南チロルの宮廷道化師   作:神山甚六

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「ゲールは700年待ったのだ!貴様らのような分別のない者共に、我々の独立を邪魔されてたまるか!」

(写真)

 銃撃され、病院に搬送されるマイケル・コリンズ(写真中央)。1922年8月22日。アイルランド南部コークでの国防軍軍事教練視察へと向かう途上の「ビック・フェロー」は、英愛条約反対派のテロリストに襲撃を受けた。コリンズは腹部に2発の銃弾を受ける重傷を負うも、自ら拳銃を手にして反撃。これを撃退した。

 アイルランド独立戦争(1919-21)を経て、イギリス政府とアイルランド暫定政府は、休戦条約(英愛条約)を締結。その内容が発表されると、暫定政府を主導していたシン・フェイン党内部では、その是非を巡って激しい政治論争が発生した。

 アイルランド共和国大統領(ドイル・エアラン議長)のエイモン・デ・ヴァレラが率いる旧アイルランド共和同盟の強硬派は「アイルランド自由国はイギリスのアイルランド支配の継続である」と批判。北アイルランドも含めた統一国家の樹立と、ロンドンから完全に独立した共和制国家の設立を求めて、英愛条約への調印に反対した。

 一方、独立戦争の主力となった共和国軍(IRA)の指導的地位にあったマイケル・コリンズ(暫定政府財務大臣)は、「アイルランド島からイギリス陸軍が撤退する政治的勝利を失ってはならない」として、条約の受諾を主張。デ・ヴァレラと激しく対立した。コリンズはアイルランド共和国大統領(ドイル・エアラン議長)選挙において、穏健派のアーサー・グリフィス(シン・フェイン党創設者)を擁立。デ・ヴァレラを大統領から追い落とすと、自ら首相に就任。暫定政府代表として、条約調印を強行した(1921年12月6日)。

 これに反発したデ・ヴァレラは、1922年6月にシン・フェイン党を離党。条約反対派の新党である共和党(フィアナ・フォイル)を結党した。議会においてドイツ軍情報部からの資金援助疑惑を追及されたコリンズ首相(ドイツ皇帝の6男であるヨアヒム王子を、アイルランド国王として擁立する密約があったとされる)は、後ろ盾だったグリフィス大統領が急死(8月12日)したこともあり、議会のみならず党内においても孤立しつつあった。

 内戦の危機すら囁かれる政治危機の最中、発生したのがコリンズ暗殺未遂事件である。この事件は、政治的な死人となりつつあった「ビック・フェロー」を蘇らせた。IRAの実戦部隊を中核として創設されたアイルランド国防軍は、襲撃事件に激怒。コリンズ支持で結束した。議会多数派もコリンズに対する支持を明らかにした。

 デ・ヴァレラは襲撃事件への自らの関与を否定したが、疑惑の払拭には至らなかった。国軍切り崩しに失敗したことで、共和党はボイコットを予定していた11月の自治領議会選挙への参加を余儀なくされた。

 コリンズは急進左派勢力が台頭するシン・フェイン党を離党。新たに中道右派勢力を結集させた統一アイルランド党(フィナ・ゲール)を結党する。議会選挙の結果、統一アイルランド党はフィアナ・フォイルやシン・フェイン党を押さえ、議会第1党を獲得。「ビック・フェロー」は、初代アイルランド自由国首相に就任した。

-『ゲール人の子孫達~アイルランド建国物語~』民明歴史街道(2010年)-


勝者と敗者(1922年11月 オーストリア帝国 首都ウィーン)

 我がメンスドルフ-プイリー伯爵家は、モラヴィアやボヘミアなどハプスブルク領内にいくつか有しているが、私が共通閣僚会議議長(共同外相)に就任してからは、もっぱらウィーン旧市街地のシュテファン大聖堂から程近い邸宅を、私的な住居として使用している。

 

 緊急事態に対処するためにシェーンブルン宮殿内の議長公邸に居住するべきではないかと忠告を受けたこともあるが、議長公邸は基本的には公的施設である。朝から晩まで来客が途絶えることがなく、公的空間と私的空間の境目というものがない。あったとしても極めて曖昧なものだ。肉体的にも精神的にも緊張を強いられる環境が続ければ、人間は必ず疲弊する。そうなれば公務にも支障を来しかねない。

 

 その点、私邸であれば何かと理由をつけて断ることが可能である。周囲は同じような貴族邸宅や富裕層を中心とした高級住宅街であるため治安が良く、一日を通して静かな環境が保たれている。不審者が入り込みにくく、何よりウィーン駐在の大使達の私邸が周辺に多いというのも、水面下での折衝や交渉が多い私にとってはありがたかった。

 

 11月19日。日曜礼拝から戻った私は、自宅のプライベートダイニングルームで遅めの朝食に臨んでいた。20人近い人間が一堂に会食可能な長机の上には、コーヒーとトースト、萎れた葉物のサラダ。そして日付も言語もばらばらの新聞が積まれている。

 

 私は冷めたコーヒーでトーストを胃袋に流し込みながら、記事に目を通し始めた。

 

- 国際オリンピック委員会の緊急理事会が開会。会長代理にマクシミリアン・フォン・バーデン公子を選出へ -

 

 昨日付けのスイスの経済紙。大きな見出しと共に、バーデン辺境伯マクシミリアン公子の肖像写真と、公子の略歴が掲載されている。

 

 マクシミリアン公子は、1867年生まれの55歳。ドイツ南部バーデン大公国のフリードリヒ2世大公殿下とは従兄弟の関係であり、王位継承者と目されている。ルーテル派のプロテスタントであり、バーデン大公家の歴代当主と同じく自由主義者として有名だ。

 

 先の大戦中は、バーデン軍が所属する第14軍の参謀長であったが、すぐに退役。大公国の赤十字の名誉職を歴任し、ドイツ帝国内外のドイツ人捕虜の待遇改善や捕虜交換事業に尽力された。1919年からは、ドイツ帝国オリンピック委員会委員長兼国際オリンピック委員会の副会長の要職にある。

 

 新聞や世間一般による「マックス公子」が自由主義者であるという評価は、偽りや修辞によるものではない。旧ベルギー国民の強制労働問題に始まり、抵抗運動の精神的支柱であるメルシエ枢機卿の逮捕拘禁、ザクセン=コーブルク=ゴータ(ベルギー王家)の追放、ベルギー王国の解体と連邦王国への再編、無制限潜水艦作戦の実施、1918年9月暴動への戒厳令布告、授権法と帝国参議院の停止、西プロイセンからのポーランド人追放と、公子はことごとくドイツ帝国最高軍司令部(OHL)の決定に異議を唱えた。

 

 特に旧ベルギー人労働者問題では、旧知のヴァルター・ラーテナウ(現経済相)と壮絶な論争を繰り広げており、今も訴訟合戦の最中である。ちょうど社会面には裁判に関する記事が掲載されている。OHLからすれば、体に刺さった棘のような存在であろう。

 

 そのマックス公子をドイツ帝国オリンピック委員会委員長に推薦したのは、ルーデンドルフ参謀総長の周辺だという。バルカン鉄道兼ドイツ帝国鉄道設立委員会の委員長に就任したグレーナー前参謀次長といい、OHL中枢の意思決定からは外しながら、名誉職をあてがうというのがルーデンドルフ人事の特徴であるようだ。ルーデンドルフ参謀総長と距離を置く、あるいは関係が乏しいマッケンゼン元帥やザンデルス元帥、ホルベック陸軍大将の3将軍も、肩書の壮麗さとは対照的に中央から遠ざけられている。

 

 ではルーデンドルフ参謀総長は、マックス公子に何をさせたいのか?

 

 それは1924年の夏季オリンピックをベルリンに招致することだろう。

 

 スウェーデン王国で開催されたストックホルム大会(1912年)を最後に、オリンピック大会は開かれていない。1916年に予定されていたベルリン大会は、欧州大戦により中止された。その4年後の1920年は、協商陣営も中央同盟もオリンピックどころではなかった。そのため「本命」は1924年であるというのが、関係者の一致する見解である。

 

 初の自国開催を中止に追い込まれ、大いに自尊心を傷つけられたドイツは、1916年に中止されたベルリン大会の開催権を主張して招致活動を続けている。そのためには自由主義者として名高いマクシミリアン公子であれば、アメリカやイギリスに対するロビー活動も有利に働くという計算があるのだろう。ドイツ帝国と軍の名誉と意地にかけてでも、1924年ベルリン大会を誘致するという意気込みの表れともいえる。

 

 とは言え、招致実現までにはいくつもの障害が存在している。その多くはドイツに原因があるのだが、複数の要因が複雑に絡み合っているため、解決は容易ではない。

 

 現在の国際オリンピック委員会(IOC)会長は、フランス出身のピエール・ド・クーベルタン男爵。1896年から在職を続けている、このフランス人こそが、近代オリンピックの創設者といっても過言ではない。資金調達能力やプロモーターとしての感覚には目を見張るものがあり、1919年のコミューン革命で祖国が崩壊した今も、各国のスポーツ団体に影響力を維持している

 

 連盟本部のあるスイスに逃れた59歳のフランス人は、ドイツからの度重なる辞任圧力を撥ね付け、アルジェの「第4共和制」こそが正統なフランス政府であると主張している。旧イタリア王国に関しても同様だ。またフランダース=ワロンの加盟申請をはね続けているのは、IOC事務局で大きな発言力を持つベルギー人貴族のラトゥール伯爵だというのは、公然の事実だ。

 

 ドイツは資金援助を引き換えに、フランダース=ワロンをはじめとした新たな加盟国の加盟を理事会で働きかけているものの、抵抗により進んでいない。今回、アメリカを引き込むことで会長代理にマクシミリアン公子を押し込むことに成功したようだが、依然としてクーベルタン体制は続くようだ。

 

 国際協調やスポーツを通じた善隣友好を掲げながら、国益をむき出しにした主導権争いが続くIOCの現状を、パリとトリノの社会主義者は嘲笑している。「ブルジョアジーによる退廃文化」とオリンピックを否定する彼らは、社会主義者による兵士と労働者のための国際スポーツ大会を計画しているそうだ。確か名前は……スパルタキア……いや、スパルタクスだったか?確かそのような名前だったか。

 

 私は新聞の束をかき分けると、直前まで読んでいたギリシャの日刊紙を取り出した。今年に入って6度目となる共和制政府の内閣交代を伝える記事の下に、その名前が記されていた。

 

spartakiada(スパルタキアード)……」

 

 古代ローマの奴隷反乱指導者であるスパルタクスから名前をとったのだろう。いかにも革命派の発想らしい。

 

 ロシア語なのは、大会開催を提言したのが、亡命ポルシェヴィキの大物レフ・トロツキーだからとされる。彼はCGT政権のジャコバン派の政治顧問として、フランス陸軍や警察からのブルジョアジー勢力の排除に関するアドバイザーを務めていると聞く。

 

 共同外務省やロートシルト家、ドイツ国家銀行のシャハト頭取、あるいはアメリカ大使館など様々な勢力が調査したフランス国内の情勢報告によれば、パリの政府は崩壊寸前だと伝えている。経済は崩壊し、企業や工場は操業を停止。官僚と軍隊は粛清の最中にある。市民は自分たちが裏切者として疑われることを恐れ、疑心暗鬼で口を閉ざしている。確かに悲壮かつ悲惨な経済指標の数々は、それが事実であることを裏付けている。

 

 ところがパリの社会主義者政権は、一向に崩壊する気配がない。

 

『細胞組織という手法をお聞きになったことは?』

 

 1年前のコペンハーゲン。会議と会議の間のわずかな時間に『マトリョーシカ』と交わした会話の内容が、私の記憶の底から急激に浮上した。

 

 ロシア共和国大統領のケレンスキーは、現役の社会主義政党の領袖である。社会革命党の党旗は赤旗……つまりポルシェヴィキと同類だ。革命家の手法や手練手管を知り尽くしているケレンスキーの説明は、貴族である私にとっては、まるで未知の言語のように聞こえたものだ。手持ちのグルジアワインと引き換えに、彼からレクチャーを受けたものの、必ずしも理解出来たとは言えない。

 

 ケレンスキーが語ったところによれば、最終目的-革命政党による指導を仰ぐ国家を樹立するためには、政党の工作員をあらゆる組織にくまなく浸透させる必要があるという。都市と農村の区別なく、各省庁、軍、警察、企業、工場、学校、教会、家庭……あらゆる場所に党の細胞(秘密党員)を培養し、監視と指導、世論工作を行わせる。

 

 そして党は各細胞を通じて実態を把握。新たな命令を下す。国家や社会を党が主導する体制を作り上げ、党をすべてに優先させる……

 

 続けてケレンスキーは、ボルシェヴィキの党細胞に仕掛けた離間工作を得意げに語っていたが、突如として肩を震わせた。慇懃な態度のまま、こみ上げる笑いを堪えるという奇妙な振舞いの真意を訝しんだ私が尋ねると、「マトリョーシカ」はその理由を説明したものだ。

 

『国家よりも特定の党派に対する忠誠を求める。これはつまり、カトリック教会の手法と同じですな。信仰の対象が神であり、仕えるべき主がローマ教皇であればカトリック。信仰の対象がマルクスであり、忠誠の対象が党中央であればボルシェヴィキ、あるいはサンディカリストとなるのでしょう』

 

 「道化師」がその場に居合わせなかったことは、神の御加護だろうか。酔いが一気に醒めたことだけは明確に印象に残っているが、それ以外のことは記憶にない。思い出したくもないというのが正確かもしれないが……

 

 さて、私は「マトリョーシカ」に対して何と答えたのだったか。

 

 スパルタキアードとベルリン・オリンピック。どちらが先に実現するのか。そもそもパリの政権が崩壊間近という分析は正しいのか……私は思考を切り替えるように新聞を折り曲げて、机の右脇によける。そして新しく麻紐で縛られた英字新聞の束を取り出した。

 

 イギリス人というものは、人の噂話と新聞が大好きな人種である。そのため他国のそれに比べて取り扱う内容も読者や購買層に合わせて多種多様だ。それでも選挙直後とあれば、1面で扱うのがクリケットの試合結果ということはさすがにない。

 

 各選挙区の開票結果が記載されているため、普段以上に分厚い新聞を、私は順繰りに捲っていく。

 

- イギリス庶民院総選挙で保守党が過半数を回復 -

 

 コペンハーゲンでの「名誉ある平和」の締結から1年を迎えるよりも前に、自由党のロイド・ジョージ首相は政権を追われた。すでに満身創痍だった連立内閣を1年近くも継続させた政治手腕や、アイルランドとの和平協定を評価されることもなく、ウェールズ人の闘士はダウニング街10を後にした。

 

 後継内閣を組閣した保守党のアンドルー・ボナー・ロー首相は、「この内閣は選挙管理内閣である」として、即座に庶民院の解散を宣言した。

 

 11月15日に行われた総選挙の結果、新首相率いる保守党は、1900年の総選挙以来、22年ぶりに単独過半数を回復した。ただこの選挙結果をどのように評価するかに関しては、各紙の論説は割れている。

 

 「22年ぶりに保守党が単独過半数回復」を見出しにする新聞は保守党寄り、「労働党が野党第1党に躍進」を強調しているのは労働党や自由党寄り……というよりも、反保守党と呼んだほうが正確か。私は順番に目を通していく。

 

 中道右派の名門日刊紙『The Times』は、保守党勝利の要因を「22年に及んだ自由党政権への飽きと改革疲れ」であると解説している。記事の中では初代オーフォード伯爵以来、歴代政権の在任期間と党派を細かく分析した上で、単独の党派で政権を維持するのは20年から25年が限界であると結論付けた。

 

 なにやらシュンペーター共同財務大臣が以前説明してくれた、一定の周期で好況と不況を繰り返すという景気循環説(彼はこれに否定的だったが)を聞いているかのような話だ。理由はともかく、後半の分析はこじつけのように思える。

 

 伝統的に自由党を支持してきた『The Guardian』は「1本の骨を2匹の犬が争っていたら、3匹目の犬に取られた」という有名な諺を見出しに掲げた。つまり自由党がアスキス元首相派とロイド・ジョージ率いる国民自由党に分裂したことが、保守党の勝因であり、自由党が結束して選挙戦に望んでいれば、勝利していたのは自由党であるという説明だ。

 

 「親切で殺す」という英語の諺があるが、ここまで来るとただの負け惜しみだろう。記事の中では労働党が野党第1党に躍進したことを賞賛しているが、保守党でなければ何でもよいのだろうか。

 

 経済紙『Financial Times』は、野党の選挙戦術が稚拙であった点を指摘した。今回の選挙には保守党と自由党以外にも、労働党、独立労働党、イギリス共産党と、多数の政党と候補者が乱立した。候補者の乱立は、小選挙区制度では組織力に勝る保守党に有利に働く。だから勝利したのは保守党だという分析だ。

 

 続いて選挙区毎の得票を党派で分類し「保守党が最も多くの有権者に選ばれたが、投票した有権者の過半数は別の党派に投票した」と記事を締めくっている。経済紙らしく、どちらの党派にも肩入れしていない。問題があるとすれば、保守党に投票した有権者が多かった理由の説明になっていないという点だが。

 

 私が最も興味を惹かれた分析は、意外というと失礼かもしれないが、大衆紙の『Daily Mail』である。

 

 同紙はまず、イギリスの有権者心理を分析した。対話による国際紛争の解決と、国内改革を重視する自由党政権がもたらした敗戦に、有権者は失望していた。7年に及ぶ欧州大陸と中東での戦争により、イギリスは何百万人という犠牲を払ったにも関わらず、何も得ることはなかった。不況対策や治安問題、アイルランド問題など、内外の諸課題は山積。この状況を打開、あるいは解決出来る「強い指導者」を有権者は求めた……ここまでは、他紙にも見られる分析だ。

 

 では「ロイド・ジョージが選ばれず、保守党が選ばれた」理由はどこにあるのか。良くも悪くもワンマンで指導力があり、明確な改革ビジョンと実績のあるロイド・ジョージではなく、典型的な保守党の紳士であり調整家タイプの「頼りにならない」ボナー・ロー首相が選ばれたのは、一体何故なのか。

 

 『Daily Mail』は続ける。「有権者の間で、保守党に対する決定的な認識の変化が生じた」。

 

 かつて有権者の保守党に対する認識は「公的な場面から私的な場面に至るまで、古く黴臭い伝統に固執し続ける、強権的な権威主義者の集団」であった。手堅い政治手法なるものは「誰にでも予想出来る、誰にでも理解出来ることしかやらない」とも言い換えられる。党派色の薄い中間層が積極的な興味を持つわけがなく、有権者の多くは自由党の理想主義と明確な改革ビジョンを支持した。

 

 7年間の辛く厳しい得るものがなかった戦争は、理想主義に対する失望と共に、国民に日常への回帰を渇望させた。今日の食事にすら事欠く現状では、そのような心配をせずともよかった「つまらない灰色の日常」こそが得がたい日常であったのだと、有権者は気がついた。

 

 だからこそロイド・ジョージ流の指導力ではなく、「つまらない」保守党の政治手法を選んだ……

 

 私は『Daily Mail』を畳むと、コーヒーカップを口元に運んだ。健康に感謝するのは、病気に罹患した時だ。空気の大切さを知るのは、水中で溺れた時だ。それがつまらない日常だとするならば「諸民族の牢獄」と批判される帝室に、ハプスブルク臣民が感謝する時は……

 

 これ以上は止めておこう。思い浮かんだ考えをコーヒーの苦さで打ち消すと、次の新聞を広げた。

 

- マイケル・コリンズ新首相、「アイルランドの自治権拡大を目指す」 -

 

 アイルランドのカトリック系日刊紙の一面。アイルランド自由州首相に就任した「ビック・フェロー」ことマイケル・コリンズが、アメリカ製の車椅子に座ったまま記者会見に応じる写真が掲載されている。

 

 アメリカ合衆国は、車椅子の先進国だ。前世紀の南北戦争(1861-65)は、国内に大量の負傷兵と身体障碍者を生じさせ、それまでのオーダーメイドが主流だった車椅子の産業化を加速させた。今次大戦でもアメリカ産の車椅子は、欧州各国からの需要が引きも切らないという。写真の車椅子は、長身のコリンズに合わせた特注であり、ボストンのアイルランド系団体から送られたものだそうだ。

 

 『Irish press』の経営者は、共和党(フィアナ・フォイル)のデ・ヴァレラ(前暫定政府大統領)。保守派のカトリック教徒であり、対英強硬派の彼は、コリンズ首相の最大の政敵である。イギリスの総選挙でアイルランド強硬派の保守党が政権に返り咲いた以上、イギリスの最大の債権国であり貿易相手国であるアメリカ合衆国との関係を強調することで、ボナー・ロー政権を牽制したいのだろう。

 

 共通の敵を前に、国内で団結する。「政争は水際でとどめなければならない」というアメリカの諺を、アイルランドは体現している。

 

 サンディカリストという共通の敵がいるにもかかわらず、いつまでも団結出来ないアルジェの「第4共和制」を見ていれば、その難しさがわかろうというものだ。ハプスブルクも、その例外ではない。

 

 そしてハプスブルクと同じように「諸民族の牢獄」と批判されているのが、この国だ。

 

- メフメト・タラート・パシャ、ロシアに亡命 -

 

 昨日のウィーンの経済新聞。11月17日に辞任に追い込まれたオスマン帝国の前大宰相が、ロシアに亡命したことを知らせる記事と共に、ペトログラード通信社の配信した写真が掲載されている。

 

 スーツ姿の前大宰相は、憑き物が落ちたかのようにさっぱりとした表情をしている。止むことのない資金繰りの苦悩と政治闘争から解放されたためであろうか?とにかくこれで「統一と進歩委員会」のトロイカ体制の内、海軍大臣のアフメト・ジェマル・パシャをのぞく2人が、ロシアに亡命したことになる。そして最後の1人も時間の問題だろう。

 

 「瀕死の病人」と呼ばれ、巨額の対外債務と民族問題に直面したオスマン帝国の皇帝アブデュルハミト2世(在位1876-1909)は、ミドハト憲法を停止。強権政治により事態収拾と状況の打開を目指した。これに反発する勢力は、立憲体制の回復を目指して青年トルコ党と呼ばれる政治勢力を結成。オスマンの統一を掲げる彼らは「統一派」とよばれ、アブデュルハミト2世を退位に追い込んだ。

 

 現政権の与党である統一と進歩委員会は、その統一派の系譜に属している。

 

 統一と進歩委員会は、オスマン帝国各地の民族自決運動を名目に介入を続けるイギリス自由党と、南下を諦めないロシア帝国に反発。中央同盟陣営として、欧州大戦に参加した。

 

 バルカン半島、アナトリア半島、コーカサス、レバント、アラビア、北アフリカ……オスマン軍は「侵略者」を相手として勇敢に戦った。イギリスにもフランスにもロシアにも、あるいはアラブ民族主義のレジスタンスを相手として、ドイツ軍と共に戦い抜いた。

 

 その結果、戦勝国となったオスマン帝国は、巨額の対外債務を、天文学的なものまでに積み上げた。戦死者や遺族に対する保障、戦場となった国土の復興、活動を続けるハーシム家などの反オスマンのアラブ民族主義者、影響力を増大させたドイツ……帝国が抱える問題も、何一つとして改善されなかった。

 

 戦争に勝利したにもかかわらず、進歩と統一委員会は国内からの支持を失い、次の政権争いの暗闘が続いている。

 

 ドイツ帝国がオスマン皇帝に対する強い支持を鮮明にしているため、国体の動揺という最悪の事態は避けられている。むしろそれが心理的な重圧となったためか、アブデュルハミト2世の弟であったメフメト5世(在位1909-18)は、心労と過労により急死。さらにその下の弟君がメフメト6世陛下として即位されたが、肝心の政権がこれでは……ドイツも頭が痛いことだろう。

 

 我がハプスブルクは、ドイツほどオスマン帝国に経済的にも軍事的にも関与しているわけではない。それでもオスマン債務管理局が管理するハプスブルクの負債は……単純に計算すればハプスブルク帝国の十数年分の予算に匹敵、あるいはそれを上回るだけの額だ。

 

 個人や企業であれば、返済が滞れば差し押さえや資産売却に着手すればよいのだろう。だが国家が相手であれば、家賃を滞納した店子のように追い出すわけにもいかない。そしてオスマンの場合は、それを見越した上で開き直っている節すらある。

 

「戦場で命のやり取りをするよりも、よほど文明的だろう」

 

 オスマン帝国は16世紀と17世紀の2回、ここウィーンを包囲した。結局2度とも陥落させる事は出来なかったわけだが、それから僅か数世紀もしないうちに巨額の資金をを貸し借りする関係になったわけだ。

 

 往々にして金を借りた側よりも、貸した側のほうが記憶力が良いものである。そして友人間での借款は、関係を破綻させることが多いために禁句とされている。

 

 そして国家の間で、永遠の友人は存在しない。

 

「友人ではないからこそ、金を貸せるわけか」

 

 私は深いため息をついた。

 

 

 その日、私は補佐官としての日頃の労を労うために「道化師」を夕食に招いた。食後、私は彼と共に暖炉の上に設置したマイクロフォンから、ニュースが流れるのを待っていた。

 

……RADS、RADS、こちらは、Radiotelevisione Due Sicilie (両シチリア放送協会)です……この時間は、本日行われました両シチリ…王国議会選挙に関する出口調査の結果をお伝えいたします。

 

 それにしても家庭用の電信装置といい、ラジオ受信装置の小型化といい、大変な時代になったものである。なんでも数年内にはテレビジョンなる、映像と音声を同時に受信する装置が実用化されるそうだが、自分が20世紀という時代を生きていることを実感する。

 

 感傷に浸る私を尻目に、雑音にかき消されるのに抵抗するかのように、癖の強いシチリアなまりのイタリア語を話す男性アナウンサーが、ニュースを読み上げ始めた。

 

RADSはL'Osservatore Romano(オッセルヴァトーレ・ロマーノ)と共に、投票を済ませた有権者を対……調査を行いました。それによりますと、ルイージ・ストゥルツォ首相率いるキリスト教民主党が……

 

「勝ったか」

「当然でしょう」

 

 デ=ガスペリの声は弾んでいる。普段は感情というものを有しているのかどうか疑わしくないかめしい風貌には喜色すら浮かんでおり、頬が赤い。さながら口紅で色を差したクラウンだろうか。

 

 両シチリア王国は、1919年のイタリア内戦以来、ルイージ・ストゥルツォ率いる暫定政権が政府を主導してきた。国内情勢の安定化にともない、今回ようやく正式な議会選挙が行われた。そして事前に予想された通り、ストゥルツォ司祭率いる両シチリア・キリスト教民主党が第1党となった。

 

 ストゥルツォ司教は、デ=ガスペリの学生時代からのカトリック信仰と政治の両方の師である。キリスト教民主主義を提唱し、早くから教会と世俗国家の調和を主張してきた老人は、イタリア内戦において自らが理想を唱える空想家ではなく、政治家であることを証明した。

 

 北イタリアでの社会主義者の猛威と南進に対抗するべく、ストゥルツォ司教は旧イタリア王国の保守派や自由主義者による暫定政権をナポリに樹立。周辺自治体の協力を取り付けると、慎重意見を押し切り、発足したばかりのカトリック系民兵をローマ防衛に差し向けた。

 

 ブラッチャーノ湖の戦いにおける勝利は、南イタリアとローマを破滅と崩壊の危機から救うと同時に、ストゥルツォ司教の政治的基盤を固めた。平穏を取り戻した南イタリアには、北イタリアの内戦や弾圧から逃れる人々や資本が、続々と流れ込んでいるという。選挙戦の結果は、最初から明らかだったとする声も聞かれた。

 

 では、こちらの選挙結果は、どう評価すればよいのだろうか。

 

……各選挙区の詳しい当確が判明次第、随時お知ら…いたします。続きましてブルガリア王国で本日行われました議会選…の情勢調査です

 

 「狡猾なファーディー」が支配する、バルカン半島の覇者ブルガリア王国。オスマン帝国から独立した新興独立国の中では唯一、中央同盟として参戦。その結果、隣接するギリシャ、セルビア、ルーマニアのすべてから領土を割譲させ、第2次バルカン戦争における雪辱を晴らした。大ブルガリア主義を掲げる国王フェルデイナンド1世は「勝利の国王」として、その名声を大いに高めた。

 

 ところが「狡猾なファーディー」は、自ら実現させた大ブルガリアの現実に直面する。

 

 新たに編入されたドブルジャやマケドニアは、ソフィアの宗教的権威や政治的優勢を拒絶。ブルガリアへの統合を公然と拒否した。宗教的には同じ正教会系であったとしても、民族的にはルーマニア人とブルガリア人、ギリシャ人は、歴史的にも文化的にも、何より民族が異なる。マケドニア人の間からは、大ブルガリア主義への理解と共感が多少なりとも寄せられていたが、その全員が賛成していたわけではない。

 

 これに、少数民族の旧支配民族であるトルコ人やドイツ人、マジャール人に、ジプシーなどの移動民まで加わったのだから、大ブルガリアの統合は困難を極めた。新しくブルガリア人とされた国民は「俺達はブルガリア人ではない」と反発するし、旧来のブルガリア人は「奴らに税金を使う前に、俺たちに使え!」と統合政策を批判した。

 

 1913年から首相を務める自由主義者のヴァシル・ラドスラホフは、フェルディナンド1世とともに大戦の勝利に貢献した立役者である。政治的なバランス感覚を有するラドスラホフ首相は、国王が求めた急進的な統合案を撤回させると、双方に配慮した段階的な統合案を国会に提出した。

 

……ヴァシル・ラドスラホフ首相率いるブルガリア自由党は第1党を維持するものの、単独過半数を大きく割り込む見通しで……

 

 その結果がこれだ。自由党は第1党を維持したものの、双方からそっぽを向かれた。

 

 新たにブルガリア王国に編入された地域では、選挙区の区割りが出来なかったため、政党名を選択する比例代表制が採用された。その結果、自由党は選挙区では勝利したものの、比例区で惨敗。ブルガリア語での選挙活動は、むしろソフィアに対する反感をあおり、乱立した民族政党や地域政党の後塵を拝する結果となった。

 

「何事も勝てばいいというものではないな」

「選挙結果でしょうか?それとも戦争についてでしょうか」

「……その両方だな」

 

 私は腕組みをしながらデ=ガスペリの問いに答えた。

 

 現在、ブルガリア王国とハプスブルクとの2国間関係は冷え込んでいる。

 

 切っ掛けとなったのは1922年の5月、セルビア亡命政府のベオグラードへの帰還だ。

 

 オーストリア=ハンガリー二重帝国軍が、実効支配する旧セルビア王国領土を、セルビア亡命政府に引き渡したことは、ブルガリア政府に衝撃を与えた。直前まで知らされていなかったことに加えて、新領土の統合に四苦八苦するソフィアからすれば、新たな敵を抱え込むことを意味していたからだ

 

 大戦前から大ブルガリアを掲げていたフェルデイナンド1世からすれば、同じパン・スラブ主義に属しながら、大セルビア主義を掲げていたセルビア王国は、不愉快な存在であった。特にコソボ(現マケドニア王国領)の領有権を、公然と主張しているセルビア政府首相のニコラ・バシッチは、許し難い。バルカンの覇者は1人でなければならず、それは先の大戦でブルガリアが兵士の血で贖った上で勝ち取ったもの。それを愚弄するかのようなバシッチ老人の主張が、受け入れられずはずもない。

 

 同時に、セルビア亡命政府の帰還を認めたハプスブルクの決定は、ブルガリアのバルカン半島支配への重大な挑戦に他ならない。親ハプスブルクで知られるヴァシル・ラドスラホフ首相をふくめて、ブルガリア議会はウィーンの決定に反発。抗議決議を可決させると、ウィーンから大使を召還させた。ドイツのツィンメルマン外相の仲介にも、耳を貸す気配すらない。

 

 ブルガリアにブルガリアの言い分があるように、ハプスブルクとしても言い分はある。テッシェン大公家や軍部の保守派からの反発を抑えるためには可能な限り事実を伏せる必要があり、そのための交渉や根回しは水面下で行わなければならなかった。ベルリンに対しては仁義を切ったが、ソフィアにまでは手が回らなかった。

 

 ……正直なところ、ラドスラホフ首相であれば、そこまで強硬な反応を示すことはないだろうという考えが、私になかったわけではない。そして、そんな言い訳がブルガリアに通用するわけがなかった。

 

 自らのメンツを潰された「狡猾なファーディー」は怒髪冠を衝く勢いであり、周囲に当たり散らしているそうだ。

 

 それまで私の話に耳を傾けていた「道化師」は、そこで初めて疑念を差し挟んだ。

 

「……つまり国王と政府との間で、バルカン政策に関する認識に齟齬があるとお考えなのですか」

「ある」

 

 「むしろないほうが不自然だろう」と続けた私に、デ=ガスペリが我が意を得たりと頷く。

 

 ブルガリア国王フェルディナンド1世は、旧ベルギー王家と同じザクセン=コーブルク=ゴータ家出身で、ハンガリー貴族の流れをくむカトリック教徒。母はオルレアン家のフランス王の娘で、生まれはウィーンという、欧州の王侯貴族の複雑に入り組んだ閨閥関係を体現している。

 

 前のブルガリア大公が専制志向とロシアとの接近を強めたため、それに反発した親英派の文民政府のクーデターで追放された後釜として迎えられた(1887年)。

 

 そしてフェルディナンド1世は、「狡猾なファーディー」というあだ名にふさわしく、それまで隠し続けてきた専制君主としての側面を露にし始めた。

 

 親英派の首相失脚により、再びロシアに接近。王子をブルガリア正教ではなくロシア正教に改宗させたのも、その一環である。同じスラブ民族のセルビア王国の後見人として振る舞うロシア帝国をブルガリアに振り向かせるため、あるいは大ブルガリア主義を後押しさせるための方便だったのだろう。

 

 国王の独断専行は功を奏した。ロシアからの支持を取り付け、第1次バルカン戦争を経て、フェルディナンドは1908年に初代ブルガリア国王に就任。第2次バルカン戦争では苦杯を舐めたものの、先の大戦では中央同盟陣営での参戦を主張。ブルガリアはついにバルカン半島の覇者に上り詰めた。

 

 当然ながら立憲君主制を志向するリベラリストが主導権を握る議会勢力と、国王の間には、政治的な緊張関係が存在している。国民は国王を支持してはいるが、同時に議会では自由主義政党に投票してきたのだ。

 

「ラドスラホフ首相はナショナリストだが、リベラリストでもある。国王と必ずも意見が一致することばかりではないだろう」

「ブルガリア軍は、セルビア亡命政府の帰還を実力で阻止しませんでした」

「軍の統帥権を有するのは国王だ」

 

 私は意図的に素っ気なく答える。予算は国会の議決が必要であり、国王大権で押し切るにも限度がある。ブルガリア政府の大使召還の決定に「すわ第3次バルカン戦争の危機か」と周辺諸国は肝を冷やしたが、ブルガリアはそれ以上の対抗措置に出ず、セルビア亡命政府の帰還を物理的に阻止することもなかった。

 

「総選挙の敗北は、ラドスラホフ首相の指導力を弱体化させるのではありませんか」

 

 デ=ガスペリの問いに、私ではなくラジオが答えた。

 

……繰り返しお伝えいたします。自由党は第1党を維持するものの、単独過半数を大きく割り込むのは確実な情勢です。野党第1党のブルガリア農民同盟は、すでに自由党との連立を拒否する姿勢を宣言しているため、ラドスホフ首相は人民自由党や新自由党などとの連立政権樹立を目指すと……

 

 保守系の農民同盟だけでは、単独過半数には届かないだろう。勢力を伸ばした各民族政党としても、それは同じだ。結局は自由党が連立の中心になる。選挙に負けたにもかかわらず、政局の主導権を確保するとは、どういうことなのか。

 

「……私にはどうも理解出来ないのだが、政党政治家という連中は選挙における敗北ですら、自分達の目的達成のためのカードとすることがあるらしい」

「敗北という事実を受け入れることは、いかなる賢人であっても困難なことです」

 

 確かにその通りだ。イタリア王国はそれがために崩壊し、アルジェの「第4共和政」は本土を失ってもなお、敗北と現在の惨めな境遇から目をそらすために「背後からの一撃論」なる陰謀論を弄んでいる。

 

 祖国の崩壊という現実を受け入れた両シチリアは、力強く立ち上がりつつある。一方、勝利という現実を正面から受け止められないブルガリアは、混乱が続いている。

 

 イギリス、ロシア、セルビア……彼らが敗北を受け入れた時こそ、再び偉大なる国家として、ハプスブルクの前に立ちふさがるだろう。

 

……ラドスラホフ首相は宮中に参内した後、記者団との会見に応じるとして……

 

 とにかくこの選挙がラドスラホフ首相の復権と、両国関係改善の一因となればよいのだが。

 

 私は選挙速報を聞きながら、ハプスブルクが統治する領域の地図と民族分布を頭に思い浮かべる。

 

 クロアチア、チェコ、スロバキア、ポーランド、ウクライナ、ルーマニア、イタリア……そしてオーストリアとハンガリー。

 

 さて、一体どこから手を付けたらよいものか……

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