南チロルの宮廷道化師   作:神山甚六

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アルベルト・フォン・メンスドルフ=プイリー=ディートリヒシュタイン伯爵(Albert von Mensdorff-Pouilly-Dietrichstein)(1841年9月5日-)は、オーストリア帝国の貴族、外交官。政治家である。

 第1次世界大戦直前、オーストリア=ハンガリー二重帝国の駐イギリス全権大使として、7月危機の回避に向けて尽力したことで知られる……


プロローグ
道化師との出会い(1917年12月中旬 スイス連邦 首都ベルン)


 永世中立国であるスイス連邦は、欧州諸国の中央に位置する内陸の共和制国家である。

 

 12世紀の建国以来、国内にドイツ系住民とフランス系住民、そしてイタリア系住民を抱え、建国期には君主制主義者と共和制論者が、宗教改革以降ははカトリックとプロテスタントが、長い18世紀には国の将来像をめぐり中央集権派と地方分権派が、次いで自由貿易論と保護貿易論が国論を2分した。

 

 ドイツ(神聖ローマ帝国)とフランスという、2大大国に挟まれた内陸部のモザイク国家が、時には内戦という事態に陥りながらも、最終的には独立を維持出来た理由は何か。

 

 それは、この国の地理的な環境にある。

 

 南のイタリア王国との国境にはアルプス山脈が聳え、西側のフランス共和国との間にはジュラ山脈とレマン湖、そしてドイツ帝国とは西にライン川と東側のボーデン湖が、それぞれ自然国境として成立している。まさに「天然の城塞都市」だ。

 

 攻めるに固く、守るに難しい。仮に勢力圏に置いたとしても、それを維持するのは困難を極める。そして国内で激しく対立していたとしても、スイス人は外敵に対して結束した。それはリソルジメントまでイタリア半島に多数存在していた小国家に似ているのかもしれない。

 

 欧州屈指の名門であるハプスブルクの家祖は、ここスイスはバーゼル近郊、ライン川上流で10世紀頃に興った。公式の歴史書では、古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門の末裔を自称しているが、実際には成り上がり者であろう。

 

 それは確実な史料において存在が確認出来るエティション家の、ブライスガウの上アルザス伯グントラムが「金満公」と渾名されていることからもわかる。

 

 この金満とは資産を意味しており、中世において資産といえば土地を意味している。グントラム金満公は独仏国境エルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)のヴォージュ山脈から、ドイツ帝国南西部のバイエルン王国の国境近くのシュヴァルツヴァルトに跨る、広大な領地の主であったという。

 

 グントラムがどうした経緯で、これだけの領土を保有するようになったのか、今となってはわからない。だがエティション家はゲルマン系貴族の家系であり、グントラムはさらにその分家だ。おおよそまともなやり方で手に入れたものではないことは、想像がつく。ハプスブルクに伝わる二行詩節の箴言は、この頃からの伝統だったのかもしれない。「古代ラテン人の血を引く有力貴族」が、聞いて呆れるというものだ。

 

 あげく金満公は時の神聖ローマ皇帝に睨まれ、帝国議会の決議により「裏切り」の烙印を押された結果、領地を没収された。その子孫がハプスブルク家の家祖である。なにやら、現在の状況を先取りしたような話ではないか。

 

 雪がちらつくアーレ川の川沿いの道を1人で歩きながら、私はかくも生産性のない思考をぐるぐると巡らせていた。

 

 仮にもハプスブルクに忠誠を誓った、二重帝国の貴族が考えるべき内容ではないことは理解している。まして今は「戦時中」だ。公の場で口にすれば、たとえそれが自分でなく皇族であったとしても、無事では済まないはずだ。「皇帝の忠実な下僕(treugehorsame Diener seines Kaisers)として、帝室への忠誠を貫いた亡き父が聞かれれば、さぞ落胆されることだろう。

 

 ……それとも不肖の息子の事などより、今のハプスブルクの現状を嘆かれるだろうか?

 

 厚い雲に覆われた薄暗い空の向こうから、教会の鐘が鳴り響いている。懐から懐中時計を取り出して時刻を確認すると、既に午後6時を回っていた。すでに半時間ばかりも、こうして表を歩き回っていたことになる。

 

 忘れていた寒さを思い出したように、私はコートの襟を両手で手繰り寄せた。

 

 国土の大部分が高地のスイスは、夏期の避暑地として有名であるが、雪に閉ざされるのも早い。最も多くの人口が居住するスイス高原ですら、平均標高は600m以上もある。度重なる豪雪によって主要な街道や駅が封鎖されると、さながら国全体が陸の孤島と化す。だからこそ、あのボーア人の将軍は会談場所として指定したのだろう。

 

 欧州大陸のほぼ中央に位置する永世中立国は、表向きの平穏とは裏腹に、協商陣営や中央同盟の目がそこかしこに光っており、各国の諜報員や外交官の情報収集や諜報活動が絶え間なく行われている。しかしその全てを監視することは、物理的に不可能である。ましてや国家と民族の存亡をかけた総力戦の最中では。

 

「木の葉を隠すなら森の中、人を隠すには人混みの中、か」

 

 家路を急ぐ通行人を眺めながら、私は小さくため息をついた。

 

 防寒着でモコモコと膨れ上がった彼らの足取りは、足場を確かめるようにゆっくりとしており、そして一様に沈鬱な視線を足元に向けていた。中立国であるスイスにも、大戦の影響は確実に影を落としている。内陸国にとって、周辺国との通商関係は死活問題だ。雪を踏みしめる音が、背後から迫り来る破滅の音に聞こえるのかもしれない。

 

 石畳の道路には、除雪作業に追いつかない雪がうっすらと積もり初めている。ちょうど除雪作業をしていた労働者の集団が、私の目に留まった。彼らは機関車の如く白い息をせっせと吐き出しながら、スコップで手際よく目の前の川に雪を投げ込んでいく。その雰囲気や態度から、彼らが元兵士であることは直ぐにわかった。

 

 視線に気がついたのか、作業員の1人が手を止めて、こちらを怪訝な表情で見返す。私は軽く一礼すると、杖で足元を確認する素振りをしながら、彼らの横を足早に通り過ぎた。

 

『何だあの野郎、陰気な顔して、人をじろじろと見やがって……』

『おいアラン!手を止めるんじゃねえよ!』

 

 背後からなまりの強いフランス語が聞こえた。どうやらフランス語圏からの出稼ぎらしい。肉体労働者特有の激しいやり取りが続くのを聞きながら、私は再び歩き始めた。秘書や警護官には悪いが、私はまだ宿泊先のホテルに戻る気にはなれなかった。

 

 それにしても「陰気な顔」か。

 

 私はしばらく歩いてから街頭の下で立ち止まり、そう呼ばれた自分の顔を撫でた。鏡を使わずに、自分の顔を見ることは出来ない。すれ違うスイス人の表情が沈んでいると感じたのは、私自身の精神が沈んでいたからか。それにしても、今の自分は、それほどまでにうらぶれた表情をしているのか。

 

 そのような意味もない思考に逃げ込みたくなったが、私はそれを振り払うように首を振った。山高帽に薄く積もった雪が零れ、私の視界を遮る。まるで先の見えない祖国の現状のようだ。思考が沈みがちになることに抵抗するかのように、私は再び歩き始めた。

 

 この瞬間にも、最前線の劣悪な衛生環境下で恐怖に耐えている兵士がいる。貴族であろうと労働者であろうと、将校であろうと兵士であろうと、彼らは凍りついた大地をシャベルで掘り、飛び交う砲弾の下で寒さと飢えに耐えている。貧しい食糧配給に耐えながら、休む間もなく軍需工場で働き続ける労働者がいる。民需工場で働く女性や子供がいる。官僚機構や企業は、戦争継続のために必死の努力を続けている。帝国の行く末を案じておられた先帝陛下。そして先帝陛下から重責を引き継がれた皇帝陛下。

 

 貴族として、外交官として、何よりメンスドルフの男子として。ハプスブルクの今を知りながら、私の外交という戦場から目を背けるわけにはいかない。逃げ出すことなど、もっての外だ。

 

 それでも私は、考えてしまう時がある。

 

 1914年6月28日。あの忌々しいセルビア人テロリストにより、二重帝国の後継者であるフランツ・フェルディナント大公殿下が暗殺された時、世界と歴史、そしてハプスブルクの歯車は狂い始めた。

 

 セルビアと二重帝国の外交問題は、いつの間にかロシア帝国とドイツ帝国の外交問題となり、ドイツ軍はブレーキの外れた暴走機関車の如くベルギーへと侵攻した。そして「クリスマスまでに終わる」とされた世界大戦は、既に4回目のクリスマスを迎えようとしている。

 

 何故、何故だ、何故なのか。我々はどこで道を踏み間違った?

 

 偉大なる先帝陛下!高潔にして慈悲深く、誰より勤勉で、誰よりも公平で、誰よりも慈悲深く、そして誰よりも帝国の繁栄を望まれ、そして誰よりも平和の尊さを御存知であった先帝陛下は、再び欧州の平和を目にされることなく、1916年11月21日に崩御された。旅立たれるその日まで、先帝陛下は帝国の行く末を案じておられたという。

 

 陛下の68年の治世の最後を汚したのは、セルビア人なのだろうか。それともドイツのカイザーなのだろうか?

 

 ベルヒトルト伯爵は愚か者だが、セルビア人のそれと、ドイツ軍参謀本部の頑迷さには適わないだろう。相互防衛の同盟関係にあるフランスとロシアを同時攻撃するのは、まだ理解出来る。だが何故、そのためにベルギーを攻撃しなければならなかったのか。軍事的合理性だとドイツ人は主張するが、そのためにイギリス人を敵に回す必要があったとは、私には思えない。それともこれが、ヘーゲル流の弁証法だとでもいうのだろうか。

 

 「余の帝国を希望なく、ただ破滅させることは出来ない」という先帝陛下の御意思を、皇帝陛下は二重帝国の帝位と共に継承された。協商陣営との水面下における接触を、正式な和平交渉へと引き上げ決断を下されたのは皇帝陛下である。そして皇后陛下の御実家であるブルボン=パルマ家を介した度重なる協議の末に、ようやく今回の会談にこぎつけることが出来た。

 

 これで平和が訪れる……そう喜べたら、どれほどよかった事か。協商国との会談を重ねれば重ねるほど、両陣営の溝の深さに愕然とするばかり。そこには1914年6月以前の信頼関係は存在せず、ただむき出しの憎悪と敵意だけが満ちている。

 

 同じ中央同盟陣営の二重帝国とドイツ帝国ですら、戦争指導や戦後構想に関しては厳然たる対立がある。ドイツ帝国の平民宰相ゲオルク・ミヒャエリスは、ドイツ参謀本部の傀儡でしかない。二重帝国内部においても、ハンガリー王国とオーストリア帝国との間では、埋めることの出来ない亀裂が生じつつある。

 

 先帝陛下が和平を望まれたのは1917年の春。夏は過ぎ去り、秋にも具体的な進展はなかった。今は12月の後半である。協商陣営と同じテーブルに着席したことは、外交的な進展ではあっても、成果ではない。

 

 外交官が逡巡と葛藤を重ねている間にも、戦局は大きく動いた。

 

 1915年から続いたルシタニア号危機-アメリカと中央同盟との外交危機は、ドイツと二重帝国によるなりふり構わない外交努力により、無制限潜水艦作戦の無期限停止引き換えに、アメリカ合衆国の参戦という最悪の事態は回避出来た。イギリス軍潜水艦によるアメリカ船籍の貨物船沈没事件という敵失も、影響を与えたことは間違いない。

 

 現在、西部戦線においてドイツ帝国軍は守勢に回っているが、東部戦線はロシア国内の革命によりロマノフ王朝が倒れ、継戦派の暫定政府もボリシェヴィキのクーデターによって崩壊した。新たな革命政府とドイツ軍は、和平工作に着手したという。

 

 東部戦線の決着がつけば、戦況は中央同盟に大きく傾く。イソンゾ戦線でもドイツ軍の支援を受けた二重帝国軍が、イタリア王国軍の塹壕を突破。ピアーヴェ川へと前線を押し上げた。中央同盟陣営の戦果を知らせる勇ましい記事に続き、中央同盟の勝利は確実であるという楽観的な見解が紙面をにぎわせて久しい。

 

 だが、それによって二重帝国の政情不安が改善されるわけではない。東部戦線の正式な停戦合意が結ばれるまで、中央同盟陣営が耐えられるのか?オスマン・トルコが瀕死の病人と呼ばれ始めたのは、昨日今日のことではない。ブルガリアはバルカン戦線を維持するだけで手一杯だ。ドイツや二重帝国も、万全な状況とは程遠い。

 

 1917年のモスクワで発生したことが、1918年のベルリンで、コンスタンティノープルで、ソフィアで、そしてウィーンで発生しないと、誰が断言出来るというのか?そしてそれが発生するのは来年ではなく、今日か明日かもしれないのだ。

 

 1916年冬に表面化したドイツ帝国における深刻な食糧危機は、二重帝国にも甚大な影響を与えた。同じ同盟国で食糧買い付け競争が発生し、全国各地で餓死者が続出。ルシタニア号危機が終結したことで北米からの穀物輸入が再開され、状況は多少改善されたものの、ハンガリー国内では食料配給が滞り続けており、インフレとなって経済全体に悪影響をもたらしている。

 

 都市部には困窮した帝国内部のあらゆる民族が流れ込み、生活苦から労働争議とストライキが多発。昨年にはオーストリアのシュテュルク首相が、戦争反対を掲げる政治家に暗殺されるという痛ましい事件が発生した。参謀本部によれば、前線での命令不服従や脱走が相次いでいる。反君主制論者や民族主義者も、声を上げ始めた。

 

 1917年は、今次大戦の転換点と記憶されることは間違いない。

 

 だが、それは如何なる意味でだろうか?

 

「革命か」

 

 口をついて出た自分の言葉に、私は思いもがけない衝撃を受けた。ネジの切れた人形の如く歩みが止まり、棒立ちとなってしまった。

 

 確かに自分は、その可能性について考慮していた。国家の危機について、頭では理解していたつもりであった。だが、何故それを口にしてしまったのか。その理由が自分自身でも理解出来ない。それがショックだった。

 

 自分の思考が自分のものでないかのような、この慣れ親しんだ体が、突如として自分の統制を逸脱したかのような感覚。体の底から湧き上がる身の震えが、外気温と体温との差から来るものでないことは明らかだった。

 

 私は体の震えを抑えるために、杖をついて立ち止まると、アーレ川を見下ろした。

 

 氷の張った水面には、白い雪が降り積もっている。西部戦線にも、東部戦線にも、そしてロシアの大地にも、雪は等しく降り積もっていることだろう。

 

 雪は血の色や死体を隠すことが出来るかもしれないが、その事実をなかった事には出来ない。ロシアの革命政権を率いている社会主義者のレーニンは、元をたどればドイツ人だという。大戦で死んだ戦死者ではまだ足りないのか、彼らは暫定政府との内戦を始めた。

 

 社会主義者の教条主義と、ドイツ軍人の軍事的合理性を最優先する姿勢。両者には何らかの共通性があるのだろうか?

 

「……失礼ながら、前駐英大使のディートリヒシュタイン伯爵閣下だとお見受けいたしましたが?」

 

 自分の精神の支配を取り戻そうと悪戦苦闘を続けていた私に、教科書を読み上げるような無機質なまでのドイツ語が投げかけられた。

 

 

 私以上に陰鬱に思える顔をした青年は、機先を制するかのように、自らをトレンティーノ人民党に所属する帝国議員だと名乗った。

 

 人民党のアルチーデ・デ=ガスペリ。私はその名前に聞き覚えがあった。しかしながら、いつ、どこで見聞きしたものであったのかは、咄嗟に思い出せなかった。

 

 それでもトレンティーノ人民党という政党名で、目の前のくたびれた眼鏡を掛けた青年が、イタリア系オーストリア人であるという認識に至る事は出来た。

 

 オーストリア帝冠領に属する南チロルのトレンティーノ地方は、イタリア王国が「未回収のイタリア」と呼称している地域だ。南チロルには一定数のイタリア系住民が居住していたが、住民の大部分はドイツ人である。少数民族を理由に領土を要求するなど、サヴォイア家の対外的な侵略姿勢に他ならない。少なくとも私を含めた二重帝国の主流派は、そう考えている。

 

 つまり帝国における、潜在的な不穏分子と位置付けられている少数民族を支持母体とするのがトレンティーノ人民党であり、この青年が所属する政党である。サヴォイア王家によるリソルジメント(イタリア統一運動)が本格化する中、トレンティーノのイタリア人の動向は、常にウィーンの懸念材料であった。そしてイタリア王国が三国同盟を廃棄し、協商陣営として敵国になった今、トレンティーノ人民党の政治的立場は非常に危うい。

 

 その人民党の幹部であるデ=ガスペリが、この時期に中立国であるスイスに滞在している。そして偶々、自国の元駐英大使を見かけたから、声を掛けた……というのが青年の説明だ。

 

 不審であり、偶然というには出来すぎている。だが、これが必然であったと断定出来るほど、私に確固たる根拠なり考えがあるわけではない。そして帝国における潜在的な不穏分子であったとしても、目の前の青年がイタリア王国と繋がっている証拠はどこにもない。

 

 敵か味方かはわからないにしても、それを見極めるのは外交官の職務の内である。そう割りきった私は杖で地面を突きながら、青年の意図と真意を探るための質問を重ねた。

 

「それにしても、君はイタリア人には見えないな」

「よく言われます」

 

 私と並んで歩き始めたデ=ガスペリは、私の物言いに怒るでもなく気分を害するでもなく、最初に私に声をかけた時と全く同じ調子で返事を返した。

 

 彼は安物の草臥れたスーツの上から、塹壕で兵士達が使うような皮製の防水コート、それもあまり質の良くないものを着込んでいた。足元のブーツも、紐がすり切れている。御世辞にも、身なりを整えた私の横を並んで歩くには釣り合いのとれた恰好ではない。しかし彼がそれを気にする気配は感じられない。私の質問に対する受け答えでも、それは変わらなかった。

 

 話を進める内、私が青年の名前を見たのは、カトリック系の日刊紙や雑誌であったことを思い出した。本人に確認したところ「それは自分でしょう」とあっさり認めたので、間違いあるまい。聞けば学生時代から、キリスト教系の学生運動に関わっていたという。政治的なキャリアも、教会組織を通じた活動から始めたそうだ。

 

 自身の政治的な経歴よりも、カトリックについて語る時に、青年の口調は熱を帯びた。

 

 私は、彼を享楽的なイタリア人らしからぬと感じた理由が、うっすらと理解出来た気がした。この青年は、イタリア人やトレンティーノ人民党議員である前に、カトリック教徒なのだろう。だからこそ貴族である私に対して、追従することもなければ、反抗することもない。

 

 聖書のパウロの書簡に「人間はただ神の前においてのみ平等である」という言葉がある。ハプスブルクの少数民族である彼は、偏見と差別と無縁ではいられない。だからこそ青年は、神の前の平等という信仰に生きることを選んだのだろうか。だとすれば自分を貶めることも、必要以上に大きく見せようとする必要もないのも道理ではある。

 

 このように、理屈では説明出来るかもしれない。しかし実際に神の前に平等である生き方を貫くことは難しい。まして世俗にありながら、信仰と共に通ることは更に困難。彼の風貌が政治家というよりも、教師や聖職者を思わせる生真面目さが感じられるのも、頷けるところだ。同時に頑固で誇り高いチロル人気質が感じられるのは、私の思い込みだろうか?

 

 ここまで来れば、私が感じた既視感の正体も、自ずと理解した。それは同じようにカトリックに対する篤い信仰心を持つ人物と、私が日常的に接している事からくる感覚だったのだ。

 

 畏れ多いことではあるが、皇帝陛下の善良な御気性と慈悲深さは、お側に仕える者の間では、疑う余地がない。そして、それらはカトリックとしての陛下の信仰心に寄るところが大きいというのも、衆目が一致するところだ。

 

 そのため陛下は宗教保守派として帝国内のプロテスタントから警戒されているし、陛下が王権神授説の信奉者であることは、政治的な選択肢を狭めている。そうした経緯もあり、残念ながら先帝陛下に勝るとも劣らない皇帝陛下の実直さは、相手からの尊敬ではなく、若い皇帝への侮りを招く結果となっている。

 

 私には、それが我慢ならない。

 

 善良という美徳が、政治家としての悪徳となってしまう事態があることは、私も理解している。恩人であるジャンヌ・ダルクを見殺しにしたシャルル7世は、彼の悪徳ゆえに荒廃したフランスを再建する事が出来たのだ。

 

 だからといって、生来の善良さを理由として、人格や存在まで否定される理由にはならないはずだ。

 

「皇帝陛下は素晴らしいお方です」

 

 その無機質なドイツ語の使い方に、私は自分自身の考えと共に、神経が逆撫でされたような感覚に陥った。機敏な感情に直接手を入れてきた事への反発と、苛立った精神のまま、私は目の前の青年にそれをぶつけた。

 

「それは君の本心か?イタリア流の皮肉だとすると笑えないが」

「社会民主党とは異なり、我がトレンティーノ人民党の中に、帝国と帝室への叛意を持つものはおりません」

 

 態々スイスにまで足を延ばして、政敵の批判を進言に来たのか。私は石畳の積もった雪を、杖で突き刺しながら、更に問うた。

 

「では、君個人はどうなのか」

「教皇猊下と皇帝陛下のどちらに、私の忠誠があるのかという質問であると理解します」

 

 見た目通りの手堅く面白みのない解釈をしてから、デ=ガスペリは続けた。

 

「その質問に対して、私はこうお答えするしかありません。『カエサルのものはカエサルに、神のものは神に』。私は信仰と国家への忠誠、そして自由主義と教会、資本主義と信仰は対立する概念ではないと、確信しております」

 

 自らのキリスト教民主主義者としての政治信条を明確にした青年に、私はなおも意地の悪い質問を重ねる。それは大衆が、長引く戦争に対する不満や苛立ちを皇帝陛下にぶつけるのと同じく、ひどく醜い情念からくるものであった事は、否定出来ない。

 

「それを君は神に誓えるか?」

「聖父と聖子、そして聖霊との御名にかけて」

「……そうか」

 

 言葉や話し方には、その人物の思想や生き方が顕れる。私の予想に反して-あるいは予想通りというべきか。デ=ガスペリの表情や態度は、政治的、あるいは宗教的な狂気とはかけ離れていた。

 

 私は一瞬でも外交官である自分が、自らの感情に支配されたことを恥じつつ、懐中時計を取り出しながら尋ねた。

 

「時に、時間はあるかね」

 

 

 1867年。多民族国家であるハプスブルク家は、ナポレオン戦争後も続く自由主義の台頭と民族ナショナリズムの高揚により国内が動揺する中、オーストリア帝国とハンガリー王国による同君連合の二重帝国の建国を宣言した。

 

 主要言語であり多数派だが過半数ではないドイツ人と、マジャール人(ハンガリー人)を中心とすることで、ハプスブルクの支配体制を再編・強化する事が、その目的だった。単純に両者が同盟を結べば、過半数とは言わないまでも圧倒的多数になる。それは奏功し、国内は「ドイツ人帝国」時代よりも安定を得た。直後の普仏戦争(1870)の敗戦を乗り越える事が出来たのは、この政治同盟に拠る所が大きい。

 

 しかし帝国内にハンガリー王国が復古したことは、チェック人やスロバキア人、セルビア人という-少数民族と呼ぶには数が多く、マジャール人に比べると数が少ない民族の自治意識を刺激する結果にも繋がった。

 

 サラエボで亡くなられた皇太子殿下は、その解決策としてチェコ人と南スラヴ系住民の自治権を拡大することで、ハプスブルクを「三重帝国」にすることを提唱しておられたが、これは既得権益の剥奪につながるとしてハンガリーが猛反対していた。

 

 今となっては過去の話である。

 

 繰り返しになるが、トレンティーノ人民党は、オーストリア帝国議会において同地域のイタリア系住民を代表する民族政党である。リソルジメントでイタリア王国が建国されると、少数民族のイタリア系住民もナショナリズムに目覚めた。

 

 絶対的な敵の存在、そして支持する母数が限られていれば、組織は自ずと過激化する。まして味方となりうる同じ民族は隣国だ。これで警戒するなというのが、無理というものである。

 

 長い散歩を終えてホテルに戻った私を出迎えた随行団は、風体のよろしくない身元も定かではない人物を連れてきた事に驚き、それがハプスブルクの潜在的な反体制派である帝国内のイタリア人であることを知ると、一様に批判的な視線を、私ではなく青年へと向けた。

 

 外交官ですらこれなのだから、一般的な国内におけるイタリア人の置かれた立場は、想像以上に厳しいのだろう。

 

 そのような剥き出しの敵意と疑念を向けられたにもかかわらず、デ=ガスペリという青年は、若いながらも自分の風貌や立ち居振る舞いが、他人に対してどのような印象を与えるかということを、経験的に理解しているようだった。少なくとも私の目にはそう映った。

 

 頑固なティロル人の典型のような厳めしい風貌の青年が、悠然とした足取りで歩き始めると、最も声高に批判していた大使館付の参事官ですら黙り込んだ。みずぼらしい服装も、彼に修行僧のような神秘性を付与するアクセサリーとなった。

 

「三国同盟が解消されたのは、トレンティーノのイタリア人にとっても悲劇でした」

 

 愉快そうではないが、不機嫌そうではない。それでいてはっきりとしたドイツ語で、彼は自身の考えについて短く語り、自分が民族統一主義者の狂気とは無縁であることを周囲に強調した。

 

 言葉の内容ではなく、立ち居振る舞いで周囲を感化する。矛を収める、あるいは気勢を外された随行団を見ていた私には、何故かこのイタリア人が宮廷道化師のように思えてきた。

 

 排他的なベルンの数あるホテルの中でも、ここは飛びぬけて格式と敷居が高いことで知られる。隠密行動には向いていないように思えるが、例えば目の前のイタリア人のような人物と会談したとしても、情報漏えいの心配が必要ないという利点がある。

 

 デ=ガスペリが自身のオンボロの軍用コートを、さも当然のように従業員に預けるのを見届けてから、私は彼を自分の部屋へと案内した。ホテルの権威を自分のものと勘違いした従業員達には、良い薬になるだろう。

 

 部屋に通されたデ=ガスペリは、まるで長年親しんだ馴染みの宿泊先であるかのように、ゆったりと椅子に体を預けた。先程までの聖職者然とした雰囲気から、ホテルのそれにあわせて振舞いを変化させる。まるで生まれながらの貴族のようだ。暖炉を背にして同じように用意された椅子に腰掛けながら、私はそのようなことを考えた。

 

「自分自身の民族的な背景を否定する事は出来ません。私は確かにイタリア人です。そして帝国の臣民でもある。二重帝国内部での南チロルのイタリア人の地位を確立することが、我々の政治的な原点です」

 

 どこか芝居染みた振る舞いは、やはり役者というよりも道化師のそれに近い。そして道化師は、自らが何者なのかを説明した。

 

「トレンティーノの、南チロルのイタリア人はハプスブルクに不満があったとしても、サヴォイアの臣下にはなれません。かといって我々はドイツ人にはなれない。だからこそ我々は三国同盟を支持していました」

「民族的なアイデンティティを維持しつつ、未回収のイタリア運動に反対するか」

「この矛盾した命題に直面した我々にとって、三国同盟こそが唯一の解決策だったのです。国境紛争や民族問題の総合的な解決策として、あれほど優れたシステムは、歴史上でも珍しい」

「……だがイタリアは、サヴォイア家と保守派の政権は、それに満足しなかった」

 

 当初は中立を守ると思われたイタリアは、1915年5月に三国同盟から脱退。協商陣営として参戦した。表向きの名目は奇麗事がならんでいたが、その目的は未回収のイタリアの回収である事は、疑う余地はない。

 

 二重帝国はイタリア王国の裏切りに激怒し、それは目の前の青年のようなイタリア系市民の政治的立場を極度に悪化させている。そして、私がそれを指摘しても、青年は淡々とした口調で続けた。

 

「事実から目を背けるわけではありません。死者は蘇らず、過ぎ去った過去は戻らない。死んだ子供の年齢を数えたところで、何になるというのです……だからこそ我々には必要だったのです。公の場で我々の立場を表明し、意見を訴える場所が」

 

 戦争開始により、オーストリア帝国議会は停止された。それは少数派だけではなく、多数派の議員も公の場で意見を戦わせる機会が奪われたことを意味している。それは果たして帝国のためになるのか。

 

 滔々と語る青年の口調に非難の色を感じた私は、彼に反論した。

 

「帝国議会は停会することなく、そのまま続けるべきだったと?」

「短期間で戦争が終結していれば、それでよかったのでしょう。ですが実際にはそうはならなかった。政治家という生き物は、忘れ去られることを本能的に恐れるものです。政治的な死者になりたくはありません。政府への支持も批判も出来ない状況が長く続けば、より過激な主張や行動によって、存在感を誇示したくなるもの」

 

 暗にシュテュルク首相が暗殺された原因を、帝国議会の停会にあると指摘するデ=ガスペリ。しかしそれは、私からすれば結果論でしかない。戦争が長期化したのも、国内が不安定化しているのも事実だが、イギリス贔屓とされる私ですら、目の前の青年の意見には同意しかねた。

 

「帝国はイギリスともフランスとも異なる。ドイツ帝国とも、ロシアともだ。ドイツ人もマジャール人も、少数民族を無視出来ない。だからこそ水面下での折衝や根回しが重要となる。自分の財布の中身を、公衆の面前でぶちまけて奪い合うような真似は出来ないからな。むき出しの民族意識を公衆の面前でぶつけ合えば、待っているのは破局と破滅だ」

「議場で罵り合うのと、街角で殴りあうのならば、私は前者が文明的であると考えます」

「それで帝国が壊れてしまえば意味がない」

「……そう。一度でも壊れてしまえば、意味がないのです」

 

 窓の外では次第に雪が強くなり始めている。デ=ガスペリの言葉は、何故か私に強い印象を与えた。

 

「零れたミルクは、二度とコップへと戻らない。別かたれてしまった教会は、二度と統一が出来ない」

「零れたミルク、か」

 

 私が黙り込んだのを否定と受け取ったのか、青年は自らがスイスに滞在していた理由である、人民党の幹部として取り組んでいる救援活動について説明を始めた。

 

 1916年末から続いている食糧危機に際して、人民党が帝国内のイタリア人戦争難民の食糧を確保するために、同じくイタリア系住民を抱えるスイス政府に支援を要請しているというのは、私も聞き及んでいた。帝国議員としての活動が不可能となったデ=ガスペリは、スイス側との交渉責任者として派遣されたのだそうだ。今は、中立国である米国政府を通じた輸入枠拡大を打診しているという。

 

 そして「たまたま」その帰りに私を見かけて、声をかけたということだ。

 

 私は目の前のイタリア人の行動力と大風呂敷に感心しつつも、その内容を聞いて、感心するよりも呆れてしまっていた。

 

「一介の議員、それも政府与党でもなくn少数民族政党の野党幹部でしかない君が、独自に外交交渉をしているのかね」

「それほど大げさなものではありません。自分の手の届く範囲で、可能なことをしているだけです」

 

 外交官は直接の交渉や折衝よりも、人脈を繋ぐことが普段の仕事だ。平時から小まめに接触を重ね、個人同士の信頼関係を積み重ねるからこそ、非常時にそれが生きてくる。必要な時に必要な人物と会う。それがどれだけ難しいことか、この道化師は理解しているのだろうか?

 

「……大したものだ」

「恐れ入ります」

「だが、それは君1人の力ではあるまい?」

「私個人の手の届く範囲は、自分が両手を広げた幅だけです。ですが人は、人と手をつなぐ事が出来ます。繋ぐ手の数が多ければ多いほど、届く範囲は広がるのは道理というもの」

 

 直接的ではないものの、デ=ガスペリはカトリック教会と自らの関係性を認めてみせた。打てば響くとはこのことか。あるいはただの減らず口か。

 

 状況をコントロールしつつ、こちらの求めるものを、あるいは自分が求めるものを過不足なく取引する。それはトレンティーノの少数派イタリア人として、多数派のドイツ人との交渉の中で培われたものなのだろうか。

 

「……ベルヒトルトのような愚か者ではなく、君のような人材が1914年7月の外務大臣であればな」

「政治的にありえません」

 

 長い沈黙の後、半ば本心からの賞賛を贈るが、当の本人からは、にべもなく否定された。冗談が通じないのか、あるいは本心から意味がないと考えているのか。

 

 そして青年は、私に向かって重々しい芝居がかった口調で宣言した。

 

「閣下には、閣下にしかなしえない偉大なる仕事があります。それは、イタリア人である私には不可能なことです」

「ほう、何かね」

「欧州に再び和平を取り戻すことです」

 

 ずばりと切り込む潔さは好ましい。だが直情的に過ぎる。

 

 私は足を組み替えながら「欧州の平和を取り戻すことは、我が帝国の一貫した主張である」と肯定してから続けた。

 

「東部戦線では、中央同盟の勝利が確定しつつある。早ければ来年初頭には、東部に貼り付けていた戦力を西部戦線に振り分けることが可能だろう……というのが、一般的な解釈だろうな」

「異論はありません」

「ならば中央同盟の勝利が確実視されている状況で、こちらから積極的に動く必要があるのだろうか?」

 

 私は一種のテストのつもりで、プロイセン軍人のような必要以上に固い口調で、形式的な政府見解と主張を繰り返した。これにデ=ガスペリは、ニコリともせずに答える。

 

「仮に閣下が述べられたとおり、中央同盟が勝利する可能性が高まっているという、この現状認識を前提としてお話いたしましょう。閣下は戦後について、どのようにお考えなのか」

「それは帝国議員としての関心かね?それとも人民党議員としての関心か、あるいは……」

 

 カトリック教徒としての関心か。私は続くはずだった言葉を意図的に飲み込んだ。

 

 1917年8月1日。ローマ教皇ベネディクト15世は和平実現のための7つの論点と計画を発表した。いわゆるベネディクト提案である。

 

 私はその7か条を心の中で暗唱した。

 

①、物質的な武力を代弁しうる道徳心の涵養

②、両陣営の軍備の同時相互的な縮小(軍縮)

③、国際紛争に関する公平な仲裁メカニズムの確立(国際法に基づく解決)

④、海上における安全と自由の確保(公海の自由)

⑤、戦争賠償の相互放棄(無併合・無賠償の原則)

⑥、戦前(1914年7月1日時点)の国境回復と、現在の占領地からの撤退

⑦、対立する主張の中立で公平な立場からの調査(国際仲裁裁判所等の機能と権限の強化)

 

 精神的な価値観と軍縮を最初に持ってくるあたりが、いかにもカトリック教会らしい提案である。今の教皇猊下は教皇庁の外交官から、その才覚と手腕を見込まれて閣僚級の国務長官を歴任された。それだけに提案の内容を見れば、さすがに現状の対立と問題点が何であるかを、正しく認識している。

 

 占領地からの撤回は、そもそもの世界大戦の原因がベルギーへの中立侵犯であるという前提に立っている。イギリスとしては断じて譲れない一線だ。逆に言えばこの問題さえ解決すれば、イギリスは大陸から手を引ける。海上交通の自由は無制限潜水艦作戦への批判であるし、戦前の国境回復は、一種の正統主義による国際秩序の回復だ。

 

 確かに交渉のたたき台としては悪くないだろう。

 

「だがそれを実際の交渉において実現出来るかといえば、まったく別の問題だ」

 

 これまでの協商国との会談においても、個別具体的な交渉になると、途端に折り合いがつかなくなるのが常であった。それでも着地点を見出すべく、断続的に折衝を続けてきたのだ。「振り出しに戻れ」では、収まるものも収まらない。

 

「誰もが同意出来る提案というものは、誰の同意も得られない。原理原則は大事だが、当たり障りのない道徳論では、外交交渉は出来ない……戦争には勝敗がある。誰の目にもわかる勝敗を、はっきりと明示させないことにはな。仮に指導者が受け入れたとしても、これだけの犠牲を出した両陣営の世論が納得しない」

「だからこそ、道徳心の涵養必要なのでしょう」

「それはドイツ帝国批判かね?」

「サラエボ事件の外交的解決を早々に諦め、武力におけるバルカン政策の解決を図った国に対する批判かもしれませんな」

 

 二重帝国ばかりが被害者面をするなという強烈な皮肉に、私は苦笑する。

 

「……やはり君は、外交官に向いているよ」

 

 後ろの暖炉で薪がパチリと弾け、デ=ガスペリは私の顔を覗き込んだ。

 

「改めてお聞きいたします。閣下は戦後の欧州を主導する盟主として、ドイツ帝国が相応しいとお考えなのでしょうか」

「……地位が人を作るという。国家もそれは同じだ」

「私はそのようには考えません」

 

 デ=ガスペリは、ここで初めてドイツ帝国への自らの不信感を露わにした。カトリック信仰に関すること以外に、彼が自身の感情を見せたのも、これが初めてだっただろう。

 

「今大戦のベルギーのように、ドイツ人は……いやプロイセン人はいつも理路整然と間違いを犯します。文化的教養に溢れ、啓蒙専制君主の典型とされた哲人王フリードリヒ2世ですら、シュレージエンをオーストリアから強奪しました。ビスマルクはドイツ統一のためにあらゆる策謀をつかい、嘘と裏切りを重ねました……閣下、私にはひとつだけ、どうしても我慢出来ないことがあります」

 

 私は何の気なしに「それは何か」と問うた。

 

「高潔な魂の持ち主の美徳である善良さを、政治家の悪徳であると貶める風潮です」

 

 その言葉に、私は二重帝国では異邦人であるイタリア人が、ドイツ人である皇帝陛下に忠誠を誓う理由を知ることが出来た。

 

 神の前に平等であるように、帝国においては、皇帝陛下の前にすべての人種も宗教も平等という建前がとられている。だからこそ現実と理想との相克や矛盾を批判されることも多いが、このイタリア人は違う。

 

「……それでも理想を捨てるべきではないというのか」

 

 デ=ガスペリは沈黙の後に、頷いた。

 

 政治は現実であり、現実はあまりにも悲惨だ。今この瞬間も、塹壕戦というあまりにも過酷で非人道的な環境において、1日に数万の人命が機械的に失われている。

 

 その戦場で「誰もこのようなことを、神の御前で申し開きすることは出来ないだろう」と語られ、落涙されたのが皇帝陛下だ。その陛下の善良さを「弱い」とあざ笑う軍人に、私は同意出来ない。

 

 善良さが政治家の悪徳というのなら、それもよいだろう。善良な政治家が必ずしも結果を出せるわけではない。だが皇帝が善良であることが罪なのか?国民の痛みを分かち合い、我が事のように涙を流される陛下。政治家としての悪徳が、皇帝としての美徳にならないと、どうして断言出来るのか。

 

 国民すべてが納得する政治は存在しない。交渉の席に着いた全員が納得する外交的解決など存在しない。だからこそ多民族国家の帝国には、精神的な統合と道徳的な象徴が必要なのだ。悪徳が必要になるらば、政治家が肩代わりすればよい。

 

 そう、だからこそ二重帝国が決定的な破局を迎える前に、ドイツがパリを陥落させる前に。二重帝国が主導して和平を成立させなければならない。現状のまま戦争に勝利すれば、発言権を獲得するのは、道徳心に欠けることを有能と評価されるプロイセン流の軍人達だ。

 

 真実というものは存在しないが、真理はいつでも単純なものだ。

 

「Bella gerant alii、tu felix Austria nube」

(汝幸いなるかなオーストリアよ、戦は他に任せ、汝は結婚せよ)

 

 デ=ガスペリは即座に、箴言の続きを述べた。

 

「Nam quae Mars aliis、dat tibi diva Venus」

(マルス【軍神】が他に与えし国は、ウェヌス【愛と美の女神】によりて授けられん)

 

 マルスが勝つのであれば、ウェヌスから授けらればよい。哲人王や鉄血宰相ですら、オーストリアからすべてを奪うことは出来なかった。何のことはない。金満公の時代から同じことを繰り返してきただけなのか。そう考えると、私の顔になんとも言えない笑いがこみ上げてきた。

 

 状況は依然として最悪である。協商国との交渉においては具体的な進展はなく、中央同盟各国の国内外の不協和音は高まりつつある。そしてドイツ帝国の軍人達は、ますます強大な力を手に入れようとしている。

 

 だが、我々には我々のやり方がある。我々はプロイセン軍人にはなれないが、彼らはハプスブルクにはなれないのだ。

 

 金満公の子孫は、皇帝に奪われた領土を取り戻した。ハプスブルクは故郷のスイスの領土を失い、ナポレオンに皇帝の座を、ドイツ民族の支配者の地位をプロイセンに奪われた。

 

 だが、ハプスブルクはここにある。

 

 まだ皿が割れたわけでもなければ、コップから零れたミルクでもないのだ。

 

 私の考えがまとまるのを待つかのように、聖職者のような顔をした道化師は、しばらくの慎み深さを発揮してから、その真一文字に結んでいた口を開いた。

 

「正義が何の疑いもなく語られる社会は、さぞや生き難いでしょう。ですが悪徳が公然とまかり通る社会も、生きづらいことでしょう」

「その通りだ」

 

 気づけば私の胸中から、アーレ川を見下ろしていた時の苦悶は去っていた。




*カイザーライヒでは、デ=ガスペリはイタリア共和国の政治家として登場します。本作のようにオーストリア帝国でプレイしても使用は不可能です。
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