南チロルの宮廷道化師   作:神山甚六

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- 前イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が薨去 -

 現地時間3月17日。前イタリア国王にしてサヴォイア=カリニャーノ家の家長であられたヴィットーリオ・エマヌエーレ・フェルディナンド・マリーア・ジェンナーロ・ディ・サヴォイア殿下は、亡命先のポルトガル王国リスボン市内の旧カルモ修道院において薨去された。享年53歳。死因は肺炎。関係者によると、風邪から併発した肺炎を悪化させた。

 奇しくも62年前の3月17日は、サヴォイア殿下の祖父であるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア国王に戴冠された記念すべき日であった。旧カルモ修道院には、リスボン市内の亡命イタリア人が多数詰掛け、王室歌を合唱することで「愛国王」の死去を悼んだ。旧協商国の大使や、ポルトガル政府関係者も弔問に訪れた。

 サヴォイア=カリニャーノ家の家督は、元皇太子のウンベルト・ニコラ・トンマーゾ・ジョヴァンニ・マリーア殿下が継承する。ただ旧イタリア王国の王位請求者の地位に関しては、サルデーニャ島の実効支配を続ける「サルデーニャ=ピエモンテ王国」の国王を主張するアオスタ公爵エマヌエーレ・フィリベルト殿下とその支持者が異議申し立てをするのは確実な情勢。

 亡命王党派の中では、アオスタ公爵と「サルデーニャ=ピエモンテ王国」に関する対応は割れていた。それをヴィットーリオ・エマヌエーレ前国王陛下を擁立することで、辛うじて政治勢力としての結束を維持していた。前国王の急逝により、分裂は免れないと見られている。

- 摂政皇太子殿下、ウンベルト元皇太子殿下に弔意 -

 摂政皇太子殿下は17日午後、在ポルトガル日本公使の廣澤金次郎伯爵を通じて、ウンベルト元皇太子殿下に対する弔意を伝えられた。また伊集院彦吉外務大臣は、「日伊関係に尽力された前国王陛下に感謝する」という外相談話を発表した。伊集院外相は最後の旧イタリア王国大使を務めたことで知られている。

- イタリア連邦評議会、駐イタリア連邦日本大使を呼び出し抗議 -

 イタリア連邦評議会は17日、ミラノ駐在の落合謙太郎イタリア連邦大使(イタリア共和国公使兼任)に対して、日本政府が旧イタリア王国亡命政府首班のジェノヴァ公爵に対して送った弔電に関する不快感を伝えた。またオーストリア駐在の本多熊太郎大使も、二重帝国外務省のオスヨ事務次官より「欧州の国際秩序を乱す軽率な行為である」として、厳重なる抗議を受けた。

 これに対して落合大使は「日伊関係に尽力された前国王陛下に対する、皇室と日本国民からの感謝と哀悼の意を伝えたものであり、抗議されること自体が極めて不愉快である」と強硬に反論。ウィーンの本多大使も、同様の反論をしたものと見られる。旧中央同盟陣営との外交を巡り、加藤友三郎首相と伊集院外相は難しい判断を迫られている。

- 大阪朝日新聞(大正12年3月18日)/民明大学新聞文庫より -


動揺する欧州情勢(1923年3月~4月 デンマーク王国 首都コペンハーゲン)

 野良犬でも、棒で手ひどく叩かれれば学習する。両陣営を通じて1000万人以上の兵士が犠牲になった先の大戦から、我々は学習出来なかったようだ。

 

 ローマ共和国の政治家キケロは「最も正しい戦争よりも、最も不正な平和を好む」と語った。後世の歴史学者が、どのように評価するかはわからない。だが、正しい戦争が欧州大戦であったとすれば、不正な平和とは「名誉ある平和」の時代。つまり、今この瞬間を指すのではないか。

 

 疲れ果てたドイツとイギリス両国が、1921年に合意した最も不正な平和。両者の妥協の産物である、ドイツ帝国を中心とする新たな国際秩序は、バルカン半島の動揺とダンケルク進駐により、欧州全土に波及した。ようやく得られた「もっとも不正な平和」は、さながら1914年7月の軌跡をたどるかのように、我々の目の前で崩れつつある。

 

 通常、既存の国際秩序を否定する挑戦者とは、台頭する新興勢力や、先の戦争における敗者であろう。メッテルニヒに挑戦したパーマストン、パーマストンに挑戦したビスマルクのように。

 

 だが今回の場合は、様相が大きく異なる。欧州大陸の覇者であるドイツ帝国ー国際秩序の守護者であるべき勝者が、更なる自国の利益と勢力圏拡大を求めて、国境を侵犯し、他国の国土を不法占拠したのだ。それも確信犯として。

 

 そこには正義がなければ不正義もなく、善がなければ悪もなく、名誉と栄光がなければ、賞賛も平和も存在しない。

 

 ドイツは自らの行動によって、自らの利益のために、自ら作り上げたヴェルサイユ体制を否定した。これでは、ドイツの国際秩序を守ろうとする国家はいなくなる。現に欧州大陸のすべての国家で、国内と国外におけるあらゆる主張が衝突を繰り返し、互いの共通点よりも相違点だけが強調される風潮が広がりつつあった。

 

 もはや現状をコントロールすることは、ドイツ自身にも不可能なのだろう。後述するが、3月17日の前イタリア国王の死去を契機に、イタリア半島で再燃した民族騒乱は、私の共同外相の地位を脅かしつつある。現状の危機的状況を解決する、有効な対処方針として、真剣に検討されるのはプロイセン流の手法ばかり。

 

 そしてすべての当事者が、口々に同じ主張を繰り返すのだ。

 

 「自分こそが、最も平和を希求しているのだ」「相手こそが、戦争愛好家だ」と!

 

「道化師は社会に必要不可欠な存在ですが、道化師だけで社会は成り立ちません。私の仕事を、不当に奪わないで頂きたいものです」

 

 4月28日。デ=ガスペリ補佐官はそう言い残すと、ミラノに向けて出立した。共通閣僚評議会議長-つまり私の特使として、イタリア連邦評議会や教皇庁関係者、両シチリア王国政府と、イタリア情勢の打開策について意見交換するためである。

 

 「道化師」に言われては、我々の立つ瀬がない。覇権国家であるドイツ帝国は紛争当事者であり、パリのフランス政府とロシアのケレンスキー政権は、欧州において外交的に孤立している。イギリスは欧州大陸における有力な同盟国に欠いており、それ以外の国家は仲介交渉に乗り出すだけの力がない。

 

 ならば、我々がやるしかないではないか。

 

 たとえそこに名誉がなかったとしても、待ち受けているのが破局だったとしても。ハプスブルクは前に進むしかないのだ。

 

 

 1923年1月11日。北フランスのノール県とダンケルク港湾都市に、ドイツ第5軍とフランダース=ワロン連邦王国軍が進駐を開始。ダンケルクとノール県のフランス側当局者は逃亡したため、連合軍は軍政を開始した。

 

 連合軍は「ワロン分離独立派を支援していたフランス国内のテロ組織捜査に関して、フランス政府の協力を得られなかった」ことを理由としていた。もっとも先の大戦における旧ベルギー王国の侵略と解体までの経緯を見れば、それが名目上のものであることは、誰の目にも明らかだった。

 

 こうした危機的状況にも関わらず、パリの労働組合政権は対応を決定出来ずにいた。1871年のパリ・コミューンの記憶から、ドイツ軍の本格的な武力介入を警戒するCGT執行部と、エミール・プジェの強硬派の間で、意見が割れていたからである。

 

 煮え切らない中央政府とは対照的に、ダンケルクの労働者達は行政命令への不服従やサボタージュなど、非暴力の抵抗運動を開始した。三色旗が禁止されれば旧ベルギー国旗を掲げ、それも禁止されればドイツ国旗を逆さにして掲げるという具合に。ノール県に接するパ=ド=カレー県コミューン事務局を兼任しているレオン・ジュノーは、CGT事務局長として慎重派に属していたが、不服従運動による抵抗運動を支持。「ダンケルクを見捨てるな!」と訴えた。

 

 フランス人労働者は工業地帯の工場を占拠し、無制限のストライキに突入。公共交通機関、発電所、上下水道、ゴミ回収、あらゆる都市機能がマヒ状態した。連合軍は兵士を動員して工場や施設を動かそうとしたが、ワロン人武装組織と連携した破壊工作が行われ、連合軍の行動は阻害された。ドイツ軍が優先的に保護するとした小売業者ですら、逆さ国旗を掲げることで、ドイツ軍との取引を拒絶した。

 

 こうした住民の抵抗運動に、ドイツ第5軍司令官のゼークト将軍は、現地有力者の取り込みによる鎮静化を図ったが、大本営から「対応が弱腰であり、レジスタンスを増長させた」という理由により更迭される(2月15日)。

 

 後任にはドイツ軍有数の戦術思想家であり、1919年にパリを陥落させたオスカー・フォン・フーチェル陸軍大将が就任した。フーチェル戦術と呼ばれる浸透戦術の生みの親であり、西部戦線を攻略した名将は、ルーデンドルフ参謀総長の8歳年長の従兄でもあった。

 

 「スフィンクス(ゼークト)を追い払ったら、アメミット(フーチェル)が来て貪り食った」と、フランス人から憎悪された新司令官は、旧ベルギー王国においてドイツ軍の総督府が行ったように、極めて厳格な態度で反抗運動に臨んだ。

 

 新たな軍政府は、それまで「経済上の混乱回避」を理由に、一部流通を認められていたフランス・フランの流通を停止。軍政府の発行した軍票以外の使用を不許可とし、事実上の経済制裁を実行した。また、ストライキやロックアウトを行う労働組合の責任者や公務員幹部を、騒乱罪で片っ端から訴追。命令に従わない、あるいは労働者に銃を突きつけ、抵抗した場合は武力をもって排除した。

 

 飴と鞭ではなく、鞭と棍棒による占領政策の強化に、それまで様子見だった一般市民も、占領軍への態度を硬化させた。2月28日。国営造船工場におけるロックアウトをドイツ軍が解除する際に、労働者31人が死亡(ダンケルク造船所事件)。我慢の限界に達した労働者による暴動と武力争議は、アーズブルックやエノーなど、ノール県全域へと拡大した。

 

 こうした状況にもかかわらず、フランス人労働者から、古代エジプトにおいて「貪り食うもの」との異名を持つ悪魔(アメミット)と嫌悪されたフーチェルは、ここで軍事学者としての合理性(本当に合理的か否かは議論があるだろうが)を発揮。更なる強硬姿勢で事態の解決を目指した。

 

 3月1日。ダンケルク占領軍がストライキや暴動に参加したフランス人労働者を現地から強制追放して、ワロン人とスイス人労働者を優先的に雇用すると発表するに至り、ようやくパリのCGT政府も重い腰を上げた。エミール・プジェの強硬派が主導して「ドイツ軍国主義の侵略行為に対する反撃闘争」を宣言。公職追放中の旧フランス軍人や警官の復職を認め、コミューンと呼ばれる自治体単位の義勇軍の編成が急ピッチで進められた。また同じ3月には、旧ベルギー軍や、ワロン人独立派による武力闘争も開始される。

 

 もはや北フランス一帯は、内乱状態と化していた。

 

 

 ダンケルク情勢が、ここまで悪化した原因。それは国際社会がダンケルク進駐に対して、傍観者としてふるまったことだ。それがドイツにフリーハンドを与え、悪戯に強硬策に走らせている。

 

 確かに、パリの社会主義者は外交的に孤立していた。だが、彼らに対する不快感だけが、国際社会の黙殺の理由ではない。

 

 欧州大戦において団結しながら中立を維持した北欧諸国は、伝統的に仲介外交に積極的である。だが今回はイギリスと親しいノルウェー、ドイツと経済的つながりの深いデンマーク、ドイツが支援するフィンランドと緊張関係にある武装中立国家スウェーデンという違いが、共同歩調を妨げた。同じ中立国であり、フランスに隣接するスペイン王国は、1920年から続く北アフリカのベルベル人の独立戦争(リーフ戦争)で、それどころではない。

 

 ハプスブルクはブルガリア・クーデターに対する対処、オスマン帝国とのジェマル・パシャ海軍大臣の政治亡命をめぐる問題、そして3月に発生したイタリア問題、ロシア共和国とのチェコスロバキア師団の取り扱いなど、複数の外交懸案を同時に抱えていた。

 

 パリのCGT政権にとっては、唯一頼れるはずの同盟相手であるはずのイタリア社会主義共和国(西イタリア)は、ハプスブルクと同じく国内問題への対処で動けないどころか、3月から始まった民族主義暴動の対処に手間取り、フランスに支援を求める始末。

 

 そして最も動向が注目されている旧協商陣営の盟主であるイギリスと、欧州諸国に莫大な債権を有するアメリカ合衆国政府は、それぞれ国内政局とモンロー・ドクトリンを理由として、消極的な姿勢を崩さなかった。

 

 昨年11月のイギリス王国庶民院総選挙を受けて、正式に発足した第2次ボナー・ロー内閣であったが、与党保守党は前党首のオースティン・チェンバレンを支持する派閥領袖や有力幹部と、ボナー・ロー執行部を支持する中堅若手の対立構造は、一向に解消されていなかった。

 

 こうした状況で、ボナー・ロー首相の健康問題が表面化する。

 

 保守党は、アイルランド問題の解決をロイド・ジョージ前首相に押し付けることで、直接的な政治責任を回避することに成功した。それでも事実上の敗戦国である連合王国の課題は山積しており、復員兵の社会復帰に負傷兵の処遇、金本位制復帰のための財政改革、大戦に貢献した見返りを求める植民地政府の自治領昇格問題、加えて保守党にとっては穀物法以来の宿痾ともいえる、保護貿易派と自由貿易派の通商政策の対立も再燃しつつあった。

 

 ボナー・ローは、保守党の伝統的な保護貿易派に近かったが、彼を支持していた中堅若手は、ドイツ主導の欧州経済秩序から、イギリス企業が締め出されることを懸念しており、自由貿易派が多かった。また党内で数少ないボナー・ロー支持派であり、経済界から支持されるスタンリー・ボールドウィン財務大臣も、アメリカとの債務交渉の責任者として「自由貿易体制と金本位制への復帰を急がなければ、イギリス経済の復活は不可能」という判断から、自由貿易を支持していた。

 

 保守党内の政局が混乱する中で発生したのが、ドイツ帝国とフランダース=ワロン連邦王国による北フランスのダンケルク占領である。

 

 イギリスは、1919年革命による戦線離脱という、フランス共和国の英仏協商への裏切りを許しておらず、パリのフランス政府を国家として承認していない。それどころか、あてつけの様にアルジェの「第4共和制」を正統政府として承認していた。そのため当初からボナー・ロー首相とボールドウィン財務大臣はダンケルク問題に対しては静観する姿勢であった。

 

 これに真っ向から反対したのが、自由主義政党である前首相のロイド・ジョージの国民自由党と、アスキス元首相の自由党。そしてマクドナルド労働党である。

 

 野党3党は、慣習法と条約による国際法に基づく欧州秩序は固持されるべきだとする立場から、今回の連合軍による軍事行動は「パリのフランス政府を、第3共和制の継承国家として承認したドイツ帝国が、一方的に条約を破って進駐した」として、「国際秩序に対する深刻かつ重大な挑戦である」と批判した。

 

 この点だけ見れば3野党の見解は正しいが、彼らは7年間の大戦を経て、国内問題が山積するイギリスという国家に、欧州大陸に再度派兵する能力がないことを理解していなかったか、あるいは意図的に軽視している点に問題があった。

 

 1月11日のダンケルク占領直後、筋金入りの対ドイツ強硬派で知られる自由党の元海軍大臣であるウィンストン・チャーチル卿は、議会において「王立海軍(ロイヤル・ネイビー)によるスカゲラクとドーバーの両海峡の海上閉鎖」を提案。「ドイツの無秩序な侵略行動に対抗する」ためには、彼の持論である社会主義に対する病的な嫌悪感ですら「些細な問題」であるとして、パリの社会主義政権の抵抗運動を支持。「イギリスは全欧州の指導者として、ドイツの侵略行為を前に、一致結束して対抗するべきである」と訴えた。

 

 このチャーチル提案を支持したのが、チャーチルとは犬猿の仲である労働党左派であった。その理由は、パリの政府に対する一方的な親近感からくるものであり、チャーチルとは正反対であったとはいえ、彼らはチャーチル提案を支持した。

 

 かくして議会で高まる反ドイツ感情を前に、もともと反ドイツの傾向が強い保守党右派勢力が同調する姿勢を見せ始める。病気療養が必要とされた首相に、これを抑え込む政治的求心力は失われつつあった。

 

 こうした状況下で、イギリス政界のキーマンとして浮上しつつあるのが、外務大臣であるジョージ・ナサニエル・カーゾン侯爵である。

 

 私より2歳年上。今年64歳を迎えるカーゾン侯爵は、大英帝国は「神から与えられた偉大な責務と使命がある」と公言する帝国主義者であり、鼻持ちならない権威主義者、かつ貴族主義者である。39歳の若さでインド総督となり、ロシアの南下政策と最前線で対峙した。早くから保守党の首相候補と目されており、閣僚経験は数知れず。

 

 大きなトップ・ハットにステッキという、野心で膨れ上がったジョン・ブルのような巨漢の老人は、改革や民主と名のつくものには、すべからく否定的な保守派であり、冷酷にして酷薄。何よりも、サデイスティックな破壊衝動の性格で知られていた。

 

 この紳士と呼ぶに憚られる傲岸不遜な連合王国の貴族は、人望や大衆的人気というものが決定的に欠落していたが、同時にその能力と見識、そして胆力が政界に広く認められているという、実に稀有な政治家であった。彼を嫌う政治家ですら、カーゾン卿の大英帝国に対する貢献を否定出来ない。

 

 非常に政敵が多いにも関わらず、政界遊泳術も巧みである。1914年のアスキス戦時内閣に入閣して以来、短期間の間に主流派が幾度となく入れ替わる政局の中でも一環して閣内にあり続けた。1919年からは外務大臣として、オスマン帝国とのスエズ運河を巡る協定にこぎ着け、ギリシャ問題で関係各国の調停に辣腕を発揮するなど、その力量を示した。

 

 療養のために静養に入ったボナー・ロー首相から、臨時首相代理に指名されたことで、事実上の職務代行者となったカーゾン侯爵は、早速ロンドンの駐米大使と会談。英米が共同して、ダンケルク問題の平和的解決に取り組む姿勢を明らかにした。

 

 旧フランス共和国崩壊による巨額の不良債権処理が政治問題となっていたアメリカだが、依然として好景気は続いていることもあり、欧州情勢に対する関心は低かった。そのアメリカを「平和的手段による、外交解決への協力」という、いかにもアメリカ人が好みそうな大義名分で巻き込み、自国への支持を取り付けた剛腕は、流石はカーゾン卿といったところか。

 

 そのカーゾン侯爵は、ドイツ軍のダンケルク進駐に関する、直接的な評価を慎重に避け続けている。

 

 議会において与野党議員から質問されても「慣習法や条約は遵守されるべきだ」という原則論の一点張り。批判や追及の類を、一切黙殺した。その一方、ドイツ帝国と、その軍事同盟である帝国協定(ライヒス・パクト)を除いた欧州各国の大使と積極的に会談。チャーチル・プランに対する容易に着手するなど、外交と軍事の両面で圧力をかける両睨みの姿勢も堅持している。

 

 4月30日。私はカーゾン卿との外相会談に出席するため、デンマーク王国のコペンハーゲンにいた。同行するのはヤン・マサリク秘書官ら数名のみ。保守派からすれば、形式に極度に拘る二重帝国の外交官らしからぬ振る舞いと批判の対象となることだろう。

 

 私が共同閣僚評議会議長(共同外相)の地位にあるのは、1919年のイタリア内戦への対処に成功したからだ。逆に言えば今回、イタリア問題の対応に失敗すれば、直ぐに前任者のように地位を追われるということでもある。既に省内からは、私の後任として、保守派のテッシェン大公フリードリヒ殿下の娘婿である、ホーエンローエ=シリングスフュルスト侯爵家のゴットフリート卿(駐ドイツ大使)を擁立する動きも出ている。

 

 コペンハーゲンへの出発前、帝国の情報機関を統括する情報証拠局(エヴィデンスブロー)のロンジ大佐から報告を受けた私の口からは、苛立ち紛れの辛辣な回答が出ていた。

 

「君は対外諜報活動よりも、国内の政局に関心があると見える。今からでも転職して。新聞記者か政治家にでもなったらどうだね?」

「あくまで一般論ですが……」

 

 ロンジ大佐は即座に次のように反論した。

 

「家庭内の揉め事も解決出来ない主人が、外で十分な働きをする事は難しいでしょうな」

 

 

 コペンハーゲン中央駅に到着した私達を、デンマーク外務省が手配した旧ルノー社製の小型タクシーが出迎える。観光客を装った私達は、促されるままに車に乗り込んだ。

 

 先の大戦初頭。フランスの首都パリを目指すドイツ軍をフランス軍が迎撃したマヌル会戦の勝利には、ルノー・タクシーの貢献があった。ジョゼフ・ガリエニ将軍は鉄道網の不足を、首都を走る数百台のルノー・タクシーを徴用することで代弁し、見事ドイツ軍を撃退した。

 

 かつての伝説は、すでに擦り切れた過去となりつつある。ガルニエ将軍は1916年に病死し、ルイ・ルノー社長と旧経営陣は革命勃発により、北アフリカのアルジェに逃れた。本土の会社は革命政権によって国有化され、設備と人員はCGT政権に接収された。

 

 国家も会社もすでに存在しないが、ルノーの技術は今も欧州自動車産業を牽引している。ナポレオンや太陽王、そしてフランスの大地と人民が生み出した数多くの芸術家や哲学者が、今もなお、欧州の文化と文明に影響を与えているように。

 

 何れはハプスブルクも、忘れ去られていく歴史の一部になるのであろうか。感傷とも感慨ともつかない考えが、私の脳裏をよぎった。

 

「私で良かったのでしょうか」

「何についてかね」

 

 私の左隣に座るヤン・マサリクが、私の顔色を窺うように尋ねる。書類が詰め込まれた鞄を立てたまま膝の上に置き、さらにそれを両手で抱え込んでいる念の入れようは、彼と私の心理的な距離感を反映していた。

 

 私は、車窓から流れるコペンハーゲン市内を見つめたまま応じた。

 

「……君も承知の通り、どのみちイタリア問題への対応に失敗すれば、私はお払い箱になる。今更、ゴットフリート卿の支持派に遠慮したところで、彼らが私を支持するわけではない。そしてダンケルク進駐を事前に伝えなかったドイツ軍に遠慮する必要性もない」

「確かにその通りではありますが……」

「ならばよい」

 

 主流派のドイツ人とマジャール人の保守派が、私に対する攻撃を強めるのならば、非主流派かつ政治的影響力のあるチェコ人民族派との政治的結びつきを、意図的に誇示する。そして、父親譲りの勘の良さがある彼は、私の思惑について、薄々感づいている節がある。

 

 ハプスブルクの権力闘争に巻き込まれるのは迷惑だという思いが、彼の表情や言動に顕れている。だがロンジ大佐の言に従えば、家庭内部の権力闘争に勝利しなければ、民族自決も独立もない……

 

「アダムとイブが楽園の知恵の樹の果実を齧って以来、人間は様々な知識を獲得してきた。それは、人類にとって幸せなことだったのだろうか」

「はっ?」

「一度その味を経験してしまえば、それを知らなかった頃には戻れない。聖書の翻訳者たちは、それを楽園からの追放であり、堕落であると表現したそうだ」

 

 おそらく困惑した表情を浮かべているだろうチェコ人は、ヤン・マサリクであって「道化師」ではない。それをわかっていながら、私は呟いた。

 

 北フランスの連合軍に対する抗議行動が本格化しつつあった3月17日。前イタリア国王の急逝が伝えられると、旧イタリア王国の全域で大規模な騒乱が発生した。

 

 王党派も共和派も、自由主義者も社会主義者も。労働組合から退役軍人、農民組合や商工業者まで。多種多様な背景と事情を抱えたイタリア人が、ローマで、ミラノで、トリノで、ジェノヴァで、ボローニャで、フィレンツェで、ヴェネツィアで、メッシーナで声を上げた。

 

 火をつけたのはガブリエーレ・ダンヌンツィオかもしれない。しかし彼のヒロイズムに酔った文章だけで扇動されるほど、イタリア人は愚かではない。何より戦争責任を糾弾して、サヴォイア王家を追ったのはイタリア国民自身である。大戦の戦犯であるサヴォイア家による王政復活など、一部の王党派を除いては誰も望んでいなかった。

 

 つまりダンヌンツィオの行動や「愛国王」の死去は、騒動の契機になったとしても、本質ではない。

 

 では、彼ら(彼女ら)は、一体何に憤り、何に突き動かされていたのか。

 

 1920年6月にイタリア内戦が事実上の停戦を迎えて以来、イタリアは分断され続けてきた。

 

 反ハプスブルクにして、イタリア民族主義の象徴的存在だったイタリア社会主義共和国は、内戦の膠着とローマ確保の失敗により、フランスの金塊目当ての犬になり下がった。イタリア人の期待を裏切った彼らは、実効支配を続ける勢力圏の維持と、政権を確保することに汲々とするばかりだ。

 

 イタリア共和国を自称するロンヴァルト=ヴェネト共和国や、イタリア王国の後継であるイタリア連邦は、ハプスブルクの傀儡でしかない。一般のイタリア国民からすれば、彼らは同胞のためではなく、ハプスブルクのためにしか働かない売国奴だ。トリノの社会主義者以上に許しがたい存在である。

 

 戦後復興の遅れや経済危機による難民の増加。農村部の荒廃に都市部の治安悪化といった、現状のイタリア半島を取り巻く様々な不安と不満は、1919年8月と同じ軌跡を辿るかのように、イタリア民族主義という受け皿に流れ込んだ。そして充満していた現状に対する不満と憤懣に、ダンヌンツィオのドン・キホーテ的な行動が火をつけ、「愛国王」の急逝によって、イタリア各地に爆発飛散したのだ。

 

 当初、これらの団体は連携していたわけではない。しかし3月20日。ローマ市内において旧イタリア王国の学識者や新聞記者、国会議員らが集まり、イタリア民族会議の結成を宣言。民族自決権の確立と、イタリア半島から外国勢力が完全撤退されるまで、政治闘争を続けることを宣言した。

 

 ……吾ら33名は今ここにイタリアが永遠の独立国であり、全てのイタリア語を話すイタリア人が、完全に自由であり、独立した存在である事を、全世界に向けて宣言する。外国勢力の干渉と介入により失われた独立を取り戻し、民族自決の正当な権利を取り戻す戦いが、永遠の都ローマから始まるのだ。

 

 つまるところ「外国人はイタリアから出て行け!」に要約出来るものを、極めて御行儀よくまとめ上げた独立宣言文は、またもや飛行機によって、イタリア半島各地にばら撒かれた。イタリア連邦加盟国も、西イタリアのイタリア社会主義共和国も、二重帝国軍も後手に廻った。

 

 不幸中の幸いというべきか、サヴォイア王家や北イタリア主導のリソルジメントに対する不満が根強く、内戦後は政情と経済が安定していた、南イタリアの両シチリア王国においては、暴動は小規模なものにおさまった。議会選挙を終えていたことで、ある程度民意や不満のガス抜きが出来ていたという点も、大きかったのだろう。

 

 しかし、イタリア半島各地からの難民を抱える教皇領や、いまだに臨時議会のままで選挙すら行えないイタリア共和国では、抗議運動が過激化するばかりだ。イタリア連邦評議会も、責任追及を互いになすりつけるばかりで、有効な対策はとれていない。

 

 同様の騒乱は、イタリア社会主義共和国が実効支配する西イタリアでも発生した。外国勢力には、当然ながらサンディカリスト勢力も含まれている。

 

 しかし、その推移と結末は、大きく異なっていた。

 

 イタリア民族主義者に見放された社会主義政府の軍隊と警察は、各地で敗退を続けた。特に旧サヴォイア王国領のピエモンテでは数千人単位の王党派によるデモ隊が、トリノ市庁舎を占拠。そのため政府は、一時ジェノヴァへの移転を余儀なくされた。

 

 反戦派の英雄であり、現在は統一社会党を率いるジャコモ・マッテオッティ共和国最高評議会議長は、一貫してデモ隊との対話を通じた解決を主張した。しかしトリノ陥落の責任を問われる形で、政治的影響力を減少。代わって、武力鎮圧を主張する社会党非主流派のアントニオ・グラムシ広報委員長が台頭した。

 

 グラムシ広報委員長は、盟友であるパルミーロ・トリアッティ国防委員長と連携。欧州大戦への参戦を支持したことで、政権内部では同じく非主流派であった社会党除名組のベニト・ムッソリーニと手を組むと、退役軍人や志願兵による民兵義勇軍(ミリシャ)を編成。マッテオッティ共和国最高評議会議長の反対論を押し切り、社会主義政権への忠誠心に乏しい正規軍や治安部隊に代わって、彼らを鎮圧作戦に投入した。

 

 最大の激戦となったトリノ市庁舎攻防戦において「正体不明のフランス語を話す義勇軍」と共に奪還作戦を実行したミリシャは、人質と共に立て籠るデモ隊に、人質ごと銃撃を加えた。徹底的に掃討作戦を続け、降伏も逃亡も命乞いも許さなかった。

 

 トリノ市庁舎周辺での死傷者は、3千を越えたとされ、その遺体はすべて晒し者にされた。強盗殺人放火に強姦と、何でもあり凄惨な鎮圧作戦に恐れをなした各地のデモ隊は、地元警察の庇護を求めて次々と投降し、あるいは国外に逃亡した。

 

 結果、4月中旬までには、西イタリアにおける騒乱は終息へと向かった。

 

 「正体不明のフランス語を話す義勇軍」について、私がロンジ大佐に確認したところ、彼は肯定も否定もしなかった。

 

 つまりはクロである。

 

 パリのCGT政権からすれば、北フランスと南フランスでの二正面作戦を避けるために、先制攻撃として西イタリアへと軍事介入を決断したのだろう。ルーデンドルフと何も変わらないどころか、一般市民を必要以上に巻き込むだけに、ドイツよりも悪質極まりない。

 

 それと比較すると、イタリア共和国(東イタリア)の指導者は、西イタリアと比べると良識的、かつまともな価値観を有する人々により構成されていたことが、今回の騒動の中で明らかになった。

 

 そして良心的かつ抑制的な対応は一向に功を奏さず、暴動は悪化の一途を辿りつつある。

 

 暫定政権のルイージ・ファクタ内閣は、イタリア内戦とトリノの社会主義者からの脅威のために、正式な選挙を先送りしてきた。政権基盤の脆弱さは隠しようもなく、対処方針は二転三転。共和国軍は「国民に向ける銃はない」という理由で介入を拒否。孤立無援の戦いを続ける治安機関は、組織としての活動限界に達しつつある。

 

 二重帝国軍が介入するにしても、今のファクタ政権では、要請を出す前に、内閣ごと国家体制が崩壊する可能性がある。反ハプスブルク感情を刺激することで、暴動がさらにエスカレートすれば、西イタリアの社会主義者に軍事介入の口実を与えかねない。

 

 イタリア連邦評議会議長のトスカーナ大公ヨーゼフ・フェルディナント殿下は、これ以上の状況悪化を避けるためとして、二重帝国軍の介入に反対しており、両シチリア王国政府もこれに賛同していた。イタリア民族会議のローマ侵入を許した教皇庁は発言を控えているが、内心は賛同していると思われる。

 

 一方でハプスブルク領邦内の保守派の間からは「西イタリアと同じことが、何故出来ない!」という強硬論が出されている。ウィーンの留置所に拘留されているダンヌンツィオを暴動を扇動した罪で処刑しろという意見から、リソルジメントの殉教者になるという反対論まで、議論噴出で纏まる気配がない。

 

 当然ながらイタリア半島の混乱は、私に対する批判と追及という形で噴出。先ほどから沈黙を維持しているヤン・マサリクでなくとも、敗色の強い政局に巻き込んでほしくないと考えるのは、自然なことだろう。彼らの双肩にはチェコ人の未来が掛かっているのだ。失敗は許されない。

 

 無責任だからではなく、責任があるからこそリスクを回避する。卑怯者と言われようとも、生き延びることが政治責任を果たすことになる。それは確かに正しい。

 

 そして私も、今ここで退くつもりはない。

 

 私にもイタリア問題を始めとした外交政策について、それぞれリスクを背負いながらも支持を表明してくれた政治勢力が存在する。「道化師」を始めとした彼らに対する責任を果たすためには、何が何でもこの難局を乗り切らねばならない。

 

「それでもやるしかないのだ」

 

 その言葉が終わると同時に、タクシーは連合王国大使館前に到着した。

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