すわ、遅刻失格か。
息せき切って馳せ戻った安桜美炎であったが、相手となる筈の新田弘名が、まだいない。
(えぇ…)
弘名とは面識がある。珍しい御刀のレイピアを帯びたマイペースな刀使で、とにかくのんびりした人だった。
けど、ここまでのんびりでマイペースだとは思わなかった。
エレン対瞑の試合は第四試合。美炎は続く第五試合だった。もちろん憶えていた、葉菜の顔が、斬り飛ばされたS装備のバイザーの下から見えるまでは――
それにしても「ほのちゃん、ほのちゃん」と六角清香に袖を引っ張られなければ大遅刻に気付かなかった美炎よりも、さらに遅れるとは。
もし弘名が現れずこのまま不戦勝なら、きっと次の試合で約束を果たせる。一年前の、あの約束。
(可奈美…)
衛藤可奈美の姿は、今度こそちゃんと客席に在る。十条姫和と一緒だった。
拳を握って見せる。そうすると可奈美は、頷いてくれた。
(やっぱり、元気無い)
御前試合なのである。刀使の祭典なのである。普段の可奈美なら挙動不審なくらいのテンションでもおかしく無い。
どうしてあんなに萎れているのか。
(葉菜さんも気になるけど、こっちの方も気になるよ…!)
こんなことで試合に集中出来るのか。
新田弘名は弱くない。それは美炎も知っている。気もそぞろのままに試合して勝てる相手ではなかった。
(集中しなきゃ。集中、集中…)
瞳を閉じて何度も念じている内に、ようやく美炎の相手は現れたらしい。
「両者中央」
主審、紫より声が掛かる。対面より進み出てくるのは御前試合一回戦の美炎の相手、長船選抜、新田弘名。
(…!?)
この違和感は何であるのか。
新田弘名と呼ばれたそいつは、美炎の知る彼女とはどこかが異なっていた。幾度か任務を共にした時には、感じることの無かった何か。
気迫、であるのか。
分からない。とにかく、美炎の知らぬ弘名であることは間違いなかった。
「…いけないよ」
客席の可奈美が呟く。
「紫様、何で止めないの。分からない訳ないのに」
「何かお考えがあるのだろう、紫様には」
姫和が答える。
「正面に礼」
試合となる刀使二人は正面の折神御本家の御座所に向かい礼、次いで互いに礼を交わすのが伍箇伝共通の作法となっている。なので誰もがここまでは機械的に行うものだ。
勿論美炎もそうした。
ところが、弘名はしなかった。
「あ!」
誰もが叫んだ。叫ばなかった者も居たがそれは、これを予知した可奈美や姫和クラスの極々一部だった。
「うわあ!」
試合は始まっていない。にも拘らず、水口レイピアが閃光と化した。
新田弘名は、主審の始めの合図を待たず、奇襲を仕掛けたのだ。
美炎はまだ、加州清光に手を掛けてもいない。
当然ながら写シは無い。脊髄反射だけでこれを躱さなければ当然ながら負傷、最悪生命を脅かされていただろう。
「尻尾を出しやがったな、あいつめ」
益子薫にとって同じ長船代表のチームメイト、この新田弘名も内偵対象である。
長船学長、真庭紗南より送信されて来たデータの中には「コヒメ事案」と内々に呼ばれる事件のものがあった。特別刀剣類管理局秘中の秘、大荒魂コヒメの幽閉されていた世田谷某施設の入退室記録と防犯カメラ映像であった。
コヒメは脱走した後調査隊に再度保護されることとなるが、直前にコヒメと面会していたのはこの弘名であったのだ。
「で、次なる奴のターゲットは美炎か。けど一体なんで美炎なんだ?」
日高見派と関わりの深い刀使である。会津の意向を受けての事なのかもしれない。中等部の一刀使に過ぎない安桜美炎に日高見派の古老たちが何を見出しているのか、それは分からないが。
兎も角も、口を開けばコスパ、コスパの弘名が完全にそれを無視する挙に出ていることは確かで、何の理由も無い行動ではない筈であった。
「美炎に何があるにせよ、問題は次にあいつが接触する奴、か。弥々」
「ねね!」
「頼まれてくれるか」
「ねー!」
薫の傍らより、弥々の影が消える。
(美炎の奴、どうもあの小荒魂と一番の仲良しだったらしいが…)
幽世との融和を希求する折神朱音局長にとって、大荒魂ならぬ小荒魂などと呼ばれ親しまれるコヒメは大切な存在である。決して手放せぬ切り札であり、明るみに出れば致命の事態ともなりかねない弱点でもある。
(内に錬府に会津に、自衛隊。外には馘に霞ヶ関魔城。内憂外患もいいところだぜ。それにしても…)
主審、紫は何故、弘名の反則を止めない?
もう二の突き、三の突きにまで及んでいるというのに、静観とはどういうつもりなのか。
しかしそれ以上に驚きなのは、弘名のレイピアが三度に渡って三度とも、美炎に触れられていないという事実であった。
流石に、弘名の顔色が変わっている。
刀使同士の斬り合いでは、先に抜いた方が圧倒的に有利とされる。先に写シを張っただけで肉体にバフが掛かることも、論拠の一つだ。
弘名は既に写シを張っている。
優位を手にしている筈だった。
(なのに何故?)
そう思っているのは間違いない。
「凄いな」
「うん。時々凄いんだよ、美炎ちゃん」
「時々なのか」
「う、ううん…なんていうか、集中力?」
呟くのは姫和で、答えたのは可奈美だ。
「どちらかが次の、お前の相手だぞ可奈美」
「美炎ちゃんは勝つよ。絶対負けない。どんなピンチでも、どんな相手でも」
だって約束したんだ。
何時か、もう一度立ち会おうって、あの時。
「ごめんね」
可奈美のその言葉に応じるように、美炎の唇が確かに、こう発した。
「目を覚ませっていうことだよね、弘名。本気になれって。私いつも、肝心な時に集中、切れちゃうから」
新田弘名の、最早無言で狙い定めた水口レイピアの切っ先の示す先で、美炎の右手がついに柄本を掴む。
もし弘名が本気で美炎を突く気なら、有利を手放す場面である。
弘名は突くべきだったし、突くつもりだった。
(なに…この…)
しかし弘名は手を止めていた。
弘名自身も理由は不明だった。美炎のセリフだけが理由でないのは確かだ。相対しているのはさっきと同じ美炎であるのに、なにかが異なる感覚は何であるのか。
(例えは妙ですが…)
洗い場のヤカンには躊躇なく手を伸ばせるのに、コンロの上のヤカンには伸ばせない。あの感覚に似る。
それは知識と経験から来る感覚であり、往々にして正しい。
洗い場のヤカンは熱くない。しかしコンロの上のヤカンは熱くなっていても不思議ではない。知識としてそれを知っているから触れられない。
つまり弘名程の刀使の知識と経験が、手を出すことを躊躇わせるだけの何かを今の美炎は発しているのだ。
「試合に集中出来てなくてごめん。弘名に集中出来てなくてごめん。今から見せるから。私と清光の、全力…!」
冴えた鍔鳴りと共に、紅蓮を染め抜いた鞘の内よりついに美炎の御刀、加州清光が姿を現した。
六世清光が非人小屋、今でいうスラムの橋の下で研ぎだしたとされる美炎の清光は、山鳥毛や石田正宗等と並んで欠損のある、珍しい御刀である。
欠けているのは切っ先で、一般的には、御刀の価値を下げるとされる部位である。しかし美炎はこの清光をこの上も無い相棒として、幾多の任務を踏破して来た。
「始め」
ここでようやく主審、紫が試合開始を宣言した。
写シを張っていない選手に斬り付けるという、御前試合史上類例のない反則中の反則を、紫は無視したのである。
(何を考えているんですかね…)
弘名にしてみれば不気味なことこの上も無い。
正直その場で反則負けを覚悟の行動であったのだ。しかしそうはならず、試合は継続している。
(私が安桜美炎を調査しているように、先代御本家も私を調査しているということですか)
既に己はマークされている。そして安桜美炎に何を見出そうとしているのか、それを観察されている。そう考えた方が良さそうだ。
(諜報員としての私は使いモノにならなくなってしまいそうです…ならば)
清光はゆっくりと美炎の紅蓮鞘より生まれ落ちつつある。美炎が写シを張るに伴い、周囲の気温が二、三度は上昇するかのように思われた。
(ここで使い切ってしまったほうがコスパ良さそうですね…!)
相中段、と言っていいのか。
美炎の中段正眼に対し、弘名も中段に付ける。
フェンシングを学んできたという新田弘名は当然そののフォームを用いる。片手剣の究極とも言うべきそれは、武道で言う所の右半身。右手右肩が一番前、左手左足はその後ろに隠れる。
水口レイピアの柄を握るのは、弘名の右手一本のみ。
共に常寸、二尺四寸余の清光と水口レイピアの間には、構えの差異によって大きなリーチの差が産まれる。何せ美炎の面小手胴の急所辺りには、弘名のレイピアのハンドガードしか無いのだ。
弘名は、美炎を一方的に攻撃できる間合いを得ている。
大きなメリットであった。
一方の、諸手で、臍の前に柄が来る普遍的な美炎の中段は、このようなデメリットを負いながら如何なるメリットを得ているのか。
(私は下手くそだ。可奈美や舞衣みたいなテクも。薫さんのようなパワーも姫和みたいなスピードもない)
(ここは御前試合決勝。私の技が通用するなんて思ってない。だから…)
先ず、とんとん、と美炎が、スニーカーのつま先を地に突く。それから、小さく拍子を刻んでいく。
前に、後ろに。前に、後ろに。
その度に揺らめく美炎の髪は、まるで紅蓮だ。
「相変わらず、まるでボクシングみたいだな」
「うん。いけないって言ったこともあるんだけどね」
如何なる武道の運足も、両の足が同時に地面から離れることを忌むものだ。どんな達人であっても、地に足が着いていなければ身を捌けない。踏み込むことも踏み違えることも出来ないのだ。
「けどあれが出る時の美炎ちゃんは絶好調だから!」
「確かに」
陽炎すら揺らめくか、と見える。客席に離れた姫和と可奈美ですらも感じられるのは、熱量の変化だ。少女の四肢に見合わない爆発的なエネルギーが、美炎の身体の中に凝縮されつつあるのが分かる。
それは恐らく、正面で対峙する新田弘名も感じているであろう。
(見ていますか、皆)
美炎に合わせ、弘名の身も小さくリズムを刻み始めていた。
足先は地に着けたまま、水口レイピアの切っ先が、くるり、くるくると円弧を描く。小さく、大きく。小さく、大きく。円月に、半月に。同じ円は一つも無い。
(見ていますか。これが皆の知りたがっていた安桜美炎です)
技術的に突出して見るべきものはないかも知れない。益子薫や山城由衣のようなパワーは無いし、十条姫和や糸見沙耶香のようなスピードも無い。しかし、形容し難い、何かがこの安桜美炎にはある。
そしてそれこそは、新田弘名が大切に想う人達の求めるものであるかも知れないのだ。
「もっとそれを見せろ…!」
「為せば、成る…!」
全く同時に仕掛けた。
互いが互いのタイミングを読み切っていた。
両者は達人であった。タイミングも同時なら、パワーもスピードも互していた。
差異があるとすれば弘名は片手保持であり、美炎は両手保持であるという一点のみであった。
一点のみの、大きな差異であった。
正面から最短距離を争った互い突きは、全く同じルートを通った。
当然ながら清光と水口レイピアは衝突した。同じスピードとパワーをもってぶつかりながら、両者に異なったのは発射台の差異だ
宇宙ロケットが外宇宙に達する推力を噴射しようとも、発射台の固定が危うければ迷走落下するのみ。諸手で保持することで倍の強度の発射台を得た清光を押しのけることは、片手保持の水口レイピアには不可能であった。
「「ぐ…!」」
二つの御刀が互いの刀使を捉える。
何れの写シも飛ばない。
水口レイピアは大きく逸れ、肩口の皮一枚を削いだのみ。
それをうち飛ばしたはずの清光は、水口レイピアの鍔を叩いたのみであった。
(遠い…!)
(強い…!)
ただの一合で、両者はこれがどういう戦いなのかを悟っていた。
(心形刀流、ということでしたが基本を疎かにしている刀使ではない。手の内(御刀を保持する握力の強さを差す)は想像以上にしっかりしている。鍔迫り合いになればパワー負けする…)
(突きを切り払っても間合いが深くて清光が届かない。もっと大きく踏み込まないと)
遠ければ一方的に攻撃できる弘名。
近ければ力業で圧倒できる美炎。
美炎は踏み込まねばならない。踏み込む美炎を捉えられれば弘名が勝つ。
弘名は踏み込む美炎を止めねばならない。止めそこなえば、近間では諸手で御刀を操作できる美炎に勝ち目はない。
(ならば…!)
目の肥えた御前試合の観客がどよめく。
新田弘名が仕掛けたのだ。
「うわわ!」
踏み込んでいく技ではない。しかし、続けざまだ。
突くことよりも突いた突きを引くことを意識した、ボクシングにおけるリードジャブに似る。
一つも同じ技はない。真っ向から顔面を突いたと思えば、切っ先を清光に蛇のように絡めて小手を狙う。そうかと思えば脛を狙い、そこから顎を跳ね上げて来る。
浅いが、甘い技ではない。何れもが写シを飛ばせるか、写シを飛ばせる技に繋がる技であった。
「このお!」
流石の美炎が、そのうち一つを切り払う。
(今だ!)
すかさず入り身に行こうとして、行けない。
(遠い! 遠すぎる…!)
弘名にしてみれば、もともと大きく前にしていた右足を、大きく後ろにある左足に、ひょいと引き寄せたに過ぎない。
それだけのことで、奈落のような隔たりが、美炎の前に産まれていた。
「わあ!」
躊躇っている間に再び突き立てられる。
「上手いよ、あのコ。闇雲じゃなく、踏み込むのを誘って突きを置いてる。あれじゃ簡単に踏み込めない」
「不可能ではないだろう。二足刀より迅移の踏み込みなら、或いは…」
「うん。それ姫和ちゃんだけだから。普通無理だから」
突きの戻る速度より迅い迅移なんて、姫和くらいなものだと可奈美は思う。
実は美炎が攻撃可能な部位が無いわけでは無く、例えば脛や小手は美炎の刃圏を出入りしている。
到底手が届かない程に遠く感じられるのは学んできた技術の差だ。元来フェンシングのアタックフォームは、剣道の踏み込みのように後ろ足を前足に寄せる、所謂ステップインが少ない。前に踏み込んでも、退路として後ろに足を残しているのだ。連続して踏み込み畳みかけるのには不向きだが、出たり入ったりは素早くなる。
競技としてのフェンシングには左右の動きが無い。フットワークと呼べるのはこの出入りのみであり、徹底的にこれを学ぶ。故に当然、弘名はこれに熟達しているのだ。
「ならどうするんだ。このままじゃフェンシングに完封されるぞ」
「どうして姫和ちゃんが怒るかな」
「怒るさ。美炎も心形刀流剣士。日本を代表する剣術の遣い手なんだぞ。それがあの訳の分からん西洋の剣術に一方的に負けるのは気に喰わん」
「それはまあ、私もやなんだけど…けど、遠間の剣っていうなら、日本にもあるよ」
「何? それはどんな…」
丁度姫和が言った時であった。
会場がどよめく。
美炎が、反撃したのだ。
「!?」
弘名の攻勢が途切れていた。
美炎が黙らせたのだ。
「丁度美炎ちゃんがやった、あんなだよ。投げ突きって言うんだけどね」
剣道でいう所の、左手一本突きであった。
レイピアは片手剣であり、基本右手でのみの保持である。対し本邦の剣術は須らく、手前の鍔元を右手、奥の柄尻を左手で保持する。故に突きにも諸手に右手、左手の三別が産まれる。それぞれに徳があるが、左片手での突き、所謂投げ突きは、柄の長さ分が射程に乗る特質があるのだ。
(私のレイピアより、長い…?)
当然、そうなる。
身体の何処にも掠りもしなかったその突きが、弘名の戦術を根底からひっくり返した。
(バカな。アウトレンジのアドバンテージは私にはなかったというのですか)
美炎にしてみれば苦し紛れだ。とりあえず出せる手を出してみたに過ぎない。
(あれ? 何かいい感じ?)
とか思いながら美炎は、さっきと同じような平正眼にちんまり収まっている。
自分が何をしでかしたか、気付いているようには見えない。
「…そんな筈はない!」
弘名は再び攻勢に転じた。
前にも勝る針の山が美炎に殺到する。しかし…
「雑になってる」
「行けるか」
「行ける。美炎ちゃんは見逃さない」
美炎の左腕で、清光が閃く。
(投げ突き。そして…)
突きと突きが交錯する。
一方の突きは届く。一方の突きは届かない。
さっきまで届くのは一方的に弘名だった。今度は逆だ。
「ぐ…!」
掠りもしない。当然だ。突きの捌きなら、フェンシングの引き出しは、遥かに本邦の剣術を凌ぐ。
しかし、その美炎の投げ突きが、美炎の身体を連れて来た。
美炎が突きと同時に踏み込んでいったのだ。心形刀流に限らず、本邦の剣術の踏み込みは必ず、後ろとなった足を引き付ける。結果、突きから戻って来る弘名の水口レイピアの内の内に美炎が出現していた。
「だあああああ!」
「こ…の…!」
そこからさらに美炎が踏み込む。清光の唐竹割りを水口レイピアが凌げたのは、流石弘名の剣捌きである。しかし、がっきと噛み合う鍔迫り合いで、清光を支えるのは右手と左手。水口レイピアを支えるのは右手だけ。
到底支えきれない。
「…なめる、な!」
そう。
右手だけだった。左手は開いているのだ。
その左手が弧を描いた。
「「…!」」
これには、流石の可奈美も姫和も、息を呑んだ。
環視の刀使達も等しくそうであった。
「一本貫手…!?」
目潰しだ。
二本指での貫手のように両目の視野全てを奪う者ではないが、人間片目に異物を突き込まれれば両目を閉じる。結果完全に視界を奪える。とっさにこの選択したこと自体が、弘名の豊かな戦闘経験を示すものだ。
(フェンシングとは本来、長短二振を携えるもの)
遠きは長剣で討ち、近きは短剣で刺す。千年に渡る欧州決闘道で永らく主流であったこのスタイルが片手剣のみとなったのは、決闘が禁じられ、競技に様変わりした近年、僅か百余年のことに過ぎない。
弘名は短剣を携えていない。しかし、短剣に代わる手段は用意してあったのである。
(侮りましたね。フェンシングにおいてそこは、決闘相手に止めを刺す間合いです)
まともに入った。
人差し指の付け根までが、美炎の左目に埋まった。
にも関わらず美炎の写シは飛ばなかった。
「な…!」
左目を失った事すら気付いていなかった。それほどまでに集中していた。
「だあああああ…!」
清光を受けた筈の水口レイピアの刃が、弘名自身の身体に減り込んだ。
(バカな…)
次に清光の刃だった。
美炎が力任せに、受けた水口レイピアごとねじり込んで来たのだ。
弘名の指を根元まで、右目にぶち込まれたままでだ。
確かに、致命の傷ではないかも知れない。四肢を飛ばされて猶写シを維持する刀使は確かに居る。しかし目だ。生物の急所中の急所だ。これに耐えうる刀使など存在するのか。
一方、上下左右、十字に皮膚を破られ、それでもまだ弘名の写シは飛ばない。
傷が浅いのだ。生命を脅かす程のものでなく、故に写シは維持されていた。
時間の問題だった。
じりじりと、清光は力任せに斬り割って来ていた。弘名の水口レイピアごとに。
「このおおおお!」
二本の刃に我が身を割られつつ、それでも弘名は、左指を抜かなかった。
美炎の頭蓋の裏をかき混ぜ続けていた。
「ああああああああ!」
それでも美炎は、清光に込める力を抜くことはなかった。
どっちもどっちだった。
「…なんて奴らだ…」
姫和の呻きは、この試合を見た刀使たち全ての感想を代表していただろう。
ピザかなにかのように縦横に切り分けられ、ついに、弘名の写シが飛んだ。
「マテ!」
主審、紫が割って入った。
と、いうよりも文字通りに左右に突き飛ばした。
「ぐ…」
流石に美炎は、右目を押さえた。写シは痛みまで防いでくれるものではないのだ。よろめき、膝を突いたが写シは飛んでいない。
「新田弘名。写シを張れ」
「…」
弘名が立ち上がった。
無言で、写シを張る。
(ここまでやられたのは、いつぶりでしょうか)
試合時間はまだ二分以上ある。十分取り返すことは可能だ。しかし…
(二分、持ちますかね…)
恐らくは持たない。途中で写シは消える。そうなれば試合は終わり――
「やるね。流石弘名だ」
これが指を目ん玉に突き込んだ奴へのセリフか。微笑みか。
膝を突いていた安桜美炎が、立ち上がりつつある。
(なんて奴…)
あと二分。試合時間いっぱい。
写シは持たないかも知れない。
けどそれまではまだ、もっとこの安桜美炎という刀使を体験出来る。ならば少しでも長く多くこの身に刻み付けねば。
今や弘名は確信していた。
この余すところ二分少々は必ずや、大切な人たちの、明日への標となると。
(だからお願い。もう少しだけ…)
どうかみんな、私に力を――
「始め!」
主審、紫が再開を号令する。
相中段。
弘名は右手。美炎は諸手。
試合前半、先んじて突きかけていた弘名は、動こうとしない。
一方の美炎も、さっきのように足を使わない。
試合の性質が変わっていた。美炎の投げ突きで、ロングレンジは弘名だけの間合いでは無くなっている。弘名の目潰しで、インファイトでの一方的優位は、美炎から失われている。
それでも、互い勝ち負け出来る間合いは変わらない。
遠間で突き崩せるか。
近間で斬り倒せるか。
迷っている時間は無い。一回戦に延長戦は無い。あと二分余りしか無いのだ。
安桜美炎と戦っていられる時間が。
新田弘名と戦っていられる時間が。
「「―――ッ!」」
同時に仕掛けた。
二条の突きが交錯する。
同時に見えてそうではない。弘名の突きに、美炎が投げ突きを合わせに行ったのだ。しかし清光は、水口レイピアのハンドガードに触れてあっさりと、射線から弾き出された。
「当然だな。突きが主武器のフェンシングに、突きで対抗しても勝ち目はない」
「弘名ちゃんも優位に気づいてる。もう動揺していない。けど――」
まるでバックドラフトであった。建物火災で、ドアの外の炎が、ドアを開いた瞬間、室内の新鮮な酸素を得て爆発的に燃焼するあれだ。
清光の欠けた切っ先が扉を開いた。美炎が爆炎と化す空間を与えた。
「突きの戻りを狙った? いや…」
「美炎ちゃんは決して器用な刀使じゃない。けどそれを補って余りある思い切りがある…!」
被弾覚悟で、突きに身体ごとぶつかって来たのだ。
(やはり来たな、安桜美炎!)
織り込み済みであった。空いている弘名の左腕が閃く。
「…!」
今度は、目潰ではなかった。
古式のフェンシングでは左手にある筈の短剣は無い。しかし何も持っていない手は、何かを掴むことが出来る。
「無刀取り…!?」
弘名の左腕が捉えたのは、清光の柄中だった。
本来諸手で保持している筈だが、今柄を握っているのは美炎の左手のみ。もぎ取ることは十分可能であった。
「…いや違う。本命は――」
今度は、水口レイピアを持った弘名の右手がフリーになっていた。
(超接近戦…レイピアにスペースはない。貴方の狙い通りです、安桜美炎。しかし、フェンシングにはこういう技もあるんですよ!)
ぶん殴ってきた。
水口レイピアの柄には華美な、それでいてこの事態をしっかり考慮したハンドガードが装着されている。相手の刃から手指を保護するのみが、その機能ではない。鋼のハンドガードは超クロスレンジに於いて、長剣は逆に短剣を補助するサブウエポン、早い話がメリケンサックに早変わりするのだ。
(な…)
美炎は目を見張った。
完全に意表を突かれていた。
(な…んのッ!)
美炎の右手もまた、何も持っていなかった。何も持っていない右手は、何かを掴むことが出来る。
「…!」
美炎の頭蓋と弘名のメリケンサックの間に、右掌が挟まっていた。
ガードしたのだ。とはいえ、刀身含め1キログラム以上の金属を握り込んだ拳での殴打をそれだけで殺しきれるものではない。
掌ごとテンプルにぶち込まれていた。
いや、美炎の掌の重量ごと、頭部を揺らしたと言っていい。
手ごたえは十分――怯んだ隙に清光をもぎ取れば美炎は写シを失う。
(もらった!)
捩じり取ろうと捻った左手はしかし、びくともしない。
(!?)
そればかりではない。右手で握った柄も、動かない。
「…まだ、まだ…!」
食いしばった歯の音が聞こえてきそうだった。
爛々と、美炎の瞳はまだ輝いていた。
(あれを耐えるのか…ッ!)
手ごたえは十二分にあった。しかし安桜美炎には十分ではなかった。
そう。弘名の相手は、安桜美炎であったのだ。
(何てコ…けどまだ、勝機が去ったわけじゃない!)
(やられた、流石弘名――けどここは、私の間合い!)
右手と右手。左手と左手をそれぞれが、互いの御刀ごと捉えていた。
超々クロスレンジ、今や組み打ちの間合いであった。こうなればフェンシングも心形刀流も無い。
ならばどうする。蹴りでも入れてみるか。鼻っ柱に頭突きでも入れるか。
数々の選択肢の内、両者は全く同じ選択肢を選んだ。
((八幡力!!))
右手と右手。左手と左手。腕と腕が十字となる、伍箇伝の柔術授業に無い組手である。確かな技などどっちにもあるわけがない。ならば力でねじ伏せる。
「「ぐ…!」」
それが両者の最も確かな手段だった。しかし――
(いけない。写シが――)
弘名の写シは一度飛んでいる。試合時間中持つかどうか疑わしかった。その上八幡力まで使ってしまった。そうすれば御刀を奪われるまでもなく敗北だった。
(押し込まれる…八幡力じゃあ、弘名が上か…)
長船女学園の刀使は八幡力に長ける傾向がある。弘名も例外ではなかった。
対して美炎の八幡力は決して突出したものではない。八幡力の術比べでは紙一重の不利を被っていた。
(弱気になるな。集中するんだ。集中、集中――)
捻じ伏せられていないのは、一重に美炎の天凜故であった。
美炎には確かに欠点としてのムラッ気がある。しかし御前試合の五分間現れなかったとしたならば、最強の刀使であった。
(集中だ! 歯を食いしばれ、凌ぎきれ! 約束をまもるんだ!…可奈美との、約束…!)
(お願い、写シ持って。もう少し。あと少しでいいの…)
一歩も引かない。一ミリも動かない。
「「…ツ」」
両者、ものも言わない。
壮絶な拮抗であった。
両者何も出来ず、なにもさせない。
十字に組んだまま、流れ落ちていくものがある。
夥しい、両者の汗であった。
瀑布の如きそれとともに、ついに長い二分間が過ぎ去っていた。
「それまで!」
五分経過の拍子木と共に、主審、紫が再び告げる。
御前試合第五試合は終った。
延長試合は無い。判定で勝敗は決する。
「はぁ…はぁ…」
「ぜぇ…ぜぇ…」
紫の声が聞こえぬ筈がないのに、両者とも組手を解かない。
解けないのだ。
力を籠めすぎて、両者の腕は痺れてマヒ状態となっていた。
只々、火のような呼気を吐くことしか出来ない。
そのような状態となっても、弘名の写シは飛ばなかった。一度斬られ、かつ二分弱もの間八幡力を使いながら、耐え抜いていた。弘名自身、思わぬ力だった。
一方の美炎も、八幡力で格上の相手と組み合い、純粋な力比べとなりながら二本弱もの間耐え抜いていた。美炎自身、これ程の長時間、八幡力を使ったのは初めての事だった。もしそれが出来なければ清光をもぎ取られ、その場で試合は終っていたろう。
「み、ほのさん、は…」
「…?」
「みほの、さんは…コスパ、わるいで、す…」
それが新田弘名、試合終了後の第一声であった。
「…ご、めんね…弘名のこと、わすれて、た、わけじゃなくて…」
美炎は、弘名に一番告げたかったことで、それに答えた。
主審、紫はそれ以上無言でスタッフを招いた。十字に組み合ったまま、抱擁した恋人たちのように動かない、動けない両者を解きほぐすためであった。
勝敗の判定は紫の中にはあったが、この場で告げることは無かった。判定を求める者も居なかった。
誰の目にも明らかであったからだ。
第五試合の勝者は二人居る、と。
一名の拍手が起こった。
可奈美だった。
多くの刀使達が可奈美に倣った。
敢闘を讃える拍手の中、御前試合第五試合は幕を下ろした。