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大正11年(1922年)12月3日。衆院本会議場で演説する森恪(立憲政友会)。奥側の閣僚席、手前から腕組みをする加藤高明総理(憲政会総裁)。後藤新平副総理兼内相(腕を伸ばして叫んでいる)。森に対する懲罰動議の提出は、加藤内閣崩壊の原因となった。
・日本自由主義の黄金時代【加藤高明内閣】(在任:大正5年10月6日-大正11年12月15日)
第2次大隈重信内閣の後継総理を巡り、連立与党会派は元外相の加藤高明(立憲同志会総裁)を擁立することで一致した。これに対して大隈総理に批判的だった元老勢力は、朝鮮総督の寺内正毅を後継総理に奏請することで合意。反大隈の政友会(原敬)、国民党(犬養毅)からも支持を取り付けた。
先手を打ったのは、大隈重信総理である。大正5年(1916年)10月6日。大隈は加藤と共に参内。大正天皇に辞意を伝えると共に、後継総理に加藤を推奏した。大正天皇はその場で加藤に対して組閣を命じた。大正天皇の側近だった某宮中高官の証言によれば、その意図は「先の総選挙で、連立与党は国民の支持を得た」「連立与党が決定的に国民の信頼を失ったという政治状況ではない」「戦時中に、政権の枠組みが変わるのは望ましくない」という理由によるものだった。
大正天皇はリベラルな政治観の持主であり、イギリス流の「憲政の常道」を理想とする大隈(イギリス自由党のグラッドストンを理想としていた)とは、個人的にも親しい関係にあった。大隈重信は大正11年(1922)に死去するまで、加藤総理の後見人として政界で重きをなすことになる。一方、元老勢力は天皇が特定の政治党派に肩入れすることを「立憲君主制を危うくするもの」であると苦言を呈したが、高齢の彼らは政治的影響力を失いつつあった。
大正6年(1917)1月25日。加藤総理は衆議院を解散(第13回衆議院選挙)。憲政会(与党会派が合流)は、衆院で引き続き過半数を獲得する。一方、加藤総裁の官僚主義(加藤の側近の多くが官僚出身議員であった)は、党人派との関係悪化を招いた。また「後見人」である大熊前総理の気まぐれな言動も、加藤にとっては頭痛の種であった。反加藤派による党内政局の混乱は、政権運営にも影響を及ぼし、内閣はその度に動揺した。
第14回衆議院選挙(1920)において、憲政会は男子普通選挙法審議の混乱、米騒動に対する軍隊を投入しての弾圧、緊縮財政による景気低迷の「三大失政」を批判されながらも、対ドイツ強硬外交を掲げ、引き続き過半数を維持した。大正天皇=大隈重信ラインの支持に加え、有力な総理候補の寺内正毅(朝鮮総督)の急死、原敬の政友会総裁引退も、加藤には有利に働いた。新聞は加藤の政権運営を「(側溝に落ちそうで落ない)酔いどれ内閣」と綽名した。
この間、野党勢力の再編も進んだ。犬養毅(大隈系の党人ながら反加藤)率いる国民党は、原敬の仲介により、田健治郎(旧山県系官僚)率いる政友会に合流。加藤内閣の経済政策や外交政策を批判し、憲政会政権打倒の気勢を上げた。男子普通選挙法をめぐる政局の混乱は、自由主義者を落胆させ、社会主義者を勢いづかせた。長引く景気の低迷は、労働運動の過激化と組合至上主義者の勢力拡大に繋がった。
加藤高明の致命傷となったのは、得意分野を自任していた外交分野であった。
大正3年(1914年)。日本政府は日英同盟を理由に、第一次世界大戦に協商陣営として参戦したが、これは大隈内閣の加藤外相が主導したものであった。1918年に協商陣営の敗色が濃厚になると、加藤の判断に対する批判は強まった。
シベリア出兵による米騒動、支那国内の反日暴動による経済的損失に加え、ドイツとの「名誉ある平和」に調印したことは、国民から「公約違反」と批判された。ドイツの極東進出を警戒する軍部は、財政整理を優先する加藤内閣の軍事費削減への不満に加え、旧フランス領インドシナへのドイツ軍進駐や、山東半島や南洋諸島をドイツに返還した決定に猛反発。
大正11年(1922年)12月3日。加藤総理の所信表明演説をうけ、野党の立憲政友会を代表して、森格代議士が反論演説を行った。森は「東にケレンスキーあれば、西に加藤高明あり」と日露の指導者を比較し「在任期間の長さに関わらず、一向に成果が見られない点で共通している」として、加藤外交を痛烈に批判。その上で「同じ対ドイツ強硬外交を掲げたロイド・ジョージ総理は勇退したのに、貴方は何時まで政権の座に居座っているのか」と、加藤内閣の総辞職を求めた。
この演説に対する議場の反応は、与野党含めて強烈なものであり、野次と怒号で速記が不可能になるほどだった。そのため衆院事務局と新聞各紙の政治記者達は、議会終了後に森格事務所に出向き、演説内容を確認したという逸話が残されている。
憲政会幹部は、森の演説内容に激怒。「共和制の国家元首、それも社会主義者のケレンスキーと、立憲君主制の日本の総理を同列に並べるのは不見識極まりない」として、新人代議士に対するものとしては、異例の懲罰動議を提出した。しかし与党の反加藤派が「立憲主義を破壊する行為だ」として一斉に造反したことで、懲罰動議は否決された。
これを受けて、立憲政友会は衆議院に不信任案を提出。最後の頼みの綱だった宮中からの支持も、大正天皇の病状悪化に伴う皇太子殿下の摂政就任(1921年12月)、大隈重信の死去(1922年1月)により、既に失われていた。万策尽きた加藤内閣は、総辞職に追い込まれた。
ドイツの支那大陸への再進出が本格化することが予想される中、後継総理は田中義一(陸軍大臣)と加藤友三郎(海軍大臣)の両軍部大臣に絞られた。陸軍と海軍は、ドイツを仮想敵国とすることで一致していたが、シベリアや支那大陸の勢力圏や合法権益を重視するか、南方のシーレーン確保を重視するかで意見が異なっていた。これは昭和10年代の対外政策の主要な争点となった北進論と南進論の起源となった。
大正天皇が特定の党派に肩入れしたという批判に鑑み、摂政は慎重かつ公平に元老勢力や各政治勢力との折衝を続けた。その政治手法は、官僚主義と批判された加藤高明の手法と酷似していた。結果、後継総理には加藤友三郎海軍大臣が指名された。
加藤友三郎は、政友会を与党として組閣(加藤友三郎内閣)。政友会は山本権兵衛内閣以来の「苦節10年」の末に、政権復帰を果たすことになる。保守系紙『国民新聞』の名物記者だった馬場恒吾は、この間の政局を「加藤の後から加藤」と評した。
海軍大臣を兼任した加藤友三郎新総理は、施政方針演説で財政整理計画の撤回と、八八艦隊軍備計画を表明。陸軍も、上原勇作参謀総長が平時28個師団体制への拡張と、機械化部隊の創設を表明するなど、日本は「大正軍拡」と呼ばれる未曽有の軍備拡大時代に突入する。
- 『大正時代の日本政治』民明新書(1990年) -
ブルガリアクーデター(1923年1月 オーストリア帝国 首都ウィーン)
1922年11月のブルガリア王国総選挙は、国王フェルディナンド1世の掲げる大ブルガリアの実現に向けた具体的な方策、すなわち大戦で獲得した新領土の統合政策の是非が、最大の争点となった。
ヴァシル・ラドスラホフ首相率いる中道右派政党のブルガリア自由党は、新たにブルガリアに編入された少数派に配慮した、緩やかな統合政策を主張。これに対して保守派のブルガリア農民同盟は、急進的な統合による新領土のブルガリア化を訴えた。選挙カルテルを結んだブルガリア労働者社会民主党を中心とする社会主義勢力も、保守派と同じく急進的な統合政策を主張したが、ブルガリア正教会の影響力については否定した。新たにブルガリアに編入された新領土のセルビア人やルーマニア人、ギリシャ人、マケドニア人は個別の民族政党を結成(反統合派)し、自治権の確立を求めた。
選挙結果が明らかになると、関係者は一応に顔をしかめた。ブルガリア自由党は第1党を維持したものの、単独過半数を割り込んだ。一方、ブルガリア農民同盟は急進民族主義者の支持を集め、野党第1党に。都市部の労働者票を取り込んだ社会主義者は、議会第3勢力と躍進した。少数民族政党は、議会出席の前提となる国王への忠誠宣言を拒否。政府に対する統合政策の撤回を求めた。
緊張の度合いを強める政局に、ブルガリア自由党は、農民同盟に「挙国連立内閣」の樹立を求めたが拒絶された。しかし老練なラドスラホフ首相は、即座に人民自由党や青年自由党との交渉を開始。ブルガリア農民同盟を孤立化させることで、連立交渉の主導権を確保した。
同じ自由党の名前を冠する3政党は、1880年代まで同じ政党であった。分裂の経緯から互いに競合関係にあったが、今回の選挙戦を通じて明らかとなった民族主義政党や社会主義者の台頭は、再び自由主義者を接近させた。「新領土の政情不安に対処するためには、安定政権の樹立が必要である」という認識で一致した3党の連立交渉は、新党構想へと発展した。
12月1日。自由党3党と一部無所属議員により「自由民主党」が結党される。農民同盟を率いるアレクサンドル・スタンボリスキは「政権目当ての野合」と批判したが、新党は多数派を確保した。また自由民主党が「新政権は各民族政党の立場を尊重する」と約束したことで、一部の民族政党は議会に出席する意向を表明。ヴァシル・ラドスラホフの3期目は確実と思われた。
ところが第3次ラドスラホフ内閣は、予期せぬ形で阻止される。
12月10日の議会招集当日。ブルガリア軍参謀総長サヴァ・サヴォフは「祖国戦線」を名乗る同志と共に、首都近郊の駐留師団を動員してクーデターを決行。クーデター派の部隊は、首相官邸、中央省庁、治安機関、議会、各政党本部、新聞社などを占領。政府閣僚と、国会召集のために集まっていた議員を拘束した。
キモン・ゲオルギエフ中佐(祖国戦線報道官)は、ラジオ演説で「祖国の分断を解消し、国家統合を進めるため」のやむを得ない必要最小限の非常措置であるとして、戒厳令の布告を宣言。国民に対して、祖国戦線への支持とクーデターへの理解を求めた。
クーデター一報に、国王フェルディナンド1世はサヴォフ参謀議長に参内を命じた。恐惶して平身低頭の様で謝罪する参謀総長に対して、国王は一連の直接行動に対する不快感を伝えた上で「やむを得ない非常の措置」として、戒厳令布告を承認。サヴォフに組閣を命じた。
国王からクーデターへの支持を取り付けた「祖国戦線」は、憲法停止と議会解散を宣言。同日中に軍事政権を発足させると、国境周辺での「反政府クーデター」に対する対処を開始した。
「何が『やむを得ない非常の措置』だ、あの
当たり散らしたところで、この危機的状況が改善されるわけでも、事態が解決されるわけでもないい。それでも、デ=ガスペリから一報を聞かされた私は、憂さ晴らしのために自分の机を蹴り上げた。煮えたぎる自らの激情を必死に鎮めながら、クーデターに対する帝国の方針を策定するべく、外務省を中心に検討作業を開始した。
二重帝国軍の情報部や、大使館からの情報によれば、クーデターの首謀者であるサヴァ・サヴォフは、熱狂的な民族主義者でもなければ、プロイセン流の軍国主義者というわけでもない。飛びぬけて優秀な軍人というわけでもないし、特別な勝利を戦場において挙げたわけでもない。フェルディナンド1世の侍従武官の経験はあるが、熱心な王党派というわけでもない。どれほど調査してもきわめて標準的、かつ典型的なブルガリア軍人という以外のものは出てこない。
そして多くの標準的かつ典型的な軍人がそうであるように、ブルガリア軍人は、国王の意向を無視して行動するようなことはしない。まして国王がクーデターを承認する前から、
軍の多数派は祖国戦線の決起を支持していた。
これで国王の関与がなかったと信じるのは余程の楽天家か、ただの阿呆だ。あのブルガリア国王は、革命までの旧帝政ロシア政府の行動から、何一つとして学ばなかったと見える。あるいは学んだのだとしても、おおよそ見当違いの教訓を導き出したか。
現状、バルカン半島諸国で政情が安定しているのは、旧モンテネグロ王国(ハプスブルク帝冠領)、ドイツ軍が駐留を続けるアルバニア王国、そしてバシッチ首相のセルビア王国である。しかしそれは、バルカン半島全体では、面積で言えば5分の1にも満たない。ギリシャ共和国とルーマニア王国は政情不安、オスマン帝国も大宰相の後継争いが続いており、この他にもキプロス問題や、ギリシャ国内のトルコ系住民問題など課題は山積している。
ドイツ軍によるバルカン半島全域への再進駐すらささやかれている状況で、このような田舎芝居を認めるわけにはいかない。セルビア亡命政府の帰還がフェルディナンド1世とブルガリア軍を刺激したとしても、ハプスブルクがブルガリアのクーデターを支持する理由にはならない。
とはいえ介入を前提とした軍事圧力は、バルカン半島に更なる軍事的緊張を生じさせる恐れがある。ベルヒトルト伯爵の轍を踏むつもりはないし、第一、何のためにセルビアと妥協して駐留軍を撤兵させたのかという話だ。あくまで外交的手段による事態解決を目指さなければならない。
私と外務省はブルガリア政府に対して、憲法再開、議会の招集、11月の選挙結果の尊重の3点を求めるという基本方針を確認。この方針をオーストリア帝国政府、ハンガリー王国政府、「クロアチア王国政府」、二重帝国軍、そして宮中に説明し、了承を得た。
「クロアチア王国政府」なるものは実態を伴わないが、少なくともバルカン問題では顔を立てねばならない。しかし直接接触しては、彼らを「ハンガリー王国領内の自治政府」として扱うハンガリー政府を刺激する。私は補佐官のデ=ガスペリに、ザグレブ大司教のアントン・バウワーを通じて、「クロアチア王国」の政府関係者との交渉に当たらせた。クロアチアはカトリックが多数派であり、独立派にも親ハンガリー派にも隠然たる影響力を保持している。交渉は円滑に進んだ。
国内の各勢力からの支持を取り付けた私は、ドイツのツィンメルマン外相、ロシアのテレシチェンコ外相と電話会談を実施した。それぞれ東部政策、内戦から復興という重要課題を抱える両国は、協力を確約。3国が連携・結束して、すでにハプスブルクが発表した3条件を前提に、ブルガリア問題の外交的解決を目指す基本方針を確認した。
旧協商陣営のロシアは、伝統的にスラブ民族主義の盟主であり、またブルガリアとは東方正教会としての宗教的、あるいは文化的な繋がりが深い。ドイツは言うまでもなく欧州大陸の覇権国家であり、いざとなれば理非曲直を無視して実力行使を厭わないジョーカー。そして、地理的に即応可能な二重帝国軍。ブルガリアの軍事政権に外交的圧力をかける上で、これ以上の組み合わせはないだろう。いざと言う時のジョーカーの存在をちらつかせれば、軍事政権の背後にいる人物を交渉のテーブルにつかせる事も可能だろう。
私は旧協商陣営にも働きかけを依頼した。既にイギリスは、ブルガリアの軍事クーデターへの批判と不支持を表明していた。私は駐英大使時代の人脈を使い、ロンドンに対して、ギリシャやルーマニア、そしてセルビアなどのブルガリア周辺国が、自国民保護を名目とした「不用意な行動」に移らないように説得するよう依頼した。
これら旧協商国に対して、ドイツとオーストリア、ハンガリーの3カ国は、先の大戦の賠償金としてルーマニア北東部の油田地帯やギリシャ国内の港湾施設、両国の主要企業の株式などを確保している。直接圧力をかけることで、各国の民族主義者を無用に刺激する事は避けたかった。
私は各国との電話会談を重ねながら、1914年7月危機の際にも、同じようなホットラインがあればという思いに駆られていた。あの時はまだ電報や外交郵便が中心であり、相手からの回答を待つ間にも、刻々と状況が変化し続け、軍事的な圧力拡大が、外交的解決を妨げた。
12月25日。ブルガリアの軍事政権は「技術上の問題が生じた」として、新領土への部隊進駐(彼ら曰く、通常の配置転換と軍事演習)を停止させる。ロシア、ドイツ、そしてハプスブルクからの「説得」が功を奏した結果である。また同日までにルーマニア、ギリシャ、セルビアの3か国は、ブルガリア国内の「暴動」に対して「支持しない」あるいは「関与しない」という意向を明らかにした。イギリスとアメリカは「対話を通じた解決を支持する」と宣言した。
あの鉄血宰相ビスマルクですら成し遂げられなかった、バルカン政策をめぐるロシア、ドイツ、オーストリア=ハンガリー(当時)の協調外交。それをハプスブルクが主導する形で成果を上げた。これは1914年のロンドンで味わった屈辱的な経験以来、私の中で鬱屈を続けてきた外交官としての矜持と自尊心を大いに満足させた。旧協商国への働きかけを通じたイギリス政府との関係改善も、私個人としては喜ばしいものであった。
残念な点を指摘するとすれば、大晦日も外務省に缶詰だったため、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートに出席出来なかったことだろう。だがそれも、バルカン半島での平和の維持に比べれば、些細な問題だ。
年が明けた1923年の1月10日。雪が降りしきるウィーンのシェーンブルン宮殿に、ドイツ帝国のツィンメルマン外相とロシアのテレシェンコ外相、そしてオーストリア=ハンガリー=「クロアチア」の共同外務大臣である私が集まった。
3カ国の外務大臣は、数時間にも及んだ協議の末「クーデターを事後承認した以上、国政の混乱を収集する責任は国王にある」として、フェルディナンド1世に対して、憲法復活と11月選挙の尊重、議会の再招集を求める共同声明文を発表することで合意。共同会見は、翌11日午前9時とされた。
1月11日の午前6時。ハンス・フォン・ゼークト大将のドイツ帝国陸軍第5軍が、フランダース=ワロン連邦王国軍と共にフランス国境を突破。ダンケルク工業地帯を軍事占領下に置いた。
……
*
ダンケルク進駐の一報に、ウィーンは蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。ハプスブルクの心理的古傷である、フリードリッヒ大王のシュレジェン泥棒を彷彿とさせたのも、影響していたのだろう。ベルリンの真意をめぐり、各所で議論が巻き起こった
この軍事行動の目的は何か。シュレジェンの如く、ダンケルク領有を既成事実化するつもりなのか。そのために再び独仏戦争を始めるつもりはあるのか。その場合、社会主義政権の打倒による親ドイツ政権樹立が目的になるのか、あるいはフランス全土を軍事占領下に置くのか。そして、ハプスブルクは如何に行動するべきか。対応を早急に決定しなければならない状況下で、ブタペストに行幸中の皇帝陛下の御帰国を待つ時間的猶予はなかった。
共同会見を中止して臨んだ緊急の外相会談を終えた私は、ラクセンブルクのマクシミリアン大公殿下の邸宅において開催された、政府軍部の関係者による緊急会議に出席した。
軍人に戦時の帷幄上奏権があるように、外交官には平時の外交大権が存在する。そして、どれほど軍事的緊張が高まろうとも、実際に軍事作戦が開始されるまでは軍の発言権は限られている(だからこそ、ベトヒトルト外交が批判されるのだ)。ベルリンにおけるルーデンドルフの栄達を知る軍人の中には、現状を快く思っていないものも少なくない。
「ブルガリアとの信頼関係よりも、敵国のセルビアを選んだことが、そもそもおかしい」
「軍部の慎重意見を受け入れず、セルビア駐屯軍を撤退した結果、バルカン半島の軍事的均衡が崩れた」
「バルカンのみならず、欧州全体の軍事的均衡が崩壊した。それが、ドイツの軍事的冒険を後押ししたのではないか」
「皇帝陛下の威を借り、外交大権を悪戯に振りかざした挙句が、この不始末。外務省は一体どう責任を取るつもりか」
誰がなんと言おうとも、現段階の外交責任者は私である。軍人達の敵意に満ちた視線から部下を守る盾となるように、私は傲然と胸を張った。冒頭、マクシミリアン殿下より指名を受けた私は、椅子から立ち上がり、これまでの経緯を説明した。
「ドイツ帝国の旧ベルギー総督府の占領政策は、一言で言うなら分割統治であります」
被支配者の人種、言語、社会的階層、宗教的、地域間、都市と農村など、ありとあらゆる対立構造を意図的にあおり、支配者に対して団結させないようにするこのやり方は、イギリスのインド支配や旧ベルギーのコンゴ自由国が有名だ。その歴史は古く、ローマ帝国が植民政策に起源があるという。
ドイツはベルギーにおいて、北部の貧しいフラマン人プロテスタント(主にフラマン語を話すゲルマン民族)は、南部の裕福なワロン人カトリック(主にフランス語を話す)に、政治的に抑圧されていたというストーリーを作り上げた。
1830年にオランダから独立したという歴史的経緯、南部ワロンと北部フランダースの経済格差、宗教問題や言語政策をめぐる政治対立など、元となる事実は存在した。それが、ドイツが主張するほどの極端なものであったかどうかは、議論が分かれるだろう。だがドイツ人は、6年の占領において自分達の筋書きを、実際のものとした。
フラマン人の自治権はドイツ軍政下で拡大され、食糧配給や経済支援策で優遇される一方、フランスとの経済関係が深かったワロン地域の工業地帯は、完全に解体された。ドイツ国内で不足する労働力を確保するための強制徴用も、多くがワロン人に割り当てられ、暫定政府はフラマン人が中心となった。隣国であり中立国オランダ政府は、民族的にも宗教的にも近しいフラマン人が優遇されていることもあり、ドイツ政府のベルギー政策を黙認した。
ワロンは反ドイツ勢力の震源地となり、旧ベルギー軍残党勢力やワロン人過激派がたびたびテロ事件を引き起こした。その度にドイツは締め付けを強め、フラマン人はワロン人を恨み、ワロン人は反ドイツ感情と共に、反フラマン意識を植え付けられるという負の連鎖。かくして旧ベルギー国民の分断に成功したドイツは、フラマン人の協力を得てホーエンツォレルン出身の国王を送り込んだ。
1922年12月30日。連邦王国ワロン地域リエージュの、ワロン高等弁務官事務所が武装集団に襲撃され、ドイツ駐留軍に11人の死傷者が出た。12月に入ってからは42件目のテロ事件である。
ワロン地域でのレジスタンス活動に対する警戒を強めていたドイツ軍憲兵隊は、翌31日には、ナミュール市内の犯行グループのアジトを摘発。旧ベルギー軍人を中心とした24人を逮捕した。取り調べの結果、犯行勢力は旧フランス陸軍を中心とした反ドイツ武装勢力からの資金援助を受けており、また一部の残党勢力が彼らの支援を受けてフランス国内に逃亡した事実が明らかとなった。
武装勢力のアジトが、フランス北部の港湾都市ダンケルクにあることを突き止めたフランダース=ワロン連邦王国駐留のドイツ第5軍は、ダンケルク市に対して、犯行グループの逮捕と即時引き渡しを求めたが、ダンケルク市長代行は「事実無根の言いがかりである」として、これを拒絶した。
ドイツ第5軍司令部は、この誠意なき回答が、コペンハーゲン停戦協定及びヴェルサイユ条約で定められた順守義務に違反していると判断。スパのドイツ軍最高司令部(OHL)の承認を得たうえで、テロ取り締まり活動のために、フランダース=ワロン連邦王国軍警察と共同で、ダンケルクに駐留を開始した。
つまり今回の行動は武力行使ではなく、あくまでも警察権の行使である-…
「……フリードリッヒ大王の時代から、全く進歩がありませんね」
マクシミリアン大公殿下は首を傾げ、不快感を示される。その立ち居振舞いや仕草は、やはり実兄である皇帝陛下に酷似していた。
「あくまで今回の軍事行動に関する、ドイツ側からの説明をまとめたものです。外務省としても、このようなドイツ側の見解は全く受け入れられません」
私は努めて感情の色を消し去るように努力しながら、殿下の顔だけを見るように報告を続けた。
私はロシアのテレシチェンコ外相と共に、ツィンメルマン外相を詰問したが、このいつも眉間に皴を寄せているドイツ人外交官が何一つ知らされていなかったことは、その口髭の萎れ方を見ずともわかった。
「プロイセンとは、そういう国だ」
枢密院顧問官のコンラート・フォン・ヘッツェンドルフ伯爵(前参謀総長)が、自分の中の悪意というものを隠さない陰湿な口調で吐き捨てる。ドイツではなくプロイセンと断ったのは、同じドイツ民族として扱われたくないという感情からか。
「ヤゴウ前外相は、小モルトケからシュリーフェンプランに関する具体的な説明は受けていなかった。知らされたのは、ベルギーとの軍事通行権交渉が始まる直前だ。今の外相が、ルーデンドルフから何の説明も受けていなかったとしても、驚くに値しない」
先の大戦中も二重帝国軍の自主性にこだわり続けたヘッツェンドルフ伯爵は、1917年に更迭されている。前年のブルシーロフ攻勢以降、守勢に回る二重帝国軍にとって、ドイツ軍との緊密な連携は必要不可欠。だが合理主義者を自称する彼にとって、プロイセン流の軍事優先主義は受け入れられるものではなかった。
それでも更迭ではなく、枢密院顧問官に昇進させる形をとったのは、如何にもハプスブルク流というべきか。あるいはプロイセン流の軍事優先主義に対する本音が垣間見えたのか。
ヘッツェンドルフ伯爵は続ける。
「私も先の大戦では、ドイツ軍最高司令部(OHL)の秘密主義に悩まされたものだ。そのやり方で勝利したとベルリンが考えている以上、そのやり方を改めることはしないだろう……紳士的ではないがね」
「顧問官、今回の事態に対する君自身の見解はどうか」
マクシミリアン殿下からの下問に、ヘッツェンドルフ伯爵は居住まいを正して立ち上がる。分断された民族や宗教を統合する、高貴なる青い血のハプスブルク帝室。フランス共和国と違い、二重帝国軍人の皇族に対する忠誠心は疑う余地すらない。プロイセン軍人に嘲笑された旧態依然とした体質は、今や貴族階級と共に、帝国の統一を支える最大の柱だ。
「ダンケルク進駐がいつから計画されていたか、現段階では判断する情報はありませんが、現地軍司令部の独断専行とは考えにくいかと。そして外務大臣の報告を信じるのならば、外務大臣にも秘密裡に行われた軍事作戦ということになります」
「私見を申し上げさせていただくのならば」と断ったうえで、ヘッツエンドルフ伯爵は続けた。
「ドイツ政府ではなく、ドイツ軍がブルガリア問題の外交的解決を支持したのは、二正面作戦の危険性を避けるためだった可能性が高いと考えます。現在のロシアがバルカン半島のためにドイツ帝国に対する軍事行動を起こす可能性は極めて低いでしょうが」
「
獅子の如き風貌にふさわしい怒気交じりの銅鑼声で、ヘッツエンドルフ伯爵の発言を遮ったのは、テッシェン大公フリードリヒ。 カール大公以来の名門であり二重帝国維持派の保守派、カトリック教会にも強い影響力を持つ陸軍元帥。複雑に入り乱れたハプスブルクの主流派の真ん中を、一貫して歩き続けてきたテッシェン大公家の当主には、他人を従える自然な尊大さと傲慢さが備わっている。それは少数派の存在に対する無頓着さと裏腹のものだ。
テッシェン大公の剣幕に出席者の多くが肩をすくめる中、大公は会議の出席者をにらみつけるかのように、首をぐるりと回す。イタリア政策やポーランド問題をめぐり、意見が対立する私に対する視線がひと際厳しいものだったのは、気のせいではあるまい。
「仮にロシアが行動を起こしたとしても、今の弱体化した白衛軍では、ベラルーシすら突破出来んだろう……それにしても亜奴ら、同盟国を馬か貨車と勘違いしておるのではないか?」
世間一般では、私とテッシェン大公が政治的に対立しているとされる。リベラル派のトスカーナ大公(ミラノのイタリア連邦評議会出席のため不在)の後ろ盾で共通閣僚評議会議長(共同外相)の地位に就任した私と、自分の娘婿である駐ドイツ大使を推す保守派の皇族という構造だ。
もっとも実際には、テッシェン大公は、私やトスカーナ大公など、歯牙にもかけていない。我がメンスドルフ家は、祖父の代に帝室に仕えた新参であり、トスカーナ大公家は不祥事や問題児の巣窟である。おまけにマクシミリアン殿下からすれば、テッシェン大公は義理の叔父の岳父(マクシミリアン大公夫人の叔父が駐ドイツ大使ゴットフリート卿で、その岳父がフリードリヒ大公)。保守的な価値観を尊ぶ風潮の根強いハプスブルクにおいて、カール大公以来の武門を誇る質実剛健のテッシェン大公家に、トスカーナ大公家が対抗出来ると思うのが幻想なのだ。
家門、年齢、経験、そして実績。その全てにおいて出席者全員を凌駕するオーストリア=ハンガリー帝国陸軍の司令官は、ごく自然にマクシミリアン殿下から会議の主導権を譲り受けると、唐突に批判の矛先を私に向けた。
「レードル*1のような売国奴もいた以上、帝国軍の防諜体制に問題がないとは言わない。だが外務省は、一体何をしていたのだ?ツィンメルマンが知らなかったとしても、外務省がそれを鵜呑みにしていたのなら、在外公館の情報収集体制に問題があると言わざるを得ない」
「現在、現地の大使館を中心として、鋭意情報収集に注力しております」
「事が起こってからでは遅いわ!」
皇族としての責任感というよりも、派閥領袖としての公平さを有するテッシェン大公は、自分の娘婿にも批判が及ぶにも関わらず、外務省の体制を厳しく糾弾した。
「これではブルガリア問題を一方的にドイツ軍に利用されたようなものではないか。だから外交官は、非常時では物の役に立たんと言われるのだ!ルーデンドルフの小僧を評価するわけではないが、現状は、あの男にいいように利用されただけだ!」
この程度で自分の判断の誤りや、見通しの甘さを積極的に認めるようでは、ハプスブルクの大臣は務まらない。部下の手間、私は外務省の失点を認めることはしなかったが、積極的に抗弁することもしなかった。
「我々が現在取り組むべきことは、プロイセン軍人非合理的な野蛮性について分析することでも、外務省や二重帝国軍情報部門の情報収集体制について検証することでもありません」
私とテッシェン大公のやり取りを、冷笑を浮かべながら見ていたヘッツェンドルフ伯爵が、再び発言する。
「客観的な事実に基づく情報をより多く収集し、分析することで、現状を正しく評価する。それでなければ対応策の立てようがありません」
ヘッツエンドルフ伯爵は、政治的には故フェルディナンド皇太子と近く、マジャール人の民族主義には「ハプスブルク領邦と帝室の安定を損なうもの」として否定的なことで知られる。つまりはロシア人とセルビア人を嫌い、プロイセン人とマジャール人を好んでおらず、外交官という職業を生理的に軽視している。帝室に忠誠を誓う典型的かつ模範的な二重帝国軍人だ。彼の発言の端々には、それが滲み出ていた。
「まずドイツ軍の第5軍が、フランダース=ワロン連邦王国軍と共にダンケルクに軍を進めた。これは揺るがしようのない客観的な事実です」
「たしか第5軍は、ヴィルヘルム皇太子殿下の軍団でしたな」
保守系のキリスト教社会党(CS)出身であり、現役のカトリック司祭でもある、オーストリア帝国首相イグナーツ・ザイペルが、悲壮感に満ちた表情で語る。といっても、この人物の手にかかれば「今日の朝食は昨日の夕食の残り物だった」という内容でさえ、聖書の一文を引用しているかのように語ることが可能だろう。
1914年の開戦と共に編成されたドイツ第5軍の初代司令官に任命されたのは、ドイツ帝国のヴィルヘルム皇太子であった。司令官が交代したのちもヴィルヘルム軍団と呼ばれた第5軍は、一貫して西部戦線で戦い続け、1919年のカイザー攻勢における主力として、同年のパリ入城を果たした。
そして1918年以来、ヴィルヘルム皇太子は宮中におけるルーデンドルフ体制の熱心な支持者として知られている。その皇太子の名前を関した軍団が動いた、動かした政治的意味合いは大きい。
「この第5軍司令官の、ゼークトという人物については?」
「……マッケンゼン元帥の参謀長だった男だと記憶しているが」
その可能性が低いと知りつつ、現地軍司令官の独断ではないかという可能性を念頭に置いたザイペル首相の問いかけに、二重帝国軍の長老格であるヘルマン・ケーヴェス元帥が驚くほど控えめな態度で答えた。
他民族から構成される二重帝国軍においても、ドイツ人、あるいはカトリックという多数派は存在する。ハンガリー貴族系のプロテスタントという少数者のケーヴェス元帥は、器用だが小賢しくない丁寧な仕事をすることで知られ、与えられた立場と権限に応じた以上の働きをすることで、異例の出世を遂げた。先の大戦ではドイツ帝国のマッケンゼン元帥指揮下でバルカン戦線を転戦したので、マッケンゼンの参謀長を務めた軍人の名前を憶えていたのだろう。
ヘッツェンドルフの後任であるシュトラウセンブルク参謀総長は、ケーヴェス元帥に対する謝意を口にすると、ザイペル首相に向かってハンス・フォン・ゼークトの経歴と、人となりを簡単に説明した。
「典型的な、そして完璧なプロイセン軍人です。ユンカー出身で父親も軍人。軍の中枢およびエリートコースから外れたことはありません。マッケンゼン将軍の参謀総長、ガリツィア方面の二重帝国軍参謀長、1917年からはオスマン帝国軍総参謀長……」
ドイツ軍との関係が深いシュトラウセンブルクの説明には、淀みがない。トランシルバニア出身のプロテスタントである参謀総長は、ケーヴェス元帥と同じように多数派と正面から衝突することなく、かといって卑屈になることもない。温厚な性格により、大戦後半の中央同盟陣営各国との連携と関係構築に貢献した人物だ。
「バルカンではマッケンゼン元帥、中東ではザンデルス元帥を補佐した中央同盟陣営勝利の陰の立役者です。間違いなく将来の参謀総長候補の一人でしょう」
「いや、なるほど。聞いているだけで圧倒されるような軍歴ですな」
綺羅星のごとき経歴と軍功の数々に、ザイペル首相が思わず感嘆の声を上げたが、すぐにその表情を曇らせた。
次のドイツ皇帝たる皇太子の名前を冠する軍団の指揮官として、彼ほど相応しい人物はいない。司令官としての経験を積ませる意図がある人事なのもわかる。そしてシュトラウセンブルクの説明によれば、独断専行で「国境」を越えるような軽率な人物ではありえない事もわかった。
「問題はそこではない。これを受けて事態がどう動くかだ」
参謀総長の説明が終わるのを待っていたかのように、前参謀総長が釘を刺す。そしてヘッツェンドルフは「あとはお前の仕事だ」と言わんばかりに私に視線を向けると、どっかりと腰を下ろした。
私はマクシミリアン殿下の了承を受けてから立ち上がると、あらためて説明を開始した。
「まず今回の事態が、国際法的にどう位置づけられるかという問題です」
何を悠長なことをいうのかと、軍人達が一斉に気色ばむ。ケーヴェス元帥ですら、こちらの意図を図りかねたのか、眉をひそめている。
軍人からすれば、ダンケルク占領は第2次欧州大戦につながりかねない緊急事態である。一刻も早く結論を出し、必要とあれば帝国軍に総動員令をかけねばならない。この期に及んで法解釈を論じている場合か。時と状況をわきまえろ。そのような視線を向けられていることを知りながら、私は続けた。
「パリのフランス政府を、第3共和政のフランス共和国の後継国家として承認しているのは、国際社会の中でも限られています。欧州では社会主義者の西イタリア、メンシェヴィキ政権のグルジア、ケレンスキーのロシア……そしてドイツとフランダース=ワロン。メキシコとシャムを加えても7か国に過ぎません」
「……それが何か、この状況で問題になるのかね?」
ケーヴェス元帥の声には疑念ではなく、苛立つ将校や参謀らの鋭気を逸らすような響きがあった。必要とあれば自分が「道化」になることも厭わない。私は老元帥の在り方にデ=ガスペリと良く似た牢内な処世術と、したたかさを感じた。
「イギリスもアメリカも、そしてオーストリア帝国もハンガリー王国も、パリの社会主義者を国家として承認してはいません。二重帝国軍は先のイタリア内戦で、イタリア社会主義共和国と共に、パリの政権を交戦団体として承認しましたが、それだけです。巨額債務を不履行にさせられたアメリカは、そもそも交戦団体とすら認めていません。イギリスに至ってはアルジェの「第4共和政」が正統政府だとする世界で唯一の国家です」
「先の大戦のように、国際社会が介入する義理も筋合いもない、というわけだな」
ケーヴェス元帥の発言に私が頷くと、テッシェン大公とヘッツエンドルフ伯爵は苦虫を嚙み潰したような表情で腕を組んだ。
これが欧州大戦開戦時のベルギーへの中立侵犯の如く、国際法に基づき国際社会に認められた独立国家に対する侵略行為であれば、ドイツの行為は、議論する余地すら存在しなかっただろう。だが、1921年のコペンハーゲン講和会議に、パリの政権は参加しなかった。
そのため1919年のヴェルサイユ条約に調印したドイツを除く、中央同盟-すなわちハプスブルクも、ブルガリアも、オスマン帝国も、エチオピアも、パリの政権を国家として承認していない。旧フランス領インドシナ連邦の領土編入を認めさせるために、シャム王国が個別に承認しただけだ。そして協商陣営からすれば、パリの政府はかつてのロシアのように「裏切者」である。中立国-特にアメリカからすれば、借金を踏み倒して逃亡する債務者だ。
つまりパリの社会主義者政権は、ボルシェヴィキ政権時代のロシア以上に国際的に孤立している。
イギリスもアメリカも、パリの政府を戦時国際法に基づく交戦団体とすら認めていない。であるならば、ドイツの軍事行動に、積極的に口を出す理由が存在しない。まだ両国の反応は示されていないが、状況によればドイツの対応を支持する可能性すら残されているのだ。
「いや、それは違うのではないですか」
ザイペル首相が疑念を差し挟む。前任の気力勢力共に漲るレンナーとは異なり、田舎のカトリック学校の教師のような誠実さと篤実な性格の持ち主であるザイペルは、典型的な調整型の保守政治家である。しかしこの人物は、それ故に法と秩序に関する問題には敏感な感覚の持ち主だ。
「1919年の条約でパリの政権を、フランス本土を統治する第3共和政の後継国家として承認したのはドイツ帝国ではありませんか。それを踏まえるならば、現在のドイツ軍の行動は、断じて正当化されるべきものではありません。ドイツは自分たちが承認した条約と国際秩序を、自らの行動で否定し、かつ踏みにじっていることになります」
「だからこそ事態は深刻、かつ悪質なのです」
私の言葉にザイペル首相を始め、出席者は一応に表情を険しいものとした。
ドイツ帝国は政権が崩壊した第3共和制の後継国家として、パリのCGT政権を交戦団体として認め、1919年のヴェルサイユ条約で独立国家として承認した。そうすることでパリの政権に、旧フランスの海外植民地を自らに譲渡させたのだ。ところが今回の軍事行動は、ヴェルサイユ条約を根底から覆しかねない危険性をはらんでいる。
それにもかかわらず、ドイツ軍が軍事介入に踏み切った理由はどこにあるのか。
「プロイセン人も芸がない。ロシア内戦と同じ絵を描こうというつもりか」
テッシェン大公が吐き捨てたように、ロシア革命後、ドイツは旧ボルシェビキ政権に対してブレスト=リトフスク条約に調印させることで、バルト海沿岸と東部諸国の独立を認めさせた。そして実効支配を確立すると、ロシア暫定政府を支持して内戦に介入。これを打倒すると同時に、現在のロシア政府にも同条約を承認させた。
フランス国内の情勢不安や反革命暴動は、ロートシルト家やシャハト報告書でもたびたび言及されている。ならばドイツが、ロシアでの成功体験を念頭に、フランスに対して同じことを行ったとして、何の不思議がある?
「問題はドイツ側が期待するように事態が推移する保証はどこにもないということです。ロシアに対してはドイツが主導権を掌握できる状況にありました。しかしフランスの場合は、イギリスやスペインなどが介入する可能性も残されていますし、アルジェの亡命政権が動く可能性も。そして我々としてはイタリア半島という不安定要素を無視出来ません」
イタリアという単語に、テッシェン大公の視線と表情が再び険しいものになる。だが、今さら説明を中止するわけにもいかず、私は話を続けた
「イタリア共和国……失礼。ロンヴァルト=ヴェネト共和国は、イタリア社会主義共和国との事実上の休戦状態にありますが、これに関しても……」
「大臣」
「……失礼」
説明を続けていた私に、秘書官のヤン・マサリクが、背後から慌てた様子でメモを差し出す。私はマクシミリアン大公と他の出席者に断りを入れてから、それに視線を落とした。
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