【完結】地獄変・泥眼   作:白目p

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32.寝起きの申し入れ

煉獄杏寿郎が蝶屋敷へと訪れたのは、日が沈み始めた頃である。

その到着は容易に知れた。

 

ダダダダダッと全力で廊下を走る音がする。

少女たちの驚嘆と困惑の声が聞こえた気もするが足音にかき消されてしまう。

 

「蓮乃!!!」

 

病室の入り口に、息を切らした杏寿郎が立つ。

 

地獄谷蓮乃は半身を起こして、血相を変えてやってきた杏寿郎に

パチパチと目を瞬かせた。

 

「えーと、はい。おはようございます、煉獄さん。

 すみません、ちょっと前に起きたばかりなので、変な挨拶ですけど」

 

杏寿郎は息を整えつつ、

全くいつも通りの調子で動いて喋り出した蓮乃を見る。

 

多少やつれてはいるものの、とても前日まで昏睡状態に陥り、

明日もわからぬ状態であったとは思えぬほど元気だ。

 

蓮乃は右手で口元を抑えつつ、ニコニコ笑っている。

 

「まぁ、それにしても眼帯姿もお似合いですねぇ、柳生十兵衛みたいだわぁ、

 おっとこまえ〜! ひゅうひゅう!」

 

「……」

 

「……ちょっと、無言で真顔はやめてくださいよ。つれないんですから」

 

茶化してみても一言も喋らず、ただただ射抜くような視線を寄越す杏寿郎に、

蓮乃は困惑した様子で眉をハの字にする。

それから何かに気づいた様子で、首をかしげた。

 

「あら? 煉獄さんたら、ちょっとおやつれになりました?」

 

それを聞いた杏寿郎は、無言のまま蓮乃につかつかと歩み寄る。

蓮乃が杏寿郎を見上げ、何か言う間も無く、杏寿郎は蓮乃を抱きしめた。

 

蓮乃は突然の出来事にカッと頬を染める。

 

「えっ、……ええっ!? れ、煉獄さん? どうなさったの?!」

 

裏返った声で問いかけると、杏寿郎は蓮乃を抱きしめたまま、何か呟いた。

 

「……の、」

「は、はい? すみません、よく、」

 

蓮乃が「聞こえなかった」と言う前に、

屋敷中に響き渡るような怒号が上がった。

 

「この!!! 大馬鹿者がぁああああああ!!!」

 

窓にはめ込まれたガラスもビリビリと震えた。

 

至近距離の大声に殴られたような気分で、蓮乃の頭が揺れる。

 

「耳がっ、鼓膜! 起き抜けには辛いんですが!

 煉獄さん、あと、ちょっと!? 締まってる締まってる!

 なんか技みたいになってるんですけど?!」

 

蓮乃が必死に言うと多少力は緩まったが、

それでも杏寿郎は蓮乃を抱きしめたまま、全力で蓮乃に声を荒らげた。

 

「君は! 君は最悪の問題児だ!!!

 俺は何度も言ったよな!? 必要以上に鬼を挑発するなと!!!

 それを君という奴は!!!」

 

「あの、煉獄さ、」

 

蓮乃は状況がよく飲み込めぬまま、

とりあえずこの体勢はどうにかならないのだろうかと、

言葉を遮ろうとするが、杏寿郎はそれを許さなかった。

 

畳み掛けるように上弦の参撃退戦での蓮乃の言動へ、怒りをあらわにする。

 

「そもそも柱の命令に『嫌です』とはなんだ!?

 その上君、俺を全力で蹴っただろ!?

 挙げ句の果てには『鬼に殺されるくらいなら殺す』だと!?

 俺が君に殺されるわけがあるか!? 片腹痛いぞ!!!」

 

蓮乃は早くも状況の打開を諦める。

これは聞く耳を持ってくれるような様子ではない。

 

しかし、杏寿郎の指摘した言動も理由があってのことなのだが、と口を開いた。

 

「……あぁー、でもあれは、」

「言い訳するな!!!」

「すみません」

 

蓮乃は素直に謝罪する。

普段ならば大抵、杏寿郎はきちんと非を認めれば許してくれるのだが、

しかし、今回ばかりは違っていた。

 

「許さん!!! 絶対に俺は目覚めた君を怒ると決めていたのだ!!!」

 

蓮乃は全くどうしようもないと口をつぐんだ。

下手なことを言うと火に油を注ぐことは理解していた。

その上。

 

「にも関わらず君は! ここ2ヶ月! 全ッ然ッ起きやしない!!!

 いつからそんなねぼすけになったんだ!!!

 朝に強いのは君の美点だったろうに!!!」

 

人を叱ったり、諭したりすることはあっても、

煉獄杏寿郎がここまで誰かに怒ることはない。

 

どうやら途方も無く心配をかけてしまったようだと

ようやく気づいた蓮乃は、か細い声で謝った。

 

「申し訳、ございません」

 

杏寿郎は深く息を吐く。

 

「本当に、全く、君という奴は、」

 

絞り出すように呟いた。

 

「……目覚めてくれて、生きてくれて、本当に、良かった」

 

蓮乃は少し迷ったが、右手と左腕を杏寿郎の背にそろそろと回した。

 

「はい。もう、大丈夫ですよ」

 

「死にません。私みたいな人間は世にはばかると相場が決まっているんです」と、

蓮乃が努めておどけた調子で言うので、杏寿郎は呆れと安堵に小さく笑った。

 

 

ひとまず落ち着いたところで、

杏寿郎は蓮乃の寝台のそばに置いてある椅子に腰掛けた。

 

「この2ヶ月で状況が変わっている。

 君に話すべきこともいくつかあるから聞いてほしい」

 

蓮乃が頷くと、杏寿郎は口を開く。

 

「まず、君が昏睡してそう日も経たないうちに、俺は柱を降りた」

「そんな!?」

 

驚嘆した蓮乃に、杏寿郎は苦く微笑む。

 

「あの任務で、俺は柱でありながら君に瀕死の重傷を負わせる事態を招き、

 挙句君の腕まで奪われ、結局上弦の参を取り逃がした。

 許しがたい失態だ」

 

「……私のために降りたとでも言うのですか?」

「それは違う」

 

眉をひそめた蓮乃が低く問いかけた言葉に、杏寿郎は首を横に振った。

 

「そもそも上弦が来たのが夜明け前でなければ、

 あの場にいた全員が死んでいる。

 状況によって命を拾っているようでは、柱としてあまりにも不甲斐ない。

 一から鍛え直さなくてはならないと思ってな。

 (みずのと)から柱への復帰を目指すことにした。お館様は納得してくださったよ」

 

「……そう、ですか」

 

蓮乃は打ちのめされた様子だった。

猗窩座と死闘を演じ、自らが傷ついた時には平気な顔をしていたというのに。

 

杏寿郎は落ち込んだ蓮乃に眉を下げた。

こういうところが蓮乃の人間らしい部分なのだが、

それをきちんと口に出して認めるのは照れがある。

 

その上、先に言わなければならないことがあった。

 

「それで、だな」

「はい」

「その、今後のことなのだが」

「はい」

 

不安げな蓮乃に、杏寿郎は少々緊張した面持ちで口を開いた。

 

「……祝言は俺がもう一度柱になってから挙げたいので、

 待っててはくれないか?」

 

「は…………ぃ?」

 

副官制度の撤廃や、師弟関係の解消などが脳裏をよぎっていた蓮乃は、

しかし杏寿郎の決めたことに今回ばかりは従うべきだと

頷きかけて、顔を上げた。

 

杏寿郎の言葉の意味を、全く飲み込めなかったのだ。

 

目を丸くする蓮乃の様子をどう解釈したのか、

杏寿郎はどこにも視点を定めぬまま、つらつらと喋り続ける。

 

「とは言え、そう待たせずに済みそうだ!

 あと6体ほど鬼を斬れば柱に戻れるのでな!」

 

「…………えっ?」

 

「未熟を晒してすぐに所帯を持つのは少しどうかと思っていたのだ!

 やはりここはけじめとして柱に戻ってから式を挙げるべきだろう!

 なに! なんなら明日明後日にでも柱に戻ってみせるから安心してくれ!」

 

「は? ……えッ!? はあ!? 何を言ってるんですか!?」

 

「責任は取る!!!」

 

どん、と胸を張って言う杏寿郎を前に、蓮乃は混乱の極みにいた。

こめかみを右手で抑え、目を眇める。

 

「いやいや、煉獄さん、なんでそんな話になるんですか?!

 一体何がどうなって、……ん?

 というか柱を降りて2ヶ月で? あと6体で柱に戻れるって、なんです?

 ほぼ一日一体鬼を斬ってるってこと?」

 

蓮乃はなんとか杏寿郎の言うことを咀嚼しようとして、

杏寿郎が驚くべき速さで鬼を斬っていることに気づいたらしい。

 

「信じられない! 馬鹿じゃないんですか!? 何してるんですか!?

 あなただってそんなに怪我、軽くなかったですよねぇ!?」

 

「言っておくが今回の件に関して!

 君に俺を無茶だの馬鹿だの言える権利は一切ないぞ!」

 

杏寿郎の言い分に、蓮乃はぐっと言葉に詰まった。

蓮乃自身が上弦相手に無茶をしたのも、重々承知しているのだ。

 

黙りこんだ蓮乃に、杏寿郎はそういえば、と首をかしげる。

 

「ところで君、もう杏寿郎とは呼んでくれないのか?

 確かに家だと紛らわしいと思っていたところだったのだが」

 

「……なんて?」

 

蓮乃は頭に疑問符を浮かべる。

それから、杏寿郎に心底心配するような目を向けた。

 

「えっ? 私、いつお名前でお呼びしました?

 さっきからびっくりするくらい脈絡ないんですけど、

 上弦との戦いで頭でも打ったんですか? 正気ですか?」

 

「君は! すこぶる! 失礼だな!」

 

正気を疑われて杏寿郎はさすがにムッとした様子である。

 

どうも話が噛み合わない、とお互い怪訝な顔をしたところで、

杏寿郎が何かに気がついた。

 

「……まさかとは思うが君、昏睡する前に何を言ったのか、

 覚えて、いないのか?」

 

蓮乃と杏寿郎の間に、しばし沈黙がよぎった。

 

先に口を開いたのは蓮乃である。

 

「5分! いや、3分くらいでいいので時間をください!

 意地でも何を言ったか思い出しますので!」

 

「なるほど! 待つ!」

 

腕を組んで鷹揚に頷いた杏寿郎を前に、

一体何を口にしたら「祝言を挙げよう」とかそういう話になるのだ、と

蓮乃は必死に記憶を辿る。

 

蓮乃自身、最後に口にしたのは父親への謝辞であるという覚えがあった。

昏睡する直前、杏寿郎を守れたことに感極まっていて、

ひどく感情的になっていたことも覚えていた。

 

他に何か口にしただろうかとおぼろげな記憶の一つ一つを確かめ、

ふと、唇を小さく震わせたことを思い出し、蓮乃は眉をひそめる。

 

「ええと……何か口走っ、…………!」

 

『煉獄、杏寿郎さま』

 

『お慕い申し上げておりました』

 

蓮乃は口に出して、何を言ったかに気がついた。

 

みるみる顔から血の気が引いた。

蓮乃は右手で、真っ青になった顔を覆う。

 

「今すぐ千里を駆け出したい」

 

「いや、君、起き抜けでそれはダメだろう!」

 

杏寿郎のどこか冷静な指摘に、蓮乃は首を横に振った。

 

「そういうことじゃないんですよ。

 そういうことじゃないんですよ!!!」

 

蓮乃は半狂乱に陥っていた。

顔色が青から赤へと変わっている。

 

「あ~~~~~! も~~~~~! なんと言うことでしょう! 私としたことが!!!

 この口! この口が!!! ほんと、ほん、私の馬鹿っ!!!」

 

右手でバンバン口を叩きつけ始めたので、

杏寿郎はギョッとした様子で蓮乃をなだめようとする。

 

「落ち着け! 蓮乃!」

「無理! 無理ですね!! 無理!!!」

 

蓮乃は首を横に大きく振って両腕で布団を叩きながら喚く。

 

「さすがに傷に障るぞ! おい!」

 

「戦闘明けは特に!

 いつか絶対余計なことを言うからって気をつけてたのに!

 よりによってなんで!

 一番言っちゃいけないことを言っちゃうのよ私は!

 最悪! 馬鹿! 最悪! 馬鹿! 最悪……!」

 

散々喚いて息を弾ませながらも落ち着いて来た蓮乃は、

うつむいていた頭をそろそろと上げて、杏寿郎を見やった。

 

「……忘れていただくことはできませんか」

 

蓮乃の懇願に、杏寿郎は思い切り顔をしかめた。

 

「嫌だ」

 

杏寿郎がにべもなく断るのに、蓮乃は取り縋るように声を上げる。

 

「そこをなんとか……」

「絶対に嫌だ!」

「後生ですので、」

 

しつこく忘れてくれと言い募る蓮乃に、杏寿郎は声を荒らげる。

 

「できる訳がないだろう!!!」

 

それができたら全く苦労はしていない、と杏寿郎は蓮乃を睨むが、

蓮乃は「ですよねぇ」と肩を落としているばかりである。

 

蓮乃は嘆息すると、口を開いた。

 

「傷の責任を取ろうとそんなことを言い出したなら、大丈夫です。

 私の判断が悪かったんです。

 別にあなたが私に何をしたわけでもありませんでしょう」

 

「だからだ。何もできなかったことこそ、俺の、」

 

落ち度で、その責任は取らねばならないだろう、と

続けようとした杏寿郎を見て蓮乃は表情を失う。

 

「……そういうところが傲慢だというのです」

 

ピリリと空気が引き締まる。

蓮乃は能面のような顔のまま冷えた声で言った。

 

「私の負った傷は、私の油断こそが原因。

 もっと言うなら、私自身が鬼をさんざ苦しめ殺してきたことの因果応報。

 煉獄さんには何の咎も責もありません。誤解なさらぬよう」

 

しかし杏寿郎は気圧されなかった。

腕を組んで朗々と宣言する。

 

「それだと俺の気が済まん!!!」

 

蓮乃の表情が呆気なく崩れた。

 

「はぁあ~~~?! 本っ当に頑固な人ですねぇ!」

 

蓮乃は困惑が過ぎて苛立ってきたのか語気を強める。

それに負けじと杏寿郎も声を大にした。

 

「強情なのは君もだろう! それともなんだ!?

 告白までしておいて祝言を挙げるのは嫌なのか!?」

 

「あ、あれは、も~~~! 忘れろって言ってるじゃないですかぁ!?

 墓場まで持ってくつもりだったのに

 気が大きくなって口が滑ったんですよぉ!!!」

 

「嫌だ! 忘れん!

 そもそも口が滑ったということは本意ではあるんだろう!?

 何が問題なのだ?!」

 

「それはそれ! これはこれです!」

「そんな理屈で納得できるわけがあるか!」

 

やたらに食い下がってくる杏寿郎に、

蓮乃はわけがわからない、と問いかける。

 

「なんなんですか!? そんなに私と結婚したいんですか!?」

 

「したい!!!」

 

強く言い切られて、蓮乃は鈍器で殴られたような衝撃と、

めまいにも似た感覚を覚えていた。

 

喘ぐように口を開く。

 

「ちょっと……、ちょっと待ってくださいよ。

 起き抜けにそんなん言われても困りますって、」

 

「今度は待たない。俺は君の目が覚めるのを2ヶ月待った」

 

蓮乃は逃げられないと思った。

別に逃げたいわけではないのだが、追い詰められていくような感覚に陥っている。

 

だいたい、杏寿郎ならば他に良縁を探すことなどいくらでもできるだろう。

わざわざ加虐衝動や悪癖を抱えた女を選ぶことはない。

それに加えて、今の蓮乃は片腕だ。

いらぬ苦労を背負うことになるのは目に見えているはずだ。

 

「本気でおっしゃってるんですか?

 本気で、悪辣な気性の、……片腕の、私を、妻にしたいと?」

 

「当然だろう!!! 全て承知の上で申し入れているのだ!」

 

だが、杏寿郎は蓮乃の懸念など全て吹き飛ばしてしまった。

 

「祝言を挙げよう。俺と夫婦になってくれ!」

 

明朗に言った杏寿郎に蓮乃は目を瞬き、唇を引き結んだ。

 

煉獄杏寿郎は本気だった。最初から最後まで本気だった。

責任感とか義務感とか、そういうものだけでない、

強い感情が自分に向けられていることにようやく蓮乃は気がついたのだ。

 

蓮乃は俯き、深くため息を零す。

 

「……煉獄さん、あなた、私に散々悪趣味だなんだと言ったけど、

 あなたも相当ですよぉ。普通、私を娶る気になりますか?

 ……参ったなぁ」

 

蓮乃は固く目を閉じ、また開いて顔をあげた。

 

「私を幸せにしてくださいますか」

 

柔らかな声色であるものの、挑むような目つきである。

金色の光が瞳の奥で揺れている。

 

「……お、おお! 無論そのつもりだ!」

 

思わずたじろぎながらも朗々と答えた杏寿郎に、

蓮乃はいつもの調子でくすくす笑う。

 

「ふふふ。そう身構えなくとも、簡単なことですよ。

 自分で言うのもなんですが、私は安上がりな女ですから、」

 

全てを嘲弄するような笑みが、穏やかなものに変わる。

眩しいものを見るように、目が優しく細められた。

 

「あなたが生きてさえいれば、充分」

 

杏寿郎は瞬き、それから悩ましげに口を開く。

 

「そう、簡単と言うわけでもないな、それは。

 こういう仕事に就いている以上、保証しかねる」

 

蓮乃はわざとらしく口元に手を当てて驚くような仕草を見せた。

 

「あら意外! 随分弱気なことをおっしゃるのね?

 『全てを守る』

 その勘定にご自分を含めればよろしいだけでしょ?」

 

発破をかけるような蓮乃の物言いに、杏寿郎は息を飲む。

 

「それともなんです? できませんか?

 鬼殺隊でも最も古い歴史を持つ呼吸の一つ、

 炎の呼吸の継承者、炎柱となるべきあなたが?」

 

杏寿郎が厳しく蓮乃を叱りつけた時と同じように、

今度は蓮乃が杏寿郎を叱咤する。

 

「たかが自分一人守れず、

 たかが女一人幸福にすることもできないのですか?」

 

杏寿郎は、2ヶ月ぶりに聞いた蓮乃の啖呵に、口元を緩めた。

 

ずっと目を覚まさなかったから忘れかけていたが、

地獄谷蓮乃とはこういう人なのであると、

杏寿郎は改めて思い知ったような気分だった。

 

煉獄杏寿郎の感情をいつも揺さぶってならず、

いつだって振り回されて、平静でいられた試しがない。

これまでも、おそらく、これからも。

 

だから杏寿郎は声をあげて笑った。

 

「はっはっはっ! 君はそうやってすぐに相手を挑発する。

 何度言っても治らないなあ、それは、」

 

そして未だ挑むような目をする蓮乃を、強く見つめ返した。

 

「上等だ。望むところだぞ」

「うふふふふ!」

 

蓮乃はカラカラと笑い、それから深々と頭を下げた。

 

「不束者ですが、よろしくお願いいたします」

 

杏寿郎は頭を下げた蓮乃に目を丸くした後、笑みを浮かべて、

同じように頭を下げる。

 

「こちらこそ、至らぬ俺ではあるがよろしく頼む!」

 

どちらからともなく顔を上げ、はにかむように笑った二人に、

水を差すように声が響いた。

 

「お邪魔してしまって申し訳ないのですが」

 

胡蝶しのぶが部屋の入り口に立っていた。

 

その顔には常の通り、にこやかな微笑みが湛えられているのだが、

迫力がすごい。

 

「全部聞こえてるんですよ。声が大きいから。

 場所分かってます? 他にも患者がいるんですけど?」

 

杏寿郎はなるほど、と頷いた。

確かに蓮乃も杏寿郎も、興奮して声が大きくなっていたような気もする。

 

「ぅわぁ」と呻く声がしたので杏寿郎が横を見ると蓮乃の顔色は真っ赤だった。

よく熟れた林檎のようだ。

いつもの面を被ったような揺るぎない笑顔は、今や見る影も無い。

 

杏寿郎は、やはり存外、かわいい人だったのだなぁ、と

その時素直に思っていた。

 

しのぶは妙に泰然とした杏寿郎と、

羞恥に死にそうになっている蓮乃を見やってため息を零す。

 

「痴話喧嘩ならよそでやってもらえません?」

 

しかしその声にはどこか、揶揄うような色も伺える。

 

「すまん!」

「……すみません」

 

蓮乃は右手で顔を覆い、「……穴があったら入りたい」とか細い声で呟いた。

 

 

 


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