もしもかごめちゃんが完全に桔梗さまの生まれ変わりだったら 作:ろぼと
深い森を通る細道。その脇に面妖な姿をした二人の男女がいた。女は南蛮風の小袖の上に丈が短い織部色の腰巻を身に付けた淑やかな美貌の持ち主で、対する男は燃えるような朱色の
だが似合いな両者に漂う空気に甘さは無く、向かい合う二人の眼つきは険呑そのもの。落ち着いた物腰が常であるはずの少女は特に険しく、強い感情を訴えようと対面の仏頂面の少年を睨み付けている。
「犬夜叉」
「な、何だてめー、ヤんのか?」
「犬夜叉」
「だっ、大体そんなひらひらしたヤツ捲ってくれって言ってるみてえなも──」
「犬夜叉」
「…わ、悪かったって」
少女の有無を言わせぬ吹雪の眼光に耐え兼ね渋々頭を下げる少年。その頭部には二つの獣耳が犬のように垂れており、明らかな人外であると見て取れる。ここが無人の林道でなければ、言い争う二人はさぞ衆目を集めたことだろう。
もっとも、臀部に手を添え相方を睨む女に周囲へ気を配る心の余裕はない。しばしの沈黙の後、胸に溜まった憤りの熱を大きな溜息で吐き出した少女──かごめは自分の腰に巻かれた布を摘み、その端正な桜色の唇を開いた。
「…この袴は"スカート"と言ってな。未来の学問所や寺子屋で学ぶ女子の正装なのだ。丈の長さはある程度好きに出来るが、私の通う所にこれ以下はあってもこれ以上に足が隠れるものはない」
「これ以下、ってこれでも膝下つんつるてんじゃねーか。未来の女共はマトモな着物も着れねーのかよ」
「未来ではおまえのような不埒者を罰する優秀な町奉行所がいたる所にあるから、女人の身なりは実に自由で千差万別なのだ。おまえのような恥知らずにスカートを捲られたら見廻り人に泣き付くだけで大抵は事なきを得る。おまえのようなケダモノにとって平成の日ノ本は生き難い世の中と言えるだろう。乱世を生きれてよかったな、発情犬」
「おまえのようなおまえのようなってプリプリうっせーよ生娘っ、ちょーっとそのヘンなふんどし見られたからってよお! んなに嫌だったらさっさと小袖に着替えちまえ」
ちくちく、あるいはぶすぶす。受けた仕打ちの仕返しとばかりに相手の非を責めるかごめへ、少年──犬夜叉が懲りずに反論した。それが気に食わない少女は更に髪を逆立たせる。やはり見られていたかとスカートを押さえる彼女は頬に登りそうになる血を深呼吸で冷やし、思考を切り替えるため建設的な話題を持ち出した。
「…褌ではなく下着と言え。そもそもおまえが旅支度もさせてくれずに勝手に村を出たから着替えなどない。川や霊力で清めればいい衣類はともかく、笠も蓑も無いのは遠出に困るのだが…」
かごめと犬夜叉。道行く者たちが彼女ら一行を奇妙な二人組と形容する理由は幾つもあるが、その最たるものが両者の旅装と呼べない手ぶらな身なりである。まるで散歩の途中のような緊張感の欠片もない準備で林道を歩む男女が、よもやかの名高き四魂の玉を持つ半妖と元巫女であるとは信じ難い。
とは言え、かごめが頭を抱える理由はそれ以前の問題であり、このまま無防備に旅を続ければ雨風に打たれ平成少女の貧弱な肉体が悲鳴を上げ出すことは必至。先を歩む少年の足をこれ以上引っ張ることは避けたい彼女にとって、しっかりとした旅支度を整えることは急務だった。
その思いが通じたのか、犬夜叉はいつも通りの態度でわかり辛い親切を見せてくれた。
「ったく弱っちい生き物だぜ人間ってのはよお。…旅装は次の村でその辺で狩った獣の皮と交換だ」
「弓矢もないが…」
「獲物はおれが仕留める。足手まといは下がってろ、いいなっ?」
傲慢不遜に見えて、その根っこには相手を思いやる優しさを持つ半妖の少年。孤独で弱みを見せられない生涯を送って来た彼は、いつしか他者へ高圧的に振舞うことで自身の心を守る術を身に付けてしまったのだろう。何とも難儀な性格だと呆れるが、自分も似たようなものだとすぐに気付き、かごめはバツが悪そうにぽつりと気持ちを述べた。
「…助かる」
「ッ、ふんっ」
素直になれない二人の仲は、過去の凄惨な仲違いを乗り越えつつも、やはりどこか気まずい空気が漂う修復途中な関係だった。
***
「──中々でけー宿場だな。大名の城が近いからか?」
道中のスカート事件から数刻の旅路。かごめと犬夜叉は道なりに営まれる立派な町へ訪れていた。流石にこの辺りまで来ると人通りが増え、余計な面倒を嫌った少女は相方の髪を束ねて一応の人間の
「道行く人々が小田原の新たな税制について噂していた。十五……いや五十年ぶりだが、まさか上方の
「ほーん、よくわかんねえがここなら旅装も揃いそうだな。先いくぜ、遅れんなよっ」
「あ、こら」
ソワソワしていた犬夜叉も我慢の限界だったのか、飛ぶように宿場へ入り店々を冷やかして遊んでいる。あれで二百年以上もの時を生きていると言うのだから、年の功とは積もうと思わねば積めないものなのかもしれない。かごめは美しく老いた妹の楓の姿を思いながらゆっくりと少年の後を追った。
「けっ! どこもかしこもシケてやがるぜ」
「おまえにまともな物欲があったとはな。何か欲しいものでもあったのか?」
「う、うるせー! おれにも色々あんだよ」
不平不満を吐き捨てる犬夜叉の意見に反し、宿場の品揃えは中々のもの。消耗品である草履や蓑、笠などはどこの店でも売っており、特に問題なく揃えることが出来た。
中央の寺院周辺の立地では反物や香、唐物などの高級品を並べた店が増え、付近には奥羽へ赴く商人たちが上方から持ち込まれる装飾豊かな着物を取引する姿もある。禁欲的な巫女の生活しか知らないかごめに布地の少ない未来の服装は到底親しめるものではなかったが、妖怪退治の依頼先で目にした武家の姫君の纏う絢爛豪華な
特に意味もなく、物珍しそうに品々を物色する犬夜叉を窘めたり、時には自分が心動かされたり。まるで二人のいる界隈だけ、あの平成の世に舞い戻ったかのような平和な時間が過ぎていく。
だからだろうか、かごめは店主が実演するシャボンの泡を面白そうに突いている犬夜叉の子供っぽい横顔を見つめながら、ふと現世の学友、由香たちが盛り上がっていた未来の逢瀬の作法の話を思い出した。街を意中の男と巡る"ショッピングデート"なる遊び。私服を彼氏の趣味に合わせるだの、腕を組み彼のエスコートを待つだの、中には学生特権"制服デート"などもあるらしい。いずれもよくわからない妙な文化の数々ではあったものの、そのことについて談笑する若い少女たちは実に楽しげであった。考えたくもないことだったが、かごめ自身もいつかは現世で生涯の伴侶となるどこぞの男と体験することになるのだろうなと義務的に漠然とした情景を思い描いた記憶はある。
それが。
「──まさか初めてが元の乱世で、しかも相手があの犬夜叉とはな…」
「おれがどうかしたか、桔梗?」
「…ッ!」
突然後ろから彼の声が聞こえ少女は肩を跳ねさせる。最近は気の緩みが酷く、自分でもどんな情けない顔をしているかわからないほど表情筋が勝手に理性の制御を離れてしまうのだ。慌てて手で頬の様子を直接確認し、大事ないと判断したかごめはようやく少年へ振り向いた。
「…何でもない。いきなり背後に現れるな、忙しないやつめ」
「て、てめえが呼んだんだろ…! ったく、話のわかる旅籠見っけたから先に部屋取っといたぜ。こっちだ」
「ほう、手際がいいな。では暗くなる前に参るとし──」
何気ない話題、何気ない返事。だがかごめはそこに少し、否非常に引っ掛かる違和感を覚え、思わず足を止めた。
「…犬夜叉」
「あん?」
気付いていないのか、それとも意識すらしていないのか。あるいは未成年の健全性に過敏な未来の日ノ本で新たな人生を送ってきた自分がこの時代では異質なのか、かごめは騒めく胸を押さえて少年の反応を窺う。
「『部屋』とは、その…私とおまえの、二人でか?」
「それ以外に何があるってんだ?」
「……いや、何でもない」
まるで阿呆を見るような犬夜叉の表情から全てを察し、少女は大きく首を逸らして話を煙に巻く。空回りするかごめは内心身悶えしながら、訝しむ少年の追及を避けるように速足で宿の戸を潜った。
宿場では旅籠が犬夜叉を不気味がることが多く、前世の二人旅のときは別泊が当たり前だった。だが変装させた此度はどうやら普通の男女だと宿の主人に思われたらしい。ちゃんとした
「な、何だよ」
「……己の巫女を捨てた弊害だ。しばらく経てば折り合いも付くだろう。今は許せ」
「お、おう…?」
少女は唇を尖らせ、そして溜め息と共に肩をおとす。
少しくらい、意識してくれなければ女の立つ瀬がない。かといって、彼に意識され強引に迫られる覚悟など出来るはずもない。これでは楓に呆れられるのも当然だ。
自己嫌悪に内心項垂れるかごめは、複雑な思いをいつもの澄まし顔で隠し、隣合う二枚の茣蓙の片方に渋々腰掛けた。
***
パチリ。
宵闇の中、犬夜叉は妙な胸騒ぎを覚え瞼を開けた。隣でスヤスヤと寝息を立てる元本職の少女に反応はない。起こさないよう静かに茣蓙から立ち、少年は雨戸の隙間から外を見る。
星一つない暗天の丑三つ時。月の陰の気を好む妖怪の動きやすい夜ではないが、だからこそ油断を誘う。幼い頃に培った強い警戒心は五十年の封印を経ても揺るがず、今宵は夜襲を見越して起きているかと犬夜叉は懐の宝珠を軽く撫でた。
念願の四魂の玉。だが願いを十全に叶えるには持ち主の妖力で染め上げる必要があり、犬夜叉は玉を狙う妖怪たちを避けるためこうして旅を始めた。拠点は変わらず封印されていた森の麓の村で、旅と言えるほど大それたものではないが、特に目指す目的地もなく流離う自由な日々は不思議と心躍る非日常であった。
否。「不思議と」など、本当の理由を言葉にしたくない男の無意味な意地だ。
「…チッ、やっぱ無理してたんじゃねーか」
隣で隙だらけな姿を晒す眠り姫へ犬夜叉は吐き捨てる。先日の傷も完全には癒えていないだろうに、弱音一つ言わず半妖の彼の足に合わせ歩いた少女。沈痛な声色は少年自身の意図しないもので、彼女へ抱く想いの大きさを物語っていた。
桔梗。
かつて少年が共に将来を誓い合った初恋の女で、同時にこの世で最も憎むべき巫女の名だ。裏切られ、感情の整理も付かないまま封印された彼は解放された五十年後に、生まれ変わりの少女"かごめ"と出会った。瓜二つの姿と記憶、そして人格を持つ、桔梗より少しだけ幼い彼女に。
「…変な服」
そう形容する他ない、かごめの学生服なる奇妙な衣類。ほぼ初めて見る桔梗、あるいはかごめの巫女装束以外の姿がコレであったのは、彼女と再会した犬夜叉にとっての唯一の不幸だ。どうせならこんな、自分以外の男に太ももをチラチラ晒す挑発的な着物ではなく、昼間の彼女が微かに目を輝かせていたあの華やかな
もっとも、美人とはどんな珍妙な着物を着ても似合うもの。あの凛々しい桔梗が衣類を乱されたじろぐ姿は何とも新鮮で、スカート姿の彼女は危うい倒錯的な魅力を帯びていた。
板の間で安らかな寝息を立てる彼女をボーっと見つめていると、隙間風に当てられたのか、姿勢よく眠るかごめが身じろぎした。犬夜叉は慌てて自身の緋色の水干を脱ぎ、冷える少女の体にそっと掛けてやる。
すると少年の耳に、掠れた小さなうわ言が聞こえた。
「──犬、夜叉…」
はたと声の彼女へ振り向く少年。そこで彼は硬化する。掛けられた火鼠の衣をきゅっと握り、口元を埋めるかごめの姿はまるでか弱い童女のようで、前世の桔梗に見た強く気高い"巫女"はどこにもいなかった。
「…ッ」
ドクン、と男の体を血が巡る。意識を落とし、武器もなく、男の自分の衣類を寝具に羽織る、桔梗。そんな彼女の姿があまりに無防備で、犬夜叉は自分の中に生まれた衝動に耐え切れず、咄嗟に逃げるように雨戸の隙間から外へ飛び出してしまった。
陰る月の下、犬夜叉は飛ぶように宿場の屋根を駆け回り、夜風で雑念を振り払う。
桔梗と言う巫女は不思議な女だった。誰よりも強く、気高く、力が衰えて尚気丈に振舞い続け、誰にも弱みを見せない孤高な人間。しかし本当は心無い言葉で傷付き、己の非力に胸を痛め、そして想い人の抱擁に躊躇いがちに応えてくれる、優しい普通の娘。そんな彼女が稀に見せる弱さが、犬夜叉の知る桔梗の素顔の全てだった。
だが、かごめとして、ただの女として生まれ変わった桔梗は、少年の知らない顔ばかりするようになっていた。巫女の仮面の奥にずっと隠してきた、脆く、今にも消えてしまいそうに儚げな彼女の本性。それが少年の古の記憶、病弱な母が息子の寝静まった夜に亡き夫の名を呼ぶ哀れな姿を思い出させ、犬夜叉の胸を締め付ける。
あいつは何を思って四魂の玉を投げ渡し、また共に生きたいと言い出したのか。前世の非行の懺悔のつもりなのか。それともまた騙して油断を誘い、今度こそ仕留めようと企んでいるのか。訳もわからないまま桔梗に捨てられた犬夜叉には、今の彼女の一言一句、一挙手一投足が霞みがかったように捉え難く、少年は問い質すことの出来ない疑問に悶々とするばかり。
彼は怖かったのだ。昔のように、昔以上に自分を隠さず見せてくれる彼女を失ってしまうことが。命に懸けてでも守りたいと思ってしまい、自分がもう取返しの付かないほど彼女に惹かれてしまっている現実が。そしてそんな彼女の愛おしい素顔が、また全て愚かな男を欺く嘘だったと突き付けられることが。
「…ったく、らしくねえのはお互い様ってか」
寝静まった宿場を無心に走り抜け、気付いたら犬夜叉は町を離れ、はずれの森にまで遮二無二に飛び込んでいた。幸い、振り返れば未だ夜霧の奥に町がおぼろげに見える。だが急いで戻らねば宿まで四半刻はかかるだろう。
何やってんだかと落ち込む少年はその場に溜息を残し、来た道を遡ろうと反転する。
そこで、犬夜叉の鼻が微かな妖気を捉えた。
「ッ、やっぱ来やがったか…!」
少年は無意識に懐の四魂の玉を握り締める。宿での胸騒ぎは彼の天性の生き抜く術。犬夜叉は感傷に浸る己を捨て、捉えた気配を目指し森の闇を駆け抜けた。
妖気を辿った先にあったのは少々意外な光景だった。
「…あのデカブツか? でも人間共を襲うってこたぁ、四魂の玉が目当てじゃねーのか?」
近くの木の上に陣取り見下ろした道の脇では、一人の巨漢が数名の男たちを嬲り殺しにしていた。恐らくは夜宿中の商人たちを喰らいに来た若い鬼か何かだろう。愚かにも護衛の法師一人連れずに夜の森へ入った者たちは、一人を残し全滅の憂いに遭っていた。
「…ん? あいつは確か…」
惨めに散っていく商人たちを憐憫の眼差しで傍観していた犬夜叉は、最後に残った大柄な男の顔を見て、おっと目を見開いた。別に知人というほどの相手でもなく、更に商人自身には何の興味もない。
ただ、彼が宿場で扱っていたとある商品に、少年は大きな価値を見出だしていた。
重なる偶然、諦めるしかなかったものが押せも押されぬ命の恩と言う形で手の中に転がり込んでくる幸運。これも何かの縁というやつだろう。運命的な状況に犬夜叉は顔を上気させるが、痴態に気付くとすぐさま引き締め渋面を作る。
「──ひっ! あ、新手か…!?」
認め難い感情を振り払うように半妖の少年は見事な軽業で空を駆け、絶体絶命な男の前に降り立った。
「ったくおめーもツいてねーな、おっさん。ホクホクの荒稼ぎから一転、夜には妖怪のエサたぁよお」
「お、お主は宿場であの美しい
突然現れた冷やかし客に大柄な男が喜色をその絶望に歪んだ髭面に浮かべる。それを少年は無情にも否定した。
「生憎だがそりゃ買い被りってもんだ。おれの用はてめえの荷だけだぜ、駿河商人」
「なぁっ! お、おのれこの土壇場で荷荒らしが目的か!?」
「前見な、死ぬぞ?」
突き落され怒り出す商人をトンと横に押すと、そこへ巨大な左腕が恐るべき速さで振るわれた。
『──おオきな、かラだ…よ、コせ…』
巨漢の妖怪が不気味な片言を口にしながらノロノロと商人へ近付いてくる。あまりに唐突な出来事に唖然とすること少し、大柄な男は直後何が起きたのか理解し半狂乱に悲鳴を上げた。
「ひっ、ひひゃあああ誰か助けてくれええ!」
「チッ、世話の焼ける」
腰が抜け震える隙だらけな商人。流石に無理を悟った犬夜叉は反撃に出るべく自身の鋭利な五爪を振るった。
「おらあっ!」
『!』
傀儡のような不自然に鈍い動きの妖怪は少年の無造作な攻撃すら避けられず、直撃を喰らった肩は一瞬でただの肉片と化した。だが異様な巨漢は怯む素振りも見せない。ようやく存在に気付いたかのように犬夜叉のほうへ振り向いた化物は、生気のない眼球で彼の懐へ視線を移した。
『しコんの、タま…こっチ、きタ』
「…ありゃ"
死屍累々な周りの惨状に紛れていたが、これほど近付けば当然相手の異常に気付く。感じる微弱な妖気とそれを隠さんばかりの強烈な腐臭を放つ妖怪に、犬夜叉は覚えがあった。
もっともそうとは知らない商人にとって、目の前の銀髪の少年が軽やかに敵の腕を斬り落とした姿は驚愕と感嘆に値するものであった。光明を見出した男はすぐさま下手に出る。
「つ、強い…! ッわ、わかった! 礼なら存分に差し上げます故どうか助けてくだされ!」
流石は商人、現金なものだ。変わり身の早さを失笑しながらも、少年は望んだ展開を歓迎する。
「ようやく尻に火が付きやがったか。ならその一番下の桐箱の中身で手を打ってやる、おめーの今夜の安全と取引だ」
「なっ、そ、それだけはいかん! こっ、こっちの三河木綿のほうが旅の方には相応しいかと…!」
「おいおい、どの道ここで死んじまったら他の連中の荷と同じくぜーんぶ野盗の糧になるだけだぜ? 素直におれに渡して命を拾うが吉ってもんだろ」
よほどの値打ち物だったのか窮地においても手放すことを躊躇う大柄な男。往生際の悪さも商人の性なのだろうが、まさか自分の命まで値切り出すとは何とも筋金入りだ。
だが巨漢の二度目の攻撃が右耳を掠った恐怖の前に、男も遂には張り続ける意地を手放した。
「ッひぃぃっ! わかっ、わかった! わかりました、お渡しします! だから助けてくださいいい!」
「へっ、約束忘れんなよっ」
言質を取ったと犬夜叉は戦意を高め、自分自身の攻撃に振り回される愚鈍な動死体の前に躍り出た。
「くぉら、こっち来やがれ雑魚烏! てめえの相手はこのおれだあ!」
『…にガ、さネえ、ど…』
程度の低い挑発で相手の注意を引き、森の中へ巨漢を誘導する。この妖怪の真に厄介なところは死体操作の力ではなく、その本体の俊敏性と強い執着心だ。妖鳥は飛行能力を持つ妖怪の中でも特に臆病で素早く、一度空に放てば仕留めるのは困難を極める。その後もずっと粘着質に狙われ続けるとあっては、ここで取り逃がす愚は犯せない。
狙い目は仮初の肉体に囚われているまさに今。犬夜叉は逸らず、敵が飛べない木々の枝葉の天蓋の下で決殺の好機を窺った。
『よコせ……おデ、の…しコん、ノ…タま…!』
「はん、思い上がんなよ間抜けが! まんまと罠に引っ掛かりやがって、もう逃げ場はどこにもねぇぞ! ──喰らえっ!」
少年の爪が巨漢の振るう最後の片腕とぶつかり、轟音を上げる。僅かな拮抗のあと、打ち勝ったのは犬夜叉。衝撃に耐えきれなかった巨漢の腐肉が瓦解し始めたのだ。
『あ、デ…? うまク…うゴかな、い…』
抑揚のない声で狼狽する死舞烏。だが妖鳥が宿り木を放棄し逃げ出す決意を下す間を少年が待つはずもない。
「こいつはなぁ、あいつと心が繋がってる最後の証なんだよ! 妖力目当ての雑魚なんかにゃ指一本触れさせねえっ!」
巣食う死体の胸の大穴から宿主が飛び立とうとした瞬間。優れた五感で敵を完全に捉えた犬夜叉は、羽ばたく黒い塊へ向けて渾身の一撃を振り下ろした。
「くたばりやがれっ──"
大気を斬り裂く衝撃波が夜の森に散乱する。舞い上がる血霧、弾ける骨肉、吹き荒れる土煙が晴れた後。月光に佇む少年の相貌には、勝利の余韻に浸る彼らしい勝気な笑みが誇らしげに浮かんでいた。
***
「ん…っ」
微睡む眼が光を捉え、かごめは眠る意識をゆっくりと呼び起こす。開いた瞼の先には黒ずんだ古い板張りの天井、現世の日暮神社の自室とは似ても似つかない空間だ。目覚めと共に視界に飛び込んでくる非日常に驚くのも、最早日課となりつつある。どうやらこの幸せな夢はまだまだ続いてくれるらしい。
昨夜に宿場の個室に泊まったことを曇った頭で思い出した少女は、はたと慌てて隣の茣蓙へ振り向いた。しかしそこにいるはずの人影はなく、代わりに雨戸の先の縁側から馴染み深い妖気を感じる。犬夜叉は先に起きて朝焼けの風情に浸っているようだ。
「…?」
ほっと安堵したかごめは視線を下ろし、ふと、そこで簡素な旅籠に似つかわしくない鮮やかな色彩に目を奪われた。
「これは…」
ぼんやりと眼前の極彩色を眺めていた少女は、その布に恐る恐る手を触れる。滑らかな手触り、高貴な光沢、そして未来の世でもまれにみる繊細かつ大胆な配色と金銀の輝き。
間違いない、昼の宿場で見かけたあの上方の絹織物だ。
何故これがここにあるのかわからず、昨日の記憶を隙間なく探るかごめ。だがどれほど思考を巡らせようと行き着く答えは一つだけで、少女は居ても立っても居られず着物を手に縁側へ転がり出た。
どうやって手に入れたのか。何故これを眠る私に掛けてくれたのか。彼はそこにどんな意味を込めたのか。未だ素直に彼の好意を受け止められない少女は、その本心を知ることが怖くて足を踏み出せない。
ただ、昨日の街歩きで美しい晴れ着に見惚れる自分を彼に見られていたことが恥ずかしく、されど彼があのような些細なことにまで気を配ってくれたことを喜んでしまう己の単純な心だけは、紛れもなく本物だった。
「──犬夜叉っ!」
かごめの喚呼と共に部屋の雨戸が勢いよく開かれ、犬夜叉の額の冷汗がビクリと舞う。少年は不安と期待に揺れる胸中を秘めようと素知らぬ顔を作り、しかし肝心な彼女への第一声がどもったことで台無しとなった。
「…な、なんでぃ桔梗。朝っぱらからギャーギャー騒ぎやがって」
「この打掛…! おまえが、その…私に?」
少年の横目に映ったかごめは戸惑うように愁眉し、着物を掲げこちらと交互に視線を彷徨わせていた。そんな彼女の切なげに狼狽える姿が無性に胸を揺さぶり、犬夜叉は咄嗟にいつもの照れ隠しの怒号を上げてしまう。
「だっ、だったらどうした。要らねえってんなら売り捌いて金にでも換えて来やがれっ。おまえの着物だ、おまえが好きにしろ!」
「ッ、誰も要らぬなどと…! だがこんな見事な一張羅…旅垢で汚れでもしたら、私…」
「うう、うるせえ知るかンなこと! よ、汚れんのが嫌なら鈍った霊力の鍛錬にでも使って毎日清めとけっ」
欲しいのか欲しくないのか、受け取ってくれるのかくれないのか。優柔不断なかごめの態度に焦り、犬夜叉はなりふり構わず、もしものために準備しておいた口実で無理やり着物を押し付けた。
それが決定打となったのかは定かではない。だが少年の言葉の後、しばらく無言で打掛を抱きしめていた少女が小声で、そして初めて、彼が望んだ言葉を述べた。
「……着てみても?」
「ッ! すっ、好きにしやがれっ」
それは肯定の暗喩。
清貧を貴ぶ彼女が初めて興味を示した物で、不透明で不確かな心の距離をせめて形あるものとして見たかった犬夜叉の精一杯の勇気が、この贈り物だった。それを受け入れる意味は、あの聡い桔梗ならわかっているはずだ。
殊勝なかごめが徐にこちらへ背を向け、意図に気が付いた少年は慌ててそれに従う。
まさかあの面妖な学生服を脱いで素肌を晒すわけでもあるまいに、後ろから聞こえる衣擦れ音が犬夜叉の胸奥に眠るナニカを無性に駆り立てる。普通に着物を羽織るだけであろう相手の行動に何故ここまで動揺してしまうのかわからず、少年は耳を塞ぎたくなる思いと悶々と戦い続けていた。
「…お、おい桔梗。まだ終わんねえのか?」
どれほど待たされただろう。じれったい沈黙に耐えかねた彼は容易く限界を迎え、躾のなっていない犬のように催促を始める。
「いや、終わりはしたが…」
「! じゃあ見るぜっ」
「なっ、待──」
返って来たのは少女の恥じ入るような声。だが興味津々に振り返った犬夜叉は、そこで目にしたものに思わず鼻白む。
着替えたかごめは両手で顔を覆い、背まで見せて少年の眼差しから逃げていた。
美しい黒髪から覗く白い耳の紅潮が尚のこと期待を煽る。生殺しとなった犬夜叉はずんずん近付き、少女の華奢な両手首を掴み上げた。
「おい、なぁに顔隠してやがんだ桔梗! 袖どかしちまえっ」
「ッ頼む、後生だ。今だけは見ないでくれ…っ」
「いーや、見るね! キレーな着物着てはしゃいでるてめーのアホ面、是非とも拝ませて貰おうじゃねーかっ」
如何に強大な霊力を持とうと体はひ弱な女の子。必死の抵抗も空しく、羞花閉月の晴れ姿は無体にも曝け出され…
「よ、よせ! ッあ──」
暴かれた秘密の園に、一羽の鳳凰が舞い降りた。
宛ら舶来の白磁のようなかごめの肌は、羞恥の紅に染まっていた。如何なる弘法にも描けぬ豊かな睫毛には真珠のような涙滴が浮かび、艶やかに輝く様はまるで細い螺鈿細工のよう。端正な鼻の下には桜貝を思わせる小ぶりな唇が何かを堪えるようにきゅっと固く結ばれている。そして、羽織る西陣の絹織物の上にゆったりと流れる腰長の黒髪は、まさに眩い極楽浄土を流れる天の川の如き神秘の美であった。
当代一の名匠が彼女のために拵えられたかのような豪奢な色打掛。それは少年を虜にした傾城の麗の余さず全てを引き立て上げ、朝日を纏うかごめは天女も霞む輝きを放っていた。
「……放せ、犬夜叉」
「──ッぁ…」
面映く俯きそっぽを向くかごめの抗議が、少年の止まった時を蘇らせる。呆ける犬夜叉は自然に手を放しつつも、目はふつむく彼女の打掛姿に奪われたまま。凝視されるかごめは火照る頬を再び袖で隠し、僅かに濡れる目元を覗かせ少年の無礼を咎めた。
「ッ、おまえは…っ、嫌がる女子をそうやって手籠めにするのか?」
「あ……ぃゃ…」
「…ふん、そんな顔でよくも人のアホ面がどうこうと抜かせたものだ。余程自分の贈った着物を纏う
不遜な台詞を口にするかごめも、微かに震える声のせいで隠れた本心が丸見えだ。犬夜叉はそんな意地っ張りな彼女の挑発が、まるで「私はおまえの女だ」と暗に主張しているような錯覚を覚え、一瞬で燃えるような赤に染まる。
「ばっ! だっ、だだ誰がてめえみてーな…っ!」
「喧しい、他の客に迷惑だ。…全く、荷造りは私がしておくから、おまえは先に朝餉を馳走になって来い」
「な…ぐ」
実に彼らしい照れ隠し。それを見たかごめが勝ち誇ったように目を細める。つんと澄ました面持ちで宿の個室へと踵を返す少女の腹立たしい様を、犬夜叉は歯軋りしながら眺めることしか出来ない。
だが敗北感に息巻く少年は厨房へ赴く途中、背中越しに彼女に名を呼ばれ、その足を止めた。
「…犬夜叉」
「ッな、何だっ」
彼へ振り返ることなく、故に伝わらなくても良い。そんな天運に任すかのようなかごめの呟きは草花の声にも等しく繊細で、耳の良い彼にならあるいはと紡がれたその小さな言葉は、この世の誰よりも彼女を欲する犬夜叉の胸に、確かに届いていた。
「──ありがとう。生涯、大切にする」
そう言い残して小走りに雨戸の奥へと消えたかごめの後ろ姿は、もう見えない。なのにまるでそこに漂う彼女の輝きの残滓を惜しむかのように、少年はその場で延々と立ち尽くしていた。
「……ズリいんだよ、ちくしょう」
かくして朝食の握り飯を逃した犬夜叉は、クスクスと微笑むかごめの視線から逃れるように道端の木の実を頬張り、鳴り響く腹の虫と格闘する羽目になったとか。