瞳を閉じれば、浮かぶのは過日の光景である。
舞う桜花の下、錬府の門をくぐった刹那は、先輩たちにもみくちゃの大歓迎を受けた。それは言うまでもなく、学長高津雪那の娘だからだ。請われて雪那譲りの一刀流を披露すると、皆大いに沸いたものだ。
まだ刹那たち家族の味方をしてくれる人達が居るなんて思っていなかったものだから、只々嬉しかった。
母、雪那への怨みを忘れられるかも知れないと、他愛もなく思ったものだ。
しかし、ある時そんな刹那の先輩の一人が退学届けを出したという。驚いて訳を聞けば錬府の生徒たちを世間が見る目も、刹那へのそれと大同小異なのだという。家族を守る為、親元に戻るのだと。
仕方がないと思った。それもこれもあの母の悪行のせいだ。私の母が済まないと謝ることまでした。
ところが、他の錬府の生徒たちはそうではなかった。裏切り者と先輩を呼び、私刑紛いの稽古で半殺しにした。その先輩が刀使としての生命を絶たれたと知った時だと思う。あの女は、高津雪那だけは生かして置けぬと、確固たる決意を胸に刻んだあの時。
(来たか…早かったわね思ったより)
瞳を開けば、眼前七メートル先の赤と緑に彩られたターゲットには、幾本ものダーツが突き立っていた。
刹那が投じたものだ。既にかなりの時間を、ここで過ごしていると糸見沙耶香にも見て取れるだろう。
「見つけた」
「見つかると思ったよ。身を隠そうにも、中学生の才覚なんて知れてるし」
あれ以来、家にも学校にも姿を現していなかった高津刹那を補足したのは、都内のネットカフェであった。大胆にも刹那は、現場と幾らも離れていない宿泊施設を堂々と利用していたのである。
ダーツゲームは、そのネットカフェの店舗施設であった。複数人数のプレイヤーが騒いでも声が外に漏れぬよう防音サッシで仕切られているものの、施錠することは出来ない。だから沙耶香が突然に入ってきたとしても、侵入を阻むことは出来ない。
しかし沙耶香の突然の侵入にも、刹那が慌てる様子は何処にもなかった。
「帰ろう」
「帰る? 人殺しの私が何処に帰るっていうの」
突然の開口一句に、平然と応じる。
「そんな場所なんて何処にもない。父さんも、錬府も私を許しはしない。だって私が殺そうとしたのは――」
「高津雪那学長。私の先生で、貴方のお母さん」
ダーツが飛んだ。
突き立ったのは沙耶香ではない。ターゲットのど真ん中だった。
「学長、ね。錬府の奴ら、私を担ごうとしやがった。あの女を取り戻すのに協力するって。冗談じゃあない。あんたもそうなの?」
「分からない。ずっと錬府には、戻ってないから」
「…ふうん。だろうね」
糸見沙耶香もまた、刹那と同じく高津雪那を裏切った者である。錬府に居場所は無かった。
「…私と斬り合ってどうだった?」
「強かった。とても中等部一年生は思えなかった」
「だろうね。チビの頃から仕込まれた。出来なかったらぶたれた。メシも抜かれた。でも一番堪えたのは、口を利いてくれなくなることだった」
「…」
「私を想ってきつく当たってるんだって言うのも居たさ。親父とかね。私もそう思いたかった。だけどある時、あの女は家に帰ってこなくなった」
左掌に連ねた三条のダーツの一つを、右手に番(つが)える。
「あの女の隣には糸見沙耶香、あんたが居た。私は悟った。見捨てられたって。だけどそれじゃあ終わらなかった。一年後あいつの隣には、あんたじゃあなくてあのタギツヒメが居たんだ」
一般的なダーツの投法ではない。直打法と呼ばれる、古式の手裏剣術に見られるそれであった。ダーツは弧を描いて飛んだと見るや、先の矢と同じ中央へと突き立った。
「これもう、親子じゃあないだろう。あの女が欲しかったのは娘じゃあない。御刀を持てなくなった自分に代わる、優秀な刀使だ。あの薄気味悪い折神紫とかいう奴に侍らせるためのね。実の娘じゃあ不足だからあんたに鞍替えしたんだ。んでそれがダメだったもんだから、折神紫に復讐か、気を引くためかかなんか知らないけどタギツヒメにまた鞍替えた。でも親子って鞍替えとか出来ないでしょ? 母から生まれれば母の娘だよね!」
一般的にダートのプレイヤーがターゲットに対峙する際、持つダーツは一矢のみであるが、手裏剣術においては二の矢、三の矢を左手に保持する。続けざまに刹那は、第二投を見事中央に突き刺した。
「父さんは会社に居られなくなった。家の電話は契約を切った。抗議の電話がいっぱいかかって来るから。そうしたら直接来て石を投げる奴も出て来た。近所の奴らは見て見ぬふりだった。このままじゃあ家にも居られなくなる。だから私は錬府に入った。私たちは人類の味方だって証明して、父さんやお家を守る為に」
その人類共が錬府の生徒を見る目が思ったのと違うと知ったのは、入学したあとだったのだが。
年の瀬の関東大災厄の首魁こそは大荒魂タギツヒメであり、高津雪那はその協力者であると、世間は見做している。錬府の生徒はその雪那の手先であると。折神朱音を始め弁明する者はいるが、その声はまだ大きくはない。
「だから私はあいつの娘じゃあないし、あいつは私の母じゃない。あいつは私たちを裏切った。折神家を裏切って、人類も裏切った。だからあいつの娘の私も裏切る」
「お母さんを、裏切る?」
「ええ。裏切るの。私は特祭隊の一員。人類の味方。人類を裏切った母を斬る。母を裏切ってね」
「そんなこと出来ない」
「出来ない? 何で。現に私は――」
「出来ない。私も先生を裏切ったから分かる。先生に今度会ったら敵同士だって言われたから分かる」
「知ってるよ。あんたノロの注入が怖くてあいつから逃げたんでしょう」
「うん」
「少しは取り繕うとかしたらどうなの! それとも裏切り者同志の私だったら分かってくれるとでも思ったの!?」
「ノロを注入されたら、人の心は無くなってしまう。大切な思い出も無くなる。友達を想うことだって出来なくなる。未来だってきっと無くなる。それが怖かった」
「無くなるんじゃない。捧げるんだってあいつなら言ったはずよ。私も言われたもの」
「…そうだね。私も言われた。紫様に全てを捧げてお仕えするんだって。ノロの注入もその為だった。逃げ出してしまったけど」
「あの女もいい気味よ。家を忘れて全てを注いだ秘蔵っ子にまんまと裏散られるなんて。あんたには感謝しておくわ。すこしすっきりしたし」
明らかな挑発が、口調に現れていた。
しかし沙耶香には、それに乗る気配がまるでない。
「私の友達がね。先生には負けたくないって言っていた」
「…?」
刹那は聡い娘であったが、沙耶香のこの言葉の意味は測り兼ねた。
「友達が言うの。私の色々な所に、先生を感じるって。任務の時も、そうでないときも、良い先生だったんだなって感心することがあるって。私はその先生を捨てて友達を取った。だから友達は悩んでいるみたい。先生のように、私に何かしてあげることが出来るんだろうかって」
「…」
「でも私、先生のようになんて何も出来てない。先生は私以外にも大勢の刀使たちを育てた。皐月夜見や七之里呼吹(ひちのさと・こふき)のような手練れも、大勢。でも私は、舞衣に守られているだけ」
「舞衣…美濃関の柳瀬舞衣のことね。次代の生徒総代って言われてる」
「うん。舞衣も沢山の後輩たちを指導してる。だから、私もそうしたい。そう思ったからここに来た」
「…?」
「私、貴方に剣を教えよと思う」
沙耶香の言葉が終わるか終わらないかの瞬間、左手のダートが消え失せた。消え失せたと見えた時には宙を疾っていた。目標は的ではない。沙耶香だった。
眉間だった。
沙耶香が何もしなければ、鏃は頭蓋を貫いていたろう。そうならなかったのは。沙耶香の右手が閃き、虚空でダーツを掴み止めていたからだ。
「ざけるな!」
つまりこの時沙耶香の右手は塞がっていた。片手で抜刀は出来ない。当然刹那は、それを狙ったのだ。傍らに立てかけた御刀から迅雷の抜刀が天地に走る――
キン!
鋭い金属音が跳ねた。
刹那の抜刀は、沙耶香を狙ったものではなかった。沙耶香が投げ返してきたダートを、これも虚空で斬り払ったものであったのである。
「私を斬りたいならそれでいい。だけど今じゃないほうがいい」
「…む」
既に沙耶香の手の内には妙法村正が抜き身であった。
もし沙耶香がダーツを掴まず、手で払うなどしていれば刹那の抜刀は沙耶香を直接狙い、より体制は不利になっていたであろう。流石の判断力であった。
「今やりあったら勝負は分からない。だけど、私は貴方に剣を教える。貴方は、私より強くなる」
「だから教わっておけ、と」
「うん」
「自分を斬ろうとしている相手に剣を教えて、自分より強くして、その結果どうなるか分かってんの?」
「分かってる」
「…もし嫌だって言ったらどうするつもり?」
「言わないで」
「は?」
「言わないで欲しい。だって他に思い付かないから。今の先生に、何が出来るのか。どうしたらもう一度先生の前に立てるのか」
「…」
「…」
「……」
「……」
「…はぁ」
刹那が、剣を引く。
「何が勝負は分からない、よ。斬られてくれるつもりなんて何処にもないじゃない。抜き合わす前にしかチャンスはないって思ったから仕掛けたのに、あっさり返してくれて。五分の立合いじゃ今の私じゃあ返り討ちが関の山。そのくらい分かるわ。悔しいけどね」
「…だけど、そうじゃなくなる」
「あんたに剣を教われば、あんたの手の内が多少なりとも知れる。私には有利になる」
「私は裏切り者。あなたが私の首を持っていけば、先生も喜ぶ」
「悪くない。いいわ、乗ったげる。だけど忘れないで。私の目的は貴方を斬ること。別に貴方から全てを教わらなくても、斬れると思ったらいつ何時だってそうする」
「それでいい。その時にはきっと先生も見込み違いを悟る。私より刹那、貴方の方が優れていたって」
「…それで私はどうなるの? どうせこれ、監視カメラで見てるんでしょ? あんた一人がここに来るわけないし、周りにはSTTが詰めてるよね」
どのみち刹那に、この上逃れるつもりはないようであった。
納刀した刹那は、柄を右に、御刀を床に横たえる。
「好きにしたらいい。殺すなり捕まえるなり、その…教えるなり」
「じゃあ、一つだけ」
妙法村正を納めたその手で、沙耶香はポケットから包みを取り出す。
「良かったらこれ…クッキー、食べない?」
一日いっこの舞衣のクッキー。多分沙耶香の今一番大切なものだけど、恥ずかしいからそれは言わないでおく。
舞衣とは、クッキーで始まった。
だから刹那とも、こうやって始めようと思った。
(クッキー、一個減っちゃうけど)
だから舞衣。早く帰ってきて。
話したい事、いっぱい出来たから。
***
(…む)
さて一方、美濃関学院。
こちらに戻っている柳瀬舞衣の年上の弟子である観世思惟(かんぜ・しゆい)は見知らぬ生徒と、ベンチの右端と左端で顔を見合わせていた。
思惟の掌には小柄と木切れが。
相手の生徒は手にはスケッチブックと、今や懐かしい鉛筆が握られている。
(中等部の生徒と覚えるが…しかし何故高等部の学舎に?)
思惟には待ち人が居る。
「紹介したい人が居る」
そう言った舞衣が指定した待ち合わせ場所が学長室に程近い、美濃関に幾つかある小庭の一つであった。生徒たちの為に幾つか設けられているベンチは羽島江麻(ばしま・えま)学長のお膝元ということもあり、利用している生徒は、普段あまり見かけない。
今日のような日は、例外と言えるであろう。
思惟と、思惟と顔を見合わせている小柄な眼鏡の女生徒と、さらにその向かいのベンチには思惟の顔見知りであるところの加守姉妹の姉の方、加守明(かもり・あかり)、三人が顔つき合わせているのだから、珍しい。
いや、顔つき合わせているという表現は適切ではないかも知れない。
何故なら加守明は目下、爆睡中であるからだ。
「…」
「…」
何となく顔を見合わせた思惟とその女生徒は、無言で自らの作品に戻った。
女生徒はスケッチブックに。
思惟は塑像に。
(このようなものであろう)
数十分の後、何となくお隣の方を見ると、お隣も思惟の方を見ていた。
(む…)
お前のを見たい。いや見せろ。
そんな風に思っているのだろうと何となく思う。何故なら思惟もそう思ったからである。
(よかろう。手慰みではあるが)
思惟が木像を置くと、中等生もスケッチブックを置く。
(ほう)
感心した。
線はあまり多くない。眠っているから目も瞑っているのに、ちゃんと明であると分かる。恐らく明を知る誰もが、これを明と言い当てるだろう。
一方の中等生も、思惟の塑像に感心したようであった。
お前やるなとでも言うように、中等生が口角を上げる。
お前もな、という代わりに思惟も、そっくりそのままに笑みを返した。
それきりものも言わずに両者はそれぞれ塑像とスケッチブックを取り、小柄と鉛筆を使い始めた。なんとなく先ほどまでよりも、指先の動きがせわしなくなっている。黙々と作品に取り組むこと十数分。両者は同時に小柄と鉛筆を置く。
「…」
「…」
中等生はスケッチブックをもいで取ると、明の手元に――この期に及んでまだ明は爆睡中である――置く。それならと思惟は、その画用紙の上に塑像を置く。これなら風で飛ぶことは無いであろう。
「ふふ…」
「ふっ…当方、神明夢想林崎流、観世思惟。御姓名を承ろう」
「私は――」
そこまで言いかけた時、
「遅くなりました、思惟さん」
と思惟の待ち人の声があった。
「舞衣さま」
「ですから、さまは止めて下さいって言ってるのに」
「そのような訳には参りませぬ。思惟が今在るは全て舞衣さまの御陰」
「もう。それを言うなら居合を教わってるのは私の方なんだから、思惟さんが先生でしょう?」
「恐れ入り申す」
舞衣は嘆息した。思惟とは最近このやりとりがだんだん挨拶のようになって来ている。
「ところで、二人はもう知り合いなのね?」
「思惟はまだ、こちらの御姓名を承っておりません」
「こちらは…」
「私は七奈。羽島七奈(はしま・なな)です」
舞衣の紹介を待たず、中等生はぺこりと頭を下げた。
「…羽島? ということはこちらは…」
「お二人には母の江麻がいつもお世話になっています」
「羽島学長の御息女であられるか!?」
「しー」
舞衣は唇の手を当てて思惟を制する。
「大きな音を出さないで。起こしちゃいますから」
そこそこの騒々しいやり取りをしたと思うが、未だ明は起きる気配がない。流石天晴な爆睡ぶりである。
「折角だから…」
舞衣は手元の鞄を探って、包みを取り出す。美味しい香りが漂ってくるから、これはお手製のクッキーであろう。
「これは私の分ね」
それを明の膝の上に置くと、抜き足差し足で教職員棟へと去っていく。思惟と江麻の娘、七奈もそれに倣った――
「遅くなったわ…あのコ達きっと待ってるわね…ん?」
それより時を置かず、所用を済ませた速足の羽島江麻学長が通りかかる。
爆睡中の明の膝には画用紙と木彫りと、それからクッキーが置かれている。
「…お地蔵様?」
小首を傾げる。
一度そう思ったら、この時の加守明、お地蔵様とそのお供え物のようにしか見えなくなってくる。
「だったら素通りも出来ないわね」
お供えしないと祟るかもしれないし。が、お供えに適した持ち合わせがないから仕方なく着ていた上着を脱いで、肩に掛けた。
「これで御利益、あるかしら」
羽島学長は上機嫌で、我が仕事場教職員棟へと歩んでいった。
「何道祖神になってるの!」
「なんじゃこりゃあああ!」
「こっちが聞きたいわ!」
探しに来た妹と明の間にこのようなやり取りが交わされたが、それはまた別の物語である。
私信
古い約束を果たしに参りました。お待たせしました。