋼の如く鋭利に輝き、即座に踵を返したかごめは転がるように神社の正殿へ飛び込んだ。
五百年の時を経て尚錆一つない退魔の技は、巫女のさだめを忘れさせない天の意思だろうか。正殿の壁から神具の破魔の矢を弓ごと引っ手繰ると、古びた武器は己の身体の一部も等しく手に馴染む。風のように祠へ舞い戻ったかごめは矢を構え、枯れ井戸に潜む邪気の源へ殺意を向けた。
「…この時代にまだおまえのような者が残っていたとはな。姿を現せ、物の怪っ!」
蓋の隙間から見える井戸の底はどこまでも深く、暗い闇が渦巻いている。だが深淵に狙いを定めるかごめの矢尻は微動だにしない。巫女が妖怪に恐怖を抱くことは許されないのだから。
焦れるような沈黙が流れ、かごめは痺れを切らし井戸端の竪穴へと段差を降りる。
その瞬間。突然枯れ井戸の木蓋が、内より生じた怪奇の暴風に吹き飛ばされた。
『────オオォォォ……』
その呻きは、奈落の底から這い上がってきた。
低く恐ろしい女の声が、荒れ狂う轟音に紛れ木霊する。炸裂する木屑から咄嗟に腕で目を守った巫女は、即座に後ろへ飛び退き距離を取った。
だが直後。続いて響いた声に、かごめは視界が白むほどの衝撃を受ける。
『感じるゥゥ……感じるぞォォ……────"四魂の玉"の妖力をォォォ…ッ!』
「…な、に!?」
驚愕。
常に冷静沈着、確固たる自我を保ち、如何なる事態にも澄ました顔で対処する冷徹無慈悲な巫女の仮面が硝子のように砕け散った。眼球が飛び出る勢いで瞠目し、かごめの身体は息一つ出来ないほど固く凍りつく。
それは妖怪退治の戦場における致命的な数瞬であった。敵前で固まるかごめは赤子の如く無防備で、果て無き時を超え現代へと辿り着いた物の怪の執念は、その隙を逃すほど甘くはない。
突然腹部を襲った凄まじい圧迫感がかごめの意識を叩き起こす。はたと我に返った彼女は、自分の腰に巻き付く巨大な
『おまえだなァァ……四魂の玉を持っているのはァァッ!!』
「な! しまっ───ッあぁっ!」
無数の鋭利な爪脚が学生服を斬り裂き、シミ一つない白絹の肌から鮮血が迸る。久しく受けたことのない激痛に百戦錬磨の巫女も悲鳴を堪えきれない。
苦しみに歪む麗容。淡く浮かび上がる白い肢体を這い回る蟲の群。成すすべなく蹂躙される美しき乙女は淫艶で倒錯的な姿を晒し、祠の中で血と妖気に染まりゆく。
だが敵の意のままに穢される巫女は、化物がうわ言のように繰り返す因縁深きその名に囚われ反撃の一手を打てずにいた。
そして蜈蚣妖怪の鎌の如き脚の一本が一際深く脇腹を抉った直後、かごめは自分の体から桃色に輝くナニカが零れ落ちる瞬間を目にする。
それはまさに、本能と呼ぶべき一瞬の判断。
気付けば巫女は己の根源に根差した宿命に従い、咄嗟に自由な右手でその光の玉を掴んでいた。
『おおォォ……オオおオォォォッ! それぞまさしく四魂の玉…! 行方を晦まし早五十年、ようやく見つけたぞォォ…!』
「ま、さか…」
歓喜に震える妖怪の声も、体を苛む傷の痛みも、かごめには届かない。
手にした妖しく輝く光の玉。巫女は目の前の宝珠に意識の全てを奪われ、ただひたすら己の瞳が、指先が訴える絶望の反芻と拒絶を繰り返す。
嘘だ、ありえない。
「そんな……玉は四魂の巫女であった私があのとき、僅かな余命と共にあの世へ持って行ったはず。何故滅ぼしたはずのものが私の体の中に…!」
『さァさァ小娘、この
「あっ──」
百足妖怪が長い肢体を駆使し、信じ難い現実に戦慄くかごめを井戸の底へと引き摺り込む。
だがたとえ如何ほどの動揺であっても、四魂の巫女がその宿命を忘れることは許されない。車窓の景色のように過ぎ去る井戸口を見向きもせず、落ちるかごめは慌てず珠を握る右手を妖怪へ翳した。
『おお、そうだァ。素直に渡し──』
「死ね、物の怪…ッ!」
そして、巫女は生まれ変わって尚健在な退魔の霊力を解き放つ。
その瞬間。
『───ッギャアアアァァァッ!?』
醜い異形の絶叫を掻き消すほどの、強く清浄な光が狭い枯れ井戸を埋め尽くした。古の聖女の魂を封じたその宝珠は善なる主の願いに従い、百足上臈の体を散り散りに消し飛ばす。
一瞬ふわりと宙に浮き、かごめは重力に逆らうように井戸の底で解放される。
その体は傷だらけだった。久々の、新たな人生で初めての激戦を終えた安堵から緊張の緒が緩み、巫女はぺたんと妖怪の骸が散らばる排土に座り込む。最早、掌の宝珠を握る力もない。
「ハァッ……ハァ……ッ、随分と鈍ったものだ…」
喘息のような荒い息は平穏に甘んじた少女の肉体の弱さの表れか、はたまた遠くの昔にかけられた呪いが今も尚己の霊力を蝕んでいるからか。あまりに拙い戦いに巫女は歯噛みする。
ふと視線を動かすと、先ほどの認め難い現実が未だ足下に転がっていた。かごめは重い体に鞭を打ち、手に収めねばと腰を浮かす。
四魂の玉。
荒魂、和魂、奇魂、幸魂。古事に伝わる一霊四魂。千年前の偉大な巫女が幾億もの妖怪を己の四魂に封じ生まれた宝玉である。
善悪を知らぬ永遠の無垢であり、ただ持ち主の心に沿う千変万化。玉はありとあらゆる願いを叶え、願いと共に穢れ、また清められると伝えられてきた。それはまさしく、人妖全てを惹き付ける欲望の坩堝だ。
「──何故だ」
だが、かごめは誰もが望むはずの四魂の玉を掴んだ手を、力なく横たえる。
「何故、おまえはまた私の前に現れる…」
ぽつり、と呟かれたその言葉は、一撃で強大な妖怪を屠った先ほどの誇り高い巫女とは思えぬ、迷子の子供のような声だった。淡く輝く宝珠に照らされる少女の瞳は漆の如く、深く淀んでいる。
四魂の玉はかごめの問いに答えない。だがその本質を知る聡明な彼女は、玉が語る音無き言葉に気が付いた。
「…おまえが、私を生まれ変わらせたのか? 私が…ただの女として生きたいと、願ったから…」
少女の濁った眼が見開かれる。思えばあまりに簡単な答えで、寧ろそれ以外の可能性が無いと断言出来るほど、かごめの追及は正鵠を射ていた。
真相に至った少女の顔が歪む。浮かぶ感情は、無数の想いが渦巻く───怒り。
「…そんなことは望んでいない…! 私は、そんな大それたことなど望んでいないっ!」
ようやく行き場を見つけた積年の鬱憤は嘔吐くような悲憤の叫びとなって、彼女の魂より溢れ出る。
「私の願いはもっと、もっと小さかった! 五百年もの時を超えることでも、平和な世に生まれ変わることでもなかった! 私はただ、ただ…っ!」
一度口にしてしまえば、最早止めることなど出来なかった。飽和した暴れ川は、必死に堪えようとする巫女の強固な理性をいとも容易く突き崩す。
「私はただ…こんな私と共にありたいと願ってくれた、バカな半妖を、人間に…」
そして。
続いた蚊の鳴くような嗚咽は、生涯に一度で最後の、心の最も深くに封じられた、女の本当の願いであった。
「────あいつと、一緒に生きたいと…」
それは、最早決して届くことのない、遥か昔に滅びた想い。
全て終わったことだと、叶わぬ願いだと自身に言い聞かせ、二度目の人生を送る女は心の堤を築いてきた。
だが呪われた宝珠は逸話を持つ。四魂の玉は、人の真の願いだけは叶えない。
なんと遣る瀬無いことだろう。なんと理不尽で、口惜しいことだろう。
死した女が時を超えて生まれ変わる神仏の如き奇跡を起こせて、何故四魂の玉は、彼の裏切りを──本当の妖怪になりたい思いを──女の情が上回る奇跡を起こせないのか。巫女と半妖。相反する二人が交わることは、それほどまでに許されぬ未来だったと言うのか。
傷だらけの体を掻き抱く少女の頬に、虚ろな雫が伝わり落ちる。鼻孔を劈く刺痛も、噎ぶ吐息も、堪えることは叶わない。
呪われた宝珠は逸話を持つ。四魂の玉は、人の真の願いだけは叶えない。
濁流のような感情に呑まれる巫女は、生まれ変わった平和な世で、ようやく望んだ"女"を得た。
望まぬ形で、焦がれた最愛の想いを失うことと引き換えに。
だが。
────桔梗。
「…ッ!?」
そのとき。不意にかごめの鼓膜を、魂を震わす声が耳に届いた。
それは頭頂から四肢の先端、三魂七魄までもを焦がし尽くす、決して届かないはずの奇跡。何よりも望んだその声は、涙で濡れた想いの残火を再び燃え上がらせる。かつてないほど、強く。
十五年。否、五百余年もの時を経て尚、女の魂はその声を忘れられなかった。
憎く、憎く───愛しい者の、その声を。
「……ゃ…っ!」
かごめは岩壁を這う
幻聴だ、そうに決まってる。疲労困憊で心が弱ったのか、ついに気まで狂ってしまったようだ。落ち着いて、冷静にならなくてはいけない。
ならなくては、いけないのに。
「……夜叉…っ!」
垂れ下がる蔓が千切れれば岩壁を、壁が崩れれば釣瓶の縄を。爪は割れ、指は血に染まり、それでも女は天を目指す。たとえ幻であろうと、果てしなく長く遠い時空を越えて届いた、届けてくれた、四魂の巫女の自分を殺した少年の下へ。
「犬夜────」
そこで、女は空に月光を見る。
妖しく、されどどこか懐かしい、大きな大きな満月を。
「ここ、は…?」
息も忘れ、かごめは登った井戸より見渡す光景に思わず目を疑った。
久しく覚えのない澄み切った空気の中に広がる、辺り一面の雑木林。枯れ井戸の鎮座する日暮神社の祠の天井はどこにもなく、冷える夜風が、漂う湿った土の芳しい匂いが、戸惑う女に眼前の景色が現実であると訴える。
────とくん…
そのとき、かごめの胸の奥で何かが跳ねた。
思わず胸元を押さえる。それはその何かを逃がすまいとの咄嗟の行動だった。だが騒めく心は消えることなく、何かを少女に伝えようとする。
音でも、匂いでも、霊気や妖気の神秘の類でもない。小さくて些細な、それでいて尊い何かが少女を突き動かす。
足は自然に動いていた。一歩、また一歩と森の大地を踏み締める度、次の一歩は速くなる。
知っている。少女はこの景色を知っている。
林の木々を抜けた先の青々と輝く草原、秋には美しい紅色を野風に散らす一本楓、丘の麓に鎮座する大岩の洞窟。草木を掻き分け、渓流を踏み越え、気付いたら少女は全身全霊の力で疾走していた。
肺が潰れようと、四肢が擦り切れようと、かごめの足は止まらない。
引き返せ。惑わされるな。期待して裏切られて、これ以上傷付けば今度こそ心が壊れてしまう。そう守りに入れとしがみ付く理性の手を、女は死に物狂いで振り払う。
自分はもう、ここで死んでもいい。たとえ慈悲なき結末だったとしても、最後くらい、一人の無力な"女"として、奇跡に縋り夢を見たい。
全てを捨てた少女は、水面のように滲む視界に垂れ下がった救いの糸へ、必死に、必死に手を伸ばした。
そして。
「───────よぉ」
目の前に巨大な樹がそびえ立つ。
幹に絡み付く太い蔓を辿り、鮮やかな朱の衣に目を奪われ、その先に少女は、美しい銀色を見た。
揺れる金色の双眸を細め──あのときと同じ──勝気な、されどどこか不自然に歪んだ悲しい笑みを浮かべる、一人の少年の銀色を。
ああ、私は今、夢を見ている。
何度も望み、そして叶わなかった、許されない奇跡の夢を。
「…まんまとてめえに
彼は、そこにいた。
何一つ変わらぬ、女の記憶の姿のままで…
「───────桔梗」