歩み始めたのが何時で、何処まで歩めばよいのか分からない。
何時からか、霧の道を、ただ歩んでいた。
闇のような霧であった。
白い闇である。
我が足元が既に見えない。一歩を踏み出すのも躊躇われる闇の中、何故だが躊躇うことなく歩むことが出来る。
そこに道があることを、我が身は知っているようであった。
やがて、霧は晴れたと知れた。
歩んだ先の霧中より、何者かの姿が現れて見えたからである。
綾小路の制服、抜き身の御刀。刀使であると分かった。
「迷ったのかい。こんなところに来てはいけないよ。早くお目覚め」
「学長…ではないですね。よく似た貴方は、だれですか」
「誰でもいい。私に会ったことは忘れるんだ」
「二ツ銘則宗。御刀の銘は思い出せるのに、貴方の名前は思い出せないようです。間違いなく、どこかですれ違ってるはずなんですけどね」
一度会った人の顔を見忘れることはない。そのような訓練を受けて来たからだ。
「君は…」
「夢にまで現れる貴方です。きっとボクにとっては大事な人なんでしょう。あるいは、これから大切な人となる、誰かさん」
我が腰間を探る。
果せるかな腰には、我が御刀があった。
「折角なので、一手、お願いします」
「斬り合う気なのか。察するところ君は刀使。私は荒魂では恐らくないけど」
「先に抜いていたのは貴方の方ですよ。そのつもりで無かったのなら、一体何のつもりだったんですか」
「ふむ。何故抜いていたんだろうな。自分でも分からんが、まあいい。久方ぶりの稽古としようか」
鞘鳴りを立て、我が御刀、三条吉家が白刃を現わす。
「いざ」
「いざ」
相中段となって、目が覚めた。
(今のは…)
何であったのか。いやそんなことよりも思い出した。ここはベットの上などではない。出動だ。今現場に居るのではないか。
「折神紫の突破を許したらしい」
「赤羽刀調査隊との合流を阻止せねば」
そのような会話が聞こえてくる。
随分と長く霧の中を彷徨ったように思えて、その実我が身は立ったまま、誰も眠っていたことに気付いてすらいないところをみると、あの長い長い夢も現実にはほんの瞬きの間の出来事であったのか。
「行こう」
「行こう」
近衛隊の刀使たちと言い交し、今度こそ現実に、三条吉家が鞘走る。
***
岩倉早苗らより先に試合会場に戻った安桜美炎は、ただただ目を見張るしかなかった。
「あの、古波蔵エレンさんが…」
長船女学園の双璧、実戦に於いては伍箇伝最強の兵士とすら言われるあのエレンが、これ程までに一方的に。
しかしそれも対敵を見れば納得であった。エレンの対戦する綾小路武芸学舎学長の娘、相楽瞑の身を覆うのは通称S装備、ストームアーマー。
「き、汚い! 反則だよ!」
思わず声に出る。
それは環視の刀使たちも皆同様だった。怖いくらいの静寂に包まれるのが常の試合会場が、まるでプロレスの試合だ。
「まだやれるか、古波蔵エレン」
「あ…当たり前デース」
エレンの制服は既に、泥濘に塗れていた。
「来ましたか」
「ミルヤさん、あれいいの!? 綾小路の代表ですよね!」
木寅ミルヤとはイクサ討伐作戦ぶりの久方であった美炎だが、挨拶もそこそこに詰め寄る。
「主審の紫様が御認めになりました。これは公式の試合です」
「だからって!」
そもそもがS装備装着のメリットは第一に写シの展張回数の飛躍的な増加だ。五倍から十倍の増加が見込まれる上、簡単に剥離し難くなる。一度写シを飛ばせば終了の御刀試合なら兎も角、本年度御前試合のルールでは圧倒的な優位となる。
それだけではなく、写シが剥がれにくいということは、それこそ写シの維持限界ぎりぎりまで迅移や八幡力を連発することが出来るということでもあり、試合運びの点でも利をもたらす。
「エレンさんが可哀想だよ!」
「古波蔵エレンも条件を呑みました」
「快諾だったよ。流石はエレンさん、気っ風がいいよね」
「気っ風の問題じゃ…ていうかまさか、二人は知ってたの? S装備の選手が綾小路代表で出場するの」
ミルヤも由依も答えない。
ただ、試合の帰趨を見守る風であった。
(木寅さんも山城さんも…)
エレンの味方ではない。二人は綾小路武芸学舎の刀使であり、同じ綾小路の覆面代表刀使の味方をしているのだ。罵声を浴びる綾小路学長相楽結月の娘、瞑の。
(相楽さん…)
美炎より少々遅れて、早苗はこの光景を目にしていた。
主審の折神紫がこのハンディキャップマッチを認めたのなら、これは正式な御前試合本戦だ。とはいえ、早苗には只々、違和感しかない。
(こんなことをする人じゃあなかった)
剣は嘘をつかないし、剣に嘘はつけない。二度の斬り合いを経験した早苗には分かる。母、相楽結月がそうであったように、常に最適を選択し躊躇なく御刀を振るう、そんな刀使であった。
だから早苗には信じられなかった。瞑は試合は試し合い、伍箇伝の教えを学んで恙(つつが)ないかを確認をする場であると、よく理解している人であった。試合は結果ではなく、過程の一つと理解している人であった。だから御刀の操作技術以上のモノを試合に持ち込んで来なかった。技が勝れば勝ち、劣れば負ける。勝ろうと劣ろうと、今の己を知り、今の己を練る糧にすると理解している人であった。
簡潔な人だった。その人なりが現わす、簡潔な剣に早苗は破れて来たのだ。
(相楽さん…)
そのような相楽瞑が刀使同士の試合に過ぎぬ御前試合で結果が欲しくてS装備を持ち出すだろうか。
「エレンさんもエレンさんだよ! どうしてこんな試合受けちゃったの!? せめて自分も同じS装備で戦ったらいいのに!」
蹂躙されている当のエレンも実は、美炎と同じくそう思っていた。
(まさかそう来るとは思いマセンでしタ)
まさかの、ストームアーマーフル装備。顔半分はバイザーの下だ。
(まるでプロレスのマスク剥ぎデスマッチですネ)
戸籍上とうに生者ではない、相楽結月の娘瞑。果たしてこの世の者や否や。生死を偽っていたのか、偽物の影武者であるのか、はたまた本当に冥府から迷い出た怨霊であるのか。確認するのがエレンに課された任務の一つである。あれを引っぺがして素顔を白昼に晒したいところだが、無装備ではなかなかの難儀であった。
だからといって我が身もS装備を、などと求めて棄権などされたら元も子もなくなる。圧倒的不利であっても、試合を逃げられるよりましだ。
(なんにせよ、確かなコトは…)
いつぞやの夜行刀使のような、実体のない存在ではない。本人なのか、偽物なのか、それは分からないがあのバイザーの下は相当の手練れだ。
(頭部への守りの意識が高いデス。メイビー、素顔を晒すのを嫌がってイル)
なら、付け入る隙も出て来るはずであった。
(薫も、頑張りましタ)
(ワタシも、頑張って行きまショウ)
越前康継が、くるりと右手の掌の上で回った。柄が前、刃は後ろの逆手持ちだ。
ざわ、と環視の刀使達がざわめく。常寸の打刀の康継を逆手に持つメリットを測り兼ねたからだ。
刃物を逆手に持てば組み打ちに利がある。馬乗りになった相手に止めを刺す場合などにはこの握剣が用いられる。しかしそれは小太刀脇差等の、組み打ちに適した短い御刀を用いてもたらされる利である。二尺以上もある打刀の康継をこの構えで用いてどんなメリットがあるのか。
それだけではない。
構えが左手前になっていた。
左足左手が前、右手右足が後ろ。空手やボクシングなどで一般的なストロングスタイルだが、剣においてはそうではない。制定剣道では右足右手が前に来る。伍箇伝の教える一般的な剣もこれを陽の構えとし基本とする。
つまりエレンは陰の構えに取りかつ、後ろ手に康継を保持しているのだ。本来盾と掲げて身を守るべき御刀は相手に対し一番後ろに隠れている。
異様な構えであった。
長船一の奇剣遣いに相応しい構えであった。
「タイ捨ワタシ流、見せてあげるネ」
じり、じりとにじり寄る。
エレンの欠点を挙げるとすればスピードだ。迅移が不得手なのである。
もちろんそれは御前試合決勝レベルで決め手に不足、ということであって、伍箇伝の高等部として十分水準である。
迅移の段階が試合の勝ち負けなところもある刀使の御刀試合で、迅移を主戦力に出来ないエレンが勝ち進めるのには理由があった。
(エレンさんが仕掛けた!)
踏み込むが、浅い。露骨に浅すぎる。
フェイントだ、と早苗たちも思った。瞑もそう思った事だろう。
「…!?」
次の瞬間には瞑の写シが飛んでいた。
「ぐあ!」
瞑の悲鳴らしきものが客席まで聞こえた。それもその筈で、美炎の目には瞑の右足が折れ飛ばされる様がはっきりと見て取れた。
「なにあれ…蹴りで足斬れた…」
「…ローキック?」
「そんなの分かってるよ! だけど…」
格闘技の試合でもローキックでダウン、そのまま立てずにKOされるケースというのはある。しかしS装備を装着した刀使の足を折り飛ばして、写シを剥いでしまう威力は、常識的に考えられない。
「ありゃあ金剛身の応用だ」
「薫さん!」
いつの間にか、先程糸見沙耶香との死闘を演じた益子薫が美炎たちの隣に居た。
「金剛身? って普通、守りに使うものじゃあ…」
「エレン程になりゃあ、四肢を鋼にするのも自由自在だ。おまけにあいつは俺が居なけりゃ八幡力長船ナンバーワン。鉄の手足であの勢いでぶち蹴られたらそりゃあ、写シも飛ぶ」
金剛身が得手な刀使は、迅移が苦手な傾向にある。エレンも例外ではない。
そのエレンが御前試合の決勝常連である理由は、迅移の不要な斬り合いをスタイルとして確立しているからであった。どんなに素早く踏み込み打ち込もうとも、金剛身の上からエレンの写シを剥ぐことは出来ない。一方エレンは、相手がどんなに素早く飛び回ろうダメージを負うことは無い。ただじりじり追い詰めて行けば良いのだ。
「金剛身を攻撃に使うってのは、エレンの奴の独創だ。お前らにそんな発想が無いのは無理もねえ。伍箇伝にそんな剣は存在しねえからな」
ようするにエレンは五体を任意で、鈍器に出来るのだ。
八幡力は、明眼透覚同様、発動をさせずとも御刀を所持していればバフがかかる。筋力が強くなる。強化された筋力で、鈍器と化した手足をぶつけて来る。
考えてみるだに脅威であった。
須らく攻撃の威力は速度と質量即ちエネルギーと、そして硬度によって決する。格闘技においては小技と見られがちなローキックが、鉄パイプの殴打と化すのだ。いや八幡力によるバフが掛かっていることを考慮すると、刃物といっても良いのかもしれない。でなければ先ほどの光景は説明が出来ない。
「エレンの一番やべえところは、タイ捨流でも金剛身でもねえ、あの頭の良さだ。日頃ああだから忘れがちだがあいつは爺さんも二親も研究者だからな。発想が尋常じゃあねえんだ」
たった一蹴りで空気が変わった。
古波蔵エレンという刀使が何者であるかを、誰もが思い出した。
それは、相楽瞑もであろう。
(前足の加重を抜いてる…)
美炎たちにも見て取れる。左前から右前直立の、制定剣道に近い構えへと瞑が構えを変じていた。
ローキックがKOに繋がるケースは大体、前に体重が乗っていた場合である。己の体重で天地を固定した前足に打撃が入れば、その威力は逃げることなく余さず足に行く。しかし体重が乗っていなければ天地の固定が甘く、柳に風、足を攫っても刈ることは出来ないというわけだ。
「頭の良さならこっちも相当だよ」
「気を付けてエレンさん…」
防戦一辺倒だったとはいえエレンの写シはまだ飛ばされていない。一方瞑は一度写シを飛ばされてしまった。
「判定、微妙だ…」
「攻撃の機を掴まねば、確たる勝利はないぞ、相楽瞑」
エレンの敵も、瞑の敵も、固唾を呑んで帰趨を見守る。