この時点まで、益子薫に打倒沙耶香の目算があったわけではない。
(さてどうしたもんか)
糸見沙耶香の攻略法などない。如何なる刀使であってもねじ伏せ得る小野派一刀流の技に、無念無想なんていう飛び道具まである化け物だ。一方己の八幡力は大型重装甲の荒魂をカチ割るときに役立てるもので、刀使相手にはあるだけ無駄。僅か一寸皮膚を割くだけでも写シを飛ばすことは出来るのだから。
(けどまあ、すばしっこい相手に対する手段は考えては来た。タギツヒメや燕結芽にゃあ散々な目に合ってきたからな)
この時点で薫は高等部二年となっており、現場の数で拮抗し得る者は今や三年の刀使の中にも数少ない円熟の刀使だ。RPGで言う所の雑魚狩りで、稼いだ経験値は高等部二年としてもあり得ない数字となっている。
本年度御前試合本戦、選手権者中、実地の場数で並ぶ者は居ない。それが益子薫である。
「やってみるとするか」
この時点で気付く者は気付いた。
「あ、あれ私の」
「確かに」
弥々切丸の保持が、今までとは異なる。
第一試合を戦った木寅ミルヤと山城由衣は、いち早く薫の意図に気付いていた。
「横凪ぎか。考えましたね益子薫」
二人の見立て通りであった。
環視の刀使たちは目を見張った。台風を連想する、薫を目とするスーパーセルだ。
「…!」
沙耶香は迅移で飛び退く。普通に飛び退いて躱すには、弥々切丸は長すぎた。
(薫が、横凪ぎを…?)
見れば主審の紫も、沙耶香と反対側に飛びのいて難を逃れている。
当然であろう。地表に逃げ場がない。
弥々切丸の横凪ぎは、山城由衣の蛍丸のそれよりもさらにカバーする範囲が広い。間合いを外そうにも折神本邸の石舞台は一反四方。
「Hey、沙耶香ビビってる~♪」
などと拍子を付けながら、弥々切丸を肩に薫が迫る。次後ろに飛び退けば沙耶香は場外判定を受ける。即負けではないものの、度重なれば判定に不利となる。
(考えてみれば、厄介な相手)
無念無想ばかりが沙耶香の得意ではない。切り落とし技の多彩さは伍箇伝現役髄一を誇る、純粋に剣の名手である。
しかしその切り落としが薫には通じない。
弥々切丸の質量が巨大に過ぎるからだ。例え七分三分で切り落としを合わせたとしても、弾き出されるのはどう考えても沙耶香の妙法村正である。
その上迅移も封じられれば打つ手なしだ。
(待っていてはダメだ。先手を取って横凪ぎを躱して斬り込むしかない)
それを可能とするスピードが、沙耶香にはある。
(…無念無想!)
踏み込んだ。迅移だ。
正面にではない。右回りにである。
(来やがった!)
薫から見れば左側。薫の横凪ぎと同じ風向きに、沙耶香は走ったことになる。
(俺の弥々切丸と競争するつもりかよ!)
薫の横凪ぎ以上の速度で迅移し、渦巻き状に間合いを詰めて斬る気なのだ。
無謀、などではない。時化に遭った船が採る、航法の定石に似る。船が風より速く進むことは不可能だが、沙耶香なら不可能を可能としうる。
普通迅移は真っ直ぐ進むだけだ。先の高津刹那の顎は行って戻ってきたが、あれは直線×2と見るべきだ。ところが沙耶香は弧を描く迅移を平気でやってのける。そのことを薫は知っている。
(流石沙耶香、考えやがったな)
一度日本刀を振り抜けば、その切っ先の速度はマッハ0.4に達するとされる。これは22口径の拳銃弾に勝る速度である。
一方沙耶香は時速300km前後の迅移で巡航することが可能である。ワンチャン薫の反応が遅れれば、捕捉されることなく横凪ぎの内側に飛び込める。捕捉されたとしても同方向に疾走っている為弥々切丸の運動エネルギーは相殺できる筈。
(確かに斬れる…相手が俺じゃなかったらな!)
並みの横凪ぎならば斬られていた。これが、八幡力伍箇伝髄一の益子薫の横凪ぎでなかったならば。
(…! 追いつかれ…!)
場内から沙耶香が消し飛んだ。
「あ、が!」
受けた妙法村正ごと、沙耶香の身は軽々と場外まで吹き飛ばされていた。
「場外」
主審の紫が告げる。当然ながら場外の選手への攻撃は本御前試合でも反則である。もしこれが実戦であったなら、薫は速やかに止めの太刀を継いだであろう。
(本番なら勝負有りだぜ、沙耶香)
これは御前試合。ルールという制限がある。だから勝負は付いていない。
客席の幾つかを薙ぎ倒して倒れた沙耶香が再び立ち上がり、写シを張れたら、の話だが。
(…ん?)
むくり、と沙耶香が起き上がる。
驚いたことに写シは剥がれていない。
「両者中央」
主審の紫が平然と告げる。
(ちったあ驚けよ、紫様)
恐らく飛ばされた沙耶香はとっさに金剛身を展開し、衝撃を受けたのだ。
弥々切丸をまともに受けて、そんな真似は出来ない。しかし沙耶香は迅移で弥々切丸と同方向に疾走っており、少なからず威力は減衰していたのである。
(相変わらず、なんて奴だよ)
一方何て奴だ、とは沙耶香も思っていた。
(八幡力は腕力を強化する技。弥々切丸に与えられる加速力は高まる)
沙耶香もそのくらいのことは分かっている。とはいえ弥々切丸だ。その重量は沙耶香の村正の三十数倍の鉄塊である。
例えば同じエンジンでも軽いクルマの方が、加速には有利だ。太刀行きに三十数倍の不利を薫は負っている。だから迅移で逃げ切れると沙耶香は考えたのだ。
沙耶香の知る薫であったならば。
薫の見せた八幡力は、沙耶香の想像を絶するものだった。一瞬で音速の加速を、弥々切丸に与えたのである。
「フットワークってことなら沙耶香。お前のスピードは確かに凄え。けどハンドスピードなら俺の弥々切丸が上だぜ」
客席は手練れ揃いであったから、思い思いに身を躱し、誰も沙耶香の下敷きにはならなかった。もし前年度のように一般客も招き入れていたら大惨事になっていたかも知れない。
「八幡力じゃあ薫には敵わない」
「なんだ、認めんのかよ」
「うん。けど私も、薫ほどじゃないけど八幡力は得意」
伍箇伝最速迅移を十条姫和と争う沙耶香。その得意は迅移だけではない。金剛身に八幡力、簡単な透覚など、刀使の御刀技を幅広く使える非常に優れた刀使である。高等部高学年並みの錬磨を沙耶香は、中等部二年の始めにして既に備えているのだ。
「うお!」
客席からぶっ飛んで来たのは、沙耶香の手近にあったパイプ椅子だった。
受けた弥々切丸に当たって四散し、遥か上空まで舞い上がる。人間が普通に投じたならこうはなるまい。明らかに八幡力の働きだ。
(両者中央って言ってるだろうが!)
主審がこう言ったら、選手の沙耶香と薫は開始線まで戻らなければならないのがルールだ。それを沙耶香が知らぬ筈はない。だから恐らく、知っていて奇襲して来たのだ。
(えげつねえ、やるじゃねーか。ん?)
パイプ椅子から我が身を遮った弥々切丸をどけたら、沙耶香の姿は掻き消えている。
「ちいい!」
沙耶香は上空に居た。
八幡力を利用した跳躍である。八幡力が強化するのは腕力だけではない。脚力もまた強化されるのだ。刀使の自身の身長に数倍する超跳躍はこれに因る。強化された筋力によって、着地時の骨格へのダメージも減殺出来るオマケも付く。
「これなら横凪ぎは当たらない」
「しまった…とでも言うと思ったか!」
「…!」
薫の保持が変わっている。普段の順手持ちだ。
(蜻蛉の構えに、なって…)
衝撃は、薫の頭上より高く飛んだ沙耶香の、さらにその頭上から来た。
薫本来の、薬丸示現流、雲耀の打ち。
それが上空の沙耶香をまるでハエたたきでハエを叩き落とすかのように、石台に叩きつけた。
「横凪ぎはサブ。メインはこっちのほうだぜ」
薫は沙耶香の実力を把握していた。弥々切丸の横凪ぎの外から飛び込めるであろうことは予測が付いていたのだ。
誰でもが出来ることではない。伍箇伝でも可能な八幡力を遣える者は限られる。
だからこれは相手が天才、沙耶香だからこその戦法であった。無念無想で飛び回る沙耶香を補足するなど何者にも不可能。しかし空中で迅移は出来ない。飛ばせてしまうまでが、薫の横凪ぎの役目であったのだ。
(由衣の横凪ぎがヒントだったんだが、思いの他ハマったみてーだな)
山城由衣は薫の同門、示現流の遣い手で、同時に流儀を欺く横凪ぎの名手でもある。パワーファイターでありながら、スピードのある相手にも堅実に立ち回れるのはこれではないかと薫は目を付けていたのだ。
薫は衛藤可奈美のような、見た技そのまま完コピ出来る変態超人ではないから、人目を憚りながら練習のようなこともして見ていた。そんな薫らしからぬ努力の精華がここに結実しつつある。
(これで終わってくれりゃあ楽なんだが…んなわけねーか)
恐らく会場の誰もが終わったと思ったであろう。
しかし沙耶香は立っていた。
(また金剛身で受けやがったな――)
それでも、写シは飛んでいた。金剛身で受け身を取ったからそれで済んだのであって、並みの相手なら刀使生命を絶ちかねない一刀であった。
「糸見沙耶香、警告一」
主審の紫が通告する。
次に反則すれば沙耶香は敗退する。
「写シを張れ、糸見沙耶香」
「…」
言われて無言で写シを張る沙耶香の瞳は、死んではいない。
(突破口はまだある、ってか)
そりゃああるだろう。こちらも横凪ぎ戦法での試合は始めて、粗が無い筈がない。しかも相手は迅移伍箇伝双璧の糸見沙耶香と来た。
(さあて、どう来るか…ってうお!)
早くも沙耶香は動いて行った。
(真っ向からかよ!)
基本通りの迅移による真直斬り。
最短距離を奔って来る為、侮れるものではない。それ故最も警戒されるのがこれであり、当然ながら薫も警戒していた。
(びっくりするくらい芸が無いな!)
薫の横凪ぎが迎撃する。
沙耶香の迅移は驚異的な移動距離を誇る反面、その速度は二段階迅移の域を出るものではない。薫程の刀使ならば反応可能。しかも弥々切丸は長尺、その分距離を取っていたから薫は遠い。遠いと言うことは、時間がかかると言うことだ。
「やけくそか、沙耶香!」
「違う」
「…!」
踏み込んで来る沙耶香が、踏み込んで来ない。
(止まった…だけじゃねえ)
迅移で下がった。沙耶香が下がった丁度その空間を、弥々切丸が超音速で通過していく。
(下がりやがった。しかも…)
迅移で踏み込み、踏み込みを中断して迅移で下がり、下がったところから今度は、再び迅移で踏み込んで来ようとしている。横凪ぎに迎撃した弥々切丸が通過した後の、安全な空間を。
「もらった」
「う、おおおおおお!」
フェイントだ。
それも迅移を使ったフェイントであった。
現在点から目標点を高速で直線移動するのが迅移だ。常識ではそうだ。それが二度もUターンしたのだから意表を突かれないわけがない。
(非常識にも程があるだろうがぁ…ッ!)
相手は糸見沙耶香だ。常識の埒外に存在する超天才刀使だ。非常識に立ち向かうには、こちらも非常識を持って当たるしかない。
「こなくそォ!」
「…!」
沙耶香は気付いた。
吹き過ぎる筈の横凪ぎが止まった。いや止まっただけではない。逆風となって戻って来ている!
(そんなことは起こり得ない)
30キログラム、並みの御刀の30倍に達する弥々切丸の質量を、マッハで運動させればそのエネルギーは相当なものの筈。それを相殺し、あきたらず逆方向に運動させる八幡力とは一体どのようなものなのか。
(そんな、バカな…!)
試合開始3分で三度、沙耶香は妙法村正で弥々切丸を受け止めた。
右手で鍔元、左手で峰を支えて、それでも止まらず身体ごと地を滑って、ようやくに止まる。
「「…ッ!」」
両者は飛び離れる。振出に戻ったようで、そうではない。
この三分で、相手の太刀を受けたのは全て沙耶香の側である。それも一度は写シを飛ばされている。
太刀を付けたのは、一方的に薫の方であった。
「強くね?」
「思ってたのと違う…」
そんな類のどよめきが、会場を流れていた。
「迅移に劣る益子薫の分が悪い。下馬評は大方そうでしたが…」
「八幡力のパワーを、上手くハンドスピードに転化してる。驚きですね。薫さんがここまでやるなんて」
「ええ。率直に驚きです。ここまでは一方的に、益子薫の試合です」
木寅ミルヤや山城由衣といった一線級の刀使ですらこの流れを予想していなかった。大段平をぶん回す薫はあくまで対荒魂の討伐エースとして評価されてはいても、御刀試合で成績を残す刀使とは見られていなかったのだ。
(…ふふふ。皆驚いてマスね)
古波蔵エレンにとっては、予想出来ない光景では全くなかった。
(薫が練習嫌いなのは確かデス。けども実地の任務は桁違い。討伐スコアは月間ランキングの常連。弱いわけがありまセン)
瀬戸内智恵ら三年生が現役を退いた今、間違いなく薫は、長船女学園最強刀使なのだ。
「どした沙耶香。もう終わりかよ」
「…ありがとう」
「あ?」
「手を抜かないでくれてありがとう。本気で戦ってくれてありがとう。薫になら出せる。今の私の全力を」
「…何?」
「行くよ、薫」
迅移対策は上手く行った。スタミナにも余裕がある。余程の一太刀が決まらねば写シが張れなくなることはないだろう。
しかし何なのか。この言い知れぬ不吉は。
「…一念無想」
「…!?」
沙耶香は眼前に居た。何処にも行っていない。それは確かだ。
にもかかわらず背後に沙耶香が居た。妙法村正を突きに番えて。
(な…)
異常は客席からも見て取れた。誰から見てもそう見えた。
糸見沙耶香が二人、と。
(な、んだ…!?)
沙耶香が二人? いや一人は、幻か何かなのか? ともかくされたのは、弟子だという高津刹那の顎の逆、後ろから突かれ、前からも一突き。
「う…」
この試合始めての薫の迅移は、攻撃の為ではなかった。
緊急回避の為であった。突如出現した背後の謎の沙耶香の突きから距離を取る為であった。
代償は少なく無い。
後ろの沙耶香から遠ざかるということは、正面の沙耶香に接近することであった。正面の沙耶香の、突きとなって迫る妙法村正の切っ先に。
「うおおおおお!」
構わず薙ぎ払いに行った。
真っ向からだ。
村正と弥々切の競争となった。先んじた方が写シを失い、再度展張は不可能だ。
弥々切丸の大質量が先んじれば、ヒトの姿すら留め得ぬ。再起不能の可能性すらある大打撃となる。
(もし、横凪ぎじゃなかったら…)
しかし村正の突きが先んじれば、その大質量がそのままカウンターとして薫に跳ね返る。残り時間内に再度写シを張るなど不可能だ。
(慣れない横凪ぎを軸に試合させたのは、先生と一緒に磨いて来た、私の迅移)
それでも薫の得意、蜻蛉からの雲耀の打ちであったなら、こうは行かなかったろうと、沙耶香は思うのだ。
「ぐ…!」
先んじたのは村正だった。沙耶香の突きだった。
薫の写シが飛ぶ。
「写シを張れ、益子薫」
背に刃が抜けていた。致命傷の中の致命傷だった。時間は残り一分余り。もう試合中に写シが回復することはあるまい。そうなれば薫の敗北であった。
「お前もだ、糸見沙耶香」
しかし見ると沙耶香の方も、どういうわけか、写シが剥がれていた。
しかも、再び張れぬ様子である。
(何故だ!?)
弥々切丸はすんでのところで届いていない。その筈なのに。
沙耶香と、目が合った。
「く…」
「う…」
御刀を手にして以来、初めての時以来ではなかろうか。敵同士でありながら薫と沙耶香の思いは一つだった。写シよ、張れてくれ…!
主審、紫の視線が往復する。
(クソ、写シ…)
(写シ、が…)
薫を見、沙耶香を見て、二度三度それを繰り返し…
「勝者、糸見沙耶香」
決着を告げた。
***
どよめきの中、激闘を終えた両選手は互いに礼を終える。
「どっちも写シ、張れなかったのに」
「途中までは益子の方が優勢だったじゃん。判定おかしくね?」
「それよか最後の糸見のあれ、何? 分身の術?」
環視の刀使らが口々に言うのが、古波蔵エレンの耳に入って来る。
(写シを張れなかったのは両者同じ。ケド最後に突きを入れたのは、サヤサヤ。勝負を決したのはサヤサヤデス。紫サマも、そう見たのでショウ)
エレンは納得したし、薫も恐らくは、そうだろう。
(それにしてもサヤサヤのあれは…)
一念無想。そうと聞いた。
思い起こされるのは前年の事件である。沙耶香の知らぬまに沙耶香の写シのみが独行し、伍箇伝挙げての一騒ぎとなった夜光刀使事件には、解決までにエレンも一肌ならず脱いでいた経緯がある。
「おい沙耶香。最後のあれはなんだ」
一方、試合を終えた両者は未だ石台の上に在った。
「一念無想、って呼んでる。写シだけを私とは別の所に現わす技」
「現わす技、じゃあねえ。てことはお前最後、写シ張ってなかったろうが」
「うん。写シを別の場所に出すから、私に写シは張れない」
「それで俺が速かったらどうするつもりだったんだよ!」
「斬られてたと思う」
「斬られてた、じゃねえ! 俺にお前を殺させる気か!」
「本気の薫に勝つには、命くらい賭けないとダメだって思った。だから覚悟はしてた」
「そういうことじゃねえっつってんだろうが!!」
激高し詰め寄ろうとする薫の前を、紫の御刀、大包平が遮る。
「試合は終りだ、益子薫」
「…分かった。分かったよ紫サマ。けど一言言わせろよ。弥々切丸は益子の聖剣。守護獣弥々の宿る御刀だ。血で汚すわけにゃ行かねえし、それ以前に沙耶香てめーは、俺の大事な後輩だ。俺の弥々切丸で死のうとなんざ、してくれるな」
「うん。もうしない。ごめんなさい。本気で戦ってくれてありがとう、薫」
「ちっ。分かったんならいいから、早く舞衣のとこ行ってやんな。…全く、なまくらな横凪ぎで良かったぜ…」
舌打ちを残し、御前試合の石台を降り行く薫の背にもう一度、沙耶香はぺこり、と頭を下げた。
***
「気付いたか?」
「…ここは? 試合はどうなったの?」
「私の負けよ。柳瀬舞衣」
「…そう。私はあなたに勝つことが出来たのね」
舞衣が目覚めて、これが最初の会話であった。
目に入った時計を見ると、試合を終えて十数分といったところである。短いとも、長いとも言えない時間、舞衣はここで横たわっていた。
「それで、どうして貴方が?」
高津刹那は舞衣の対戦相手であった。赤の他人とは最早言い難い。
とはいえ普通、勝ち負けの後すぐ、相手選手に付き添う理由はない。その役目なら普段から舞衣と近しい、例えば美濃関の生徒で本邸に居る衛藤可奈美などが相応しいと言える。
「それで…とは?」
「貴方が私を心配する理由が無いと思うの」
「心配する理由はない。けどここに居る理由なら有る」
かた、と椅子を鳴らして刹那は立つ。
「私は紛い成りにもあいつ…糸見沙耶香に師事する身。師がやらなければならないことを出来ないなら、代わって務めるのも弟子でしょう」
牙のような鋭さの中にも丁寧さが入り混じる、これが刹那の普段の語り口であるらしかった。厳しく躾られてきたことも、反発するところが大いにあったことも窺い知れる。
(そういうところ、沙耶香ちゃんっぽいかも)
本当に師弟なんだなと、そう思った。
「沙耶香ちゃんの代わりにいてくれたのね。ありがとう、刹那さん」
「…さっきまで美濃関の奴らも居たのよ。私だけ残して行っちゃったわ。薄情だし、不用心。さっきまで貴方と本気で斬り合ってた私だけ残すなんて。良からぬ気持ちを起こしたらどうするつもりだったのか――もう行く。代理役ももう必要ないようだし」
刹那の視線を追えば、息を弾ませて、糸見沙耶香が居た。
「まい…」
「沙耶香ちゃん」
「薫に勝った。強かった」
「うん」
「負けたら会わずに帰ろうと思ってた。けど勝った。だから来た」
「うん」
「準々決勝、舞衣と戦えるよ」
「…うん」
何か言ってあげればいいのに。うん、しか言ってないじゃない。思いつつ、刹那は二人の医務室を後にする。
***
寮が一番最後になったのは、まさかまだそこには居ないだろうと誰もが思っていたからだ。
伍箇伝各校選抜の刀使達が奥義の限りを尽くしてぶつかり合う、数少ない機会が御前試合だ。安桜美炎らが知る衛藤可奈美なら、最前列で声援を飛ばしている。
それが、姿が見えない。
会場を見渡す限り何処にもその姿が無いのだ。
スペクトラムファインダーのアプリにも既読が付く気配は全くない。これはどうしたことなのか。
「…居ました。寮です」
ついに羽島七奈が水心子正秀にモノを言わせ、透覚で突き止めた居場所は可奈美の起居する刀使寮であった。御前試合本戦当日となっても可奈美は、部屋から一歩も出ていないのか。
「ところで、岩倉さんはどうして可奈美を探してるの?」
「私の探しているヒトも、多分一緒に居るんじゃないかって思うからかな」
美炎が仲良しの六角清香を伴うのは兎も角として、その清香に岩倉早苗が付いて来たのは美炎にとって意外なようであった。しかし言われてみれば可奈美と同じくシード枠でかつ平城推薦枠の十条姫和の姿は、確かに見かけていない。
この二人組を見失い、後伍箇伝を揺るがす大事件に巻き込まれたのは丁度一昨年前だ。美炎の胸騒ぎは当然と言えよう。
「羽島さんこそ、柳瀬さんの傍に居なくていいの?」
「私は…舞衣さんなら可奈美さんが居ないなら心配して探すって思うので」
「そっか」
つまり可奈美の個室の前で、美濃関の羽島七奈と安桜美炎、平城の岩倉早苗と六角清香が雁首を揃えている事となる。誰が行くかと見交わし合い、結局こういう時には何時もしびれを切らして先頭に立つ美炎がノックした。
「可奈美…? 美炎だけど」
「美炎ちゃん?」
応えがあった。
「可奈美!」
ノブを回すと、あっさりと扉が開く。
「岩倉さん?」
「やっぱり…」
早苗の探していた十条姫和の姿はやはり、可奈美と共に在った。
「御前試合もう始まってるよ? どうしたの可奈美」
「うん。知ってるよ。もうすぐ私の試合だよね。そろそろ行かなきゃ」
「そうじゃなくて! どうしちゃったの可奈美!」
「どうって…どうもしないよ」
「どうもしてるよ!」
思わず声を大に美炎は叫ぶ。
何時もの可奈美ならこんなところに居ない筈。伍箇伝各校から選りすぐりの刀技に目を輝かせている筈だ。自分の出番を今か今かと待ちかねて、試合会場最前列にがぶり寄りしている筈だ。
「舞衣の試合、終わったよ。舞衣が勝った。凄い試合だった。沙耶香と薫さんの試合は沙耶香有利って言われてたけど、薫さんホントに凄かった。一緒に見たかった。ううん、何処かで一緒に見てるって思ってた。なのに、こんなところで…」
「もう一度聞くぞ、可奈美。大丈夫なんだな」
言葉尽きてしまった美炎の後を、先客であった姫和が次ぐ。
「大丈夫だってば」
「調子はいいんだな。悪いところは無いんだな」
「心配性だな、姫和ちゃんは。普段通りだってば。そんなことより皆会場に行かなくていいの? 試合あるんでしょ?」
「あ、ヤバ。私そろそろだ」
「早く行きなよ美炎ちゃん。私もすぐ行くから」
「ごめん先行ってるね。必ず来てよ可奈美、私勝つから!」
「うん。また後で」
転げるように部屋を出て行った美炎はともかく、残った全員が気づいていた。
姫和は手にヘアブラシを持っており、つまりは姫和は可奈美の身支度を手伝っていたのだ。これは御前試合第一試合が始まってより四試合目が行われている時間にも関わらず、ほんの直前まで可奈美は部屋着のままで制服を着けておらず、つまり姫和が訪れるまでは部屋を出るつもりがなかったことを物語っている。
「迎えに来てくれてありがとう。行こう、みんな。あ、君誰だっけ。多分初めましてだよね」
「中等部一年の羽島七奈です。母がいつもお世話になってます」
「え!? 学長の娘さんなの!? 言われてみれば似てるかも…ね、眼鏡取ってみてよ」
可奈美は常通り快活で、変わったところなど見られない。
「十条さんは、どうして衛藤さんの部屋に?」
「…実は平城で予選をやってたくらいに、御本家から直接、私の端末に電話があってな」
「朱音さまから直接?」
「そうだ。可奈美の練習相手が居ないから、早く本邸に来てくれということだったが私は断ったんだ」
「朱音さまがわざわざそれを? どうして断ったりしたの?」
「私では可奈美の練習相手にはなれない。剣の位が違い過ぎる。それに気になることもあったしな」
「気になる事?」
「ああ。けどもう、それは解決した。岩倉さんが平城代表としてここに居るわけだからな」
「…それって」
準決勝の清香との一戦を応援に来ていた姫和は、決勝戦には来てくれなかった。少しむくれたりもしたものだが、決勝進出さえすれば本戦出場は決したということで、本戦で待つ姫和は、早苗が本戦に来れるなら満足だった、ということではなかったのか。
(衛藤さんより、私を優先した…?)
そう思ってもいいのか。
でも、それは何故?
「一指しの太刀は私が破る。道はまだ見えないけど、必ず破って見せる。それまでは出し惜しみして負けてなどくれるなよ、岩倉さん」
姫和のこの言葉に、思わず早苗は立ち止まってしまう。
(出し惜しみなんかじゃなくて…あれは、十条さんの為の…)
姫和の為だけに編み出した技だ。だけどその技は六角清香も木寅ミルヤも退けて、姫和への道を切り開いてくれた。
「…岩倉さん?」
「あ…ごめん。用事、思い出して…先行ってて」
「そうか。私の試合も近いんでな。先に行く」
「うん。後でね」
一度だけ、六角清香が振り向いたが、そのまま姫和や可奈美と一緒に試合会場へと続く階段を一緒に降りていく。
早苗は独りになった。
(このまま千住院力王を振るえば、十条さんとまた戦えるかも知れない)
それは紛れもなく、早苗の工夫した一指しの太刀の御陰だ。
早苗があの十条家前の野試合で姫和に負けていたなら、どうなっていただろう。姫和は平城に留まっただろうか。
そんなはずはない。御本家朱音さま自らの招へいを断る理由が姫和にあろうはずがなかった。姫和は本邸に赴き、可奈美と会う。姫和と会った可奈美は――どうなっていただろう。
(たいしたこと、ないよね衛藤さん)
少しだけ分かるのだ。待ち人を奪われる、あの気持ちが。
もし早苗が、かつての可奈美の側になってしまったとするなら――
(衛藤さん…)
可奈美に会って話さなければ。何を話すべきかは分からないけど、可奈美に寂しい思いをさせるつもりはなかった。早苗のせいで辛い思いをしたのなら、全く本意ではなかった。
(十条さんの隣はきっと、私じゃあなくて…)
きっと己は貴方のように傍に居られないと思うから、せめて心の中に残ることを望んだ。ここ一年程の早苗の剣は、ただその為に在った。衛藤可奈美に対抗してどうこう、ではない筈であった。
伏せていた顔を上げる。
そこには可奈美たちが歩み降りた昇降階段がある。急いで走り降りれば、追いつける筈であった。