水の滴り落ちる音が、徐に鼓膜を打つ。
次第に鮮明になるその音。いや、音自体が強まっているのではない──意識が、現実に引き戻されつつあるのだ。
その事実に気づいた瞬間、お茶子ははっと目を見開いた。
「ッ、痛……!」
そうだ、ギャングラーにやられて──咄嗟に上半身を起こせば、ずきずきと痛みが襲ってくる。とはいえその苦痛は、かえって思考をクリアにする一助とはなったが。
それにしても、ここはどこだろう。周囲を見渡せば、木の床や柱がところどころ朽ちた部屋が続いている。自分の尻にはブルーシートが敷かれているが、少し身体をずらすたびにぎしぎしと音が鳴った。──廃屋?
「お。目、覚めたな」
「!?」
聞き覚えのある声でも反射的に身構えてしまうのは、快盗という立場ゆえ染みついた行動だった。幸い、水桶を持って立つ青年は気にするそぶりを見せなかったが。
「私、……ッ」
「無理に動かないほうがいいぜ。ギャングラーにやられたんだろ?」
「……!」
正体を、知られてしまっている。ようやくその事実に思い至って、お茶子は愕然とした。危うく眠らされるというところで助けに入ったのだ、変身が解けるところを見られていたとてなんら不思議ではない。
「心配しなくていい」
動揺するお茶子をあやすかのような口調で、青年が言った。
「口外なんてしないさ」
「……どうして?」
「そんなことをしても、得がない」
「………」
その言葉に、安堵──してしまうわけにはいかなかった。損得だけで物事を判断できる人間など、そうはいない。まして誰も知らない秘密を知った人間は、他人に対しそれを洩らしたくなるものだ。
他人をおいそれと信用しない──勝己や炎司なら、己に言い聞かせるまでもなく実践しているであろうこと。
「………」
憂鬱に沈む気持ちに追い打ちをかけるように、携帯電話が鳴動する。塗装の剥げかけたそれを開けば、画面には仲間の名前。受話ボタンを押そうとして……押して、状況を伝えねばならないのはわかっている。でも……。
幸か不幸か、電話をかけた側の少年は実に気が短かった。相手が出ないとみるや、10コールもしないうちに通話終了を乱暴にタップしてしまう。
「チッ。丸顔のヤツ、出やしねえ」
吐き捨て、盛大に顔を顰める。それは電話に出ないことだけが理由ではなくて。
「あのクソボケカス、俺のバイク道に放っぽったうえ傷までつけやがって……!見つけたらブッ殺す」
「うっわぁ、怖……。それくらい俺が修理してやるから、程々にしてやれよな」
「バイクも直せんのかよ」
「トーゼンだろ?ルパンコレクション改造するのに比べりゃ、ガキの工作みたいなモンだよ」
それこそ特技を自慢する子供のように言い放つ弔。今度は、そんな彼に着信が入った。
「お、ウワサをしてなくてもの敵チームからだ」
「………」
渋い顔をするふたりを尻目に、弔は受話を承った。
「Bonjour、トムラくんでぇす。あーハイハイ、わかった。すぐ行くよ」
ぷつっ。
「──ってワケで呼び出し。行ってくるね」
「ギャングラーが見つかったのか?」
「いや、今は被害状況の確認中。でも、俺が向こうにいたほうが保険にはなるだろ?」
「……まァ、確かにな」
万が一警察に先を越されたとしても、弔がそこに加わっていればルパンコレクションを破壊される心配はなくなる。その後の彼の勝ち誇りようを想像すると、忌々しいことこのうえないが。
「じゃ、できれば現場で」
去っていく弔。ひらひらと手を振っている……かと思いきや、程なくタクシーが横付けした。そのまま乗り込んでいってしまう。いちいちブルジョワジーめいた行動をしやがると、勝己は顔を顰めた。
それはひとまず置いておくとして。
「……なあ、丸顔がバイク置きっぱにしてた公園──」
「うむ、ギャングラーの出現地点のすぐそばだ。偶然遭遇した可能性もある」
「少なくとも、電話に出ないことと無関係ではあるまい」──炎司の言葉に、自ずから拳に力がこもる。
「チッ……結局、ギャングラー捜すの一択か」
快盗としての文字通り仮面を被って、ふたりは動き出した。お茶子はどうなったのか──ギャングラーに拉致された可能性までも想定せざるをえない状況。よもや彼女が謎の青年に救われただなどと、思いも寄らないのは無理からぬことだった。
*
一方、結局電話に出られなかったお茶子。端末を抱え込むようにして、彼女は蹲っていた。
「電話、出なくてよかったのか?仲間からだったんじゃ……」
「……出られるわけ、ないよ……」
借りたオートバイに傷をつけたうえ、VSチェンジャーとダイヤルファイターをギャングラーに奪われて。しかも快盗であることとなんら関係のない、個人的な欲求にしたがった結果がこれだ。
「こんなんじゃ、みんなに顔向けできない……!」
潤んでいく視界。自覚したときにはもう、はらはらと涙がこぼれ落ちていた。
「……っ、ッ……」
「……責任感が強いんだな、きみは」
そう言って青年は、そっとハンカチを差し出してくれる。彼の優しさが、かえって余計に目に沁みた。
「今は好きなだけ泣けばいい。──大丈夫、きみは生きてるんだ。生きて、あきらめさえしなければ、いくらだって挽回のチャンスはあるもんさ」
「……なんで、そんなに優しくしてくれるの……?私、快盗なのに……」
「なんでって言われても、快盗に迷惑かけられた覚えはないしなあ」冗談めかしつつ、「それに俺、一生懸命な若者に弱いんだ。これでも昔、本気でヒーロー目指しててさ。あの頃を思い出しちまうというか」
「ヒーローを……?」
"ヒーローを目指していた"──幼少期の漠然とした夢も含めれば、そういう人間は掃いて捨てるほどいるだろう。
だが彼は、"昔""本気で"と……そう言った。その口ぶりからして、それでもなお夢をあきらめたと。
「……訊いても、いいですか?」
「どうしてあきらめたか、だろ?」
青年は一瞬、寂しそうに微笑んだ。捨てた夢に未練を抱きながら、もはや取り戻すことはできないと悟っている──同じ想いを抱えたお茶子だから、それがわかる。
「そうだな……聞いて驚くなよ?」
「は、はい」
一転して怖い表情になる青年。何を言い出すかと思えば、
「俺、実は……もう死んでるんだ」
「……へ?」
あまりに突拍子のない発言に、感傷的な気分が一気に吹っ飛んでしまった。
「幽霊なんだよ。インターンの活動中に殉職……まあまだ学生だったから厳密には違うけど、とにかく死んじまったんだ」
「え、で、でも……あ、足あるし……触れるし……」
「幽霊だって足も実体もあるんだぜ、知らなかった?」
そう言われて、お茶子ははっとした。この青年の手の異様な冷たさ、どこか青ざめた頬……まるで、死人のそれではないか。
言葉を失うお茶子。沈黙が、場を支配する──刹那、
「な〜んてな、冗談だ!」
「!」
ぱっと悪戯っぽい笑みを浮かべて、青年は言った。
「ちょっとビビっただろ?」
「も、もう……やめてよぉ」
「はは。ま、色々のっぴきならない事情があってな。今はきみみたいな頑張る若者をサポートする仕事をしてる、それで一応、間接的には人の役に立ってるってわけだ」
「そう……なんや」
へへ、と少しばかり照れ臭そうに笑うその顔は、一瞬本気にしてしまうくらい死人のいろをしていて、にもかかわらず日だまりのようで。
彼の姿かたちは間違いなく、英雄としてあるべきものだとお茶子は思った。
*
快盗たちと別れた死柄木弔が呼び出されたのは、この地区では最も規模の大きな病院だった。
「おう、死柄木!待ってたぜ」
エントランスに入って早々待ち構えていた切島鋭児郎に連れられ、
「お待たせ。状況は?」
「……見ての通り、被害者が次々と搬送されてきている」
険しい表情を治療室内に向けたまま、飯田天哉が答える。ガラス窓の向こうに、ベッドに横たえられた人々の姿。みな外傷はなく、傍からはただ眠っているように見える。
「実際、眠ってるらしい」耳郎響香が言う。「しかも、延々と夢を見ている状態だそうだ」
「ふぅん……」
「そういうルパンコレクション、心当たりねえか。死柄木?」
「……まァ、ないことはないよ」
「ほんとうか!?一体、どんな──」
「でも、それじゃあないと思う」
付け加えられた逆接の言葉に、一同は勢いを削がれた。
「なぜ、そう言い切れるんだ?」
「そのコレクションを、ギャングラーに奪えるはずがないから。万が一奪えたとして、こんな使い方をするものでもないし」
「……なんか、特別なヤツなのか?」
「まァね」頷きつつ、「つーわけで、これはギャングラーの能力だと考えたほうがいい」
弔の言う"特別なルパンコレクション"のことは気にかかったが、今はギャングラーのことだ。生来の固有能力だとするなら、殲滅が解除の早道ということになる。昏睡状態の彼ら、一見するとなんともないが、少しずつ衰弱しているという医師の報告もある。急がねば──
ただ幸いにして、彼らのサポーターは大変優秀である。数分後、響香のもとにかかってきた電話は、ギャングラーの位置を特定したと報せるもので。
「っし、行こうぜ!」
「うむ!」
「ああ」
「
かくして、パトレンジャーが動き出す──
*
一方、青年とのやりとりで意気を取り戻したお茶子も、痛む身体を押して戦いに赴こうとしていた。
「……ッ、これでよし……っと」
仕事の連絡があるからと言って青年が離れた隙に快盗の衣装に着替えを済ませ、仮面をつける。ネロー・キルナーには顔を見られてしまっているが、パトレンジャーや一般市民に顔を見られるリスクは避けねばならない。
それにこの姿でいれば、快盗ルパンイエローとしての自覚も自ずと湧く。"自分のことは自分でなんとかする"──VSチェンジャーとダイヤルファイターは、必ず自らの手で取り戻すのだと。
意を決して立ち上がった瞬間、廃屋の入口を突然漆黒の靄が覆った。
「こちらにおいででしたか」
「えっ、く、黒霧さん!?なんでここに……」
「ふふ、それは企業秘密です」
珍しくからかうような口調で応じる黒霧。と、彼はシャツの胸ポケットからペンを取り出した。
「これをお使いください。見かけはただのペンですが、色々と仕掛けがあります。切り札を失ったあなたの、活路を開く一助になるかと」
「あ、ありがと……。でも、それも知ってるんだ……」
いったい彼は、何をどこまで知っているのだろう。疚しいことがあろうとなかろうと、己のすべてを知らず知らずのうちに握られているというのは、常人のメンタルにはつらいものがあった。
「ご心配なく。私はいつでも、皆さんの味方ですよ」
「……ありがと、黒霧さん」
彼の言葉がどこまで本心に基づいたものか──真実は、彼自身にしかわからない。でもお茶子たち快盗にとって、彼の支援は代えがたいもの。彼にとってもそうだろう。願いがかなうその日まで、互いを恃んで生きていく。そういう関係もあって良いのだと、理想に生きられない世界でお茶子は学んだ。
「では、私は休暇中ですので。失礼」
ペンの使い方をひととおり教授し終えると、黒霧はジュレ来訪時と同様、惜しむそぶりもなく踵を返した。そうして、自らつくり出した漆黒のゲートへ消えていく。
その背中を見送って、お茶子も廃屋を出た。と、
「おーい!」
「!」
呼びかけとともに駆けつけてきたのは、件の青年だった。
「よかった、間に合って……。もう、行くのか?」
「はい。あの、色々とありがとうございました!」
「ははは、別に大したことはしてないさ」
そんなことはない。快盗と知ったうえで一点の曇りもなく励ましてくれたこと。それだけで、十分。
「頑張ってこいよ、若人!」
「──はい!」
太陽のような笑みを背に、走り出す。その際かわしたハイタッチ。彼の手はやはり冷たかったけれど、そんなことはもう気にならなかった。手の冷たい人は心が温かい──そんな俗説を、思い出しはしたけれど。