沙耶香の分身は、会場以外の複数個所をも襲っていた。準々決勝より設けられた各選手専用の控室も標的となっていた。
第三試合までの日程を消化して、これを利用していたのは安桜美炎と衛藤可奈美の両選手権者のみである。
「下がってください、美炎さん。ここは私が…」
言いながらも、田辺美弥に分が無いことは美炎の目には明らかだった。
美炎はこれから第四試合を親友、歩と戦う大事の身である。庇おうという気持ちは分かるが、相手は分身とはいえ、錬府学長高津雪那の秘蔵っ子と囁かれた、伍箇伝屈指の天才である。
美弥はかつて都圏の警衛刀使として折神邸に友里歩と共に駐留していた際、都圏常駐の沙耶香とは交流の機会を得ており、力の差は理解している筈だった。
それでも盾くらいには、というのか。
「…私が隙を作ります。美炎さんは逃げて」
白刃を抜き合わせつつ、言う声は震えていた。
(美弥さん、どうして…)
昨日初めて言葉を交わしただけの美弥が美炎の傍に居るのは多分、たんに歩の傍には可奈美が付きっ切りで居るからだ。なら己も、可奈美と共に歩と一緒に居ればいいだろうとは、美弥は考えないようであった。
分からなくもない。可奈美と歩の二人は、姫和や舞衣や、もちろん己とも違う種類の大切な関わり合いなのだということくらいは。多分、歩と美弥よりも新しいその関わりあいを、美弥は大切なものと捉えているようであった。歩を可奈美と二人きりにしてあげようと、考えるようであった。
分からなくもない。美炎も同じ気持ちであったから。
(ああ、そうか)
きっと美弥も分かっているのだ。
美炎が同じ気持ちであると分かっているのだ。
だから美炎の傍に居るのだ。美炎を守るのだ。
「ううん。逃げない」
紅蓮染めの美炎の鞘より、加州清光が白刃を現わす。美炎が写シを纏った時、選手控室の空気全てが陽炎の如く揺らめくかと、美弥には見えた。
(な…なにこれ)
室温が、それと分かる程上昇していた。
熱源は明らかだ。
「見ていて。田辺さん」
燃えている、と比喩でなく、美弥は思った。安桜美炎が纏う写シは、その名の通り紅蓮の炎に似る。
沙耶香の幻が、中段の切っ先を美炎に指向する。
脅威と認めたようであった。
対する美炎は――
(…上段!?)
上中下段は基本の構えだ。中等部三年にして既に一線級刀使の美炎が使っても不思議はない。とはいえ公式戦で美炎が上段構えを見せた例は知られていない。
それを、よりにもよって、幻影とは言え糸見沙耶香の姿に用いたことに美弥は驚いたのだ。その迅移のみならず、切り落としを軸とした剣の技においても沙耶香は天才であった。
対して上段構えは、面を振りかぶって終えているという苛烈な勢が特徴であるが、当然出す技は面の派生に限られてくる。つまりが、単純になる。切り落としの遣い手にとって、与しやすい構えとなってしまうのではないか。
案の定、沙耶香の構えが変じる。脇構えだ。一刀流基本の、切り落としの備えである。そうと見て美炎は…
「いくよ!」
堂々、と言うより馬鹿正直に過ぎる。タイミングを計っている沙耶香に、わざわざ行くぞ、と教えるとは。
(斬られる…!)
美炎が斬り下ろす。沙耶香が全く同時に斬り下ろす。
全く同時に斬りながら、構えの関係上、美炎が速く、沙耶香がやや遅い。このやや遅い、が切り落としのジャストタイミングである。遅れて来た沙耶香の斬撃は頭上まで迫った加州清光を弾き出し、一方的に美炎を斬る。
その筈であった。
(え…!?)
加州清光がまともに脳天をカチ割った。妙法村正は大きく軌道を外れ、消失した。元より現れた沙耶香も村正も、幻の如き存在であった。
(棒みたいに斬られた? あの沙耶香さんが?)
沙耶香がミスを犯したのか。小野派一刀流の糸見沙耶香が。
ならば安桜美炎、なんという幸運なのか。
美炎と知り合って間もない美弥は知らなかった。同様なことは、同じ一刀流系、北辰一刀流の刀理に明るい柳瀬舞衣との、美濃関学園決勝に置いても起こっていたということを。
(今の、美炎さんなのに、美炎さんの技じゃなかったような…)
安桜家伝の秘密は内々の者しか知らず、美弥に計り知れる筈も無かった。それでも一つ分かったことがある。
美炎は後先の技に相性がいい、ということだ。
「怪我、してない?」
「え、ええ…」
あまりの鮮やかさに、美弥は言葉尽きてしまう。
「良かった。じゃ、私可奈美が待ってるから行くね」
折神正庭は大混乱となっているのは控室のモニターからも見て取れる。試合が行える状況ではあるまい。
それにこれから戦う相手は衛藤可奈美ではない。友里歩だ。
そんな指摘を忘れる程に、強烈な微笑みであった。その微笑みをそのままに、抜き身の加州清光を引っ提げ、美炎は控室を後にしていた。
***
美炎の微笑みに美弥が立ち尽くしていた時、友里歩もまた、途轍もないものを目にしていた。
衛藤可奈美の手に握られているのは、その佩刀、千鳥ではない。一瞬前まで糸見沙耶香の幻が握っていた妙法村正であった。
「む…無刀取り…」
柳生新陰流にそれが存在するのは歩も知っていた。それを、目の当たりにしようとは。
我が御刀を失った沙耶香の幻は、文字通り幻と消えるより他無かった。
「ふう…」
同時に可奈美の手の中の村正も消え失せる。許より、沙耶香の写シに過ぎぬ存在である。刀使より御刀を取り上げれば、写シは消えて失せる道理であった。
実は沙耶香に対しての無刀取りはこれが初めてではない。先の折神紫暗殺未遂事件で、十条姫和に連座して鎌倉近傍に潜伏していた折、襲撃してきた沙耶香に対し全く同じ技を見せている。
(上手く行った。歩ちゃんを守れた。けど…)
そんな空っぽの技じゃあ何も斬れない。そう言ったはずなのに。
その可奈美の言葉を、歩に伝えたはずの沙耶香なのに。
(それを、歩ちゃんの前であんな…)
一度取られた技を、全く同じに繰り返すなんてどうかしてる。まるで取ってくれと言わんばかりではないか。
(それとも…)
共に戦った去年の年の瀬、冥加刀使として敵となった歩と、沙耶香は戦っている。歩と可奈美に伝えたい事が何かあったのか。幻と現れ幻と消えた沙耶香に問うことは出来ない。
だが、代わって応えてくれそうな者には、心当たりが可奈美にはあった。
「歩ちゃん、ちょっと預かってくれないかな」
「…え?」
歩は眼を見張る。
可奈美が差し出したのは、その佩刀、千鳥であったのだ。
「けど…」
歩が抜いたところで写シは張れない。了戒以外の御刀は、歩にとって無用のものだ。これから試合に臨む歩にそれを持たせてどうするつもりなのか。
「…まさか、可奈美さん」
「うん。たぶん、そのまさか」
歩は、息を呑む。
「…分かりました。預かります。可奈美さんの強さを」
この時は知る由も無かったが、可奈美は我知らず、本当に大切なものを、本当に可奈美を大切に想うひとに託したていたのである。
「いこう。美炎ちゃんが来る」
既に高い日の光を浴びてなお赤々と、紅蓮の炎を帯びたかと見えた。安桜美炎が、混乱の折神正庭にその姿を現す。
***
柳瀬舞衣、糸見沙耶香両選手は自力で立って石台を降りることが出来なかった。
二つの担架が用意されたが、使用されたのは一つのみだった。沙耶香も舞衣も、離れたがらなかったからだ。
担架を持った刀使勢はこれを察し、一つの担架を四人で保持したのである。
凄絶な結幕であった。
「負傷者は! もう怪我人は居ないか!」
「誰か! こちらにも担架を!」
突如襲来した多数の沙耶香の分身による混乱は未だ収拾を見ていない。
折神本邸が急襲されるのは初めてではない。試合中の当の糸見沙耶香や柳瀬舞衣らの主導した鎌倉特殊危険物漏洩問題以来、相応の訓練は行われてきている。とはいえ、糸見沙耶香による襲撃を二度に渡って受けることになるとは、誰の頭の中にも無かったであろう。
(中止すべき…か)
日程は中止し、実態被害を確認するのが妥当に思われた。
(妥当です、紫様)
上覧席の真庭紗南司令もそう、視線で語った。
紗南と折神朱音の傍らは、古波蔵エレンと五条丹穂の二人が固めていた。沙耶香の分身は、紗南と朱音をも襲ったのである。二人が駆けつけなければ壊滅的事態に陥っていたかも知れなかった。伍箇伝の頭脳であり、即ち最大の急所である二人を直ちに護衛した両名の功績は大きいものと言えよう。
その馬庭司令の視線が、不意に紫から逸れた。
エレンと丹穂の視線もだ。
(…!)
紫もその、高熱源体に気付いた。
馬庭司令、いやこの折神正庭にこの日あった全員の視線を集めつつ、安桜美炎が、抜き身の加州清光を引っ提げ、紫の立つ石台へと歩み来る。
既に写シを張っていた。
(むう…)
スケジュール通りなら、御前試合第二日、第四試合は安桜美炎と友里歩の試合である。しかし今や折神邸は大混乱の内にある。試合を続行出来る状況にはない。
試合中止を告げるべきか。
(今の、安桜美炎に?)
話して分からぬ美炎ではない。紫もそれは知る。が、「今の」美炎に対してそれは?
紫は迷った。
迷ううちに、さらに状況は混迷を増した。
対面より、友里歩が現れたのだ。
歩の車椅子を押すのは、衛藤可奈美である。
(…む)
そうと見て、美炎はさらに、赫々と燃えたつかと見えた。
(分かっているのか、安桜美炎は)
試合の相手は、衛藤可奈美ではない。友里歩だ。衛藤可奈美は敗者であり、友里歩こそが勝者なのだ。御前試合第二日で、可奈美と戦うことは出来ないのだ。
初戦のアクシデントで、可奈美は写シが張れなくなっているのだ。御前試合出場選手権者の第一要件すら満たしていない。
現に可奈美は佩刀、千鳥を差してはいなかった。
(いや、これは…)
そのようなことは分かっている。
分かっていてここに立っているのだ。御前試合第二日、第四試合の石台に。
でなければ、その瞳に宿る炎も、唇に浮かぶ微笑みも説明出来ない。
(どうする。退場させるか。それとも…)
このまま歩と試合をさせる?
紫のみならずこの場の誰もが困惑していた。試合どころではない、試合など出来るわけがない。怪我人も、斬られて失神している刀使もいるのだ。それなのに安桜美炎は何をしているのか。友里歩と衛藤可奈美は何のつもりなのか。
だが、そんな状況故に制止出来る者も居なかった。
誰にも止められぬまま、歩と可奈美は、美炎の待つ石台に立つ。
「むう…!」
さしもの紫も、表情を歪める。
その瞬間、それほどの気迫が、安桜美炎から叩きつけられていた。
「ほのちゃん…」
この時、共に居た十条姫和と岩倉早苗は、我知らず漂い出た六角清香の、友の名を呼ぶ声を聞く。
その清香の肩に手を置く者が居た。今まで何処に居たのか、調査隊の同僚、七之里呼吹であった。
「あ…」
清香の肩に手を置いたまま、呼吹は我が胸に吸い込んだ息を、声とした。
「負けんじゃあねーぞ! 美炎ぉ!」
かつて、コヒメ事変の際、呼吹は行きがかりで美炎と一対一で戦っている。
完全な私闘であったが、これに勝利しなければコヒメの保護は無かっただろう。美炎が呼吹を止めたのである。
その呼吹の声が届いたか。
美炎が応えた。言葉は無く、ただ我が左拳を突いて掲げる。
一方、歩くこともままならず、担架で搬送されていた沙耶香と舞衣が、四人の搬送係員に訴える。
「お願い、もう少し…」
「もう少し、ここで…」
二人は声を揃え、四方で担架を持つ四人は顔を見合わせ、頷き交わす。酸素吸入器が運ばれ、二人はここに留まって手当を受けることになるようだった。
「歩ちゃん」
「はい!」
可奈美の肩を頼りに、友里歩が車椅子から立ち上がる。
「いくよ歩ちゃん。せーの、」
「「写シ!」」
御前試合第二日、第四試合の選手権者両名が、ついに写シを張って相対する。
安桜美炎と、友里歩。
二名の選手と主審、紫以外に、石台に立つ刀使が居る。
(衛藤可奈美…)
徒手空拳の衛藤可奈美が友里歩と並び、安桜美炎と相対している。
似たようなシチュエーションは昨日もあった。木寅ミルヤの進言で、第一試合は三対三の集団戦闘に変更している。あの時は、ミルヤは紫の許可を求め、紫は許可を出した。
今は違う。衛藤可奈美は許可無く御前試合の石台に上がっている。写シ展張随時可能という選手権の第一要件を満たさぬままに。
だいたい紫は第四試合の選手を呼んでも居ないし、呼ぶつもりも先ほどまでなかった。そも第四試合をするつもりすらなかったのだ。
(如何致すべきか――)
やるのか。やらないのか。
紫の考えの定まらぬうちに――
「いくよっ!」
安桜美炎が地を蹴った。
(待たんか、安桜…!)
可奈美がまだ石台に居る。試合が出来る状況ではない。当然ながら紫は阻もうとしたが、半歩及ばない。
(…!?)
選手の動きは見ていた筈であった。歩にも、美炎にも注意を払っていた。流石に勝手に斬りかかるとは思わなかったが、それでも間に合わない筈がなかった。
だが間に合わなかった。
何故か。
(予備動作が掴めなかった…?)
原因は、我が迷いか。それとも…
ともかく美炎はぶっ飛んで行った。相手は可奈美――ではなかった。歩だ。準々決勝の相手で、写シを張っている歩を美炎はきっちり狙っていた。
(試合の相手は…友里歩さん)
気が触れたのかとも思える美炎の暴挙であったが、当人は当人にしか不明な次元で、状況を把握していた。
(可奈美じゃない。そんなこと分かってる)
御刀、了戒を杖突いて突っ立っているままの友里歩の脳天を真っ向からぶち割ろうという加州清光の柄中を、何者かが叩いた。
「…!?」
柄中、とは文字通り柄の真ん中だ。柄本を右、柄頭を左の手で保持する御刀のその真ん中を掴んで捩じり取るのが、柳生新陰流無刀取りの技の一つだ。かつて糸見沙耶香の村正を取ったのも、この技であった。
(可奈美…!)
何となく、そんな気が美炎にはしていた。
(ここに行けば、来てくれるかもって、思ってた…!)
そりゃあ、思っていてもそんなわけないって美炎も思ってはいた。
それが、今朝の早くに試合が始まった時には来てくれるかも、くらいになった。
一試合目で姫和が馘から取り戻した写シで二試合目、岩倉早苗が勝利し、三試合目で舞衣と沙耶香が凄い試合をした後には、きっと可奈美も同じ気持ちだと思った。今すぐ可奈美と試合がしたい!
可奈美もそうだといいなと思ってここに来た。
そうしたら本当に、可奈美は来てくれたのだ。
(やっぱ、可奈美は私たちの夢だよ…!)
去年の春、美炎に何も言わず、何処かへ飛び去ってしまった可奈美は、写シが張れなくなってしまっているのに、もう刀使ではなくなっているのに戻ってきた。
美炎の待つ、御前試合の折神正庭へと。
***
可奈美は、驚いていた。沙耶香の時と同じように無刀取り出来ると思っていたのだ。千鳥を預かってもらっているから身軽な筈だし、第一いくよと前置きがあって、本当に来たのだから当然取れるはずだった。
いや、それより。
(歩ちゃんが危ない。そう思ったら…)
身体が動いた。歩ちゃんの盾になって斬られよう、写シが張れなくたってそれくらい出来る、歩ちゃんを守らなきゃ。そんな想いすら置いてきぼりに、気付いたら写シも張れないのに出しゃばっていた。
昨日もそうだった。歩が倒れると思った時には身体が動いて終わった後だった。極端な話、心を置き去りにして、身体が動いていた。
その結果、放り出した千鳥には嫌われてしまったわけだが…
(こんな強さなら欲しい。あの時、そう思った)
可奈美が知る強さとは違う強さ。
(剣は大事。千鳥は大事)
可奈美が一番に思い浮かべる、一番大切なコトだ。でもあの時、そんなに大切な千鳥を投げ出すことにひとかけらの躊躇いも無かったのは何故?
試合が、剣が嫌になりかけていたから?
それは、今もそう?
(分かんない。けど今は…)
向き合っていたい。初めて欲しいと思った「強さ」と。
そんな可奈美に、何を見たか。
この時、主審・紫が再び、上覧席の真庭紗南司令を仰ぎ見る。
馬庭司令の同意を求めたのだ。
(どうせ止めたって聞かないくせに)
それでも止めなければ立場と言うものがある、と思ったところで、「学長、学長」と傍らを守っていた古波蔵エレンが呼ぶ。
「薫から伝言ネ」
「なんだ」
「会津が来てる、と」
「――…」
下を望むと、確かに目立つスカジャン姿が在る。会津の一党と見做されている、稲河暁に間違いはない。それが、鳥喰優稀と新田弘名を従えている。
(安桜美炎が目当てか)
彼らが何を見定めるのか。それによってこちらも指針を見定めることが出来る。
目下会津、長船閥の軋轢は、伍箇伝最大の内患である。それに解決の糸口を見いだせるというのであれば――
傍らの折神朱音と顔を見合わせた後、馬庭司令は、肩を竦めてみせる。
同意と見て頷くと紫は――何もしないし何も言わなかった。
試合開始を宣言しなかったのである。
つまりこれは試合ではない。
試合ではないからルールは適応しない。ルールを逸脱したからといって、試合を止めたりはしない。例え衛藤可奈美が友里歩の加勢をしたからといって止めることは無い。言外にそう言ったのだ。
試合ではないが、紫は折神の前当主であるからには、御前試合の石台の上で刀使の矩(のり)を外れる行いがあれば咎める。
そう心得て決闘せよ。そう言っているのだ。
それにしても、何と奇妙な決闘であることか。
美炎は可奈美との決着を求め、可奈美はそれに応えている。ところが加州清光の欠けた切っ先は可奈美ではなく友里歩を向いており、可奈美は御刀すら持っていないのだ。
(そういえば私、なんで友里さんを攻撃したんだろ)
試合の相手は友里歩。分かっているのだ。ここには可奈美と戦いに来たし、可奈美が来なければ、即ち歩だけが来ているようなら戦わないつもりだった。だが何故だろう。歩に太刀を付けることは、可奈美に太刀を付けるのと同じことのように感じられたのだ。
見れば、歩は二振りの御刀を持っていた。杖突いた一振りは歩の了戒、そしてもう一振りはまごうことなき、可奈美の御刀千鳥だ。
そのためだろうか。歩に向かったにも関わらず、確かに美炎は可奈美を斬り、可奈美に阻まれた。そう感じられる。
そんなことがあるものだろうか。
(私、バカだから、考えたって分かんない。だったら――)
とん、とん、と美炎がシューズのつま先を突く。
それから、ぴょんと両足で地を蹴ってジャンプ。それを何度か。
まるでアップかストレッチだ。白刃を抜いた歩と可奈美を前にしてやることでは有り得ない。それでもそれをやる美炎は、まるで我が四肢、我が肉体が今どう在るか確かめているようであった。
もう一度小さく垂直飛び、着地と同時に、ピタリと構える。
中段正眼――
剣道などのそれと比べ、やや歩幅は広く、低い。古式、心形刀流の伝える中段。
美炎の最も親しむ構えであった。
「来るよ、歩ちゃん」
「はい」
可奈美と歩が呟き交わす。
それが合図となったか。
美炎が地を蹴る。今度は、行くよとは言わなかった。
(確かめてみる…!)
行くよとは言わなかったが、前と全く同じ間合い、同じ技だった。これは今や伍箇伝の刀使の誰もが知るカウンターの名手、衛藤可奈美に対しては絶対に避けるべき行いである。
真っ向斬り下ろし。歩に対して。
歩は――一歩も動かなかった。巻き藁か何かのように、加州清光の刃をただ見据える。しかし、その瞳は決死のそれではない。必勝のそれだ。必生のそれだ。
その清光の柄中を再度、可奈美の腕が叩いた。
(美炎ちゃん…!)
(可奈美…!)
刹那、こうなると分かっていたかのように、両者は瞳を交わしあう。
(ダメだった…流石可奈美だ)
(取れない…同じタイミングの筈なのに)
前と全く変わることの無い結果であった。
タイミングが速かったのか。それとも遅かったのか。不明だが、明らかなことが一つある。
美炎の拍子は、驚くほど測りにくいということだ。
伍箇伝の刀使は日々剣を研鑽している。その過程で大抵は正しいフォームを学び、掴み、繰り返して身に付けていく。そうして身に着いた技を増やして強くなっていく。
だからこういう試合で相手の刀使が使ってくるのは、己と同じく常日頃積み重ねている伍箇伝の面であり、小手であり胴だ。良く知っているから防いだり、躱したり、長じれば後先を取ったり切り落としたりも出来る。とりわけ衛藤可奈美は、大好きであるが故に寝ても覚めてもそういう学びを繰り返してきた刀使だ。可奈美の強さの源泉がそこにある。技のファイルが膨大で、そのレファレンスにも優れており、直ちに応じ技をアウトプット出来るのだから弱いわけがない。
そんな可奈美が困惑している。
正しく応じても結果が伴わないのだ。
(何で? 練習してなかったから鈍った?)
我が技に迷いが生じれば、技も定まらなくなる。刀使の忌むべき心中の一つ、迷いである。ところが今可奈美には、これが喜ばしい。
(ほら私、弱いじゃん。ヨワヨワじゃん)
刀使の到達点なんて、呼ばれたくはなかったのだ。剣にこれから先が無いなんて絶望でしかない。だけど私は弱いから、まだ進んでいくことが出来る。その事実に可奈美の口元が、思わず緩む。
(可奈美、笑顔だ)
そうと見て、思わず美炎も釣られる。
楽しい、と思ってくれているのだろうか。一風変わった、この立合いを。
だったら、嬉しい。
(ずっと、元気無かったから心配してた)
だけど、良かった。いつもの可奈美だ。それが嬉しい。
「可奈美ちゃん、笑ってる…」
舞衣が思わず声に漏らしたそれを、肩を寄せ合った沙耶香には聞き取ることが出来た。舞衣が幸せならそれでいいと、今の沙耶香には思えた。
(友里歩。私は、ちゃんと伝えられた?)
可奈美のように出来たのか。出来たのなら、良かったと思う。可奈美の代わりであっても、出来て良かったと。
その歩を、美炎は真っ直ぐ見据えている。加州清光の欠けた刃の先の、友里歩。
立っているのも難しそうだ。だって了戒の切っ先はこっちでなく地面で、歩の杖になっている。いつ倒れてもおかしくない。半身不随で歩くことすら難しい、写シだって成功しないことがあると友達の田辺美弥は言ってたっけ。
けど、なんだろう。そんな歩が、可奈美と重なって見える。重なって見える可奈美は去年戦った時より、ずっと大きく感じる。
歩が千鳥を持っているせい?
そんな簡単なこと?
(上手く言えないけど…)
サッカー選手はボールを取られないように守るし、キーパーは飛んできたボールからゴールを守る。サッカーの練習をしているから、反射的にそれが出来る。
可奈美もそういうゲームをしているのか、というとそうでない気がしているのだ。何というか、可奈美の魂というか命というかが歩の中に居て、可奈美の身体が当然のようにそれを守っているかのような――
「知っているぞ。この感じ」
ボソリ、と漏らしたのは十条姫和だった。
「知ってる…って何をですか?」
「似たような可奈美を、私は見たことがある」
あの年の瀬のタギツヒメとの戦いで姫和は見せたことが在る。
燕結芽の三段突き、此花寿々花の巻き技、柳瀬舞衣の居合など、可奈美が見て来た刀使たちの技をそっくりコピーして続けざまに繰り出していた。それどころか、柊の血筋にしか可能でない筈の三段階迅移すら、可奈美はやってのけている筈だ。故にこそ、姫和とタギツヒメの戦いに介入出来たし、結果姫和は幽世から戻って来ることも出来たのである。
姫和は見ていなかったが、母美奈都の「憑依剣」を使ったことが可奈美にはある。紫と同化していたタギツヒメも、美奈都本人と見紛うほどのものだった。
「でも、それとこれとは話がちがうんじゃ…」
「可奈美の新陰流由来の後先の技は刀使の到達点に在る。何故か分かるか」
「衛藤さんのそれは対手に拍子を合わせる、どころの話じゃあない。対手に成ってしまえる。違う? 十条さん」
答えたのは六角清香ではなく、岩倉早苗であった。
早苗は既に納刀しており、警戒態勢だった姫和と清香もそれに倣う。
「多分岩倉さんの仮説通りだ。半信半疑だったが、さっき馘とやり合ってみて、他の誰かの写シを真似て「写シ」てしまえることもあるかもしれんと改めて実感出来た。ただ馘は刀使の写シを盗む泥棒だが、あいつはどの刀使も皆好きすぎて、どの刀使にもなりきってしまえる、限界刀使オタクだ」
どっちもやだ、もうちょっと言い方が、などと清香は思うが、対手には脅威以外の何者でもないだろう。ただ、可奈美の技は写シを奪い取ってしまうことのない、超ハイレベルのごっこ遊びだ。遊びが過ぎて我が写シが誰かの写シに寄ってしまうほどの。
「今可奈美は写シを張れない。その分、友里歩に強く共鳴している。友里歩の写シを自分の写シ、自分の肌身のように感じているのかもしれない」
姫和の仮説は、的を射ていたのかもしれない。
事実、可奈美は錯覚をしていた。歩と一つになったような気がしていた。
(そういえば写シ張ってもらうとき、せーの、でやったっけ)
田辺美弥がそうしていたから何となくそうした。歩が見事写シを張ることが出来て嬉しかった。
折神親衛隊とか大荒魂とか、凄かった相手、胸に焼き付いた相手と同じくらいに、昨日の試合の友里歩は凄かった。多分、一生忘れられない。
一度でいい。昨日の歩のように戦ってみたかった。
(張れなくなった私の写シも千鳥と一緒になって、歩ちゃんを守ってくれてるのかな)
それならいい。
歩ちゃんを守ってくれるならそれでいい。
(あとは、私が――!)
今まで歩の隣に在った可奈美が、歩の前に出て来た。
写シの張れていない可奈美が、立ち塞がったのだ。
「私が勝つだけだ…!」
「…!」
美炎の加州清光を取り上げてしまえば、確かに美炎に勝利したと言えるだろう。
しかし御前試合のルール上、これはだれが美炎に勝利したと見れば良いのか。可奈美は第一日で敗退し、選手権を持っていないのだ。御前試合第二日の石台に在っていい身ではないのだ。
止めるべきか。もう止めるべきでは無いのか。
誰しもがそう考えた。美炎でさえもそう思った。
しかし主審、紫は、それをしなかった。
今やこれは御前試合の約定を逸脱した決闘であった。勝敗を定める者は最早、歩と可奈美と美炎だけであった。
(いいんだ)
美炎は思った。
(まだ可奈美と戦っていいんだ)
可奈美は寸鉄も帯びていない。けどそれが何だ。それくらいで可奈美がやられるわけ無い。だから紫様も止めないんだ。
(私もそう思うよ、紫様)
だから見せよう。私と清光の、全力。
スーっ。
美炎が大きく、息を吸い込む。
フーっ。
それを吐き、また吸う。それを一度、二度、何度も。
「いくよ! 可奈美!」
今までのどの声よりも、高く鋭く響いたそれと共に美炎は、全身紅蓮となって可奈美を襲う。
対する可奈美は――
(…分かったかも!)
美炎は、「二人居る」。
多分当人も気づいていないだろう。写シを張った美炎がハイテンションの時に消えたり現れたりする二人目の美炎は、美炎本来の剣とは当然ながら、拍子も呼吸も異なる。片方にタイミングを合わそうとしても、もう片方の美炎だったら合わない。だから切り落としのような、拍子の裏を取る剣は失敗してしまう。可奈美得意の後先の技も同じだ。
全身で拍子を刻むことが多い美炎であるから、余計とそれに合わせたくなる。後先が通じない道理だ。
(でも、合わせなきゃ)
その美炎相手に無刀取りをやろうというのである。
損なえば斬り死に以外にない。今己には、写シが無いのだから。
後先の技も極まった、捨て身技とも言える無刀取りは、白刃の下に我が身を投げ出す覚悟をもって、初めて成立する。多くの新陰流の技がそうだ。故に勇の一字を極意と掲げるのである。
(合わせるんだ。美炎ちゃんに)
しかし可奈美はそのようなことは忘れていた。写シが無いとか、斬られたら死ぬとか、念頭に無かった。
美炎に合わせる。
それだけになっていた。
千鳥を歩に預けながら、可奈美はただ、刀使の技となっていたのである。
「フ…ッ!」
炎となって斬り込んで来る美炎に、可奈美は真っ向から飛び込んだ。
美炎の加州清光にしがみ付く。
真剣白刃取りなどというような華麗な離れ業ではない。素早く運動する刃先でなく、最も運動の少ない柄本を抑えに行ったのだ。さっきから何度も試みた、新陰流の基本となる無刀取りだった。
(あ!)
取られた、と美炎は悟った。
がっちりと柄にしがみ付かれた。このまま捻られたら、腕が捩じり折られる。それが嫌なら清光を手放すしかない。
(やっぱ、可奈美…!)
ほら。斬れないよ。可奈美だよ。写シなんて関係ない! 誰が相手だって斬ることなんて出来やしないんだ!
見事取られたのに嬉しかった。可奈美と戦っているという感じがした。
(…もっと!)
もっと可奈美と戦っていたい。
(だから、頑張らないと!)
清光を取られたら、試合が終わっちゃう。
「まだまだ!」
「あ…!」
今度は可奈美があっと驚く番であった。
美炎が倒れた。可奈美が倒したのではない。捩じり倒すより速く、ころん、と美炎が自分から一回転転がったのだ。
「うわ!」
変形の巴投げのような感じだ。横に転がる捨て身投げ。そのまま清光にしがみ付いていればしたたか石畳に叩きつけられていたに違いない。躊躇いなく諸手を離したのは、好判断と言えるだろう。
(葉菜ほどじゃないけど、やっててよかった、逮捕術の練習)
種を明かせば、美炎は清光を保持したまま、飛び前受け身をやったのだ。刃物を持ったままの受け身は、葉菜と共に警察に出向した際練習していた。つまり投げ技のつもりではなく、ただの悪あがきだったのだが結果的に、無刀取りを破ってのけることに、美炎は成功していた。
「「…!」」
振出しにもどった。
両者の間合いは一足刀以遠に離れている。可奈美は歩を背に守り、美炎はとっさに清光を中段に取っている。
(美炎ちゃん)
(可奈美)
我知らず笑っていた。ニッ、という感じだった。
そんな二人に、何を見たのか。
「可奈美さん」
可奈美の背に守られた歩の声だった。
「…え?」
歩の息が上がっていた。本来なら立っているのがやっとの歩である。そもそも写シを張れるのが奇跡的なのだ。
「歩ちゃん…!」
膝を付いてしまう歩を支えようとする可奈美は背を向けており、美炎にとっては、完全な隙である。だがもちろん、そこに付け入るような美炎ではない。というかむしろ念頭にすらなかった。
主審、紫も無言で、動かない。選手権者である歩が写シを張れなくなったら試合は終わりの筈だが、そうするつもりはないようであった。
「…可奈美さん、紫様、私は…」
歩の声は絶え絶えだったにも関わらず、よく通った。
「私は、…選手推薦、を…辞退、します…」
歩の言葉の意味を分かった者たちは、息を呑む。
***
「…確認するが、推薦を辞退、とは選手権を放棄するというこか?」
主審・折神紫の問いには、既視感がある。
昨夜、電話口で推薦辞退を申し出た歩に、綾小路学長、相楽結月も全く同じく問われた。
「はい。これしかない、って思っていて」
ベットの横手で寝息を立てる可奈美の頬を、歩はそっと触れる。
今節の御前試合には伍箇伝各校に選手枠が三つ設けられている。二つは予選決勝に進出した刀使の選手権枠であり、一つは伍箇伝学長の推薦枠である。綾小路武芸学舎の推薦選手枠が友里歩であった。
歩は有望な刀使であったが、御前試合予選で良い成績を残せてはいない。あの年の瀬を経て今はリハビリ中の身であり、この先のキャリアで御前試合勝利を記す可能性は低いであろうと誰もが思っていた。
そんな歩がまさかの勝利を上げた。のキャリアの中での御前試合初勝利は何と本戦トーナメント、それも前年度決勝戦進出の衛藤可奈美戦であった。
『志願したのは君だというのにか』
「はい」
『よもや君は衛藤に、ベスト8に進んで欲しいと考えているのか』
「…はい」
しかし、推薦辞退となれば、選手権自体を失ってしまう。行った試合自体が行われなかったことになる。衛藤可奈美戦勝利も無効試合となり、無かったことになってしまう。
『確かに、そうなれば準々決勝進出は衛藤可奈美となるが、衛藤が写シを張れなくなっているのを忘れてはいないか?』
「忘れていません」
『ではどうするつもりだ。そんなことをして何になる』
「…可奈美さんの負け、が無くなります」
『その結果は、御前試合準々決勝、不戦敗だぞ。君のキャリアと引き合えにだ。それで衛藤可奈美が喜ぶと、君は思っているのか?』
「思ってません」
『では何故?』
「それは、私が…」
『私が?』
「私が…」
可奈美は、光だった。
はるか遠くに見えても、それは歩の未来への灯火だった。闇に差し込む一条の光だった。遠く小さくしか見えなくなっても、時折霞んでも。見える方に進んでいけば良かった。決して間違いない。後悔しない。
『衛藤可奈美の為に出来ること、か。以前そのようなことを言っていたな』
冥加刀使志願者の面接の時も、歩からその名を聞いたことを、結月はよく憶えていた。
『…衛藤可奈美のカルテを見た。明らかに心因性の展張失調だ。特効薬は存在しないが、絶望的なわけではない』
「え…」
『気分次第、ということだ。極端に言えばな。実際、中等部刀使の写シというものはちょっとしたきっかけで失われたり戻ったりする厄介なものだ』
「きっかけ、ってそれはどんな?」
『それが分かれば伍箇伝各校、どれほど助かるか知れん。むしろこっちが聞きたいくらいだ。衛藤可奈美の写シが失われたのは君との試合が切っ掛けだ。君はどうやって衛藤可奈美の写シを奪った? 大荒魂タギツヒメですら出来なかったことを君はやったんだぞ』
可奈美と言えど、現在に至るまで何度か写シを剥がされたことはある。あの年の瀬では紫や此花寿々花に斬られているし、タキリヒメ護衛作戦においても手酷くやられているがそれでも戦闘後、写シを全く張れなくなってしまったことはない。
唯一為し得たのはこの、友里歩のみであった。
「…奪った、んでしょうか。私が」
そのようなことをいきなり言われても、分からないし、嬉しくない。
『君に敗北した衛藤可奈美は、写シを張ることが出来なくなったのだ。奪った、は言い過ぎでも君との試合が切っ掛けとなったのは確かだろう』
「きっかけ…」
『衛藤可奈美の近況については、御本家様から共有されている。稽古相手が居らず、不満を募らせていたようだな』
思えば既に、あの年の瀬、折神本邸宿舎の浴場で、糸見沙耶香は、
「私では一本も取れない」
そう言って沙耶香は、可奈美との立合いを辞退している。歩もまた可奈美の申し出を、手合い違いと遠慮していた。あの時の可奈美の残念そうな顔を、思い出すことが出来る。
可奈美の話では、沙耶香や歩のみならず、可奈美の親しい刀使の皆が可奈美と立ち会いを拒絶していた。仲良しだった十条姫和や、柳瀬舞衣も果てはそうなった。
歩には分かる。それは可奈美にとっては、友達のお喋りの輪に入っていけないのと同じだ。仲間外れにされているのと一緒だ。
そんな中、たまたま可奈美に挑戦する者が現れた。
己、友里歩である。
(試合が出来る状態じゃないことは分かってた。それでも、刀使で居られるうちにって思った)
可奈美さんに会いたい。
そんな歩の想いを綾小路の皆も応援してくれたからここに居る。
それに大荒魂ですら為し得なかったことを成したと学長は言うけど、成したのは可奈美と出会って知り染めた剣なのだ。近づきたいと思った剣なのだ。可奈美が歩のことを強いというなら、それは可奈美のくれた強さであった。
「歩ちゃんのような強さなら欲しいって。欲しい強さが見つかったって」
「不思議だね。歩ちゃんのこの強さ、私から受け取ったんだとしたら、もともと私の強さだったのかな」
「私の中から、無くなっていた強さ…歩ちゃんが預かってくれてた強さか…」
可奈美の寝顔に、昨日の言葉が浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ。
「…きっかけ、作れるかもしれません」
『…とは?』
「上手く言えないんですけど、可奈美さんの写シはきっと、私が預かっています」
この後起こることを予知していたわけではもちろんない。可奈美より千鳥を預けられることになることなど、思いもよらないこの時の歩である。
確信をもって言えたのは、それが可奈美の言葉であったからであった。
そうと聞いて暫く、電話の向こうの学長は言葉の意味を反芻する。
『いいだろう。やって見せろ』
相楽学長にどのような目算があったものか、歩には計り知れない。しかし偶然が重なり合った結果、歩の手にははっきりと、確信があった。
御刀、千鳥となって、我が腰にあった。
「この試合を棄権する、のではなく?」
「はい」
「御前試合出場自体が無効となる取り決めなのは承知か、友里歩」
「はい」
これの意味するところが分からない者は多かった。当の可奈美と美炎もそうで、どうなってるのかと、揃ってきょろきょろするだけである。
「友里歩の意向を受け、選手推薦を取り消す」
「結月先輩…!」
時を全く同じくして、特別観覧席の真庭紗南司令と折神朱音の許を訪れたのは、綾小路学長、相楽結月であった。護衛であろう鈴本葉菜と、古波蔵エレンの視線が一瞬絡む。
「え? え? どういうことですか?」
「つまりだな」
友里歩の御前試合の選抜選手登録はされなかったことになる。予選から昨日の第八試合までの試合は全部無効試合になる。
これを山城由衣に説明するのは、何と七之里呼吹であった。誤解を受けることが多いが、荒れ狂う荒魂ラブを取り払えば極真っ当な常識人である。
「それって…」
「この試合だけ棄権すんなら、衛藤可奈美に勝った昨日の成績は記録に残る。が、選手自体を辞退するとなったら昨日の試合は無効試合になる。試合自体が無かったことになるんだ」
「だったら?」
「衛藤可奈美が不戦勝扱いで、第二日に進出となります」
「マジですかミルヤさん!?」
「本戦規則の上では、無効試合の扱いはその筈です。ただ既に第一日の試合が既に執り行われた後で、その勝利者が辞退というのは前例が無い筈。どういう判断になるか…」
由依と同じく事情が呑み込めてきた者も、だんだんと増えて来た様子である。
「やるな、あの友里歩って奴。冥加の隊長やってたんだっけか」
「っス」
稲河暁に、その妹分の鳥喰優稀が応える。
「あとで話、聞いてみるのもいいか」
「けどこれ、試合続くスかね?」
「続くさ。私らが雁首揃えて、姿を晒してればな。その為にここにいるんだろ。長船の奴ら、私らの出方を知りてーだろうし」
「あの、もし続くとしたらですよ」
不意に新田弘名の電源が入る。
「お、おう。なんだ弘名」
「試合が続くとしたら、私が昨日、美炎さんと戦った意味、あったんですかね」
「「あ―…」」
意味も無意味も、暁の思惑通り、試合が本当に続行になればの話だ。
「始めからそのつもりだったんですね。結月先輩」
「察しの通りだ、といいたいところだが、これは友里の御陰だよ。それにどうにせよ、会津の動向を探る為には、安桜美炎の試合を中止せん方がいいだろう」
「お気づきですか。流石は、結月先輩」
「ここらでカードオープンと行こうか。差し当たって、試合の後でな」
「楽しみにしときましょう。あー、紫さま。聞いての通りです。友里選手の推薦が取り消されました」
「ま、待ってください皆さん」
成り行きを見守っていた折神朱音が割り込む。
「可奈美さんは、写シが張れないのですよ。このまま試合をすることは出来るのですか? 大丈夫なのですか?」
「その判断なら紫がするさ。あいつが主審なのだからな」
結月は、石台に立つ紫を見下ろす。
(第二試合の意趣返しか。結月先輩め)
してやられた。かくなる上は…
「西、安桜美炎」
「…!」
今の今まで、第四試合の試合開始は、宣じられていなかった。
「…東。衛藤可奈美。両選手、中央」
今初めて、第四試合を戦うべき選手が、御前試合の石台へと招かれたのである。
主審・紫に従い、美炎と可奈美はゆっくりと、中央開始線へと歩み、立つ。
「抜刀、写シ」
紫の指示に対し美炎は清光を抜いたまま、写シも張ったままである。
一方可奈美は御刀を帯びてすらいない。可奈美の千鳥は、まだ友里歩の手の中である。
「可奈美さん!」
歩は了戒を我が足元へと伏せ置く。
これにより歩の写シは消滅した。代わりに歩が手にしたのは、預かっていた可奈美の千鳥であった。
柄を握っているのではない。握っているのは、鞘の方だ。
「可奈美さんの、強さです!」
きっかけ、になるのかどうか分からない。
でもそれは本当にちょっとしたことだ。ヒントは、昨日可奈美から伝えてもらっていた。
(可奈美さんの、強さ…)
自分から預からせてくれ、と言ったわけでは無い。千鳥が手の内にあるのは、たまたま可奈美の気分がそうだっただけの、本当に偶然であった。
偶然が重なり合って、今我が手に、その重みを感じられる。
「可奈美さんの中から、無くなっていた強さ…私が預けてもらった強さ…!」
いや、偶然では無いのかもしれない。
昨日のあの言葉があったからこそ、可奈美は千鳥を己に託したのかもしれない。
「可奈美さん!」
さっきまで息も絶え絶えだった者の声とは思えない、歩の声に押されて可奈美は、その手を千鳥の柄へと差し伸べる。
その指が、震えているのが見て取れた。
(また、張れなかったら? 千鳥に嫌われたままだったら?)
そんな気持ちが、残っていなくはない。
(んーん。大丈夫)
誰かから写シを取ったり戻したり、そんなことが出来る刀使は伍箇伝には居ない。稀血を持った伍箇伝の宿敵、馘、今際乱世のみが為し得る技だ。歩にも可奈美にもそんな真似は出来はしない。
理屈ではそうであったが、この時の可奈美はストンと、出来ると思った。
(きっかけ、さえあればよいのだ)
相楽学長は内心、快哉に我が拳を握る。
「私の中から、無くなっていた強さ…歩ちゃんが預かってくれてた強さか…」
可奈美が発した言葉だった。可奈美がそう思っていたことだ。歩はそれを、可奈美に最も伝えやすい形で伝えたのだ。
(でかした…友里!)
指先の躊躇いは一瞬で、留まることなく可奈美は、千鳥飾りの柄を掴んだ。
銘、千鳥の由来となった、柄飾りであった。
無限の時空存在である御刀と違い、御刀の拵えには耐用年数がある。よって千鳥も、複数回柄糸や柄を代えている。しかしその度必ず、意匠として受け継がれてきていた千鳥柄。母、美奈都も同じく、この意匠の柄を握った。その前の刀使も、その前の刀使も。
(千鳥…)
鯉口を切る。鞘は、歩の許に残った。
「…写シ!」
千鳥。またの名を雷切。電をも斬るという伝説を為し得たのは、その主、衛藤可奈美唯一人である。
「戻ったか。可奈美」
一度は雷となって可奈美を襲ったこともある姫和の言葉は平静で、まるでそうなることを知っていたようであった。
(十条さん…)
信じていた、というか疑ってすらいなかった様子に、傍らの早苗は納得するしかない。だって幽世の無限彼方からすら手を携え、帰還した二人なのだ。このくらいのピンチは、ピンチですらないのだろう。
明日、早苗は姫和と戦う。
対戦相手は姫和であったが、早苗の最大最強、途方もないライバルは、この伍箇伝最強、いや刀使発祥以来最強の刀使だった。
衛藤可奈美に、再び命が灯る。
「可奈美ちゃん…」
柳瀬舞衣は我が両頬を、我が両の掌で覆う。
そうとしか見えなかったのだ。可奈美が可奈美である為の、失われていた大切な何かが今再び吹き込まれたとしか。
「可奈美の写シが戻った…」
沙耶香を抱いて離さなかった舞衣の腕が、この時解かれていた。それでも沙耶香は、舞衣を抱いて離すことは無かった。
幽世の果てを揺蕩(たゆた)っていた可奈美の魂が、主の許に戻った瞬間であった。
「始メ!」
御前試合の石台で、東西の刀使が写シを張れば、それは試合の始まりだった。
いや、再開したのか。
「歩」
「…?」
実はこの時、石台の上には主審を除き、四人の刀使が居た。可奈美と美炎、歩に加え、その歩を助け起こした田辺美弥である。
「美弥…」
試合が始まる。始まれば、石台の上に立つことが許される刀使は美炎と可奈美、両選手のみだ。
「石台降りるよ。しっかり捕まって」
「美弥、あのね…」
「あとでね。試合、始まるでしょ」
「うん…ごめん」
美弥が、美炎の許に行っていたのは知っていた。可奈美と二人きりにさせるために、歩の傍を離れたのも、そこから行くのがこれから歩が戦う美炎のところだというのも、とても美弥らしい。
そのまま敵になってしまうんじゃないかと、少しドキドキしたけど、それも美弥らしい気持ちの伝え方だとも思ったのだ。可奈美さんとばっかりベタベタしてたら私、居なくなっちゃうぞ、なんてセリフが、美弥が言わずとも聞こえてくる。
「お話、出来た?」
「え?」
「可奈美さんと、お話は出来た?」
「――…」
そんな美弥が今は傍に居て、肩を貸してくれている。
百万の味方にも勝った。
「出来たと思う。美弥のおかげ」
「そっか」
それなら良し、とでも言うかのような、一日ぶりの美弥の微笑みであった。