(写真)1919年11月11日に撮影
別名は「休戦の客車」(Wagon de l'Armistice) 。おそらく世界で最も有名な食堂車である。
ワゴン・リ社製の同食堂車は、フランス西部の国有企業であるフランス地方鉄道において運行されていた。1914年の開戦と同時に「2419D」は、他の多くの一般車輌と共にフランス陸軍に徴用される。
食堂車は、その車体構造から高級指揮官の専用車や移動前線司令部として仕様されることが多く、この「2419D」もいくつかの司令部として使用された後、フランス陸軍元帥フェルディナン・フォッシュ(連合軍総司令官)の移動司令部として、1919年まで使用された。
西部戦線の崩壊により「2419D」は、ドイツ軍に接収された。次の主は、ドイツ帝国のルーデンドルフ参謀総長であった。ルーデンドルフは、ドイツ軍参謀本部の専用車両から、わざわざ同車輌に移動司令部を移した。ルーデンドルフは戦利品を見せびらかすように、前線視察において「2419D」を積極的に使用し、時には車両内から命令を出した。1920年の『TIME』6月号の表紙に採用されたことで有名な、ヒンデンブルク宰相とルーデンドルフが対談している写真は、1919年のパリ包囲作戦中に、同車輌内で撮影されたものである。
ドイツ軍参謀本部が、移動司令部である「2419D」の存在をアピールしたのは、対外的というよりも、国内向けの宣伝活動の要素が強かった。1918年9月の暴動を鎮圧することには成功したものの、ドイツ国内の厭戦機運は健在であり、戦争継続を訴える軍参謀本部は、国民に対して勝利の事実を明確な形で提示する必要があった。
そのために喧伝されたのが「2419D」である。連合国軍総司令官が使用していた移動司令部を、ドイツ帝国軍参謀総長が使用する構図は、最も効果的なプロパガンダであるとドイツ軍の幕僚達は考えた。しかしルーデンドルフ自身は、プロパガンダの重要性を認めながらも、そうした宣伝活動を「軍人の本分にあらず」として嫌っていたという説もある。
1919年11月11日。フランス共和国オワーズ県のコンピエーニュの森に停車した同食堂車の中で、ドイツとフランス(パリの暫定政府)の休戦協定が調印された。これにより「2419D」は、世界一有名な食堂車となった。
この時、フランス暫定政府側の首席全権を務めたのは、かつてのフランス陸軍のトップであったジョセフ・ジョフル元帥である。抗戦派の政府や軍高官がボルドーに逃れ、パリの暫定政府が政治責任を恐れてしり込みする中、最も無能で兵を無駄死にさせた元凶と批判されていた元帥は「敗戦責任は我にあり」として自ら名乗りを上げ、ドイツに対してフランス国民への寛恕を求めた。その武人にふさわしい落ち着き払った態度は、ドイツ側の出席者を心服させた。
「2419D」は、休戦条約調印後にスパ(旧ベルギー王国領内)のドイツ軍大本営への帰路の途上、旧ベルギー軍に襲撃された。同車輌は、その動向がドイツ国内で逐一報道されていたため、レジスタンス勢力にとって格好の標的であった。「2419D」の鉄道橋通過と同時に爆薬が炸裂し、食堂車は木っ端微塵に吹き飛んだ。レジスタンス勢力の最大の標的だったルーデンドルフは戦後処理のためパリに残ったため、難を逃れた。
この時、ルーデンドルフ参謀総長が遭難していたとしても、戦争の趨勢は変わらなかっただろう。ただ歴史は間違いなく変わっていたに間違いない。
- 『世界の鉄道小話~広軌から狭軌まで~』民明鐡道同好会(1940年) -
1914年のベルギー王国は、欧州の小国でありながら、誰もが羨む繁栄を謳歌する経済大国であり福祉国家であった。
1830年のロンドン条約によりオランダから独立したベルギーは、港湾都市アントワープのダイヤ産業を除けば、まともな産業らしいものは、農業と石炭しか存在しない貧しい国であった。永世中立国としての立場に縛られ、カトリックの古い伝統に雁字搦めにされた古色蒼然とした後進国の将来を、誰もが悲観的に予想した。
そしてベルギーは、それから20年足らずの間に、誰もが驚く爆発的な経済成長を遂げた。政治的、あるいは経済的な後見人であるイギリスとの強い結び付きを背景に、大陸の産業革命と工業化を推進するエンジンとして、かつての宗主国オランダを追い越すほどの目覚しい発展を遂げた。
その要因はいくつかあるが、上は国王から、下は工場労働者に至るまで、自分自身の力を高めることでしか、自分達の独立を維持し続けることは出来ないという信念を共有していたことが大きい。周囲を大国に取り囲まれているという危機感が、度重なる政争や労働争議、コンゴ問題における国際的孤立や、言語戦争と呼ばれる激しい民族対立の間も、同国を結束させ続けた。
1914年7月。繁栄は唐突に終わりを迎えた。
第1次世界大戦の初頭、ベルギーはドイツ政府からフランス侵攻作戦のための軍事通行権を要求された。作戦終了後、ドイツ軍は撤退するとされていたが、ベルギーは、ロンドン条約を踏みにじりながらの独立保証を信用しなかった。
国王アルベール1世は「ベルギーは道ではない、国だ!」と反論し、ドイツの度重なる要求を拒絶。政府も議会も、兵士も労働者も、カトリックもプロテスタントも、フラマン人もワロン人も、全てのベルギー人が、この決定を支持した。「自らを守る気概のない国は、独立国家として存在する価値がない」。かつてフィレンツェの外交官が喝破したとおり、アルベール国王とベルギー人は、誇り高く戦った。
その結果、ベルギー全土は廃墟と化し、ロシアと共に欧州の最貧困地域へと転落した。
1914年の開戦直後、ベルギーのほぼ全域はドイツ軍の占領下におかれ、全土に戒厳令が布告された。旧ベルギー軍の兵士やレジスタンスが連日処刑され、混乱の中で大企業の本社や工場は創業を停止。南部のワロン工業地帯、炭鉱、鉄道、郵便、学校、地方自治体……あらゆるものが機能を停止した。
ベルギー総督府のドイツ人は勤勉かつ優秀であり、ドイツ帝国の戦争継続のために「ネジ一本残さず、東へと収奪する」ことに専念した。ベルギー人はサボタージュやストライキで反抗したが、ドイツ軍は武力鎮圧と強制収容所における強制労働で応えた。国際社会と中立国からの反発によって一時中止したものの、1919年のフランス敗北と、ベルギー政府のロンドン亡命により、ドイツ軍は武断政治を再開した。
ドイツ軍の占領長期化とレジスタンス活動の過激化に伴い、ベルギー国内では失業率が上昇。食糧の徴用による窮乏が重なり、国内人口の2割に及ぶ140万人が避難民となって国外に逃れた。1919年に協商陣営の敗北が決定的になると、その数は更に増加。食糧危機に対する援助のために設立されたベルギー援助委員会運営するアメリカ救援局は、ベルギーの現状について「世界で最も人為的、かつ政治的な理由による食糧危機である」と、暗にドイツ軍を批判した。
1921年のコペンハーゲン会議において、ベルギー亡命政府は出席を求められなかった。代わって出席したのは、ドイツが建国し、ベルギー総督府から権限を以上された暫定政府の「フランダース=ワロン連邦王国」代表団である。新国王は、ドイツ皇帝の3男であった。
「1914年7月、ドイツ人は戦争が終われば国を返すと約束した。案の定、彼らはその約束を裏切った。戦うことを宣言したのはベルギー国民であり、その決定を主導したのは国王である私だ。そしてドイツは、1830年以来の建国以来、我がベルギー国民が積み重ねてきた成果を一方的に収奪した挙句、国の名前すら奪った。これのどこに、名誉や平和があるのか」
憤怒と悲壮感に満ちたアルベール国王の演説に、心からの同情を示したのは、大戦から最も利益を貪ったと揶揄された中立国のアメリカ国民だけであった。
*
ベル……フランダース=ワロン連邦王国の首都ブリュッセル。16世紀にはスペイン・ハプスブルクのアルバ公爵がプロテスタント弾圧の陣頭指揮をとり、1830年ベルギー独立革命の引き金を引いた同市において、新鉄道会社「バルカン鉄道」の記念式典が開催されようとしていた。
母体となったのは鉄道車輌製造会社であり、大陸縦断急行のオリエント急行を運行していたワゴン・リ社(国際寝台車・欧州大急行会社)と、ドイツ帝国の国策会社であるミトローパ(中央欧州寝台・食堂車株式会社)。対等合併という建前ではあるが、実際には旧ベルギー企業を吸収合併する形で設立される新会社は、オリエント急行に変わる新たな大陸縦断急行「バルカン急行」の運行開始を、高らかに宣言していた。
ピーター・タック連邦首相(フランダース評議会代表兼任)は、新会社設立を連邦王国とドイツ帝国の新たな関係を内外にアピールする好機と捉えており、欧州各国の政府首脳を初め、経済関係者やマスコミも多数招待されている。他ならぬ私もハプスブルクの代表団を率いて参加している。
私は、ブリュッセル市庁舎の最上階に用意された部屋に佇みながら、世界で最も美しい広場とされるグラン=プラスを見下ろしていた。
国際社会に新生連邦王国をアピールする絶好の機会にもかかわらず、ブリュッセルのラーケン宮殿の主は不在である。ドイツ皇帝の3男である国王アダーベルト1世は、1919年のキール軍港暴動に巻き込まれて重傷を負い、同国内の保養地とブリュッセルを行き来する日々を送っている。
国王不在の首都。グラン=プラス広場に面するあらゆる建物からは、フランダース=ワロン連邦王国の見慣れぬ真新しい国旗が掲げられている。それは古きよき時代を忘れ去ったというよりも、旧時代を懸命に塗りつぶすことで、ベルリンに対する忠誠心を必死に誇示しようとする新王国政府の悲壮感を、私に感じさせた。
大戦中にベルギー総督府が定めた重要保全地区のグラン=プラス広場は、戦前と変わらぬ美しさを保っている。しかし、ヴィクトル・ユゴーが絶賛したという目の前に広がる素晴らしい光景も、おびただしい国外難民と餓死者の上に維持されたものだと思えば、素直に楽しむ事は出来ない。ましてその責任の一端が、自分にもあると思えばなおさらだ。
「道化師」に『ドイツ軍に、すべての開戦責任を押し付けるつもりか』と指摘されて以来、私は自らの責任と義務について考える機会が多くなった。先の大戦の全てが、我々ハプスブルクの責任であると、自分達の実力以上に自惚れるつもりはない。だが国全体の責任という曖昧なものに自分の責任を転嫁するような恥知らずな真似も、駐イギリス大使として外交に失敗したことへの許しを個別に請うのも、どうにも釈然としない。
しかし今次大戦のもたらした惨禍から目を背けるつもりはない。それでは辞任後に「戦争のことなど聞きたくない」と所領に引き籠った、あのベトヒトルトと同じだ。現在のハプスブルク外交の責任者として、それは許される事ではない。
自分自身の責任を追及されたような感覚から逃れるように、見慣れぬフランダース=ワロンの国旗から目を外すと、私は予定の時間まで、用意させた複数の新聞を読むことで時間を潰すことにした。
旧ベルギー王国は、欧州大陸の郵便通信網の中心地であり、神聖ローマ帝国から続く帝国郵便の本社が置かれていた。ドイツ軍のベルギー総督府も、帝国郵便の資産や組織には手を付けず、郵便や情報産業の中心都市としてのブリュッセルの地位は大戦中も揺る事はなかった。そのため現在でも、ブリュッセルでは欧州各国の最新の新聞を入手する事が可能である。
私は日付も言語も異なる複数の新聞に、目を通し始めた。
- セルビア新国王アレクサンダル2世、新首相に急進党のニコラ・バシッチ元首相を指名 -
3日前のハンガリーの日刊新聞の一面記事。一面にアレクサンダル国王と握手する「サミクラウス」の写真と、新内閣の閣僚名簿が掲載されている。
4月30日。セルビア王国亡命政府は、イギリス政府の仲介を受ける形で、中央同盟陣営との停戦合意講和条約に調印。二重帝国軍の撤退したベオグラードへと帰還した亡命政府の摂政アレクサンダル王太子は、前国王の崩御を正式に発表。自らの戴冠を、内外に対して宣言した。
テッシェン大公フリードリヒ(陸軍総司令官)を盟主と仰ぐハプスブルクの保守派は、セルビア政府の帰還と、駐留軍撤退に猛烈に抗議したが、フリードリヒ大公は軍の最高機密に接することが出来る立場である。参謀総長が「15万人規模の駐屯続ける事は不可能である」と進言すれば、内心はともかく表立って反論することはない。その読みが当たったことに、私は安堵した。
各国政府は旧協商、中央同盟、中立国を含めて、セルビア政府を承認した。最も強硬に反対することが予想されたウィーンが承認した以上、各国政府が反対する理由はないからだ。
アレクサンダル新王は「旧黒手組残党と関係を持った」という理由で、実兄のジョルジェ王子を王室籍から外した上に、国外追放処分とした。テロリズムに対する断固たる姿勢は、旧協商国からも評価された。この決定を支持し、ウィーンとの交渉責任者を務めたニコラ・バシッチ元首相は、6度目となる組閣を命じられた。
閣僚の顔ぶれを見れば、バシッチ率いる急進党を中心に、リュボミル・ダヴィドヴィッチ前首相率いる民主党と、改良主義的な社会主義政党である社会民主党も参加した挙国連立内閣である。民主党は、旧王国時代の反急進党(反バシッチ)の野党勢力による連合政党だが、コソボのムスリム教徒などの反バシッチ派議員が、アルバニアやブルガリアへの領土割譲と共に排除されたため、議会の主導権が握れなくなった。そのため領土の割譲を認めたバシッチの主導権が強化されるという、奇妙な逆転現象が生まれた。バシッチ首相を好ましく思っていない新国王としては、内心複雑だろう。
- バシッチ新首相『コソボはセルビア民族の確信的な利益である』と議会答弁。ツィンメルマン外相は不快感 -
2日前のベルリンのカトリック系週刊新聞。記者団に囲まれ、眉間にしわを寄せたアルトゥール・ツィンメルマン外相の写真が掲載されている。もっともこの人物は、いつも眉間に皺を寄せているのだが。
1916年。非貴族の職業外交官として、初めてドイツ帝国の外務大臣に任命された彼は、なりふり構わない終戦工作をしたことで知られるが、ドイツ帝国軍の言いなりになることも多かったと批判されている。ロシア10月革命を主導したレーニンの、ロシア国内への送還(封印列車)、アイルランド系独立勢力への支援などは、ドイツ軍参謀本部の提案だともっぱらの噂だ。無制限潜水艦作戦中止をめぐる政府内の対立においても、その立場を最後まで明言しなかった。そのためホルヴェーク、ミヒャリエス、ヘルトリングと内閣が入れ替わっても、外務大臣の地位を守り続けた。
バルカン半島のムスリムをアルバニア王国の下に集結させるという外交政策は、ツィンメルマン外相の肝いりとされる。ドイツからすれば、アルバニア王国はハプスブルクの意向に左右されてきたバルカン半島に打ち込んだ楔、安定の要だ。当然ながら、バシッチ首相の議会答弁は、ドイツの(そして彼個人への)重大な挑戦に他ならない。心なしか眉間のしわが深い気がするのは、気のせいではあるまい。
となれば、当然こうなる。
- マケドニア王国がベオグラード公使引き上げ。ロシア大統領が仲介に意欲 -
昨日のイギリス日刊紙の外交面。スカンデルベグ2世からすれば「ふざけるな」というのは、もっともな話だ。ウィーンにも度重なる抗議が寄せられている。先の大戦でアルバニア国力を嫌というほど思い知らされたスカンデルベグ2世が、ドイツ外務省の承認なく、公使引き上げのような強硬姿勢に出られるはずがない。
本人の望まぬ地位と責任を押し付けられたという点では、何やら他人事とは思えない。このドイツ人に心中から同情するのもやぶさかではないが(ハプスブルクの人間には言われたくないと激怒するだろうが)、駐留ドイツ軍を背景にして「さあ我こそはアルバニアの国王陛下であるぞ」と威張ったところで、説得力に欠く。ドイツ軍が肝いりで創設させ、ギリシャ正教会に圧力をかけてまで設立を認めさせたアルバニア正教会への改宗を進めても、国王は断固として拒否する始末だ。
同じプロテスタントとして、ドイツ皇帝やプロイセンのユンカー達との宗教的連帯や支援を期待しているのかもしれないが、それはどうだろうか。そもそも彼を国王の地位に戻したのはドイツ皇帝ではなく、ドイツ陸軍だ。あくまで新国王が大戦中にドイツ軍将校として戦ったから支持しているのである。それを彼は理解しているかのだろうか?
そしてこんなところにも臆面もなくしゃしゃり出てくるケレンスキーの嗅覚は流石というべきか、呆れてものも言えないというべきか……
- ロイド・ジョージ政権内部での対立激化。保守党が連立離脱論で政府を牽制 -
今日のイギリス高級紙1面。ダウニング街10の首相官邸に入るロイド・ジョージ首相の後姿に、デモ隊が罵声を浴びせている衝撃的な写真である。現場の混乱と焦燥感が、ひしひしと読み手に伝わってくる写真だ。これが保守党であれば、そもそもダウニング街までデモ隊を入れないのだろうが、外聞と見栄を気にするウェールズ人らしい対応といえるかもしれない。
1918年の総選挙において、苦戦が予想されたロイド・ジョージ首相は「対ドイツへの戦争貫徹」を掲げて圧勝した。そしてロイド・ジョージ首相に対する有権者の潜在的な不満と反発は、協商陣営の敗戦と「名誉ある和平」への合意で頂点に達した。
ロイド・ジョージ首相(自由党)は、アスキス前首相の戦争指導を疑問視し、閣内クーデターを起こして労働党、保守党、労働党による挙国連立政権を成立させた。アスキス前首相を支持した自由党閣僚や幹部は彼に批判的であることは言うまでもない。元々、労働党は戦争に協力的ではなく、保守党は首相の持論である所得再配分の考え方や資産課税に否定的だった。それが「名誉ある和平」の締結で、一挙に噴出した。
労働党は「戦争が終われば協力する義務はない」として連立を正式離脱し、自由党アスキス派は「敗戦責任を問う」としてロイド・ジョージを突き上げている。保守党も次期政権を睨んで、虎視眈々と活動を続けている。
この状況でもロイド・ジョージ首相が政権を維持することが出来ているのは、肝心の保守党が1919年から続くアイルランド独立戦争の収拾をめぐって、党内が四分五裂だからである。アイルランド自由国の建国を認める代わりに北アイルランドを確保せよとする現実派から、一切の独立を拒否する強硬派まで入り乱れており「ロイド・ジョージ首相に、アイルランド問題を決着させる」と表明したオースティン・チェンバレン党首が、就任から3か月で辞任に追い込まれる始末だ。
これに加えて南アフリカやインド自治領を始めとした自治領や海外植民地も、旧フランス植民地を吸収して膨張するドイツ帝国という、切迫した安全保障上の脅威にさらされており、本国の政権は日々対応に追われている。食糧問題は依然として深刻であり、戦時体制から平時への経済体制変換は遅々として進んでいない。講和条約が成立しても、イギリスの国内情勢の打開に展望は見えていない。
本国の不安定化は、とうとうイギリス植民地の再編に波及した。
- 南ローデシア州政府が南アフリカ連邦への統合に同意 -
昨日のスイスのカトリック系日刊紙の国際面から。写真はプレトリアのイギリス大使公邸で、ヤン・スマッツ(南アフリカ連邦首相)と並んで、調印書にサインする南ローデシア州首相。スマッツ氏はイギリス陸軍の元帥服ではなく、背広姿である。
南アフリカ連邦はボーア戦争による遺恨もあり、国内の白人入植者の中でもオランダ系とイギリス系の対立が深刻である。南アフリカを開拓したのは我々だと自負しているオランダ系ボーア人からすれば、イギリス系は「後発の盗人」であり、イギリス系からすれば、先住民のボーア人は「資金も技術も知識も乏しいのに、数を頼みに威張り散らす。野蛮な先住民と大して差はない連中」という認識だ。
そして肌の色以外(これもだいぶ疑わしいが)の共通点がほとんど存在しない、多種多様な宗教と部族が入り乱れる大多数のアフリカ人(そんな認識が彼らにあるかどうかは不明だが)は、スワジランド王国やレソト王国のような一部勢力を除けば、そもそも政治勢力として認識されていない。
イギリス系入植者が多数を占める南ローデシアが、オランダ系ボーア人の勢力が強い南アフリカへの統合を申し入れるなどなど、大戦前ならありえなかっただろう。
その人種意識に裏付けされた、頑固な現状認識を木っ端微塵に打ち砕いたのは、パウル・フォン・レットウ=フォルベック率いるドイツ植民地部隊の驚異的、かつ英雄的な軍事行動によるところが大きい。
開戦当初、非戦闘員を含めてわずか3000人にも満たないドイツ領東アフリカの部隊を率いていたホルベックに、本国ドイツですら期待する者はいなかった。しかし彼は海軍兵まで徴用した即席の臨時部隊を率い、1914年から1919年まで足掛け5年、万を優に超えるイギリス軍や協商軍と幾度となく戦い、一度たりとも破れなかった。
ついにはポルトガル植民地や北ローデシアの一部を占領下においたまま、南アフリカ軍のヤン・スマッツと事実上の休戦協定を成立。1921年の「名誉ある和平」を迎えた。彼と東アフリカのドイツ軍の活躍は「アフリカの獅子」と讃えられた。
旧ポルトガル領モザンビークがドイツ帝国のホルベック将軍に成すすべなく制圧されたこと、度重なる国境付近でのドイツ軍の挑発行為は、南ローデシアにおけるドイツに対する警戒論を沸騰させた。
一方、さらに北のバロツェランド・北西ローデシア立法審議会は、国内のインフラ整備が十分ではなく、コンゴ自由国がドイツ海外領として編入されたことを契機にドイツ資本との関係強化による開発を進めようとしたため、本国および南ローデシアとの対立を深めていた。
こうした状況下で、1919年には建国の父であり初代首相のルイス・ボータが死去。政権を引き継いだのは、同じ南アフリカ党のヤン・スマッツであった。彼はボーア戦争当時にイギリス軍と戦った英雄だが、戦後は現実主義的な立場から親英派として行動した。イギリス陸軍元帥にも任命され、先の大戦では南アフリカのイギリス軍を指揮してホルベックと戦っている。
そのため国内の親ドイツ派(建国の経緯から、ボーア人は伝統的に親ドイツ派が多かった)は「敗戦責任をとれ」とスマッツを突き上げている。本国の経済的な弱体化もあり、親英派主導での南アフリカ連邦の強化と拡大を掲げるスマッツとしては、南ローデシアの編入で、少しでも国政の主導権を回復したいところだろう。
写真に写るスマッツ元帥は、数年前よりやつれて見えた。それでも1917年のベルンで会談した際に見た、何物をも見通す思慮深い眼差しは、私には変わっていないように思えた。
- ポルトガル王国議会選挙で王党派が圧勝。インテグラリスモ・ルシターノ(ポルトガル統合主義派)が組閣へ -
同じスイスの日刊紙。ホルベック将軍は現地の植民地政府だけではなく、共和派の軍人によるポルトガルの共和制政府の威信をも叩き潰した。戦に弱い軍人が、国民の支持を得られるはずがない。結果として1922年1月の王政復古クーデターに繋がり、共和党系勢力は、国外に逃れた。王政復古に暗躍した勢力の中には、ハプスブルクも含まれてい)。
マヌエル2世は、共和派が主導する議会を解散。総選挙を実施した。王党派が多数を占めることは確実視されていたが、やはり勝利したのは王政復古の中核を担った統合主義派のインテグラリスモ・ルシターノである。記事の中では首相候補は穏健派のアルベルト・モンサラスか、急進派のフランシスコ・ロランプレトであろうとされているが、私も異論はない。
そもそも統合主義なる概念は、フランスの極右言論人であり王党派のシャルル・モーラスが提言した概念であり「血と土の保守主義」を提唱する。モーラスは自由主義に基づく議会はイデオロギー対立は不可避であり、有機体的な政治的統合と代議制度が必要であると主張した。
何のことはない。有機的統合だの組合主義だのと、様々なお題目をつけてはいるが、ただの自由主義の否定である。
確かに旧フランス共和国における国論の分断や細分化を見れば、モーラスの指摘には頷ける点もあるが、素直に肯定するのは難しい。そしてインテグラリスモ・ルシターノは否定するだろうが、有機的統合の対象が君主制や教会ならインテグラリスモ・ルシターノになり、労働組合ならば、パリの社会主義者になり、少数政党の独裁ならば、それはボルシェヴィキになるのではないか?
彼らはブラガンサ王朝が倒れたのは、国家体制の脆弱さ-思想的一貫性の欠如や、軍隊や官僚組織、教育システムから経済構造を含めた国家全体の前近代的な体質、それに伴う国論の分裂に原因があると主張している。その問題意識はおそらく正しいのだろうが、おそらく彼らが政治的に志向する方向は、自由主義的なマヌエル2世と相いれないものだ。
もっともマヌエル2世は、自分の政治的な理想や自身の苦い教訓もあり、選挙結果を否定することはしないだろう。何より王政復古の中心となった統合主義派の失敗は、王党派勢力の失敗を意味する。何のための王政復古だったのかとなりかねない。持論を抑えてでも、統合主義派との妥協の中で政権を運営するしかないのだ。
持論といえば、あのハイエク青年は元気だろうか?たしかアメリカの大学に留学するという話だったが……
- イタリア連邦評議会議長、新たな通貨協定締結に向けた協議開始を表明 -
2日前のミラノの左派系日刊紙。どうやらトスカーナ大公は、あれから我慢強くハイエク青年の説明を聞いたようである。写真左からオーストリア・ハンガリー銀行(中央銀行)のリチャード・ライシュ総裁、旧イタリア銀行総支配人のボナルド・ストリンゲル、そしてイタリア連邦評議会議長のトスカーナ大公の3人が、満面の笑みで握手を交わしている。
つまるところ旧イタリア王国崩壊後、イタリア半島において通貨が複数発行されている現状を追認し、それをハプスブルク家(二重帝国)と、ウィーン・ロートシルト家を中心とする金融界が追認(保証)するという話だ。イタリア半島の通貨を、オーストリア=ハンガリー・クローネに統合せよという意見も出たが、これ以上の財政的負担を嫌うハンガリー出身の共同財務大臣が拒絶したため、実現しなかった。
独自通貨を導入するという両シチリア王国の賭けは、成功したといえるだろう。社会主義政権の発足により工業化の先進地帯であった北イタリアの資本と人材は、同じ自由主義経済を堅持するイタリア共和国ではなく、南イタリアを選択した。アマルフィやナポリといった海港都市には、連日北部から脱出した難民が押し寄せている。イタリア共和国のオーストリア色の強さを忌避されたのもあるが、ポー川を挟んで内戦の最前線であるミラノよりは、政情の安定した南イタリアを選ぶのは、合理的な選択といえる。
トリノの社会主義政権は、貴金属以外の旧リラなどの持ち出しには関与しなかった。社会主義政権からすれば、意図的に旧紙幣を流入させることで、南イタリアの金融と経済を破壊しようとしたのだろう。
そのようなこざかしい企みを、イタリア建国期の修羅場を潜り抜けたストリンゲル総支配人が見過ごすはずがなかった。
ストリンゲルは、各地のイタリア銀行支店に手持ちの旧リラ紙幣をシチリア・ドゥカートやバチカン・リラに換金する事を求めて詰めかけた人々に対して、一定以上の換金を制限すると同時に、金額と時間を細かく設定して公表した。旧リラから新紙幣の移行期間を5年と定め、5年待てば全額を換金、即座に換金するのであれば、その分割り引くといった具合である。
これにより、ストリンゲルは南イタリア金融への影響を最小限に抑えるどころか、デノミ特需を生み出すことも成功した。また南イタリアを拠点に、跳梁跋扈していた地下経済(マフィア)の締め上げにも貢献。ストリンゲルは人類の経済史上、初めてデノミネーションを成功させた人物として、その名声を大いに高めた。
もっとも混乱がなかったわけではなく、少なからぬ人々が財産を目減りさせた。あの内戦の状況下ではやむを得ない犠牲であったかもしれないが、預金額や手持ちの資金の少ない市民の負担が大きかったのも事実である。そのため彼は、批判する勢力から「ウィーンの靴下職人」なる綽名を奉られた。靴下はイタリア半島、それをウィーン(ハプスブルク)に履かせようとするのがストリンゲルというわけだ。
そしてここに名前が出ることがなかった人物がいる。彼こそが南イタリア経済復興の陰の立役者であり、ストリンゲル総支配人のデノミネーションを陰で支えた実働部隊の指揮官であることを、私は知っていた。
その彼が合わせたい人物がいるというので、私はこうして新聞を読むことで時間をつぶしていた。
「議長閣下、男爵が到着されました」
「うん、通してくれ」
短くデ=ガスペリに命じると、私は慌ただしく机の上に散らかった新聞を畳み始める。その作業が終わるよりも前に、ウィーン・ロートシルト家の当主であるルイス・ナタニエル・フォン・ロートシルト男爵は、足早に「2人」の男性と共に部屋の中に入ってきた。
……うん?2人?
*
「ドイツ人の勤勉性や堅実性を認めることは、私としてもやぶさかではありません。ですがやることなすこと、一々全てがケチ臭いのが難点ですな。例えば1クローネを稼ぐのに、100クローネを費やすのがドイツ流ですが、これは堅実性とは呼びません」
「ロートシルト君。ならば君は、それを何と呼ぶのかね?」
「プロイセン流のプロテスタントとしての道徳性と呼ぶのは問題があるでしょうし、合理的な非合理性では如何でしょうか」
鼻眼鏡をかけたドイツ人の銀行家を自らの後ろに従えながら、私の斜め前のソファーに座ったルイス氏はそう言うと、右隣の様子をうかがいながらも、ぎこちなく笑みを浮かべて見せた。むしろ顔の表情を動かせただけでも、大したものかもしれない。私の後ろが定位置となりつつある「道化師」は、いつものように仏頂面を決め込んでいるのだろう。
それはちょうど、私の正面に座る青年のような表情に違いない。
この青年はドイツ人の銀行家の後ろから押し入るようにして入室して来た。言わば「招かれざる客」だ。それにも関わらず、さも当然のように部屋の中に居座り続けている。ルイス氏もドイツ人の銀行家も、怪訝というよりも不可解だという視線を、この人物に投げかけているが、警備兵を呼んで追い出すには「皇后陛下の義兄」という肩書は大きすぎた。
それでも単に自分の家柄や身分に胡坐をかいて我儘を押し通そうとするだけだったのなら、まだ対処の仕方があっただろう。だが、そうした無意識な傲慢さとは無縁な青年は、全く別種のものを纏っている。
無縁絶対零度なる物理学の概念が人間の形をとるとするならば、おそらく今の彼のような人格として体現するに違いない。原子ですら動きを止めようかという静かなる憤怒が、確かに彼の周囲に満ち満ちていたからこそ、誰も彼を咎める事はおろか、制止する事すら出来なかったのだ。
「……合理的な非合理性か。確かにその通りだ」
ブルボン=パルマ家のグザヴィエ公子は、面長の鷲のような顔を目一杯に顰めると、言葉にするのも汚らわしいと言わんばかりに、吐き捨てるように、溢れんばかりの感情を含んだ言葉を使った。
その豪然たる何物の介入も拒絶するかのような気迫に、私やルイス氏は沈黙を選択する。鼻眼鏡のドイツ人銀行家は、どこか物わかりの悪い学生に、担当教授が向けるような視線を、グザヴィエ公子に投げかけていた。私の背後にいる「道化師」の表情は伺う事は出来ないが、私自身が唾を飲み込んだ音が、やけに大きく響いたところをみると、何時ものように控えているのだろう。
グザヴィエ公子以外の同席者が沈黙を保つ中、暗く低い、地割れから漏れ出すガスのような熱気と情念を宿した公子の独白は続いた。
「……ベルギーの独立を軍事的合理性とやらで踏みにじり、戦後の独立の保証を保護にして、自国の王子をお手盛りの国王に送り込むのがプロイセン流なのだろう。フリードリヒ大王時代のシュレジェーン泥棒から、何一つ変わらぬ野蛮性だ」
グザヴィエ公子は、部屋に押し入る際に脱いでいたベレー帽-旧ベルギー王立陸軍の制帽-を手にすると、両手で力いっぱい絞り上げた。その手つきに不穏なものを感じたルイス氏が顔を強張らせため、私は咳払いをして公子に注意を促した。しかし彼はより一層、手の力を込めることで応じた。
「あれだけの戦争から、プロイセン人は何も学習していない。むしろ自分の主義主張主張を押し通すには、最も最適な方法であるという誤った教訓を導き出す始末ではないか!これでは、一体何のためにベルギーは犠牲となったのだ!!」
今にもかみ砕かんばかりに歯ぎしりをするグザヴィエ公子。髪にはすでに白いものが目立ち始めており、33歳とは思えない深い皺が、彼の顔に塹壕のような溝をいくつも築いている。ぐしゃぐしゃになったベレー帽をようやく解放して机の上に投げ出すと、グザヴィエ公子は短い悲鳴のような、奇妙に甲高い溜息を吐いた。
グザヴィエ公子は、最後のパルマ公(北イタリア諸侯)ロベルト1世の後妻の子供であり、兄のシクストゥス公子と共にベルギー軍に所属していた。パルマ公爵の多くの子供たちは、二重帝国の軍属として仕えていたが、帝室や宮中の関係者達は、永世中立国のベルギー軍であれば戦争となる恐れはない、ましてや敵味方に分かれる可能性もないと考えたのだろう。
それが大戦勃発と共に、同腹の妹である皇后陛下とは敵味方に分かれ、オーストリア=ハンガリー軍人として参戦した兄弟達と矛を交える事となった。悲嘆いかばかりか、公子兄弟の胸中は推し量るべくもないが、少なくともシクストゥス公子と、グザヴィエ公子が忠実なベルギー軍人として戦ったのは、疑う余地はない。
元々、グザヴィエ公子はベルギー軍人としての地位を重視していなかったとされる。しかし戦争が始まると、異邦の民である自分達を受け入れてくれたベルギーという国家に対する、愛着のようなものが芽生え始めたらしい。そしてドイツ軍の非人道的な占領により日々荒廃していくベルギーを救うために、彼は兄と共にオーストリア=ハンガリーとのわへい交渉に乗り出したが、それは失敗に終わった。
1919年のドイツ軍の西部戦線での大攻勢により、ベルギー領内に残されていた数少ないベルギー軍部隊は完全に放逐され、フランスが降伏。国王アルベール1世はロンドンへと逃れた。それでも兄弟はベルギー国王への忠誠を続けた。
そしてアルベール1世が懸念した通り、ドイツは約束を守らなかった。ドイツからすればベルギーが交戦したからだと言うのだろうが、そのような一方的な言い分がベルギー政府に受け入れられるはずもない。
そして同国のスパに大本営を置いたドイツが、ベルギーという国家に下した決定は、苛烈にして過酷なものであった。
彼らは「ベルギー」という国家の概念を、この地上から消し去ることを選択した。それはイギリス流の「分断して統治する」を、忠実に再現するものだったのかもしれない。とにかくドイツ人は、北部のフラマン人(プロテスタント)と南部のワロン人(カトリック)という、国内の潜在的な対立を決定的とすることで、ドイツの忠実な従属国として再編するという決定下した。
ドイツは「南部ワロンの工業地帯が、北部のフラマン人を搾取している」というストーリーを喧伝。フランスとの経済的結びつきの強いワロン工業地帯からは「ねじ一本残さない」という徹底的な収奪を行う一方、北部の民族主義者を支援する事で、自治運動を推進。フランダース評議会を設置し、それまでの歴代政権が制限していたオランダ語教育を公認した。
フラマン人やワロン人も、民族対立の扇動の背景にあるドイツ軍の思惑や、自分達が外国の食糧援助に頼る最貧国に転落した原因が、ドイツ軍の手によるものだということは理解していた。それでも多くの国民は、ドイツ軍占領下で生きるために彼らのストーリーに従うようになり、それがいつしか忘れていた民族対立を本格的に再燃させることに繋がった。
1830年以来、積み上げてきたベルギーナショナリズムと、経済的な成果は、1914年から21年の、たった6年のドイツ軍の軍事占領により、徹底的に破壊された。産業基盤が破壊され、国中に失業者があふれ、慢性的な飢餓状態に陥ったベルギー人は、高いレベルの自治権を持つ2国と、ブリュッセル首都圏から形成される「フランダース=ワロン連邦王国」の建国を黙認した。新たな連邦はフラマン人が中心となり中央政府を組織。ワロン人は抵抗する気力どころか、畑を耕す鍬ですら残されていなかった。
「90年近い歴史を、わずか6年で破壊しつくした。スペインの南米侵略に匹敵する『偉業』ではないかな?人類の歴史に残るだろう……そして、その収奪は今日の式典で完成するわけだ」
グザヴィエ公子は私の顔を睨みつける。その視線にはドイツへの敵意とベルギーを見捨てた全世界への憎悪が煮えたぎっていた。彼の中では戦争が続いており、頑なに「ベルギー」と呼称するのをやめない。アルベール国王がそうであるように。
アルベール1世は、ベルギー国民から見捨てられた。多くの国民は依然として国王を敬愛していも、これ以上彼に付き従うことは不可能だと判断した。アドルフ・マックス(元ブリュッセル市長)のような一部を除いて、国王に従ったベルギー人はごく少数であった。
そのごく少数に、シクストゥス公子も含まれていた。シクストゥス公子はポルトガル王党派によるロンドン会議に参加した後、そのまま同地に留まった。彼は流浪の国王に忠誠を誓うことを決めていたからだ。
「何が民間主導の新たな共同事業の発足だ。ましてや新会社の責任者は、元陸軍高官だというではないか。たしか、ヴィルヘルム・グレーナーといったか……つまりはベルギーの鉄道を、ドイツ軍参謀本部鉄道局の下請けにするだけのこと。この1世紀のベルギーの歴史は、ドイツのためにあったとでもいうのか」
相変わらず険しい表情で続けるグザヴィエ公子。膝の上で握りしめた拳には血管が浮き上がり、僅かに震えていた。それを見ていたドイツ人銀行家が、眉を微かに顰めた。
イギリス式の最新の鉄道を運営と共に導入したベルギーは、わずか数年の間に欧州諸国で初めて公有鉄道を運営するようになると、瞬く間に鉄道大国に上り詰めた。ブリュッセルを起点とした路線が、欧州各地に雲の網のように張り巡らされ、1880年代からワゴン・リ社が運航していたオリエント国際急行は、西欧州とバルカン半島を繋ぐ、欧州の平和と安定の象徴のような存在であった。
大戦中、ドイツは国際路線を自国中心の鉄道網に再編しようという挑戦を始めた。1916年に中央欧州寝台・食堂車株式会社(ミトローパ)を発足させると、接収したオリエント急行の路線に「バルカン鉄道」と称した列車を走らせ始めた。
「……バルカン鉄道には、ハプスブルクも参加しておられましたな」
私を再び睨み付けながら、再びベレー帽を絞り始めるグザヴィエ公子。確かにバルカン鉄道の資本や運営にはオーストリアとハンガリー国内の鉄道事業者も参加したが……経済的な利益目的が全くなかったとは言わないが、それらは戦争遂行のために、経済安定を第一義として行ったものだ。もっとも、ベルギー人の国民意識に憑りつかれたかのようなグザヴィエ公子が、その主張を受け入れるわけがないのだが。
私からの反論も意見もない事を確認したグザヴィエ公子は、やおら立ち上がると、皺くちゃになったベレー帽を被る。そして部屋の中にいる人物の顔を見渡すと、口と表情を奇妙に歪めた。それはひどく醜悪なものであったが、どこが悲哀が漂っていた。
「……ベルギー人の死体と遺産を養分として、せいぜい儲けられるがよろしかろう。それがどこまで続くのか、見ものですな」
グザヴィエ公子はそう吐き捨てると、この場にいたくないと言わんばかりに、足早に部屋を退出する。そして乱暴に部屋の戸が閉まるのを待っていたかのように、 ルイス氏が天井を仰ぎながら、長い溜息をついた。
「やれやれ、参りましたな」
「……公子の御気持ちは理解出来なくもないですがね」
「議長閣下はそう仰ると思いましたが、我々に八つ当たりされても困るというのが正直なところで」
ルイス氏がそこまで発言すると、鼻眼鏡をはずして眉間を揉んでいたドイツ人銀行家が、初めてその口を開いた。
「兵士が戦場で戦ったように、我々銀行家は経済や金融という戦場で戦ったのです。その貢献に優劣はありますまい。負け犬がいくら吠えたところで、勝利したのが中央同盟であるという事実は揺らぎません」
そのあからさまに見下した物言いに、グザヴィエ公子の物言いに倦んでいたいた私ですら嫌な感情を呼び起こさせられた。
鼻持ちならない態度とは、まさに今の彼のためにあるような言葉だ。ドイツ人がドイツ帝国の国益のために働くのは何の不思議もないし、至極当たり前のことだが、彼の物言いは銀行家としての則を逸脱しているように、私には聞こえた。
「……父なる神は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせます」
私が帝国内部の少数派であるイタリア人補佐官を使っている事や、その「道化師」が熱心なカトリックであることは、すでに周知の事実となっているらしい。件の銀行家は、自己に対する能力に対する過信染みた自尊心をあらわにしつつ、デ=ガスペリの発言を嘲笑した。
「汝の敵を愛せよですか。先ほどの公子は愛することが出来なかったようですがね」
「過つは人の常、許すは神の業と言います。完璧な人間など、この地上に存在しません。だからこそ不完全な人間は、同じ不完全たる他者に対する理解と寛容が必要なのです」
「道化師」の引用に、銀行家は鼻眼鏡を揺らしながら笑う。
「どうにもカトリック流の人道主義と博愛は私の性に合いませんが、完全な人間がいないという考えには同意しますな。私の経験から言わせてもらえば、話が上手で、金儲けの段取りと資金繰りの計算が早い。この3つを兼ね備えた人間は、大体は詐欺師と相場が決まっております」
そういう人間に騙されたことがあるのだろうか。いや、彼の場合は自分がベルギー総督府を騙した立場ではなかったか?私の疑問を置いてきぼりにして、イタリア人補佐官とドイツ人銀行家の会話は続く。
「失礼ながら、貴方はどちらになるのでしょうか」
「私としては金儲けだと自任しておりますが……」
そこで初めて銀行家は、皮肉気に歪めていた口元を、自嘲するかのようなものに変えた。自分を蔑ろにされているにも関わらず、ロートシルト家の当主はニヤニヤしながら耳を傾けている始末である。私はルイス氏の、実に貴族らしい悪趣味な態度に、呆れつつも感嘆していた。
「……何故、笑われたのですか?」
「自分が得意だと思うものが、他人の評価と一致するとは限らないからだよ。銀行屋という、人の財布の中を見る商売をしていると、特にそういう気分にさせられることが多い。自分の特性なり商売を間違えた人間を、どれほど見せられたことか」
「アメリカ流の合理主義者を自任しておられる割には、随分と感傷的な事をおっしゃいますな」
「君こそ、コチコチ頭のカトリック保守派だと聞いていたが、噂は当てにならぬものだな」
ドイツ国家銀行の”ホレス・グリーリー”ヒャルマル・シャハト頭取は、鼻眼鏡のブリッジを指で押し上げると、それまでの謙遜した言葉とは裏腹の、自信に満ち溢れた不遜な笑みを浮かべた。
*カイザーライヒでは、セルビア王国は1936年までオーストリアの監視下(占領下?)に置かれており、アレクサンダル王太子はスイス亡命中。摂政としてセルビア軍のポヨヴィッチ元帥が統治しています。史実のハンガリー王国のイメージ。