ここに御前試合第二日は辛くも全日程を終え、予定された選手権者四名の全員を選出した。
十条姫和。
対、岩倉早苗。
衛藤可奈美。
対、柳瀬舞衣。
四選手による二戦が明日、御前試合第三日の全日程となる。
「戻るぞ、優稀、弘名」
「え…でも」
「喧嘩だったら、美炎の勝ちだ。ふらついてる可奈美に一発食らわせば終わっていたからな。やはり伍箇伝最強は、安桜美炎」
踵を返した、スカジャンの背に錦糸されるは、仏敵懲伏を祈念せし、明王尊の梵一文字。
「次に会うときは…いえ、次に会うときも…」
それだけを言い遺し、新田弘名も、鳥喰優稀と共に稲河暁に続く。
『追わぬのか?』
会津一党の背を横目に見送る益子薫に問いかけたのは、肩に乗る益子の氏獣、弥々であった。尻尾で目を覆っており、タキリヒメの神格が表出していることを、これは示す。
「追うさ。それよりお前こそ、可奈美に一声、かけてやらねーのか? きっと喜ぶぞ」
『無用のこと。神仏は尊し、神仏は頼まずと、ヒトの兵書にも有ろう。然れども』
「しかれども、なんだ」
『…まずは、祝着』
「ふ…同感だ。見ろよ。可奈美の奴、すっかり憑き物が落ちたようだぜ」
タキリヒメの瞳の表情は掌の意匠に常に覆われ、窺い知れぬ。
しかし恐らくそれは、優しかったであろう。
今、死闘を終えた可奈美と美炎が、大声援に送られ、御前試合の石台を後にする。美炎は可奈美にお姫様抱っこ状態で、一部木寅ミルヤの隣席辺りから黄色い声が上がっている。
誰もが、紫の審判には納得したであろう。
(どちらも限界だった。どちらが倒れてもおかしく無かった)
決着があの形になったのは、気持ちの差だ。
早苗には美炎の気持ちがよく分かる。
美炎の決着は、あの場だった。可奈美との戦いが美炎の目標で、到達点だった。その先の事など考えていなかった。それはとても、聞き知る安桜美炎らしいことだと思う。
一方で、可奈美は先に進みたい気持ちが強く出た。
舞衣が、姫和がこの先、可奈美を待っているからだ。献身的、とすら思える美炎の試合に、可奈美は信じて見ようと思ったに違いない。この先柳瀬舞衣が、十条姫和が、美炎と同じ気持ちで己を迎えるであろうことを。
可奈美はあの時点で、次のゴールを見つけていた。
美炎にとっては、ここがゴールだった。それだけの差が勝敗を分けたのだ。
(衛藤さんの思った通りだよ。多分…)
十条姫和の横顔から、早苗は眼を離すことが出来ない。
(そんな顔したって、明日は私だよ。十条さん)
去年の春からずっと、追い続けて来た。伍箇伝最速、幽世の果てまでも駆け抜けた、そのひとの背。
付いて行けたのは、衛藤可奈美唯一人だった。
行けた理由が、今ははっきりと分かる。付いて行ったのではなかった。翼となったのだ。姫和と可奈美は正に比翼であった。二人で一そろいの翼であった。
でも今度こそその背、私が掴んで止める。もし、ひと時でも止めることが出来たなら――
(もう、それだけで私は…)
その先のことなんて、想像だに出来ない。だから多分、それが今の早苗の夢であり、ゴールであるのだ。
だから明日は、明日限りの戦いを戦おうと思う。
安桜美炎さん。あなたのように。
***
開始時間が速まった分、準々決勝の日程は速く終わった。明日の予定は十条姫和と岩倉早苗、柳瀬舞衣と衛藤可奈美の二試合のみ。選手の被ったダメージから恐らくは、前者が第一試合になるだろうと思われる。
「ってわけで、明日は美炎の試合はねえ」
「そう」
「残念か? チチエ」
「んーん。安心した。怪我が無かったなら、その方が良かったわ」
警衛大学一階生となった瀬戸内智恵が、折神本邸に入るにはそれなりの手続きが居る。御前試合の最中ということで立ち入りを遠慮していた智恵は、こうして七之里呼吹と待ち合わせ、その様子を聞いていた。
「動画あるけど、見るか?」
「ありがとう。適当なところで止めるわね」
智恵が普通免許を取得していたことを、呼吹は初めて知った。何故なら智恵が車に乗って来たからだ。
「びっくりだ。これお前のか?」
「お父さんと共用なの。お父さん普段、大きな車に乗っててあんまり乗れてないから、火を入れてもらいたいって」
「ふうん。なかなか、いー音するじゃねーか」
「そうなの? 改造とかしてないらしいよ。軽自動車だし。あ、屋根開くんだよ。開けたげよっか?」
「止めろ恥ずかしい」
やがて車は、郊外のコンビニへと吸い込まれる。
智恵と呼吹はスカートでは乗降し辛いバケットシートをいちばん後ろまでズラして、左右のドアから駐車場へと降りた。
五分少々の動画であるから、駐車して見たら即出て行っても良いわけだが、そこは常識人の二人である。駐車場だけタダで使わせてもらうという発想は無かった。何か飲み物でも買ってその肴に、という企みもある。
しかし降車した瞬間、二人は我が佩刀(はかせ)に指を走らせる。
二人の見知った気配であった。
「斬り合いの儀は今宵、無用と頼み申す」
「「…馘!」」
今朝がた十条姫和に敗れ、姿を消した馘、今際乱世の姿に紛れも無い。それが何故、ここに?
「斬り合い無用だあ?」
両の鯉口を切ろうとする呼吹を、智恵が制する。
馘には殺気が無かった。
初代月山鬼王丸はその白刃を現わしていたが、それはそうしなければ馘が地上に顕現出来ないからであろう。写シを張らねば、何処とも知れぬ地底から姿を見せることすら出来ないのが今の今際乱世である。
「だとすれば、どうしてここに?」
襤褸に覆われ、窺い知れぬ表情より、声のみが漂い出る。
「この乱世、御維新の世より彷徨い出でて幾十夜、幾度となく夜来の市井を見分し申した。当初は祭事かと思い申したが、どうやら連夜に渡り燈明真昼の如く、異国の囃子らしきもの、絶えることなし」
コンビニは24時間営業。店内放送もある。異国の囃子というのは多分、ありふれたポップナンバーだろう。何を当たり前なことを言っているのかと、現代に生きる若者は笑うかも知れない。
智恵も呼吹もしかし、そんな気にはなれなかった。
馘の言葉に突き付けられた気がしたからだ。今当たり前に享受しているこれら文化は、かつては当たり前のことでは無かったことを。
「通りを行けばこのような夜店を幾店も、見かけ申した。これの何倍もの大棚も、郊外には有る様子」
大型の24時間営業スーパーという業態も既に、珍しいものではない。
この国は昼夜を問わず、活動を続けている。
「…私達は空を飛んで、外国の…南蛮の国にも行くの。外国の人たちに習い、考えて、色々なものを作り出した。私たちが乗ってきたこれも、イギリスの人々が考え出した、石油で動く車なのよ」
「同様の車両を、民の誰もが持ちたる様子」
「一世帯に一台くらいの割合で、普及してるはずよ」
「一人ひとつは、通信機を持ってるのが当たり前だしな。あー、そもそもこいつがわからねーか」
「其処許(そこもと)のお持ちのそれならば、幾度も見かけ申した。恥ずかしながらこの乱世、すわ魔鏡の類かと疑い申した。近くに居らぬ親類縁者と、それを通じて語らっておるとは思いもよらぬ」
「そりゃ、そうだろ。こうして持って歩いている私らだって、魔法じゃねーかって時々おもうからな」
「幾丁歩み続けても、飢え伏したる者も奪い合いたる者も無し。人々の住まいは城壁の如き石壁で守られ、道々すら屋根瓦の如き素材にて覆われ、掃き清められたる様子。薩長は如何なる市政によりこれらの施設を築き、臣民に与えたのか」
「薩長はもう無い。徳川幕府の後に、無くなってしまった。今は令和の世。世の中を作っているのは、私達なのよ」
「民が話し合い、世の中を治めていると先般、伺い申した」
「私達は何も知らないし愚かだけど、少しずつ知恵を出し合って、この国を作っている。貴方が驚くようなこの国は、皆で作った国なの」
「もっと言うなら、私らの爺さん婆さん、祖々爺さん婆さんが、それこそ命がけで作って来たんだ。私らはそれに乗っかってるに過ぎねえ。その昔々を辿ってくと、明治や維新の、あんたらが居るんだ」
呼吹の口から出たとも思われないセリフだが、智恵が驚くことは無かった。問題行動はあっても根っこは常識人、というところは長船女学園の後輩、益子薫とそっくりである。それを指摘すると、怒るのだろうけど。
「むしろ、私らがあんたらに聞きてえ。私らはこうやって、あんたたちが命がけで作って来たもんに当たり前に囲まれて生きてるが、そこまでになんか、あんたらが大切にして来た大事なもんを忘れちまった気がするんだ。もう私らじゃあ、気付くことが出来ねえ。あんたから見て、私らはどうだ。ちょっとは、ちゃんとやってるのか。これから私らは、どうすればいい」
しかしこの問いは、少なからず馘を驚かせたようであった。
「…常日頃、母さまは嘆いておられた。今や幕閣に国士無し、と。我ら若輩は思うたものだ。我らが道、果たして確かなるやと」
問いの答えになっていない。
しかし、智恵も呼吹も理解した。今も昔も変わらず、時代を生きる者は過去に問い、過去に学びを求め、未知なる未来は五里霧中で、ただただ手探りで進むより他になかったものなのだと。
「我らが倒れ伏したる後に繋がる未来が今宵だとしたなら、試みねばなるまい。次なる御様御用こそはこの今際乱世の…いや今際一門最大の御様御用」
「何をする気なの。乱世さん」
「意義ある夜となった。願わくば、小烏丸今代に申し伝えられたい。この乱世、小烏丸殿に習い、迷い無く相務めんと」
「待って!」
呼びかけつつ智恵は、止めることは出来ないだろうと何処かで思っていた。
しかし、意外であった。
馘はその足を止めたのである。
「…また会いに来て。私達の街を、案内したい。それから聞かせて欲しい。本当に私達は、大丈夫なのか」
襤褸に覆われその表情は、窺い知れぬ。
しかし馘は、微笑んだのかも知れない。何故だか二人は二人共に、そう思えた。
***
同夜、霞ヶ関魔城の屋上に対峙する二名の影を監視カメラが捉えた。
かつてタギツヒメと、折神紫率いる六人の次代の英雄たちがが斬り合いを演じた、まさしくその屋上である。
旧霞ヶ関ビルが高層建築の代名詞だった時代は既に十年一昔の過去であり、これより高い建築物は都内に複数存在する。現在その全ての高所の一室に魔城観測所が臨時に設けられ、朝夕二十四時間体制で録画と監視が行われていた。その全てが同時刻、同時に伝えたのだからこれは赤い月の見せる夢幻でなく、現実であることに疑いは無かった。
「生存者か」
「そんなわけが無かろう。タイプHの荒魂に決まっている」
魔城よりの使者、ヨモツイクサ討滅作戦は記憶に新しい。またもや元親衛隊を模した荒魂が現れた。観測所の誰もがそう考えた。
「一体はそうでしょう。ですがもう一体は?」
「むう…あれは…」
観測所に詰めていた警官や自衛官にはとうに周知がなされていた。
「件(くだん)の馘と特徴が一致するな」
正しくそれは、つい先ほど郊外のコンビニに現れたばかりの馘、今際乱世であった。七之里呼吹や瀬戸内智恵と接触後、時を置かずここに再び現れたことになる。
この日馘は早朝、十条姫和に敗れた後、郊外に現れ、その後魔城屋上の実に三度、現れ消えたのだ。
「何やら会話を交わしているようでありますな」
「各観測所と状況を共有しろ。可能なら音声を拾え。投光器の使用を許可する。馘と大荒魂の世紀の夜会だ、一挙一動も見逃すな」
「了」
霞ヶ関魔城を中心に同心円状十数か所に設けられた観測所からの同時の通報に、閣議を終えて夕餉の途中であった閣僚たちはとんぼ返りで官邸に戻る羽目となった。厚木基地からは続々と巨大投光器をぶら下げた回転翼機が飛び立ち、夜半の霞ヶ関は真昼の如き有様となる。
***
折神本邸には特別刀剣類管理局長、折神朱音が使う局長室の他に、相楽結月副局長室の使用している副局長室が私室として設けられている。昨日六角清香が訪れたのもこの部屋である。
「え。いないんですか?」
昨日の無礼を詫びたかった清香だが、生憎の留守であった。
「ええ。官邸に飛んで行きました。魔城に何やら、変事があったようです」
「葉菜も!?」
「葉菜は今、相楽学長の護衛が任務だからね」
代わりに居たのは木寅ミルヤと山城由衣である。
「…そっかあ」
「それより、大丈夫なのですか、安桜美炎」
「うん。大丈夫、だよ。元気が取り柄だし」
美炎を伴い、清香が押しかけて来たのは夜半になってからだった。それまで昏睡していたのだから大丈夫とは言い難い。
それでも葉菜とは話して置きたかったから、清香の案内でここまで来たのだが、まさか入れ違いとは。
「霞ヶ関魔城で何かあったんですか」
「詳細は分かりませんが、副局長が直接、事態の分析を行うものと思います」
「紫さまと朱音さまは残っているみたい。御前試合の日程中だからね」
「中止になる、ってことはないんだよね」
「朱音さまも紫さまもまだこちらに居られるってことは、やるでしょ多分」
「よかったあ…」
美炎の試合は、もう無い。しかし可奈美の試合が明日にはある。そしてその相手は、美濃関予選で戦った柳瀬舞衣だ。絶対に見届けたかった。
清香にとっても、明日はとある事情で大親友の、十条姫和の試合がある。その相手はこれも、平城予選で戦った岩倉早苗だった。早苗の姫和に対する強い気持ちは、清香には伝わって来ていた。姫和の為にも、早苗の為にも、明日の試合は中止にならないで欲しかった。
「明日からは国営放送の報道陣が入ります。荒魂頻出により世情は不安定、また伍箇伝への風当たりが強い昨今、我々が粛々と行事を遂行する姿を伝えることは意味があるでしょう」
ミルヤさんが難しいことを言い出したら取り合えず頷いておけばいい、と思っている節のある美炎と由依はうんうん、と頷く。
「ともかく皆さん、本件は他言無用です。とりわけ明日試合のある、四選手には」
「わ、分かった。黙ってる」
彼らが呼吹と智恵より、馘と話したと聞くのは暫く後のことである。
***
やっと。やっと明日だ。
ずっと待ち望んでいたのだ。京都五条家での決闘に敗れて以来、早苗のことを思わぬ日は無かった。
如何に早苗と戦うか。一指の太刀に立ち向かうか。
あの夜からそればかり考えていた。そんな気がする。
それと共に、思わないでもなかった。どうして己なのか、と。
(分からない。どうしてなんだ。岩倉さん)
早苗のように、賢くて、信望があって誰からも親しまれて、誰にも優しくて、綺麗で、強くて、女として持ってないものなど何もないように思われる岩倉早苗が何故、己に拘る。刀使としての全てを賭してまで、己に構おうとするのか。
去年の今頃のことと重ねざるを得ない。御前試合決勝で対峙した、衛藤可奈美についても同じような疑問を抱いた。
折神紫を仕損じ、逃亡生活となった姫和の傍らには、可奈美の姿があった。
可奈美は前年度御前試合の決勝戦で、主席刀使の座を争う相手だった。姫和はしかし、こともあろうに可奈美を差し置いて紫に仕掛け、仕損じたのだ。
命は無いものと思った。しかし可奈美に助けられ、命を繋いだ。
この時も思った。何故助ける。何故付いてくる、と。
姫和も刀使であるから理由は思い浮かんだ。武門に在る身として、臨んだ立合いを阻む者があれば、先ず先んじてそれら全てを斬り伏せ、改めて決闘しようと考えるのは実に当然である。姫和は可奈美の意気に応えようと、逃亡中に可奈美に立合いを挑んだ。
可奈美は拒んだ。
拒んでおいて、姫和に付いて来た。
何故なのか分からなかった。斬人を決意した外道の刀使である己を、優れて刀使の正道に在る可奈美が助けるのは何故。
可奈美とは後、共にタギツヒメと戦い、幽世の彼方から生還するまでを共にした、まさしく比翼の友となったが、可奈美が姫和とそうなることを望んだ理由は今に至るも、分からない。
分からないままに、今年の御前試合本戦に至る。
平城予選も大詰めだった頃、岩倉早苗が六角清香に勝利し、本戦進出を決したのを見届けた姫和は、即日折神本邸へと向かった。現折神本家、折神朱音直々に、衛藤可奈美のことを託されていたからだ。
すっかり旅慣れた、姫和の荷物は少ない。荷を置くまでもなく着いてその足で朱音の執務室へ挨拶に向かい、その場で朱音に再度、確認する。
「及ばずながら参りました。稽古相手には成れずとも、巻き藁の代わりくらいにはなれるかと存じます。もし朱音様がそれで宜しければ」
「来てくれてありがとう、姫和さん。ですが、岩倉早苗さんの決勝は心配ではないのですか?」
何処まで事情を把握して居たのかは分からないが、朱音には見透かされていたようだ。
「岩倉さんとは、本戦で会えます」
平城予選決勝に興味は無かった。一指の太刀の岩倉早苗が負けるわけがないし、結果が決まっている試合よりも重要なことがある。
「そうですか。では蛇足かもしれませんが、早苗さんは、初めて平城主席刀使として、本選進出しました。良かったですね、姫和さん」
「はい」
それは、本当に良かったと姫和は思う。
「可奈美のところに行きます。現場ですか。練習ですか」
「可奈美さんは…」
朱音は言葉を濁し、その後、自室に居ると告げられた。
休暇とは珍しい、とその時に思いはした。宿舎に可奈美の部屋を訪ねると、可奈美は、部屋着のままであった。
「姫和ちゃん。来てくれたんだね」
「お前の稽古相手を、御本家から頼まれていたんだ。遅くなった分、取り返してやる。さあ、支度しろ」
「うん…そうだね」
部屋に入った瞬間に違和感を感じた。
妙に部屋が片付いていた。いや、片づけかけて途中で止めた感はあるが、それは可奈美が可奈美だからであろう。そして、その部屋の目につくところに千鳥が無い。可奈美の場合大抵は寝台に投げられているのだが、恐らく抱いて寝ているのだろうと姫和は見当を付けている。
それが、何処にも見当たらない。
「…いや、それでは遅いな。今ここで始めるか」
試してみる気になった。
「姫和ちゃん!?」
「そら行くぞ可奈美!」
小烏丸の鯉口を切ると、可奈美が飛び退く。
その手を伸ばした先は、寝台の下だ。
「…可奈美…」
小烏丸は半塲どころか、指先ほども抜きいてはいない。もちろん、写シも張ってはいない。
それを鞘に納めて嘆息する間も可奈美は、寝台の下を探っていた。余程奥にしまい込んでいたらしい。
「どうしたというんだ、可奈美」
「えと、たまには、剣以外のこともやろうと思って。ほら、宿題こんなに溜まってるし。撮り貯めてる映画とかあるし」
「手始めに部屋を片付けようと思ったのは褒めてやる。まあ、片付けられてないが」
「…あはは。だよねえ。片付けるの、ホントダメで」
可奈美は笑ったが、何処か可奈美を可奈美たらしめている、常の元気のようなものが感じられない。
「私、千鳥が無くなっちゃったらホントに、何も出来ないんだな」
溜息混じりのその言葉に姫和は、言い知れぬ何かを感じた。
「それは私も同じだ。母様の小烏丸が無くなったら、私に残るものは何もない」
とっさにそう答えた。
本音であったので、淀みなく言うことが出来た。
「私と、同じ…」
「そうだ」
「…姫和ちゃんのと、私のとは違うよ」
「違わないだろう」
「違うよ。姫和ちゃんは、只小烏丸のことだけになることを望んでるし、誇りにしてる。私は怖いよ。千鳥が無くなるのが怖い。怖いことだって初めて知った。何もなくなっちゃうことが、こんなに不安だなんて」
「なら、何故千鳥をベッドの下に放り込むんだ。それも手が届かない程奥に」
「それは…」
答えようとして、口ごもってしまう可奈美を、姫和は初めて目にする。
剣に関わらないことにはいささかあれな可奈美であったが、可奈美が愚かだと思ったことは姫和には無い。地頭は良い。一芸を究める者としての可奈美の視座は驚くほど高いと思っている。普段はふわふわしていても、肝心な時には決して誤らないという確信がある、
「…それは…」
「…分かった」
けれど、そんな可奈美も己と同じ、中等部二年生ということだろう。
まだまだ篝や美奈都、母たちのようには成れはしないということだ。
「あ!」
と可奈美が言う間に姫和は鞘ごと小烏丸を抜くと、可奈美の千鳥と同じく寝台の下に投げ入れてしまう。
「これで同じだな」
「ちょ! 姫和ちゃん!」
「去年お前は、頼んでも居ないのに私に付いて来た。今度はこっちの番だ。そう言えば聞き捨てならないことを言っていたな。課題が溜まっているとか、何とか」
「んう…」
「心配するな。私もだ!」
「へ?」
「私も課題が溜まっている。何せ、学校に行っていなかったからな!」
姫和は、無い胸を張った。
実際、岩倉早苗が足しげくポストに運んでくれたプリント類が、物理で溜まっている。このまま踏み倒すつもりでいたのは内緒だ。
「そっか。姫和ちゃんとは本当に、こんなとこまで一緒なんだね」
そう言って笑った可奈美は、姫和の知っている可奈美だった。
あの時、姫和は安堵したし、嬉しいと思ったのだ。
そんな事情で、可奈美の稽古相手として急ぎ折神本邸を訪れた姫和は、急遽可奈美の勉強相手となって、一度も御刀を手にすることなく御前試合本戦までを過ごした。もちろん勉強ばっかりするわけがなく、話したり、可奈美取り置きのお笑いや映画を見たり、ゲームをしたりで当日に至った。
「やっぱり…」
その可奈美の部屋に安桜美炎らを伴って現れた、早苗の開口一句がこれであった。その言葉から推し量れるのは、早苗は可奈美を訪ねて部屋を訪れたわけではなく、可奈美の許に姫和が居ると思ったから訪ねたということだ。
あの時姫和は突如現れた早苗に対して事情を説明したが、何か言い訳をしている気分だった。
早苗が愉快な気分でいないことが、姫和にも伝わって来たからだ。
何故? 何をした? 決勝を応援に行かなかったから? 御本家に発つことを連絡しなかったから? 本戦の早苗の試合を見に行かなかったから?
『呵々、呵々』
突如の嘲笑にも慣れて来た。首から下げた母の形見に宿る、イチキシマヒメであろう。
「何が可笑しい」
『お前の蒙昧故にじゃ、小烏丸の娘よ』
「そんなこと分かってる!」
己が無知蒙昧なのは分かっている。
私はバカで蒙昧で、何一つ知らない未熟者だ。信じられるものだってたった唯一、母さまの遺した一つの太刀しかない。
「大荒魂であるお前には分かるのか。岩倉さんや可奈美のことが」
『分かろうとてか。分かっておればタギツヒメは、汝ら刀使勢に勝利しておったわ』
「そのタギツヒメから逃げ回っていたお前が威張るな! なんだ分かりもしないのに、上から目線で! 何様のつもりだ!」
『何様と問われれば、神様よ』
姫和は無言でスペクトラム計を首から解くと、カウボーイの投げ輪か何かのように思いッ糞振り回した。
『あややややや! 何を、何をする! 目が、目が回るッ! 目が回るぞ!』
「人を馬鹿にして。人の気も知らずに。このまま窓から折神邸の外まで大遠投してやろうか」
『ばっバカをするな柊の娘! 母の形見を野良犬にでも咥え去られたら如何するのだ! いやバカなのだからバカをするのは止むを得ぬのか? あややややややや! 止めてたも! やめてたも!』
「お、思い知ったか。思い知ったら、洗いざらい話せ」
『お、思い知った。思い知ったぞ柊の娘』
荒稽古で慣らした姫和が息を切らすくらいにはぶん回した。
呼吸器など存在せぬイチキシマヒメも何故だか息を切らしている。
『我ら禍神には決して分からぬ。しかしタギリヒメ一柱より分かれた我らなら、理解が及ぶ。人とはそうしたものであろうが』
「そうしたもの?」
『思い出せ。孫六兼元の刀使が屋敷を訪ねた日の事を』
そんなこともあったと思い出す。
可奈美の相手をしてやってくれと、わざわざ京都を訪れてまで。今の時世、ケータイもスマホもあるのに。
「柳瀬舞衣は、かつて…」
一年前、舞衣は逃亡を続ける可奈美と姫和を、何と折神家刀使勢に先んじて捕捉し、立ち塞がったことがあった。舞衣と刃を交えたのはあれが最初であり、現在に至るまであれきりであった。
「…可奈美を取り戻す為に、私を追ってきた。可奈美のことを頼むと言われた。それから幾度となく、舞衣からは、可奈美のことを託されて来た」
『何故に追ってきた。何故に託された。如何思うぞ、小烏丸の』
「追ってきたのは、可奈美が大切な友達だったからだろう。私に可奈美を頼むと言ったのは…」
それも恐らくは、可奈美が大切であったからで。
だけど傍にいることが出来ないからで。
『千住院力王の刀使も同じことよ。既に答えは出ておるであろうが』
「いやだから、どうして大切なのかという話を――イチキシマヒメ、おいこら、聞いてるのか、返事しろ!」
応えは無い。
穢れを使い果たしたのか。
「全く、使えん奴だ」
どこぞで聞いた悪役のようなセリフが口を付いて出る。本当にどうして私なのか。可奈美や早苗の友足り得る資格が己にあるとはどうしても思えない。可奈美も早苗もどう思っているか知らないが、姫和にとっては二人とも、見上げるような人たちであった。
可奈美にしろ、早苗にしろ、己以上の刀使であるにも関わらずとても人気者で、一緒に歩めば、常に誰かに微笑みかけられたり、話しかけられたりした。それが眩しかった。もっと言ってしまうなら羨ましかったし、妬ましかったのだと思う。
そんな人たちがどうして己なのか。それが分からない。
去年は、考えないようにしていた。ただ己が為すべきことを為す、そうすることにより道は開かれ、何もかもが明らかになると思っていた。
今年は――
(やはり、頼むところは、母様の小烏丸以外にないか)
確かなものが腰間に在る。百万に勝る味方だった。
「…いいだろう」
何時だってそうだった。答えなら、母さまの小烏丸と一つの太刀が教えてくれる。今度もそうであるはずだ。
折神所蔵、一千余振りの御刀の内でもただ一振りの小鳥造りの切っ先が、その姿を現す。
(唯一の太刀の欠点は、速過ぎること)
それ故に、放てば場外判定を避けることが出来ない。
(しかし今は室内。私に割り当てられた私室だ。ここで放てば…)
窓に激突。甚だしきは転落死。
(さあどうする、私。母様の遺した唯一の太刀、究めなければ死だぞ)
姫和の口角が、不敵に歪む。
***
舞衣は程なく回復をしたが、沙耶香は昏睡したままであった。
医務室の扉は閉ざされ、開いて現れる者は居ない。
沙耶香も、舞衣もである。
「どうして居るんですか」
「我が師がこの内にいるからよ」
羽島七奈と高津刹那は、扉の外であった。何れも複数据え付けられた長椅子に坐している。もちろん仲良く同じ椅子に座っているのではなく、二人が二つの長椅子を占領していた。
「お前もそうだろう。柳瀬舞衣がこの中に居るからここに居る」
「そうですね。じゃあ、聞き方を変えます。どうして中に入らないんですか」
「お前はどうなんだ。羽島の娘」
「質問に質問を返したらいけない、って高津学長から教わらなかったんですか」
「――…」
母の話は、刹那の地雷である。
しかし先に母を持ち出したのは刹那であるから、どうなろうと刹那が悪い、と七奈は思う。
「…柳瀬舞衣が師と共に居るからだ。お前もそうだろう」
刹那は意外にもすんなりと答えた。
「…ええ。私もです」
安心すると同時に拍子抜けする。恐らく、声も間抜けた感じになっていただろうと七奈は思う。
「何時まで待つ」
「出て来るまでです」
「柳瀬舞衣は明日も試合がある。休ませなくて良いのか。お前は仮にも、柳瀬舞衣の師だろう」
「休ませるのが自室に戻らせるという意味なら、そうしない方がいいからです」
「ほう。何故だ」
「沙耶香さんの傍が、一番安らげると思うからです」
「ふむ」
得心したのか。していないのか。
医務室の扉が開いたのは、そのようなやり取りをしていたところであった。
「居てくれたのね。二人共、ありがとう」
「舞衣さん…」
二晩に渡る友達のピンチに、舞衣は少しやつれたように見えた。このようなことで大丈夫なのか。明日の相手は、伍箇伝最強の衛藤可奈美である。
「ようやく出て来たか。では今度は弟子の私の番だな」
刹那は長椅子を立つと、舞衣を押しのけるようにして医務室へと入っていく。
「刹那さん」
「なんだ」
「沙耶香ちゃんをよろしくね」
「さっさと寝床に戻って休め。師の村正は不吉の御刀。ダメージは易々と抜けんぞ」
舞衣には背を向けたままそれだけを告げる。病室の自動扉が閉まり、内には刹那と沙耶香、外には舞衣と七奈の師弟のみとなった。
「外の空気を吸ってくるつもりだったけど、もう戻ってこない方がいいみたい」
「部屋に戻って、お休み下さい。明日の相手はあの、衛藤可奈美です」
「うん、そうだね」
「…舞衣さん?」
舞衣は肯定をしたが、七奈は言い知れぬ不穏を感じた。
「去年の今頃、可奈美ちゃんが姫和ちゃんと一緒に行ってしまって私、可奈美ちゃんのことばかりしか考えられなくなってしまっていた。沙耶香ちゃんが現れなければ、どうかなってたかも知れない。それにね」
「それに?」
「こんな風にも思えた。可奈美ちゃんは行ってしまったけど、沙耶香ちゃんが代わりに来てくれたから、もうそれでいいか、って」
「――…」
たんに去年のことを言っているのではない。
七奈はそう思った。恐らく今舞衣の気持ちは、衛藤可奈美に向いていない。昏睡している、糸見沙耶香に向いている。
「可奈美さんは写シを取り戻し、問題はクリアされています。沙耶香さんは、昏睡が続いている。可奈美さんより沙耶香さんの方が心配なのは当たり前でしょう。しかし、それで明日のパフォーマンスが落ちてしまっては沙耶香さんも浮かばれません。舞衣さんは、明日に備えるべきです」
「正論だし、優しい。やっぱり先生は、羽島学長の娘なんだね」
「母がここに居ても、同じことを言ったと思います」
「分かった。先生の言うことを聞くよ。だから、先生も休んで」
「舞衣さんが、お休みになるなら」
七奈に見送られつつ、病棟を去る舞衣に去来するのは、在りし日のことだ。
以前は可奈美に毎日、立ち合いを挑まれていた。
ある日、可奈美からの申し入れが無かった。
次の日も、その次の日も。
可奈美はどうしたのか。理由は思い当たる。数日続けて、可奈美に後れを取っていたからだ。
可奈美に失望された。
そう思い至った時、舞衣は全知全能を振り絞った。居合の工夫をしたのもこの頃だ。器用で、何でも人並以上に出来た己が初めてぶち当たった壁は途方も無く高く、厚かった。
(あの頃みたいに…)
ずっとくっついて離れなかった、あの頃の可奈美を取り戻す方法に、実は舞衣はもう思い当たっている。
勝てばいいのだ。
可奈美より強くなればいいのだ。
己如きがどう足掻いても出来ることではないと思い知った時には、可奈美の周囲にはもう誰も居なくなっていた。強すぎるが故の孤高となった可奈美はまるでずぶ濡れの捨て子犬のようで、舞衣に見て見ぬふりなど出来るわけがなかった。
姫和の実家を訪れたのは、そんな頃だ。
己に出来ないから、姫和を頼んだ。
「舞衣。お前が勝て」
その時の、姫和からの言葉が今も耳から離れない。
それが出来れば。勝てさえすれば可奈美を救える。可奈美を取り戻せる。
勝てさえすれば――
(――…)
瞼裏に浮かんで消えるのは、安桜美炎の姿だ。
美炎は強かった。途轍もなく強かった。その強さが、可奈美を救ったんだと思う。あんな戦いが、今の舞衣に出来るだろうか。
己の欲張りを叶えるには。
美炎以上に頑張る為には。
(…可奈美ちゃんに、追いつくためには)
舞衣は自室へ向かう廊下から、回れ右をした。明日の可奈美と会うまでに、会っておかなければならない人を思いついたのだ。
***
「零指(ぜろさし)。指摘(ゆびつむ)」
「…丹穂先輩」
「かっこうようおへん? あんさんのなさった、バージョン違いの一指の太刀の名前、考えてんよ。ちなみに零指は近距離型、指摘は威力重視型なん」
「…」
「あ。微妙な顔してはられる」
零指、はちょっとカッコいいかも、と不覚にも思ったが、指摘はどうか。なにかヤクザ映画っぽくないか。
「あった方が、書きやすいと思いますのん。戦闘詳報とか」
「それはそうかもですけど…でも、どうして」
どうしてそんなに気にかけてくれるのか。
「お母さん…五条学長の指示で?」
平城学長、五条いろはが常々、十条姫和を気にかけているのは知っている。それは今は亡き友、十条篝の一人娘であるからであろう。
「確かに、色々複雑な所はありますなあ。あまり当時を語ることはおへんけど、母様も篝さんを気にかけておりました」
篝と共にタギツヒメと直接戦い、早くに逝った衛藤美奈都といろは学長とは、似たところがあったかも知れない。飄々とした立ち振る舞いも、篝に対しての立ち位置も。
時は巡り、篝の娘、姫和へは、娘の丹穂でなく、早苗がその立ち位置に在る。
「…丹穂先輩も、十条さんにしてあげれば良いと思います」
「そうしてあげられれば、ええんやけどね。それはきっと、早苗はんの方がよろしいから」
「そんなことないですよ、きっと。十条さん、きっと先輩の方が言いたい事を言いあえるような気がするし」
「嬉しいこというなあ、早苗はんは。そやけど、早苗はんは勝ち、うちは負けた。姫和はんの心を掴んだのは勝ったあんさんやと思うてます」
「心を、つかむ…ことが、出来たら」
どんなにいいかと思う。例え、それが一瞬のことであっても。
姫和の心の何処か片隅にでも居ることができればそれでいい。元々はそこから始まった、今の早苗の剣である。工夫を重ねた一指の太刀は、その役割を十分に果たしたと思う。
果し終えた、とも言える。
明日の準決勝で姫和に出会えたならば、そこまでで、その先を考えた技ではなかった。早苗自身も、その先を考えていなかった。
「零指と指摘で勝てるん? 十条姫和の唯一の太刀に」
「――…」
姫和の唯一の太刀と初めて相対した者の問いかけであった。
それに応える前に丹穂はひょいと、背を向けてしまう。
「丹穂先輩」
「選手交代。こっから先は、あんじょうよろしゅう」
歩み去っていく丹穂と入れ違いに、階下より登ってきたのは――
「柳瀬さん…?」
「お邪魔だったかな」
登ってきたのは、柳瀬舞衣であった。しかし舞衣が、何故ここに? 早苗に用があるなら、それは一体?
「ううん。お話してただけだし」
「明日の、試合のこと?」
「ええと」
そうと言えるような、言えないような。
「頼もしい先輩だね。すこし羨ましいよ」
「柳瀬さんだって、可愛い後輩に囲まれてるじゃない」
「うん…」
「あ…。あの、糸見さんは大丈夫?」
「まだ眠っているの。明日の朝までは点滴するみたい。それからまた様子を見るってお医者様が」
一念無想の暴走は、糸見沙耶香に相当のダメージを残したようであった。可愛い後輩、などと早苗は言ったが、その後輩が昏睡しているとあっては舞衣も心配であろう。
「明日の試合、大丈夫? って、大丈夫ばっかりだね私」
「ううん。ありがとう。それよりもね」
「うん」
「私早苗さんと決着、付けたくって」
平城予選開催前、早苗と舞衣は平城の武道館で手合わせし、勝負無しで終わっている。1時間を超える、しかし一合も太刀を付けることのなかった熱闘であった。
その後早苗は、舞衣の見守る前で、十条姫和を一指の太刀で倒している。
「それは、今ここで?」
昨日に引き続き、人気のない屋上で夜稽古しようと思っていたから早苗は帯剣している。舞衣もまた、帯剣していた。
「違うよ。決勝を私達でやろう、ってこと」
「決勝を、柳瀬さんと…?」
もし姫和に勝利したなら、当然明後日も試合がある。舞衣か可奈美の何れかと戦うことになる。当然のことであるが、改めて言われて初めてそのことに思い至った心地がする。
(頭じゃ分かってた。けど…)
考えないようにしていた。考えても仕方がないことだったからだ。
姫和と戦う。そこで敗れ去ろうと、それは始めから分かっていたこと。それ以上を望むことなんてしちゃあいけない。何故なら姫和は…
姫和は――
「美炎ちゃんの試合を見て分かった。可奈美ちゃんをゴールにしたら、可奈美ちゃんと一緒に進んでいけない」
舞衣の、可奈美対美炎戦の見立ては、早苗と全く同じものであった。
しかし、至った結論は違う。
可奈美と進む、と舞衣は言った。それをするには、可奈美に勝利せねばならない。
「柳瀬さんは、衛藤さんに勝つつもりなんだね」
舞衣は無言で、こくりと頷く。
「だから、私との約束が欲しい。決勝で私と会うという約束が」
「…そうだよ」
「柳瀬さんは」
問おうとして、早苗は少しの間戸惑う。
しかしその結果、聞いていいのか、よりも聞いてみたいが勝った。
「柳瀬さんは、衛藤さんと戦って、それで満足じゃあないの? それ以上、何が欲しいの?」
御前試合決勝刀使、という名声は刀使となった少女なら誰もが思い描くものだろう。御前試合決勝トーナメントに進んで来た刀使ならば、それを目標としていて当たり前だ。
しかし、舞衣の場合、そんな俗な名声などを求めてはいない。早苗には…早苗だからこそ分かることだ。
だからこそ問うた。得られる答えこそ、きっと早苗の明日の標(しるべ)になる。そう思われたからだ。
「そうね。欲しいの」
対する舞衣は、我が右の掌を胸に抱く。
それは先ほどまで、眠り続ける糸見沙耶香の掌を握り続けていた掌であった。
「私、いけないコだわ。こんなに欲張りなコだったなんて私、思ってなかった」
「――」
可奈美に勝ちたいのだ。
勝って、掴み止めたいと思っている。早苗と同じように。そしてそれはきっと、早苗にしか理解が出来ない気持ちだ。その為に、可奈美に勝った未来を欲している。
「指切、する?」
「指切?」
「明後日の決勝で会おうって、約束するの」
「――…」
その約束をしてしまったなら。
早苗は、姫和に勝利しなければならない。
そうでなければ約束を果たせない。そうせねば果たせない約束だ。それを舞衣は迫って来ている。
「…柳瀬さんは、十条さんに勝った私と、戦いたいって思ってるの?」
「そうだね。そうしたら私、姫和ちゃんに勝ったことになるから」
姫和に勝ちたい。
それは、朧気に早苗が懐いた夢に斉(ひと)しい。
決勝で柳瀬舞衣に勝つ。それは即ち、衛藤可奈美に勝利したのと同じ意味をもつのだ。
「柳瀬さんは凄いね。そんな柳瀬さんと、戦ってみたくなったよ。だから…」
小指と、小指が絡まる。
そうすることにより、約束が産まれた。姫和に勝利するという、約束が。
「あの時の決着を着けよう」
「うん。あの時の決着を」
***
可奈美は、昨日の今日まで強くなろうと思ったことが無かった。歩と戦った昨日、初めて欲しいと思った強さは、美炎との試合では結局分からず終いだった。何もかも忘れて夢中で美炎にぶつかった結果で、仕方のないことだと思っている。それほどまでに美炎は、凄かった。
結果可奈美は準決勝進出だった。信じられなかった。美炎に勝ったのだ。昨日は写シが張れなかったのに。
皆私の事を最強なんて言うけど、負けたことなんて何度もある。
今なら思い出せるけど、母美奈都に勝てたことなんて数える程しかなかった。
思えば、負けた時でも悔しいとは、思ったことが無い。負けて驚き、ときめいた。楽しくて何度でも挑んだ。
歩との試合は不思議と、そんな気持ちとは違っていた。
試合は負けた。
歩の方が強かった。
母さんの千鳥を投げ捨てて、その結果刀使としての己を失うかも知れないと試合の後知っても、後悔は無かった。歩が無事なら良かったと本当に思えたのだ。
「強い、って何だろう」
衛藤可奈美の呟きに応えることは、友里歩にも田辺美弥にも出来ない。
他の誰であっても、出来ないであろう。
己は強かった、と可奈美は思う。それでも歩には敵わなかった。では友里歩の強さとは何であったのか。パワーなのか。スピードなのか。
いや、そんなものである筈がない。そんな即物的なものでない、物理を超えたところにある何か――
「…考えたって、分かんないや」
「それでいいんじゃないでしょうか」
「いいのかな」
「いいんですよ、きっと」
歩の言葉の本意としては、可奈美が分からないものは他の誰にも分からないに決まっている、というものであったのだろう。
可奈美は別の意味に受け取った。
刀使発祥の過去より尽未来際に至るまで、刀使達はずっとそれに向き合い、挑み続けるものなのかもしれない。母も、その母たちも、可奈美の周りの刀使達も、みんなみんな向き合い続けているものなのだ。
「…美炎さんは、強かったですか」
これは、歩の車椅子を支える美弥の問いである。
田辺美弥は昨日、歩の許を離れて美炎と共に居た経緯がある。
「むっちゃ強かったに決まってるよ」
「それは、歩より?」
「んー。比べられないよ。だってどちらも…」
「どちらも?」
「…――」
どちらも、何だろう。
試合の流れは、何から何まで違う。
しかし美炎にも歩にも等しく、何かが在った気がする。刀使発祥以来最高技量とまで言われていたっぽい己に無い、足りない何か。
それが分からない限り、永遠に歩にも、美炎にも勝てない。
何故だか分からないが、歩にも美炎にも勝てなければ、明日試合うこととなる柳瀬舞衣には決して勝てない気がする。
つまり、舞衣は、美炎や歩と同じ強さを有するのだ。それは多分、美奈都母さんとも。
「…強い、って何だろう」
応え得る者が居る筈がない。何せ答えを得たものが居ないのだ。刀使発祥以来、或いは新陰流の草創以来。
「明日舞衣ちゃんと戦えば、分かるのかな」
「はい。きっと」
「だったら、楽しみ」
ふと、思い出されるのは御前試合より以前の日々だ。
あの年の瀬以前はあんなに毎日立ち会っていた舞衣と、何時の間にかすれ違うことが多くなった。避けられていると気付いたのは程なくのことだった。舞衣と一緒に稽古場に立つことすら、いつの間にか無くなっていた。そしてそれは舞衣だけではなく、沙耶香や姫和もそうであった。
歩や美炎との戦いを経て、もうそんなことないと分かっていても、そんな少し前の出来事が、チクチクと胸を刺してくる。
「…歩ちゃん。美弥ちゃん」
「はい」
「…はい」
「…明日も一緒に居てくれる? ちょっと、怖いんだ」
これを言い遂げることこそ恐ろしかった。大荒魂タギツヒメと相対した時も、幽世の闇から現世への道行も。こうも唇震えることは無かったと思う。
「ずっと可奈美さんと一緒です」
だから、その歩の言葉に本当に安心した。
仕方ないな、という風な美弥の微笑みにも。
二人が一緒なら今日は良く眠れる。明日に備えられる。そんな予感がした。
***
「公儀御試し役、今際乱世。神示を得て今宵ここに罷り越した。持ち得るならば姓名流儀を承ろう」
「恐れ入りますが、それは出来かねます」
「何故の拒否か」
「私がそれを思い出せないからです、乱世さん。こうお呼びしても?」
「如何にても苦しからず。思い出せぬとは」
「ここは荒魂の巣窟としか私には思えません」
「如何にも。霞ヶ関魔城などと、巷に呼ばれると聞き及ぶ」
「私は意識を取り戻した時から荒魂の巣窟であるここに在って荒魂に襲われることもなく、お腹もすかないし眠くもなりません」
「ふむ」
「これより類推するに、私は実は荒魂であり、ヒトの姿にヒトの言葉を操ることより、己はヒトと勘違いしているだけの存在ではないのかと思われます。それ故そもそもヒトの名は持たないし、ヒトの技を盗んで使えはしても、誰かより学んだことはないのではないかと考えます」
「得心参らず」
「何故でしょうか」
「貴君は先刻「思い出せない」と仰せだった。初めから持った覚えがないならば名も姓も持たぬと答えた筈」
「それでしたら、断片的ではありますが、私の名を知っているだろう者の姿かたちが思い出せるからというのが理由です。このように人間の言葉を操ることからも、私は何者かを姿かたちばかりか脳の中までも模した荒魂であり、その者の記憶が断片的に想起出来るのだろうと考えられます」
「非常に精巧な擬態の結果のヒトの記憶であると」
「そうです」
「ならばさらに問う。貴君が荒魂であるとするならば何故に御刀を携える」
「これは本来私の御刀ではありません。誰かのものを借り受けているだけです」
「奇異なり。借り受けているだけというのであれば、何故に写シを張り得るのか」
遠望する各監視所に、一様にどよめきが走る。
馘と相対するタイプHが、写シを張っていると見て取れたからである。
「借り受けているのであれば我がものではない。我がものでない御刀はただの鉄刀に過ぎず、写シを張り得ることもない。ましてや人語を操り写シを張る荒魂などこの乱世、寡聞にして存ぜぬ。したが…」
再度、各監視所がどよめく。
馘の佩刀、月山鬼王丸が襤褸の内より、白刃を現したのだ。
「荒魂が御刀佩けば、そは神なり。荒神であるならば人語を操るも条理となる。されば畏くもこの乱世、御始祖より後、初めて再び神を試す今際となるか」
人外同士の斬り合いが、始まろうとしていた。