――決して瞳には映らず、目には見えないものがあるとする。通常は人の心、壁越しの誰か、そして、暗闇。私にとっては大半がそれだ。この目はもう、慣れ親しんだとも言えるほど暗闇しか映さない。それを不幸と嘆くものが多いが、果たしてそれが本当に不幸と言えるのだろうか。もしかしたらーー見えない方が幸せだったと感じることもあるのではないだろうか。
「――お姉様、起きてくださいまし。」
自分を呼ぶ声が聞こえる。少しだけ幼さを残した、しかして子どもを起こすような優しい声。この声は聞き覚えがある。ーーというより、その単語を言うやつは一人しかいない。
「……百合花?」
「はい、百合花はここですよ♪」
自分の寝ぼけ気味の気怠そうな声に対しても、変わらず優しい声が返ってくる。半年前から同棲している、私と同じく刀使として活躍している人物。最近はこうして私を起こすのが日課らしい。
「……今何時?」
「今ちょうど6時になりました。支度して6時半に寮を出て食堂に向かえば、混み合う前に朝食を取れますわ♪」
……そこまで網羅しているのは何のためなのかしら。
そんな疑問が頭に浮かびながらも、私はベッドから起き上がる。
「あ、お姉様。足元お気をつけくださいませ」
百合花が、手にかかる負荷を私に掛けないように、そっと慣れた手つきで手を取り、ベッドから降りる手伝いをしてくれる。百合花がこうして支えているおかげで、いつも安心してベッドから降りられるし、昔と比べて大分楽に身支度を済ませることが出来る。ーー思えば、百合花が私の身支度を手伝うと言ってからどれだけ経ったのだろう。気付けば手が届く距離に彼女がいつも居るような、まるでそれが当たり前のように感じてしまう。制服の袖に腕を通し、ボタンを一つ一つ止めていく。スカートは私が転ばないようにするためか、百合花が履かせてくれている。
そうして着替えを終えた私は、杖の形をした御刀に手を伸ばそうとした。が、百合花が私を呼び止め、まだ座っているように指示をする。
「お姉様、ご自身の髪を触ってご確認くださいまし。そのお姿でははしたないですよっ」
そう言われて髪に触れると、所々で毛先が反り立つ感触があることを確認する。そこで百合花が何をしたいのかようやく気付いた私は、言われた通り、椅子に座って、彼女がこれから行うことをいつものように待つ。すると、髪が、地肌を痛めないような、ふんわりと優しく引っ張るような感触が髪から伝わる。百合花が私の寝癖を梳かして直しているようだ。その手さばきは完璧で、決して強く梳かすのではなく、優しく、丁寧に、櫛の先端が頭に当たらないように梳かしている。
その優しさと丁寧さに心地良さを覚える。このまま身を委ねてしまえば、また夢の中へ行ってしまう。
「……そういえば、貴女の身支度はもう終えているの?」
そんな心地良さから意識を逸らすように、自身の身支度を手伝う相方の心配をする。
「はいっ♪自分を疎かにしてはいけない、とお姉様の教えは守っておりますよ」
「そう」
なら良かった、と心の中で呟く。しばらくして髪は梳かし終えたのか、櫛の感触が髪から消える。
「はい、終わりましたよっ」
「ん……いつも手間をかけてごめんなさい」
「むぅ。お姉様、それは言わない約束ですっ。私が好きでやっているのですから。それにこういう時は謝るのはなく、お礼の言葉を言うべきです!」
「そ、そうなのね。なら……ありがとう」
百合花に注意され、ぎこちなく微笑みながら感謝の言葉を述べる。
「はい、どういたまして♪」
感謝の言葉を聞いて、百合花のより一層明るい声が返ってきた。
***
「――今年も御前試合の時期が近づきましたわね」
食堂の席に座る。目が見えない私への配慮のためか、百合花が何時も私の鮭の切り身の小骨を取り除いてくれる。私が遠慮してもやると言って聞かないので、このところは素直に従っている。そんな、いつものように小骨を取り除き終わるのを待っていた時、唐突に百合花がそんなことをつぶやく。
「……あぁ、もうそんな時期なのね」
新春から半月が経ち、私は高等部2年。百合花は中等部3年へとなった。
その新春から1ヶ月を過ぎた5月ごろ、5つの刀使養成学校合同の大会を折神家にて開催する。各学校から初等部、中等部、高等部の中から二人が代表として会場に向かい、互いの剣を競い合う大会だ。しかしーー
「私には関係の無い話ね」
「お姉様は出場なされないのですか?……っと。はい、取り終えましたわ♪」
小骨を取り終えたことを伝えた百合花に礼を言いながら、言葉を続けた。
「別に興味無いわ。刀使はあくまで荒魂を鎮める巫女という立ち位置なだけ。私はその立ち位置に立っているだけだもの」
――それに、と言葉を続けようとしたが、これ以上は別段ここで話すことでもないと思い、百合花が小骨を取ってくれた鮭の切り身を、箸で摘んで口に入れる。塩辛さがなく、しかし味気ないような薄さでもない、程よい塩気が舌に広がる。
「達観していらっしゃいますねぇ。まあ、私も刀使の役割については同意見ではありますが」
百合花の声が終わると、汁物を啜る音が聞こえる。味噌と、その中にほんのりと海苔の香りがした。
何時もと変わらず相方と雑談しつつ暖かい朝食を取っていると、遠くから騒がしい声が聞こえてくる。
「ごめん舞衣ちゃん!昨日剣術のこと考えてたら眠れなくて……」
「あたしは単純に寝坊しちゃったよ……」
「もう。でもまだ急げば座れると思うよ」
ハキハキとした二つの声と、百合花とは違ったお淑やかさを持った声。しかしどちらも幼さが残っているような、若々しい声。
「アレは……見たところ中等部の方でしょうか?お寝坊さんですこと」
百合花が騒がしい方を見て苦笑する。
「百合花が居なければ寝坊しそうな私としては、耳が痛い発言ね……」
こちらも苦笑して、百合花の呟きを少しからかうように返答する。
「あ、違いますっ。お姉様のことを言ったわけではありませんよっ、もう」
あたふたと困惑した、可愛らしい声が聞こえる。
そんな、誰にでもある朝の日常を満喫しながら、ーーそんな日常が明日も続くことを心の中で祈りながら、暖かい味噌汁をゆっくりと啜る。
しかし、日常とはふとした時に変わるものである。そんなことを、今の私は考えてもいなかった。
『校内放送。音切黒葉さん、鈴音百合花さん。羽島学長がお呼びです。学長室までお越しください。
繰り返します。音切黒葉さん、鈴音百合花さん。羽島学長がお呼びです。学長室までお越しください』
――このアナウンスが、自分の耳に入るまでは。
※※※
百合花 side
「ごめんなさいね、朝早くに呼び出してしまって」
この美濃関学園の学長ーー羽島江麻が、申し訳なさそうに苦笑する。
朝食を食べ終え、朝のHRが始まる前に学長室へ向かった。質素ーーというわけでもないが、取り分けて特別感が滲み出たわけでもない、普通の学長室。元々こういう形なのか、それとも今日に限ってなのか、資料や書類が少し山になっている。
「別に構いませんよ。またアレの件でしょう?」
黒葉姉様が意味ありげな発言をする。
――アレとは、何だろうか。
「――そういえば鈴音さんはまだ伝えてなかったわね。
もうすぐ御前試合が始まるのは知っているかしら?」
学長の問いに、私は「はい」と答えて頷く。
「御前試合を始める上で、一部の刀使は紫様の護衛と折神家の警備を任されたりしているの。それで――」
「今年も私を呼べと連絡が来ているのよ。いつもの通りにお断りしたいのだけど」
姉様は嫌そうな表情で答える。
「残念ながらそうも行かないのよ。貴女、鈴音ちゃんをパートナーにしたのよね?」
「……えぇ。」
「なら、『パートナーが見つからないので保留とする』という言い訳はもう出来ないわね」
パートナー。黒葉姉様は通常の刀使と違い、目が見えないというハンデを常に背負っている。そのため、緊急時に彼女を支えられる刀使が必要となっている。この申請は今のところ姉様だけであり、かなりの特例ーーだと聞いている。
「つまり、今年はお姉様が御前試合に向かわれるのですか?」
「会場の警備として、ね。それに鈴音さん、貴女も向かうことになるわよ」
「……えっ?」
思わず間の抜けた声が出る。するとお姉様が、付け加えるように説明した。
「条件としてパートナーの確保、及び同伴を希望したの。私は慣れ親しんだ土地や場所なら1人でも大丈夫だけど、右も左も分からない状態で動けないから。その上で互いに信頼できる相手が見つけられたら、それに応じると」
――わ、私を、信頼だなんて……そ、そんな……あぁ、お姉様……っ!!
っと、いけないいけない。平常心平常心。
「……つ、つまり今現在では、お姉様が提示した条件に合致すると?」
「えぇ。なので本来なら警備任務として折神家に向かって欲しいのだけど……」
学長が苦笑しつつ、お姉様の方を見ている。当のお姉様はーー嫌そうな表情をしている。
「……無理に、とは言わないわ。こちらとしても無理強いはしたくないもの」
「……別にそこまで行きたくないわけじゃないです。が、私の一存で決めるのはどうなのか、と感じています。だからーー」
この時、私はこの後の発言を予想だにしていなかった。姉様から発言。それはーー。
「――百合花に、御前試合警護任務の
私への丸投げであった。
久しぶりに本気を出しました。不明点、感想などお待ちしております。