「次、もう可奈美の試合でしょ。もう行きなよ」
「あ、しまった。姫和ちゃん、凄すぎて」
隣の席を慌ただしく立つ衛藤可奈美に、安桜美炎は安堵を覚える。
「すっかりいつも通りだね、可奈美」
「だから私、ずっといつも通りだってば! って言ってる場合じゃない、早く行かなきゃあ!」
「可奈美!」
転げるように駆け出していく可奈美が、呼ばれて振り向く。
見ると美炎が立って、その右拳を突いた。
この上の言葉はない。
「…!」
そうと見て可奈美も、我が右手の拳を突いて応じる。
1年前の約束を果たす、その時が迫っているのだ。
強烈な笑みを残し駆け去る可奈美に、もう美炎は不安を感じていなかった。これなら大丈夫。いつも通りの可奈美なら、どんな相手だろうと負けることはない。
それはおそらく、折神本邸に集った全刀使の認識に違いない。
伍箇伝最強、衛藤可奈美、二年連続決勝進出に死角なし。
美炎が、誰もが、そう信じた。
「よかった。丁度始まるところね」
「間に合った」
それは柳瀬舞衣と、糸見沙耶香の二人もである。
高津刹那との試合のダメージで伏していた舞衣であったが、ここに至って無理を押して、沙耶香に助けられて折神正庭試合会場まで降りて来ていた。
観客席より駆け上がった可奈美は、相手の姿を探す。
あの年の瀬ぶりの友里歩の姿は、まだそこにはなかった。
(言いたいこと、上手く言えないこと、全部千鳥に込めた)
伝わったであろうか。
伝わってたらいいけど。
歩とは本当にあれきりで、音沙汰すら何もなかった。だから気にかかってはいた。あの後、どうしているんだろうって。
もし何かでまた会うことがあったとして、かける言葉を可奈美は知らなかった。あんなことがあった後で何を話していいかなんて、産まれて十年少しの己に分かる訳が無い。
だからまた会うことが有るならこういう形が良かった。
口下手、というかかなり考え足りない自覚のある可奈美だが、剣においては大いに、頼むところがある。
千鳥に任せようと思う。千鳥の羽ばたくその先に、きっと己が想いがあるから。
「…」
友里歩はまだ、現れていない。
しかし可奈美は無言で腰間の千鳥の鯉口を切った。
ゆっくりと発刀する。次第に可奈美は、写シを纏った。
(待ってるよ。歩ちゃん)
当然ながら、会敵する以前に写シを張るのはセオリーではない。刀使技の基本中の基本たる写シであっても当然、制限時間はあるからだ。一分一秒であっても写シ展張を遅らせて、戦闘に備えたいのが人情というものである。
(私、待ってるから)
可奈美は、そんな刀使の人情をぶち抜いていた。
最早一刻も早く、友里歩に会いたかった。
会ってそれからどうするのかなんて分からない。御前試合なんだから試合する。千鳥がきっと、私の言葉を伝えてくれる。そうして、その後は――
「じゃあ行くよ」
「ありがとう、美弥」
そんな声が聞こえて、二人は現れた。
「…!?」
そう、可奈美の対面する西陣より現れた刀使は、二名であったのだ。
二人とも知っている。
一人は友里歩ちゃんに間違いはない。この試合の相手だ。
もう一人は田辺美弥(たなべ・みや)ちゃんで、歩ちゃんの友達だ。歩ちゃんの乗った車椅子を押していた。
(車…椅子?)
友里歩は、車椅子に座っていた。
田辺美弥は、その車椅子を押していたのである。
(どういうこと?)
普通に立って歩けない?
確かにリハビリ中だって噂は聞いたけど、ならどうしてここに?
そんな状態の、立って歩けない刀使がここに居るわけない。
(ここは最強の刀使の集まる御前試合で、歩ちゃんは綾小路の選抜選手で…)
綾小路の送り込んだ選手団の内訳は、主席刀使に木寅ミルヤ、次席刀使として相楽瞑。友里歩は学長推薦枠での出場であった。
(そう来ましたか、先輩…)
観覧席の真庭紗南司令は、傍らの綾小路学長を見やる。
、またも、間違いなく、この相楽結月の差し金であった。
(確かに、下手な選手をぶつけても、衛藤可奈美の相手にはならない。ならば、ということですか)
遥か上階にある観覧席からも、可奈美の当惑は見て取れた。
「「一、二の、三!」」
声を合わせて、二人は立ち上がった。
「「せーの! 写シ!」」
信じ難いことに友里歩は、写シを張った。
とはいえ直立することは困難なようで、まだ美弥は歩を肩で支えている。
「両者中央」
その立っているのも困難な歩に対し、いっそ無情な程平静に、主審、折神紫が告げる。
「ちょ…ちょっと待って!」
想像だにしない状況に、とうとう可奈美が悲鳴を上げる。
「無理だよ! 歩けないのに試合とか!」
「御刀を抜き、写シを張っている」
「そういう問題じゃ…」
「そういう問題だ」
友里歩には戦う意思がある。刃向かう心がある。紫はそう言っているのだ。
「まさか紫様、このこと知ってて…」
「旧近衛隊隊士連名の嘆願があったと綾小路側から聞いている。さて、どうする衛藤可奈美。斬り合うか? あるいは棄権か?」
「き、けん…」
もし、棄権したなら。
この先、御前試合で巡り逢うかも知れない、可奈美が待ちわびている刀使たちの顔が浮かんだ。安桜美炎を筆頭に、柳瀬舞衣や糸見沙耶香ら旧知の刀使、今際乱世や相楽瞑ら、未知の刀使。そして比翼の十条姫和。その何れもが――
(私では、稽古相手には不足だ)
(本気を出した可奈美には一本も取れない)
(とてもじゃないけど、私じゃあ――)
何れもが背を向け去っていく。
こんな筈じゃなかった。
勝つとか負けるとか強いとか弱いとか、本当はそんなのどうでも良くて。私はただ、剣が好きで。だから剣が好きな人が好きで、だから刀使やってるコが居たらそれだけで嬉しくなって。
夢中で走った道の先がこんなにも細く、寂しいだなんて思っても見なくて――
「歩! 放すよ!」
「うん。ありがとう」
支えていた美弥が離れる。
歩は――倒れない。離れた美弥の代わりに歩を支えるのは、歩の御刀、了戒(りょうかい)であった。つまり歩は、我が御刀を杖と突いて、やっと可奈美の前に立っているのである。
「可奈美ちゃん…!」
沙耶香は、舞衣の震える声を聞く。
遠目の沙耶香にも目に見えた。可奈美は、おののいてしまっていた。
我が二本の足で立つことも出来ない相手に、大荒魂、タギツヒメにすら一歩も引かなかったあの衛藤可奈美が恐怖におののいていた。
「可奈美ちゃん! 可奈美ちゃん!」
もし沙耶香が抱き留めなければ、舞衣は孫六兼元を振りかざして、可奈美を助けに乱入していたに違いあるまい。
「卑怯だ…」
安桜美炎の唇から、思わずその言葉が漏れた。
「卑怯だ。卑怯だ…卑怯だ!」
可奈美が戦える訳がない。剣が好きで、刀使が大好きで、友達が大好きで、そんな可奈美があの気の毒な友里歩に手を挙げることが出来る筈がない。卑怯だ。可奈美の大好きなものに付け込んで、そんなの卑怯だ…!
「始め!」
可奈美の友達の、そのような声が聞こえなかった訳でもあるまい。
それらを無視し、折神紫は試合開始を宣じた。
これより先、折神家本庭中央石台の内には二種類の刀使しか居ない。
勝った刀使と、敗北した刀使だけだ。
「歩ちゃん…」
止めようよ。
こんなの試合じゃあないよ。ベストの状態でやろうよ。きっとその方が楽しいよ。互いの実力を全部出し合ってさ。
「…可奈美さん。私、頑張りました」
久しぶりに聞く、友達の声であった。
喧嘩した友達だった。
(喧嘩は嫌い)
(友達は好き)
だから歩とは、あのままにしたくなかった。
「一人で、立てるようにりました」
了戒を杖に、歩が進む。
その進んだ分を、可奈美が下がった。
「こうして一人で、歩けるようになりました」
歩が進み、それだけ可奈美が下がる。
(無理だよ…試合なんて出来っこ…)
だってほら、こんなに、歩くのだってやっとで…
「こうして、写シも張れるようになりました…!」
如何なる強敵を前にしても。如何なる困難を前にしても、一歩も引くことのなかった可奈美が、一方的に後退していた。
かつて幾度も可奈美が相対した大荒魂タギツヒメですら一度も為し得なかったことを、友里歩は成しているのである。
「可奈美さん…」
歩が進む。可奈美が下がる。
「可奈美さん…!」
歩が進む。可奈美がまた下がる。
「衛藤可奈美!」
誰かの声が聞こえた。
(姫和ちゃん…?)
聞き間違う筈もない、十条姫和の声だった。
「衛藤可奈美! よく見ろ! 立ち向かえ! お前の相手は、今までのどんな相手より強い!」
「…!」
まるで朝、帳を引くかの如き姫和の子でだった。
(強い…)
歩ちゃんは強い。
例えば我が身が歩むこともままならぬこととなって。
習い覚えた剣の全てがままならぬ身となって、剣で立ち合うことなどもう出来なくなって、そうしたらどうなるのかなんて想像も出来ない。目の前が真っ暗になって、立ち竦んでしまうかもしれない。
進むことが出来るのか。生きていくことが出来るのか。挑むことなど思いかけるだろうか。
(凄いよ)
立ち止まってしまうかもしれない。動けなくなってしまうかもしれない。
でも歩はそうではなかった。
こうして、伍箇伝最強と呼び声高い己に向かってきている。
(歩ちゃんは凄い…歩ちゃんは…強い)
求めて強くなったわけでは無かった。可奈美はただ、剣が好きで。好きだから考えて、工夫をして、一杯立ち合って、そうしたらいつの間にかここに居た。
(強さなんて欲しくない)
言葉にして思ったのは、この時が初めてであった。
今まで感じていたモヤモヤしていたものが、それで晴れた。
好きで、剣をやっていたらいつの間にか相手が居なくなって、剣が出来なくなって、それは多分可奈美が強くなってしまったからで。
だから剣を止めてしまっていた。これ以上皆から遠く行きたくなかったから。
(強さなんて要らない。そう思ってた。けど…)
この、強さは。
友里歩のこの強さは。
(こんな、強さが…)
このような強さが在るとは。
(どうしたら、そんな風になれるの…)
(どうしたら…)
こんな強さなら欲しい。
そう思った。
強くなりたいと思ったことなど、可奈美には無くて。
だから、初めての気持ちだった。
「歩ちゃん…!」
「可奈美さん、私…」
可奈美は下がり続けて、歩から距離を開き続けていた。
だから二人の間は少し離れ過ぎていた。
下がり続けた可奈美を追って、もう一歩を、友里歩が踏み出そうとした時それは起こった。
「「あ!」」
脚力だけでなく、歩は腕力も衰え果てていた。
萎えた足を、了戒だけでは支え兼ねたのだ。
(いけない…!)
杖と突いた了戒が滑った。
会場の誰もが思った。
友里歩は転倒する。
それは主審、紫もだった。マテの一声を掛けるより先に紫は、歩を支えるべく走った。
しかし紫より迅く、歩を支えた者が居た。
可奈美だった。
「歩ちゃん…!」
「可奈美さん、私…私…」
「分かった。分かったから…!」
紫より速く、衛藤可奈美は諸手で、友里歩を抱き留めていた。
渇いた音をたてて、千鳥は石台に滑っていき、やがて止まった。歩の身体を抱き留める為、可奈美は、千鳥を捨てたのだ。
当然、写シは失われている。
一方、歩の手に了戒は残っており、写シは飛んでいなかった。
「衛藤可奈美、写シを張れ」
主審、紫はそうと見て取り、命じた。しかしその言葉に従うには、今一度千鳥を拾い上げなければならない。
可奈美はそれをしなかった。
(こんなに…こんなに小さく…)
紫の言葉は、聞こえていなかったかも知れない。
例え聞こえていたとしても、抱き留めた歩の、消え果てるのではないかと思われるほど痩せ衰えた身を、手放すことなど可奈美には出来なかったろう。
(何を迷う。想定されていたことだ)
主審、紫は、一瞬の逡巡の後、宣した。
「勝負あり。勝者、東、友里歩」
前年度御前試合、決勝選手権者敗れる。
衛藤可奈美敗退の報は、伍箇伝全校を震撼せしめた。