南チロルの宮廷道化師   作:神山甚六

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・国際労働機関(ILO)と、国際キリスト教組合連合(IFCTU)の結成

「パンと自由と平和!」-IFCTUのスローガン

(写真)

 ハーグのIFCTU設立総会で挨拶する初代委員長のヤン・オーデゲスト(オランダ人)。その後ろ、左からカール・レンナー(国際労働機関(ILO)初代事務局長、オーストリア帝国前首相)、鈴木文治(ILO事務局長代理・日本労働総同盟議長)、サミュエル・ゴンパーズ(ILO理事会議長)。

【前史】

 国際労働組合事務局の後継組織である国際労働組合連合(ITUC)は、労使協調路線に基づき、交渉による労働者の待遇改善と生活向上を目指すナショナル・センターの国際組織として、1913年に結成された。直接行動を重視する国際社会主義者大会(第2次インターナショナル)と対立関係にあったとされることが多いが、双方に参加していたナショナル・センターや政治勢力も存在していた。

 第1次世界大戦(1914-21)が勃発すると、中立国であったオランダのヤン・オーデゲスト事務局長によるITUC存続の訴えもむなしく、中央同盟加盟国はカール・レギャン議長(ドイツ社会民主党所属)を、協商陣営加盟国はレオン・ジュオー(フランス労働組合総同盟)を支持したため、機能を停止した。

 各国で総力戦体制が確立される中、労働運動は長い冬を迎えた。一方で開戦当初のナショナリズムの高揚は、戦争長期化による厭戦気分の高まりにより雲散霧消。長時間労働の固定化や食糧危機に伴う配給制度の導入、経済的混乱によるインフレは、各国の組合運動を過激化させた。

 1919年のフランス・コミューン革命により、同国のナショナル・センターであるフランス労働総同盟(CGT)はITUCからの離脱を正式に宣言。そのためウィリアム・アーチボルド・アップルトン(イギリス)が協商陣営加盟国の代表を継承した。同年のコペンハーゲン停戦協定発効に伴い、ITUCの再統合が検討されたが、1920年にレギャン議長が急死したことで頓挫した。ドイツのSPDやカトリック系労働組合は、ルーデンドルフ体制の弾圧の口実として利用されることを恐れ、再統合に消極的だった。

 1921年11月の「名誉ある平和」の締結を受けて、各国のナショナル・センターの間で再び合同機運が高まった。ロシアにおけるボルシェヴィキ革命の失敗により、第2次インターナショナルの流れを汲む共産党の勢力は衰退したが、ほぼ同時期に行われた1919年のフランス・コミューン革命は、労働組合至上主義(サンディカリズム)という新たな独裁を生み出した。ヤン・オーゲデストを始め、各国の穏健な社会民主主義者や労働運動家は、労働運動全体がサンディカリズムに支配、あるいは影響されることで、労働運動が過激思想として弾圧されることを恐れ、再統合に向けた折衝を進めた。

【ベルン宣言】

 1922年6月4日。ヤン・オーゲデスト事務局長の呼びかけにより、国際労働組合連合(ITUC)の臨時総会がスイスのベルンで開催された。

 総会の冒頭、サミュエル・ゴンパーズ(アメリカ労働総同盟創設者)は、労働組合運動の国際専門機関の設立と、自由主義と民主主義を支持する国際労働活動の連合体結成を提案する。またゴンパースは、ナショナル・センターを中心とする新たな国際組織は、国際労働組合連合(ITUC)の再結成ではなく、サンディカリストに明確に反対する諸勢力の統一戦線でなければならないと訴えた。ゴンパース提案を受けて、理事会は3日に及ぶ審議を行い、その結果を共同文書として発表した(ベルン宣言)。

 ドイツのヒンデンブルク宰相は、典型的なユンカー出身のプロイセン軍人らしく、保守的な政治思想の持ち主であり、社会民主主義者を含めた労働組合そのものを嫌っていた。ルーデンドルフ参謀総長と同じく、国際的な労働組織の結成に否定的な見解を示していたヒンデンブルクを説得したのは、前参謀次長のヴィルヘルム・グレーナーである。グレーナーはオーストリア帝国首相のカール・レンナーと共に「無政府主義者に労働運動を主導させてはならない」と説得。ヒンデンブルクは、ベルン宣言への支持を表明した。

【反サンデイカリスト勢力の結集】

 1922年6月27日。スイスのジュネーブにおいて、世界労働機関(ILO)が結成される。本部はジュネーブに、初代事務局長にはカール・レンナーが、意思決定機関の理事会議長にはゴンパースが就任した。レンナーはオーストリア帝国首相の地位を辞しての転出であり、話題を集めた。ILO憲章全文には『普遍的で持続的な平和は、社会正義によりもたらされる』と明記され、社会改良主義の色合いが濃いものとなった。

 同月末、オランダのハーグで、国際キリスト教労働組合連合(IFCTU)が結成された。初代委員長には国際労働組合連合(ITUC)の事務局長だったヤン・オーデゲストが就任。引き続き事務局はハーグに置かれ、組織としての継続性を強調した。

 その一方、ITUCの「1国につきナショナル・センターと参加する政党は1つに限られる」とする原則を緩和。ナショナル・センターだけではなく、産業別労働組合や、職業別労働組合、キリスト教系の労働組合に加え、カトリック系保守政党、キリスト教民主主義者やキリスト教社会主義者まで、幅広い政治勢力の参加に道を開いた。また参加者の拡大と加盟国の増加に対処するため、欧州、北米、南米、亜細亜の4つの地域委員会が発足した。

 国際キリスト教労働組合連合という名称に関して、世俗主義的な労働組合から「国際的な労働組合運動の看板に、特定宗教の名前を冠するのは如何なものか」とする懸念の声が出された。これに対して「自由主義者から社会民主主義者まで、幅広い政治勢力をまとめるためには、欧州諸国や新大陸諸国の基本的、あるいは重要な地位を占める価値観であるキリスト教を重視するべきだ」とする反対意見が出された。議論の結果、「将来的な検討課題」とすることで決着が図られた。これに関しては、亜細亜から唯一参加した日本のナショナル・センターが、キリスト教系労働運動であることも、審議に影響したと思われる。

 オーデゲスト委員長は、就任演説において、ILOと連携しつつ、あくまで資本家側との交渉を通じた労働者の待遇改善と権利拡大を目指すと宣言。同時に人間の尊厳、民主主義の確立、国際協調外交といった普遍的な価値観のために闘うとして、左右の独裁に反対。反ボルシェヴィキ・反サンディカリズムの姿勢を鮮明にした。

 IFCTUのスローガンである「パンと自由と平和!」は、この時の委員長演説から名付けられた。

【幻の第3インターナショナル】

 西イタリアとフランスの新政権は、IFCTUを「資本家の御用組合」「ローマ教皇の走狗」であると厳しく批判。国内のキリスト教勢力への抑圧と監視を強めた。またIFCTUに対抗するため、労働組合至上主義(サンディカリズム)の流れを汲むツィンマーヴァルト反戦運動と、第3インターナショナルの設立を計画した。

 しかしボルシェヴィキ残党勢力との主導権争いや、フランス国内の政局の混乱により、構想は実現しなかった。「幻の第3インターナショナル」は、当時の社会主義勢力におけるサンディカリスト陣営の国際的孤立化を象徴していた。

- 『労働組合運動の歴史』民明社会主義研究会編(1955年) -


パンと自由と平和!(1922年7月 オーストリア帝国 首都ウィーン)

 19世紀以降の欧州外交は、勢力均衡(バランス・オブ・パワー)による国際秩序を、暗黙の前提として志向していた。これはナポレオンの台頭を阻止出来なかった反省から、突出した超大国の出現を阻止することで、戦争を抑止、あるいは戦争が発生したとしてもコントロール出来るという考え方である。

 

 ドイツ帝国の成立(1871年)以降も、ビスマルク自身はこれを継続しようとした節がある。とはいえ欧州大陸中央部におけるドイツ帝国の軍事的優位性は明らか。それを意識的に糊塗しようとしたビスマルクが失脚すると、ドイツに対する潜在的な警戒感は、英仏協商や露仏同盟という、これまでの欧州外交では考えられなかった軍事同盟を出現させ、欧州大戦(1914-21)に繋がった……

 

 つまり勢力均衡と個別的自衛権に基づく国際政治は、欧州大戦を阻止出来なかったというのが、アメリカ合衆国前大統領ウッドロー・ウィルソンの認識である。その上でウィルソンが新たな国際安全保障の枠組みとして提案したのが、集団安全保障(コレクティブ・セキュリティ)である。

 

 その内容は、アメリカ人らしい単純な正義観念に基づくものだ。全ての国家が参加する新たな国際機構を設立、加盟国の中で不当に平和を破壊したと判断された場合、加盟国全体で制裁を実行する。最終的には国際紛争における戦争の違法化するという、壮大な理想を掲げていた。

 

 欧州大陸における覇権国家となったドイツ帝国は、望むと望まざるとに関わらず、新たな外交ドクトリンを必要としていた。国内に問題を抱えてはいたが、衰退したロシアや国際社会に背を向けたフランス、国内問題に追われるイギリスやハプスブルクに代わって、ベルリンは欧州外交を主導しなければならなくなったからだ。

 

「帝国政府が設立した帝国協定(ライヒス・パクト)は、集団安全保障の考えに基づく国際秩序の再編である」

 

 ドイツ帝国のツィンメルマン外相の発言を、ワシントン駐在の駐ドイツ大使を通じて伝えられたウィルソン前大統領は、不快感をあらわにしたとされる。

 

 帝国協定の原加盟国はドイツ帝国を筆頭に、フランダース=ワロン連邦王国、リトアニア王国、バルト連合公国、ベラルーシ王国の6か国である。ツィンメルマン外相は帝国議会においても「帝国協定は、欧州における新たな集団安全保障体制の根幹をなすものである」と答弁した。

 

 ちなみにフランダース=ワロン連邦国王のアーダルベルト1世はドイツ皇帝の3男、ベラルーシ王国のハインリッヒ1世は、ドイツ皇帝の実弟である。リトアニア国王ミンダウガス2世は、ヴュルテンベルク王家の傍流出身。バルト連合公国のアドルフ・フリードリヒ1世は、メクレンブルク=シュヴェリーン大公国の一族であり、共にドイツ帝国加盟国である。

 

 何のことはない。イギリスのチャーチル元海相が「ホーエンツォレルン家の首飾り」と揶揄したように、帝国協定はドイツのドイツによるドイツのための軍事同盟でしかない。「フランス帝国によるライン同盟の焼き直し」と、ウィルソン前大統領が吐き捨てたのも頷ける。

 

 ライン同盟は、神聖ローマ帝国やプロイセンからフランス帝国を守るための衛星国家による軍事同盟であった。少なくともナポレオン1世とタレーランは、巧妙な外交的修辞を散りばめる事で、その露骨な思惑と意図を隠すように努めた。

 

 それに引き換えドイツ帝国は、フォン・シュタイン陸軍大臣が「帝国協定加盟国に対する攻撃は、ドイツに対する攻撃と同じものであると判断する」と発言したように、自らの勢力圏を維持するための軍事同盟であることを隠そうともしない。あるいは、配慮する必要性を認めていない。集団安全保障体制と位置付けたのは、債権国であるアメリカに対するドイツ外務省、あるいは財務省のアリバイ工作に過ぎないのだろう。

 

 とはいえ国家の存亡をかけた総力戦体制による戦争で勝利したドイツ帝国参謀本部は、まったくの無能の集団ではない。彼らは少なくとも、自分達が東欧やフランドルにおいて解放者として歓迎されていると考えるほど楽観的ではなかった。それを裏付けるように、あくまで彼らなりの配慮というものは示していた。

 

 7年間の欧州大戦を共に戦い抜いた独墺同盟を継続することを明らかにしながら、ハプスブルクを帝国協定に勧誘しなかったのは、ドイツからすればハプスブルクのバルカン外交が、欧州大戦の原因であるという認識からだ(実際にその通りなのだが)。7月危機のような事態が再び発生した際に、機械的に巻き込まれることを嫌がったのだろう。

 

 バルカン半島のブルガリア王国、アルバニア王国、そして北欧のフィンランド王国は、何れもドイツ帝国諸侯が国王を務めており、協定加盟を希望したが、受け入れられなかった。特にブルガリアは中央同盟陣営としてバルカン戦線の勝利に貢献したにもかかわらず、ベルリンから参加を拒絶された。

 

 これはアルバニアはセルビアと、フィンランドはスウェーデン、ノルウェー、ロシア、バルト連合と、ブルガリアはバルカン半島のすべての国家と領土問題を抱えていることが理由だろう。ベルリンとウィーンで綱引きが続くポーランド王国やウクライナ王国も、加盟を認められなかった。

 

 客観的に判断すれば、帝国協定はドイツ帝国とその周辺だけを固めておこうという、きわめて防御的な性格の軍事同盟であると評価出来なくもない。徹頭徹尾、ドイツの国益を重視しているからこそ、小国の安全保障に振り回されるつもりはないという認識の現れだ。

 

 ところで「フランダースワロン連邦王国」であり「リトアニア王国」であり「ベラルーシ王国」なのに、何故「バルト連合公国」なのだろうか。ウクライナは言うまでもなく、国王すら決まっていないポーランドが「王国」なのに?

 

 低地諸国にルクセンブルク大公国という国が存在する。フランスと旧ベルギー、そしてドイツに国境を接し、かつてのドイツ連邦にも加盟していた小国は、先の開戦後にドイツの軍事占領下に組み込まれる。戦後はドイツ帝国加盟国となり、主権を「自主的」に放棄した。

 

 プロイセン王家は、かつての北方十字軍が開拓したドイツ騎士団国を、自らの起源としている。プロテスタントに改宗し、ロシア帝国の下でバルト・ドイツ人が過半数を割り込んだ今もなお、その意識は継続されていた。

 

 ……さすがにドイツ人も、バルド・ドイツ人とロシア亡命貴族の後押しだけで、バルト連合公国のドイツ帝国加盟を認めるほど、周囲の状況が見えていないわけではないようだ。フランダース=ワロンで彼らが主張した「民族自決」の建前が念頭にあったかどうかは疑わしいものだが。

 

「ドイツ人を大量に移住させて、人口構成を変えてしまえばいい」

 

 どうしてそうなるのだ。私は頭を抱えた。

 

 

 「鼻眼鏡」こと、カール・レンナー首相がオーストリア帝国首相に就任したのは、昨年5月のことである。社会民主労働党(SDAP)出身の初の帝国首相が誕生するまでには『4月危機』と呼ばれる政治危機に直面するなど、大変な紆余曲折があった。

 

 何を隠そう、私も調停の労を取った1人である。マルグッティ従武武官からの依頼により、共同閣僚評議会議長という立場から、社会主義者を警戒する保守派勢力との折衝と説得にあたった。

 

 そのレンナーが在任1年足らずで退任し、新設される国際労働機関(ILO) 初代事務局長に就任するという首相声明が発表されると、ウィーン政界に衝撃が走った。そして何も聞かされていなかった私は、椅子から転げ落ちた。

 

 帝国首相としてのレンナーは、期待されていた通りの指導力を発揮した。帝国軍の復員や配給制度の緩和、帝都再開発計画の策定など、戦時体制から平時への移行を滞りなく進め、保守勢力もレンナーに対する評価を改めつつあった。宮中はレンナーの突然の辞意に最後まで慰留を続け、当初は「社会主義者」であることを理由に反対していた軍部や与党キリスト教社会党(CS)ですら、「鼻眼鏡」の退任に反対した。

 

 それでもレンナーの意思は変えられなかった。彼は自らの後任についてCSの公共事業大臣イグナーツ・ザイペルで連立与党の意見を一致させると、宮中に上奏。反論を自分自身の行動により沈黙させた。

 

 マルグッティ侍従武官によれば、皇帝陛下はなおもレンナーを慰留しようとしていた。それに対してレンナーは陛下に対する深い謝意を表明した上で、「国際的な労働運動を反サンディカリストで団結させる」ことの重要性を説き、陛下の理解を得たそうだ。

 

 もっとも私は額面通りにレンナーの言い分を受け取ってはいない。

 

 ザイペル連立政権の合意事項には、学制改革と帝都再開発計画が含まれている。レンナーの引いた路線から外れることは難しい。反対論の根強い学制改革を、カトリックの司祭でもあるザイペルに行わせることで、SDAPに対する反発も軽減されると計算をしていてもおかしくはない。

 

 レンナーはILO事務局長就任後も、SDAPの領袖として党運営に関わることを明言している。そしてウィーンから離れたジュネーブであれば、予定されているアウグスライヒに関する政局と距離を置くことが可能だ。国際的な人脈形成を行いながら、ウィーン政局に対する影響力を確保する。

 

 まったくもって喰えない御仁である。

 

 そしてレンナー以上に煮ても焼いても食えぬブタペストの古狐。ハンガリー元首相のティサ・イシュトヴァーン伯爵は、この状況を見計らったかのように、新たなカードをウィーンに突き付けてきた。

 

 二重帝国軍参謀総長を除けば、皇帝陛下に忠誠を誓うオーストリアとハンガリー、そして「クロアチア」各国の大臣の中で、共通して閣議に出席出来るのは、共同外務大臣である私と、共同財務大臣の2人だけである。

 

「パンと自由と平和とは、実に的確なスローガンですな」

 

 就任もそこそこに、新たな共同財務大臣に就任したヨーゼフ・アロイス・シュンペーターは、眼をぎょろりと剥きながら、自身の見解を述べた。何も虚勢を張っているわけではなく、自然体がこれだというのだから……変わり者だとは噂には聞いていたが、実態はそれ以上である。

 

「パンもなければ自由もないパリに対して、パンはあっても自由はないベルリン。そして何より、強制された平和に対する痛烈な皮肉になっているのが素晴らしい」

 

 話を続けるシュンペーターの顔の造作は、そのまま解剖学の挿絵に使えそうなほどハッキリとしている。39歳という年齢とは関係なくすっかりと後退した頭部は、フィラメント電球のように眩しい。経済学者は森羅万象を数式で表現し、夥しい数式の中から特定の法則を導き出す人種である。顔の彫の深さの中にも、何事もはっきりさせなければ気が済まない気質が滲み出ていた。

 

 変わり者なのは事実だが、単なる変わり者ではない。シュンペーターはドイツ人貴族だが、チェコ人が多数派のボヘミア出身。二重帝国の政財界に幅広い人脈と学閥を有するオーストリア学派の正統な系譜を引き継いでいるため、彼自身もチェコ民族主義者を含めて幅広い関係を有している。

 

 アメリカの新聞各紙は、コロンビア大学の名誉博士の肩書を持つ新進気鋭の経済学者の登場を「古い帝国に現われた新風」「帝国改革の旗手」と、筆を揃えたように絶賛した。まるでシュンペーターさえいれば、すべての懸案が解決されるといわんばかりの書き方だ。

 

 自ずと国内においても一挙手一投足に注目が集まるが、本人がそれを気にした様子はない。しかしそれは間違いなく、財務大臣としての彼の政治的な武器になることだろう。

 

 このような人事カードを意図的に切ってくるあたり、ティサ老人はただのマジャール人保守派(二重帝国の現体制維持派)ではない。レンナーの手による連立政権の政治合意は、予算の裏付けがなければ意味をなさない。自ずとウィーンは、ブタペストの意向を伺うことになる。ハンガリー王国解体を意味する民族自決運動にも、慎重にならざるをえない。

 

 まったくもって忌々しいまでの政治手腕であるが、そんな人物の相手を自分に押し付けたレンナーにも、私としては思うところがないわけではない。

 

 ……ここまで考えて、ふと我に返る。

 

 どうして外務大臣である私が、ここまで国内問題に振り回されなければならないのか。本来であれば内務大臣か、帝国首相と王国首相が協議する案件ではないのか。同じ共同大臣である財務大臣は、こうも自由に振舞っているというのに……

 

 内心愚痴をこぼしながら、私はシュンペーター新大臣の金融政策と財政政策に関する所信に耳を傾けていた。専門家でもない自分が全てを理解出来るとはおもわないが、最低限理解しようとする姿勢を見せ続けることは大切なことだ。

 

「経済的合理性を軽視、あるいは無視した政策が成功した試しはありません」

 

 目と口を頻りに動かしながらシュンペーターは自説を滔滔と述べる。人の思考は目に出やすいというが、彼の場合は思考が眼球運動と直結しているかのようだ。

 

「同様に技術革新なき市場に、経済成長はあり得ません。そして政府は技術革新の当事者たる起業者、経済人にはなれない……政府の最も重要な役割は、起業家が自由に働ける環境を整備することであります。そして通貨の信認を確保することは、政府にしか出来ない役割です。民間金融機関にも不可能ではありませんが、おのずと限界があります」

「何故かね」

「債務不履行の度に、傭兵を雇うわけにもいかないでしょう。国内ならそれでもいいとして、国外で同じことをやれば国際問題です」

「たしかに、それでは国の面目が立たないな」

 

 ハイエク青年とは異なり、シュンペーターは、こちらの理解に合わせた説明を心がけているようだった。説明責任を果たさなければならない政治家や行政官としての義務感というよりも、自分自身の考えが他人に理解されないのを許容出来ない気質なのかもしれない。そのどちらだとしても、自分の意見を一方的に押し付けるだけではない配慮があるのは確かだ。それが出来るからこそ、ティサ老人に目をつけられたのだろう。

 

「市場に対する過度の干渉は望ましくないというのが、私の基本的な立場です」

「とにかく私としても、一刻も早く戦時経済から脱却し、市場の安定と均衡を取り戻すことは必要であると……」

「均衡とはとんでもない!」

 

 ……今の会話の一体どこに、これほどまでの反応を引き起こすトリガーがあったというのか。いきなり大声を上げた青年は、顔を両手で埋め、両肩を震わせる。そしてすぐさま顔を上げると、おぞましい悪魔の誘惑を聴いたとでも言わんばかりに、残り少ない頭髪が乱れるのも気にせず、顔を左右に振った。

 

「議長閣下。均衡、そう均衡という無責任なほど、穏健かつ中道的な印象を周辺に与えながら、その本質が正反対の言葉もありません」

「そうかね」

「均衡とは経済にとっての停滞であり、国家にとっての衰退なのです。均衡ある発展、すなわち価格か需給量、あるいはその双方に問題があることを一般均衡と呼ぶのです……伯爵閣下!閣下はハプスブルクが、帝室が永遠ではないとお考えなのですか!?」

「……いや、そうではないが」

「その通り!国家は永遠でなければならないのです!!」

 

 口から泡を飛ばしながら断言するシュンペーター。その様は、子供の悪戯によりスイッチを激しく連打されたことで点滅を繰り返す電灯を思わせた。

 

「成長が止まった若者が必ず死を迎えるように、経済成長が停滞した国家は必ずや死を迎えます。それが遅いか早いかは問題ではありません。閣下!経済成長に必要なのは均衡ではなく、撹乱なのです!!」

「……攪乱か。それは穏やかではないな」

 

 表面上の泰然自若とした態度を取り繕うことに精一杯だった私に対して、シュンペーターは眼球が飛び出さんばかりに目を剝くと、声をさらに張り上げた。

 

「閣下、経済には成長か衰退か、そのどちらかしかありません。信用創造の根幹となるのが技術革新であり、技術革新による既存の市場秩序の破壊……すなわち創造的破壊こそが、経済成長の本質なのです!破壊なくして成長なく、成長なくして国家なし!!」

 

 私は自らのプロイセン軍人やマジャール人貴族を含めたカテゴリーに、新たに経済学者という人種を書き加えた。

 

 

 

「……君はこういう場面では、席を外していることが多い気がするのだが」

「偶々です」

 

 「フィラメント電球」が退出した直後に戻ってきた道化師は、悪びれた様子もなくしれっと応じる。私の疑惑混じりの視線に堪えた様子もなく、駐ドイツ大使からの報告書を恭しく差し出した。私は書類にサインする手を止め、不承不承ながらそれを受け取った。

 

 駐在ドイツ大使のゴットフリート・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト卿は、バイエルン王国領であるフランケン地方出身の名門貴族出身である。報告書のゴットフリート卿の筆跡は、まるで教本のように美しく文法に沿ったものであり、一点の非の打ち所もない。同時にその文体や行間からは隠しようもない、隠す気すら感じられない冷ややかな視線が、6歳年長の私に対して向けられている。

 

 現在でこそ陪臣に甘んじているが、神聖ローマ帝国諸侯(シュタンデスヘル)のホーエンローエの家系図は、目も眩まんばかりの華麗なものだ。ゴットフリート卿の父はオーストリア宮内長官、兄はオーストリア帝国首相、父方の叔父がバイエルン首相兼任ドイツ帝国宰相……閨閥関係だけで、ドイツ史の説明が出来る。祖父の代にオーストリアに移住してきた新興のメンスドルフとは、比べものにならない人脈をハプスブルクに張り巡らせている。

 

 そして実際にゴットフリート卿は、私の前任であるシュテファン・ブリアン伯爵の共通閣僚評議会議長(共同外務大臣)の有力な後継候補であった。

 

 ゴットフリート卿の岳父は、ハプスブルク家の保守派の領袖であるテッシェン大公フリードリヒ(陸軍最高司令官)。ゴットフリート卿自身、1913年からドイツ大使として両国のパイプ役を担ってきた。大戦中の独墺外交は、彼なくしては成立しなかった。

 

 メンスドルフがイギリス王室の縁戚関係があるからといって、今更それが何になる?少なくとも和平工作に失敗した元の駐英大使よりも、戦勝国であるハプスブルク外交を主導する人材として、これほど望ましい人物もいなかっただろう。

 

 イタリア内戦さえ発生しなければ。

 

 ブリアン伯爵は内戦への対応に失敗したことで更迭され、カトリック人脈を有する私にお鉢が回ってきた。それでも保守派はゴットフリート卿を共同外務大臣にすることを諦めていない。彼らにとって私やリベラル派のトスカーナ大公が主導するイタリア政策やバルカン外交は、許容出来るものではないからだ。

 

 まもなく就任から3年を迎えるが、批判と気苦労ばかりが多く、報われることは少ない。誰もかれも好き勝手なことを並べ立てて、こちらの事情を斟酌する気もない。そんなに欲しければ、何時でもくれてやると言ってやりたいところなのだが……

 

「閣下?」

「いや、何でもない」

 

 「道化師」が私の側近であるということは、もはや帝国政界の常識である。独立した人格である以上、役者であれ裏方であれ、舞台に上がる、あるいは関与すると決断した以上、それに伴う責任は決断した人物が背負わねばならない。

 

 それでも私が、この一見すると不愛想だが、情の深い理想家肌のイタリア人を、魑魅魍魎渦巻く政局の中心に巻き込んだのだ。

 

 仮に今、私が現在の地位から失脚、あるいは政界を引退すればどうなるか?

 

 おそらく後任には、ゴットフリート卿でなくとも保守派の外務大臣(二重帝国維持)が誕生する可能性は高い。デ=ガスペリとトレンティーノ人民党、帝国内部のイタリア人は、苦しい立場に追い込まれることは想像に難くない。

 

 そして新政権が真っ先に着手するのは、領邦における民族自決を宣言した「バーデン勅令」の修正になるだろう。

 

 一度布告された勅令の修正、あるいは撤回は、帝室の権威に取り返しのつかない傷を与える可能性がある。穏健な政治思想の持ち主で、政治的知見もあったルイ16世は、自身の政治的立場が左右したと判断されたがために、すべての政治勢力に見放され、断頭台に消える結果となった。「ハプスブルクは諸民族の守護者ではなく、諸民族の牢獄である」とする組合至上主義者や革命派の批判が大きくなれば、国体の存続に関わる。

 

 保守派を君側の奸と詰ることは容易いが、それでは何も解決しない。東洋では「君命も受けざる所あり」という諺があると聞く。ドナウ連邦構想の推進こそ、ハプスブルクに取り返しのつかない結果を生じさせるという彼らの考え方が、完全に間違っているとは私には思えない。たとえそれが不合理なものであれ、一定の論理は存在しているのは認めなければならない。

 

 それでも、彼らに譲れないものがあるように、私にも譲れないものがある。

 

 進むも地獄、退くも地獄であれば、前に進むしかない。

 

「閣下?」

「……いや、すまない」

 

 再び首を傾げる「道化師」に軽く手を挙げて答えると、私はゴットフリート卿の『Grenzmark-西プロイセン再開発計画の中止について』と題された報告書に目を落とす。今回ばかりは表題だけで済ませるわけにはいかない。

 

 ゴットフリート卿は私にだけ冷淡なのではなく、今のドイツの現政権に対しても突き放したような評価を下している。意図的に粗野な軍人であるようにふるまうルーデンドルフを、生まれつきの貴族であるゴットフリート卿が快く思うはずがない。

 

 参考資料として付属されているドイツの経済紙には、帝国議会で答弁に立つヒンデンブルク宰相の写真が一面に掲載されている。写真の表情には熱がなく、おそらく原稿を棒読みしているだけなのだろう。

 

 戦争さえなければ、この老人は今も趣味に生きる隠居生活を謳歌していたはずだ。戦争が老人を戦場に呼び戻し、予期せぬ形で救国の英雄に押し上げられ、ついには帝国宰相に上り詰めた。今の立場に最も困惑しているのは、この老人自身ではなかろうか?

 

 私はそんなことを考えながら、ゴットフリート卿の筆跡を目で追う。

 

 西部戦線と並んで、先の欧州大戦における最大の激戦が繰り広げられたのが東部戦線-東プロイセンである。ドイツ帝国参謀本部の対仏・対露戦争計画である「シュリーフェンプラン」によれば、ドイツ軍は全力でフランス軍を撃破した後に、反転してロシア軍に対処するとしていた。

 

 数週間でフランスを降伏させるという計画が失敗した後、東部からベルリンを目指すロシア軍にたいして、戦力に乏しいドイツ軍は対処する術がなかった。第8軍司令官は事前の作戦計画に杓子定規に従うあまり、反撃の機会を失いつつあった。

 

 この国家的危機を救ったのが、新たに第8軍司令官に就任したヒンデンブルクであり、ベルギー戦線で多大な功績をあげたルーデンドルフ参謀長である。古いユンカーを体現したような口数少ない武人肌のヒンデンブルクと、口八丁手八丁のルーデンドルフは、ロシア軍の殲滅に成功。ドイツを亡国の危機から救った彼らは、プロイセンの英雄となった。

 

 戦争が続こうが終わろうが、日常は続く。彼らが英雄となった東部戦線は1918年まで4年近く続いたが、その間にエルベ川から東は完全に荒廃した。

 

 ジグザグに掘られた塹壕戦に、大量の不発弾。マスタードガスを始め、数々な理由から化学物質で汚染された土壌。あちらこちらに作られた軍事施設の残骸に、廃棄された車両。そして延々と広がる臨時の墓場……故郷を犠牲にしても勝利を優先したユンカーの敢闘精神と愛国心は称賛されるべきなのかもしれないが、その影響はあまりにも大きかった。

 

 プロイセン王国の保守的なユンカーを支持基盤とするヒンデンブルク政権にとって、この地域の戦後復興は最優先課題であった。しかし原状回復のためには莫大な時間と予算、そして労働力が必要になることが予想された一方、ユンカーには、その費用を捻出するだけの経済的余裕は失われていた。

 

 1919年に西部戦線が崩壊した後、ドイツ最高軍司令部(OHL)のルーデンドルフ参謀総長は、西プロイセン復興計画『Grenzmark(グランツマーク)』プランを発表する。

 

 なぜ東プロイセン復興計画なのに西プロイセン復興計画なのかといえば、OHLの国防経済局が立案した原案を見ればわかる。

 

 西プロイセン-ポーランド王国とドイツ帝国の国境、旧ベルギー領にも匹敵する2000万㎢から、250万の「ポーランド人」を、ポーランド王国内に移住させる。空白となった西プロイセンの土地には、東部プロイセンの困窮したユンカーに再分配する。移住させたポーランド人は、東プロイセンにおける労働許可書を与え、復興作作業に従事させる……

 

「あまりにも虫が良すぎるな」

 

 私の口から、大きな深い溜息が漏れた。

 

 ユンカーが軍人としても地主としても多大な犠牲を払い、軍隊と国家の勝利に貢献したことも、その結果として経済的な苦境にあるのも事実だ。だがそれを、ポーランド人の不動産を強制接収することで補填しようというのだ。独立させてやったから財産をよこせとは、あまりにも都合がよすぎる。

 

 計画によれば、西プロイセンを中心とした国境地帯は、新たに「Grenzmark」と呼ばれる予定であったという。シャルルマーニュ大帝時代の呼称に因んだということだが、これではブラックジョークにもならない。ルーデンドルフ参謀総長の思惑とは裏腹に、ユンカー出身の退役軍人は、名誉と栄光ではなく、貧困の象徴のような扱いを受けつつある。

 

 シュンペーターが「机上の空論、痴人の夢」と、手厳しく批判していたのも頷ける。

 

「旧ベルギーの解体と再編を成功と判断したのが、そもそもの過ちだったのでしょう」

 

 ベルギー解体の「成功例」を、何の工夫もなく東プロイセンに当てはめようとしているというデ=ガスペリの推察は、おそらく正しい。軍事占領においてワロン人に課した強制労働を、そのままポーランド人居住区域で適応しようとしている。

 

「ドイツ内務省や財務省、あるいは経済界における物の道理を弁えた人物が関与していたとすれば、ここまでのものにはならなかったので

「財界の人間が、必ずしも経済的な合理性を優先するとは限らない」

 

 私はデ=ガスペリの意見に否定的な意見を示した。

 

 旧ベルギー南部におけるワロン人の強制労働を推進したのは、ドイツ有数のコングロマリットAGEの経営者ヴァルター・ラーテナウである。リベラリストの彼は戦争に反対していたが、大戦中は愛国者として積極的に戦時動員に協力。ワロンの高等弁務官として、ドイツ国内で不足していた労働力を補うために強制徴用の指揮を執った。

 

「彼は模範的なドイツ国民としてのユダヤ人であることを、経済人としての性格や、自分自身のリベラルな政治思想よりも優先させた。今やルーデンドルフ体制の熱心な賛同者だ」

 

 私は再び報告書に視線を落とし「それに計画を中止した理由が理由だ」と続けた。

 

 ゴットフリート卿の報告によれば、ヒンデンブルク宰相は「犠牲に報いるのは国家の義務であり、金銭の問題ではない」として、このユンカー救済計画を優先させたかったようだ。

 

 それが中止になった理由は、当然ながら経済的な合理性を優先したわけでも、人道的な理由によるものでもない。

 

 追放されたポーランド人は、ポーランド王国が引き受けることを前提としていた。むろん250万の同胞を養う費用も住居を提供するのも、ポーランド政府の負担である。ワルシャワの摂政会議と議会は、計画に猛反発。ドイツ軍のヘルマン・フォン・フランソワ総督も「ポーランド国内の情勢不安につながる」として反対した。

 

 同じく懐疑的だったのはツィンメルマン外相である。帝国協定原加盟国としてポーランドを含めることを主張していたルーデンドルフ参謀総長に対して、「反ベルリンのポーランド国王が選出される可能性がある」として翻意を促した。

 

 その結果が、西プロイセン再開発計画の撤回と、ポーランドの帝国協定加盟の見送りである。

 

 ……他国のことながら、なんとも支離滅裂な上に後味が悪い。

 

 ポーランド人の一方的な犠牲の上に成り立つ政策の意思決定過程もそうだが、250万人もの人間-それもドイツ国籍を有するポーランド人を国外に追放して、問題がないと考えていたのだとすれば、その発想そのものに薄ら笑いものを感じる。あるいはそれすらも必要な犠牲であると、ドイツ的な合理主義で割り切っていたのだろうか。

 

 本来であれば、どれほど不愉快な政策であれ他国の内政問題だと割り切る必要があるのだろうが、自分たちもポーランド人問題を抱えているハプスブルクには、それが出来ない。

 

 西プロイセンからの強制追放が計画通りに行われていれば、ハプスブルク領邦内のポーランド人、特にガリツィアに集住しているポーランド人がどのような反応を示したか。民族主義の発露というものは、時に合理的な判断を上回る、強烈な原動力となりうる。それは我々が、イタリア内戦で嫌というほど思い知らされた事だ。

 

 イタリア内戦により自らの共同外相の地位を棒に振ったゴットフリート卿からすれば、ツィンメルマン外相への働きかけも熱の入り方が異なるというものだ。結果的にはそれが功を奏したわけなのだが、私としては喜んでいいものか、判断に困るところではある。

 

 ゴットフリート卿の個人的な熱意を別にすれば、ツィンメルマン外相-ルーデンドルフ参謀総長を説得出来た最大の理由は、ポーランド王国の現状維持を約束したからだろう。ウクライナのように、ポーランド国王をハプスブルクから擁立しようものなら、国境を越えた民族自決運動を刺激しかねない。それはドイツも同じことであり、西プロイセンのポーランド人がポーランド王国への編入を求めれば、第2のワルシャワ蜂起のような事態に波及しかねない。

 

 現状ではドイツ帝国と二重帝国も、そのカードを切るだけの力はない。ただし、将来的にも同じであるとは限らない。それは果たして、一体いつになるのか。5年先か、10年先か、それとも……

 

 私はそこまで考えて、自分の思考が随分と脱線していたことに気が付いた。「道化師」の視線に急かされる様に、報告書へと意識を集中させる。

 

 西プロイセンの強制移民を撤回しても、東プロイセンのユンカーの経済的困窮が改善されたわけではない。

 

 故に別の解決策が必要となる。

 

 ゴットフリート卿の報告書は、ドイツ帝国宰相府が東部救済(オストヒルフェ)に関する法案の策定に着手し、その責任者としてラーテナウが新しい経済相に就任するという一文で締めくくられていた。

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