<森近霖之助>
店で色々あった後にマインくんは疲れて寝込み、仕方なく迎えが来るまで休ませることにした。即日にパルゥクッキーの製法を契約しようとしたフリーダ嬢には残念だったろうが、魔力による体の負担とは別に虚弱なのは急に治らないから仕方がない。
それからマインくんにリンシャンの価格に関して、
「あんまりぼったくるのはちょっと……」
と言われた。軽く内職で油を絞って混ぜ合わせただけの代物を小瓶に入れて、父親の月収ぐらいになっては父親の立場もないとか。
昔から『薬九層倍』と言って、薬品というものは原材料より遥かに値段を掛けてもよいものだが、まあ製作者が言うならば仕方がない。そもそも古道具屋に売られている商品の値段など流動的なものだ。希少で欲しがる者が多ければ高価になり、ありふれていて釣り合わなければ投げ売りをする。今の段階では確かにここでしか売っていないのだから、高くてもよいのだが。
これまでに存在していなかった道具や薬品というのはいかなる値段付けをされていても基準が無いのだから仕方がない。無論、高値ではあったがベンノにもフリーダ嬢にも買える程度の額にはしておいたつもりだった。
夕方になり迎えに来たトゥーリやルッツが「いつものことで申し訳ない」と謝っていた。仕方がないので僕が家まで背負って送ってやることにした。
「ちょっと待って! 服! 服着替えますから!」
マインくんは焦ったように、トゥーリに頼んで着替えをさせて貰ったようだ。
「こんな高い服持ち帰れませんよ! それに洗濯もできないし! うちの臭い石鹸に付けたくない!」
「あれ? でもマイン、着てきた服の破れたところとか、あて布してるところが綺麗になってるよ? それにマインも水浴びしたみたいでいい匂いがするし……ずるい」
「店主さんが縫い直してくれたから。うわ着た暖かさが前とかなり違う……」
マインくんが着ていた服は、作った母親の腕はいいのだが如何せん糸がもう古くなってほつれを隠しきれなくなっていた。しかし何度も修繕を重ねて大事に使い込んでいる物だった。僕も少し手直しをしただけだ。
ともあれマインくんを送って、恐らく体調や薬の使用などを考えれば数日は香霖堂に来れないだろう。
店番を残さないというのは確かに機会損失している可能性も大きいのだが、冬が去って森に行けるようになったので用事がある。
ダウソジングロッドを使って地面に埋まっているトロンベの実を掘り探すことだ。アリスから頼まれていた。多少億劫だったが、僕の他に持ってこれる者が居ないから仕方がない。地面に埋まっている実を見つけてくれとこの世界の人間に頼んでも難しいだろう。
半日かけて幾つか確保して籠に放り込んだ。森には子供たちが早くも採取に来ていて、薪やまだ寒い中出てくる果実などを探している。僕も魔力の籠もったキノコ類などを見つけたのでついでに採っていくことにした。
街の門へと戻ると、確かベンノと一緒に来店していたマインくんの知り合いである門番、オットーが僕を見つけた。
「おや? コウリンドウの旦那じゃないか。外に用事があったのか?」
「少し探しものをね」
「ん? それはタウの実か。まだ生っていないはずだが……」
「タウの実?」
トロンベの実じゃないのか、と口にしそうになったが、知っていて集めたとなれば咎められるかと警戒して相手の答えを促した。
「知らないか? 夏になると、星祭りの日に新郎新婦へとその日取ってきたタウの実を皆で投げつけるんだ。毎年やっているんだが……」
大丈夫なのか。それは。
見たところ、前に見つけたトロンベの実とそう変わらないように見える。似たような実があるにしても、街中でぶつけ合う祭りに混入しそうなものだ。
いや、しかしながらトロンベの実はかなりの魔力を吸わねば発芽しなかったように思える。この街の平民たちは少量の魔力を持っているようだが、あれぐらいでは大丈夫なのかもしれない。身食いの子供がいれば別だが、体の弱い子供は普通そんな祭りに参加しないか。
何かを察したようなオットーが声を潜めて顔を近づけ、伺うように告げてくる。
「知らないってことは本当に最近、別の領地とかからこの街に来たのか? 後は……貴族街の方だと全然やってないみたいだけど?」
「想像におまかせするよ」
下手なことを言って勘ぐられても面白くない。なにやら香霖堂の特異性が、ギルド長やベンノは気づいている様子だったが、だからといってそれがどうしてなのかは僕の方が聞きたいぐらいだ。
疑われ、怪しまれ、ここの街を追われることにもしなったとしたら、僕は幻想郷に戻れるのだろうか。時々不安に思うことはある。魔理沙や霊夢に言わせれば、対処法も思いつかないのに心配するだけ無駄だそうだが。
*****
採取したトロンベの実あらためタウの実を持ち、幻想郷にてアリスのところへ向かう。
リンシャンの入荷もあったのでパチュリーにも届ける予定はあるのだが、大図書館は今すぐに用事があるというわけではない。精々が今後の利用許可を取り付けることぐらいだ。気が向いたらでいいだろう。
タウの実の他にリンシャンも持っていくことにした。人間用だけではなく人形の髪を飾るのにも役立つかもしれないし、有用な魔法薬でもある。パルゥの油は氷の魔力を持っているらしく、魔理沙が持つ魔法の素材『氷の鱗』の保存に相性がいいらしい。買ってくれる可能性は高い。
こうして顧客のところまで取引に出かけているという商人らしいことをしていると店を始めた頃の情熱というかなんというか、そういったものが蘇ってきそうだ。
人里で見習いとして暮らしていた頃は、食べなくても大丈夫だが毎日食事を摂り、気にもならないが掃除をして、客に愛想の一つでも使わねば親父さんに怒鳴られ、先代の巫女には呆れられ、半獣の教師には説教を受けていたのだが、自分の店を持った途端に一国一城の主で誰にも迷惑がかからないと必要最低限の維持になり、客先へ出向くことも少なくなった。
しかし今は自分がかつて見習いとしてタダ飯を食らっていたように、常駐ではないが見習いが来る身だ。多少なりとも稼いで、食材ぐらいは仕入れておかねばならない。巫女と魔法使いが食べてしまうかもしれないが。
その日のアリスは家の庭にあるテーブルセットにて紅茶を飲みながら魔導書を読んでいた。彼女も実のところというか、魔法使いは皆そうなのかもしれないが魔導書マニアだ。よく持ち歩いているらしい。
「やあアリス。寄らせてもらったよ」
「いらっしゃい。歓迎するわよ、霖之助さん」
本を閉じて彼女と上海人形がこちらへ向き直った。
ひとまず異世界の土産話を詳しく聞かせて欲しいというのでテーブルの椅子に座って紅茶をもらいながら世間話をした。
中でもその土地の地面や植物、そして人に至るまで微量な魔力を持っているという点に興味を持っていた。
「ふーん……だとするとそのエーレンフェストだっけ? そっちの世界も幻想郷か、魔界みたいに管理者や創造神の力によって生み出されている閉じられた世界なのかもしれないわね」
「魔界というと、確か人里にある妖怪寺の住職が封印されていた世界だったかい?」
アリスから不意に出た単語に僕がうろ覚えに聞いた。そこに囚われていた聖白蓮を開放しようと異変を起こしていたのがかの星蓮船事件だったとか新聞で読んだ気がする。
魔界は名前こそおどろおどろしい感じがするが、幻想郷とも外の世界とも違う完全に独立した世界の一つであって本来は行き来できない。だが今では暇を持て余したのか、魔界から幻想郷へ観光ツアーなどが行われているとかなんとか。
「ええ。あそこは神綺様っていうフランクな創造神がすべてを作った世界だから、ある意味ではすべての物質に神綺様の要素……魔力みたいなものが混じっているということでもあるの。でも単に土地自体に魔力が豊富すぎて、それを栄養にする動植物やそれらを食べる人に魔力が移っているだけかも」
「神話の本を読んだが、確かに闇の神と光の神の夫婦が創造神で、その下に大地を司る五柱の神々と続いていたから、神々の力によって魔力が土地に溢れているのだろう」
「案外その世界の魔法使い……貴族だっけ? それと庶民の違いは先祖代々の食べている物による魔力摂取量の違いかもね」
「昔の日本でも武士階級と農民階級では食生活の違いが体格の違いになっていたのではないかという考えもある」
「ところで霖之助さん、その世界と幻想郷を行き来できる三つの物に気づいている?」
アリスが優雅に紅茶を飲みながら僕にそう尋ねてきた。首を傾げながら答える。
「僕自身と香霖堂の中にある道具だ」
「それともう一つ。『魔力』よ」
「……そうか。確かに幻想郷とは生物は行き来できないが、リンシャンなどの異世界由来な魔力は持ち込めている」
「私の魔力が籠もった魔法の糸を使っているマイクロ八卦炉も問題なく動いているんでしょう? これは期待が持てるわね……」
「期待?」
僕がそう聞くとアリスは頷いて、どこからともなくアリスを上海人形サイズにしたのか、そもそもアリスの操る人形の多くがアリスに似ているのでそちらに寄せたのかはわからないが、アリス人形とでも言うべき人形を取り出した。
名称は『七色のアリス人形』。用途は『遠隔無線操作をする』。どうやらこの人形にはアリスの糸が結びついていないようだ。
「この人形は付喪神でもなければ自我があるわけでもない単なる人形なんだけれど、視覚を同調して無線で動かすことができれば擬似的に異世界へ私が干渉できるってことになるかも」
「興味深いね。だが色々実験しなければ難しくないかい?」
「ええ、もちろん。まだ試作型で無線の魔力も距離や妖精のイタズラ程度で途切れたりしてるとこ。本当にこれが異世界に行けるかわからないしね。でも完成させるため協力してくれる?」
「構わないよ。僕にできることなら」
「それじゃあ向こうで魔力の高い植物や糸とかの素材があったら持ち帰って欲しいの。もちろんそれなりの値で買い取らせて貰うわ」
僕は思わず空を見上げた。魔法の森といえど木々は紅葉して光が差し込み、季節を感じさせる美しさに感動すら覚える。
「……どうしたの霖之助さん。突然上を向いて目頭を押さえて」
「いや……僕が商売人らしい依頼を受けていてついこみ上げるものがあったからつい大自然に感謝を。こんな近所に良客が居たとは……」
「そ、そう……大変なのね」
「いいんだ。ツケはツケでそのうち対価を貰うことにしている」
まあ……実際のところでいえば、魔理沙のツケは二振りと
「それはそうとトロンベの実を持ってきてくれたのね。早速発芽させて伐採してみようかしら」
「ああ、それなら家から離れたところがいい。聞いた話では、初期対応を失敗するとそれこそ周囲を森に変えてしまうらしい」
「そうなったら異変として霊夢や魔理沙に退治されそうね」
「その場合は知らないフリをして応援しよう」
退治される前に。魔木も幻想郷でいうなら、神霊の宿っていない妖怪樹のようなものだ。下手に成長をすればそれこそ自然霊を取り込み妖怪化するかもしれない。
向こうの世界で災害扱いされるだけにリスクはたしかにある。だが彼らに対処できるのならば、幻想郷の実力者に駆除できないということも無いだろう。
アリスの家からやや離れた場所に森が少し開けた場所があった。落雷でもあったらしく焦げた樹木が数本朽ち果て、そこの隙間に光が差し込んでいる。
「ここでやってみましょ。実に魔力を注げばいいんだった?」
「恐らくは。土地の魔力と養分をじわじわと吸収するのではないかと思うが、魔力を垂れ流しているマインくんが触れたらあっという間に弾けた」
「へえ。どれどれ」
と、アリスは僕が持ってきた赤い実を手に取る。
「……だんだん実が熱くなってきたわ。結構魔力を吸うわね」
「もう良いかもしれない。投げてみたまえ」
彼女がタウの実を放り投げると、地面に落ちた途端に水風船のように弾けた。
前に見たときはそれと同時に種が地面に撒き散らされ、あっという間に二十三十ほどの新芽が伸びていった。更にそれらは範囲を広げて次々に地面から生えていく。思うに、竹のように地下茎で繋がっていて広がっていくのではないだろうか。
……だが、
「あら? 思っていたより……早く伸びてはいるけど、危なそうじゃないわ」
新芽が出たは出たのだが、一本だけ。にょきにょきと伸びていくものの、前に見た様子ではない。
「ねえ霖之助さん。これで合ってるの?」
「これは……恐らく、『
「産土神?」
僕は頷いて推測をする。
「産土神はそれぞれの土地に宿る神霊のことで、その土地で生まれる者へと一種の加護のようなものを与える存在だとされている。中には祀られているものだけではなく名もない山や川の神霊も含まれる。その氏子が土地を離れたとしても産土神の守護は死ぬまで続く。だが一方で、産土神が与える影響も万能ではない。土地を移ることで異なる神の影響を受ければ体調を崩したり存在そのものが変質したりするという。例えば外来本として流れてきた旅行記の話だが、回教のイブン・バットゥータという人物は30年間世界中を旅して回り『三大陸周遊記』という書を残したが、旅先で腹を下したときは故郷の砂を水に浸して飲んでいたらしい。これも産土神の守護を得るための行動だろう」
「でも産土神が与える影響って人間だけじゃないの?」
「いや、そうとも言えない。例えば同じ猿であっても異なる場所で生活するうちに尻尾が短くなったり、植物でも紫陽花が土地によって色が異なるのも産土の影響と考えられる。産土は土地にまつわるものすべてに関わるのだよ」
故郷の水が一番馴染むとか、実家で炊いた米が一番うまいなどと感じるのもそのためだ。産土は土だけでなく水、空気にも宿っている。
「それで、そのトロンベが異世界とは産土が異なるから一本しか生えてこないぐらい変質しているの?」
「そこまで急激な変化は無いはずだ。恐らく、これはタウの木というものではないだろうか。トロンベの実とタウの実がほぼ同じに見えるのも、恐らくは同じ植物の雌雄だからだ。イチョウなどは雌株の木にしか銀杏が生らないように、雄株のトロンベと雌株のタウでは性質が違うため異なる木だと思われているのかもしれない。そして、産土の違いによりこちらの魔力では雌株のタウが生えてきたのではないか」
困ったようにアリスは腕組みをすると、伐採の為に集まっていた多くの人形たちも同じ仕草をした。器用だ。
「だとするなら、そもそも異界である私たちの魔力だとちゃんとトロンベに育たない可能性が高いんじゃない?」
「そうかもしれない。こういうときは条件を整えてみよう」
「条件?」
僕は腰に付けてある鞄を漁ると、中から薄黄色で半透明の結晶を取り出して見せた。
目を丸くしたアリスがしげしげとそれを様々な角度から眺める。
「これは例の見習い候補、マインくんの魔力結晶だ。以前には彼女の魔力を吸ってトロンベとして発芽したので、これを使えばどうだろうか。現地人の魔力にも産土が籠もっているはずだ」
「魔力の結晶!? ちょっと見ていい!?」
「どうぞ」
アリスはどこからともなく眼鏡を取り出すと宝石のような魔力の塊を手にとってじっくりと見た。
彼女の目の色が物理的に変わっているように見える。なんらかの魔法を使って分析をしているのだろう、青色になったり褐色になったりした目が微かに光って見える。
魔理沙に曰く、アリスは非常に目がいいらしい。普通は見えない物も見破れるし、幻覚をも看破できるとか。人形を操る糸も他人には見えないがアリスにだけはしっかり見えていて間違うことなく操っている。
「……凄い。かなりの大きな魔力の籠もった、純魔力結晶よ。霖之助さん、これをどうやって作ったの?」
「見習いに渡した八卦炉で錬成したんだよ。内丹を練り上げる原理を外丹を作る八卦炉へと応用したんだ。『悟真篇』などに書かれているように、人には生来から金丹の材料に変わる霊気や神気があるとされる。それを使い、身体を八卦炉の代用として体内で気の塊を練り上げるのが内丹だ。一方でこれは体内の魔力を一旦八卦炉に移し、それを材料として結晶を練り上げた」
「簡単に言うけど霖之助さん、魔法使いが自分の魔力を保存するのにはあれこれ苦労しているのよ。それこそ適当に魔力を込めていても魔力が漏れるか抵抗があって上手く溜まらないから、水晶とか宝石に込めたりする媒体が必要だし……私だったら人形ね。人間の形は込めやすいから。パチュリーは本かしら。本も文字自体が呪文になって魔力を保持してくれる。だから普通はこうして簡単に安定した魔力のみの結晶なんて作れないか、余計に設備とか儀式に時間が掛かるからやらないのに……」
はあ、とアリスは大きくため息をついた。西洋的な魔術と東洋的な仙術の得意分野の違いだろう。僕も専門的に学んでいるわけではないので、模造品にしても八卦炉自体が便利な代物なのだが。
気を取り直して自分の眼鏡を押さえながら言う。
「それにしても魔力量もかなり高い、とても上質な結晶だから魔法使いなら誰でも欲しがるような代物よ。よっぽどその見習いの子は魔力が多いの?」
「というか、君らみたいに日頃から魔法を使って発散しないが魔力だけは体内に生成される日々が生まれてから六年間も続いたからね。濃度も濃くなっていたのだろう」
「これだけの魔力が体内に溜まっていて魔法の使い方も知らなかったらいつ死んでいてもおかしくなかったわ。霖之助さんがたまたま見つけて幸運だったわね」
「ふむ……確かに偶然もあるものだ」
出会った頃のマインくんは体力も低い上に親からはぐれ、すぐに倒れるような状態だった。
そもそも僕の店は大通りから外れていて、うっかりすると一階建てなので倉庫かなにかに思われることもあり、店にやってくる客も少ない。
マインくんは誰かから店の噂を聞いてやってきたというが……それもまた偶然だろうか。
アリスが物欲しそうな顔で結晶を見ていて、ふと思いついたように「あ」と声を出した。
「霖之助さん、これ貴重?」
「いや、マインくんが普通に生活しているだけで時間経過で手に入ると思うが……欲しいのかい?」
「欲しいは欲しいんだけれど……手放していいんだったら、これを魔理沙にプレゼントしましょう。霖之助さんが」
「魔理沙に? 確かに喜ぶとは思うけれど」
特に魔理沙はあまり魔力を研究に回す余裕が、無いとは言わないがそう多くはない。調合などに加える魔力が足りずに素材を余らせていることもある。そこにこれを使えば、本人の魔力を減らすことなく調合の成功率や品質を向上させることが可能だろう。
アリスは気まずそうにうつむいて、僅かに哀れんだように言う。
「あの子……霖之助さんが作っているマイクロ八卦炉がてっきり自分にくれる道具だと思い込んで期待していたのよ」
「……参ったな」
いや、確かに作りかけの八卦炉を見ればそう勘違いしなくもない。だが今から同じ物を作れと言われても材料不足だ。
「ショックが軽くなるようにやんわりと伝えたのだけれど」
「ではあの店に置かれていた『香霖のばか』と書かれた落書きは」
「……念の為に確かめに行って、既にマジックアイテムが無くなっていたのを確認して書きなぐったんじゃない?」
「はあ……忠告感謝するよ。丁度、向こうの世界から図鑑にも乗っていないキノコを何種類か採取してきたところだ。魔力結晶とそれを持って機嫌を取るとしよう」
「うふふ、お兄さんとしては妹分のお世話が大変ね」
「貸すものばっかりだよ」
死ぬまで借りていく、とは魔理沙の言葉だったが、どちらにせよあの子に貸しを作れるのはそれほど長い期間じゃない。
人は成長が早い。若い日々は季節の移り変わりのように過ぎ去り終わっていく。そんな中で輝こうと、日々を充実して過ごそうと必死に生きているからこそ、多くの長命な妖怪などは彼女へ貸しを作って見守るのではないだろうか。
「まあそれより、トロンベの方を試してみるとするか」
幸い、魔力量的には結晶から吸わせても少し小さくなる程度だと思う。僕はアリスが見守る中、魔力結晶をトロンベに触れさせた。
すると温度を感じなかった赤い実が焼けたように熱くなるので、急いで投げる。
実は弾け飛び、種が撒き散らされたかと思ったら数十本の細い木の枝がすくすくと空めがけて成長し始めた。
「これね! それじゃあ程々に行くわよ! 人形たち!」
アリスの指示と同時に大きな鋏やナタを持った人形の群れが空中に浮かび上がり、アリスも空へと舞い上がった。その頃には、トロンベで一番成長の早いものは森の木に匹敵する高さまで伸びている。以前に見たものよりかなり早い。魔力の量が多かっただろうか。
更に上に伸びるだけでなく横方向にも、地下から筍が突き出るように次々に湧き出てくる。下手をすれば足元にも来そうなので、僕は早めに退散することにした。
「本当に凄い早さね! 『リトルレギオン』!」
魔力の籠もった糸で人形を操り、十以上の数の人形が刃物を水平方向に振り回しては伸びる木の上部を次々に切り落としていく。上の方が若く、素材として価値がある。
同時にアリスの周辺を飛ぶ上海人形が小型のランスを用いて、空を飛ぶアリスの周辺へと伸びてきた木の枝を切断していた。
……上から大量の木材が地面に落ちてくるので僕は更に離れることにした。危ない。
しかしトロンベは相当な養分を蓄えているのか、上部を切られているにも関わらず更に幹を再生させ伸ばし、既に一反か二反ほども範囲を広げて無数の木々が発生している。
「蓬莱人形!」
アリスが解き放った蓬莱人形が赤色のレーザービームを斜め下に発射しながら回転をする。新たに面積を広げようとするトロンベの根本を穿ち、増えるのを抑制しようとした。
「あら? レーザーを吸収されたわ……魔力を栄養に変換するんだったわね。だけど研究済みよ。闇か魔の属性なら吸収できない」
アリスが一瞬戸惑うが、次の瞬間にはレーザーの色が黒に近い紫色に変わり、生えかけてのトロンベを薙ぎ払う。どうやら魔法の属性を変えたらしい。彼女は複数の属性を難なく操ることができる。
人形らが魔力の籠もった刃物を大回転させながらアリスの周辺から放射状に広がり、大量のトロンベを切断していく。調べたところトロンベはかなり固い木なのだが、七色の魔法使いが操る人形にとっては問題にならないようだ。
もはや背の高い杉林のようになった森の一角で、縦横無尽に数十の人形を操っていて糸が絡まないのだろうか。
僕がそう考えたが心配無用のようだ。一瞬、トロンベ林を赤い光の線が無数に走ったかと思ったら何本ものトロンベの太い幹が切断されて地面に落ちていった。糸に攻撃魔法を付与させたのだろう。あれに絡み取られてはひとたまりもない。
しかし自分でやれると言っただけあって、さすがアリスと言うべきか。
広い視野と判断力でトロンベの増殖を防ぎつつ的確に素材を切り取っている。複数の人形を同時に難なく操り、木の成長速度を見切って効率よく伐採作業をしていた。
他の術者では駆除できないとはいわないが、自分の周囲一帯から伸び広がる木を把握しきれず、大規模破壊で一気に吹き飛ばそうとしてしまうかもしれない。
ただアリスは周辺を削り取って素材を得ているのだが、実が弾けた地点のトロンベが根本付近だと相当な太さになっているのが気になる。魔力を養分に変えているにしても、まだ再生し続けるのだろうか。人間の胴ほどもなった根が、脈打つようにうごめくのが見えた。
その時だ。
コ、と音を立てて青白い魔力の筋が水平方向に走った。
あれは魔力が収束し開放される前兆の光線だ。僕は咄嗟に、少し離れた場所にある太い一本木──タウの木の陰に隠れた。
次の瞬間、膨大な規模をした青い魔力の砲撃が地表を削り飛ばすように放たれ、その軌道上にあったトロンベの発生源を包み込む。樹齢千年の大樹が如き太さになった幹が塵となっていくのが微かに見えた。
砲撃が収まった跡には魔法の森に道ができたように軌道上にあった木々が消失している。
眼下にて不意に起こった強烈な魔力砲に、アリスも攻撃をやめて人形を手元に引き寄せる。トロンベたちも根本から一丈ほどを失えば再生することなど不可能なように動きを止めている。
「なに……!? トロンベを見てびっくりした魔理沙でもマスタースパークを撃ってきたの!?」
「いや……あのもっと容赦のない攻撃は……」
僕らは魔力が放たれた方へと目を凝らすと、そこには閉じたままの傘をこちらに向けた、赤いチェック柄のスカートとジャケットを着た女妖怪──風見幽香が小馬鹿にするような笑みを浮かべてこちらを見ていた。
風見幽香。言わずとしれた、幻想郷の中でも強力な大妖怪であり、非常に攻撃的な性格を持つ危険な相手だ。何故ここに……
「あらあら。大きめな雑草があったから駆除してあげたのだけれど、こんなところでなにをしているのかしら?」
「幽香!?」
「古道具屋に人形遣いなんて変わった組み合わせで異変でも起こそうとしているの?」
アリスが嫌そうに彼女の名を叫びながら地面に降りてくる。挑発するように幽香は傘を広げてこちらへ笑顔を向けてくる。
それにしても、アリスと幽香の態度からして、
「アリス。彼女と顔見知りかい?」
「ええ。霖之助さんも幽香と?」
「まあ……以前に少しね。ほら幽香は人里に現れるだろう」
「そうね。初めて見たときは『うわあ幽香が人里を練り歩いてる……』って感じで虐殺でもしに来たのかと思ったわ」
実際のところは、日用品の買い出しに来るのである。
妖怪となると衣服や装飾品を自らの妖力で作ったり、物を食べなくても平気なのだが、より力の強い妖怪ほど文化的な生活を送っていることが多い。
そうなればさすがに妖怪も家具や食器は作れないし、茶葉や菓子は買わねばならない。特に酒を買いに来る者は多い。殆どの妖怪は人間に化けることで人里でも問題なく売買を行っているのだが、幽香ほど力の強い妖怪ならば退魔師に見咎められようが返り討ちにできるので堂々と姿を現していた。噂では幻想郷の管理者とも一戦交えたこともあるとか。
もちろん、本人が花屋にみかじめ料のように花を売って得た金銭でやり取りをしているので合法的ではある。
「私の方は、あいつって妖怪なのに魔法に興味があって無理やり魔法を奪おうと何度も襲ってくるのよね。私の実家まで攻め込んできたこともあったの」
「それは迷惑な話だ」
「しかも覚えた魔法で二人に分身したこともあったわ。ダブル風見幽香よ」
「地獄で牛頭馬頭の獄卒二人にあったような気分だろうね」
「透明の風見幽香という状態もあるわよ」
「もう怪談に使えそうだ」
「聞こえてるわよー?」
ひそひそと言い合っている僕らに、笑顔が恐ろしい幽香が傘を向けてきて威圧してきた。
あの傘は『幻想郷で唯一枯れない花』と言うマジックアイテムの一種で、弾幕を防ぐことも幽香の魔力を砲やレーザーとして撃ち出すことも可能な武器だ。
僕は降参したように両手を上げて言う。
「すまないね。ところで幽香、こんなところで何をしているんだい?」
「んー……別に? 貴方の店が閉まってたから散歩がてら、アリスでもいじめに行こうかなって」
すごく理不尽な幽香の答えにアリスが半眼でうめいた。
「霖之助さん。あなたのお客みたいよ」
「いや散歩がてらいじめる相手が僕かアリスかの二択なだけだったと思う」
「なんでそんなに虫の居所が悪い幽香がこの辺うろついてるのよ」
この大妖怪は暇つぶしに他者へ喧嘩を売ったりするところも厄介な性格だった。強い妖怪なら強い妖怪同士とやり合わないと張り合いがない気もするのだが、格下の妖精などをいじめた挙げ句に「妖精なんかいじめても仕方ないわね」と放り捨てることもある。
幽香はニコニコとしながら軽い足取りで僕らからやや離れたところへと歩いていく。軽い足取りというが、以前にイタズラで邪魔をした妖精は踏みつけられて三日三晩苦しんだ後で消滅したとか聞いたことがある。怪談だ。
「その途中でなにか妙な木が蠢いて、アリスが伐採してるじゃない? それで様子を見に来たんだけど……感謝しなさいよ。あの木、自前の魔力を使い切ったから土地の栄養を吸い上げていたところだった。放っておけば森の一角ぐらい不毛の土地になってたかもね」
確かに、注意点としてエーレンフェストでトロンベの噂はそう聞いたことがある。しかし以前にマインくんが発芽させたときは土地がそれほど荒れなかったので重要視していなかったのだが。
込められた魔力を使い切る前に駆除しきらないとダメなのか。
「それで君が、土地を枯らす前に吹き飛ばしてくれたわけか」
「いえ? 単に目障りで邪魔だったから。私、花は好きだけど雑草は嫌いなのよね」
「……」
「……まあ、荒らすっていうなら幽香の砲撃の方がよっぽど森荒らしてるわよ」
「でもこんな外来種をどこから持ち込んだのかしら? 霖之助、確か貴方異世界を行き来しているとか」
言いながら幽香が手に取ったのは……タウの実を持ってきた籠だった。まだ数個のタウの実がそれには入っている。
にぃーっと幽香は口を開いて笑った。嫌な予感がしすぎる。
「それじゃあ折角だから駆除ついでにアリスと勝負と行きましょう──か!」
「なにをして──ああっ!」
アリスが叫んだ。幽香はタウの実を軽くそこらに放り投げると、彼女の力に当てられた実が爆発して周囲にトロンベが実数個分、さっきの数倍の量一気に生え始める。
幽香が持つ花を操る程度の能力を応用すれば、トロンベを発芽させることも可能なのだろうか。いや、それよりも。さっきアリスが掛り切りになっていた以上の植物災害が発生したところだ。
「なにするのよ!」
「ルールは二人で多くの雑草を壊した方が勝ち。お互いに妨害も弾幕もありね。本気出さないと貴方の家まで呑み込まれるわよ?」
「ええい、もう! これだから幽香と勝負したくないのよ!」
「さあ、せめて見栄えの良くない雑草に花を咲かせましょう? 弾幕のね」
途轍もない速度で成長と拡大を続けるトロンベの森。その中で少女二人が勝負を始めたようだ。僕は自分の足元からさえ生えてくる木を逃れるように離れていく。さっきから逃げてばかりだな僕。離れたところにあった岩の上で様子を見ることにした。岩ならば足元からすぐさま生えてくることはないだろう。
幽香は桜が舞い散る花びらのように無数に散らばる弾幕を張りながら伸び続ける森の木々の間を飛行していく。彼女の妖力が込められた弾幕はその一撃で枝ぐらいはへし折る。更に、向日葵に似た円盤状の巨大な魔力弾をアリスの方へと向けて次々に放っていた。向日葵の方は太い幹だろうと問答無用で切り裂き、相手の弾幕すら弾いていく。アリスの研究だと通常の属性は効果がないらしいが、妖怪の力という闇に属する弾幕は吸収しきれないようだった。
アリスの方も人形を操るが手数重視の弾幕勝負に出たようだ。七色の魔法使いの異名は伊達ではなく、闇の属性を持った弾幕を人形から無数に放ち、トロンベの木を削って次々に破壊していく。また、無数の弾幕を撃ちながら木々の陰から幽香を狙って人形たちが襲いかかっては姿を隠し牽制していた。
トロンベは幽香の意志なのか凶悪な力を持つ花妖怪に恐れをなしているのか、瞬き一つで五尺あまりも伸びるのだが幽香を避けてアリスを絡め取るように蠢き接近する。そのような甲斐甲斐しい子分の如き動きをしている樹木だが、容赦なく幽香は傘で殴って幹をへし折りながら飛行していた。
人形遣いの弱点は人形操作に気を取られることらしいが、彼女の周辺を伸びたトロンベが囲み押しつぶすように渦を巻いた。
「偵符『シーカードールズ』!」
対処法も予め用意してあったように、アリスの周辺に集まった人形たちが網目のように複数交差するレーザーを薙ぎ払い、トロンベを細切れにすると同時にレーザーは幽香をも巻き込む。
幽香も避けさえせず、傘を開いてレーザーを受けると乱反射した光が周囲のトロンベを切り裂いた。
「花符『幻想郷の開花』」
大妖怪がスペルカードを発動させると、トロンベ林のあちこちで花のように円形に広がる巨大な弾幕の放射が発生する。アリスは自分を捉えようとしているトロンベを盾にしながら回避を続けていた。
遠くから見ると伸びるトロンベの一群が一つの大木のようで、彼女らの弾幕が木の花のようだ。僕は岩の上に座って持っていた双眼鏡で様子を伺いながらそう思った。
「いやぁー、絶景ですね! これは一体なんなんですか? 異変ですか? 幽香さんの新しい技? むしゃむしゃ」
双眼鏡から目を離して隣を向くと、すぐ近くに烏天狗の少女が団子を片手にしゃがみながら異色弾幕勝負を見物していた。
「あ、これ情報料です。天狗団子どうぞ。食べかけですけど」
「食べさしを情報料として渡す記者は初めて見たよ。ところでどこが天狗なんだい?」
「十種類の具が混じっているので、テン・具ーだそうで。天狗の麦飯も入っていて健康的ですよ」
三つ団子の刺さった串のうち一つは食べてしまっている物を僕に押し付けて、射命丸文はカメラを代わりに持った。
「単に外来植物の駆除と勝負を同時にやっているだけだ。ここから広がることもないから異変にもならないだろう」
「なぁんだ。山の方からでも見えたから大事かと思ったら。てっきり、森を作りながら戦うブームでも来るのかと。でも異変だと勘違いされたら巫女が飛んできますよね」
「その場合、進路上に居たという理由だけで僕も君も退治されるだろうね」
霊夢はあれで勘が鋭いのに異変の原因を特定する能力がイマイチだ。本人の勘に従って異変の中心地へ飛んでいき、出会った相手をすべて退治することで結果的に異変を解決する。近くにたまたま妖精や下級妖怪が飛んでいようが、半人半妖の見知った古道具屋がいようが容赦なく倒していくだろう。
「しかし森を作りながら戦うブームか。最近は時々、変わった形式の弾幕勝負が流行ることがあるからね」
「そうですね。距離を詰めて体術を交えながら弾幕を撃ち込む的な。たまには変わった勝負も楽しいですけど、力の強い妖怪だと手加減が大変なんですあれ。ところでそういうのに参加してた覚えは無いんですけど幽香さんって手加減とかできましたっけ」
「彼女にとっての手加減は、動けないぐらい痛めつけた後で死なない程度にいじめるとかそういう事だろう」
団子を齧りながらしみじみと言う。あまり幽香が異変騒動に絡んでこないのも、そういう手加減の問題ではないだろうか。
すると文が再び団子の串を僕から取り上げて、最後の一つをかじって串をそこらに投げ捨て、飛び立とうとカメラを構えた。
「それじゃあ私は記事にするため、近くで撮影を試みますかね」
「情報料は」
「御店主からは大した情報が聞けなかったので団子一つ分でした。ファンの見習いさんに良い記事をお届けするために!」
「あー、ところで文。その見習いからなのだが」
「なんですか!? ファンレターですか!?」
「他の天狗の新聞も読みたいから全種類購読してくれだそうだ。天狗記者たちに伝えておいてくれないか──」
「聞かなかった! 聞かなかったですよー!」
文は耳を塞ぎながら風のように事件現場へ飛んでいった。今の所、文の新聞が最高だと言ってくれているだけですべてと比較して相対的に下げられたくないのだろう。
しかしマインくんから向こうのお金で払うから、と頼まれてもいるから新聞も取らねばならない。真面目な哨戒天狗にでも頼むべきか。まあ、天狗の新聞を全種類読むなんて人に言ったら狂人かなにかだと思われかねないが。恐らく天狗社会でも全種類読んでいる者は居ないと思う。
再びトロンベを舞台に戦う二人へと意識をやる。周囲にはちょっとした材木の山が出来上がるほどだ。
無数の向日葵型弾幕と人形が飛び交い、時にはアリスと幽香が接近しては傘と人形のランスで打ち合っている。
非常に太い幹が大きく伸びて二人の間を割った瞬間、アリスが勝負を仕掛けたようだ。
「『ゴリアテ人形』!」
刃物を両手に持った羆よりも巨大な人形が出現し、木の幹ごと幽香の居た位置を挟み込むようにして切り裂いた。
だが幽香は不意打ちされた一撃を掻い潜り、巨大人形の胸元へと潜り込んでいる。
「大きいだけじゃあねぇ」
そして弾幕を……あ、いや。傘で殴った。すると、ゴリアテ人形の胴体が容易く千切れ飛ぶ。
だが、
「魔符『アーティフルサクリファイス』!」
がらんどうだったゴリアテ人形の中から、爆弾を手に持った小型人形が大量に現れて幽香へ特攻を仕掛けた。同時にアリスは距離を置いている。
傘で殴って振り抜いたため、それで防ぐ間もなく大爆発が幻想郷の空を揺るがした。
「やった!?」
手応えがあったのかアリスが喜んでいるが……
自分の身に掛かる影に、彼女は体を硬直させてから上をそっと見る。
そこには無傷の風見幽香が、傘の先端でアリスの頭を軽く小突いて、にっこりと微笑みながら浮いていた。
「二体になったり消えたりするって、貴方はわかっていたでしょう?」
「あんたが嫌な奴だってことはわかっていたわよ」
……わざわざ上に現れて傘を向けて話しかけたのは、降伏勧告でも勝利宣言でもない。
魔力砲を撃ち込む前に負けたアリスの顔が見たかったというそれだけだろう。嗜虐的な笑みを浮かべながら幽香はトドメを刺す。
青白い魔力の爆発的な奔流が、真上からアリスとトロンベの根本を撃ち抜いた。フラフラと落ちていくアリスはどうにか操っているのか、人形たちが抱きかかえながら地面へ落ちていくようだった。
******
「う、ううう……」
「小細工だけは得意ね。もうちょっと大技を増やしたら?」
「うるっさいわね。力押しもテクニックの一種よ」
「あの大きな人形はまだ未完成なのかしら。もっとこう、中まで鉄を詰めてみたら頑丈になるんじゃない」
「重くて動かせなくなる。あんたみたいな怪力で操るわけじゃないの」
僕が現場に行くと、そこはかとなく全身焦げているアリスが膝をついていてそれに幽香がネチネチと口撃を加えているようだった。
幽香の魔力砲によりトロンベは根ごと破壊され、増殖の兆しは見えなくなった。地面にクレーターができているが。一気に駆除は完了したというところか。木材は散らばったり一部消滅したりしている。
近づいて来た僕を幽香が見て、次にボロボロのアリスを見た。なにか悪いことを思いついた顔で、ポンと手を打った。
「確か勝負に負けたほうが一つ言うことを聞くんだった?」
「勝ってからそういう事言わないで欲しいんだけど……なによ?」
アリスが嫌そうに睨む。勝負事に負けたのは間違いないので負い目があるようだ。
「確か……霖之助、『リンシャン』とか言う名前の商品を売り出したとか紙くずに書いてあったのだけれど」
「紙くずに……いやまあ、売り出したのはその通りだよ」
「私が買う分をあんたが持っていくとか?」
アリスに売ろうと数個分ぐらいはここにも持ってきてはいるが……。
「そう。ならそれでアリスは髪の毛を洗われなさい──霖之助に」
「ええーッ!? ちょっ、ちょっと待ちなさいよ! なんで!? しかも霖之助さんに!?」
「強いていうならその顔が見たかったし、洗われてる顔も見たいから」
くすくすと幽香は笑い声を漏らす。なんとも、サディスティックな笑い方だ。アリスの羞恥を楽しんでいるようだった。
「……ところで僕は」
「霖之助は拒否権なし」
「……はあ」
僕が抗弁したところで敵う相手でもないので、早々に諦めた。
アリスは目を白黒しつつ、手をわたわたと動かして叫ぶ。
「お、女の髪は大事なものよ! いえ霖之助さんが悪いってわけじゃないんだけど、そうそう他人に触れさせるものじゃないわ!」
確かに魔法使いや仙人にとって髪の毛は魔力仙力の宿る部位だと言われている。それに髪の毛の一筋もあれば呪いも掛けられるとなれば、幻想郷に生きる術者にとって髪を大事にするのも当然だろう。
だが幽香はアリスが嫌がれば嫌がるほど嬉しそうに言う。
「だって貴方が嫌がらないと楽しくないじゃない♪」
「外道ぉー! 霖之助さんもなんとか言ってよ!」
「ふむ……近頃は人里でも、髪結処で洗髪を行っているらしいよ。若い女性でも他人にやってもらうのは仕上がりが違うと好評だとか。僕の場合は……魔理沙の頭からキノコが生えたときに洗ってやったこともある」
なので一応経験があるから、髪を引き抜いたりとかはしないと思うことは伝えておいた。なお魔理沙の頭キノコは幸いなことに髪の毛に巣食っていただけで、頭皮や脳には達していなかった。
だがなぜかアリスは呆れたような表情になり──首根っこを幽香に掴まれて引きずられだした。
「さあ、貴方の家に行きましょうか。お湯も沸かさないといけないしね」
「霖之助さん助けて」
「僕にどうしろというんだ」
抵抗は無意味だ。引きずられるアリスに続いて、僕は肩を落としてついていった。せめて香霖堂に行こうとか言い出さなくて良かったとさえ思った。
*****
要は新商品の実演サービスだと思えばいい。僕はそう思うことにした。
むしろ湯を張った盥を片手にアリスの頭を鷲掴みにしている幽香の図が、水拷問を彷彿とさせて絵面が酷い。
「わかったわよ! やるから離して!」
「素直にそういえばいいのです」
お澄ましたように幽香はそう言い放って、僕に目配せをした。拷問の続きはお前がやれ。そういう感じの目線だった。
アリスと同時に大きく溜息をついた。諦めたように、彼女はリボンを外して首元にバスタオルを巻く。僕も袖まくりした。
丁度彼女の部屋にはリクライニングチェアがあったので、それと机を借りる。アリスを椅子に深く座らせて顔を上向きにし、テーブルに載せた盥に後頭部を浸す形だ。人里の髪結処でも似たような形だった。或いは歯医者か。
幽香はやや離れた場所に座りながらニヤニヤとこっちを見ている。なにが楽しいのだろうか。
天井を見上げる形になり、僕の顔をぼーっと見ていたアリスに告げる。
「それじゃあアリス、始めよう。……アリス?」
「ひゃ、ひゃい!」
「……」
「ご、ごめんなさい霖之助さん。こういうの、慣れてなくて……」
まあ、たしかに慣れていないと気恥ずかしいものがあるだろう。江戸から明治に掛けて、髪を洗う女性の浮世絵というものは春画扱いだったぐらいにはしたない行為である。それを他人にやられるのだから、忌避感を覚える者も少なくない。
あまり恥ずかしがられるとこっちも気まずくなるが、幽香という悪鬼羅刹が見張っている状況だ。そんな場合ではない。
「……道具を借りて済まないが、まずは髪にブラシを掛ける」
「ひうっ!? な、なんか他人にやられると異様にくすぐったい……」
毛先から初めて前髪、横、うなじから頭頂部へなぞるようにブラッシングした。
もぞもぞとアリスがむず痒そうに身を動かす。幽香が特に意味もなく指を向けながら笑みを浮かべている。
確認すべきことはアリスの頭髪にもキノコの菌糸が入っていないかだ。魔法の森で暮らしているのだから妖怪茸に寄生される危険性は誰にでもある。
……ふう。多分大丈夫だ。髪の毛も普段から手入れされているのか引っかかりもない。
「そういうものらしい。これを丁寧にやると髪のもつれが解けるとか。次に湯で髪の表面を洗う」
髪の毛を湯で洗って表面の汚れを落とす。まあその汚れの殆どは幽香の砲撃を食らった土埃や木屑などだが。
「そしてリンシャンを湯に入れて混ぜる」
「いい匂い……」
パルゥの僅かに甘い匂いが部屋に広がる。
「今度は頭皮を揉むように洗う」
「んっ……ああうう」
「どこか痛かったり痒かったりしたら言ってくれ──アリス?」
突然アリスは両手で顔を塞いだ。耳まで赤くなってる。かすれそうな声で囁いてきた。
「……変な声出して恥ずかしい……人にやってもらうの初めてなんだから……」
「そんなことを言われても僕は困るのだが」
「霖之助さんが人形を操作して続きを人形にやらせて……」
「無理を言わないでくれ。それに君が恥ずかしがると幽香がすごくいい顔をしている」
確かにここまで初々しい反応だと、その筋の性格をした者には楽しいのかもしれないが。
やらされている僕としては悪いことでもしているような気分になってくるから不思議だ。髪結処の主人は平気なのだろうか。
アリスが顔を隠したまま言葉を堪えるようになったので、頭皮を洗って髪の毛を撫でつけ、湯で軽く流してリンシャンを終えた。
いい顔をした幽香が終わるやいなやアリスを連れて風呂場へ行き、なにやら髪を乾かすのどうのという言い合いが聞こえた。
「君のご主人は幽香と仲がいいのか悪いのかわからないね」
部屋に残された僕が上海人形に話しかけると小首を傾げていた。
暫くして風呂場から、髪の毛を乾かしてリボンも結び直したアリスが出てきた。
いつもの金髪が一層につややかになり、カラフルな衣服を着ているアリスの格好と相まって人間離れした精巧な人形のように整っている。若干悔しさかなにかの感情から紅潮している。
「どう? 霖之助。可愛くなったでしょう」
幽香がそう聞いてくるので、僕は肩をすくめた。
「アリスはいつも身綺麗にしているから見違えるほどじゃないよ。雰囲気は変わったけどね」
「まったく貴方、女心ってものが……ってあら? アリス?」
震えながらアリスは目を何度も瞬きし、茹で上がったように赤くなっていた。身悶えしながら顔を隠し始めた。
すると家中の人形がわさわさと動き出して、突っ張りをするように僕と幽香を玄関へと押しやりだす。
人形の攻撃的でない抵抗に凶暴な幽香も僕と一緒に家の外へと押し出されて、がちゃりと鍵が掛かる音がした。
「……なにか怒らせただろうか?」
「怒ったというか恥ずかしさの限界だったというか」
「やはり男に髪の毛をいじられるというのは精神的に抵抗が激しいものだろう。君も悪趣味だ」
「そういう意味じゃないんだけど。まあいいわ。面白いものは見れたから。それじゃあね」
幽香は機嫌良さそうに手を振って去っていこうとする。
「おや? 幽香。君は香霖堂に用事があったのではなかったかい?」
「それは貴方に……」
なにか言いかけて、彼女は口をつぐんだ。
「……」
「幽香?」
「なんでも無いわ。今度、うちにリンシャンとやらを持ってきなさい」
「今予備があるよ。それに君あんまりあの館に居ないだろう」
「予め手紙を出してから配達しなさい」
「……わかった」
買っていった方が話は早いというのに何故か幽香はそう言って、急に足早になって帰っていった。
追求したところで幽香が答えるはずもなく、断るとどういう目に合うかわからないから従うしかない。客が届けてくれというのなら商売人としては仕方がない。
エーレンフェストの花でもあればついでに買ってくれるだろうか。それにしても、散らばったトロンベの木材は僕一人では片付けられない。今度アリスと協力をしてどうにかするとして、今日は帰ることにしよう。魔理沙へキノコも持っていかないといけない。
忙しいことは喜ばしいことだろうか。店から出ずに道具を眺めて本を読む日々も悪くないのだが。
……香霖堂洗髪料『リンシャン』入荷。店主の洗髪サービス付きか!?
という見出しで新聞とアリスの髪を洗っている写真が出回り、色々と客や知人に事情を説明するのに手間が掛かったのは後日のことだった。
あの天狗め……
東方キャノンボールをプレイした知人が「ひょっとして咲夜さん俺のことが好きなのかもしれない」という妄想から帰ってこなくなった。しっかりいたせ。
・マインはぼったくり反対派。原作でリンシャンより手間掛かってる髪飾りを小銀貨で売るだけで難色を示すレベル。なのに油混ぜただけで兵士の一ヶ月の給料とか。
・原作でベンノさんがリンシャン幾らで売ろうとしたか不明だけど、どうも初期だと値段付け失敗してあまり売れなかったようだ
・タウの実は割りと重要アイテムなのにタウの木って原作で出たっけ?
・魔力結晶は魔法使い間だと通貨にしていいレベルの重要アイテムという設定。霖之助はあんまり使わない。
・本作では東方旧作設定も混じるので、アリスと幽香は顔見知り。アリスは魔界出身で幽香には夢幻館がある。でも重要に絡んでくるわけじゃないので気にしないでいい。
・アリスと幽香は知り合い。幽香が人里に行くなら霖之助に会っている可能性はある。霖之助は幽香の傘に詳しい程度に知っている。つまりこの関係は自然だという理論。
・Q.アリスはなんで顔真っ赤なの? A.恥ずかしいだけだろう。
・Q.幽香はなんで香霖堂に? A.たまたま放浪してたんじゃないか?
・金髪の子慰めシーンと霊夢のお祓い棒修理シーンをいれようかと思ったけど、それは本好きとのクロス関係ない内容なのでカット。アリスは人形使って行き来しようとしてて関係あるから……幽香? さあ……なんで登場したんだろ……
・天狗の新聞はマインにも読まれるので恥ずかしいことに