CGTにより王党派が追放された時、私は声をあげなかった。私は君主主義者でも反ユダヤ主義者でもなかったからだ。
無政府主義者により教会が攻撃された時、私は声を上げなかった。私はカトリックでもプロテスタントでもなかったからだ。
「彼ら」が前政権と軍部の敗戦責任の追及を始めた時、「私達」は声をあげなかった。私達は資本家でも高級将校でもなく、労働者であり兵士であったからだ。
彼らは私達であり、私達は彼らである。これからは何人たりとも資本家にも将官達にも政治的エリートにも搾取されない、労働者と兵士のための政治が行われるのだと、私達は確信していた。
彼ら-
*
サンディカリズムに対する警句として、これほど有名な詩はない。作者に関しては「第3共和国の巨人」ことポール・ヴァレリー、「第4共和制の守護者」シャルル・モーラス、「他者論の創設者」エマニュエル・レヴィナス、あるいは名も無きフランス人労働者まで、様々な説が主張されている。
有力視されているのが「顔のない理論家」ことモーリス・ブランジョ。前述の哲学者レヴィナスの親友で知られるブランジョは、1919年の革命当時は12歳の少年であった。彼は1930年代のフランス・コミューンにおけるアナーキスト派の理論家として、全体主義を主張する故ジョルジュ・ソレル門下のソレリアン派と、歴史認識や組織論について激しい論争を繰り返した。
そのブランジョがサンディカリズムに懐疑的であったという説は、非常に興味深い。ブランジョは1939年にコミューンの政治活動から引退した。その理由は、現在に至るまで不明である。
- 民主防衛戦線(民明派)の機関紙『松明』(1960年5月号)掲載論文『社会主義・組合主義・共産主義への考察』より抜粋 -
17世紀。深刻な経済不況と政治危機に喘ぐイングランド王国で産声を上げたキリスト友会は、クエーカー派の俗称で知られている。国教会の権威主義と体制に反逆運動を起源とするクエーカー派は、プロテスタント諸派の中でも世俗主義とリベラル志向が強い。
創設者であるジョージ・フォックスは、権威主義に凝り固まり、形骸化した儀式に拘る聖職者達に反発。革命前夜の反王政機運の高まりを背景に、信者個人の信仰体験や神秘的な経験、すなわち神と信徒との直接対話を重視するべきだと主張した。
このようなクエーカー派のストイックな信仰姿勢は、同じくプロテスタントが主流だったアメリカ合衆国においても受け入れられた。新大陸に上陸したクエーカー派は、分裂を繰り返しながら勢力を拡大。アメリカのプロテスタント諸派の中でも成功した存在と見なされている。
ハーバート・クラーク・フーヴァーは、典型的なクエーカー教徒である。ストイックな信仰と単純明快な主義主張の持ち主であり、共和制が君主制よりも優れていると考え、自由主義と資本主義こそがアメリカの価値観であると信じて疑わない、アメリカンドリームの体現者だ。
中西部アイオワ州のクエーカー教徒の家庭に生まれ、10歳で両親を亡くしたフーヴァーは、叔母や同じクエーカー教徒の支援を受けながら、社会の荒波に果敢に飛び込んだ。幼少期から苦労をした人間は、他人に対する感受性が高くなると同時に、他人に対する視線や評価が厳しくなる傾向がある。荒波の中で自分自身の足で立ち続ける強さと、他者に対する同情と友愛を忘れなかったフーヴァーは、彼自身の優秀さをふくめて、いかなる環境や場所でも愛されるキャラクターの持主に成長した。
カリフォルニアのスタンフォード大学で地質学を専攻し、オーストラリアで鉱山技師としてのキャリアをスタートさせると、数年で鉱山経営者として成功を収めた。ワシントンDCでも、その管理能力は高く評価され、欧州大戦における難民救援活動に従事。1919年には、ノーベル平和賞を受賞した。
共和党員でありながら、ウィルソン政権では食糧庁長官、続くマカドゥー政権では新設の初代商務長官に任命された。いずれは大統領候補の呼び声も高い身長180センチを超える巨漢のフーヴァー特使は、必要以上に緊張した態度で私に向かって手を差し出す。
「議長閣下にお会いできましたことを、大変光栄に思っております」
「メンスドルフです」
私は肩書ではなく家名だけを名乗ることで、この会談が私的な性格であることを強調する。その意味を理解した特使の顔が、一層強張りを強める。その緊張感が私にも伝染したのか、私も喉に渇きを覚えた。
フーヴァー特使は、まるで骨董品を取り扱う古物商のような慎重な手つきで手を伸ばすと、私と握手を交わした。丸まった指の関節や無数の傷跡は、彼が労働者階級出身であることを物語っている。同時にこの巨漢は、成功者特有の大胆さと慎重さ、そして繊細さも持ち合わているようだ。
「……伯爵閣下?」
「いや、これは失礼」
フーヴァー氏の手の感触に気を取られていたことに気が付いた私は、苦笑しながら手を離すと、自分の傍らに立つ補佐官を特使に紹介した。
「こちらがアルチーデ君。私の補佐官だ」
「アルチーデ・デ・ガスペリです。食糧庁長官時代の閣下には、二重帝国への穀物輸入枠拡大で御世話になりました。
「道化師」は堂々とした態度で握手を求めながら、フーヴァー特使に大戦中の食糧支援に対する感謝を伝えた。
「合衆国のイタリア系コミュニティの協力がなければ、帝国内部のイタリア人は、依然として飢えと貧困に苦しんでいたことでしょう。イタリア内戦とロシア内戦における特使の人道支援活動にかかわる御活躍にも、併せて敬意を表する次第であります」
「……失礼ながら、補佐官はイタリア人なのですか?」
「旧イタリア王国国境近くの、トレンティーノ出身です」
「それは……」
旧態依然とした帝国を維持することに固執するハプスブルクの高官の傍に、アメリカ人曰く「抑圧された被支配民族」がいることが、よほど奇異に映ったようだ。フーヴァー特使は、唖然とした表情を浮かべた。
わざわざ「道化師」を立ち会わせた甲斐があるというものである。
*
フーヴァー特使との会談を終えた私は、デ=ガスペリからメルシエ枢機卿との会談内容について、報告を受けていた。ある程度は予想していたつもりだったが、内容を聞いた私は、改めて肩を落とした。
「やはりメルシエ枢機卿は、辞職も引退も拒否されたか」
「例え最後の1人となろうとも、私はベルギー人であり続ける。ドイツの覇道に屈することは、信仰と正義の灯りを消すことになる。枢機卿はそのようにおっしゃられました」
メルシエ枢機卿の気高い精神に感服すると同時に、私の口からは、重く長いため息が零れた。
メヘレン市にローマ・カトリックの大司教座が設置されたのは、16世紀も中頃を過ぎた1559年のことである。当時はまだ低地諸国がハプスブルク帝国のネーデルラント総督の統治下であり、後のオランダ王国との国境にほど近いフランダースのメヘレン大司教区は、プロテスタントとカトリック教徒が入り混じる最前線であった。
メレヘン大司教のデジレ・ジョゼフ・メルシエ枢機卿は、1851年に南部ワロンのフランス語圏に生まれた。若い頃からスコラ派の神学者・哲学者として著名な存在であり、1891年回勅「
1891年回勅の底流に流れるのは、民主主義とカトリック信仰、近代国家と教会は、決して対立する思想や概念ではないという、カトリックへの信仰にも等しきメルシエ枢機卿の強固な信念である。それは神学者としての体系的な思想を反映したものであったが、同時に枢機卿自身が生まれ育ったベルギーの環境に寄るところが大きい。
急速な産業革命による社会問題と、それを背景とした社会主義や労働運動の勃興、言語戦争とまで呼ばれた激しい民族対立、コンゴ自由国をめぐる国際的な孤立、欧州大陸で幾度も発生した国家間の戦争。新興国ベルギーは度重なる政治危機を、議会を通じた政治参画と討論により解決してきた。
「
そして、その恩恵を受けたのが我らハプスブルク家であり、デ=ガスペリである。カトリック教会が世俗国家と対立ではなく対話を通じた道に転換したからこそ、かつてはアンシャン・レジームの一員として弾圧されていた教会が、ナポレオン戦争後の国家に受け入れられたのだ。
フラマン人であろうとワロン人であろうと、カトリックであろうとプロテスタントであろうと、ベルギー人として団結出来る。その強固な信念を有するメルシエ枢機卿にとって、独立国家の尊厳と名誉を踏みにじり、あまつさえ自国の利益のために民族対立を扇動したドイツの行動は、断固として受け入れられないものだ。
メルシエ枢機卿はドイツ軍占領地域における武力による抵抗活動を否定する一方、民族融和と非服従による抵抗を主張した。彼はラジオや説法を通じてベルギー国内のカトリック教徒に語り掛け、アルベール国王の政府を支持。ベルギー国内の労働者徴用が始まると、枢機卿は「現代のバビロン捕囚」であると痛烈に批判した。
当然ながらベルギー総督府は、メルシエ枢機卿の存在を危険視。1919年。度重なる渓谷にもドイツ軍批判を辞めないメルシエ枢機卿は、メレヘンの大ベギン会修道院に逃亡した労働者や政治犯を匿ったとして逮捕された。この時、彼は70歳を越えた高齢であった。
それでもメルシエ枢機卿の信念と信仰は揺るぐことなく、民族融和の重要性と、ドイツに対する非服従を説き続けた。今やロンドンに逃れたアルベール1世に代わり、ベルギーにおける抵抗運動の象徴となりつつある。
メルシエ枢機卿は、ルーバン大学のトマス哲学講座の初代教授であり、高等哲学研究所を創立した教育者だ。欧州各国の聖職者達の多くは彼の教え子であり、各国の聖職者がドイツ皇帝に嘆願書を提出する事態となった。
この事態に、私はツィンメルマン外相にカトリック教会との全面対決の危険性を説いた。「第2の文化闘争を起こすつもりか」という批判が、どこまでルーデンドルフに効いたかはわからないが、1920年にメルシエ枢機卿は釈放された。
そしてメルシエ枢機卿のドイツに対する抵抗姿勢は変わることなく、度重なるハプスブルクの仲介を拒絶し、連邦王国を「ドイツの傀儡」と批判し続けている。
「先程もタック首相から直接抗議された。ハプスブルクが余計なことをしなければ、あの老人はまだ牢獄の中だったとな。お門違いと突っぱねたが、かの御仁は枢機卿の対応に怒り心頭だ」
「フラマン民族主義者の首相からすれば、不思議ではないでしょう。そもそも彼は国内の多数派の支持を受けているわけではありません」
「……それだけ、ドイツの収奪が過酷だったということか」
フラマン人もワロン人も、ドイツに対する潜在的な敵意と憎悪を抱いたまま、現状では沈黙を保っている。ドイツ軍の存在がなければ、もはや独立はおろか食糧の輸入すらおぼつかないからだ。メルシエ枢機卿が武力闘争を否定していることもあり、反ドイツレジスタンスの精神的な支柱とはなりえても、具体的な脅威かと言われれば首をかしげる。
メルシエ枢機卿の釈放に尽力したローマは、釈放後は一転して沈黙を保ち、枢機卿支持者や自由主義者から「ドイツの軍事的圧力に屈した」と批判を受けている。それでも全世界のカトリック信者に対する責任を有する教皇庁としては、旧ベルギー国民のために、世界中の信徒に負担を求め続けることは困難だろう。
フランダース=ワロン連邦王国の正統性とベルギー王国の継承性を正面から否定し、アルベール1世を正統な国王であると主張し続けるメルシエ枢機卿の存在がある限り、ドイツとの政教協定の締結は不可能だ。それはドイツ帝国とカトリック教会の緊張関係が、今後も続くことを意味している。
プロイセン軍人にあるまじき政治屋軍人として忌避されていたルーデンドルフが出世する契機が、旧ベルギー王国のリエージュ要塞攻略戦だ。連邦王国建設を推進した参謀総長からすれば、メルシエ枢機卿の存在は許しがたい存在である。そのためルーデンドルフは、ドイツ帝国のカトリック政党である中央党への圧力を強めることで、教皇庁を牽制した。
1871年に建国されたドイツ帝国において、北部のプロテスタントであるプロイセン王国が中心となったベルリンに対して、南部のカトリック社会は潜在的な危険分子であった。カトリック勢力による中央党の結党を危険視したビスマルク宰相は、文化闘争でカトリックを抑え込もうとしたが、逆に中央党を中心とするカトリック系商工団体やカトリック系労働組合の結成という政治勢力化を後押しする結果となった。
ビスマルク失脚後、中央党は政治勢力としては穏健化したが、それでもプロイセン王国のユンカーによって、カトリック教会の政治的な代弁者は愉快な存在ではない。実際に1914年の開戦直前まで、参謀本部を「国家内国家」として激しく批判していたのは、中央党の有力議員であるコンスタンティン・フェーレンバッハだ。
帝国参議院を停会して、中央集権化を推進するルーデンドルフが、社会民主党(SPD)と共に中央党を弾圧する選択肢を放棄していない。教皇庁がメルシエ枢機卿の庇護を優先すれば、ドイツ国内のカトリックを犠牲にしかねない。教皇庁がドイツ国内のカトリックを優先すれば、メルシエ枢機卿が犠牲になるかもしれない。
私は疲労感から、自分の頭蓋骨がひび割れそうな感覚に陥った。
「……枢機卿閣下の信仰心と愛国心には、カトリック教徒として敬服するばかりだ。しかし……あえてベルギー人と呼ぶが、彼らはカトリック教徒ばかりではない」
「経済的に焼け野原としたのは、そのドイツなのですが」
「それでもドイツとの協力が必要だと判断した旧ベルギー人も、確かに存在している」
オランダから独立したベルギーは、オランダ国境と接する北部はプロテスタントが多く、フランスに近いカトリックは南部が中心だ。ドイツ人がワロン人を意図的に弾圧したからこそ、メルシエ枢機卿は反ドイツなのではないかという声も出ている。
デ=ガスペリは、必要以上に厳めしい表情を浮かべながら報告を続けた。
「民族対立を扇動し、人々の自由と信仰を抑圧するドイツ軍の振る舞いは、神の道ではないと枢機卿はおっしゃられました。そしてベルギーが再建されない限り、あるいは教皇猊下の命がない限りは、この地を離れることはないとも」
「……ベルギーは滅んだのだ!!」
私は、自分の罪悪感を誤魔化すように叫んだ。
グザヴィエ公子は、ハプスブルクに対する皮肉を直接ぶつけるためだけにブリュッセルを訪問したわけではない。旧ベルギーの政情不安が独仏の新たな衝突になることを懸念したイギリス政府は、亡命政府のアルベール国王にメルシエ枢機卿の説得を依頼。特使に選ばれたグザヴィエ公子はメルシエ枢機卿を説得したが、老枢機卿は「信徒を見捨てられない」という理由で拒絶した。
メレヘン枢機卿の回答は、亡命政府への批判であると同時に、教皇庁の現体制に対する皮肉にも聞こえる。近代国家と教会の融和を唱えたレオ13世を支えた枢機卿としては、教皇領の回復やカトリック民兵の組織化は、受け入れがたいアンシャン・レジームへの回帰に思えるのだろう。
「それではどうすればよかったというのだ!トリノの社会主義者に、2度目のローマ略奪を行わせればよかったとでもいうのか」
「……枢機卿ならば、そのように判断されるかもしれません。たとえローマが廃墟となろうとも、その時こそカトリック教徒は聖戦に立ち上がる」
「それは君の考えか?それとも……」
私の質問に「道化師」は沈黙で応じる。私もそれ以上の回答を彼から聞こうとは思わなかった。それを聞いてしまえば、形容しがたい狂気と直接対峙しなければならなくなる。そのような予感がしたからだ。
「信仰と狂気が紙一重とは、よく言ったものだ」
このような話、フーヴァー特使に聞かせられたものではない。私は内心でだけ続けた。
メルシエ枢機卿への愛国心のみを、実利主義的なクエーカー教徒らしく純粋に讃えていた特使からすれば、国民や信徒を犠牲にしてでもカトリックの教義と信仰を守るべきだとする考えは、決して受け入れられないだろう。
「ドイツの軍国主義者もそうだが、パリの社会主義者も余程戦争がしたいと見える」
「人間が本質的に闘争を望むとは考えません。ですが剣を持ってその地位を手に入れたために、それ以外の手段を知らないのでしょう」
私は道化師の皮肉を聞きながら、鼻眼鏡のシャハト頭取から渡されたレポートを開いた。それはドイツ国家銀行とロートシルト家が共同で調査した、現在のフランス国内の政情に関するものだ。旧フランス国内の金融機関も協力したという内容は、詳細かつ鮮明なものだ。
克明に描写される人間の悪意を煮詰めたかのような内容に、私は湧き上がる不快感を堪えるのに苦労させられた。
新たなフランス共和国は、第3共和政における少数派や非主流派であった過激主義者の寄り合い所帯である。
私はレポートを読む努力を放棄したくなる誘惑にかられた。サンディカリズムなるものは、
パリ政府を支配するフランス労働総同盟(CGT)執行委員会は「欧州大戦の敗戦責任についての調査委員会」を設置。かつての将軍達を引きずり出そうとしたが、その多くはアルジェに亡命していた。
フランス国内に留まっていたのは、ドイツとの停戦協定に調印したジョフル元帥だけである。元帥は調査委員会で「敗戦責任は自分にある」として、委員達からの聞くに耐えない罵倒と人格攻撃に耐え続けた。元帥は毅然とした態度で「背後からの一撃論」を否定。「フランス軍がドイツ軍に敗れたために、戦争に敗北したのだ」と総括した。
この結果を受けて、調査委員会はナポレオン戦争以来の伝統を誇るフランス共和国軍の解体を決定した。官僚や統治機構に対する潜在的な不信感から、民兵組織による国土防衛隊が組織され、パリ警察や中央官庁も、全てがCGTの思想調査の対象となり、その多くが職を追われた。
……彼らの思考を理解しようとしてはならない。私は首を左右に振った。
全ての植民地を失い、数百万の同胞を、家族や友人達を永遠に失ったフランス国民は、正当な制裁であるとして熱狂しているという。国民として復讐や制裁を求める感情は理解出来なくもない。だがフランス革命のギロチンの刃が次に誰に向けられたのか、彼らは忘れたのだろうか?
暗澹たる気分を切り替えようと視線を上げた私は、デ=ガスペリの何時もと変わらぬ仏頂面に安堵した。
「……戦争に負けるということは、こういうことなのだろうな」
「中央同盟が敗北していれば、トリノやパリで展開された光景が、ウィーンやブタペスト、ベルリンで行われていたのでしょう」
すでにレポートに目を通していた「道化師」は、むしろ淡々とした口調で応じる。
フランスの政治エリート達は、彼らの彼らによる彼らのための政治を続けた結果、共和国を敗北させたとして、総括の対象となった。レーモン・ポアンカレの民主共和同盟も、ジョルジュ・クレマンソーの急進社会党も、ジョレス亡き後の社会党ですら、祖国と国民を裏切った売国奴と糾弾された。
アンシャン・レジームへの回帰を求める復古主義者は、反体制派であると同時に絶対的な少数派であった。彼らは過去の栄光にすがりながら身内同士で傷口を舐めあい、過去の栄光に不満ばかりを口にしていた。そんな彼らの忠告に、耳を傾ける者はいなかった。
あらゆる伝統的な価値観が糾弾された。教会も例外ではない。愛国心を鼓舞していた聖職者達は、帰還兵から石を投げられ、身ぐるみを剥がされた。フランス国民の多くがキリスト教に懐疑的となり、社会主義者は「理性なき猿の集団」と彼らを罵倒し、搾取のための神を地面へと引きずり下ろした。「あらゆる教会の財産は、負傷した兵士達のために没収される」というCGTの決定に、フランス国民は歓喜の声を上げた。
『そして今、フランスの労働者と兵士が、労働者と兵士の政府の手によって弾圧されているのです』
フーヴァー特使は、フランス政府の一方的なデフォルト宣言よりも、心の底からのフランス市民に対する同情と、市民を弾圧する政府に対する嫌悪感を、フランス情勢への懸念という形で繰り返し表明した。フーヴァーのみならず、多くのアメリカ人にとって、共和制フランスの存在は、同じ自由の価値観を共有していた同志であった。そのフランスが帝国主義者に破れ、過激な社会主義者に乗っ取られたことが、よほど衝撃的だったのだろう。
スペイン風邪よりも恐ろしい、伝染する狂気がフランスに蔓延している。戦犯裁判は、資本家から次第に対象を拡大し、今や一般国民同士の魔女狩りにまで拡大している。戦時中に勇敢さを称賛された元兵士は「帝国主義者の尖兵」として街角で首を吊るされ、戦死した兵士の未亡人は「自業自得である」として遺族年金を打ち切られた。
急進的な自由主義者が急進ジャコバン派を自称する過激派を牽制しようとしているが、そこまでフランス革命をまねて、どうしようというのか?
その残忍かつ野蛮なやり方は、私にも覚えがある。それはロシア内戦におけるボルシェヴィキ政権の手法そのものだ。ロマノフ皇族や旧体制に対するテロリズムは、貴族から都市の中間層、宗教団体や異民族、地方の農民へと瞬く間に拡大。ロシア社会は内戦終結後も、後遺症に苦しんでいる。
逃げる場所がなかったロシアとは異なり、フランスにはアルジェやイギリスという亡命先がある。一見すると状況的には救われているのかもしれない。しかしそれがために、国内において反革命勢力が政治勢力として台頭しない。反革命の旗頭となりうる勢力の支持層は、優先的に粛清しているという周到さだ。
「……つまらぬ事にばかり、学習能力があるものだ」
あるいはパリに亡命したトロッキーが、CGTに粛清の手法を指南しているのかもしれない。トロッキーはパリやメキシコ・シティなど世界各地を転々としており、時折新聞記者を集めては「世界革命だ!」と気勢を上げている。
フーヴァー氏はメキシコ国内におけるサンディカリズムの拡大についても懸念を表明し、ロシア内務省とアメリカ司法省の合同によるトロッキーの逮捕に向けた合同捜査に取り組んでいることを明らかにした。
そのロシア大統領がトロッキーの国外逃亡を援助したことや、ケレンスキーの仲介でトロッキーを通じてCGTを動かし、イタリア半島内戦を事実上の終戦状態に持ち込んだことを明らかにするわけにもいかず、私はフーヴァーの説明に対して、真面目な表情で相槌を繰り返すだけに留めた。
かつてマルクスは「2度目は喜劇として、歴史は繰り返す」と宣言したが、第2のフランス革命は、後の歴史家はどのように評価するのであろうか。私はそのようなことを考えながら、デ=ガスペリに尋ねた。
「スイスに亡命したソシエテ・ジェネラルグループの支配人代理であるエミール・フランクは、フーヴァー氏の親友……彼が個人の友情を国家間の交渉に持ち込むタイプだとは思わないが、やはり痛くもない腹を探られかねない」
「仮にフーヴァー氏より米仏関係に関する要請がなかったとしても、旧ベルギー王国や旧第3共和政の金融資本再編は必要かと。そして健全な競合関係が存在するからこそ、己を相手より高めようという動機が生まれます」
「しかし今のままでは不可能です」と「道化師」は断言した。
「ロンドンはベルリンと対抗するどころではありません。すでにドイツ帝国はルーデンドルフ参謀総長の主導の下、
「パピエル・マルクによる国際金融秩序の完成か」
私は自分の言葉に、苛立ちと反感が混じっていることに気が付いていた。
大戦以前の欧州大陸の外交は、ドイツの軍事的台頭をいかに糊塗するかという歴史であった。そしてフランスとイタリアが崩壊した「名誉ある平和」の欧州では、経済の分野まで影響が波及しようとしている。
このままではポーランドやウクライナが
労使協調路線の労働組合の国際的な連携強化、そのための国際機関の設立。フーヴァー特使から提案された内容について、私は「道化師」の考えを問うた。
「フーヴァー氏の提案について、君はどう考えるか」
「今のマカドゥー政権にとって、前政権時代から続く世界産業労働組合(IWW)と、アメリカ労働総同盟(AFL)の労働運動の主導権争いは、最大の関心事です。政府としては労使協調路線のAFLを後押しをしたいが、労働運動運動に干渉しているとは思われたくはない。そのようなことをすれば、IWWに政府批判の格好の材料を与えることになります」
「直接政府が表に出る事なく、国際協調を前提としての連携強化。構想としては悪くはありません」とデ=ガスペリは、この男にしては、本当に珍しく称賛の言葉を連ねた。
AFLの労使協調路線に反発したダニエル・デ・レオンや、ユージン・V・デブス(アメリカ社会党党首)が結成したIWWは、社会主義者や無政府主義者が結成した、戦闘的な労働組合の連合である。ストライキやロックアウトだけではなく、直接的な武力行動も辞さない過激な運動方針を掲げている。
1919年の「赤い夏」と呼ばれたアメリカ国内の反政府暴動や人種暴動、暴力的なストライキに対して、司法長官のパーマー(現副大統領)は、アメリカ社会党と世界産業労働組合(IWW)幹部を集中的に摘発したが、これは却ってAFLとIWWの対立激化をもたらした。
「だからこその国際組織なのでしょう。アメリカ政府が全面に出ることなく、AFLを支援する。そして、その中には各国のキリスト教系の労働組合、あるいはカトリック系政党との連携も含まれている……トロッキーが社会主義者の連携による世界革命を目指すなら、こちらは世界のキリスト教徒による団結で対抗する。フーヴァー特使は、なかなかユーモアのある御人柄のようです」
「……君の口からそのような単語が飛び出すとはな。むしろ君の辞書にユーモアの項目があったことが、私にとっては驚きなのだが」
「道化師」は、私の揶揄いに反応せずに続けた。
「アメリカ政府と同様、ハプスブルクも表に出ずに済むでしょう」
国際機関なり組織を隠れ蓑として、穏健な社会民主主義勢力やキリスト教民主主義勢力の結集を試みる。例えばオーストリア帝国なら保守派のキリスト教社会党(CS)を中心に保守派を、社会民主労働党(SDAP)を前面に出せば、多国間での社会民主主義勢力の連携の舞台とすればいい。デ=ガスぺリの視線は、そう物語っていた。
「帝国内部の民族勢力との連携の機会を設けておくことは、帝室にとっても有意義かと愚行致します」
「アウグスライヒまでの間に、出来る限りチェック人やスロバキア人、南スラブ民族団体との会談を重ねておきたい」
「……ハンガリーに邪魔されることなく、ですか?」
私がそれ以上は発言を控えたので、デ=ガスペリは話題をメレヘン枢機卿を巡る独墺関係や、デフォルトを巡る仏米関係に戻す。
「結局のところ厄介な隣人にどう対処するか、それが問題なのです。こう申し上げては僭越かもしれませんが、中央党やSPDといった政党との連携も視野に入れておくべきかと。政府ではなく議会、議員や政党同士ということになりますが」
「……実際に実行するか否かは、また別の問題だ」
厄介な隣人とはパリか、ベルリンか、あるいはブダペストなのか。あるいは政治的な選択肢について触れただけなのか。私は独り言のように呟いてから、自分自身の考えをまとめるように続けた。
「どのような政権の枠組みであれ、ドイツと二重帝国との軍事同盟はハプスブルクにとって必要不可欠である……CSにも、カール・レンナーのような人材がいてくれればよいのだが」
「人材というものは即席栽培は不可能です。聖パウロは自らの過ちに気が付くと、それを改めることが出来ました。最初の弟子たる聖ペトロはイエスを度々失望させましたが、イエスは彼を最後まで放しませんでした」
「私にも根気強くなれと?」
私の問いかけに、デ=ガスペリは古びたメガネの下の眼を瞬かせる。
「畏れながら閣下は、御自身が預言者に匹敵するとお考えなのですか?」
どうやら私が「道化師」のユーモアセンスを揶揄ったことへの意趣返しらしい。
私はひどく閉口した。