本好きと香霖堂~本があるので下剋上しません~   作:左道

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14話『マインは引っ越したい』

 <マイン>

 

 

 人を成長させるのは目的意識と希望だ。香霖堂で働くという目的と、本が読めて健康な生活を送れる希望を得たわたしは冬ごもりの間も努力していた。

 まず字を完璧に覚えることだ。店主さんから以前に借りた鉛筆とチラシ裏を使って、門で見た書類をオットーの目を盗んで模写。なるべく多くの文字と単語を記録して、家にいる時は書き取りで覚えた。

 それにここのところは、以前に魔力をトロンベの実で吸ったことでとても体調がよくて、ちゃんとしたご飯も食べれたしラジオ体操も最後まで動けた! ハードル低いけどマインとしては驚異的なことだ。

 

 吹雪の季節は治まり、トゥーリも森へ採集に出かけるようになった。まだ雪は積もっているけれど、クランの実(甘酸っぱくてジャムにする)とか取れるようになったみたいだ。

 森にいって色んな素材を探す……それも余裕があったらわたしもやってみたいかもしれないけれど。

 春が近い季節になり、外出もできそうなのでまず香霖堂に行きたい!

 本に飢えて飢えて、つい借りてた新聞をエーレンフェストの言葉に翻訳してチラシ裏に書くという作業さえ家の中でやってたぐらいだよ!

 一心不乱に文字を書いていく娘に、店主さんからの教育だと勘違いした父さんはちょっと引いていたけど。

 

「商人の見習いになるのって大変なんだな……」

 

 みたいな感じで。母さんも針子でトゥーリもそっちの道へ進むから、本格的な商人に関しての知識は誰も持っていない。

 ついでに家で取ったパルゥの実から採取された油を使って、こっちでもリンシャン作りを進めていた。

 

「マインの命を助けてくれるんだから、油ぐらい安いものだ」

「そうよね、これで喜んでくれるなら」

 

 って家族の了承も得たからね。トゥーリや母さんの分も作るし。パルゥは結構な量の油が採れて便利だ。

 詰め替えする小瓶は香霖堂に行かないと無いので壺に纏めて入れて保管した。

 他にも、パルゥの油と卵と塩から作ったマヨネーズもどきも持っていこう。パルゥの油がやけに質がいいのか、普通に美味しい。古道具屋で売り物になるかどうかよりも、香霖堂で料理の味付けにでも使って欲しい。和食にマヨは邪道だけど合う。

 トゥーリの洗礼式用に髪飾りも作って、家族みんな喜んで褒めてくれたんだけど……これは店主さんに渡すほどじゃないかな。あの店、普通に昭和から江戸時代ぐらいの髪飾りや簪が置かれていた気がする。素人のホームメイド品じゃあ見劣りする。

 余ったパルゥのおからを使って、ルッツの家で沢山保存食のクッキーを作ってみた。硬く焼き上げることで昔の船乗りが食べるような保存食になる。でもほんのり甘いから、ルッツの兄弟はバリバリとかじって食べていた。これも店主さんに持っていく。

 

 雪も降らなくなった春先の日、やっと久しぶりにわたしは香霖堂へ行けることになった。

 随分重たくなった店に納める道具類を父さんに運んで貰い、西門近くのお店へ向かう。その日父さんは昼番で、仕事は昼から始まるから門より離れているお店まで連れて行く余裕がある。門番の仕事は早朝から昼まで、昼から夕方まで、夜から朝までの三交体制だ。

 扉には『営業中』の漢字に加えて、エーレンフェストでも同じ意味の文字が書かれて下がっていた。店主さんも言葉を勉強したみたいだ。

 

 ──カランカラン。

 

 私が扉を開けるとドアベルが音を立てた。店の中は雪解けの季節だけどまだ薪ストーブが焚かれていて温かい。我が家の熱源は暖炉もストーブも当然無いので料理とかに使う竈の熱のみで、当然ながら火を落とせば深夜にはもう部屋全体が冷え切っていて非常に寒い。

 そしていつもどおり、椅子に座って本を読んでいる店主さんの姿が! 理想のライフスタイルだ。

 

「お久しぶりです店主さん!」

 

 コミュニケーションの基本は挨拶から。挨拶もしっかりできない人は大学で就職できずに目的もなく大学院に行くことになるって誰か言ってた。まあ、わたしはどうにか就職できたけど。働く前に死んじゃっただけで。

 店主さんは顔を上げると低い声で言ってくる。

 

「やあ、マインくん。体調はどうだい?」

「最近すごくいいんですよ! 今日なんか、階段を降りてもへばらなかったぐらいで!」

「……階段って降りて疲れるものだったろうか」

 

 いやもう、わたしにとってあの急な階段はちょっとしたアスレチックだからね。

 登るときはいっそ四つん這いになって登りたいって思うよ。この前、ルッツの家にパルゥを料理しに行ったときなんか五階から階段を下りて近所のルッツの家がある六階まで上がらないといけなかったから、正直寝込んだ。

 わたしに続いて店に入ってきた父さんが木箱を置きながら挨拶をする。

 

「どうも、コウリンドウの旦那。うちの娘がまたどうしても来たいと言って……邪魔なら連れて行くが」

「ああ、いらっしゃい。今日は親父さんが送ってきたのか。別にここで預かっても構わないよ。おや? その箱は?」

「冬仕事としてリンシャンを作ってきました」

 

 しかし沢山作ったけど大丈夫かな。売れるかどうかって全然わからないんだけど。

 だけど店主さんは小さく喜んだ様子で言ってくれる。

 

「それはありがたい。かなり売れたから前回入荷した分は品切れでね」

 

 冬の間に?って思うけど幻想郷で売れたんだろう。

 

「また作りますよ! あっ、でもパルゥはもう採れないのか……」

「次からは市場に植物油を買いに行って作ってくれたまえ。材料費は出そう」

「はい! ……あっ、でもどの油が適しているか調べないと……」

 

 一応、パルゥとメリヤの油では試して成功したけど、パルゥは真冬のみ、メリヤは秋の果実だ。それも店で売っているわけでもなく、自宅で絞り出して使った。店で売ってる油の質とか種類とかもよくわからない。

 

「それの研究もしてみよう。今度油を買いに行こうか」

「はい!」

「面倒を掛けて申し訳ない」

 

 どうやら父さんは子供の遊びに店主さんが付き合っているような感じに思えたのか謝る。でもこれが香霖堂で出来るわたしの仕事なんだから。

 

「いや、いいよ。商人の見習いになるということは買い物も覚えさせるということだ」

「そうか……いや本当にうちの子が迷惑をかけないか心配で……可愛さは街でも一位二位三位を争うんですが」

「三位まで争ってるのかい?」

「うちの嫁と娘二人で」

「……ごちそうさま」

 

 家族バカというか恥ずかしいことを就職先の店主さんに言わないで欲しいというか。

 実際父さん、自分の職場でもわたしやトゥーリが来たら同僚とかに自慢しまくってるから困る。確かにトゥーリは可愛いけど。

 とりあえず後で森から帰ったルッツが迎えにくることになっていることを説明して父さんは職場へ向かおうとした。

 

「待ってくれるかい? 実はマインくんを治す薬が完成してね」

「ほ、本当ですか!?」

「よかったなマイン! ありがとうございます!」

「詳しいことはマインくんに説明するが……この薬は強力な物でね。服用するとマインくんは三日三晩ほど眠り続けることになる。高名な薬師の作った物だから間違いは無いと思うが……使う時期を家族で相談してくれ」

 

 三日三晩昏睡するって、怖っ! 

 子供が寝る前に「眠って二度と起きれなかったらどうしよう」って根源的な恐怖に取り憑かれて眠れなくなる話はどこかで聞いたことがあるけど、予告されてるとはいえ三日も起きない薬ってなんか恐ろしい。

 急に言われた父さんも目を見開いて怯えたように聞いた。

 

「だ、大丈夫なんで?」

「これを飲まないと近い将来に危ないだろうし、早いうちに飲まなければ薬が効かなくなるかもしれない。不安になるだろうけれど必要なものだ」

「うっ……マ、マイン」

 

 父さんが泣きそうな顔で見てくるので、わたしは安心させるように微笑んで大きく頷く。

 

「大丈夫! 店主さんが用意してくれたものだから、わたしは信じてる。心配を掛けるけど、平気だよ。詳しく話は聞いておくから帰ってからみんなと話し合おう?」

「……わかった。旦那、マインを頼みます」

 

 父さんはそう言って、名残惜しそうにわたしを抱きしめてから仕事へと向かった。

 家族からしても不安なんだろうけど、多分必要なことなんだよね。っていうかとてもその薬高そう……飲まないと命に関わる云々の薬って日本だと先進医療で何十万円もかかるやつじゃないかな……この世界の魔法道具高すぎ状態だともっとするかも。

 

 とりあえず店内に二人残されたわたし達だが、店主さんが話しかけてきた。

 

「さてマインくん。早速だがマジックアイテムの調整を……」

「店主さん!」

「いきなり土下座してくる少女は……幻想郷にも絶対居ないと思うが、なんだね?」

 

 重要な話の腰を折って、地面に両手をついて頼み込むわたしの姿勢に店主さんは聞き返した。

 

「店主さんには大変貴重なお薬とマジックアイテムを用意してもらって、非常にお世話になりっぱなしで恐縮なんですが、もう一つだけ今お願いしていいですか?」

「言ってみたまえ」

「……お風呂貸してください! 頭とか体とか痒くて眠れないし常に虫に噛まれてるようにチクチクして辛いんです!」

 

 ドゲザー!

 お風呂。それは魂のフロンティア。どうしてもわたしの全身に纏い付く、お風呂入っていない者特有の臭いと脂っ気と痒さが限界だった!

 この世界に来てまず驚いたことは「汚いこと」だった。それに追加するように、家族の誰もお風呂とか入っていなくて、濡れタオル(控えめに言って雑巾みたいな汚いやつ)で体を拭くだけという方法。中世ヨーロッパでももっと市民お風呂屋に入ってるよ! 市民どころか乞食にすら週に一度の入浴をさせる社会保障を付けてる街もあったよ! ってぐらい悲しくなった。水資源も薪資源も豊富なのにお風呂が流行らないとか、文化の違いとしか言いようがない。

 しかも数日に一度しか洗わないこともざら。トイレをしてもお尻を拭く紙も無いのに。 

 わたしはどうにかワガママを言って、毎日体を拭くようにしたり、材料を貰ってリンシャンを作って髪の毛のかゆみを軽減させたりしたけど、誤魔化し誤魔化しのその場しのぎはもう限界。

 特にこの冬! 冬は寒いし薪も貴重だから碌に体も洗えなかった! もうわたし汚れちゃったよ修ちゃん……って前世の友達にノリツッコミを期待したくなるぐらいしんどい。まあ、修ちゃんは二日ぐらいお風呂入らないで本読んでたわたしに「女捨て過ぎ」と一言で切り捨ててたけど。

 しかしなんと、前に探索したときから気になっていたけど香霖堂はお風呂がある。

 

「ふむ」

 

 店主さんがじろじろとわたしの姿を見回す。若干恥ずかしい。なにせ体中汚れてるからね! 正直言ってきちゃない。この世界に来て最初の頃、トゥーリとか母さんとかの手が汚いなあって思って触られたくなかったんだけど、容赦なくわたしの手も日本人から見たら「触られたくないなあ」って思うレベルに汚くなってる。

 手がそんな汚いレベルってどういうこと? ってむしろ普通に生活している人は想像できないかもしれない。

 

「まあ構わないよ。沸かしてくるから本でも読んで待ちなさい」

 

 優しすぎる……! もう完全に、姪っ子とかが泥遊びで汚れたから仕方なく入浴を勧めてる若い叔父さんとかそういう雰囲気だ。

 親ですら「どうせ汚れるんだから毎日体洗うのは水を運ぶトゥーリが可哀想でしょ」とか言って諦めさせようとしてくるのに! いや実際トゥーリには迷惑をかけている。言ってることはこの世界の常識からして間違ってない。ごめんね。でも我慢できない。

 店主さんが店の奥へ向かうので本でも……あ、いや待てよ。お風呂の使い方というか沸かし方を見て勉強した方が……でも本があるし、後で聞けばいっか!

 わたしは本棚から取り出した本を読み始めた。この誘惑にも勝てそうにない。

 

 

 

 *****

 

 

 

 爬虫類型人間が地球の政治を裏から操っていることに関して詳しくなった頃合いで、店主さんが声を掛けてきた。

 

「湯が張ったから入ってきなさい」

「……」

「マインくん?」

「はっ! ごめんなさい、本に集中してて」

「常に虫に刺されているように辛かったのではないのか」

「本があれば大抵のことは耐えられるので……」

 

 呆れた様子の店主さん。仕方ないよね。本好きだもの。まいん。

 

「……とにかく、湯あたりしないように。服も洗うから出しておくように」

「はい。あれ、でも代わりの服が……」

「うちに幾らか古着があるからそれを着ればいいよ」

 

 まず間違いなくこのボロボロのトゥーリのお下がりより、香霖堂の古着の方が品質が上なんだろうけどありがたい。この前着せてもらったエプロンドレスとか着心地よかったなあ。

 わたしはお風呂に向かう。脱衣所には洗濯カゴ、タオルが用意されていてまるで旅館のお風呂に入るみたいにウキウキした。脱いだ服を入れて、手ぬぐいを借りてお風呂場に入る。

 

「おお……風情あるなあ」

 

 空の浴槽は見たことがあるけど、お湯が並々と張っているとありがたさすら感じる。

 そしてこれは……五右衛門風呂!

 一般的な日本人が五右衛門風呂と聞いてパッと想像するのは、金属の鋳型で釣り鐘を逆さまにしたようなフルメタルな浴槽で、縁とか触ると熱そう!って感じだろうけど、実はあれはもともと『長州風呂』と呼ばれていたものだ。

 一方で目の前にあるのは、底部の一部がお釜の金属製になっていて、その上から木の樽を被せたようになっている、元々あった『五右衛門風呂』だった。これだとうっかり触れると熱い部分が少ないので、お風呂の縁に背中を預けてリラックスだってできる。この形式は木の部分と金属部分のスキマから水漏れしたりするのが原因で次第に廃れ、長州風呂の方はほぼ全部金属で作ることから熱伝導がよくて薪も少なく済むため流行ったので『五右衛門風呂』の名前すらそっちに持っていかれた。

 

 それはともかく、木の雰囲気を感じるお風呂。いいよねえ。なんかドラム缶を火にくべるみたいな長州風呂より怖くない。風呂桶も小さな椅子も木製。素晴らしい。

 風呂桶から湯を汲む。お湯が重いという貧弱さを感じるけど、温かくて濁ってもいないお湯だ……

 温度を確認し、まずはじゃばーっと頭から被ってみた。ほあーっ! 

 

「ああ、気持ちいいなあ──うわ汚っ!」

 

 思わず声が出た。

 頭から体を伝って足元の排水溝へ流れていくお湯が一瞬でドブ川のような色になっていた。わたしはドブの妖怪みたいな汚れだったらしい。涙が出ちゃう。女の子だもの。

 正直にお湯で流してたらこの浴槽の湯全部使っても洗いきれなそうなので、丁寧に洗っていこう。お風呂場を見回すと石鹸やスポンジが置いてある。このスポンジ、お風呂を洗う用じゃないことを祈りながら使うことにした。それ以外にもアヒルの玩具とかも置いてある。店主さんが遊ぶ? まさかなあ。

 石鹸もいくつか置かれていた。うわあ、この石鹸、お茶のいい香りがして泡立てるとホイップクリームみたいなふわふわの泡が──

 

「って危なぁー!!」

 

 思わず放り投げた。

 

「マインくん? 何事だい?」

 

 脱衣所から店主さんが声を掛けてきた。

 

「こっ、ここにある石鹸! お茶のやつ!」

「ああ、拾ったものだよ。外の世界で廃れて流れてきたのだろうか」

「外の世界で危険なアレルギーを誘発するって発売停止になったやつです! 使ってると小麦製品が食べられなくなりますよ!?」

 

 前にニュースでやってた有名なお茶の香り石鹸メーカーのやつだった。泡立ちをよくする為に小麦粉由来の成分を混ぜたところ、肌に微細な小麦成分が浸透して免疫反応が暴走しアレルギーを引き起こす。

 

「……医薬品は落ちてるものをなるべく使わないようにしているのだが、石鹸も止めておいた方がいいだろうね」

「そうしてください」

 

 ……冷静に考えると落ちてるものでも消耗品を使うのはちょっと。駄菓子とか普通に売ってるけど。

 賞味期限を気にしようにも暦も違うしいつの段階で幻想郷に落ちてたのかわからないとどうしようもない気が。

 ま、まあこの世界の半分傷んだようなお肉食べてても大丈夫な子たちだから、問題ないか! わたしは遠慮しておきます。

 

 ともかく、お茶石鹸を脇に避けて普通の石鹸を使い始めた。日本にいるわたしのお母さんも自家製石鹸に一時期ハマってたけど、大定番の石鹸が強いだけで意外と日本っていろんな石鹸が新発売されては消えていく。これもそのうちの一つかもしれない。

 少なくともほのかに香料がして心地よい。だってこの世界の石鹸って、牛か豚の脂を固めて作った臭いやつしかない……少なくとも、わたしの周囲には。だから植物性か牛乳由来の油で作られた石鹸は非常にうれしい。

 それをスポンジで泡立てて、肌を拭く。うわ……スポンジが一瞬で土みたいな色に……ショック。

 わたしが見たところではこの世界の人間は、お役人みたいな兵士でも基本的にどこか汚れている。随分慣れたので、例えば兵士でもオットーは小ぎれいにしているとか違いがわかるけど、異世界フィルターを外して現代日本的な価値観から見れば大体の人が汚い分類に入ってしまう。

 一方で店主さんは普通に見ても肌も髪の毛も綺麗で、まあ変わり者の雰囲気はともあれ日本人からしても清潔なイケメンに見える。おそらく幻想郷での常識的な綺麗さだろう。

 ならばその店主さんから見て、わたしの姿は雑巾の妖精みたいに映っていたに違いない。

 へこむ。こうなったら徹底的に綺麗になって、本当のマインはちゃんと綺麗好きな女の子だと思われなくては!

 

 お湯を丁寧に使って体中を洗い、そして髪の毛もモダンシャンプーってモダンな銘柄のやつで綺麗に洗った。うう……シャンプーつけても髪の毛が汚れとアブラで全然泡立たない。

 泡をお湯で洗い流して、いざ滑らないように五右衛門風呂へ。ちょっと深いから気を付けよう……と、思ったら店主さんがお風呂の中に椅子みたいな木の台を沈めていてくれて、入りやすく出やすいし座ってゆったりできるようになっていた。

 気遣いの達人すぎる。いや、もう、なんていうかごめんなさい。本当はいろいろやってもらっているわたしが店主さんに気を遣って役に立たないといけないのに。 

 ここはひとつ将来性を見越して出世払いで返すとして、お湯に浸かる。おおおおおって声が出た。二回出た。手足の先からしびれるぐらい気持ちいい……

 

 

 

 *****

 

 

 

 危うく入りすぎるところだった。自分の体が虚弱で、湯あたりすることを心の中で言い聞かせてどうにかお風呂から出ることができた。これがお風呂じゃなくて読書だったら中断することは無理だった。前世ではお風呂場にビニール袋にいれた電子書籍リーダーを持ち込んで延々読んでいて風邪をひいたこともある。

 しかし……綺麗に体を洗ったつもりなのに、わたしが入っていたお風呂の湯は薄めのスープみたいな色になっている……染み付いた汚れのせいで。きちゃない。できれば店主さんに見せたり処理させたくない。でもどう捨てればいいのだろう。よく観察したら釜の底に排水口があって栓がしてあった。それを引き抜いてみると、お湯がドボドボと溝へ流れていく。マインスープは恐らく店の外に流れていくのだろう。ばっちい気がするけど、おまるに入っている排泄物を窓から投げ捨てるのが普通な街ではマインスープは問題ない範疇だと思う。

 脱衣所には大きめのタオルと、店主さんが置いてくれた着替えがある。ドロワーズの下着と前に着ていたエプロンドレスみたいな白黒の服だ。ほのかに香る防虫剤のタンスみたいな匂いも心地よい。清潔な下着! 清潔な服! 日本では当然だったことがこの世界では一冬越えるだけで泣きそうになるぐらい嬉しい。

 

 着替えて洗面台の前に立つと、鏡に映ったわたしは中々のモノになっていた。トゥーリとかに比べると地味だけど、清楚系!って主張できなくもない。幼女だけど。

 入る前のわたしと比べると浮浪児と町娘ぐらい違う。やはりお風呂最高だ。文明の甘い蜜の味を知ってしまったら、家に帰りたくなくなりそう。

 

 お店の方に戻ると店主さんがわたしの着ていた服を手に顔を近づけていた。まさか幼女の服クンカクンカ!? それ汚いからもっと綺麗なときにやって!

 そう一瞬勘違いしかけたけど、よく見たら手に針と糸を持ってなにやら縫っているようだった。真剣な顔で、針先が滑るように動いている。いや……冬仕事のとき母さんがトゥーリに縫い方を教えたり、トゥーリの晴れ着を縫っているのを見たけど、多分店主さんの方がなんか手際が良さそう。母さんもスイスイとレースを編んでて凄いなーって思ったんだけど。

 わたしの気配に気づいたのか彼が金色の目をこちらに向けた。綺麗になったねとかこんな美少女だったとはとか、そういった感情がさっぱり浮かんでいない表情だ。なんかもう、わたしの外見に関しては割とどうでもいいと思っているのかもしれない。枯れている……

 

「あがったのか。それじゃあマジックアイテムについての説明を──」

 

 ぐぅー。

 

「……」

「……」

 

 お風呂に入って胃腸が安心したのか、お腹が鳴った。は、恥ずかしい……

 ここでの朝ごはんは、特に体の弱いマインだとカチカチの冬に備えて硬く焼いたパンをスープに浸して食べるぐらいだ。体力が無さすぎて消化する能力も弱いのか、甘いものとかは美味しいけどたくさんの料理は食べられないマインはそこまでお腹が空くことはなかったのだけれど。

 体全体が温まって、食欲も出てしまったようだった。

 店主さんは軽く瞑目して仕方なさそうに立ち上がる。

 

「先に昼食にしよう。君が今日来ることは知らなかったから、余り物で悪いのだが」

「ごめんなさい……」

「腹が減ったことで謝る子はいないよ。特に幻想郷ではね。居間の方で待っていなさい」

 

 ごちそうになるのだけれど、散々お世話になっていてこれからもお世話になる予定なんだから、食器を出すぐらいのお手伝いをしなければならない気がする。

 でも待ってろって言われて下手に手を出してお茶碗落としたりしたら余計に迷惑だし待っている間に本が読めるしで、わたしは本を手に居間へと向かった。

 

 本に書かれていた日本神話で出てくるオノゴロ島とユダヤ教の聖櫃の関係について詳しくなる前に店主さんがお盆を持ってきた。

 ちゃぶ台に置いてくれたそれは……!

 

「う、う、うな丼だー!」

 

 思わずガッツポーズ! うなぎの蒲焼きが乗った白いご飯! それにお味噌汁に漬物! 嬉しすぎる! やったー!

 

「うな丼の守護文人、夏目漱石に感謝ー!」

「そうなのかい? いや守護文人って概念から知らないのだが」

 

 店主さんが怪訝な顔をした。守護文人……わたしも今つい頭に浮かんだ単語だったんだけど。

 

「うな丼といえば夏目漱石ですよ。胃が弱くてもうな丼だけはモリモリ食べていて有名だったんですから」

 

 だから体の弱いマインでもうな丼は食べられるという完璧な理屈だ。

 

「あと家にいた門下生の小宮豊隆が漱石のツケで特上うな丼を出前しまくったり」

「それは逸話に入るのだろうか」

「高浜虚子が洋食の出前を頼んだり」

「鰻関係ないよね」

「内田百間がとんかつを六人分も頼んで一人でガツガツ食べたり」

「彼らは漱石の家をなんだと思っているんだ」

 

 一応本好きなもので、文人の話も色々と読んだことがあったけど漱石が鰻好きなのは本当だったらしい。

 

「しかし若干訂正するが、それは普通の鰻ではなく八目鰻の蒲焼きなのだよ。幻想郷には妖怪がやっている八目鰻の屋台があって昨晩寄った際に多めに渡されてね。リンシャンが入荷したら取り置きしておく代わりにということだったが……ともかく、それを温め直したものだ。白米や味噌汁は朝に炊いた」

「八目鰻の蒲焼き……初めて食べますけど、頂いていいですか!? 店主さんの蒲焼きだったのでは?」

「僕のことは気にしないでいいよ。君の服のほつれを直しておくから、ゆっくりと食べたまえ」

 

 店主さんはそう言うと店へと戻っていった。

 よし……うな丼だ。八目鰻だけど、香ばしい醤油と味醂を熱した匂いとご飯の匂いが合わさって、よだれが出そう。

 

 両手を合わせて、いただきます! 

 

 美味しい! 普通の鰻より硬いって話だけ聞いたことあるけど、骨切りがしっかりしているのかふっくらもっちりした歯ごたえ。少し鰻に苦味のような癖を足した身の味だけどタレが染み込んでいて美味しさ以上に気にならない。温かいお味噌汁。筍の漬物。とにかく、夢中になるぐらい美味しい。

 麗乃のときはご飯よりパン派だった。理由は片手に持って本が読めるから。でもこの世界での常食、オーガニックで硬くて苦酸っぱいパンを常食していた身としてはすぐさまご飯派に帰順したくなる。

 

 ううう……絶対わたし香霖堂に住む……

 

 温かいお風呂! 綺麗な衣服! 美味しいご飯! そして本。本。本。

 

 たとえこの世界に迷い込んだ日本人が本好きじゃなかったとしても、多分香霖堂以上に生活環境が素敵な場所は無いと思う。お貴族様になれたとしても、うな丼にお味噌汁に漬物なんて食べれないんじゃないかな。あまり貴族の生活に詳しくないけど、多分。

 貴族に生まれれば、確かにマインみたいな貧民の暮らしより楽だとは思う。きっと食事も美味しいはずだし、衣服も綺麗で、お風呂も入れるかもしれない。本もこの世界にあるものが読めるとは思う。だけれど、貴族は貴族なりに義務があるんじゃないだろうか。少なくとも嫁には行かされるだろうし社交界にも出たりするかも。はっきりいって面倒なことが山積みに違いない。

 一方でこの香霖堂。あんまり忙しくないお店でほぼ日本の田舎程度の暮らしができて、生活費は自分で作った道具とかを売って稼げる。

 自分が暮らせるお金を自分で稼げるってことは、それだけで義務を果たしているってことだ。司書や本屋になりたかったけどこの世界では困難なことを考えれば、香霖堂がわたしにとっての天職に違いない。

 

 もういっそ今日から住んで本読みたいぐらいの気分だよ。違った。働きたい気分だった。本を読むことが仕事じゃない。

  

 

 




・マインの暮らしを書いたら長くなって話があまり進んでいないが、原作序盤でも延々と生活の苦しさを書いてた気がする
・異世界生活難易度イージー
・殆どの異世界転移転生者は香霖堂がそこにあれば通いまくるか住み着くと思うぐらいの環境
・香霖堂の生活空間は間取りや構造は原作での描写が少ないので『魔理沙や霊夢がお泊りしても不都合が無い程度に整った環境』という前提で設定
・心の声とか聞こえないと霖之助が優しいお兄さんすぎる
・マインが着ているのは魔理沙の古着
・関係ないけど幻想郷って海は無いのに鰻はいるようだ(みすちーが八目鰻がないときは普通の鰻を出しているという発言から)

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