もしもかごめちゃんが完全に桔梗さまの生まれ変わりだったら   作:ろぼと

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時を超える想い

 

 

 

 深く、深く潜った意識が浮き上がる。

 まるで幸せな夢を見ているような幸福感に包まれる少女は、遠くの人声に誘われるように、ゆっくりと瞳を開いた。

 

 久しく覚えのない穏やかな闇の微睡みから目覚めたかごめの視界に、巫女装束に身を包んだ隻眼の老婆の相貌が映り込んだ。

 

 

「────桔梗お姉さまっ!」

 

 

 嗄れた歓喜の悲鳴がかごめの意識を覚醒させる。同時に襲い掛かってきた体の痛みと疲労感に混乱し、事態がわからず慌てて周囲を見渡すと、自分はどこかで見覚えのある貧相な木造家屋の中で布団に横になっていた。外は曙の薄白に霞んでいる。家屋の住人は、安堵の表情を浮かべ手を握り締める老女だけのようだ。

 

「おお、桔梗さまがお目覚めになられた…!」

 

「よかった…! また言い伝えのように犬夜叉に襲われたのかと心配で心配で…」

 

「ああ、あのお美しいかんばせ。童であったワシの頭を撫でてくださった桔梗さまそのものじゃ…」

 

 ふいに外から幾つもの人声が聞こえ、かごめは土間のほうへ目を向ける。そこにはみすぼらしい和服姿の老若男女が亀のように首を伸ばしこちらを戸間口から窺っていた。

 十五年もの時を平成時代で過ごしてきたかごめにとっては初めての、されど彼女の深くに根付く記憶には覚えがある、古の光景。

 

 間違いない。ここはかつて"桔梗"の名で生きた己の前世の、五百年前の乱世の日ノ本だ。

 

「桔梗お姉さま、お体の具合はいかがですか? 傷は大方手当しましたがかなりの血が出ておりました。ただいま精の付く鍋物をお持ちします故、もうしばらくお休みになられたほうがよろしいでしょう」

 

「ここは…」

 

「村の私たち姉妹の家です。覚えては……まあ、無理もございませぬ。あれからもう五十年になりますからなぁ」

 

 残念そうに頬を膨らませる巫女装束の老女。その拗ねた笑みに強い既視感を覚えたかごめはしばしの間彼女の顔を凝視する。

 

「……かえ、で…?」

 

 ポツリ、と呟いた名が一つであったのは、まさしく本能に類する肉親の情故だろうか。かごめの声に息を呑む老婆の反応が何よりの証拠。固い表情が劇的に変化し、現れた彼女の素顔は、敬愛する姉に甘える無垢な童女のものだった。

 

「…ッ! ああっ、お姉さま、桔梗お姉さま…っ! 不詳、楓。あの日より五十年、おめおめと生き恥を晒して参りました…!」

 

「楓、楓なのか…? あんなに小さかった私の妹の、楓なのか…!?」

 

「はいっ、桔梗お姉さま! こうしてまたお会い出来る日が来ようとは、ううっ……よくぞ、よくぞ御無事でぇぇ…!」

 

 感無量で号泣する老婆の姿に戸惑いながらも、かごめは彼女の頭をそっと触れる。子供の艶やかさも温かさもない、当時とは真逆の白髪に覆われた薄い頭。だがそこには確かに、少女が幾度となく撫でた愛しい妹の面影があった。

 

 時代を超えた奇跡の出会い。逆転した年など細事と捨て、巫女の姉妹は涙を隠すことなく抱き合った。

 

 

 

「────そのようなことが…」

 

「…ああ。何とも振り回してくれる不愉快な石ころだよ、こいつは」

 

 妖しい桃色の光が屋内を淡く照らす。再会を喜び合った二人は素朴な鍋を囲みながら積もる話を存分に語り合い、この幸運をもたらしてくれた願いの宝珠の話に移っていた。

 

 四魂の玉。姉妹にとっては互いを引き裂いた因縁の象徴で、姉は全てを、妹は姉と人生を奪われた憎しみの対象でもある。老いた妹──楓は今後この災厄の復活にどう備えるべきかについて考えるも、残念なことに平凡な巫女の域を出ない自分の霊力では又もや大した役には立たないだろうと口惜しさに臍を噛んでいた。

 

 だが、楓はふと、玉の話を最後に押し黙った姉が気になった。板敷きの間で横になり、宝珠を手にしたままどこか遠い目で観衆の去った戸間口を見つめている若い娘。新たな生では数え十六歳と窺ったが、何かに思いを馳せる彼女の姿はより幼く見えた。目標としてきた記憶の中の姉よりも。今と同じ年頃の村娘たちよりも。

 

 無論、その「何か」など楓にはわかりきっている。かつての姉とそっくりの容姿を持つこの少女を見つけたのは“犬夜叉の森”と呼ばれる村外れの森林地帯。封印の大樹より少年の叫び声がすると物見の村人より報告を受けた老巫女は、そこで傷だらけの姿で倒れ伏す意識不明の彼女を見つけ、心臓が飛び出るほど驚愕した。隣で目覚めていたもう一人の人物と幾つか手荒い口論もあったが、何とか夜の内に事態を収拾し今に至る。

 

 そして、やはり。これまで意図的に避けていたあの半妖の話を持ち出した瞬間、自慢の姉は、ただの少女になった。

 

「…では犬夜叉の封印が解けかけているのもお姉さまの訪れによるものでしたか。あやつの小憎たらしい声なぞ五十年ぶりに聞きました」

 

「…ッ」

 

 目に見えて狼狽したかごめは数瞬ほど視線を彷徨わせ、一息の後に元の巫女の顔を作り直した。静かな声で「それは悪いことをしたな」と自嘲する彼女は儚げで、楓が姉の死に際に見たあの凄まじい憎悪の影は見当たらない。

 

「…お怒りはもう、鎮められたので?」

 

「フ……久々にあいつの間抜け面を見たせいか、どうやら昨夜に大分吹き飛んでしまったらしい。あの悪夢を見なかった夜などいつ以来か…」

 

「左様で…」

 

 そう自嘲するかごめの目は穏やかだった。だが聡い楓には至る所に姉の"巫女"の綻びが見て取れる。落ち着いている物腰は本心からくる姿だろう。しかしその中身は決して健全なものではない。陰る少女の懸珠が生前の彼女ものと重なり、妹は愛する姉の胸中に深く入り込む決意を固めた。

 

「では、犬夜叉の封印を解くのですか?」

 

「…ああ。愚かな巫女を騙した"おいた"の罰はもう十分だろう。なに、逃がすときは村を襲わぬようによく言い含めておく。おまえが心配する必要はないよ、楓」

 

 ニコ、と柔らかい笑顔を浮かべるかごめ。昔の記憶と変わらない頼れる優しい姉そっくりのそれが、やはり今の楓にはとても弱々しく見えた。

 幼い自分はこんなものに騙され、苦しむ彼女の背中にずっと負ぶさって生きていたのか。唇をかみしめる老巫女は、今度こそ過ちを犯さぬよう磨き上げた年長者の洞察力でかごめの秘めた痛みを見抜こうとする。

 

「…封印を解いた後は、どうなさるのです」

 

 その問いを投げた瞬間、目の前の少女の被る巫女の仮面がひび割れる音が聞こえた気がした。

 

「…解いた後、だと?」

 

「桔梗お姉さま、年寄りを見くびらないでくだされ。かつてはともかく今のお若いお姉さまのお気持ちなど手に取るようにわかりまする」

 

 かごめが小さく肩を竦めてたじろぐ。そんな姉のらしくない気弱な態度に心動くことなく、楓は正面から真摯に己の思いを打ち明けた。

 

「…未だあの半妖に心を寄せておられるお姉さまが、解き放ったあやつとこれからどう接していかれるのか。楓はただそれだけが心配でなりませぬ」

 

 

 沈黙が屋内を支配する。

 かごめは返答に窮し、ぼんやりと手元の宝珠へ視線を落とす。四魂の玉はまるで少女の更なる願いを欲しているかのように妖しく光っていた。その輝きに魅入りそうになるかごめは瞳を閉じて、己の心と向き合おうとする。

 

 あいつと、どう接していくのか、などと聞かれても。

 

「……わからない」

 

 少女はそう答えるしかなかった。

 

 元よりかごめは不可能を知った上で、せめて一目だけでも無事な姿を見たいと叶わぬ再会を想望する日々を送っていた。時を超えて生まれ変わる奇跡があるのなら、時を超えて二人が相まみえることもまた、あるいは奇跡とすら呼べない塵のような希望として縋ることも許されよう、と。

 しかし。かごめはそんな細やかな、されど決してあり得ないことを常の絶望の中で夢抱いていた少女だ。いざ夢が叶ったときに、これ幸いとその先の願いを望む傲慢さなど持ち合わせていなかった。

 

「お姉さま…」

 

「最初から成らぬ話だったのだ。今更あいつと一緒に生きたいなどと、言えるものか…」

 

 たとえどのような偶然が重なろうと、己の前世──桔梗が犬夜叉に絶死の傷を負わされ、彼を憎み、そして報復の封印で彼の五十年もの時を奪った事実は変わらない。

 

 考えれば考えるほど、あの少年との間に現状以上のことを求める不毛さに気付いてしまう。平和な世で暮らした十五年は憎悪に呑まれた女の魂を人の温もりで癒してくれた。だが相手の時間は、桔梗を捨て、四魂の玉を選んだときのままで止まっているのだ。封印されていた年月の分、むしろ敵意は増しているだろう。

 彼の心変わりなど、望むべくもない。

 

 ────また、逢えた。それで十分ではないか。

 

 かごめはまたこうして少年の顔を見られた、過ぎたる奇跡の幸せを何度も何度も噛み締め、泣き叫ぶ己の"女"を昨夜の甘露で慰め続けた。

 

 

「────はぁーっ、まこと年とは取りたくないものですなぁ」

 

 

 しばしの静寂の後、突然横から嗄れた呆れ声が聞こえて来た。

 かごめははたと振り向く。そこにいたのは、どこかこちらを小馬鹿にするような盛大な溜息と共に肩を落とす妹だった。幾度か目を瞬かせ、鼻で笑われたのだとようやく気付いた姉はむっと唇を尖らせる。

 

「……言うではないか、楓。それほど己の重ねた年に自信があるのなら、その功で私を正して見せろ」

 

「勘弁してくださいませ、お姉さまぁ。あれほど大きく見えていた偉大な姉の、昔の男と()りを戻せるか不安で右往左往している情けなーい姿など見とうございませんでしたよぉ、全く…」

 

「ッな…」

 

 楓の言葉がかごめの体を石化させる。

 この老婆は一体何を言っているのだろう。私は別に今更犬夜叉とまた情を通わせようなどと願っていないというのに、何故そんな物分かりの悪い面倒な童女を見るような目を向けてくるのか。勘違いも甚だしい。

 だが、そう内心憤慨するかごめの頬は燃えるように熱く、体の異常の原因がわからぬ彼女は咄嗟にそっぽを向く。委細はわからない。されど無性に恥ずかしく、かつてないほどの屈辱を与えられたことだけは理解出来た。

 

 混乱と羞恥で口を開閉する、初めて見る姉のあられもない姿。そんな尊敬する巫女の無様を見せられた楓もまた、落胆や失望以外の、訳がわからない感情に呑まれ身悶えしていた。

 

 ただ、目の前で紅潮する年頃の生娘のような姉が、如何なる美姫よりも愛らしいことだけは誰にも否定させたくなかった。

 

 

「…素直に生きなされ、桔梗お姉さま」

 

 

 だからだろうか。楓が無意識に呟いていたのは、どれほど幼い赤子にかけるものよりも深い慈しみに満ちた、安らかな声。

 

 名を呼ばれ振り向いたかごめの前に、前世の記憶に欠片もない、隻眼の聖母がいた。

 

「お姉さま亡き後、修行を重ね巫女として長く生きて、楓はお姉さまのお気持ちがよくわかりました。日々妖怪を退治し、白衣緋袴が彼奴らの血の臭いで染まる中、自分と同じ年の女子が紅を塗り、着物で着飾り、伴侶となる殿方と逢瀬を交わす幸せそうな姿を見るのは、苦行でした。…巫女とは、己の女を殺すこととはこれほどまでに辛いものなのか、と…」

 

 戸惑う姉にこれまでの過去を語る楓。沈痛なその姿からは当時の苦難が忍ばれ、少女は目を伏せる。頼るべき姉を亡くした彼女が一人取り残され、どのような日々を過ごす羽目になったか。同じ巫女として生きて来た桔梗の記憶を持つかごめにわからないはずがない。

 

「…すまない、楓。私のせいで、おまえには辛い思いをさせてばかりだ…」

 

「はぁ、この期に及んでまだ私の心配ですか。こちとらもう老い先短い婆ですぞ? 女の幸せなどと言われても最早欠片の興味すら湧きませぬ」

 

 だが当の本人は元姉の懺悔に呆れるばかりか、あっけらかんと笑い飛ばした。責めているのではないのか、と困惑するかごめを余所に、楓は胸に手を当て言葉を続ける。

 

「私は己の無力さを嘆き己でこの道を選びました故、村の女子を羨やむことこそすれど、己の生き様を後悔したことは今まで一度たりともございませぬ。…ですが────」

 

 そして。

 

「────ですが、桔梗お姉さまは、違う」

 

 その一言に、かごめの顔からあらゆる感情が消失した。

 

「お姉さまが巫女として生きて来られたのも、四魂の玉を浄化なされていたのも、全てが天の巡り合わせに過ぎませぬ。生きるために仕方なく、人々のために仕方なく、それがお姉さまの巫女としての生き様でした」

 

「……それは違う。私は全て、望んで四魂の巫女としての責務を果たしてきた」

 

「嘘をおっしゃいますな、今の私にはわかりまする。あの退治屋に四魂の玉を渡された日、お姉さまのお顔にはご自分の使命を果たせる喜びなどございませんでした。あの雨の日に見たお姉さまのお顔は、今のお姉さまのように……全てを諦めてしまわれた達観の如き能面だったではありませんか」

 

 楓の強い眼光がかごめの瞳を射抜く。

 見透かすような目が気に食わない。堅固な鎧の奥に守られた巫女の秘部が、曝け出されることを恐れて全ての表現機能を停止させる。

 

「お姉さま」

 

 だがかごめの冷たい視線に真正面からぶつかり、貫いたのは楓の柔らかい親愛の光であった。

 

「今の貴方さまには巫女としての使命も、足手まといの幼い妹もおりませぬ。お姉さまは、もう、何にも囚われずに生きることの許された────一人の"女"なのです」

 

 老女の切なげな、諭すような、訴えるような声がかごめの鼓膜を震わせる。それは少女の鎧を貫くに十分過ぎる、彼女の泣所とも言える一文字であった。辛うじて取り戻した巫女の顔があっという間に崩れそうになり、かごめは動揺を隠そうと視界が最初に捉えた手元の桃色を楓に見せ付ける。

 

「違う、私はまだ……私には新たな四魂の玉が────」

 

「四魂の玉なぞどこぞの犬の半妖のエサにでもなさればよいではありませぬか。あんなモノのために全てを失われたお姉さまが、どのように二度目のお命を生きようと誰も咎める者はおりませぬ。おるならこの楓が始末してご覧に入れましょう」

 

 年老いた妹は若い姉の言い分にゆっくりと首を振る。楓に薦められたのは独善的で、無責任で、巫女にあるまじき、自由な生き方。即座に否定しなくてはならないのに、かごめの用意した拒絶の言葉は喉に閊え、一つも口から出てくれなかった。

 

「ですので……楓にお教えくださいませ、お姉さま」

 

 そして、そんな揺れ動く少女を、長く生きた巫女の温かい瞳が見守っていた。

 

 

「貴方さまはこの戦国の世で、どのように生きることをお望みですか?」

 

 

 窓から差し込む朝日が、俯く少女を優しく照らしていた。まるで、彼女の進むべき道を示すように。

 

 妹の問掛に促され、喚起され、かごめの胸奥の封印が崩壊する。暁の陽光に照らされ、隠し続けてきた本当の願いが暴かれていく様を、少女はただ消える泡沫へ手を伸ばす思いで見つめ続ける。

 私はただ、一目でいいからあいつの無事な姿を見られれば、それでよかった。よかったはずなのに。

 

 

「────たい…」

 

 ポツリ、と零れた呟きは、言葉にならなかった願いの破片。

 

「────一緒に、生きたい…」

 

 重ねる破片に願いの輪郭が言霊を成す。形を得れば最早目を逸らすことは許されず、かごめはもう、自分の本音を認めることしか出来なかった。

 

 

 

「あいつと……いっしょに、生きたいんだ…」

 

 

 

 心の最奥に秘められていたのは、かごめの声なき“女”の嘆願。

 過去の悲劇を経て尚も滅びぬ悲愴の願いの、なんと惨めで未練なことだろう。憎み合い、殺し合った男と新たな未来を築く艱難辛苦に挑むその背中の、なんとか弱く頼りないことだろう。されど永遠にも等しい時を超え、遥か未来で二度目の命を生き続け、それでも陰らぬ恋慕の火は、姉の生涯を知る楓の目に、この世で最も尊いものに見えた。

 

 

「…はいっ。左様になさいませ────かごめさま」

 

 

 一人の巫女が、女になろうとしている。

 長きに亘る迷路の、ようやく正しい道筋を見つけたかごめの隣には、ただ姉の幸せだけを祈る妹の姿が。

 

 まるで自分のことのように幸せそうな笑顔で涙を流す、美しい老女がそこにいた。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 夜空の濃青を紅に染める太陽。朝焼けに色付く木々の中、かごめは神妙な面持ちで村外れの森の中を歩いていた。

 心中に渦巻くのは火傷するほどの高揚熱と、それを圧し潰さんばかりの、不安。原因は無論、この道の先に囚われている一人の半妖の少年だ。

 

 十五年ぶりの、五十年ぶりの、五百年ぶりの、再会。

 

 最初の第一声は未だ決まらない。どれほど思考を巡らせようと、言いたいことも知りたいことも、結局は一つに集約する。

 だが、それを知ってどうすると言うのか。最早欠片も価値を見出せない憎悪を彼に突き付けて、一体何の得があるというのか。既に終わったことを蒸し返すよりも先に、伝えなければいけないことが山ほどあるのだから。

 無論両者は殺し合うほど最悪の仲。自分にも矜持がある以上、前世に受けたあの非道を忘れるつもりはない。彼のほうも、四魂の玉への執着心を上回るほどの情をこちらに抱いてはいないはずだ。

 

 しかし、では何故あいつは。

 

 林を進むかごめの頭を支配するのは、楓から事前に伝えられた犬夜叉の話の中で最も不可解だったこと。

 聞けば犬夜叉は昨晩自分が不覚にも感極まり疲労と出血で倒れた際に、あの場の誰よりも動揺し「桔梗」の名を連呼していたと言う。だがそれは、前世であの贈り物の紅指しを踏み砕く彼の狂気的な素顔を見たかごめには到底信じ難いことであった。

 

「────ッ」

 

 懐かしい妖気を感じる。いつの間にか心臓が破裂しそうなほど高鳴っていた。木々の奥に親しんだ衣の朱色を捉えた少女は、勝手に動く両足に引き摺られてその人影の下へ駆け寄ってしまう。

 未だ覚悟も決まらず、考えもまとまっていない。こちらの身を案じるような彼の態度の真意はどこにあるのだろう。かごめは封印の大木が目前に迫っても、答えの出ない堂々巡りを繰り返す。

 

 だがもし、今の犬夜叉が自分を裏切る前の彼であれば。自分が想いを寄せた、好意を向けることも向けられることも苦手ないじらしい彼ならば。

 

 あるいは最初の挨拶代わりに、こう悪態吐いてくれるだろう。

 

 

「────チッ、なぁにが『一刻を争う傷』だ、楓のババア。桔梗のやつピンピンしてんじゃねーかっ」

 

 

 辿り着いた大樹の麓で見たのは昨夜の光景と変わらない、木の幹に囚われたままの、少年。

 それはかごめの良く知る、不器用で恥ずかしがり屋な彼らしい台詞だった。

 

 夢でも、幻でもない。

 つんと不機嫌そうな顔でこちらを見下ろす犬夜叉の姿は、少女がずっとずっと願い続けていた通りのもので、かごめは少年と言葉を交わせているこの奇跡に一瞬で身も心も溺れそうになる。

 

 愚かな考えは止めろ。己の受けた仕打ちを忘れたか。あの裏切りがやつの本性だ。目を覚ませ、騙されるな。ああ、でも、でも…

 

 彼女の胸中は無数の想いでぐちゃぐちゃで、ふと気を緩めた瞬間に泣きそうになってしまうほど。果たして自分は元からこれほど感情的な人間であったのか。もしくはこれが巫女としての生き方を捨てた代償なのか。かごめは乱れる心に振り回され、ただ茫然と少年の前で立ち尽くしていた。

 再会の挨拶一つ交わすことにすら、これほど臆してしまうとは。

 

 犬夜叉は口を噤んだまま尖り顔でこちらを睨んでいる。差し込む朝日の反射か、僅かに揺れているようにも見える彼の金色の瞳。そこに込められた思いを察することは、かごめにはもう出来ない。

 

 

「────五十年」

 

 

 無言で相対していた二人の沈黙は、少年の拗ねたような一声で霧散した。

 

「村のやつらに聞いた。あれから五十年も経ってやがるんだってな。あのちっこかった楓がババアになるほどの封印たぁ……ったく相変わらず容赦のねえ嫌な女だぜ」

 

 犬夜叉が口にした言葉は、覚悟していた通りの被弾だった。

 かごめは歯を食い縛る。たとえ心構えが出来ていたとしても、直接彼の声で紡がれれば如何なる聖人も穏やかではいられない。己の罪は認めよう。人間五十年、半妖の犬夜叉にとっても決して無価値な時間ではなかったことだろう。だがそもそもの発端はこの少年の裏切りだったはずだ。四魂の玉のために闇討ちまで企てておきながら、それを棚に上げてこちらを責めるなどあまりに一方的ではないか。憎悪の残滓が吹き上がり、かごめの喉元へ無数の激情が殺到する。

 

 しかし、それでも。

 

「……すまなかった」

 

「ッお、おう、何だぁ? …今更心変わりでもしやがったのか? 桔梗さんよぉ」

 

 少女の謝罪に犬夜叉は困惑を隠しきれない。

 

 かごめに昔のことを蒸し返す気は最早なかった。愛していたはずの女を殺すなど何か尋常ではない理由があったはず。幾度と交わした逢瀬の全てが演技であったのなら、尚のこと救えない。

 どうにもならない過去に拘り絶望するくらいなら、せめて僅かでも希望がある未来のほうへ目を向けたい。こうしてまた無事に出会えたのだから、昔のことより今のおまえを見ていたい。それがかごめの偽りなき望みだった。

 

 故に、少女は真っ先にその意思を少年に示したかった。

 

「……私は"桔梗"ではない」

 

「…!」

 

「私は、四魂の玉の復活と共に記憶と人格ごと未来に転生させられた……あの惨めな巫女の生まれ変わりの、"かごめ"だ」

 

 必ず伝えなくてはいけない、この身に起きた摩訶不思議。大きな覚悟を必要とした彼女の真実は少しだけ震えていた。

 こちらの緊張がうつったのか、犬夜叉が小さく唾を呑む音が耳に届く。鼻孔を鳴らしながら「確かに妙にキレーな匂いだ」などと恥ずかしいことを呟いているのは聞かなかったことにした。

 

 既に聡い楓から、考えうる限りの可能性と共に大方の状況を伝えられていたのだろう。かごめが述べた事実に過度な反応を示すことなく、犬夜叉は何かを言おうとして口を噤むことを繰り返すだけ。少なくとも話に耳を傾けてくれる程度の関心は持ってくれているようで、それが少女にとって何よりありがたかった。

 

 前世と今世。

 そうケジメを付けたかごめは意を決し、気丈に彼の下へ歩き出した。

 

「…な、なんだよ」

 

 距離を縮める意図が見えないのか、犬夜叉の警戒心が高まる。最初に出会った頃と同じ、手負いの野犬のように荒んだ彼の姿が酷く懐かしく、そして、哀しくもあった。

 

 やはり、互いを結ぶ糸など期待してはならないのだろうか。痛む心を無視し、少年に絡み付く蔓を上ったかごめは、遠慮がちに彼の胸に────体を預けた。

 

「少し、じっとしていろ…」

 

 話を聞いてくれる優しさが残っているのであれば、己が真っ先にやるべきことは決まっている。

 

「ッな、なな何してやがんだてめえっ!? 気安くおれに抱き着くなっ! おっ、おれはもう(たぶら)かされねぇぞ!」

 

「喧しい、こうでもせねば腕が届かぬ。すぐに済むから…」

 

 首を精一杯逸らし、身動き一つ取れない封印の中で必死に悶える犬夜叉。

 そこで、ふわりと甘美で懐かしい、草原の日向のような芳しい少年の匂いがかごめの鼻孔を擽った。このまま彼の胸に包まれて、秘めた想いの全てを吐き出せたらどれほど幸せか。そんな甘い誘惑を緩む涙腺と共に辛うじて耐え、かごめは彼の胸に刺さった矢を掴み、手に力を込めた。

 

 すると。

 

 

「封印が────」

 

 

 パキン、という硬質な何かが砕け散る音が二人きりの森に響き渡った。幾度か霊力の残滓が脈動し、犬夜叉の止まった時が動き出す。

 

 ふと、犬夜叉の視線を感じた。かごめは躊躇いつつも、潤む瞳でそれに応える。

 警戒と混乱の渦の中に、かつてのものと同じ思慕の熱を感じるのは都合のいい錯覚だろうか。本心を尋ねることなど天地が逆巻こうと不可能で、かごめは名残惜しさを何とか隠し、少年に預けていた体をそっと放した。

 

 見つめ合う二人の隣を一陣のそよ風が吹く。そして時の空白からはたと犬夜叉が先に我に返り、爪の一振りで蔓の拘束から抜け出した少年は一目散に距離を取った。

 

『……』

 

 散らばる蔦を挟み、お互いが無言で睨み合う。

 否、厳密には犬夜叉が一方的に睨んでくるだけで、かごめは瞳に敵意を宿しているつもりなどない。馴染み深い犬座りで切り株の上に油断なく陣取る犬夜叉は、()慳貪(けんどん)な近寄り難い空気を撒き散らしている。

 

 近くて遠く、届きそうで届かない、まるで互いを掠める平行線のよう。こうも不明瞭な心の距離を突き付けられたら、全ての希望が破滅の罠にしか見えなくなる。

 

 

「────寄越しな」

 

 

 だが歯痒い思いに苛まれる少女の心境を知ってか知らずか、犬夜叉が無遠慮に低く平坦な声を投げかけてきた。

 

 その要求の含意をかごめがわからぬはずはない。やはりか、と痛む胸に蓋をして、四魂の巫女であった女は恐る恐る少年の顔を窺った。

 

「…まだ四魂の玉が欲しいのか?」

 

「ったりめーだろ。てめえももう巫女じゃねーならおれに寄越せ、ありがたく使ってやらぁ」

 

 犬夜叉はさも当然のように言い放つ。鋭利な十指の爪を構える彼の姿からは、力尽くでも奪ってやらんとする強い意思が垣間見えた。

 どうか、違っていてくれ。そう祈る弱い自分を叱咤し、かごめはスカートに収めていた一つの宝玉を徐に取り出した。

 

 無数の妖怪の大軍勢にすら微塵も覚えなかった恐怖が湧水の如く吹き上がる。それでも、巫女の仮面を張り付けた女は半妖へ問い掛けるしかなかった。

 

「…妖怪に、なるためか?」

 

「けっ、今更人間になんてなってたまるかよ。本物の妖怪になって、今までおれをバカにしてきた連中全てに思い知らせてやるぜ───桔梗、てめえ含めてなぁっ」

 

 殺気立つ怒りの形相で、犬夜叉はそう声高々に宣言した。

 

 

 ああ────

 

 

「そう、か…」

 

 そんな消え入るような相槌が自分のものだったと気付くまで、かごめにはとても長い時間が必要だった。

 

 過分に過ぎると何度も己に言い聞かせておきながら、どうしても願わずにいられなかった切ない夢。縋った小さな希望がポロポロと手から零れ落ちていく感覚に耐え切れず、かごめは踵を返し少年に背を向ける。このまま彼の顔を見続けていられる心の強さが、少女には最早なかった。

 

「ッ、なんだ桔梗…っ。文句あっか!」

 

 幾度と胸を高鳴らせてくれた彼の声が、今は酷く空虚で冷たく聞こえてしまう。伏せた目に映る地面が墨のように滲み、世界から色が褪せる中、かごめに出来たのは、ただ無意識にふるふると肩を震わせることだけだった。

 

 堰き止めきれない悲痛の涙滴が頬を伝い、何かに落ちる。その先を茫然自失と見つめていたかごめは、ふと、微かに光るソレに目を奪われた。

 濡れた鏡面がキラキラと輝く、惨く醜い石ころに。

 

 

「……受け取れ」 

 

「なっ」

 

 言い放った自分に犬夜叉が瞠目するのを視界の端で感じ取る。振り向いたかごめは、下から無気力に、手元の宝珠を彼へ放り投げた。

 

 硬質な音を立てて足下に転がった四魂の玉へ、犬夜叉は手を伸ばそうとすらしなかった。

 

「…どうした、欲しいのだろう? 村を襲わぬと約束してくれるなら……こんなモノ、おまえの好きにすればいい」

 

「ッてめえ、何のつもりだ…」

 

「四魂の巫女ではなくなった私におまえの邪魔をする資格などない。昔のように無理に望みを押し付けても、“桔梗”のように夢破れ、果てるだけさ。あんな思いは……一度で十分だ…」

 

「資格、って桔梗───てっ、てめえはそれでいいのかよっ」

 

 そう叫ぶ犬夜叉の顔は苦く歪んでいた。望みが叶うはずの者に相応しからぬ、沈痛な声で何かを訴えようとする彼の姿からは、驚くほどこちらに対する悪意を感じない。あるのは不信と困惑、そしてそれを食い破らんばかりの、焦燥。前世の最期に見たどす黒い愉悦心や残虐性など影も形もなかった。

 その光景を見た、かごめの虚無に呑まれる魂が───僅かに震える。

 

 彼は断言した、人間になるなど御免だと。かごめ、否"桔梗"にとって、その言葉には言葉以上の特別な意味があった。

 

 「人間になる」という言葉は、過去に愛し合った二人の夢を示す記号である。ただの“女”になりたい、一人の“女”としておまえと共に生きたい。そう願った桔梗が犬夜叉に望んだことであり、犬夜叉は桔梗の望みを受け入れた。二人の物語はその言葉に始まり、その願いを叶えた先にある未来こそが、犬夜叉に懸想し霊力を失いつつあった桔梗にとっての全てだった。

 「人間になる」という言葉を否定することとは、互いの繋がりそのものを否定するに等しい行為なのだ。

 

 ならば自分は胸の内の全てを秘する他ないではないか。少女と少年は、ここで別れるのが(さだ)めなのだ。定めであるはずなのだ。

 

 だと言うのに。

 

「…そんなに私が気になるか?」

 

「バッ! べっ、別に気になんか…っ! てめえが簡単に死んだらてめえに封印されたおれが舐められちまうからムカつくってだけだ…!」

 

 昔から見てきた犬夜叉の傍若無人な振る舞いは、いつだって本心からのものではなかった。

 少女の虚ろな瞳の水面に風が吹く。淀む心の止水がゆらゆらと波打ち、溢れ出す感情の氾濫をかごめは止められない。

 

 まただ。また、おまえはそんな顔をして、私を惑わそうとする。昔も今も私に期待させ、おまえは最後の最後でその悉くを平然と裏切る。欲した宝珠を手に入れ、念願だった本当の妖怪になる道が開かれ尚も飽き足らず、終いには憎い女の心までへし折っていくつもりなのか。止めろ、見るな、そんな目で私を見るな。私はもう騙されない。夢など抱かない。だから。だから。

 

 無意味だとわかりきっているのに、自分と共に生きる未来を彼は選んではくれないのに。女はいつだって、彼の差し出すその手にどうしようもなく縋ってしまう。

 

「…なら」

 

 この期に及んでまだ未練を捨てきれない自分が惨めで、情けなくて。かごめは崩れゆく元巫女の鉄面皮を前髪の奥に隠し、必死に嗚咽を呑み込み────

 

「…なら、私の側にいろ」

 

 ────それでも尚抑えきれなかった感情を、遂に、自暴自棄に言葉にしてしまった。

 

 

「おまえが人間だろうと妖怪だろうと構わない。老いて生き恥晒す女子の私をおまえが殺し、死病に床伏す老婆の私をおまえが看取れ。私が死の縁に見る男の顔は、おまえのものだけだ」

 

 

 早朝の冷たい春風が互いの肌を撫でる。鳥の囀りも、裾野の村の活音もなく、まるで世界が二人だけのものになったかのよう。消え入るようなかごめの小さな小さな一言が大樹の麓に溶け込んだ後、向かい合う男女の間には草木の静かな騒めきだけが残っていた。

 

「き…桔梗……」

 

 震える少年の声が酷く遠く聞こえる。あらゆる「もしも」が行き着く歴史の屑籠へ捨て去られるはずだったその未来を、かごめは紡ぎ、欲してしまった。

 

 それは、砂上の楼閣だ。

 犬夜叉のために宿命の"巫女"を捨てた桔梗と、桔梗のために亡き父の血たる“妖怪”を捨てた犬夜叉。前世の一蓮托生な二人は故に永遠を誓い合えた。だが人間と妖怪とでは、生きる時間そのものが違うのだ。犬夜叉が一瞬でも好いてくれたこの姿は瞬く間に老い、死して屍へと朽ちていく。少年のまま変わらぬ彼へ、醜く皺だらけになる自分の姿を晒す恐怖に耐えられるのか。かつてのように裏切られ、見捨てられる絶望に耐えられるのか。果たして、かごめはその不安と向き合うことにすら耐えられなかった。

 

 もしこの気持ちが諦めきれるものであったなら、己の人生の山谷の一つであると割り切れるものであったなら。あるいは"日暮かごめ"としての生涯を、生まれた平成の世で送ることが出来ただろう。取り戻した霊力で、今一度巫女として戦国の世で生きることも出来ただろう。

 

 だが愛憎渦巻く桔梗の魂は犬夜叉の下に囚われ続け、かごめへ生まれ変わり憎悪が清められて、それでも女が彼への想いを捨て去ることは叶わなかった。五百年先の未来に生まれ変わり異なる人生を送りながらも、気付けば毎晩神社の御神木へ赴き、決してありえない再会を願い続ける有様。最早かごめに、犬夜叉のいない人生など何の価値も見出せない。

 

 たとえ砂上の楼閣だろうと構わない。どんな形であれ、犬夜叉が側にいてくれるなら、そこにかごめが生きる意味がある。そこにだけ、桔梗が生まれ変わった意味があるのだ。

 

 秘めてきた願いの全てを晒し、彼の秘めた胸奥へ向けて足を踏み出してしまった少女は、磔刑台へ登る心境で少年の下す沙汰を待ち続けた。

 

 

 

「────ったく、世話の焼ける女だぜ…っ」

 

 

 カサリ、と草を掻き分ける足音が聞こえ、かごめははたと顔を上げる。ぼやけた視界の中に、四魂の玉を手にした犬夜叉の仏頂面が浮かんでいた。

 

「…え?」

 

「こんな玻璃(はり)みてえに清められた四魂の玉に、おれを本物の妖怪に進化させる力なんかあるワケねえだろ。おれが妖怪として生まれ変わるためには、まずおれ自身の妖力で玉を完全に染め上げねえとダメだ」

 

「それは……そうだが…」

 

 念願の宝珠をつまらなさそうに掌で弄ぶ少年へ、かごめは呆けた生返事を返す。直情的な犬夜叉らしくない計画性に富んだ台詞の真意がわからず、少女の脳はそれを表面的な単語の羅列としか捉えられない。

 

「だから、その、だな…」

 

 故に、続いた犬夜叉の言葉をかごめが表裏全てで理解出来たのは、天が哀れな彼女に授けた救いの祝福であった。

 

 

「そ、そんなにおれの側に居てえなら、玉が染まるまで────こいつを狙う雑魚妖怪どもの露払いとしてこき使ってやってもいいぜっ!」

 

 

 そう尊大に言い放ち、犬夜叉は鼻息荒く首を背けた。

 そんな子供っぽい彼の姿を目にし、かごめはようやく、少年の口から紡がれた提言を反芻する。

 

 聞き違いではない。断章截句の思い違いでも、ましては夢幻でもない。

 奈辺いかなる神仏の悪戯か、四魂の玉のために桔梗を殺したはずの犬夜叉が────また、桔梗の魂を持つ女と一緒に生きることを認めようとしていた。

 許そうと、しているのだ。

 

「な、なんか言えよっ! おれについて来んのか来ねーのか?」

 

 かごめは自分の耳が、頭が信じられず、はしたなく口を開けたまま唖然と佇むばかり。目の前で挙動不審に声を荒らげる犬夜叉の瞳に嘘はなく、紅潮する頬を、それを伝う汗も、彼を彼たらしめるもの徹頭徹尾が羞恥と不安に狼狽する、ただの一人の男の子だった。

 

 おまえは、私を捨て、四魂の玉を選んだのではなかったのか。四魂の巫女の私が目障りで、故に殺したのではなかったのか。おまえが本物の妖怪になる道と、私がおまえと一緒に生きる道は、決して交わらないのではなかったのか。

 

 何がどうなっているのかわからない。彼が何を考えているのかわからない。

 

 わからないが──たとえこの犬夜叉が幻であっても、感じた想いが錯覚であっても──これほどの夢を見せて貰ったかごめは、もう、地位も名誉も霊力も弓術も、身も心も命も魂も、己の持つもの余さず全部を捧げてでも、彼を信じたいと思った。

 

 

「……いいのか?」

 

「てっ、てめえが言い出したことだろ! 看取れって、死ぬまで側に居ろって…!」

 

 どれほどの覚悟でも押し殺せない不安に急かされ、かごめは啜り声で少年を見上げた。気に食わないのも当然。犬夜叉は赤い顔でこちらの非を捲し立て、遂には背中を向けてしまう。されどその後ろ姿にこちらを隔てる壁はなく、彼は殊勝に言葉の続きを待っている。

 そこで少女は、ようやく、彼の心に触れられた気がした。

 

 犬夜叉だ。

 人見知りで、素直じゃなくて、だけど本当は人一倍優しい、私が恋した犬夜叉そのものだ。

 

 

「私は……おまえに身勝手な望みを押し付けようとした巫女の生まれ変わりだぞ…?」

 

「…ふん」

 

 築き上げた堤防が音を立てて決壊する。

 

「ッ、私は…! 桔梗の記憶も人格も持つ、名と体が違うだけの……おまえの言う同じ"嫌な女"なのだぞ…?」

 

「…屁でもねえ」

 

 かごめは咽ぶ声も構わず彼の背中へ何度も何度も問い掛ける。十五年に亘り秘め続け、ボロボロになった巫女の仮面で隠していた涙も、赤い目も、悲痛に歪んだ口元も、必死に封じてきた狂うほどの慕情も。もう、堪えることなど無理だった。

 

 

「ほんとう、に……いいのか…?」

 

 こんな、恥も外聞もない無様な顔で、声で、彼へ想いを告げたかったはずもないのに。それでも、嗚咽の濁流に押し流される途切れ途切れな言葉を、少年の大きな背中は身動ぎ一つせずに受け止めてくれる。

 

「…記憶だの人格だのが同じだろうと、てめえは桔梗じゃねえんだろ? 生まれ変わって四魂の玉も手放したてめえは、あいつがずっとなりたがってた……『ただの女』だ」

 

「────ッ」

 

 頬を一筋の涕涙が流れ落ちる。目を閉じようと止まらない歓喜の泉は、憎悪と絶望で枯れ果てた桔梗の心を静かに癒していく。

 

 彼は覚えていてくれた。かごめが、桔梗が、何よりも彼のために欲したソレを、ずっと忘れずに。

 

 少女は万感の思いで、胸の奥に芽吹いた尊い熱を抱きしめる。こんなものを望んだせいで、と恨み憎むことしかなかった己の“女”が、今は果てしなく愛おしい。それは彼が見つけ、彼に育まれ、彼に捧げたかった、犬夜叉と桔梗だけの宝玉だった。

 

 ああ、これで。これでやっと。

 

 

 

 ────やっと、ただの女になれた。

 

 

 

 

「……いいだろう、おまえの好きなように使われてやる」

 

 こんな卑怯な返ししか出来ない自分が嫌になる。しかし先ほど晒した痴態のまま彼の顔を見るなど不可能で、何とか表情を取り繕ったかごめは落ち着いた声で少年を諭した。

 

「だが一つの地に留まれば妖怪が玉を狙い際限なく襲ってくる。楓と村の危機とならぬよう、玉が染まるまで、その……共に旅をすることになるが…」

 

「…ッ! そっ────」

 

 慎ましく述べた提案に喜色満面の犬夜叉が飛び付いた。かに思われた直前に自制した少年は、誤魔化すように不遜な態度で荒ぶり出す。

 

「────ッか、勘違いすんな、仕方なくだっ! 行先は全部おれが決める! てめえの意見なんざ米粒一つだって聞いてやんねえからな、覚悟しろよっ!」

 

「…あっ、ま、待て」

 

 居丈高にこちらへ人差し指を突き付けた後、くるりと反転した犬夜叉は勝手に林の小道をずんずん進み出す。唐突のことに目を瞬かせていたかごめは、木々の間に消えて行く少年の行動の意図に遅れて気付き慌てて彼の後を追い駆けた。枝葉に引っかかるスカートが少女の足を煩わせる。だが不思議と二人の距離が開くことはなく、気付けば彼女の隣には犬夜叉が寄り添うように歩いていた。

 そっぽを向く彼の顔は窺えない。代わりにぴこぴこと動く二つの獣耳が少年の心境を語り、それがあまりに可愛らしくて、微笑ましくて、嬉しくて、思わず頬が緩んでしまう。そんな男女の後ろ姿は、肩を触れ合わせるには至らない、初々しい恋人のようであった。

 

 

「…ふふっ。いつぞやの国越えを思い出すな」

 

「けっ! あんときよりは腕も戻ってるだろーな? 用心棒っ」

 

「あ……すまない。流石に呪いで衰えた前世の私よりは遥かにマシだと思うが、弓は実戦に慣れるまでしばらく満足に使えないかも知れないな…」

 

 折角の二人旅だと言うのに、昔と変わらぬ足手まといな自分が不甲斐ない。霊力だけならこの体は戦国有数の強者であった全盛の頃の桔梗さえ超えるが、平和な世に甘んじた女子の肉体の弱さは目を覆わんばかり。

 だが恥じ入るように下を向くかごめは、そこでふと、あることに気付いた。

 

 そうだ。私はもう、ただの女なのだ。ならばこう言う"甘え"も、許してもらえるのだろうか。

 

 かごめは控えめに隣の相方を見上げ、慣れないことへの動揺を押し殺し、小さな小さな声で彼に問い掛けた。

 

 

「……頼っても、いいか?」

 

「────ッッ! ったく、しゃーねーなっ!」

 

 

 不機嫌そうな台詞と、真逆の気持ちを隠しきれない声色。そう言い残した犬夜叉は飛ぶように獣道を先導し、生い茂る邪魔な草木を刈っていく。そして開けた道の先でムスっとこちらを流し見る彼の下へ、かごめは感慨深い笑顔を浮かべて走り出した。

 

 ツンと痛む鼻奥は、この胸に宿る積年の希望が結実した証だろうか。それともただ、清算すべき過去に蓋をして、異なる時間を生きる破綻の未来から目を逸らし、盲目に彼を信じているだけの、惨めな片思いだと察しているからなのか。

 

 わからない、わからないけれど、これが自惚れではないのだとしたら。

 

 

 温かく安らかな朝日が二人の足下を照らす。ふわふわとした現実味のない体の感覚に戸惑いながら、かごめはどうか、この幸せな夢が一秒でも長く続いて欲しいと、切に願った。

 

 奇跡を担う四魂の玉ではなく、何よりも大切なこの願いを叶えてくれる、唯一、たった一人の少年の心へ向けて…

 

 

 

 

 


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