特別刀剣類管理局副局長、相楽結月は奈良・折神本邸へと戻る車のハンドルを自ら握っていた。
護衛車両は愚か、運転手も居ない。ドライバーズシートに結月の姿があるのみだ。不用心に見えて、こうせざるを得なかった理由がある。
ナビシートに投げて置かれた、ストレージがそれであった。
昨夜、霞ヶ関魔城屋上の夜会、その全ての画像データ、最新スーパーコンピュータで解析再現した音声データ、その全てが512テラバイトのそれの内にみっちり納まっている。
車両を運転しつつ、結月は横目で画像データを今も繰り返し再生する。
(誰にも悟られてはならない)
紫や朱音、紗南たち以外の誰の目にも触れさせてはならない、そして紫や朱音、紗南たちに必ず伝えるべきことが、そのスティック状のプラスティックの中に納められている。よって護衛も、運転手も断った。相楽結月単身で自ら、如何なる電信にも触れることなく折神本邸に運ばねばならなかった。
(今頃は準決勝第一試合が終わるころか)
時を置かず、第二試合が行われる筈だ。二人のファイナリストが程なく出揃う。
(しかしその決勝、行うことが出来るか?)
事が事だ。紫は兎も角、とりわけ誰よりも伍箇伝生徒のことを考える朱音は、どのように考えるか。
鬼参謀と呼ばれた結月をもってしても想像だに出来ない。だから共に見て直接、感じる処を伝える必要があったのだ。
(危険は承知。だが…)
東名高速道へと至る側道の、結月は信号でも一時停止でもない直線道路でブレーキを踏む。
路上に立ち塞がる者が居たからだ。
「こうも直接的に来るとはな。会津」
「あんたは私ら舞草にとって一番信用ならねー奴だからな。こうもするさ」
米製と思しきビックツインの鼓動が、大気を攪拌している。ロングツアラーと見せかけて、ハンドルはセパレートの攻めたスタイルだ。機動性は侮れない。高速に逃げ込んだとしても、大型バンの速力で振り切れる可能性は少ないだろう。
「何が望みだ、稲河暁。人類を裏切り荒神に付いた者の粛清か」
「誰かの命なんざ、あいつは欲してねーよ。ただ話が聞きてえだけさ」
「話とは」
「二つある。一つはあんたの娘、もう一つは、官邸から持ち帰った情報」
「後の方のは渡せん。伍箇伝の命運すら揺るがす機密だからな。どう扱うかを決められるのは、御本家様だけだ。前の方のは…そうだな、当人達に聞いてみたらどうだ?」
「ん…?」
その言葉を合図に、バックハッチが開く。
夥しい量のドライアイス・スモークが路上に溢れた。
「…おいおい。なるべく交渉のし易い、無防備なタイミングを狙ったつもりだったんだがな」
「だからって、親子水入らずのドライブの邪魔は頂けないですね、センパイ」
「お前が言うのかよ、鈴本葉菜」
霧を払って姿を現したのは、鈴本葉菜であった。
いや、現れたのは鈴本葉菜一名とは言い難いであろう。葉菜はS装備を身に纏っていた。結月の娘、瞑の魂を宿した二式〇番装備であることは間違いが無い。
「先を急いでるんです。道を開けてもらえませんか」
既に抜き身である。二ツ銘則宗にモノを言わせる気は満々と見えた。
「おいおい、斬り合いにきたわけじゃねーんだ。物騒なモンは引っ込めろよ」
「こっちのセリフです。隠れてる二人にも同じ事、言ってもらえませんか」
「流石葉菜。お見通しか」
後方より現れたのはやはり、鳥喰優稀と新田弘名の両名であった。何れもが既に抜き身である。
「刃物を突き付け合っていては話せることも話せん。刃を納めろ、稲河暁」
言いつつ、結月は戦況を推し図る。S装備装着の刀使ならば三名の刀使相手に戦うことも可能だろう。しかし葉菜が装備するのは、タギツヒメがノロ投与刀使に精神干渉し配下とする為に大きくデチューンされた二式装備である。
相手となるのは旧親衛隊の面々ですら一目置くと言われた稲河暁に加え、優稀、弘名も相応の実力者。とりわけ弘名はあの安桜美炎とすら五分に渡り合った手練れだ。葉菜単騎が、しかも己を守りながら戦うのは至難であろう。
「そっちが収めるんなら、こっちもそうしますよ、学長センセ。何度も言うが、斬り合いに来たわけじゃあねえ」
暁の言葉通りにするなら、それは投降である。大容量ストレージにミチミチに詰め込まれた機密情報が会津に渡れば、どのような事態に発展するかなど予想不能だ。それに…
「…二式〇番の状態は不安定で、分からんことも多い。下手を打てば全て失われてしまうかもしれない奇跡だ。話せることは多くない」
「それについちゃあ、こっちの智恵だって出せるかもしれねえ。いや、出させてもらうぜ。そこの葉菜は知らねえ仲じゃあねえからな」
「聞いているぞ。会津が進めているという、荒様兵装」
「悪い話じゃねえ筈だ。いや、悪い話にゃあ、この稲河暁がさせねえ。どうだ、一口乗らねえか、学長センセ」
「随分と御執心のようだな、会津は。一体、魔城にお前たちの欲する何がある?」
結月に出来ることは時間稼ぎであった。
往々にして襲撃者に対して時間は敵となる。例外なくこのケースもそうだった。
「…来たか」
暁の舌打ちより遅いか、速いか。
臼砲の弾着の如き飛来であった。
轟音と共に路面設備を圧壊させつつ、飛来したのは砲弾に非ず、二名の刀使である。
「お待たせネ!」
「いやそんなに待たせてもねーだろ」
古波蔵エレン、並びに益子薫。
何れも特別祭祀機動隊司令・馬庭紗南の子飼いであり、会津と対立する長船派の急先鋒である。
「丁度三対三ですね、センパイ」
「てめー暁、マジ、勘弁しろよ…」
薫は顎を出したが、これは何時もの感じの薫であるとも言える。
後ろを見ると、釣られたのか弘名も顎を出していたが、これは本当に何時ものことなので、暁は気に留めないことにする。
「ここはワタシ達の顔を立ててクダサイ、プリーズ。穏便に頼むネ。ノーウォー、ノー内紛」
「よく言うぜ。舞草自体、内紛が商売みてーなもんだろ」
「ならどうする。ここで商売道具、比べててみっか?」
暁は我が御刀、山姥切を鞘へと戻す。
「お前ら長船が何時まで旧折神派を抱え込んでおくのかは知らねえが、快く思ってねえ奴が居ることは心に留めとけ」
(ほう…乗って来ねえか)
薫は感心する。
ここで戦ったとしても、会津の三人に救援は望めまい。しかし薫たちにはそれが望める。手こずれば不利と見たのであれば流石は稲河暁、ギリギリのギリの一線というものを心得ているようだ。
「行くぞ」
「え。でも暁さん」
「伝えるべきことは伝えた。そこの蝙蝠女には分かってる」
鳥喰優稀は飲み込めない様子だったが納刀し、タンデムシートに納まる。ライダーズシートの暁は、サイドスタンドを蹴った。
「あの。私はどうすれば」
「走れよ」
「ええ…」
大鉄騎が轟音を蹴立て、それを追って新田弘名が走り去った。
「馬庭司令に貸しが出来たようだ。いやそれとも借りの方か?」
「や、まあ…」
「HAHAHA…」
薫とエレンは誤魔化す。まさか会津の内偵やら、相楽瞑の装備の調査やらを命じられていたのでつかず離れず周辺に潜伏していた、などと言う訳にはいかない。
「ふむ。まあ良い。会津め、ここまでするとは私の認識が甘かったか。余程お前たちが鬱陶しかったようだな」
「な、何のことでショー」
暁が行動を起こした目的は、葉菜のS装備や魔城情報の件がメインとして、副次的には薫とエレンを引っぺがすことにもあったのだろう。実際ここまでされては、薫もエレンも出て行かざるを得ない。
「流石は暁センパイってとこですか」
「ああ。しかし、何故こうも急ぐ?」
相楽副局長の問いは自問に近いものであり、葉菜や薫らに向けらえたものではなかった。しかし疑問とするところは等しい。自制に富むとされる会津の頭目、日高見真琴にしては拙速に過ぎる。
(やはり、全てのカギは…)
ナビシートのストレージに納まった、霞ヶ関魔城の夜会にあるのか。
***
早苗と姫和の残した熱の冷めやらぬ折神家本庭で、時を置かず、第二試合の二選手が招かれる。
西、衛藤可奈美。
東、柳瀬舞衣。
奇しくも去年と全く同じ、準決勝第二試合である。
前の年と同じ組み合わせ、というのなら前々年もその前の年も決勝は同じ組み合わせ、獅童真希と此花寿々花のカードであったが、その時は奇しくも、とは誰も言わなかった。やはりこの二人、という雰囲気が強かった。
本年度は圧倒的二強など居ない。全員が優勝候補、全員がダークホース。そんな大会であった。その中、同じ美濃関の二人が去年と同じく準決勝で出会うというのは奇しき縁とは言えるであろう。
「両者中央」
東陣より、柳瀬舞衣。
西陣より衛藤可奈美が進み出る。
(夢みたいだ…)
去年台無しになってしまったことを、今年またやり直せるなんてことが本当にあるだなんて。
「美炎さんも言ってたみたいっスよ。夢だって」
「え?」
「可奈美センパイは、刀使みんなの夢だって」
田辺美弥が携帯端末を指し示す。どうやらそのような書き込みを何処かで誰かがしたらしい。美炎本人では無いだろうから、美炎の言葉を聞いた美炎の友達の誰かだろう。山城由衣や、六角清香の顔が思い浮かぶ。
「私が夢…だったと、したら」
「だったとしたら?」
「何だか不思議」
今の今まで可奈美には、夢なんてものが無かったと思う。
夢の環境に居たからだ。周りには可奈美と同じ、御刀と剣が好きな友達が沢山居て、剣のことを話して、剣のことだけを考えていれば良かったから。
違和感を感じ出したのはあの年の瀬の頃からで、令和の御前試合が始まってからははっきりと表れた。夢が叶ったと思っていたのは可奈美だけ、いつの間にかどんどん夢は可奈美から遠ざかっていった。
気づけば、刀使であることも嫌になっていた。
「こんな私が、誰かの夢になるなんて、そんなことあるのかな」
「あると思います」
友里歩は断言する。
「可奈美さんは私の憧れでした。夢でもあったと思いますから」
「そっか」
それは、舞衣もそうなのであろうか。
昨日の舞衣の試合が思い浮かぶ。相手となった糸見沙耶香もまた可奈美の友達であり、だからどっちを応援するとかが、可奈美の中には無かった。どっちも頑張って欲しい、どっちも絶対負けないで欲しいと、ただそれだけがあった。
沙耶香は昏睡が続いていると言う。見舞うのは躊躇われた。傍らにはきっと、これから戦う舞衣の姿があるであろうから。
舞衣と最後に話らしい話をしたのは何時以来か。
直ぐには思い出せないくらい前のことだった。舞衣は何時しか可奈美を避けるようになり、そうと知った可奈美も、自分から舞衣に接することは無くなっていったから。
「だったら、嬉しいよ」
可奈美の答えは、歩に対してのみのものではない。
(もし、私が舞衣ちゃんの夢だったら)
一抹の寂しさが無くはない。夢は遠いものだ。儚いものだ。舞衣がそう思っているのなら、喜ばしいばかりではない。誰よりも近くに居たし、近くに居たかった友達である舞衣にそのように思われていたなら、すれ違うのも当然じゃないか。
それが分かっても、どうすればいいのか、可奈美には分からない。
だけど、決めていたことならある。
今度舞衣と会うのは、今日の、今ここがいい。
ここからまた続いて行くのか。それとも新しい関係となっていくのか。それとも…
(終わってしまう、のか…)
それだけは絶対に嫌だ。それも分かっていた。そうならないために、出来ること、胸の内全て、千鳥に込める。
(姫和ちゃんの時にはそれで、上手く行った)
だから、今度もきっと。
***
御前試合準決勝の選手権者ともなれば、控室も個室になるし、試合後のメディカルルームも個室が与えられる筈であるのに、早苗と姫和のベットは隣同士になっていた。ここら辺、医療班もまた伍箇伝生徒である。読める空気は読むのだ。
声に出せば届く距離に、早苗が居る。
「岩倉さん、貴方のことが分からなかった」
そうと知った時、姫和の口から自然とこの言葉が出た。
「私は自分本位の勝手な女だ。何かに辿り着こうと思ったら、他の事は眼に入らなくなる。大事なことだった筈のことも、優しくしてくれた人の事も。分かっていたから、誰かと親しくしようと思わないようにしていた。きっと酷いことをするに決まってるからだ。岩倉さんにだって、私はそうしていたと思う」
応えは無い。
意識が戻っているのか、戻っていないのか姫和には分からなかったし、確認するつもりもなかった。
「そんな私にどうしてそんなに良くしてくれるのか、私には分からなかった。一指の太刀の時だって、どうして私に拘るのか、分からなかった。だってあんな、刀使生命を捧げるような剣を…」
早苗は顔が広くて、信望があって、いつ見かけても誰かが周りに居て、真ん中で微笑んでいた。誰にも好かれ、慕われる早苗には、酷い女の己でなければならない理由は無い筈だ。姫和よりもっと早苗と仲よくしようと思っている者も、姫和より賢い者も、姫和より強い者だって居るかも知れない。
姫和でなくても良いはずだ。なのに何故。
「貴方に一歩でも近づければ、もっと貴方の事が良く見えるんじゃないかって思ったんだ」
唯一の太刀は、そんな逸る足の技であった。
「追いかけてる筈の貴方が、そんな風に思ってたなんて知らなかった」
何時からなのか、早苗の意識は戻っていたようだ。
黙って姫和の言葉を聞いていたのか。
「私に近づきたいだなんて、今更どうしてそんなことを言うの」
「どうしてって…」
「私はね。いつも黙って何処かに行っちゃう十条さんを呼び止めたかっただけなの」
何度も心の中で繰り返した言葉だ。声に出したことだってある。
けれど、姫和にこれを口にするのは初めての事だった。
「十条のお庭での稽古が、私は好きだった。あの時間がずっと続けば思ってたのに、十条さんはそうじゃなかったんだって思うと悲しかったし、黙って置いて行かれて腹が立ったし、今どうしてるんだろうって思うと辛かった。だから…」
一指の太刀はそうして産まれた。
「一度だけでもいいから、そんな私の事も振り返って欲しかったの。ただ、それだけ」
これを言い遂げる為、一年余を費やした。平均僅か五、六年とされる刀使としての生命の内の、一年という月日。
思えばこれを言い遂げる為に、一指の太刀は産まれたのだと思う。
「振り返って欲しいも何も…」
京都のあの夜を照らした、あの輝き。
生涯忘れることはないだろう。
「あの夜以来、ずっとあの輝きを追い続けていた。あれが一体何なのか、貴方が一体何者なのか、考えていたんだ。だけど今の言葉で少しだけ、貴方に近づけた気がする」
「そっか」
早苗の「そっか」は少し弾んでいて、姫和は思わず首を巡らす。
早苗は隣の寝台に寝ているのだから、当然ながら早苗はそこに居る。
「涙が出るくらい嬉しかったのは、十条さん家に行ったあの夜以来だよ」
早苗が泣いているというのに、微笑んでいるというのに、こてんぱんにされたあの夜のことを持ち出されたら姫和は素直になれない。
「ひどいな」
「ひどいことをしたのはお互いさまでしょ?」
「それもそうか。私達は、ひどい女だ」
「そうだね。私達、ひどい女だ」
早苗と微笑みあったのは何時ぶりか。いや、今までそんなことがあったろうかと姫和は思う。
多分、きっとこれがはじめての事ではなかっただろうか。
この上、言葉は要らない。
御刀も不要であろう。
互いが微笑んでいて、互いがその微笑みを見ている。ただそれだけの時間は多分、すれ違い続けた平城の二人がずっと求めていたものである筈であった。
***
令和元年度御前試合、その準決勝第二試合の火蓋が、紫の号令と共に切って落とされた。
衛藤可奈美。
柳瀬舞衣。
去年と同じこの美濃関の二選手が、同じ準決勝第二試合でぶつかる。
結果もまた同じとなるのか。
なるのかも知れない。
少なくともこの二年来の公式試合で、可奈美が舞衣に敗れた記録は無い。それは伍箇伝生徒の多くが知る事でもある。可奈美は伍箇伝最強無敵の刀使であり、何者も勝利することは出来ないだろう。それが柳瀬舞衣であっても覆ることはないだろう。去年と同じ結幕を予想する生徒は、少なくなかった。
そしてまさしく、去年と同じに二人は動いた。
飛び離れる美濃関の両選手。
可奈美は千鳥を平正眼に取る。対する舞衣は――
「「「おお…」」」
去年も同じ光景を見たというのに、折神正庭がどよめく。
(座構え…)
静々と舞衣は、両の膝を折った。孫六兼元は未だ鞘の内にある。
(舞衣ちゃんの居合…!)
御前試合は日時も相手も定まった、試合即ち立合の場である。然るに居合とは立合の対義語であり、立合で無い場合に抜き合わせる手段を指す。古くは天覧試合としても行われた御前試合で、居合の技を見せた刀使は当然ながら多くは無い。
舞衣の居合は、異質である。日時も相手も定まった、この御前試合で衛藤可奈美を倒すために工夫された、居合の概念を逸脱した居合なのだ。
先の糸見沙耶香戦で見せた、八幡力と迅移のコンビネーション居合を、可奈美は見ている。あれを放たれたら不味い。
(右だ…!)
可奈美は伍箇伝髄一の剣術通で知られる。居合への対処も熟知していた。
居合で最もポピュラーな平抜きは、左から右への横凪ぎである。故に舞衣の右手側に立っていたらまともに抜き付けられる。しかし左側に立つことが出来れば、怖い怖い平抜きは来ない。
可奈美は右に飛んだ。全力の二段階迅移である。
可奈美の右側は舞衣の左手側だ。あの横一文字の抜き打ちを放つには、可奈美に正対していなければならないが、拳銃弾並みの速度で走る刀使にそれは舞衣と言えど困難であろう。
(ここから、柄本を――)
柄本を抑え、抜刀を阻止しつつ斬る。
もし舞衣が新田宮流を試みていれば鯉口は切られており、間に合わない可能性が出て来るが目下舞衣は、鍔元を隠す様子が無かった。鯉口の様子ははっきり見てとれた。鯉口は、嵌ったままだ。
(勝てる!)
その筈だ。去年はこれで勝てた。去年と同じに勝てる。
(去年と、同じに…?)
何だ。この違和感は。
何故舞衣は去年と同じに?
(一度それで、負けてるのに?)
不味い。
舞衣は一度喰らった手を二度喰らうような刀使ではない。一度踏んだ鉄を二度繰り返すようならばそれはきっと…
(不味い、まずいまずいまずい!)
座構えの舞衣の柄元は低い位置にある。故に今年も今も可奈美は足で柄本を抑えに行った。そして確かに抑えられた。舞衣の抜刀は阻止され、可奈美は勝利した。それが去年だ。今年は――
舞衣の孫六兼元の柄は確かに押さえた。去年と同じだった。違うのは、抑えられたまま、孫六兼元の白刃が一ミリグラムの滞りも無く抜き放たれたことだ。
「神明夢想林崎流、卍抜き」
「…!」
可奈美は飛び下がった。二段階迅移であった。
勘が可奈美を救った。柳瀬舞衣ともあろう者が、去年と同じ愚を犯す筈がない。むしろ、可奈美の成功体験を利用して来たのだ。
それにしても、林崎流卍抜きとは。
「図に当たったではないか、観世の」
モニター越しに観戦する辻漣は、同じく傍らの観世思惟にほくそ笑む。両者とも、舞衣が師事した居合士であった。卍抜きとは思惟の修める神明夢想林崎流の基礎となる技であり、長じれば右手を捉まれていても三尺の野太刀を抜き放つことが可能となる。二尺四寸常寸の孫六兼元においておや、というわけだ。
「いや。仕損じ申した。流石は、伍箇伝最強。我が卍抜き、破れようとは」
「敗れておろうか。凡百の刀使ならば勝負あったところよ」
両手を斬り飛ばされるところだった。
左手裁断、右手半裁で済んだのは、可奈美が最大スピードで飛び離れたからだ。皮一枚で、辛くも可奈美は試合に踏みとどまった。両手を斬り飛ばされれば御刀を失い、その場で勝負は付いていただろう。
そうでなくても、ここまで斬られ、その後迅移を使った離脱までしてなお写シを保ったのは賞賛に値する。
舞衣の右手は、可奈美の右足によって封じられていた。しかし舞衣はその状態で抜いた。抑えられた右手を寸毫も動かさず、左手の鞘引きと体捌きのみで帽子の先まで完全に抜刀されたのだから、可奈美にとっては完全な奇襲だった。とっさに迅移での離脱を選択しなければ勝負は付いていた。
したたかに斬られはしたが、それも織り込んで歯を食いしばった。故に試合は終らなかったのだ。
(しまった…流石は…)
伍箇伝最強の戦闘指揮官、柳瀬舞衣。例え技で勝ったとしても、知略で敵う相手では到底ない。
「流石は、舞衣ちゃん…」
「もう独りにはしない」
「…え?」
「もう可奈美ちゃんを独りにはしないから」
静々と再び、舞衣がその両ひざを石台へと突く。
(あ…)
再度の舞衣の座構えを、可奈美は易々と許してしまっていた。
去年の御前試合準決勝第二試合には、ここより先はない。
今年の御前試合準決勝第二試合は、新たな局面を迎えつつある。
***
十分ほど時を遡る。
第二試合開始の刻限は刻々と迫っていたが、柳瀬舞衣が糸見沙耶香の傍らを動く気配は無かった。
「私がこんなに欲張りな女だったなんて、知らなかった」
舞衣の言葉を聞く者が居るとするなら、沙耶香のみだ。しかしその沙耶香は未だ昏々と、何時覚めやらぬ眠りをただ眠り続けるのみであった。
「最初はね。誰だってよかった。可奈美ちゃんの傍に居られる誰かが居たなら、きっと可奈美ちゃんは寂しくない、なんて…」
いつの間に、こうなってしまったのか。
誰よりも、可奈美の近くに。
そのようには思わないようにしていたのに。いくら思っても絶対、叶わない願いなのに。
「諦めたかったのに。沙耶香ちゃんだって、居てくれるのに」
何度も繰り返して来た胸の内を、言葉にするのはこれが始めての事だと思う。
「ここに居たい。試合に出たくない。試合に行ってしまったら、私…」
もう二度と沙耶香の許に戻ってこれないのではないか。
もう二度と、その資格を失って取り戻すことが出来なくなるのではないか。
昨日の試合、しがみ付いて来た沙耶香の両の手に込めらえた、強い強い力を身体が憶えている。振りほどくことなど、舞衣にはどんなことをしたって出来ない。
「ねえ沙耶香ちゃん。私どうしよう。どうしたらいい? 私いったい…」
こうしている内にも刻々と、時は移る。
試合開始時刻まで、幾ばくも無い。このまま舞衣がここを動かなければ、可奈美は不戦勝となり、決勝に進出するであろう。
舞衣は第一試合を見ておらず、姫和の勝利を知らない。しかしこのまま可奈美が進めば待つのは姫和であるかも知れぬのであり、それはかつて舞衣が望んだ結果であることも理解していた。
姫和であれば。
姫和であれば可奈美を救える。可奈美の傍に居てあげられる。
だからそれでいい。何の問題も無い。だから己はこのまま、沙耶香の傍に居ればいい。それで全ての目的は達せられる――
「…ま、い」
「…!?」
「まい…」
「…沙耶香ちゃん!?」
この時沙耶香ははっきりと、舞衣の名を声に呼んだ。
「気が付いたの!? 待ってて、今お医者さんを――」
「舞衣」
席を立とうとする舞衣の手を、沙耶香がしっかりと捉えていた。
そして、捉えたその手を、そっと押す。
「行って」
「さやかちゃん…」
「大丈夫。待つのは、好き」
「――…」
言葉にならない。
その代わりに、関を切って零れて来るものがあった。
涙だった。
「…待っててくれる?」
「うん」
「ほんとうに?」
「うん」
舞衣は、沙耶香が先ほどまで捉えていた手を伸ばした。
孫六兼元を掴む。
「必ず戻って来るから。だから」
「うん。待ってる。約束」
約束を交わした。
昨日も、約束を一つ、交わしていたことを思い出す。岩倉早苗との約束は、もう半分は叶わない。約束を守る事は、一人では出来ないのだ。でもだからといって、交わした約束は尊ばなければならないことに変わりは無かった。
医務室の扉を出ると、待合の椅子に高津刹那と羽島七奈が坐していた。今の今まで、舞衣が自分から出て来るのを、黙って待っていたのか。
「時間がありません。急ぎましょう、舞衣さん」
「ええ。沙耶香ちゃんをお願いね、刹那さん」
「心得た」
涙を拭うことはしない。
ここから正庭に出れば、可奈美に会える。それまでには、きっと乾くだろう。
そうしたら、全てをぶつける。全ては、可奈美の為に在ったのだから。
そうしたら、きっと約束も守れる。
その筈であった。
***
前年の舞衣の居合とは何もかもが異なる。先の沙耶香戦では、迅移と八幡力のコンビネーション居合を攻撃的に使って見せたのを、可奈美は目撃している。
昨年の舞衣の居合は、刃圏に踏み入らなければ斬り合いとは成らなかった。
今年は違う。四角四面の石台全域が、舞衣の射程だ。
後年一指の太刀と比較されることの多い舞衣の居合は、刀使技二つの連携という点て通性を備える。金剛身と迅移の連携である一指の太刀に対し、八幡力と迅移の連携であるから、八幡力を用いる一指の太刀のバリエーション、指摘や指切がより近いであろう。
何れも、絶え間なく連発出来る技ではない。一指の太刀は中距離、そして車構えより発起の技。舞衣の居合は座構えより、納刀状態からの発刀であり、特定状況での技、という点は同じである。
指摘を除く一指の太刀には金剛身が上手く連携されている。これが実にやっかいであり、半端な技を当てに行ってもダメージが通らず、リスクの高い大技で応じなければならなかった。
舞衣の居合は、金剛身を用いない為、防御のアドバンテージはない。
代わりにあるのは射程だ。八幡力を両の足に用い、迅移をジャンプでブーストすることで、二足刀、一般的な刀使の間合いの遥か遠くを間合に収める。効果範囲は姫和の唯一の太刀に迫り、かつ迅移中に迅移、などと言う離れ業ではない為制御はより容易で、放てば則場外、にはなったことがなかった。
(まずい…)
こればっかりだな、と可奈美は思う。
昔日の舞衣とは何もかも違う。違うんだろうな、とは思っていたがここまでとは思わなかった。
可奈美は飛び下がって抜き打ちを躱したが、舞衣もまた同時に飛び下がっていた。引き打ちだったのだ。
可奈美が足で踏んづけていたから、前には行けない。当然下がる。下がったら太刀を継ぐ。攻め続けて勝つ。そのつもりだった。
ところが舞衣はただ下がったのではない。普通に下がったのなら可奈美は追って太刀を付けただろう。舞衣は、抜刀を封じられて使えぬ筈の迅移で下がったのだ。美濃関予選、稲河暁戦と同じで、迅移で素早く退避することによって空振りを狙っていく。
ここで判断よく可奈美は、太刀を継がなかった。下がる舞衣に対し、己も下がった。互いに下がったから技は浅くなり、可奈美の写シは失われなかった。もしその場で太刀を継いでいたら、迅移で下がる舞衣を追い切れず、空振りしたところをまともに貰っていただろう。
(流石は、可奈美ちゃん)
とはいえ一方的に攻撃できるチャンスを、舞衣は掴んだ。サーブ権獲得、といったところだろう。
可奈美が迅移で踏み込んでもここからでは届かない。
舞衣の居合は、ここからでも届く。
この時点で舞衣は策の一つ目を潰されている。昨年と同じ展開で可奈美を誘い、罠に嵌めるつもりだったのだ。
一つ目、というからには二つ目がある。
もし可奈美が下がったならば間合いが空くだろう。間合いが離れた現時点で、可奈美には舞衣の居合を受ける以外の選択肢が無くなる。迅移で踏み込んでいけばその迅移の終わり際を狙い撃ちされる。出来る、ということを今舞衣が示した。
可奈美は踏み込んで行きづらくなった。対して舞衣は一方的に抜きつけていくことが出来る。虎バサミのように閉じて終わりの罠ではない。地獄穴のように、今も口を開けて待っている。
(何をやっても読まれてる気がする。舞衣ちゃん相手に、離れてたらダメだ)
踏み込んでも抜き付けを貰う。
承知で踏み込む。今度は、直接に斬っていくのではどうか。
そうしよう、と可奈美が心に定めた瞬間、舞衣の姿がかき消えた。
(あうっ…!)
舞衣の居合だ。
逆を突かれた格好だ。行こうとした出鼻に斬って来られた。
(攻め気を出し過ぎた…!)
体勢が崩れた。崩れるに任せた。
横転する。
それが幸いした。孫六兼元は可奈美の頭頂部の皮一枚を斬り飛ばしたのみだった。転倒した可奈美は二転、三転と転がって間合いを取る。
追撃は…来なかった。
代わりに来たものは…
(また座構えだ…)
さっきまで可奈美が居たところで、舞衣が美濃関の緋色のスカートを捌き、再び坐した。振出しに戻った。サーブ権は未だ、舞衣の許にある。