ツルギ、フタフリ   作:わさび仙人

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今回は不知火視点の過去編となります。


第十三話

 俺は、自分の名前が嫌いだ。

 

 名付けたのは父親。なんでも俺の母親は、俺を産むときに入れ違いで命を落としてしまったのだという。

 臨月を迎えていた母は不運にも交通事故に見舞われ、搬送先の病院で辛うじて俺だけが取り上げられたのだと父親から聞かされた。

 

 俺が産まれた当時のことなんて、俺自身が覚えているはずはない。

 それでも俺には確信を持って言えることがある。

 

 《女》として産まれたこの日こそが、俺にとっての地獄の日々の始まりだったのだと。

 

 

 

 *****

 

 

 

 不知火(しらぬい)なずな。この名前の持ち主が男性だと想像する者はほとんどいないだろう。

 いかにも女性的で可愛らしい名前。その名は俺にとって、《俺》という存在を否定する最も身近な存在だ。

 

 物心ついた時、既に俺はそう呼ばれていた。

 当時はそれについてなんとも思わなかったが、次第に成長し小学2年生になったとき、その疑問は唐突に俺の中に生まれ落ちたのだ。

 

 俺が通っていた私立小学校には制服があった。なんでも渚輪ニュータウンに住む富豪の子どもたちが集まる学校だったらしい。

 そこで俺は、自分が着ている制服に違和感を覚えたのだ――自分もズボンが履きたい、と。

 

 その小学校の制服は男子がハーフパンツ、女子がスカートというありきたりな構成だった。

 女子として入学していた俺がスカートを履いて登校するのは当然のことなのだが、当時は男子児童が履いているハーフパンツにどこか憧れていたことは今でもよく覚えている。

 

 そして俺は、男子のクラスメイトと馬が合う性格だった。

 昼休み、多くの女子児童が教室で本を読んだりおしゃべりをしたりしながら過ごす中、俺は男子児童たちに混じって校庭で鬼ごっこをしたり、ドッジボールをしたりするのが好きだった。

 

 一緒に登下校するのもいつも男子グループの中。女子の友達と一緒に遊んだ記憶は、少なくとも俺の中にはほとんどない。

 そんな俺の何を心配したのか、担任教諭から個人面談のようなものをされたこともある。どうしていつも男子と一緒にいるの? クラスの女子と何かあったの? と。

 

 それに俺は何もないと答えた。本当に何もなかったから。

 別に女子のクラスメイトのことが嫌いなわけではない。ただ、男子の方が気が合うから一緒にいるだけだ。それの何が問題だというのだろう。当時の俺にはまったく理解できなかった。

 

 そんな俺の学校での様子は、担任教諭を通じて父親の耳に届いた。

 そしてこれをきっかけに、俺の地獄はもう一段階加速し始めることとなる。

 

 小学3年のある日、俺は父親から呼び出されて説教をされた。

 どうして男子とばかり一緒にいるんだ。女子の友達と遊びなさい、と。

 

 俺は反発することができなかった。なぜなら我が家では父親の命令を守ることが絶対だったからだ。

 まだ無名で小規模であるとはいえ、不知火財閥のトップであるこの男の令嬢(・・)として産まれた以上、俺に歯向かうことなど許されるはずはなかった。

 

 そう。だから俺は私立の小学校に通っていたのだ。

 俺の家は財閥の家系。他の児童たちも親が大企業の社長であったり、政治家であったり。金に物を言わせる親のくだらない自己満足で、俺はこの小学校に通わされていた。

 

 別にその学校に通うこと自体は、それほど嫌だとは感じていなかった。何事も親が決めてくれる年頃だ。それも当然と言えば当然だろう。

 本当に俺が嫌だと感じていたのは、父親の命令で男友達との付き合いを制限されたことだ。

 

 財閥の令嬢として相応しい振る舞いや所作を俺に求めていた父親は、例の説教の日以降、俺に屋外で遊ぶことを禁じた。

 それから、昼休みや登下校の時間は女子児童と一緒にいるようにとも言いつけられた。

 

 思えば父親は、俺を産むときに命を落とした母の姿を俺に重ねていたんだと思う。

 父親から聞いた話では、俺の母親は常に父親の一歩後ろを歩いているような、大和撫子という言葉が似合う淑やかな人格だったらしい。

 だから父親は我慢ならなかったのだろう。そんな母の血を引く俺が、成長するにつれてみるみる《お転婆》になっていくのが。

 

 事あるごとに父親は、お前の母さんはお前の母さんはと俺に説き続けた。

 けれどいくら言い聞かせられても、俺は自分の母親と面識がないのだ。母と同じものを俺に求められても、正直その期待に応えられるとは思えなかった。

 

 それでも俺は、父親の言いつけを守り続けた。

 男友達が校庭で楽しそうに遊んでいるのを横目に見ながら、興味もない本を読みふけったり、女友達のくだらないおしゃべりを聞き流したりしていた。

 ところが、そんな俺に再び転機が訪れる。それは俺が小学4年になり、保健の授業を受けていたときのことだ。

 

 それは、男子も女子もなんとなくそわそわする年頃の授業。人間の性に関する授業だった。

 男子は少しずつ体毛が濃くなり始めるだとか、女子は次第に胸が膨らみ始めるだとか。そんな担任教諭の話はまったく耳に届かないほどの衝撃を、このとき俺は受けた。

 

 《トランスジェンダー》――その単語は、適当にめくった教科書のページの隅に書かれていた。

 身体的性と精神的性が一致しないこと。つまりこの世には、身体と心の性別が異なっている者が存在するのだ。

 

 自分は間違いなくこれだ、と俺はこのとき確信した。

 周囲が自分を女として扱うからそうなのだろうと無理矢理納得していたが、心のどこかではずっと引っかかっていた。その正体がこれなのだと。

 

 自分が何者なのかを理解し、少しだけ心のもやが晴れたように感じた。

 自分は女ではない。身体が女に産まれてきただけであって、正真正銘の男なのだと自信を持つことができた。

 

 しかしだからと言って、それを周囲に打ち明ける勇気はなかった。

 周囲は俺のことを完全に女子として見ているし、何より父親が俺に女としての在り方を求めている。それをわかっていて、実は中身は男でした、なんて打ち明けたらどんな顔をされるだろう。想像しただけで身の毛がよだつ思いだった。

 

 男としての自覚が完全に芽生えた俺は、今まで以上に男として振る舞いたいと思うようになっていった。

 けれどそれは許されない。もしかしたらクラスメイトや担任から軽蔑されるかもしれない。何より父親が納得しない。

 だから俺は、《父親の期待を裏切らないように》父親を裏切ることに決めたのだった。

 

 具体的には、男でありたいという自分の欲求を満たすために、父親の言いつけを破って男友達との付き合いを再開したのだ。

 しかし学校では担任教諭の目があり、父親の耳にすぐ届いてしまうのは明白。そこで俺は、学校では女友達と過ごしつつ、放課後には女友達の家へ遊びに行くと父親に嘘をついて男友達と遊ぶようになった。

 

 公園で缶蹴りをしたり、草野球をしたり、虫取りをしたり。父親に気づかれるといけないから、服だけは汚さないように、慎重に。

 傍から見れば、男子児童の中に一人混じって遊ぶ女子児童。けれどそれは最高に充実した時間だった。

 何のしがらみもなく、男としてありのまま振る舞うことができる。幼いながらに俺が求めていたのは、たったそれだけのことなのだ。

 

 それだけのこと……だったのに。

 

 小学6年の授業参観の日、その悲劇は起きた。

 俺の家からはもちろん父親がやってきた。財閥のトップとして仕事が忙しいだろうに、わざわざこの日のためにスケジュールを調整したのだそうだ。

 

 そこまでしてやってきた()の授業参観で、父親の表情は羅刹のように曇ることとなった。

 放課後こっそり遊んでいた男友達の保護者が、俺の父親に「いつも息子がお世話になっています」なんて挨拶をしたからだ。

 

 てっきり俺が女友達と遊んでいると思い込んでいた父親は、その日の夜に当然俺を問い詰めてきた。

 そこで俺は、ありのまま正直に白状するしかなかった。嘘をついて男友達と遊んでいたのだと。

 

 それからは放課後に遊びに出ることを禁じられた。

 不知火財閥の()として相応しい振る舞いをしろと何度も言い聞かせただろう。これはその罰だ、と。

 

 そして父親は自分の権力や財力に物を言わせたのか、俺の進学する中学校に女子校を選んだ。

 その意図は俺自身にも容易にわかった。もう男友達とつるむのをやめさせるために、男のいない環境に俺を置こうと父親は決めたのだ。

 

 翌年、父親の敷いたレールに沿って、俺は女子中学校に入学した。それからの日々は決して比喩なんかではない、本物の地獄だった。

 女は怖い。気の合う者だけで派閥を作って、その外にいる者は完全に排斥しようとする。入学してすぐにどこかの派閥に属せなければ、それ以降の学校生活は惨めな孤独だけが待っている。

 

 少なくとも1年目の俺はその被害者となった。

 いわゆるスクールカーストと呼ばれるものの底辺。女同士の話題についていけなかった俺は常に一人ぼっちで、身内だけで共有される宿題や試験範囲といった情報が連絡されてくることはなく、担任教諭からは協調性がないと指摘を受けた。

 

 これが女の世界に放り込まれた男の末路。俺は自分が産まれた境遇を呪うことしかできなかった。

 俺がちゃんと男の身体に産まれていれば。そんな叶いもしない願いに何度枕を濡らしたのかは覚えていない。

 

 しかし中学2年への進級を間近に控えた頃には、俺もこの環境に随分順応していた。

 興味もない男性歌手の曲を聴き、着たくもないファッション誌の女性モデルを褒め、好みでもないスイーツを食べに行くクラスメイトに笑顔で付き合えるようになった。

 

 俺は、仮面を被るのが上手くなったのだ。本音を隠す術に長けるようになったのだ。

 そうしなければ生き残れないから。そうでなければ心が死んでしまうから。

 

 そんなある日、俺は学校帰りに参考書を探して書店に立ち寄った。

 そしてそのとき、何の前触れもなく次の転機は訪れた。参考書売り場で俺が見つけたのは、他の客が適当な棚に戻したのだろう、一冊の少年漫画だった。

 

 どうしてこんなところにあるんだ、なんて思いながらも手に取ってみる。

 パラパラと中身を覗いてみると、その中に一際目を引くページがあった。

 

 それは、敵に殺されそうになった仲間を主人公が助け出す戦闘シーン。

 敵の親玉らしき長髪の女がまさに手にかけようとした仲間は、主人公によって間一髪救い出され、そこから敵の女と主人公の戦いが始まる。展開としては王道と呼ぶのが相応しいだろうか。

 しかしそんなありきたりな展開にこそ、俺は心を奪われた。なんて勇ましい……なんて眩しいんだ、と。

 

 その主人公が握っていた武器は、それこそありきたりだと言われるであろう《剣》だった。

 けれどそれが何だというのだ。ありきたりでもなんでも構わない。この漫画の主人公の姿に憧れた俺は、女社会に埋もれて生きるのではなく、彼のように気高く、勇ましく、男らしく生きてみたいと思うようになったのだ。

 

 その日、俺は父親に剣道部に入りたいと思い切って申し出た。どうしても剣道がやりたい。もう言いつけは二度と破らないからお願いだ、と。

 動機は言わずともわかるだろう、憧れたあの主人公にまずは形から近づきたかったのだ。

 もちろん父親にいい顔はされなかった。しかし、二度と言いつけを破らないと誓った俺の言葉を信じてか、父親は数日にも渡って悩み抜いた末、大会で良い成績を残し続けることを条件に渋々了承してくれた。

 

 それからは毎日が修行の日々だった。

 結果を残し続けることが条件である以上、俺は勝たなければならない。まったくの剣道未経験者である俺が、だ。

 

 朝一で剣道場に入っては授業前に竹刀を振り、昼休みも食事を終えるとすぐに剣道場へ。

 放課後も全速力で道場入りすると、誰よりも早く着替えて竹刀を振った。

 

 休日も鍛錬は怠らなかった。

 剣道部の顧問に作ってもらった初心者用のトレーニングメニューを欠かさずこなし、朝日が昇る前から夕方暗くなるまで竹刀を握っていた。

 

 負けることは許されない。(きた)る最初の大会で結果を残せなければ、俺はいきなり剣道部をやめさせられてしまう。

 それだけはなんとしても避けなければ。ようやく自分が男らしくいられる場所を見つけたのだ。簡単に手放してたまるものか。

 

 あの主人公に近づこうと努力するうちに俺は、《自分は男だ》という自覚がより強くなっていった。

 もっと強く。もっと勇ましく。もっと男らしく。それを突き詰めることだけが俺の生き甲斐になっていった。

 

 やがて俺は、人に裸を見られて恥じらうことをやめた。それは女のすることだ。男である俺なら絶対にありえない、と。

 女性用の下着を身につけるのもやめた。胸は同級生よりやや大きかったのだが、女性専用の衣類を身につけるという行為自体が、自分を女だと認める気がして耐えられなかったのだ。

 クラスの女子と無理に付き合うこともやめた。そんな時間があるならもっと修行を積まなければ。女社会に飲まれることなく、一人でも生きられる強さを身につけるために。

 

 そして、その日はやってきた。剣道を始めてたった四か月で迎えた、夏の大会だ。

 俺は今までの修行を信じて戦った。この四か月をすべて捧げてきた自分の剣を誇りながら。

 

 ところが結果はベスト16。決して上位と言える成績ではなかった。

 当然だ。竹刀を握って数か月の俺が、もう何年も剣道を経験してきた相手に敵うはずはない。

 そして結果を残せなかった以上、俺は父親との約束通り剣道部を辞めなければならない。実際、その現実が負けたことよりも悔しかった。

 

 しかし、俺の剣の道はそこで途絶えることはなかった。

 剣道部の顧問が、その大会を見に来ていた俺の父親にこう言ったのだ。(かのじょ)は素晴らしい才能の持ち主だ。たった四か月でベスト16なんて普通ありえない。来年の大会ではきっと全国を狙える逸材になる、と。

 

 その言葉を受けて、父親は俺に剣道を続けることを渋々許可してくれた。

 俺はこの時ほど父親に感謝したことはない。そもそも父親に感謝の気持ちを抱いたこと自体、ほとんどないのだけれど。

 

 それ以降の俺は、ますます剣道にのめり込むようになった。

 父親がくれたたった一度きりのチャンス。次の大会こそは勝ち上がって、お情けではなく実力で剣道を続けてみせると意気込んでいた。

 

 そこからの俺の成長ぶりには、顧問も部員たちも驚いていた。

 秋になる頃には部内で俺に敵う者はいなくなり、冬には顧問すら俺の相手にならなくなった。

 すると顧問の計らいで近くの女子高の剣道部の練習に混じるようになった俺は、中学生でありながら高校生の剣士たちですら圧倒するようになっていった。

 

 十八歳以下の剣道日本代表にも選ばれた。けれど俺はその招集を断った。

 俺が剣を握るのは自分を磨くため。剣士としての誇りを持つためだ。世界の舞台で戦うためじゃない。そう思えて興味が湧かなかったのだ。

 

 そうして青春のすべてを剣に捧げる中、俺にはとある癖が染みついていった。剣を交えた相手を、特に自分が倒した相手を記憶することだ。

 本来ならば、剣で相手を負かすということは命を奪うということ。ならば、倒した相手の死を背負う覚悟がなければ真の剣士として剣を振ることはできないだろうと、そう考えるようになったのだ。

 

 だから俺は、これまで打ち負かしてきた者の名前をすべて言うことができる。矢野理沙、岩尾綾香、久我紀子、島崎幸恵、名城日紗子、大西美沙希、瀬戸園子……他にも何百人と覚えている。もちろん顔まで完璧にだ。

 その中でも、俺が特に忘れられない名前がある。きっと俺は、その名前に一生憑りつかれて生きていくのだろう。

 なぜならそれは、俺が剣を交えてきた中で唯一……本当に殺してやりたいと思った名前だからだ。

 

 来栖崎(くるすざき)ひさぎ。俺はコイツのような剣士を見たことがない。

 俺がコイツと剣を交えたのは、忘れもしない、中学三年の引退試合でのことだった。




次回は過去編の続きです。
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