南チロルの宮廷道化師   作:神山甚六

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ブルシーロフ陸軍士官学校
  所在地:ロシア共和国 サンクトペテルブルク(ペトログラード)
   管轄:ロシア共和国軍参謀本部

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 参謀本部アカデミー(さんぼうほんぶあかでみー)(ロシア語:Академиягенеральногоштаба)は、ロシア共和国軍における高級軍人を対象とする教育機関(軍学校)である。参謀本部アカデミーは通称であり、正式にはブルシーロフ陸軍士官学校(Военная академия им. Брусилова)。ブルシーロフ陸軍アカデミーとも。

 1832年。サンクトペテルブルグで設立された帝国陸軍士官学校を起源としている。その後、ニコライ将軍アカデミー(1855年)、帝国ニコライ陸軍士官学校(1909年)を経て、1923年に現在の名前に改称された。

(中略)

・設立までの経緯

 1921年。ロシア共和国大統領に就任したアレクサンドル・ケレンスキーは、内戦中に政治的影響力を拡大した軍部との対立を深めていた。内戦後に発足したロシア共和国軍は、旧白衛軍の軍閥構造を引き継いだ。コルニーロフやデニーキンの率いた南ロシア軍、コルチャークやグリゴリー・セミョーノフのオムスク・シベリア軍、ユデーニチの北西ロシア軍、黒海艦隊や、カフカースのコサック等である。

 大統領選挙敗北の後、ロシア共和国軍の総司令官として棚上げされたアレクサンドル・コルチャーク(全ロシア暫定政府の最高司令官)は、反ケレンスキーの姿勢を崩さなかった。コルチャークと対立するコルニーロフ将軍も、議会選挙においてボリス・サヴィンコフ率いる自由・祖国擁護同盟に投票するよう将兵に呼び掛けるなど、軍の意向を政治に及ぼそうとしていた。

 こうした状況を憂慮したケレンスキー大統領は、第2の十月革命を懸念する議会の支持を取り付けると、軍の非政治化に取り組んだ。ケレンスキーは白軍に参加しなかった帝政時代の将校や、赤軍からの寝返り組を自らのブレーンとして積極的に採用。コルチャークが議長を務める軍事評議会の提案した人事案を退け、国防大臣にアレクサンドル・ヴェルホフスキー、参謀総長にアレクセイ・アルハンゲリスキーを指名した。

 一連の軍事改革の指南役とされていたのが、アレクセイ・ブルシーロフ陸軍騎兵大将である。ケレンスキーは1917年6月のケレンスキー攻勢の失敗を巡り、ブルシーロフと対立したが、この頃は関係を修復していたとされる。ケレンスキーは、過去の人として扱われていた職業軍人を、丁重かつ敬意を持って接した。

 1923年。ケレンスキー大統領は、帝国ニコライ陸軍士官学校をブルシーロフ陸軍士官学校に改称する大統領令に署名した。上院の帝政復古派は「ロマノフ朝の否定に繋がる」として、決定に反対。抗議決議案を可決させた。ブルシーロフ本人も「自分の名前がつくことは御免蒙る」として、最後まで抵抗したとされる。ケレンスキーの決定は「軍の政治利用」との批判を受けた。

- 民明ネット百科事典『フリーミンメイ』参謀本部アカデミー(ロシア)のページから抜粋 -


チェコスロバキア師団問題(1923年5月 ハンガリー王国 首都ブダペスト)

 5月5日。オーストリア帝国のイグナーツ・ザイペル内閣が崩壊した。ガブリエーレ・ダンヌンツィオの超法規的措置による保釈、およびイタリア共和国への強制送還の閣議決定にともなう政局の混乱を受けたものである。

 

 経緯はこうだ。

 

 5月3日の閣議において、ザイペル首相からイタリア半島情勢に関する説明を求められた私は、オーストリア影響下にある北イタリアの情勢を冷却化させるためには、総選挙の実施が必要であるが、現在の情勢では選挙実施は難しいという認識を示し、閣僚達の理解を得た。

 

 そして私は共同外務大臣として、総選挙実施の政治環境を整えためには、治安回復が最優先であるが、二重帝国軍の軍事介入は困難であることを説明。そのための打開策として、先のイタリア上空飛行の実行犯であるガブリエーレ・ダンヌンツィオを、ミラノのイタリア共和国政府(ロンヴァルト=ヴェネト共和国)の協力者として行動することを条件に、ウィーンの入国管理局施設から釈放すること、そして共同外務省におけるロンヴァルト=ヴェネト共和国の名称を、イタリア共和国に改めることを提案した。

 

 私の提案に、閣僚達は顔を見合わせて静まり返った。当然である。ハプスブルクのイタリア政策を虚仮にした民族主義者を、無国籍者を理由にウィーンで飼い殺しにすることを提案したのは外務大臣(つまり私)であり、その危険分子を自ら釈放しようというのだ。

 

 真っ先に反対を表明したのは、ヨゼフ・レッシュ法相である。キリスト教社会党(CS)所属のレッシュ法相は「帝国の司法行政を所管する担当大臣として、そのような閣議文書に署名は出来ない」と、はっきりと明言した。同じくCS所属のミヒャエル・マイアー教育相も、北イタリアをオーストリアの勢力下に置くべきであるという従来の主張から反対を表明。むしろ二重帝国軍を治安維持活動に投入するべきだと主張した。

 

 閣議は紛糾したものの、私があらかじめ社会民主労働党(SDAP)の閣僚とCS執行部に根回しをしていたこともあり、最終的には閣僚の多数によって、原案通り閣議決定が行われた。レッシュ法相とマイアー教育相は、CS出身のザイペル首相の慰留を振り切り、辞表を提出。閣外に出た。

 

 閣議決定に反発したCSの保守派は、党執行部に「ガブリエーレ・ダンヌンツィオの再逮捕、社会民主労働党(SDAP)との連立解消、保守派政権の樹立」の3要求を突きつけた。また帝国議会においても、超法規的措置に対する反発は根強く、与野党からザイペル首相と私に対する不満が噴出した。

 

 SDAPのオットー・バウアー党首は、ザイペル首相に対して、局面を打開するための解散総選挙を打診した。しかしCS側は「SDAPが首相ポストを要求した」として、態度を硬化させる。調整型のザイペル首相も、これ以上の政権維持は困難と判断。5月6日、宮中に辞意を伝えた。

 

 これにより、1921年5月のレンナー前政権発足から続いた、中道左派の社会民主労働党と、中道右派のキリスト教社会党による大連立政権の枠組は、一旦幕を閉じる事となった。

 

 職務執行内閣を率いる暫定首相に、ヴァルター・ブライスキー統計局長を指名した皇帝陛下は、次期首相の任命に関して、議会側の意向を重視する姿勢を明確にされた。

 

 すなわち、現下の国際情勢を考えれば、政治空白をもたらす解散総選挙は難しい。内外の情勢に対処するためには安定政権の樹立が必要であり、それには議会多数派の形成が不可欠である……こうした陛下の抑制的な姿勢は、全政党から歓迎されたが、同時に先帝陛下を敬愛する宮中の保守派には、眉をしかめる向きも見られた。

 

 議会第1党SDAPのバウワー党首は、党所属のルドルフ・ヒルファディング前商業大臣を首班とする新政権樹立を、連立維持派のCS執行部に打診した。しかしCS側は首相ポストを要求したため、たちまち暗礁にのり上げた。一方、ザイペル内閣を倒閣に追い込んだCSの保守派は、ミヒャエル・マイアー前教育相を中心に大ドイツ人民党 (GDVP)の結党を宣言。CSは分裂状態に陥った。

 

 GDVPはドイツ国民党や農民同盟との連立交渉の結果、ザイペル前政権で内務大臣を務めたヨハン・ショーバー(元ウィーン警視総監)を、首相候補として擁立することで合意した。3党の合計議席はSDAPに及ばなかったものの、他の小政党もSDAP首班の政権樹立には反対したため、議会多数派の支持を得られる目処がついた。

 

 SDAPが議会で孤立化する中、唯一「第1党が組閣するのが筋である」との見解を示したのは、トレンティーノ人民党である。南チロルのイタリア人を支持基盤とする少数民族政党は「第1党を無視しては、政局の安定は困難」であると主張したが、支持は得られなかった。

 

 5月10日。ショーバー保守連立政権が発足する。SDAPは野党として新政権に反対する姿勢を鮮明にしたが、CSは新政権に対して是々非々で臨むと宣言。旧連立与党の対応が分かれたことで、新政権の「ショーバー・ブロック」は、臨時議会における補正予算案審議において、多数派の形成に成功。安定政権への道を歩き始めた。

 

 皇帝陛下が直接指名する二重帝国の共同外務大臣と、共同財務大臣は、基本的に政変の枠外にある。つまり私とヨーゼフ・シュンペーターは、新内閣にも引き続き参加することになった。

 

 初閣議に出席した私を出迎えたのは、ショーバー首相の儀礼的な挨拶と、閣僚達の敵意と侮蔑に満ちた視線であった

 

 

 ウィーンの市民はロンドン市民に負けず劣らず、新聞とゴシップの愛好者である。政治に対する不満と罵倒は、政治に対する期待と興味の裏返し。各紙は早速、今回の政変に関する解説と論評を、かびすましく始めた。

 

 カトリック系日刊紙の『Kleine Zeitung(クライネ・ツァイトゥング)』は「保守の逆襲」「SDAPの敗北」というタイトルから始まる、長文の解説記事を掲載した。全体的に、保守色の強い新政権への好意的な論評が目立つ一方、SDAPには「前政権の崩壊は、数を頼みにした独善的な政治姿勢に原因があった」として、自制を求める内容だ。

 

 時系列に関しては多少の事実誤認が存在していたが、関係者の発言や閣内の対立について、ほぼ正確に記載されている。前首相のザイペル氏が現役のカトリック聖職者であるように、CSにはカトリック教会の関係者が多数参加している。その関係で得た情報も含まれているのだろう。

 

 内容を少しばかり詳しく見てみる。

 

 同紙によれば今回のSDAPの敗北は「前回の総選挙の結果を過大評価したこと」に、そもそもの理由があるとする。

 

 すなわち2年前の総選挙においてSDAPはウィーンを中心とした都市部で勝利したが、北部や南部では保守政党の地盤を切り崩せず、単独過半数には届かなかった。1919年のフランス社会主義革命を背景に、地方や保守層を中心に社会主義への警戒感が根強かったためだ。。

 

 だからこそレンナー前首相(現在はILO事務局長)は、保守政党であるCSとの連立政権に拘り、保守層の警戒感に留意した政権運営を行ったのである。CSが分裂し、少数派政党を首相として擁立することにSDAP党内の支持が得られなかった事情は理解するが、CSなきSDAPを、議会多数派は支持せず、レンナーなきSDAPを宮中は支持しなかった……

 

 また同紙はガブリエーレ・ダンヌンツィオの保釈と、イタリア共和国への強制送還決定に関しては、直接の評価を避けた。閣議決定を行ったのはCS所属の前首相である。CSに対する配慮であると同時に、与党でもなく野党でもない同党の苦境が見て取れた。

 

 かつては「CSの機関紙」と揶揄され、現在は分裂した新党の大ドイツ人民党に近いスタンスを取る保守系の日刊紙『Neues Volksblatt(ノイス・フォルクスブラット)』は、「赤いウィーンから祖国が解放された!」というSDAPへの勝利宣言を1面に載せた。「次は北イタリアだ!」「パリに雇われたレードルを探せ」なる扇情的なタイトルだけで、内容は想像がつく。

 

 イタリア社会主義共和国(西イタリア)における凄惨な王党派弾圧の詳細は、すでに一般市民の間でも広まっていた。同紙は「犯罪者と殺人者を取り締まれ!」として、ガブリエーレ・ダンヌンツィオの再逮捕、および北イタリア駐留軍の増員と武力介入を主張している。そしてドイツとフランダース=ワロン連邦王国のダンケルク進駐に触れ「ドイツと同じことが、なぜ我々には出来ないのか!」と締めくくった。

 

 この両紙は保守系であると同時に地方紙という共通点がある。『Kleine Zeitung(クライネ・ツァイトゥング)』は、南チロルに隣接するシュタイアーマルクやクラーゲンフルト、『Neues Volksblatt(ノイス・フォルクスブラット)』は、帝国第3の都市である北部のリンツを拠点としている。中央集権的な個別政策への反発に加えて、首都ウィーンに対する潜在的な対抗意識から、SDAPには一貫して批判的なのが特徴だ。

 

 つまり今回の政変劇を、保守派の立場から肯定的に評価する立場の代表格だ。

 

 SDAPがなぜ多数派工作で敗北したか。2紙の論説は逆説的にその理由を語っていた。パリのサンディカリストを自称する社会主義者の蛮行は、オーストリア国内の保守派や右派にロシア内戦中におけるポルシェヴィキを思い起こさせた。現在のSDAPは武力革命を否定するレンナーやバウワーら右派が主導しているが、彼らは社会主義者であるというだけで反感を集めている。

 

 これに対して今回の政変に批判的な立場をとる代表格が、ウィーンの日刊紙である『Die Presse(ダイプレス)』である。

 

 諸国民の春と呼ばれた1848年に創刊された同紙は、一貫した自由主義的な論調で知られており、ウィーンの企業家や商工業者、知識人に支持されていた。読者層を反映してか、非常に難解な言い回しが多く、中身がないのを修辞で糊塗しているだけだという批判をされることもある。

 

 経済的自由主義を尊重する同紙は、古い自由放任経済と小さな政府を批判する立場のSDAPとは、必ずしも意見が一致するわけではない。それでも社会政策の重要性と「バーデン勅令」を前提としたハプスブルク領邦における民族自決権の確立を支持する立場から、SDAPとCSの大連立を支持してきた。

 

 同紙は「穏健な社会民主主義勢力と現実的な保守派による連立政権こそが、民族自決権の拡大というアウグスライヒの難題に取り組める唯一の選択だ」と主張。保守強硬派-二重帝国体制の堅持を求め、北イタリア政策で強硬姿勢を支持する政党に支持されたショーバー・ブロックでは、内閣の成功は難しいと言及した。

 

 また第1党であるSDAPを連立交渉の枠組みから排除したことは「過激派に対する免罪符となりかねない」として、沈黙している同党左派や過激な左翼政党を勢いづかせる可能性を指摘。懸念を表明した。

 

 『Die Presse(ダイプレス)』よりも左派色の強い『Neue Freie Press(ノイエ・フレイ・プレス)』は、「非民主主義勢力の勝利」「神権政治の復活」といった強烈な批判記事を掲載。連日のように「立憲体制の危機」「独裁の足音」といった反ショーバー・キャンペーンを繰り返したことで話題となった。

 

 扇情的な記事に見るべきものは少なかったが、相変わらずシュテュルク元首相暗殺事件の公判について記事を大きく割いて触れていたのは、流石は『Neue Freie Press(ノイエ・フレイ・プレス)』と言うべきか。

 

 SDAPの指導者だったヴィクトル・アドラー(1852-1918)の息子で同党書記として左派勢力の中心人物だったフリードリヒ・アドラーは、1916年10月30日。当時のオーストリア帝国首相のカール・フォン・シュテュルク伯爵を射殺したことで、緊急逮捕された。

 

 公判においてアドラーは「議会を停止し、立憲体制を破壊した首相こそが罰せられるべきだ」「稚拙な戦争指導で国民を困窮に陥れた犯人は誰か」「即時の無条件停戦を行うべきだ」と政府批判を繰り広げ、一時は国民から圧倒的な支持を集めた。

 

 しかし1919年の西部戦線崩壊による二重帝国と中央同盟勝利が確実になった頃から、両者の評価は一転。保守派を中心にシュテルク伯爵の再評価が進む一方、フリードリヒ・アドラーの評価は「パリのスパイ」「利敵行為」に転落。ウィーン検察庁は新たに反逆罪でアドラーを追起訴した。レンナー率いるSDAP右派も「左派の国家に対する裏切り」としてアドラーを除名した。

 

 こうした逆風にもかかわらず、シュテュルク元首相の議会停止を「憲法違反だ」と批判し続けているのが『Neue Freie Press(ノイエ・フレイ・プレス)』である。アドラーのテロに関しては厳しく批判する一方、他紙が取り上げなくなった後も裁判を積極的に取り上げ、検察による反逆罪での追起訴を批判している。ショーバー新首相に対しても「検察と国家のプライドを優先することで、法を捻じ曲げることは許されない」と注文をつけることを忘れなかった。

 

 スタンスや主張が明確な新聞は、読むのも楽である。

 

 その反対に、何を主張したいのかわからない記事を読まされるほどつらい事はない。おまけにそういう記事に限って、だらだら長いと相場は決まっている。

 

 オーストリア最古の日刊新聞であり、帝国政府の公式紙である『Wiener Zeitung(ウィーナー・ツァイトゥング)』を読んだ瞬間、私は間違って紳士録を開いたのかという考えにとらわれた。

 

 同紙の記事はあくまで事実のみを客観的に伝えることに専念されており、新閣僚の紹介も経歴と写真を掲載しただけ。あらゆる分析や解釈といった、個人の主観というものが徹底的に排除されていた。

 

 同紙は帝室関連の記事を一手に取り扱う「御用新聞」である。そのため社としての性格上、政局関連の記事は中立的なスタンスで書くことが多い。とはいえ今回のこれは、度を越している。

 

 つまり今回の政変に関して、宮中は距離を置いている。あるいは一致した見解が打ち出せないということだ。後継首相の選出に関して議会の自主性を重んじられた皇帝陛下の決定に関しては、新聞各紙は揃って好意的である。ただ宮中全体が歓迎一色というわけではない。そうした空気が事務的な書き方に反映されているのだろう。

 

 議会多数派の支持を得られた後継首相を、宮中が指名する。これでは順序が逆さまである。先帝陛下の治世ではありえなかったことだ。例え内実がどうであれ、首相はオーストリア帝国の主権者にして統治者たる皇帝が指名するもの。その建前を崩すことはありないという考えから、宮中保守派は皇帝陛下の言動に苦言を呈した。

 

 私の見るところ、皇帝陛下は確かに保守的な政治思想の持ち主であり、それを信奉しておられる。同時に二重帝国が今のままでは存続が難しいという深刻な危機感から、性急な改革が必要であるという意見をお持ちだ。今回の一件は、あくまでその一例に過ぎない。

 

 議会選挙を成功させたことで政治的安定性の確保に確保した両シチリア王国(南イタリア)、選挙結果をクーデターにより否定したことで混乱が続くブルガリア王国、そして内戦を理由に暫定議会のまま選挙を先送りしていたために政権基盤が弱体なイタリア共和国(東イタリア)……これら諸外国の事例について、私は陛下につまびらかに御説明申し上げた。

 

 私個人の考え方が十全の影響を与えたわけではないだろう。それでも今回の陛下の政変に対する抑制的な姿勢は、共同閣僚評議会議長である共同外務大臣の立場とは別にして、私個人は非常に歓迎していた。失敗も訂正も許されない皇帝陛下という御立場だからこそ、慎重かつ細心に振舞わねばならないと考えていたからだ。

 

 ウィーンの日刊紙『Kronen Zeitung(クローネン・ツァイトゥング)』は、非常に独特な見解を披露した。

 

 スキャンダラスな特集記事と、スポーツに芸能、レジャー情報といった文化面の充実を特色としている、イギリスで言うところの大衆紙である同紙は、1900年の創刊から僅か数年で発行部数10万を超える人気新聞に上り詰めた。そのため、良くも悪くも有権者の潜在意識やニーズを捉えるのが巧みであった。

 

 同紙はザイペル前首相でもレンナー元首相でも、ショーパー新首相でもなく、共通閣僚評議会議長であり共同外務大臣である私の顔写真を一面に載せると、次のように私を呼び捨てた。

 

 - 負け犬はこいつだ! -

 

 

 新約聖書のヨハネによる福音書の冒頭には「始めに言葉ありき」という言葉が記されている。いくつかの解釈があるが、世の全ての事象や概念は、神の言葉により始まった、あるいは、神が言葉とした瞬間に意味を持ったとするのが有名だろう。

 

 スラヴ人は、特定の単一民族を指した言葉ではない。言葉の始まりは言語学的な分類のひとつに過ぎず、その定義は「中央と東欧に居住する、インド・ヨーロッパ語族のスラヴ語派に属する言語を話す、諸民族の集団」というものである。

 

 言葉があるにもかかわらず、どこまでも曖昧模糊としたスラブ人という概念は、具体的な血の記録と地の記録に結びつくことで、変質と変貌を遂げつつある。

 

 現在の分類に従えば、東スラブ人はウクライナ人とベラルーシ人、ロシア人等々。西スラヴ人はチェコ人、スロバキア人、ポーランド人等々。南スラヴ人はスロバキア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人、セルビア人、ブルガリア人等々に分けることが出来るとされる。

 

 西スラブと南スラブに分類される民族集団を見れば、何ゆえ帝政ロシアが「パン・スラブ主義」なる、スラブ民族の連帯と統一を主張したか。そして故フェルデイナンド皇太子が「ドナウ連邦」なるスラブ民族の自治権拡大を目指したか、理解出来るだろう。

 

 多民族国家であるオーストリア=ハンガリー二重帝国を、「諸民族の牢獄」と批判するのは、主にスラブ民族だ。現在に至るまでドイツ人とマジャール人(ハンガリー人)が支配民族であり、スラブ諸民族は抑圧されているという意識が、この根底にある。

 

 ロシアのパン・スラブ主義は、同じスラブ民族の連帯を強調することでハプスブルクを牽制する狙いがあり、故フェルデイナンド皇太子は、ロシアに対抗する意味も含めて、あるいはマジャール人の専制を牽制するために、帝国領邦のスラブ民族の自治権拡大を意図していた。

 

 その中でチェコ人とスロバキア人は、共に西スラブ人に分類される。

 

 チェコ人は、7世紀頃からボヘミアに居住していたが、神聖ローマ帝国におけるドイツ人諸侯の入植増加に伴う軋轢と支配構造の確立が、強固なチェコ民族意識を形成させる要因となった。

 

 一方、北部ハンガリーのスラブ人は、ハプスブルク帝国領内での民族自決運動、ブタペストへの中央集権化に伴う北部ハンガリー経済の衰退の影響を受ける形で、19世紀にはスロバキア人としての意識を確立した。

 

 19世紀後半になると、チェコ人とスロバキア人は公然と自治権拡大を要求し始める。この背景には歴史的な要因意外にも、ハプスブルク領邦内の地域対立の側面が含まれていた。

 

 経済的な先進地域であるボヘミアや北部ハンガリーは、農業中心のウィーンやブタペストの風下に置かれていることが不服であった。チェコ人やスロバキア人からすれば、自分たちの稼いだ富が中央に吸い上げられ、自分達のために使えないという不満が鬱積していた。

 

 言語や文化といった歴史的共通点、政治的な目的が一致するチェコ人とスロバキア人が、共通で民族自決運動に取り組むことは、むしろ自然な流れであった。

 

 トマーシュ・ガリッグ・マサリクは1850年、ボヘミア東部のモラヴィア地方に、スロバキア人の父とチェコ人を母に持つ労働者階級に生まれた。

 

 高名なチェコ文化研究者であり、チェコ=ドイツ・シャルル・フェルディナント大学が誇る哲学科の名物教授であり、民族差別と帝国主義に反対した高潔なリベラリスト。複数の顔を同時に併せ持ち、それを人格的に統合するだけの器量を持ち合わせた政治家であった。

 

 早くからチェコ系民族運動の将来を担うと目されていたマサリクであったが、彼は体制内改革に限界を感じ、1907年にはロンドンに事実上の政治亡命を選択した。

 

 1914年の欧州大戦勃発に伴い、マサリクはチェコ人とスロバキア人の共同臨時政府(反ハプスブルク)である国民評議会を樹立。本部を旧フランス共和国のパリに置いた。

 

 そのマサリクが協商陣営の要請を受けて結成したのが「チェコ義勇軍」である。

 

 亡命チェコ人を中心に、諸民族の牢獄たるハプスブルクからの解放を目的として結成された義勇軍は、当初は僅か100人にも満たない小さなものであった。しかしマサリクのネームバリューと、東部戦線で捕虜となった旧二重帝国軍所属のチェコ人やスロバキア人捕虜の将兵を糾合することで、勢力を拡大。同じような亡命チェコ人・スロバキア人による部隊は旧フランス共和国や旧イタリア王国においても編成されたが、マサリクの義勇軍が最大勢力となった。

 

 度重なる組織改変の末に名前を「第1チェコスロバキア軍団」と改めた義勇軍は、1917年のロシア革命までには2個師団4万人の兵力を抱える勢力に拡大。ロシア内戦では白衛軍に所属して、モスクワ開放まで戦い抜き、そして現在に至る。

 

「チェコスロバキア師団を、早急に引き取って頂きたい」

「君は私に死ねというのか?」

 

 長々と説明を続けてから、最後に要求を始めて伝えたロシア大統領特使のセルゲイ・サーゾノフ伯爵に対して、私は間を置かずに返答した。

 

 

 母なるドナウ川が市内を南北に流れるハンガリー王国の首都ブダペストは、川を挟んだブダとペシュトという2つの町名を組み合わせた名称である。

 

 再開発により、両岸の都市が「ブタペスト」として正式に統合されたのは1873年。わずか半世紀前の出来事だ。ただ街自体の歴史は古く、その前身はローマ帝国時代の古代都市にまで遡ることが可能だという。古代ローマ人はブタペスト北部の温泉を利用して、浴場都市を建設。兵士達の保養地として整備した。その伝統はオスマン帝国を経て現在に至るまで引き継がれており、今では欧州屈指の温泉都市としての地位を確立しつつある。

 

 ゲッレールト・ホテルは、数年前にブタペストのゲッレールト丘の麓に開業したばかりのホテルだ。11世紀に殉教した聖職者の名前を関する温泉街の中でも、アール・ヌーボスタイルのモダンな宿泊施設は、富裕層や観光客からも人気が高い。

 

 5月15日。同ホテルの温泉施設は、先の大戦における後遺症に苦しむ負傷兵や復員兵を対象に、無料開放が行われていた。

 

 かつて戦場を駆け巡った勇敢な兵士達は、つかの間の休息と平穏を謳歌している。私はプールの縁に腰を下ろしながら、その光景に目を細めていた。身分も宗教も関係なく、ただひとつの湯を楽しむ。まさに太古から現在に至るまで、人間が追求してきた平和という言葉を体現した光景ではないだろうか?

 

「いやぁ、温泉とはまことによき物ですなあ。体の芯から和らぐような、俗世間の汚れが洗い流されるようです」

「君から汚れを洗い流せば、何が残るのだ」

「はっはっは、これは手厳しいですな」

 

 アレクサンドル・ケレンスキーは、私と同じホテル側があらかじめ用意していた灰色のパンツを履き、プールの縁に腰を下ろしている。頭部には何故か正方形に折り畳まれたタオルを乗せていた。

 

 賛美歌とも軍歌ともつかぬものを気分よく唸っているこの中年男性が、ロシア大統領と言われても、誰も俄かには信じないだろう。それだけケレンスキーの気配は、周囲に馴染み溶け込んでいた。聴衆の心を揺さぶる彼の舌も、今はすっかりと開店休業状態である。

 

 ザーゾノフ特使の度重なる要請に根負けする形で、私はチェコスロバキア師団に関するロシア側との交渉のため、ブタペストを訪問した。オーストリア国内政局の混乱により延期することも検討したが、おそらくロシア側のカウンターパートナーは、ケレンスキー大統領の盟友であるテレシェンコ外相。「将来」を考えれば、無用のいさかいは避けるべきだと判断した。

 

 首が飛ぶ寸前の私が、将来の心配をしても始まらないだろう。だが私が辞職しても、国家と帝室は続く。あとはどうなろうとかまわないと後足で砂をかけるような振る舞いは、私の流儀に反する。

 

 ところがホテルで私を出迎えたのは、ロシアの国家元首であり、ここにいるはずもないケレンスキー氏であった。

 

 私は外務省や情報部門が何ら事前に情報を入手出来ていなかった事実に苛立ち、あるいは情報を入手しながら、私に意図的に上げなかった可能性に頭痛を覚えながら、ケレンスキーに誘われるまま、この温泉施設へと足を向けた。

 

 言葉にすれば、少しは、この意味不明な状況が整理されると考えたのだが、やはり意味がわからない。

 

ヤポーニャ(日本)には裸の付き合いなる言葉があるそうです」

 

 私の表情をどう解釈したものか、ケレンスキーは世間話のような口調で話し始める。

 

「何でも互いに本音を隠すことなく、すべてをさらしだせる友人関係を指した言葉だそうで。閣下とは、率直な意見を交わせる関係を結びたいと考えた趣向です」

 

 ロシア発の平民元首を自任するケレンスキーは「もっとも、パンツは例外ですがね」と、自分の下半身を指さすとざっけなく笑った。なるほど、確かに粗野な振る舞いが板についている。

 

「誰にでも見られたくないものはある。少なくとも、私は君の下半身など、好き好んでみたくもない」

「お気に召しませんでしたかな?」

「いや、温泉は嫌いではない。長風呂は、この老体にはちと厳しいが」

「閣下はまだお若いではありませんか」

 

 気に入らない点があるとすれば、貴様が私の横に座っていることだ。流石にそういうわけにもいかず、私はケレンスキーを真似て、タオルを自分の頭の上に乗せた。

 

 取り留めがのない会話が途切れるのを待ちかねていたように、ケレンスキーは意図的な沈黙を選択する。私はそれにしばらく付き合ったが、仕方なくサーゾノフ特使に伝えた内容と同じ回答を繰り返した。

 

「何を言われようとも、今は無理だとお答えするしかない。ハンガリーであれオーストリアであれ、チェコスロバキア師団を受け入れられる政治状況にはない」

「ではいつならば?1年後ですか?2年後ですか?それとも10年?」

 

 私の回答に、ケレンスキーは彼の頭の回転の速さを証明するかのように、矢継ぎ早に言葉を連ねた。

 

「そのあたりをはっきりとしていただかねば、私としても閣僚に示しがつきません。終わる時間のわからない映画は、拷問に等しい」

「我々としても、貴国の懸念と憂慮は理解している。これまでも復員問題や捕虜交換事業では、協力体制を築いてきた。それでは不満だと?」

「理解して頂いたとしても、残念ながら目の前の問題は解決しません」

 

 ケレンスキーは、自分の顔の前で手を振った。

 

「第1軍団の2個師団4万5千人、および第2軍団の1個師団2万人。司令部や後方要員も含めれば7万人を超えます。これだけの人員の食事や寝床を用意するのも、自分の食事にも事欠く我々にとっては一苦労なのですよ」

 

 私は「マトリョーシカ」の発言の内容に、我が耳を疑った。

 

 いつの間にか1個師団増えているではないか!

 

 為政者としては、それだけ多くのチェコ人とスロバキア人将兵が二重帝国に反旗を翻したことを反省するべきなのかもしれない。諸民族の牢獄ではなく、諸民族の融和を掲げるのならば、彼らが帰国を望むというのなら、受け入れてしかるべきだろう。

 

 だが義勇軍の将兵は、地獄のようなロシア内戦を戦い抜いた歴戦の軍人なのだ。その実戦経験に裏付けされた錬度は、動員体制の解除を続ける二重帝国軍を上回る。そんな危険分子の受け入れを、何の国内調整もなく認めてしまえばどうなるか。

 

 1919年のパリ陥落と同時に、チェコスロバキア国民評議会はロンドンに逃れたが、依然として組織は存続している。この間、評議会内部でのロシア派と旧フランス派の主導権争いが発生。勝利したのは旧フランス派のエドヴァルド・ベネシュであり、2代目の評議会議長に就任した。彼はマサリクの側近であったため、マサリクは依然として評議会内部で大きな影響力を保持している。

 

 内戦を白軍勢力として戦ったチェコスロバキア師団は、現在でも国民評議会の政治的影響下にあるとされる。「バーデン勅令」により国内のチェコ人とスロバキア人は態度を軟化させたが、評議会議長のエドヴァルド・ベネシュは、共和制と反ハプスブルクの主張を取り下げていない。

 

 ちなみにトマーシュ・ガリッグ・マサリクは、私の秘書官であるヤン・マサリクの御父上である。「父は父、息子は息子」の論理で反対論を押し切ったが、実際には国民評議会とのパイプ役を期待しての人事であったことは否定しない。マサリク翁に、それが通用するとは考えてはいないが、政治的なメッセージになればいいと私も割り切っていた。

 

 仮に、国民評議会がこれまでの方針を撤回し、義勇軍将兵がハプスブルクへの忠誠を再度宣言したとしても、7万人を無条件で帰国させることなど、政治的にも軍事的にも困難である。こちらの受け入れ体制が整っていないし、弱体化した二重帝国軍では、不測の事態が発生した場合に押さえ込むことが出来るかどうか……とにかくアウグスライヒ交渉を前に、爆弾を抱え込むわけにはいかない。

 

「ナンセン事務所を通じた資金援助を拡大する用意がある」

 

 私はロンドンのナンセン事務所を通じた、金銭援助と食糧援助の拡大の代替案を提示した。

 

 1918年のドイツとボルシェヴィキ政権が締結したブレスト=リトフスク条約締結に伴う、国境線の大幅な変更と書き換えは、ロシアが内戦中であったこともあり、数百万単位の無国籍難民を発生させた。この人道危機に際して、中立国ノルウェーの元外交官フリチョフ・ナンセンは、中欧・東欧諸国への難民救援活動に着手。同時に彼らの新たな受け入れ国の斡旋や調停を行うなど、問題解決に尽力した。

 

 ナンセン事務所は、現在もロンドンを拠点に活動を続けている。ロシアはもとより、中欧や東欧やおける知名度は高い。チェコスロバキア師団という、帰属が不明確な厄介な問題を覆い隠す、格好の隠れ蓑になるであろう。

 

 何より金銭援助であれ食糧援助であれ、あれだけ広大な領土すべてを、ナンセン事務所が掌握することは難しい。そのためロシア政府を通じての支援ということになるが、その多くはケレンスキー個人の裁量にまかされることになる。それはコルチャークを筆頭に、軍部との対立関係が続く彼の政治的なカードになるだろう。

 

「国際社会からの支援に関しては感謝しておりますが、到底足りるものではありません。モスクワやペトログラードでも、毎日のように栄養失調が原因の餓死者が出ている状況で、外国人に気前よく食べさせるのは難しい」

 

 私の思惑を正確に理解したであろうケレンスキーは、あるいは金額を吊り上げるためか、恭しいながらも、驚くほど固い口調により否定した。

 

「白軍、いや、今は共和国軍だったか。モスクワの復興ややシベリア鉄道の保線作業に兵を動員していると聞いた」

 

 黙りながら頷くケレンスキーに、私はさらに主張を重ねる。

 

「貴国に主張があるように、我々にも納税者を納得させるだけの理由が必要だ。ロシアは彼らがハプスブルクの臣民なのだから養えと言われるが、我々からすれば8万人の脱走兵に過ぎない。軍部や強硬派の間では、ロシアに引渡しを求めて軍法会議にかけろという声も出ている」

「貴国の軍隊は、ずいぶんと意気盛んですな」

「早期帰国にこだわるのならば、此方としても考えがあるというだけの話だ」

 

 元々、チェコスロバキア師団は反ハプスブルクのために戦い続けてきた。ウィーンが実効性の伴わない強硬論を唱えるだけでも、こちらとしては牽制になる。下手に反乱を起こされるよりも、餌と寝床を用意して首に縄をつけた傭兵なり労働力として利用するほうが利口ではないかという私の提案に、ケレンスキーは首を横に振った。

 

「ロシア人ならばそれでも構いませんが、彼らはチェコ人であり、スロバキア人です」

「だからこそのナンセン事務所と考えてもらいたい。無為徒食の7万人に給与を支払うことは、国民に対して説明不可能だろう。労働の対価としてならば説明がつくのではないか。貴方が御得意の美辞麗句で飾り立てた綺麗事を前面に押し出せば、両国の友好親善にも役に立つ」

「閣下、そうではありません……どれほど散らかっていたとしても、身元も確かではない他人に家の中を快く片付けさせる家人がいますか?これはそういう問題なのですよ」

 

 あまりにも頑なな物言いに、私はカチンと来た。

 

「……共和国軍の軍閥やマフィアによる横流しが横行していると聞いた。そのような状況では、末端まで援助物資が行き渡ることは難しいだろう。底の抜けたバケツに水を貯めようとしても、無意味どころか有害だ」

 

 此方が何も知らない木偶の坊だと思っているのか。あからさまな不満を滲ませた私に対して、ケレンスキーは「政府機関が機能していない以上、そうした非政府組織の手を借りることもあります」と、自らが率いる政府の汚職体質を開き直ってみせた。

 

「政府に行政能力が欠けている以上、威張ったところで誰も命令に従いません。私としては彼等が悪党ではあっても、自分の家族を飢えさせるほど無能ではないことを期待しています」

「よくもまぁ、抜けぬけと……」

「だからこそ、ロシア軍の綱紀粛正は急務。故にチェコスロバキア師団のような不穏分子は、早急に御引取り願いたい」

 

 素手でウナギを捕まえるかのように、ケレンスキーはのらりくらりと言を左右にする。そして自分の要求だけは首尾一貫していた。

 

 旧協商陣営の義勇軍であるチェコスロバキア師団は、内戦中は反ボルシェヴィキで一貫していたが、白衛軍全体では孤立していた。その傾向はウッファ会議で、白衛軍が中央同盟陣営と手を結ぶと決議したことで、さらに強まった。

 

 彼らの身元引受人となったのは、同じく旧協商国から支持を受けていたオムスク政府のコルチャークであった。この酷薄な権力者は自ら協商陣営との断絶を主張しておきながら、精強無比のチェコスロバキア師団の戦力を欲していた。そのため現在に至るまで、チェコスロバキア師団はコルチャークの熱烈な支持者であり続けている。

 

 そしてコルチャークの最大の政敵が、ここにいるケレンスキー大統領。つまり政敵の支持基盤を、体のいい理由をつけて国内へ追い払いたいだけの話なのだ。

 

「自分の政敵の手足を削ぎたいだけではないか」と私が悪態をつくと、「マトリョーシカ」は平然と嘯いた。

 

「たまたま国内の問題を解決する事が、私の個人的な利害関係と一致しているのです。後者のために前者を捻じ曲げるのならば問題でしょうが、現在のところ、その予定はありません」

 

 ケレンスキーはぴしゃりと、自分の太ももを叩いた。プールの中を歩く片腕のない男性が、此方に怪訝そうな視線を向けたが、また直ぐにコースを歩き始める。

 

「彼らはハプスブルク臣民ではありませんか」

「裏切り者の、な」

「つまるところ、そこが問題なのですな」

 

 「ハプスブルク臣民など存在しない」とする前提で語られるケレンスキーの指摘に、私が顔をしかめて黙り込む。

 

 自己完結型組織の究極である軍隊は、その国家の体質を忠実に映し出す鏡である。同じフランス軍であっても、ルイ14時代とナポレオン1世、第3共和制では軍隊の性質も体質も異なる。そして新しい社会主義国家と言うものを模索している、パリのCGT政権には、まともな正規軍が存在しない。存在しえないのだ。

 

 ではハプスブルクはどうか?

 

 君主個人への忠誠と献身を重んじる将校団。地域ごとに編成された連隊。そして同じ君主を仰ぐという共通点以外には、何もない徴兵された兵士。この3者によって構成される皇帝と国王の軍。この近代以前の古き良き、そして旧き悪しき体質は、ナポレオン戦争の時代から指摘され続け、現在に至るも本質的には解決されてはいない。幾度となく中央集権的な国民軍への改変が検討されたが、悉く民族主義の厚い壁の前に敗れ去った。

 

「国家あっての国民であり、国家あっての軍隊です。目指すべき国家像が不明確では、現体制を揺るがしかねない異分子の受け入れに慎重になるのも無理もありません。ですが我々としてもあまり長くは待てない。その点だけは、忘れないで頂きたい」

「承知している……私としてはいかなる立場であっても、最大限の努力をするつもりだ」

 

 「クロアチア政府」を巡るブタベスト政府との交渉は暗礁に乗り上げ、足元であるオーストリアでは二重帝国再編に反対する保守派が政権に就いた。ドイツの関係も円滑性を欠き、ブルガリア王国の調停に失敗、看板政策だったイタリア外交が風前の灯……今の私は、首がつながっていることが奇跡である。

 

「閣下。私はこれでも閣下には期待しているのですよ」

 

 私としては、直接的な辞意を伝えない範囲で、若いロシア大統領に対して最大限の誠意を見せたつもりである。しかし「マトリョーシカ」は苦笑を浮かべながら、首を横に振るばかりだ。

 

 人間味に乏しい薄い笑みを貼り付けるケレンスキーに、私は問い返した。遅かれ早かれ辞任に追い込まれるであろう外務大臣に、何を期待するのかと。

 

「例のイタリア人のドン・キホーテ」

 

 人の神経をひどく逆なでする甲高い声で、ケレンスキーは続けた。

 

「当初は閣議決定に慎重意見であったショーバー内務大臣を、閣議の席で説き伏せられたのは閣下だと聞いています。何か考えがあってのことと推察しますが、ずいぶんと大胆な決断をされましたな」

「……私は首相から外務大臣としての見解を問われたので、最善だと思うところを述べただけだ。君に批判を受けるまでもなく、私がイタリア問題に関して責任を取らなくてはいけないことは理解しているし、その責任から逃げ出すつもりもない」

「いやいや、そうした意味で申し上げたのではありません」

 

 ケレンスキーは私のほうを見ながら、手を体の前でぞんざいに振る。相変わらず感情の読みにくい大きな目をギョロギョロと剝きながら、何の屈託や躊躇いもなく続けた。

 

「責任は取るものではなく、果たすものです。例え国がひっくり返ろうとも、自分だけは地位を保ち続ける努力と覚悟がなければ、何一つとして成し遂げられません。何より閣下が辞めてしまわれれば、ザイペル前首相が報われますまい。その程度のことに、自分は職を賭したのか?とね」

 

 純粋な自己弁護のための詭弁も、ここまで徹底すれば聖職者の説法のように聞こえるから不思議である。何も答えずプールから足を引き上げようとする私に対して、ケレンスキーは追い討ちをかけるように続けた。

 

「最終的に立っていたものが勝者なのです。私のようにね」

「物は言いようだな」

「たとえ惨めに逃げ出すことになったとしても、最終的に閣下が勝者の側にいればよいのですよ。それが犠牲となった彼らに報いる、唯一の方法というわけです……あの道化師を気取るイタリア人にも、同じ事を言われたのではありませんかな?」

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