もしもかごめちゃんが完全に桔梗さまの生まれ変わりだったら 作:ろぼと
国破れ草木の萌ゆる、戦国乱世の武蔵国。その荒れ果てた国境いの雑木林を、一人の少年が死に物狂いで掛けて行く。
半妖犬夜叉。鮮やかな朱の水干をはためかせる若者の顔は、不遜な彼らしくない焦燥でいっぱいだ。
「───ちくしょうっ。桔梗のやつ、おれに断りもせず勝手に帰りやがって…!」
少年の苛立ちも当然のこと。ほんの数刻前、父の残した宝刀を奪わんと襲来した兄殺生丸から想い人の少女かごめを守り抜いた犬夜叉は、戦いで傷付いた彼女に代わり村の見回りを引き受けた。村人たちに不審と怯えの目で見られながらもめげずに励んだのは、偏に惚れた女のため。しかし当のかごめが妹の老巫女楓に唆され、目を放した隙に一人で村を離れてしまったのである。
「…へっ! おれは諦めが悪ぃんだ、どこに行こうと逃がしてたまるかっ」
摩訶不思議な身の上であるかごめの生国は、今より五百年も未来の世。父の宝刀"鉄砕牙"を介し、彼女に自分の想いを受け止めて貰えたと歓喜していた犬夜叉は、浴びせられた冷や水に怒りが一周回って恐怖した。
時渡りは神秘蔓延る戦国乱世においても間違うことなき奇跡。常ならぬ出来事にて、あるいはこのまま二度とあいつに逢えなくなるのでは、と。
疾走する少年の足取りに迷いはない。四魂の玉を守る二人旅の途中でかごめが語った彼女の経験談を、犬夜叉はしっかりと覚えていた。
「! あった、森の枯れ井戸!」
この中にあいつの住む時代に繋がる入り口が。井戸端へ降り立った彼は、しかしそこで僅かに逡巡する。戸惑いの正体は不安。もし井戸に拒絶されたらと思うと普段の風切る肩肘も縮こまる。
「…ちっ、バカバカしい! おいコラ桔梗っ、今行ってやっから首洗って待ってろよ!」
だが迷いもひとたび頭を振れば霧散する。単純なのが取り得な犬夜叉は無理やり自らを奮い立たせ、一思いに眼下の縦穴へと飛び込んだ。
ゲン担ぎに握り締めた懐の四魂の玉が淡く輝いたのを最後に、半妖の少年は底なしの暗闇に飲み込まれた。
「────んあ?」
水面に飛び込んだかのような、奇妙な感覚が体を走り抜ける。閉じた瞼の闇の中、僅かな光を捉えた犬夜叉はゆっくりと目を開け、そして思わず鼻を摘まんだ。
微かな空気の動きに乗り、凄まじい数のニオイが鼻孔へ届く。燃える瀝青のような臭い、涎が垂れる香ばしい油のような匂い、芳しい香油のような香り。二百五十年もの生涯で初めて嗅ぐ多種多様なニオイが井戸底の土のそれに混じり彼を圧倒する。
そこで犬夜叉は、本能で自らの居場所を理解した。
間違いない。ここは今世の桔梗が生まれ育った未来の日ノ本だ。
「ッ、あいつの匂い…!」
張り詰めた緊張が安堵と歓喜に解れ、続いて怒涛の激情が胸中に湧き上がる。こんなにも真摯に守ると誓って見せた男を捨て置き、一言の相談なく遠い時代の果てへと去るなど許すまじ。「絶対に逃がさねぇ」と息巻く彼は想い人の気配を追い、一軒ののっぺりとした漆喰の建物へ急行した。
清潔に管理された神社の境内の端。少年はそこで、一人の奇妙な服装の人間の女と出会う。
「おい女、桔梗を出せ」
不思議な道具を片手に庭へ水を撒くその人物から漂う残り香は、紛れもなくあいつの匂い。犬夜叉は妖気を隠さずズイと迫り、家主らしきその女を威圧する。
だが相手の人間が返した反応はおよそ彼の想像とは真逆のものだった。
「あらまぁ……まぁまぁまぁまぁ!」
ポカンと呆けていたかと思えば一瞬で童女のように顔を綻ばせた水やり女が、殺生丸の神速の縮地すら霞む速度で襲い掛かって来た。
「犬耳に長い銀髪、赤い着物の男の子! あなたがかごめの言ってた犬夜叉くんねっ」
「…お、おう?」
脅そうと迫ったはずが気付けば逆に迫られている事実に思わず身構える犬夜叉。そんな少年の警戒を無視し、一通り犬耳を揉んで満足した女が流れるように彼の両手を握り締めた。
「かごめから聞いてるわ、あの子の前世の彼氏さんだったんですってねっ。ごめんなさい、わざわざ会いに来てくれたのにあの子今学校に行ってるのよ。もう一時間くらいしたら帰って来ると思うけど───あ、そうだ! あなた折角ですし迎えに行ってきてくれないかしら。あの子ったら昔から凄い男子に人気あるし、牽制を兼ねて校門で待ってたら絶対かごめも喜ぶわ。ささ、上がって上がって。その恰好じゃ職質されるからまずは着替えましょう。耳は束ねた髪の毛で隠して、あとは確か旦那の中高時代の学ランがまだ押入れに…」
そう捲し立てる彼女の瞳は、娘に向けるものに等しい、温かい慈愛に満ちていた。
***
世にも珍しい戦国タイムトラベラーの転生女子中学生、日暮かごめは冷静沈着な人間である。かつて人々を守るため数多の妖怪と戦い倒れた哀れな巫女は、己の弱さを封じ込め、常に心の鎧を纏ってきた。
だか如何に不屈の巫女と言えど女は女。人の身には耐え難い宿命に押し潰された彼女は、同じ孤独を知る半妖の少年に身を委ね、そして全てを失った。一度女の幸せを知った少女が二度目の孤独に耐えられるはずもなく、奇跡の再会を果たした元恋人のことを想うだけで、巫女の鎧はいとも容易く崩れ去ってしまう。
鎧が剥がれた"女"の心は、あるべき明鏡止水からかけ離れた秋の空。沈痛、悲愴。沸き上がる感情はいつだって胸が張り裂けるほどの切なさばかり。
だが巫女を虜にするその少年は、ときに思いがけない頼もしさで、鬱ぐ彼女を歓天喜地へと連れ出すのだ。
「───犬、夜叉…」
全国帰宅部諸君の待ち望んだ終礼時刻の15時15分。校門に集まる有象無象が凍りつく中、かごめは一人、蕩けるような甘い幸せに膝が崩れそうになるのを必死に堪えていた。
「ったく、勝手におれの側を離れやがってっ。どんだけ肝を冷やしたか…!」
潤む瞳の見つめる先には、少女の肩を掴みながらこちらを咎める銀髪の美男子。怒りで歪んだ相貌に浮かぶ確かな思慕の色は、気のせいと落胆するにはあまりにも強く情熱的で。
「な、なんでぃ桔梗。その情けねえ面は」
「…ッ」
見間違えるものか。そのふてぶてしくもどこか愛嬌のある彼の顔を。彼の両手から伝わる温かさを、目と鼻の先の距離が届ける彼の芳しい草原のような匂いを。ほかならぬ桔梗の生まれ変わりである彼女が違えるはずがない。
まさか、まさか本当にここまで。
「来て、くれたのか…」
自分のものとは思えない、濡れた艶のある声が目の前の少年の名を愛おしそうに綴る。
だが彼女自身も驚くそれは、日暮かごめの気高い姿しか知らない母校の生徒たちにとっては最早、天変地異の域だった。
「だ、誰!? 誰なのその子!? "勝手におれの側を離れて"って、ええええっ!?」
「かごめに男の影が!? いつの間にあんな危なそうな人とただならぬご関係を!?」
「よりにもよってソッチ系って、まさかあんたその清楚なキャラでちょいワル男子に憧れが!? 止めなさいかごめっ、あれは関わっちゃいけないタイプよ!」
『日暮さんから離れろ銀髪野郎ッ!!』
見つめ合う男女を囲むように陣取った学友たちが次々勝手気ままに叫び出す。周囲からは他の下校中の生徒たちが虫のように集まりとんでもない騒ぎになっていた。
「…なんだこいつら、人サマのことジロジロと」
「!」
あまりの熱気に思わず顔を顰めたのを気付かれたのか、かごめは犬夜叉の胸元へ群衆から守るように体を抱き寄せられた。途端に「きゃあっ!」と周囲の人海が色めき立ち、遅れて状況を理解したかごめの頬には隠し難い紅潮が浮かぶ。
別に他人に犬夜叉との関係を疑われるのは構わない。それは己の最も大切な感情で、かごめ自身も叶うことなら彼にこの想いの丈を余さず全て伝えたいと、常に自分の臆病な心で願っている。
だがこうして友人たちはもちろん、教師や名も知らない生徒大勢に注目される中、まるでか弱い生娘のように彼の胸に抱かれる自分の無様は、あまり見られたくなかった。
「…お騒がせいたしました、先生。こちらの男子は私のこい──いえ、知人…です」
「ひ、日暮さん?」
「その、本日は旅行中の彼と放課後に町を案内する約束を交わしておりまして…ご迷惑をお掛けして申し訳ございません。直ちに離れます」
顔の熱を何とか誤魔化し、犬夜叉の胸元から抜け出したかごめは見回りの女性教師に謝罪し適当な嘘で言い包めた。
「えっ、ほ、本当にこんな子があの日暮さんの…」
「何か?」
「ッあ、いえ。そうね、他ならない貴方が言うなら大丈夫でしょう。次回からは学外で待ち合わせしてくださいね」
「はい、重ね重ね失礼いたしました」
かごめは教師の失言に睨みで返し、解いた犬夜叉の腕を掴み直す。
「…犬夜叉、場所を移すぞ」
「あ? お、おう」
強引に犬夜叉を引き摺り校門へと踵を返すと、気圧されたのか二人を囲む群衆がサッと道を開けた。
「すまない由香、少し外せない用事が出来た。休み中は心配してくれてありがとう、またね」
『……えっ』
これ以上何も知らぬ連中に彼が奇異の目で見られるなど我慢ならない。茫然自失と立ち尽くす由香たち三人に礼と断りを入れ、かごめは犬夜叉を引き連れ速足で校門を潜り抜けた。
「…えっ、ちょ! ちょっと待ってかごめ! 説明してよ!」
「こんな学校中がひっくり返る特ダネ逃がせるワケないでしょ! しかも北条くんに西園寺先輩までフッといて選んだのがそのヤンキー!?」
「そ、そんな日暮さん…! おれよりその人が良いってことなのか? お、おれは日暮さんのことこんなにもずっと…っ!」
「親衛隊の連中何やってたんだよ! あの清楚な日暮先輩が不良に誑かされちゃうなんて…」
「うるさいですよあんたたちっ! 校門で騒いでないで生徒は真っすぐお家に帰りなさいッッ!!」
渦中の男女が去った校門は阿鼻叫喚の大混乱。薄情を自覚しつつも、その背に投げ掛けられる無数の必死な声に構っていられる余裕はかごめにはなかった。
***
「お、おい桔梗。どこまで行く気だ?」
人影寂れた学校裏手の住宅街。かごめは少年を引き連れずんずん進み、二人きりとなれる場所で彼を離し振り向いた。
「…犬夜叉、何故おまえがここにいる」
他に言うべきことがあるというのに、つい責めるような声色になったのは照れ隠しか。骨喰いの井戸を越えられるのは自分だけだと先入観に囚われていたかごめは、学校での騒ぎも合わさり、犬夜叉が時代を越えて逢いに来てくれた喜ぶべき事実を噛み締める間を完全に逃していた。
感慨に浸れずに拗ねる彼女の姿を悪く勘違いしたのか、少年は受けた不当な扱いに眉を吊り上げる。
「何故って、てめえが勝手に未来に帰りやがったから連れ戻しに来たんだろーが! ったく、楓のババアに傷の手当があるからって二人きりにさせて見りゃよお…!」
「それは…」
腹立たしげに「おれがどれだけ心配したか…」と小声で安堵の溜息を吐く犬夜叉。存在を確かめるかのように繋いだ彼女の手をにぎにぎ弄る彼はまるで捨てられた子犬のようで、はたと我に返ったかごめは罪悪感に思わず首を垂れる。
───素直に犬夜叉に甘えなされ。
それは先日、楓に傷を治療してもらっていたときのこと。巫女と半妖の恋を大罪と唾棄する殺生丸の中に未来の犬夜叉の姿を見てしまったかごめが、老いた妹より授かった年の功だ。
柄にもなく恋の駆け引きを仕掛けたかごめに対し、犬夜叉は見事彼女の望み通りの、否、望み以上のことをして見せた。井戸から声を届け、また互いの時代を繋げてくれるとは信じていたが、まさか井戸を通り直接迎えに来てくれるなど想定外もいいところ。思わず"昨日の今日で心構えなど出来るものか"と理不尽な怒りを溜め込んでしまうほど、少女は歓喜と羞恥に混乱していた。
巫女であった桔梗に男への甘え方など知る由もない。生まれ変わり犬夜叉を失ってからは更に恋事を忌避するようになり、女子の恋バナも彼を思い出してしまうため出来るだけ周囲のそれらしい会話から耳を逸らし続けてきた。
自ら望み定めたこととは言え、そんな初心な少女にとって異性の扇情など難題の極みである。
「…その、すまなかった。こちらの家族に何も言わずにおまえのところへ行ってしまったものでな、一度事情を説明しに戻る必要があったのだ」
よって。またもや怖気付いてしまったかごめは、自己嫌悪に項垂れながらも楓との約束の履行を少しだけ先延ばしにすることにした。
「おまえのこっちの家族ってのは、あの忙しねえ水やり女のことか。けっ、あいつに"変装だ"って着せられたこの南蛮着物も結局目立っちまって意味ねぇじゃねーか。騙しやがって」
「…母に会ったのか?」
「ああ、桔梗を出せって脅したら逆に家に引き摺り込まれてひでー目に遭ったぜ。妖怪に全くビビらねぇのは確かにおまえの血縁だ」
学ランと束ねた長髪を不快げに弄る犬夜叉。
なるほど、彼の現代風な服装にはそんな理由があったのか。母の心遣いをありがたく思った彼女は、そこでふと、目の前の少年の学生服姿に不満を覚えた。
周囲に浮かないための洋装だと言うのに、詰襟が全開でこれっぽっちも真面な学生に見えない。長い銀髪も合わさりどこからどう見てもただの不良だ。コレを遣わした母はやはりどこかズレている。
あるいは敢えて彼の存在を校門で目立たせたのかもしれないが、いずれにせよ品がないのはいただけない。
「全く、おまえが目立っているのは制服をだらしなく着崩しているからだ。…どれ、私が直してやる」
「お、おい」
かごめは犬夜叉の胸元へ手を伸ばし、ぷつり、ぷつりと制服の前立てにボタンを留めていく。少年の強張る肩と赤い顔は、好意的な緊張の証だろうか。抵抗しない彼を見る限り、少なくともあの封印を解いた再会のときよりは気を許してくれている。その大きな違いが、これまでの自身の情けない優柔不断な右往左往が上げた確かな成果だった。
襟のホックを留め、思考を切り替えたかごめは少年へ寄せていた体を放す。遠ざかる彼の温もりを惜しみながら、少女は整った犬夜叉の装いを今一度確認する。
「…うん。粗暴なおまえに似合うか不安だったが、存外悪くないな」
「う、うるせえっ。二度とこんな窮屈な服着てやるもんか!」
嫌そうに首元を弄りながら道を進む犬夜叉はつんとそっぽを向いている。弓剣など兵法に明るいわけではないようだが、犬夜叉の持つ半妖の体はクラスの男子たちと比較しても群を抜いて屈強だ。元は軍人が着ていたものと聞く黒い詰襟は逞しい彼の肢体に抜群に似合っていた。
ちらり、とかごめは気付かれないよう横目で彼を窺う。本来であれば決して交わることのない世界を生きる犬夜叉が、現世の男子制服を身に纏い、こうして共に町を歩いている。そんな日常の中に何気なく加わった非日常に、かごめは形容し難い不思議な感覚を覚えていた。
もし、同じ平成の世に人間として生まれ変わった彼と共に学校へ通う未来があれば、それはこのような感じになるのだろうか。元の乱世に戻って再会を果たすなど露ほども考えていなかった数日前。あり得たかもしれない奇跡の一つとして、不毛な妄想に浸っては色褪せた世界で滲む涙を拭っていた哀れな少女にとって、今の自分の状況は怖くて震えてしまいそうなほどに、幸せだった。
「…さて、折角の未来の世だ。帰りは少し物見遊山に遠回りをするとしよう。帰宅途中の生徒たちに囲まれても困るからな」
「けっ、随分ご機嫌じゃねーか。いつもの澄ました面がアホみてぇに弛んでるぜ?」
「構うものか、楓との約束だ」
訝しむ犬夜叉へ「気にするな」と笑顔で返し、かごめは遠慮がちに彼の手を掴んだまま道を先導する。
乱世の宿場町で騒いでいたこの珍し物好きに、現世の商店街を見せてやろう。豊富な品揃えに興奮している彼にならば、少しくらい大胆に甘えても気付かず許してくれるかもしれない。そう小さな打算を忍ばせるかごめの笑顔は、どこまでも明るかった。
───わかっている。
妖怪になりたいと願う彼との逢瀬で、こんな幸せが長く続くことはないだろう。あの殺生丸のように、彼はいずれ人の絆の大切さを忘れ、守ると誓った女を捨てるのだろう。またいつかのように、彼の妖怪の血は私を裏切り、そして殺すのだろう。
でも。
「…桔梗?」
「ふふっ。何でもないよ、犬夜叉」
でも、たとえその先に死より恐ろしい絶望が待ち構えていようと、私の心はもう、彼から離れることなど出来ないのだ。再会したあの日から──否、桔梗が彼に恋した前世から、私の心はずっと、ずっと。
ならば、私は今の幸せを精一杯楽しもう。かごめは慕う少年がくれたこの掛け替えのない温かさに包まれながら、心からの笑みを浮かべ続ける。
胸奥のどこかで大事な何かが壊死していくのを、少女は気付かぬふりをした。