ちゃぶ台に、湯飲みが二つに急須が一つ。
湯飲みの一つは姫和のものであり、もう一つは来客用のものであったが、姫和の話によると、舞衣はこれを使用する、記念すべき三人目なのだそうだ。
「ここに来るのは岩倉さんか、五条学長くらいなものだったからな。また役立てることが出来て良かった」
そう言って、姫和は笑う。
「私に用があって来たんだろう」
「うん」
「可奈美のことか」
「…うん」
「言っていたな。可奈美に勝て、とか」
「声に、出ちゃって」
姫和とあったらどう話すか、数時間余り費やして考えてきたわけだが、綺麗さっぱり白紙になってしまった。どうやら舞衣は、姫和には常に翻弄される定めにあるらしい。
「聞いたよ。もう伍箇伝の生徒じゃないって」
「…そうか。でも当分予備警察官では居るつもりだ。荒魂は依然頻出してて何処も人手が足りないし、それに予備役してるうちは、小烏丸とも一緒に居られる」
「それなら…」
「言っておくが、舞衣や可奈美は同罪じゃないぞ。私は首謀者、舞衣たちは協力者。罪科が違う」
先手を打たれた。やはり伍箇伝最速刀使、先々の先はお手の物のようだ。
「大体、皆と一緒に居られなくなるわけじゃない。伍箇伝の生徒じゃあ無くなったってだけで、特祭隊の刀使であることに変わりはない」
「けど、それじゃあ御前試合には出られない」
「あれの参加資格は伍箇伝の生徒限定だからな。けど、いいんだ。私は伍箇伝最強に興味が無い。元々、無かった。先の御前試合に出たこと自体、例年決勝を観覧においでになる紫様を狙ったからだからな」
「…それでいいの? 可奈美ちゃんとの決着を着けなくても」
「決着なら着いた。舞衣も見たろう」
姫和と衛藤可奈美が立ち会った最後は、関東大災厄、刀使たちの間で通称するところの年の瀬の災厄の折であった。
姫和は禍神イチキシマヒメと融和しており、まさしく神憑りの状態であったが、それをも可奈美は一蹴した。
この時の姫和は半荒魂化とでも言うべき状態の為、御刀で斬られれば重大なダメージを受けるが、逆に御刀以外の――例えば荒魂の打撃を受けたとしても一撃やそこらで写シが剥がれることはない。その気になれば迅移の連続で日本列島を航空機並みの時間で横断出来るだろうし、迅移と八幡力、八幡力と金剛力など同時に使用しても息切れすることはない。無尽の神通力を幽世からくみ上げることが出来る状態にあったにも関わらずである。
「あの時ですら可奈美には及ばなかった。可奈美の剣は、私が影すら踏めない域に達している。それに私は、可奈美に剣を見せすぎている。可奈美のような後先の技に秀でた奴に、それが何を意味するのか、舞衣なら分かるはずだ」
姫和の学んだ鹿島新当流の太刀筋は凶悪そのもので、鹿島の太刀を修めた者と立ち会えば、初見でそれを凌ぐことは不可能であろうとすら言われる、数々のハメ手が収められている。
それだけに鹿島の太刀は秘するを専らとし、悪戯に広めることを嫌った。一度見られてしまえばその威力を減じるからである。新当流は多彩な奇襲攻撃を強みとするが、知られてしまえば奇襲は奇襲でなくなるということだ。
然るに姫和は、折神家駐在中は日常的に可奈美と立合いを交えている。その必要を感じていなかったから技の出し惜しみなどしていない。その結果、姫和の繰り出す技は全て可奈美にインプットされていると言っても過言ではない。流の持ち味である攻め強さは、無意味となり果てている。
「もしもう一度半神半人の身となって圧倒的なエネルギーゲインを得ても、迅移の速力自体が倍になる訳でもないし、御刀に斬られて写シが剥がれないわけでもない。それが尽きせず行えるというだけで、行う技は刀使の技だ。その刀使としての技前が勝る相手に、及ぶはずもない」
作戦科に出入りすることの増えた舞衣にとり、姫和の言に重みがあった。
関東大災厄当時、タギツヒメの走狗となった冥加刀使はノロの注入に加えS装備を標準装備し、写シの維持や迅移の段階などは熟練刀使並みの高段階で行うことが出来たにもかかわらず、可奈美たちや調査隊の面々には及ばなかった。
御刀が刀使に授ける神通力は、刀使の御刀の取り扱う技に及ばない、ということが戦訓となって示された形であった。
姫和も、当事者としてよく知っている事である。
「今や可奈美との立合い、私に理は無い。ここから先、不利になる一方だ。だから…」
「だから?」
「舞衣。お前が勝て」
「え」
「お前が勝つんだ」
姫和は繰り返した。
「そんな、無理よ」
「何故そう思う」
「だって」
可奈美と試合して勝った最後は、何時だったか。最後に一本を奪ったのは、何時だったか。
霞みのかかる程の、記憶の彼方であった。
どうすれば勝てるのか。どうすれば一矢報いることが出来るのか、工夫を重ねては跳ね返されることを繰り返し、いつからか思うようになった。
(もう可奈美ちゃんに勝つことは出来ないかもしれない)
と。
可奈美の傍に居ることは出来ない。
並んで歩むことは出来ない、と。
だけど、己はそうでも、並び立てる者は在るかも知れない。誰か――己よりももっと強い誰かだったら、どうにか――
でなければ、可奈美は独りぼっちだ。
あんな高みの、誰にも及びもつかぬところにたった一人だ。
それでは可哀そうだ。可奈美が可哀そうだ――
「…だって…」
「舞衣。お前は強い。少なくとも諦めていない。可奈美の背中を追いかけ続けている。私とは違う。標(しるべ)を見失ってしまった私とは」
「姫和ちゃんは!」
姫和ちゃんは、それでいいの?
可奈美ちゃんが独りぼっちでもいいの?
可奈美ちゃんに置いてきぼりにされて、それでもいいの?
「…今日は、帰るね」
それは言わず、ただ告げた。
己には出来ないからお前が救えと、そう言っているのは姫和も舞衣同様なのだと気づいたからだ。
「姫和ちゃん」
「何だ」
「早苗さん、馬庭念流を破門になったって言ってた。戻るつもりはもう、無いと思う」
「岩倉さんに会ったのか!?」
「立ち会ったの。鹿島新当流の岩倉早苗さんと。御刀仕合で」
「…岩倉さんは」
「強かった。…姫和ちゃんに似てた」
「――」
「早苗さんもきっと待ってる。馬庭念流に戻らないってことは、そういうことだって思うから」
「…」
「また来るね」
言い遺した。
***
柳瀬舞衣が十条の家を辞し、姫和はまた、独りになった。
(良いわけがない)
独りは寂しい。そう思う。
今ならなおの事身に染みて、それが分かる。舞衣の言葉の意味が身に染みる。
(ああ、そうか)
(私は、寂しいのか)
だから、己と同じに、可奈美の寂しさが分かるのか。
姫和は、太刀置きに横たえられた、我が佩刀小烏丸を見やる。
母が亡くなった後は、常に抱いて眠った太刀であった。
暫くは、触れていない。
(…私の剣は、ここまでだ)
もとより、好んで御刀を握ってきたわけではない。
母の仇を討たんがために一つの太刀を磨いて来た。
(可奈美とは違う)
身に付けた鹿島の太刀は、手段であって目的ではない。
斬りたい相手を斬る為に磨いて来た。
それがたまたま、最強の刀使折神紫であったから、最強を身に付ける必要があった。
それだけのことであった。
目的が失われてしまった今、母が伏せって後は岩倉早苗を頼ってまで磨いて来た鹿島の太刀もその意味を失った。
(空しいな…)
衛藤可奈美とは違う。岩倉早苗には悪いが小烏丸を抜くのは好き好んでのことではない。
姫和が好きだったのは剣ではなかった。
母だった。
見やれば、母の臥所(ふしど)があったあたりには、今はもう、何もない。
母はもう、居ないのだ。
「母様…」
もう何度目であろうか。
声に出して呟いたその時であった。
「寂しいのか」
と応えがあったのは。
「…! 誰だ!」
「我のことを誰かと問うとは。いや当然か。今や我は言の葉を発するもようやっとの落ちぶれ果てた存在。人にとってどれ程の価値やある。いや害とすら思いもしよう。ましてや一度はを我を仇のまで思いつめた柊の娘、我の事など羽虫ほどにも思うておるまい。再び小烏丸にて幽世に送り出されるは必定。我が身我が命の儚きかな――」
「誰だ! 何処に居る!」
「ずっと傍らにあったというに、気づきさえしておらなんだのか。一たびは世に禍神よと音に聞こえた我が身も衰えること極まれり。かつて仇と呼ばれた我が身が、今や殺す価値すら無き者と成り果てようとは」
「禍神だと! 傍らだと! まさか貴様は――」
「ようやっと思い出したか、我の名を」
「イチキシマヒメ!」
三柱の禍神の一、姫和と一つと融和し、共にタギツヒメを討ち、衛藤可奈美と戦ったイチキシマヒメはしかし、声はすれども姿は見えない。
肉声が確かに、鼓膜を打っているにも関わらずだ。
「一体どこに…」
「今の今まで穢れが足りず、言の葉を音と発することすら出来なんだ。しかしお主より流れ出でる陰々滅々たる穢れのお陰で今やこうして言の葉を発することが出来るぞ。まあそれが、命とりとなってしまう訳だが」
「まさか――」
声を辿り、姫和はちゃぶ台の上を見やる。
そこには母の偲び形見となった古式のスペクトラム計がある。食膳に着いては、必ず母の座った我が対面に、それを置くのが姫和の常であった。
「久方に相まみえるな、柊のむすm」
声は途中で途切れた。
「わあああああ!」
物凄い悲鳴を上げた姫和が、手近な己の茶碗で、カポッとスペクトラム計に蓋をしたからである。
それもその筈、スペクトラム計の八角形状の中央、ノロの流滴が収められていたその辺りに、よおく見覚えのある顔が、永遠に寝起きのよおく見覚えのある寝ぼけ眼で浮かび上がっていたからだ。
(なんだ! なんだなんだなんだ!)
とりあえず手元にあった茶碗の上に味噌汁のお椀で蓋をして二重に補強し、それでもまだ不安だったから台所に駆け込んで駆け戻ると分厚いガラスのサラダボールを乗せて、さらに引っ張り出してきた土鍋をズシンと乗っける。
「ぜーはーっ。ぜーはーっ。ぜーっ…」
これでそう簡単には逃げられまい。
しかし、何故に三柱の大荒魂の一柱が、居間のちゃぶ台の上に?
奴はタギツヒメに吸収され、消滅したのではなかったのか?
「由々しいことだ。学校へ、特祭隊へ連絡を…」
電話に這いよって、はたと伸ばした手を止める。
「…ふむ」
取り乱すな、見苦しい。
私は十条篝の娘。大荒魂が現れたなら、この小烏丸で今一度刺し違えればそれで済むこと、どれ程の事やある。
どっか、と姫和は、我が食卓の前に胡坐をかく。
制服なのでスカートで丸見えだが、誰も見ていないしいいだろう。
「…」
「……」
「…………」
これは、大丈夫なのだろうか。
そう、空気とか。窒息とかしないのだろうか。
(いやいやいや)
奴らはアストラル体、刀使の常識で言うなら常に写シを張っているようなものだから、酸欠で死ぬようなことは無いはずだ。大体、大荒魂が酸欠で退治できるなら願ったりではないか。
(ヒトにノロを注入して荒魂化させ、それを進化とか言っていた奴だ)
(仏心など無用、無用)
このままメシを食って、風呂に入って寝ればいい。
放っておけばいいのだ。放っておけば…
(いやまて)
姫和愛用の茶碗は一番最下層を封印している。
これでは御飯が盛れないし食べられない。食べられなければ、御飯は悪くなっていく。
母の茶碗もあるにはあるが、今は仏壇の写真の前で母の分の御飯が盛られている。まさかこれに手を付けるわけにはいかない。いかないが、そこからは炊き立て御飯の甘やかな香りが漂い出て来るから始末に負えない。
(いかん。腹が減って来たじゃないか)
姫和は健康な若者である。健康であるからには、夕飯時にはお腹が空く。
健康なお腹が健康な音を立てる。誰も居ないからといって乙女が鳴らしていい腹などない。一人勝手に赤面しつつ、姫和は覚悟を決める。
(背に腹は代えられない、色々な意味で)
我が手に太刀置きの小烏丸を手繰り、鯉口を切った上で、厳重な蓋を一枚一枚と退ける。
「感謝するんだな。私が空腹だったことに」
「我を食すか。まさか大荒魂たる我が、ヒトの腹に収まる日が来るとは思わなんだ」
「誰がお前なぞ食うか! ノロ中毒になるわ!」
「大荒魂たる我を生鮮魚と一緒にした者はお前が初めてだ。だが料理する気は満々であると見受けたぞ」
「ああ、そうだとも。おかしな真似をすればこの小烏丸で三枚に下ろしてやるからそのつもりでいろ」
「我は柊の家のおかずと成り果てるのか…」
「食い終わるまで黙ってろ。話なら後で聞いてやる。こっちにも聞きたいことが山ほどあるしな」
「話すか食べるか、何れかにせよ柊の娘よ」
「大きなお世話だ」
程なく姫和は、膳の前で「御馳走様でした」と両手を合わせる。
「我は食さぬのか」
「今度妙なことをほざいたら冷蔵庫に放り込むぞ」
「我の宿りたるこれは、母の形見と覚えたが、魚臭くなったり青臭くなっても良いとお前は言うのか」
「表に放り出して蟻に攫われるに任せてもいいんだぞ。んん?」
「恐ろしや。今の柊は鬼畜か。荒神も神ぞ。柊の今代におかれては、神として相応の扱いを求む」
では裏の畑に埋めて注連縄付きの要石でも置いてやろうかと思ったが、だんだんと時間の無駄に思えて来た。それは、聞きたいことを聞いた後でも遅くない。
「…応えろ、イチキシマヒメの成れの果て。お前は一体何だ」
「今お前が言った通りの者だ。荒神であった我が、タギツヒメに吸収されたる折、五体のノロを吸い尽くされ、そのノロとの接続回路も切断され、不要となった我の思念は吐き捨てた。その梅干しに例えれば我の失った五体は果肉、今の我は種のようなもの。まあもとより、始末に困ったタギツヒメに放り出されたのが我の出自。別に何も変わらぬ」
「お喋りな上に後ろ向きな奴だなお前は。紫様が仰っていた通りだよ」
「柊の娘よ、話に出たついでに一つ聞く」
「なんだ」
「紫はどうか。傷を負ったというが、大事ないか」
「ああ。回復は順調だ。ただ、刀使として現役に留まるのは難しいだろうな」
そうだった。
姫和は思い出す。
姫和との融和は、イチキシマヒメからの申し出であった。「紫を助けたい」と懇願するイチキシマヒメに姫和が折れたのだ。
この時、イチキシマヒメとしての意識は姫和に上書きされて消失したが、それも承知の申し出であった。この荒神の末妹にとり、紫とはそうまでして救いたい者であったということであろう。
そう思うと、紫に対してもそうであったように、このイチキシマヒメにも親しめるのではないかと思える。
「祝着。それを聞けただけでも、幽世から我をお前たちに着けて戻したタギツヒメに感謝せねばなるまい」
「タギツヒメが?」
「そうだ。お前たちが、荒神すら戻るに千年を要する幽世の果てより、無事に戻れたのは我の御陰よ」
「あれ、お前だったのか!?」
「うむ、如何にも。感謝するが良い、柊の娘よ」
姫和は、可奈美と共に幽世から戻る折、案内をしてくれた小荒魂を思い出す。
「…しかし、禍神ですら千年戻れぬものを、何故梅干しの種のお前が戻れたのだ」
「正しくは、戻れぬのではない。戻っては来れる。その為の我であったのだ」
「その為の、だと」
「ヒトが使う携帯端末の機能に例えれば、ブックマークのようなものだ。幽世の彼方に追いやられた時の用心として、タギツヒメはこの現世に道標を残した。念入りに無力化した我がそれだ。お前と可奈美が実際に戻ってきたことで、機能は実証された。それは、幽世のタギツヒメも把握して居よう」
「聞き捨てならん! じゃあ奴は戻ってこようと思えば何時でも戻ってこれるということじゃないか!」
「案ずるな。すぐに戻ってこれるのはアストラル体、つまり幽霊くらいなものであろう。刀使らが写シとして呼び出しているあれを、短時間なら現出出来る可能性はある。大荒魂として、ヒルコミタマを引き据えて戻ってくるにはそれこそ千年を要することだろう。もっとも、そのつもりは無いようだが」
「ホントか?」
「嘘ならば、大荒魂をあの世送りに出来るお前を、小烏丸付きで現世に戻したりはせぬであろう」
「…ふむ」
「それに幽世から現世が窺えるということは、現世の我らもまた幽世が覗き込めるということでもある」
「とは?」
「刀使共が挙って幽世に攻め入り、タギツヒメを追撃することも出来るということだ。その危険も、タギツヒメは承知していよう」
「…大体分かった。事は私の手には余るということがな。明日五条いろは学長に会って、仔細を報告しようと思う」
「よいのか、それで」
「是非もない。今の話、一特祭隊員のしかも予備役の私がどうこう出来るレベルの問題ではない」
「もし伍箇伝に我の存在が知れれば、我は伍箇伝の管理下に置かれ、幽閉されよう。そうなれば二度と逢えぬぞ」
「逢えぬ? 誰に」
「お前の母様、柊篝にだ」
「何、だと!?」
「申したであろう。向こうのタギツヒメの居場所は、我からも分かると」
「それは承知している。だがそれで何故母様の居場所が分かる」
「タギツヒメとお前の母が、一緒に居るからよ」
そうと聞いた瞬間、姫和は横たえた小烏丸を引っ掴んだ。
「案内しろ。せねば斬る」
「待て待て待て。慌てるな。柊篝は藤原美奈都と共に在る。如何なきゃつであろうとも、ヒルコミタマを切り離された上にあの二人を腹背に受けては勝ち目は薄い。それにどういう風の吹き回しか奴め、あの二人と敵対するつもりはないようだ」
「本当だろうな」
「本当だ、と言っても信じまい。写シを張って、その携帯端末を操作するがいい」
「操作?」
「電話を掛けよと言っているのだ。柊の実家に」
「そこの電話が鳴るだけだろう」
「いいからせよ。荒神たる我の力に驚くぞ」
「茶碗の下から出られないくせに威張るな」
鯉口を切る。それのみで、小烏丸は姫和の体内に幽世の神秘を横溢させる。
(写シ…)
姫和の身が、幽かに輝く。写シの展張完了は一瞬であった。次に、ポケットからスマホを取り出す。
市販のスマホなら電波が通じない状態になる。何故なら、姫和が写シを張れば、衣服同様姫和が身に付けていたものもアストラル体となるからだ。甚だしきは破損したりもするが、これはフリードマン教授肝煎りの特祭隊正式装備だ。写シを張った状態でも通話は可能である。
操作に右手は使わない。右手で小烏丸の柄本を握って、左手で操作するのは、イチキシマヒメが妙なことをしたらその場で叩き切る為だ。
コール音が鳴る。一度、二度、三度…
(そんなバカなことがある筈がない)
そう思いながら、もしもと思う。
もしまた、母の声が聴けることがあるのなら、と。そんな奇跡がもし起こるなら、と。
『もしもし』
だからスマホから応えがあった時には、心臓が爆発しそうになっていた。
「もしもし! 母様! 私です姫和です!」
『もしもし? 姫和? 姫和なの?』
「母様! 本当に…」
聞きなれた母の声、とはまた違う。母の姓が十条では無かった頃の、姫和と同じ年ごろであったころの声。しかしそれでも確かに、母の声だった。
スマホを取り落とすのではないかというくらいに手が震えた。
涙が溢れたが、その自覚は無かった。
重要なことを忘れなかったのは、右手が小烏丸を握っていたからだ。
「母様! タギツヒメがそちらに居るというのは本当ですか!」
『ええ。今美奈都先輩と表で遊んでるわ。でも、どうしてそれを?』
「今すぐ姫和が加勢に行きます、もう暫く…って、今なんて?」
『タギツヒメなら、お庭で仲良く美奈都先輩と立ち会ってるわ。私が知っているタギツヒメはヒトの姿をしてなかったから、少しピンとこないけど』
「お庭で、仲良く…!?」
ピンと来ない、はこちらのセリフである。
しかし、姫和の会ったあの藤原美奈都なら、本当に大荒魂と庭で遊んでいてもおかしくないと思える。
「お変わりないのですね、母様」
『こちらはまだ大丈夫よ。タギツヒメが、ここを維持しているみたいだから。だから心配しなくていいのよ』
「母様…良かった…」
姫和は胸を撫でおろす。
「そろそろ限界だ。通話が切れるぞ」
イチキシマヒメが告げる。
姫和は慌てた。まさか本当に電話がつながるとは思っていなかった。話したいことは沢山あっても、どれから話していいか分からない。
「母様、姫和は無事に現世に着きました。可奈美も一緒です」
『そう…良かった…本当に…』
「母様、姫和は…」
切れた。
聞こえるのはツーツー音ばかりだ。もう母の声は聞こえない。
「…」
声も無く姫和は、物言わぬスマホの画面に目を落とす。
通話終了、とあった。
「全く。昭和の公衆電話じゃあるまいし。十円三分で問答無用で切れるとか」
「折角なけなしの穢れを使ってつないでやったというに昭和扱い。まあ我は今や十円玉くらいの価値しかないと言うならその通りであろうがな。それより何故泣く柊の娘。母と話せて嬉しくは無かったのか」
「泣いてない」
「涙腺が緩み、涙滴が溢れればそれは泣いておるのではないか」
「泣いてないと言ったら泣いてない! 要らんことを言ったら、伍箇伝に突き出すぞ!」
「だからそれをしたらもう母の声は聞けぬと言うておろうに」
「いや決めた。明日にでも学長に会う。丁度便に心当たりがあるしな」
ちなみに便とは舞衣、正確には舞衣が乗ってきたであろう柳瀬の家の車の事である。
「止めて下さいお願いしますなんでもしますから」
「急にしおらしくなったな、結構結構」
大荒魂をも震え上がる邪悪な笑みを浮かべつつ、姫和はこう付け足した。
「まあ心配するな。お前の考えるようにはならない、多分な」