広大な中華の地。斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙の戦国七雄と謳われた国々が割拠していた春秋時代の中国。他六国を滅ぼして史上初の中華統一を成し遂げた人物がいた。それが稀代の英雄秦の大王嬴政―――後の始皇帝である。中華を法をもって支配した彼はやがて命を落とすこととなる。始皇帝を友として、彼の敵を打ち破る矛として、そして守る盾として長きに渡って苦楽をともにし、嬴政とともに秦を統一国家へと導いた英傑がいた。友を亡くした彼は、全てに絶望し秦の大将軍の位を辞して下野することとなった。これはそんな時代の―――会稽の地より始まる物語。

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項羽と韓信

 

 

 

 

 

 

 

 

 広大な中華の地。  

 斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙の戦国七雄と謳われた国々が割拠していた春秋時代の中国。他六国を滅ぼして史上初の中華統一を成し遂げた人物がいた。それが稀代の英雄秦の大王嬴政―――後の始皇帝である。彼の皇帝は六つの敗国のみならず自身の治める秦国の民すらも厳しい法律で治めた。統一後中央集権を押し進め、敗戦国は独立国の体は廃され()が置かれ、郡は県で区分された。俗に言う郡県制である。これを中国全土に施工した。さらには度量衡や荷車の軸幅、通貨の統一し経済の一体化を行った。加えて道路や運河などの広範な交通網を整備をし、漢字書体の統一を目指した。土木工事に関しては阿房宮や北方の異民族に対しての備えとなる万里の長城、大運河の建設など枚挙に暇がない。多くの民の血と税が流れはしたものの、それら事業により結果的には多くの民が救われることとなり、偉大なる英雄の下中華は戦のない平和な時代を享受できる……はずであった(・・・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 春秋時代に多数存在した一国―――越。

 その国都としてかつて栄え、今現在は郡の一つとして名を馳せている会稽(カイケイ)。多くの民を抱え、二十を越える県を纏めている有数の大都市。その人口は軽く十万を越え、日々数え切れない商人や旅人が往来している。故に、無頼の者達も流入し日々街を騒がせているのも致し方のないことであった。そんな街の一画にて、今日も騒動が起きていた。

 

 会稽の中心地、目抜き通りを左右から挟みこむ形で多くの建物が軒を連ねている。道端には数え切れないほどの露店を開いている商人がおり、その前で立ち止まって買い物をしたり、商談を行っている者達がいた。行き交う人は数え切れず、道を行く者達が歩くだけで苦労する。それほどに賑わっている街並みで、ガシャンっと何かが割れる音がして、それに続いて響き渡るのは女性の悲鳴。

 

 その原因となっていたのは一軒の食事処。一人の襤褸を纏った中年の男性を、数人の若い男達が囲っている。襤褸の男の後ろには地面に崩れ落ちているまだ歳若い少女が怯えを滲ませた表情で見上げていた。

 

「この糞爺が。何俺達の邪魔してやがる!?」

「……爺。爺か。まだ若いつもりだが、そういうわけにもいかんか」

 

 自身の顎に生えている無精髭を摩りながら襤褸の長身の男はそう呟いた。外見だけ見れば、確かに十代の男達から見れば爺と称されても違和感はない。とは言っても、精々が三十歳を越えたあたりくらいではないだろうか。せめてオヤジ程度におさめて欲しいと内心で思いながら、襤褸の男は溜息をついた。

 

 その男は外見で年齢を判断するのは難しかった。重ねて言うことになるが三十を越えたあたりか、或いは既に四十にも届いているか、見たものには判別できない不可思議さがある。どれだけの間着ているのかわからない、薄汚れた白群青の小袖に黒の袴。その上に文字通りぼろぼろになるまで使用している襤褸の外套。精悍な顔つきなのだろうが、どこか疲れたような表情で、彼の顔には生気が見られない。それはまさに人生に絶望してしまった男の顔つきだった。ただ、そんな彼の背には尋常ではない巨大な矛が背負われている。その長さ、巨大さ、明らかに常人が使用できる領域を遥かに超えていた。それを見ながら因縁をつけている若い男に恐れは見られない。理由は単純で、これだけ大きな矛を扱える筈がない―――という気持ちと、酔いの力も合わさって仲間の前で今更引けるものかというつまらない若さゆえのプライドからであった。

 

「あまり店のものを困らせないことだ。このお嬢さんも仕事があるだろうに」

 

 この喧嘩の原因。それは、男達が食事処の給仕の少女を無理矢理誘った件に発する。それを嗜めたのが襤褸の男性であったが、元々が昼から酒に酔う碌でもない男達だ。襤褸の男の助言染みた制止の言葉にも耳を貸さず、激昂してしまったというのがこの喧嘩の流れであった。

 

「うるせぇ!! 他所者のくせにそんな使えもしない長物を持ちやがって!! どうせこけおどしだろうが!!」

 

 酔いと正論による負い目もあったのだろう。若者の一人が襤褸の男の胸元を掴みかかってそんな台詞を吐き捨てた。

 

「わかった。わかった。大事にはしたくない。お前さんたちがこの店に迷惑をかけないというのならば謝罪しよう」

 

 激しい恫喝をされているというのに男はまるで小さな子供が駄々をこねているかのように呆れている様子さえ見えた。冷静な襤褸の男の姿が若者達の更なる怒りを加速させる。

 

「これだけ舐めた真似しやがって!! それですむと思ってるのか!? 本当に謝罪する気があるなら、俺の股をくぐってみな!!」

 

 そうすれば許してやる―――どう見てもただの言いがかりだ。相手の股をくぐるなど自身の面子を潰すに等しい。股をくぐるのは人ではなく家畜などの動物のみ。人の言いなりになる存在であるということを自分で認めることに他ならない。普通の人間ならば絶対に拒絶する行為であり、誇り高い人間ならばこの行為よりも死を選ぶであろうというほどのものであった。その行為を強要するなど、幾ら酔っているとは言え若者達の行動は街の人間から見てやりすぎてあったのだが―――。

 

 ドンっと激しい音と大地が揺れた気がした。

 襤褸の男は背負っていた矛を片手で地面に軽々と突き立てると、その動作に唖然としている周囲の人間たちを置き去りに平然と地面に四つん這いとなり―――そのまま若者の股をくぐって行った。その表情には誇りを汚されたなどの屈辱は浮かんでおらず、何の変化もありはしなかった。この世に何の希望も見出していない、ただ人生に疲れた男の顔のみあった。

 

 あまりにも迷いのない行動だったためであろう。股を潜られたというのに固まってしまっている若者とそれの周囲で呆然としている若者。見ていた野次馬も何が起きたのか一瞬理解できていなかった。どれだけ屈辱的なことを言ってやろうか考えていた若者をして、思考が固まってしまっている。そんな者達を差し置いて、立ち上がると膝の汚れなどをパンパンと叩き落とす。もっとも元もとの汚れが酷く、果たしてそれに意味があるのかどうか不明ではあるが。ようやくそこで我を取り戻した若者の一人が声を荒らげようとして―――。

 

 

「ふ、ふははははははははははは!! いや、実に見事な股潜りであった!! 見事すぎて止める間もなかったのじゃ!!」

 

 周囲一帯の静寂を吹き飛ばす大音量の声が響き渡った。野次馬を飛び越えて、空白地帯となっている襤褸の男と若者達の傍に砂を踏み締める音をたてて現れたのは、一人の少女。楽しげに、面白そうに、高らかに笑っている少女を見て、この場にいる襤褸の男以外は、はっと息を呑んだ。人形のような少女であった。可愛らしく、小柄で、キラキラと輝きを放っている。どこかの姫であったとしても誰も異論はないほどに人の視線を惹き付けるまさに傾城傾国。鼻筋がスっと通っており、僅かに釣り目がちではあるが、それがこの少女には不思議と似合っていた。白金の如き長髪が、さらさらと風に揺れており、透き通るような白い肌。そしてその肌の色が映える蒼色の濡袴。その姿や少女でありながら花枝招展。そんな彼女の腰元には、少女に似つかわしくない無骨な剣が一振り。だが、何の装飾もないその剣さえも、錦上添花となっていた。

 

「うむ。うむ。面白いものが見れた。だが、それで終わらせるにはそなた達は少しやりすぎたな」

 

 笑うことを止め、鋭い視線で若者達を睨みつける。この襤褸の男だったからまだ良かったが、他の相手であったならば間違いなく命の取り合いになっていたであろうことは明白だ。それほどまでに股潜りは相手に対して求める謝罪としては行き過ぎている。

 

「な、なんだよ、このガキ!? 俺達に何か文句でも……」

「大アリじゃ!! この会稽では我が伯父上(・・・・・)が顔役である!! 刃傷沙汰でも起こしてみよ。伯父上に迷惑がかかることは必然じゃて」

「へ? か、顔役? 伯父上?」

 

 少女の台詞に若者達は固まった。会稽の顔役―――まだこの街に来てから然程時が経っていなくとも、それを知らないほど彼らも無知ではなかったからだ。この巨大都市会稽にて人々の信望を集め、秦の賦役に対する人夫の割り当てや葬式を取り仕切るなど顔役として名を馳せている人物―――項梁(・・)。そしてその項梁を伯父上と呼ぶ者はただ一人。それはつまり―――。

 

「我が姓は項!! 名は籍!! 字は羽!! これ以上の狼藉……我が名に於いて許さぬぞ!!」

 

 項羽と名乗った少女は高らかに自身の名を宣言する。その発言とともに発せられるのは王者の風だ。熱い、灼熱の大熱波が小さな身体を中心として広がっていく。その圧力たるや、円となっていた野次馬の前にいた者達が腰を抜かすほどだ。小柄で、可愛らしいはずの少女が放つ重圧は、見ている者に彼女の身体を数倍の大きさに幻視させるに至っていた。

 

 少女の名を聞いて腰が砕けたのは野次馬だけではない。襤褸の男に因縁をつけていた若者達も同様だ。顔役となっている項梁の顔を潰すだけでもまずいというのに、目の前にいるのはあの項羽(・・・・)である。

 

 かつて楚の武将として秦と渡り合ったとも言われている桓楚。国が滅びてからは桓楚は盗賊まがいのことをして部下とともに生き延びていた。暴れまわる彼を僅かな兵士とともに後一歩のところまで追い詰めた若き英傑。それこそが―――項羽だ。

 

 容姿は幼く、戦うものとは思えない。噂話とはかけ離れているが、若者たちは対峙して理解できてしまった。確かにこの化け物(・・・)ならば、あの桓楚とも渡り合えるであろうことを。

 

 ジロリっと鋭い目つきで睨みつける項羽に、ヒィっと短い悲鳴染みた声を上げ後ずさる。そんな若者たちの姿に嘆息した少女は、もはや興味をなくしたのか些か機嫌を損ねた彼女は手を振って答えとする。

 

「もうよい。酒を飲むのは構わぬが、程ほどにせよ」

 

 それを合図として脱兎の如く若者たちは野次馬を掻き分けて姿を消していった。野次馬達の円の中心にて残ったのは襤褸の男と項羽の二人。先程までの不機嫌な様子を一変させ、どこか興味という色を表情に浮かべて襤褸の男との距離を詰めて行く。

 

「のぅ、そなた。何故じゃ?」

「うん? なんのことだ?」

 

 あまりに言葉が足りなさ過ぎる質問に、流石に襤褸の男も訝しげな表情となって問い掛けに逆に問い返す。

 

「そなたほどの男が何故あれほどの侮辱を受けて我慢する? その矛は飾りではあるまいて。おそらくは僅か一振りにてあやつら程度など葬れたはずじゃ」

「……別に対した理由はない。あいつらを斬ればこの街をすぐに離れないといけないだろう。それにさっきも言ったが大事にはしたくない」

「ふむぅ。我とは違うな、そなた。我ならば侮辱されたならば決して相手を許さぬ。例え相手が誰であろうと、我は退かぬ」

「そうか。その意志は立派だ。今の俺には眩いな」

 

 項羽の真っ直ぐな言葉に襤褸の男は、ふっと笑う。

 それに笑われたと早合点したのか少女の目つきが険しくなった。

 

「なに、お前さんを笑ったわけじゃない。俺がお前さんの年の頃だったならば、多分殴り倒してたはずだ。間違いなくな」

 

 かつてを思い出しているのか、どこか楽しげな表情となってカラカラと笑う襤褸の男。

 

「今の俺には先程程度のこと我慢のうちにもはいらん……ただそれだけだ」

 

 楽しげな表情も一瞬。どこか疲れた顔つきで深い深い溜息をつく男。それに心をざわつかせる項羽。秦に滅ぼされた楚人を多く見てきた彼女だったが、ここまで疲れきった人間を見るのは初めてであった。何故。どうして、これほどの男がこうまで希望を失い果てているのか。それがどうしても気になった。

 

「のぅ……そなた。良ければ―――」

「―――項羽!!」

 

 項羽から襤褸の男への言葉を遮るように、彼女を呼ぶ声が静寂を切り裂いた。何事かと声がした方へと振り向けば、中年の男性を先頭に幾人かの男たちが焦りを滲ませて駆け寄ってきていた。鬼気迫る様子に、野次馬たちも自然と割れていく。

 

「どうしたのじゃ、叔父上(・・・)?」

「少しまずいことになったやもしれん。兄上が……殷通(・・)に呼び出された」

「伯父上が!?」

「ああ。しかもお前や俺も一緒に、だ」

 

 チリチリとした嫌な予感が背筋を粟立たせてくる。

 項羽も見知っているが、会稽の郡守である殷通は秦より送られてきた人物だ。この会稽の実質頂点に立つ老人であり、その歳に相応しい飄々とした男。彼と何度か会ってはいるものの、心を読ませない狸爺とでもいうべき嫌らしい存在だ。その郡守からの呼び出し。項梁だけならば良くあることだが、その弟の項伯と甥の項羽も一緒というのはこれまで一度もなかったことである。

 

「急ぐぞ。あまり待たせるのはこちらの利にはならん」

「うむぅ……わかったのじゃ。すぐに参るとしようか」

 

 項伯と連れ立って官庁へと向かおうとした項羽ではあったが、途中で立ち止まり襤褸の男へと向き直る。

 

「そなたの名、次に会った時に聞くとしようかのぅ。それと我が名は覚えておいて損はないぞ? 何せ我は将来―――楚の大将軍(・・・・・)になる者じゃからな」

 

 高らかにそう告げると、項羽は姿を消していった。残されたのは襤褸の男と多くの野次馬たち。しばらくは彼女の熱にあてられていた野次馬であったが、次第に彼らもまた日常の生活に戻っていった。襤褸の男は地面に突き刺していた矛を抜くと軽々と背に戻す。そして気づいた……自身の手が震えていることに。

 

 それは恐怖か? 否。

 それは畏怖か? 否。

 それは絶望か? 否。

 

 これは、この感情は久しく感じていなかったもの。隠し様がない、期待であった。多くの友を失った。多くの戦友を失った。多くの愛した者を失った。そして、友として支えてきた主を失った。今の彼にはもはや失うものが何もない。何一つとして残されたものがない、空虚な人間。その彼が、本当に久しぶりに心が震えた。熱い圧力に、存在感に、かつての友に似た魅力を感じた。しばらく中華を放浪していたが、初めて会えたのだ。今の自分の心を震わせる存在に。

 

大将軍(・・・)、か。カカカカッ……面白そうなやつだな」

 

 かつての友だけでなく、昔の自身を思い起こさせる少女を見て―――襤褸の男は彼女の後を追っていくことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 会稽の顔役として名を馳せる項梁は、官庁の前にて目を瞑り腕を組んでじっと目的の人物が来るまで沈黙を保っていた。その姿、まさしく不動。嫌味にならないそれなりに値が張る服装に、高い背丈。放つ圧力は並々ではなく、十分に傑物だと見る者に知らしめる。実質彼はこの会稽にて知らぬ者がいないほどの名士であった。多くの町人達に慕われるが故に、会稽の郡守である殷通からも様々な無茶振りが来る。それら全てをこれまで何度も成し遂げてきた彼は、殷通にそれなりに慕われているという自負もあった。それ故に、今回の呼び出しは一体何なのか彼をしても読むことはできない。

 

「伯父上。お待たせいたしました」

 

 考え事をしていたからか、項羽と項伯が来たことに気づかなかった項梁は、思考を切り替える為に軽く頭を振った。

 

「いや。この程度なら大丈夫だろう。しかし、少し時間がかかったな?」

「はい。少々寄るところがありました故に」

 

 言葉を濁す項羽に、些かの疑問を覚えるもののこれ以上は時間をかけられない。そう判断した項梁は二人を伴って官庁へと足を踏み入れた。官庁の中の空気はどこか緊張しており、ピリピリとした緊張感が肌を打ってくる。やがて三人は執務室の前へと到着した。普段ならば扉の前に兵士がおり剣などの武器を預かってくるのだが、今回はそれがない。どう考えてもおかしい事態に、項梁は気を引き締めなおす。

 

「羽よ……言動には気をつけよ。何があるかわからんぞ」

「はい。わかりました……伯父上」

 

 珍しくも殊勝に返答した姪の姿にやはり違和感を抱きつつ、項梁は入室の声をかけ扉を開けた。そして、室内に充満する空気と―――数多くの武装した兵士達に息を呑んだ。これまで以上の張り詰めた空気が満たす中、執務室の奥からゆっくりと姿を現した好々爺然とした老人。長く伸びた白い髭をさすりながら入室した三人を順番に視線を送る。何も知らない人間が見たならば優しげな老人程度にしか判断できないだろうが、その瞳の奥に隠されたのは尋常ではない狂気の光であった。殷通を前にして、膝を突き頭を垂れる三人を横目に、ハァっと深い溜息をつく。

 

「最近は様々な面倒事が起きているようだなぁ、項梁」

「……はっ」

「陳勝がつけた反乱の火が燃え広がっておるようでな。その反乱はとどまる所を知らぬ。かつての六国の民による反乱……これを抑えるのは些か今の秦朝では難しいかもしれん」

 

 その発言に内心で驚く三人。

 秦の役人である殷通がこのような発言をするとは信じられない。いや、或いはこちらを試しているのかもしれない。迂闊に賛同すればそれを咎められる可能性もある。そんな三人を置き去りに、会稽の郡守は言葉を紡いでいく。

 

「先んずれば人を制し、後るれば人に制せられる……江南地方のほとんどが反乱を起こし

た。これは秦が滅びる前触れではなかろうか。なぁ……項梁」

 

 ぞわりっと背筋も凍る冷たい笑顔を向けて、殷通はぽんっと項梁の肩を叩いた。

 

「今こそワシが王となる時がきたのやもしれん。この会稽を中心として天下を取りたいと思っている。そのためにあんたの力を借りたいのだ」

 

 その言葉を合図に、扉の前を閉ざすかのように兵士たちが動く。逃がすつもりは全くない彼らの動きに、項梁は自分が罠にはまったのだと理解した。力を借りたいと言ってはいるがこれは強制だ。断れば間違いなく命はない。

 

「あんたとかつて楚の将として名を列ねた桓楚。その二人を将軍として迎え入れることを約束しよう。そしてワシが総大将を務める。勿論……協力してくれるよな?」

 

 

 下を向き顔を殷通に見せないようにしている項梁だったが、その表情には苦悶が浮かんでいた。秦の始皇帝の没後、陳勝・呉広の乱と呼ばれる農民による史上初の反乱が起きた。それを切っ掛けとして秦へと反抗を起こすための準備を着々と進めていた項梁であったが、まさか秦の役人である殷通に先を越されるとは思ってもいなかった。だが、ちらりっと悟られないようにして周囲を見渡す項梁であったが、今は駄目だと判断せざるを得なかった。広い執務室には武装した兵士が軽く数十名。さらに加えて室外にも百を超える気配を感じる。ましてや官庁内部にいる兵士をあわせれば一体どれだけになるか。勿論、今回の失敗は項梁の責任でない。あの年老いた好々爺が、自分が王になるなどという分不相応な巨大過ぎる野望をもっていたなど、誰が気づくことができたであろうか。

 

 ―――後日に期するしかない。

 

「殷通様の命ならば喜んでお受けいたします。謹んで将軍としての責務引き受けましょう」

 

 そんな判断を下した項梁は、兎にも角にもこの現状から抜け出す為にも殷通の脅迫を受け入れた。そんな項梁をじっと見ていた殷通だったが―――ニコリっと嬉しげな笑顔を浮かべて笑った。 

 

「良かった良かった。それでは、もう一人……桓楚にもこのことを伝えねばならないね。項梁、あんたは彼の居場所を知っているかい?」

「生憎と私は分かりかねますが……羽よ。お前はどうだ?」

「……はっ」

 

 伯父の問い掛けに、項羽は短く返事をし一歩前に出る。

 目の前には殷通が、ニコニコと笑顔を振りまいて立っていた。その隙だらけの姿に、ふっと苦笑が漏れ出でてしまう。そんな少女の姿に眉を顰めた老人であったが―――。

 

「すまぬな、伯父上。我はこの機会を逃すことはできぬ」

 

 チリンっと綺麗な金属音が木霊する。

 超速の抜刀。すくなくともその挙動を見切れたものはこの室内にて―――ただ一人(・・・・)。次いで聞こえたのは金属同士が噛み合う不快な軋み音。

 

 殷通の首を飛ばす狙いで放たれた項羽の抜刀を、紙一重とはいえ間にはいって止めた者がいた。殷通のすぐ傍にいた護衛の一人。その男があろうことか、不可視ともいえる速度の斬撃を剣を抜いて止めていた。

 

 自身の剣を止められたことに驚愕を隠せずに大きく眼を見開く項羽。それも当然だ。これまでの彼女の人生で、自分の攻撃をとめられたことなど一度たりともなかったからだ。時間をかけたらまずいのはわかりきっている。故に押し潰そうと力をこめるが、信じられないことに押し切れない。両者の力は互角であった。

 

「……あぁ、残念だよ。やはりあんた達はワシを裏切るつもりだったか」

 

 数瞬前には自分が斬り殺されたかもしれなかったというのに、平然としている姿を見て項梁は悟った。ただの小役人だと思っていた老人もまた、一種の怪物であったということに。

 

「そやつらは反逆者だ。さっさと首を斬ってしまえ」

 

 室内にいる兵士たちが、殷通の命令に従って剣を抜く。それに併せて項梁と項伯もまた武器を手に取った。入り口前で武器を預けなかったことが今回は吉とでたことに感謝しかないが……或いは何かしらのケチをつけて最初からこちらを始末するつもりだったのかもしれないと頭の片隅にそんな考えが浮かんできた。それも邪念だと、項梁は現状の打破をどうすべきか思考を回転させていく。姪を責めるつもりはない。確かにあの間合い、あの瞬間は好機であったのだ。ただ、項羽の一撃を止めることが出来る者がいたことだけが想像の範囲外。

 

「項伯!! 退路を開くぞ!!」

「御意!!」

 

 項羽を抑えられる存在がいる以上、数に負ける項梁に勝ち目はない。あとは、項羽とともになんとかしてこの場を凌ぎきるしかない。だが、そんな二人の耳に聞こえるのは騒がしい剣戟の音と怒号。何事かと思えば、ドンっと激しい音をたてて開かれる執務室の扉。そして雪崩れ込んでくる、見知った顔の男達。

 

「悪いな、大将!! 遅れちまったぜ」

「項梁様!! 項羽様!! ご無事ですか!?」

「桓楚!? 龍且!? どうしてお前たちがここに!?」

 

 如何にも無骨な将といった巨大な大男―――桓祖。それとは対照的な美青年―――龍且。その二人を先頭に数多くの味方の兵が執務室の外にて乱戦を繰り広げていた。その様子に完全に予想外だったのか、殷通が驚きに目を剥く。

 

「なーに。項羽の大将からな、近々殷通から呼び出しがかかるかもしれないって連絡があってよ、近場に身を隠してたんだわ。まさかこんなに早く出番が来るとは思ってもいなかったけどよ」

「私も項羽様より連絡を受け、人を集めてまいりました」

 

 桓楚と龍且の返答に、何故項羽が少し遅れて官庁にきたのか項梁は理解できた。恐らくはこのような事態を予想し、それぞれに連絡を飛ばしていたのだろう。我が姪ながら末恐ろしい女子だと心を震わしながら自分に向かってくる兵士を斬り殺した。

 

「羽よ!! こちらの心配は要らぬ!! お前の好きに動くがよい!!」

「―――是非もなく!!」

 

 ギャンっと激しい金属音を響かせて最大の力をこめて護衛の男を吹き飛ばす。しかしながら相手も瞬時に体勢を整え、項羽の追撃を許さない。さらには護衛対象である殷通も背へと隠すことまでやってのける。明らかに只者ではない。

 

「そなた……名は? 我とここまで打ち合えたのは……そこにいる桓楚を除けばそなたが初めてじゃ」

「……」

 

 沈黙。それが護衛の兵士による返答。されど、項羽は言葉を続ける。それは剣戟音と怒号が響く中でなお、不思議と耳に届く問い掛けであった。

 

「その腕、その技量。実におしい。殷通などにはそなたを使いこなすことなど出来はせぬ。そなたほどの腕前ならば、我とともに祖国復興への道を歩むこともできよう」

「……祖国? 復興への道、だと? お前がか?」

「うむ!! 我こそが祖国を復興させ、楚の大将軍となる項羽であるぞ!!」

 

 堂々と言い切るその姿。微塵も自身の言動を疑っていない少女の眩い宣言。そんな項羽を眩しいものでもみるかのように目を細める護衛兵士。

 

「……俺の名は周蘭。かつては楚に仕えた武人でもあった。だが、今ではここにいる小役人の護衛でしかない」

 

 チラリっと背後にいる殷通の姿を確認し、すぐさまに項羽へと意識を集中させる。

 

「祖国を、楚を復興させると言ったな……項羽よ。やめておけ。お前では無理だ」

「ほぅ。言ってくれるな、周蘭よ。何故無理だと断じられる?」

「簡単なことだ。俺は秦を知っている(・・・・・・・)。あの、馬鹿げた化け物連中が作り上げた国を知っているんだ」

 

 ピタリっと剣先を項羽へと向けて周蘭は続ける。

 

「秦が統一国家へと至るまでにどれだけの民を、兵士を殺したか知っているか? 数万? 数十万? 違うな……その数は百万を超える。分かるか、項羽よ。秦はそれだけの命を礎として建てられた最悪の殺戮国家だ。そして減ったとはいえまだ存在するんだ……それを為した将軍(化け物)が」

 

 平静を保っているように見えた周蘭の声が震え始めた。剣の切っ先すら揺れ始める。

 

中華七将(・・・・)。お前は知っているのか? 見たことがあるのか? 数十万の兵士を意のままに操り、それだけの兵士が死をも恐れず忠義を為す。奴らが率いれば民兵すらも命をも容易く差し出すほどの死兵と化す。そんな化け物とお前は渡り合えると思っているのか? 俺は見た。俺は知っている。秦の大将軍の一人……王翦が率いる軍と戦ったことがある。あれは人間じゃない。人間であってたまるものか。あんな化け物と戦うなぞ、俺には絶対に不可能だ」

「ならば何故反乱を企てる殷通の護衛などについておる?」

「……今の俺は生きる目的も理由もない。祖国がほろびてからな。ただ日々の糧を得るためだけにここにいる」

「違うな。そなたの目は死んではおらぬ。絶望してはおらぬ。一矢報いようとしておるのじゃろう? 恐怖を抱きながらも秦へと反抗しようとしておる」

「……」

 

 項羽の言葉は周蘭の心を酷く揺さぶった。

 何故ならば、彼女の推測は的を射ていたからである。今は亡き友のため、家族のためどんな手段でもよい。せめて秦へ一矢を報いたい。その想いから勝てないと、死ぬとわかっている殷通の反乱に力を貸すことにした。僅かな対峙でここまで自身の気持ちを探られたことに驚きと、目の前の少女に惹かれている自身を自覚する。だが、それでも足りない。絶対的に項羽には足りないものがある。それを理解させるため、周蘭は覚悟を

決めた。この偉大なる未来の英傑を導く役目を担うべく、剣を強く握り締めた。

 

「ああ……認めよう。項羽よ。お前は近い将来必ず中華に煌く英傑となるだろう。俺如きの保証などあってないようなものであろうが、お前は間違いなくかつて戦国の世で名を馳せた怪物達と肩を並べられる存在だ」

 

 周蘭の誉めそやす台詞に、そうじゃろうと頷く項羽を尻目に彼は続ける。

 

「だが、絶対的に足りていないものがある。欠けているものがある。それを俺が冥土の手向けとして教えてやる」

「―――ほう」

 

 言葉を紡ぎ終わった瞬間の出来事であった。轟、と疾風が吹き荒び、項羽の身体全てを強かに打ち据えた。その圧力に目を大きく見開いた時には既に周蘭は地を這う勢いで肉薄し剣を振るう。紫電一閃、横薙ぎの一撃が何の躊躇いもなく項羽へと迫った。されど迎え撃つは未完の大器。覇王の卵、項羽である。自分へと振るわれた一撃を持っていた剣で受け止め……予想を遥かに超える重さに愕然と頬を引き攣らせた。剣ごと叩き斬ってこようとするかつてない斬撃に、このままでは防ぎきれないと判断した彼女は、即座に地面を蹴ってその場から飛びのいた。だが、これまでの比ではない威力で振るわれた周蘭の剣が、飛びのいた項羽の小さな体を執務室の扉を越えて遥か彼方まで弾き飛ばす。空中で軽業師のように体勢を整え、広場へと降り立った少女は戦慄を隠せないままゆっくりと彼女の後を追って広場へと歩み寄ってくる周蘭の姿を凝視していた。

 

「驚かせてくれるのぅ。我がここまで力負けしたのは初めてじゃぞ」

「その程度で驚いてくれるな。俺如き、精々がかつての秦の百人隊長と同程度だ」

「そなた程の力量で、百人隊長じゃと? それは随分と吹いてくれるのぅ」

「信じるも信じないのもお前の自由だ。さて、では続きと行こうか」

 

 驚愕も覚めやらぬ中、周蘭が間合いを詰めて両手で握り締めた剣を一直線に振り下ろした。狙いは唐竹。空気を引き裂きながら落下してくる巨剣にも幻覚させられる攻撃を咄嗟に受け止め、瞬時に斜めへと受け流す。やはりあまりにも重い。いや重過ぎる。まともに受け止めていては、あと数戟の打ち合いで此方の武器が断たれてしまうのではないか、とも思わせる程だ。周蘭の動きは常人から見れば目にも留まらぬ速度ではあったが、項羽にしてみれば十分に対応が可能なレベルだ。問題は、異様なまでの斬撃の重さ。そして彼が放つ決死の重圧。それが項羽の行動を縛り付けている。受け流してさえも腕が痺れる凶悪な攻撃は、結果的には回避行動をとるしかなく、反撃しようにもそれを許さぬ連続の刃が飛んで来る。防戦一方の項羽の姿に、乱戦を行っている項梁や項伯、桓楚に龍且、その他の味方の兵達も驚きを隠せない。ここまで項羽が苦戦した姿を誰一人として見たことがなかったからだ。一分にも及ぶ剣戟の舞が終わると、二人は互いの間合いより半歩遠くにて息を吐く。

 

「もう一度言うぞ、項羽よ。お前は強い。お前の才は俺なんかとは比べるまでもない。だがな、出会った時がまずかった。後五年……いや、三年後であったならば、お前は俺を一撃の下に倒しただろう」

 

 武の天凛に年齢は関係ない。

 だが、お前はまだ若すぎる―――そういった意味合いを込めて周蘭は続ける。

 

「そして言ったな、項羽。お前は楚の大将軍(・・・)になる、と」

「……」

「自惚れるなよ、若造が。大将軍の意味も重さも知らぬ小鳥が何を囀る」

 

 パチリっと迸るのは周蘭の剣気。彼の圧が周囲の空気を熱していく。

 

「お前は未だ何も背負っていない。ただ己のためだけに戦うお前に、将軍のなんたるかがわかってたまるものかよ。楚の五百人将でしかなかった俺だが、それでも数多くの友たちから託された想いがある。責任がある。それがこの両肩に乗っているんだ。わかるだろう、散っていった同胞の命が、願いが、想いが、全てが―――俺の剣には乗っている。それがお前が感じている俺の剣の重さだ(・・・・・・・)

 

 かつて秦とも争ったかつての楚の将の苛烈な台詞に、項羽は無言で剣を降ろすと空を見上げた。その姿は周蘭の言葉に打ちのめされたかのようでもあった。あまりにも静かで、穏やか。波一つない凪いだ湖面を連想させるその姿。それに激しい違和感を覚えるのは、彼女のことを知っている者達だ。何時だって激しい烈火の如き日輪の少女―――それが項羽だ。その彼女が、その項羽が、こんな静謐な気配を漂わせるものなのか。混乱に覆われている広場において生み出された静寂。

 

「何をしているのかな? さっさとその女の首を落とすんだよ、周蘭」

 

 平然と、冷たさを漂わせ殷通が吐き捨てる。

 だが、命令を受けた本人は聞こえていないのか、じっと項羽の姿を見つめたままだ。それに若干のいらつきを覚えたのか、十数人の護衛に囲まれた彼は手を挙げる。すると、項梁達と戦っている兵士とはまた別に、次々と官庁の至る所から新たな兵が増員されてきた。その数は十を越え、五十を越え、やがて百を越えた。桓楚達が援軍に来たといってもその数は精々が三十程度。今現在戦っている相手も含めれば敵は実に二百近くいる。戦力比にすれば実に六倍の差があり、周囲を囲まれた現状は流石に些か厳しいと言わざるを得ない。

 

「時間をかければかけるほど、我が兵士達がこの場に駆けつけて来るよ。まだあと五百はいるんじゃないかな。項梁……本当に残念としか言えないな。あんた達は良い戦力になると思ってたんだけどね」

 

 ハァっと呆れたため息を吐く殷通。ギリっと唇を噛み締める項梁達だったが、悔しいがここから逆転の一手を打つ手段がない。頼みの項羽も周蘭と戦うので手一杯。さらには空を見上げ沈黙を保っている。

 

「―――ッ」

 

 終わる……終わってしまう。このままでは楚の再建の道が途絶えてしまう。

 

「――――――ッツ!!」

 

 それだけは駄目だ。認められない。ならばどうするべきか。桓楚と龍且と項伯は互いに顔を向け合って頷いた。言葉にせずとも伝わる。

 

「―――――――――ッッツ!!」

 

 せめて項羽と項梁の二人だけでも決死の覚悟を持って逃がす。この二人さえ生きていれば楚の再建の可能性は潰えない。二人の盾になるべく、部下たちとともに突撃を仕掛けようとしたその時、それはきた(・・・・・)。気づくべきだった。少し前から聞こえていた何かしらの悲鳴染みたその声に。この場にいる者達は気づくべきだったのだ。

 

「あ、ひぃ……ひゃあ。ぅぅうう、ひぃ……ひぃ」

 

 まるで酔っ払いのように足をもつれさせ、官庁の入り口の方から兵士がやってきた。彼が口から放つ言葉は意味を為しておらず、まるで白痴のようでもあった。広場まで来ると、地面に倒れこみ必死になって息を何度も整えようと呼吸を繰り返す。

 

「どうしたんだい?」

 

 尋常ではない兵士の様子に、流石の殷通も眉を顰め兵士へと問い掛ける。この会稽の最高責任者の質問だというのにその兵士はボロボロと涙を流しながら首を横に振るばかりだ。周蘭といいこの兵士といい、自分の言うことを聞かないものがいることに苛立ちながら、もう一度聞きなおす。どうしたのか―――と。

 

 と、同時にカツンっと石畳を歩く音が響く。本来ならば聞こえるはずのない音だ。二百を超える人間たちが集まっているこんな広場に、道を行くものの足音など聞こえるはずがない。だが、確かに聞こえたのだ。

 

「ぁぁぁあああああああああ!! くるっ、くるっ!! あいつ(・・・)がくるぅぅぅぅぅうううううううう!!」

 

 その音を聴いた兵士の反応は劇的であった。

 狂ったように叫びながら頭を振り回し、脱兎の勢いで何度も地面に倒れながらも広場から逃げ出していく。その姿に薄気味悪いものを感じながら殷通は入り口の方へと視線を向けて―――自分の行動を後悔した。

 

 歩み寄ってくるのは襤褸をまとった男であった。だが、違った。その男は明らかに違った。見るだけで人を押し潰さんばかりに荒れ狂う重圧を纏い、触れればそれだけで存在ごと消し飛ばされかねない圧力を放っている。嵐の後の川のように、激しく、濁流となって、周囲全てを覆い始めていく。これまでの人生、多くの人外染みた連中を見てきたが、それらが子供にしか見えないほどに外れていた(・・・・・)。本来の姿よりも数倍ほどに巨大に見えるその肉体は幻覚だとわかっているものの、つまりは彼方と此方の格の違いを如実に表していた。背負っている巨大な矛も決してこけおどしなどではなく、自在に扱えるのだと見る者に納得させる凄みがある。ああ。こいつは駄目だ。とっくの昔に振り切っている。人と言う枠組みの極限に到達するどころか、その規格を破壊して、何人たりとも辿り着けない至強へと至っていた。戦ってはならない。関わってはならない。この襤褸の男は天災だ。近づく者全てを打ち砕く生粋の破壊者だ。

 

 

「………あー、余計な手出しだったか?」

 

 その圧迫感、威圧感に晒されながらも空を見上げていた少女へと、ぼさぼさの頭を掻きながら問い掛けるのは襤褸の男。自分に向けられた訳でもないのに、反射的に跪きかけた周蘭は自分の行動にただただ愕然とするばかりだ。襤褸の男の質問に、空を見上げていた項羽は視線を彼へと向けた。

 

「一体どのような悪鬼羅刹が現れたかと思えば、そなたであったか。いやはや、最初からこのような圧を放っておればあのような若造どもに絡まれる必要ななかったじゃろうて」

「こんな状態を常時保っていられるか。人様に迷惑しかかからないだろうが。それにあの時言ったことも本当だ。大事にしたくないってな」

「ふはははははは!! そうか。不思議な男であるな、そなたは。そして、先程の問いに答えていなかったな。うむ……此度の我が不手際の助勢、感謝いたす」

 

 小さいとはいえこんな戦場においてなお嫣然と笑う項羽。

 だが、高らかに笑っていた彼女は、ふとそれを止め真剣な表情で襤褸の男へと己の中に生まれ出でた疑問を口に出すこととした。

 

「のぅ、そなた。そなたに聞きたいことがある」

「ん? こんな状況で悠長に質問か?」

こんな状況(・・・・・)だからこそ、じゃ」

「……まぁ、お前さんがいいなら構わんが。で、なんだ?」

「うむ。我はこれまで自身が楚を復興させ、大将軍になるのだと疑いもせず突き進んでおった。だが、そこの周蘭の発言によって些かの疑問を持つことになったのじゃ」

 

 項羽は、周蘭を、項梁を、桓楚を、龍且を、殷通を、そして周囲の人間たちを見渡しながらゆっくりと自分の中に生まれ出た疑問を言葉に形作っていく。 

 

「……将軍とは(・・・・)。我が目指す大将軍とは(・・・・・)一体何なのか(・・・・・・)

 

 自分が望み願っていた夢。目標。大将軍になることだけを己に決めて歩んできた彼女が初めてそれについて深く理解しようとしていた。故の問いかけ。何故名も知らぬ襤褸の男にそれを聞いたのか。明確な理由などなく、だが直感が告げていた。この場にいるほかの誰よりも、この男ならばその答えを知っているのではないか、と。

 

「将軍ねぇ……。人それぞれとしか言えんが―――」

「あんた……そこのあんた!! どうやってここにきたんだ!? ワシの兵はどうした!?」

 

 襤褸の男が何かしら答えようとしたその時、殷通の絶叫が官庁中に響き渡った。目を見開き、血走った瞳で襤褸の男を見やる彼に、先程までの余裕は全くと言っていいほど感じられない。言葉を途中で止められた男は面倒臭そうに殷通を一度見るが、その視線はまるで路傍の石を見るような一切の興味も抱いていないものであった。

 

「ああ。少し邪魔されたからな。ちょっと何人か斬って押し通った。すまないな」

「ちょっと、だって?」

 

 男の台詞に僅かな安堵を滲ませる。この場にいる兵を除くと、先程も言ったがまだ予備兵として五百近くいる。それだけの兵士がいるのだ。男が言ったちょっと(・・・・)いなくなった程度では戦力に陰りが出ることはない―――。

 

二百ばかり(・・・・・)斬ったところまでは覚えているんだけどな。後は蜘蛛の子を散らしてどっかいったはずだ。悪いな」

「……は?」

 

 今なんといったのだ、この男は。二百を、斬ったというのか? たった一人で? ありえない。如何にただの兵隊だとはいえ、彼らは殷通が秦へと謀反を起こすために揃えたそれなりの腕利きの者達ばかりだ。その彼らをこんな短時間で、しかも単騎で壊滅させるなど既に人の所業ではない。

 

「誰か!? 誰かおらぬかー!?」

 

 官庁全てに通る殷通の呼び出しの声は、沈黙という答えが返ってくるのみであった。襤褸の男の語ったことは全て事実だということは、彼の雰囲気を感じれば薄々と悟ってはいた。しかし改めて兵士達全てを一人でどうにかしてしまったのだと知ると、あまりの非現実さに脳の処理が追いつかない。乾いた笑い声を上げながらよろよろと後ずさりドスンっと地面に尻餅をついた。

 

「俺のもっとも尊敬した人の言葉で良いなら……まぁ」

 

 そんな殷通から視線を項羽へと戻し、コホンっと軽い咳払いを一つ。

 

将軍とは(・・・・)……」

 

 張り上げたわけではない。だが不思議と襤褸の男のその声は、項羽だけでなくこの場にいる全ての人の耳に届く。

 

「百人将や千人将と同じ階級の名称にしかすぎない……本来ならば(・・・・・)

 

 まるで自分達の主であるかのように。まるで自分達を統べし王であるかのように。

 

そこへ至れる者(・・・・・・・)はごくわずか。数多の死地を乗り越え、数多の功を挙げたものだけが到達できる場所だ」

 

 今まで感じてきた男の大きさ。只者ではない。人の極地へと至った個の怪物。それのイメージを覆していく変化が起きる。

 

「その結果、将軍が手にするのは千万の人間の命を束ね戦う責任(・・)と絶大な名誉(・・)。そして、計り知れない憎悪(・・)だ」

 

 見える。視えるのだ。襤褸の男の背後に、無数の兵士達の姿が。万でも足りない。十万でも不足している。

 

故に(・・)、その存在は重く故に眩いほどに光り輝く」

 

 五十万? 否、百万すらも容易く超える。

 尊敬と賞賛、憧憬と心酔。尊崇し、崇敬するそれら兵士達の視線を襤褸の男はその背に受ける。だが、それ以上の兵士たちから憎悪と嫌悪。忌み嫌われ、死を望まれる。純粋なまでの悪意のみで構成された負の感情をぶつけられている。吐き気がした。心臓を直接掴まれて握り締められたような恐怖を味わった。身体中の毛穴と言う毛穴から血が噴出したのではという錯覚に襲われ呼吸もままならない。そこにいる億千万の死を背負った化け物を見るだけで、感じるだけで死にたいとすら思えてくる。

 

「そなたは、一体……」

 

 ただ一人。この官庁の広場において、唯一襤褸の男の纏う戦乱の気配と責任に押し潰されていない項羽がどこか陶然と口に出した。それは純粋な疑問。  

 

「いや、そうか。そうなのか。そなたがそうなのか(・・・・・・・・・)。そうなのだな。そなたが―――我の目指す先。我の求める者」

 

 キラキラと初めて玩具を与えられた子供のように瞳を輝かせながら。

 キラキラと初めて尊敬する人に会えた子供のように瞳を輝かせながら。

 

「そなたこそが―――大将軍(・・・)であるか」

 

 項羽は知った。理解した。何も知らなかった彼女が、至高の頂をこの場で体感した。本来ならば一段ずつ登っていく果てしない道程を、知っていくべき道行きを、段階を一気に飛ばして頂点へと辿り着く。

 

「ふっ……ふははははははは!! ああ、見事!! なんと赫々たる姿か!! これほどのものか、大将軍という存在は!!」

 

 かつてない武威と圧に晒されながらも、項羽だけは楽しげであった。歓喜を抑えようともせずに爆発させている。

 

「なるほど、なるほど。周蘭よ、そなたの言いたいことは確かにわかった。全く持って間違ってはいない。認めよう。我の言葉など、覚悟など―――所詮は小鳥の囀りにしかすぎなかったということを」

 

 並々ならぬ決意と想いを全身から漲らせ、項羽は襤褸の男に背を向けて、周蘭へと向き直る。携えていた剣の柄を両手で音がするほどに握り締め上段へと構えピタリと静止した。

 

「だが、今小鳥は空の広さを知った。雄大さを、偉大さを、巍然たる蒼空の果てを心得た。故に今ここが―――我の巣立ちの時」

 

 周蘭が後ずさった。それは無意識の行動だ。小柄な少女の筈のその肉体。それが今では襤褸の男を見たときのように大きく映る。

 

「伯父上、叔父上、桓楚、龍且、そして我を信じ着いてきてくれる者。責任、覚悟、命―――背負うモノは我にもある。我にもあった。受けよ、周蘭。これが我が覚悟の一撃だ」

 

   

 紫電一閃。今まさに孵化した小さな覇王の一撃は、人の目に映る領域を越えていた。白銀の雷となった彼女の上段からの振り下ろし。反射で構えていた周蘭の剣と噛み合うと―――拮抗したのは一瞬。軽々とその刃を断ち切ると、想像を超える重さと圧力に周蘭は衝撃から剣を手から零れ落とす。追撃せず、どうだ、と上目遣いで見てくる項羽に言葉もない。先程までは自分がこの少女を追い詰めていたというのに、僅かな時でその差をひっくり返される。笑うしかなかった。三年早いどころの話ではない。項羽の才能はわかっていたが、文字通り格が違ったのだ。

 

「……参った。お前の勝ちだ、項羽よ」

 

 周蘭の敗北宣言にざわつく兵士達。殷通が集めた中でも随一の腕前の男が負けを認めたことによる動揺が波のように広がっていく。そして―――項羽は眼前に広がっている敵兵士たちへと歩んでいく。まるで散歩でもしているかの如く。実に気軽な様子でただ真っ直ぐと。覚醒とでも言うべき変化を遂げた彼女の気配はまるで太陽。近づけばそれだけで熱し、焦がせられる。自然と敵兵は彼女の歩む先を邪魔せぬようにと道を開けていく。やがて項羽は地面に尻餅をついている殷通の下まで辿り着くと自然な動作で剣を彼の首筋にあてる。

 

「何か言い残すことは?」

「……はぁ。やはりワシでは王にはなれなかったか」

 

 自分の首に刃を当てられているというのに、殷通はハァっと深い溜息をつくだけであった。

 

「まさか反乱を起こす前に死ぬとは思わなかった。まぁ、仕方あるまい。後はあんたたちに譲るとしよう。ワシを殺すんだ。簡単に倒れるんじゃないよ」

 

 精々秦を滅ぼすくらいはしてくれ―――そう薄い笑みを浮かべた殷通に、コクリっと力強く頷いた項羽は、そのまま一気に剣を横へと滑らせた。肉と骨を絶つ音が響き渡り、ゴトンっと首が地面に墜ち血の海が広がっていく。

 

「会稽郡守殷通―――この項羽が討ち取ったり!!」

 

 高らかに戦勝の雄叫びを上げた項羽。訪れるのは一瞬の静寂。そして秒後の爆発。項梁が、項伯が、桓楚が、龍且が、多くの兵が言葉にならない絶叫をあげた。そして、主であった殷通を失った兵達は反抗するでもなくその場にそれぞれの武器を落とす。もはやこれ以上は無駄だと悟っているのだろう。 

 

 興奮冷めやらぬ声が響く中、項羽は踵を返すと襤褸の男の前まで戻るとパンっと自分の手を強く打ち付けて拱手の礼を取った。

 

「我は、この時より天命を得た。そなたにかつてない感謝を。そして改めて名乗ろう」

 

 力一杯息を吸い、己の覚悟とともに自身の全てを曝け出す。

 

「我が姓は項!! 名は籍!! 字は羽!! 我こそは―――天下の大将軍(・・・・・・)となる者じゃ!!」

 

 純粋なまでの己の本気。ありとあらゆる覚悟と想いと責任を乗せ、絶対に何が何でも成し遂げようとする気概。それを押し通すだけの持ち得る全てを突きつけた。

 

「さぁ、我は名乗ったぞ。聞かせてくれ。教えてくれ。我をここまでの高みに昇らせた、そなたの名を」

 

 まるで最愛の恋人に囁くように、最良の友に話しかけるように。項羽は瞳を輝かせて襤褸の男の答えを待つ。

 

 対して男は小さく、名前か……と呟いた。

 

 それは実に厄介な問いであった。何故ならば、今の彼は死んでいたからだ。勿論、本当に死んだわけではない。心が、身体が、生きようとする意志を示さなかった。本当にいつ死んだとしても後悔はなかっただろう。今思えば自分の人生は後悔の連続であった。幼い頃の戦争に故郷が巻き込まれ戦災孤児となり、下僕の立場に身をおとす。そこで出会った友との死別。そして新たな友との出会い。彼との約束により戦乱の時代を駆け抜けた。自身の目標と友との約束を胸に多くの部下と、戦友と、愛した女とともにひたすらに戦場を生き抜いた。やがてもっとも尊敬した男を殺した憎むべき仇敵との戦いを経て―――憎んではいたもののどこか尊敬していたその男の姓である()を継いだ。やがて友の願いを叶え、ようやく戦乱の時代が終わったと思えば―――ほどなくして友は死んだ。全てが虚しくなった。悲しかった。どうしようもないほどに生きる気力を失った。きっとその時に自分は生きながらにして死んだのだろう。果たして今の男にその姓と名を名乗る資格があるのだろうか。いや、資格云々言う前に、その名を持つ自分はもう死んだのだ。

 

「……名前……か」

 

 もう一度短く呟いた。蒼天を見上げとりとめもない思考を繰り返す。ならば今の自分はなんなのだろうか。何と名乗るべきなのだろうか。ワクワクと期待に胸を膨らませる項羽を前にして、答えに詰まる。この少女に自分が求められている。欲せられている。それが嘘偽りなく嬉しい。そんな気持ちが心の片隅に存在している。かつての友と自分を足したような所がある項羽に、何かを求めている。それは自分の心と言葉では表現できない何かであった。そして走馬灯のように脳裏を通り過ぎるのは過去の思い出。色褪せぬ、戦乱の情景。多くの敵国と戦い生き抜いた自身の心に残っている映像。苦痛と興奮、後悔。その中で印象深かったのは―――初めて国を(・・・・・)滅ぼした(・・・・)時の事であろう(・・・・・・・)。確固足る決意を抱きながらも、それでも躊躇した。国を滅ぼすという意味をその時ようやく理解した。戦場でさえも感じたことがない絶望的なまでの憎悪をこの身に受けて、己はあの時確かに国の重みを感じ取った。そう。自分が初めて一翼としての責任を担い、滅ぼした国。その国の名は―――。

 

「……信だ。韓信(・・)。それが俺の名だ」

 

 韓信。明らかに偽名であろうことは想像がつく。何故ならば、韓信という名前の武将は戦乱の時代において名が知れていないからだ。これほどの男が無名などありはしない。絶対に一廉の武将として名を馳せていただろう。だが、項羽はそのことを一切触れなかった。実際に気にも留めずに、韓信か。と短く彼の名前を繰り返す。

 

「うむ。良き名じゃ。そなたらしいと言うべきか」

 

 朗らかな笑み。花も恥らうその笑顔。

 

 

「ならば、韓信よ。そなたに願う。そなたに請おう。我の同胞となり、師となってくれ。我とともに覇道を行きて、祖国復興の礎とならんことをそなたに求むる!!」

 

 広がるのは覇王の重圧。決して朽ちず、折れず、曲がらずの不撓不屈の強固な意志。まるでかつて主と決めた友の再来と見間違わん少女の言葉に―――韓信は無意識のうちに顔を縦に振っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これが後に西楚の覇王と恐れられる項羽と国士無双と崇められる韓信の出会い。

 これより二人には多くの出会いと裏切り、そして離別があるのだが―――それはまた別のお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




キングダム要素を期待した方、ほぼなくてすみませぬ。


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