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クイリナーレ広場に詰め掛けた群衆を前に、共和国宣言を行うイヴァノエ・ボノーミ(写真中央)。手にしているのはヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がサインした退位宣言書である。かつての王宮であるクイリナーレ宮殿のバルコニーから行われた演説の写真は、イタリアの新しい時代を象徴するものとして、当時の新聞に多数取り上げられた。
この8月2日の共和国宣言はボノーミの独断であり、ジョヴァンニ・ジョリッティ(暫定政府首相)は「王党派と過激派の双方を刺激する」という理由から、ボノーミの行動に反発している。
この演説を契機に、旧イタリア王国は内戦に突き進んだ。
- 『第1次世界大戦』民明書房(1993年)より抜粋 -
イタリア内戦(1919年9月 オーストリア帝国 首都ウィーン)
戦争は終った。
1919年6月20日。パリ郊外のヴェルサイユ宮殿鏡の間に、中央同盟の主要4カ国……すなわちドイツ帝国、、オスマン帝国、ブルガリア王国、そして我がオーストリア=ハンガリー=「クロアチア」三重帝国の代表団が集まった。
彼らは世界地図を片手に、講和条約の内容と、戦後の世界秩序に関する協議を始めた。
この会議に先立ち、ドイツ帝国のルーデンドルフ参謀総長は、協商国に対して「中央同盟の軍事力によって保障される、かつ強制される無制限の権力」を要求した。例えるなら「無条件降伏」とでも言うべき、この国際慣例を無視した一方的な要求を、イギリス・ポルトガル・日本の3カ国は拒絶。国を追われたベルギー、モンテネグロ、セルビアは言うに及ばず、フランス政府や内戦中のロシアは、そもそも回答出来る状況になかった。
この屈辱的な要請を受け入れた……受け入れざるを得なかった国も存在した。イタリア臨時政府を始め、ルクセンブルク大公国、ルーマニア王国、ギリシャ王国は、ヴェルサイユに招待を受けた。しかしながら彼らは、中央同盟諸国との個別協議はおろか、いかなる会議への参加も求められる事はなかった。ただ中央同盟が定めた講和条約の分厚い外交文書にサインをする事だけが、彼らの仕事であった。
イギリス、ポルトガル、そして日本がヴェルサイユ条約への調印を拒否した事で、協商陣営との戦争は継続される事となった。とは言え、彼らはすでに軍事的な脅威ではない。中立国であるデンマークの首都コペンハーゲンでは、停戦条件に関する断続的な協議が続けられている。イギリスとポルトガルも、停戦交渉には同意した。東洋のドイツ軍を排除していた日本だけは、これを拒否した。
このヴェルサイユに続くレールは、何時敷かれたのだろうか。
1914年か?1890年か?それとも1871年か、あるいは1866年か。それとも……
いや、本当は私も理解している。
1918年。1918年こそが、この大戦の転換点であった。
ソヴィエト・ロシアと講和条約を結んだドイツは、連合軍による1918年春季大攻勢を退けた。この時点で、中央同盟の軍事的優位性と勝利は、確実なものとなった。この機会を逃すまいと、私を含めた各国外交官による、外交交渉を通じた停戦合意と講和条約が図られた。
しかし「勝利による和平」に固執するドイツ軍参謀本部は、全ての外交交渉を拒絶した。
ドイツ帝国では、キール軍港での水兵反乱に端を発する全国的な暴動の政治的責任を取って、中央党のヘルトリング宰相が辞任。後任にはタンネンベルクの英雄であるヒンデンブルク元帥が任命された。新参謀総長ルーデンドルフにより戒厳令は継続され、ドイツの国論は勝利による和平に統一された。他の中央同盟陣営に、これを拒絶するだけの政治力は残されていなかった。
かくしてドイツ帝国軍が万端の準備を整えて始めた1919年3月の攻勢(カイザー攻勢)に、おびただしい砲弾と兵士の血を吸い続けてきた西部戦線は、驚くほどあっけなく崩壊した。
折しもフランス国内では、即時停戦を求める労働組合総同盟(CGT)が主導したゼネラルストライキが各地で発生していた。命令不服従と脱走が相次ぐフランス軍は、暴徒を鎮圧するどころか、むしろ即時停戦を主張するゼネストを支持する将兵が続出。4月にドイツ軍がパリを入城すると、抗戦派の内閣と議会はボルドーに逃れた。一方、パリにはCGTを中心とする暫定政府が発足する。
かくしてフランス国内に2つの政府が並び立つ状況が生まれたが、この状況は長くは続かなかった。
抗戦派のボルドー政府では、ジョルジュ・クレマンソー内閣が総辞職し、同じ急進社会党のアリスティード・ブリアンが新内閣を組織したが、パリに残った社会党は議会をボイコットした。南部自治体でもパリ政府を支持する声が強く、ブリアン首相はパリ政府との対話による政府の統一と、議会解散による事態収拾を図ったが、ジャコバン急進派によるパリ蜂起が止めとなり、ボルドー政府は崩壊した。
CGTが主導するパリの暫定政権は、急進派が主導する形でヴェルサイユ条約の調印に踏み切った。フランスは敗北を受け入れ、普仏戦争の敗北による混乱と革命の中から産声を上げた第3共和政は、その歴史に幕を閉じた。イギリス海外派遣軍(BEF)は本国へ撤退。ベルギー国王アルベール1世と、その支持者がこれに従った。
カイザー攻勢と歩調を合わせる形で、スヴェトザル・ボロイェヴィッチ上級大将率いるオーストリア=ハンガリー軍は、ピアーヴェ川の戦いで、イタリア軍に対して決定的な勝利をおさめた。ヴェネツィアで逃げ遅れた多数のイタリア軍を包囲下におくと、南フランスとローマに向けて進軍を開始した。
イタリア王国のオルランド首相は徹底抗戦を主張したが、議会で不信任案が可決。国王と議会に指名されたジョヴァンニ・ジョリッティ暫定首相は「戦争を終わらせる時が来た」と述べ、ヴェルサイユ条約の承認に前向きな姿勢を示した。
8月1日。ローマにハプスブルクの双頭の鷲が翻った。イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、差し出された退位宣言に無言でサインを行うと、ポルトガル共和国に亡命した。
イタリアが無条件降伏を受け入れたことで、オーストリア=ハンガリー軍の主力は即座に南フランスへと進軍した。バルカン半島では同盟国のブルガリアが周辺国を圧倒していおり、旧セルビア王国やモンテネグロなどはオーストリア=ハンガリー軍の占領下にある。1918年にイギリス軍とムドロス停戦協定を締結したオスマン帝国軍は、アラブ民族主義勢力や、クルド人の社会主義者に対して、優勢に戦いを進めている。
もう一度言おう。戦争は終わった。
5年にも及ぶ辛く苦しい戦いの末に、裏切り者であるサヴォイア家に支配されたイタリア王国は崩壊した。ナポレオン戦争以来の国家的危機を、ハプスブルク「三重帝国」は「同盟国」と共に克服したのだ。
何度でも繰り返そう。戦争は終わったのだ。
プロイセンが勝利し、ウェストファリアから続く外交は敗北したのだ。
*
デ=ガスペリの恰好を見た途端、私は思わず吹き出していた。
「……なんだね、その格好は」
デ=ガスペリ自身の独特な服装や服飾センスについて、私はここ2年近くの付き合いで慣れていたつもりであった。しかし今の彼は、私をして眉を潜めさせるほどに、実に珍妙な格好をしていた。
「急いでおりましたので」
最早、彼の皮膚と一体化したかのようなヨレヨレのスーツの上から、何時も以上に擦り切れたトレンチコートを羽織ったイタリア人(ひょっとすると正装のつもりなのかもしれない)は、全く悪びれもせずにそう言ってのけた。
靴は泥にまみれて擦り切れており、眼鏡のつるは一度壊れたものを紐で修理している。手に持ったブラウン色の革鞄だけが奇妙に真新しいが、警官からすれば、路上強盗の帰りだと疑ってもおかしくはない。事前に来客の予定があると伝えていたとはいえ、衛兵や警備兵は、この怪しげな風体の人物をよく通したものである。それとも宮殿の警備体制全体が、弛緩している証左なのだろうか?
それにしても、このような風体で堂々と宮殿に出入りするとは、まさに「道化師」にふさわしい。私は内心、自分が青年につけた綽名に満足していた。
1917年の12月以来、私はこの帝国議会議員と定期的に会談を重ねるようになった。
イタリア人らしからぬ四角四面の融通の効かなそうな風貌の中に、凡百の自称知識人が束になっても敵わない知性とユーモアを有するデ=ガスペリのことを、私が個人的に気に入ったこともあるが、私がこの青年に求めたのは本来の意味においての「道化師」としての役割であった。
ルネサンス以前、神と世俗が、宗教と自然科学が、光と闇が混沌としていた時代。宮廷道化師は「愚物」であるという理由から、政府批判の自由を与えられていた。王の権威が確立されておらず、行政組織が整備されていない時代において、宮廷道化師が果たした役割は大きい。
道化師は不満の代弁者として、声なき世論を国王に伝え、国王は道化師を自らの耳目として政策に反映させていた。
私はデ=ガスペリを通じて、帝国内の少数民族の不満や意見を吸い上げた。そして私は吸い上げた不満を、自身の人脈を通じてウィーン政界に伝えるスピーカーの役割を担った。私が貴族であることや外交官であること、そして何より亡き父が帝室に忠実な宰相であったことも功を奏した。
デ=ガスペリを通じて得たカトリック教会との人脈は、私にとって貴重な政治的財産となった。和平交渉では大きな役割を果たせなかったものの、私はこの不愛想なイタリア人と付き合うことで、新たな政治的基盤を確立した。またデ=ガスペリも、人民党における発言力を強めた。
それにも関わず、この男は口を慎むという発想とは無縁であった(そうしたあたりも、道化師にふさわしいと言えば、その通りなのだが)。
『国家と政府が、憲法に定められた議会本来の役割、つまりガス抜きとしての機能を果たしていれば、我々がこのような回りくどい真似をしなくてもよいのです。問題解決の近道がどこかにあるのではないかと裏道を探し回るから、結果的に回り道となる』
私が彼に名付けた「道化師」という綽名は、ナポレオン以来、民族を基盤とした国民国家への胎動を続ける改革に背を向け、前近代的な体制を維持する「ハプスブルク帝国」への強烈な皮肉ともなっていた。議
会が果たすべき役割を、個人が代弁する。確かに道化師が暗躍する余地のある宮廷は、近代的な国家とはいえないだろう。
だがそれが、それこそがハプスブルクなのだ。
帝国を構成する多種様々な人種、民族、宗教を統合するハプスブルク。この地上において最も崇高かつ困難な責務を背負われる皇帝陛下を支えるのは、皇帝陛下と帝室に絶対の忠誠を誓う軍隊であり、国家の枠組みに囚われず、同時に国家の枠を越えた人脈を有する貴族であり、そして各国政府の利害関係を調整する共通閣僚会議だ。
皇帝陛下はオーストリア皇帝であり、ハンガリー国王であり、クロアチア国王であらせられる。 オーストリア帝国が、ハンガリー王国が、そして「クロアチア王国」が、自分達に与えられた役割だけを果たしていればよいというものではない。
そのため三国の財務大臣と外務大臣は、同一人物が兼職することで、陛下を輔弼する。これはハプスブルク家領邦としての統一性を維持するための苦肉の策であり、二重帝国時代からの政治的な伝統だ。
そして共通外相が兼職する共通閣僚会議の議長が、皇帝陛下の事実上の名代として、各国政府の調停者の役割を担う。二重帝国……いや、三重帝国の首相とも称される、この役職こそが、皇帝陛下を支える要石と言えるだろう。
そして内外共に多難な時期にあるハプスブルクにとって、共通閣僚会議議長が、これまで以上の重責を担うことになるのは間違いない。
「共通閣僚評議会議長の御就任に、トレンティーノ人民党を代表してお祝いを申し上げます」
「何がめでたいものか」
オーストリア=ハンガリー=クロアチア帝国の共通閣僚会議議長として、オーストリア帝国、ハンガリー王国、クロアチア王国の外務大臣に任命された私は、デ=ガスペリの祝辞に、ただひたすらに重い溜息で応じた。
*
1914年6月28日。フランツ・フェルデイナンド皇太子殿下と、ホーエンベルク公爵夫人殿下がセルビア人テロリストに暗殺されたことから、7月危機が発生。協商陣営と中央同盟による世界大戦が始まった。
そして勝者となったハプスブルク「三重帝国」の帝冠に、暗殺された皇太子殿下の亡霊が取り付いている。
1918年に中央同盟の勝利が確実になると、ハプスブルク帝国内部では戦争への貢献に対する対価を求める諸民族が、民族自決権の確立と自治権拡大を掲げて活動を再開した。旧ロシア帝国における革命に影響を受けた社会主義勢力も胎動を始め、戦争勝利の直前にもかかわらず、ハプスブルク内部には深刻な政治的動揺が生じた。
1917年12月のベルンにおけるデ=ガスペリの批判は、あるいは正しかったのかもしれない。
『帝国議会というガス抜きがなければ、こうもなりましょう』
だが最も遅れた政治体制と揶揄されたロマノフ家ならいざ知らず、先進的な共和国とされたフランスでさえ、大戦末期には無残に瓦解したのだ。他民族を抱えるハプスブルク家で、議会における特定の民族対立が今以上に激化しなかったと、どうして断言出来るというのか。その矛先がハプスブルク家に向かないと、誰が断言出来たというのか?
国内政局が俄に騒然とする中、当時の二重帝国の共通閣僚会議議長であるオトカル・フォン・チェルニン伯爵は対応を迫られた。
1918年の10月12日。皇帝陛下は各党と各民族の代表者32名をバーデン・バイ・ウィーンの離宮に招かれた。そして皇帝陛下の名代であるチェルニン伯爵は、なし崩し的に延期されていた1917年アウグスライヒ交渉の正式な延期を伝えると同時に、1927年の次期アウグスライヒ交渉を目途に、各民族に段階的な自治権付与を約束する皇帝陛下の御意向を伝えた。
「バーデン勅令」の内容に、出席者は驚愕を露わにした。
- ハプスブルク領邦における主要な民族が、その居住域や人口の規模に比例する形で『独自の国家共同体』、あるいはそれに準じる共同体を形成するために、連邦国家の建設が必要と考える -
- 1927年アウグスライヒ交渉を目途に、オーストリア帝冠領とハンガリー王冠領の再編交渉を開始する。これは現在の戦争状態の終結後、諸般の事情を考慮しながら、可及的速やかに行うものとする -
読んだ瞬間、私は椅子からひっくり返りそうになった。バーデン勅令の内容は、故・フェルデイナンド皇太子殿下の「ドナウ連邦構想」を踏襲したもの……というよりも、そのものであったからだ。
二重帝国が成立した1867年以来、オーストリア帝国政府とハンガリー王国政府は10年毎に、共同省(財務省と外務省)の運営に関する協議を行って来た。そしてハンガリー政府は「ドイツ人との同盟」の見返りに、政治的な影響力を拡大し続けてきた。
故フェルディナンド殿下は、ハンガリー政府の振る舞いには常に批判的であった。殿下からすれば、そうした帝国内部におけるハンガリーの振る舞いは、多民族の平等という帝国の原則に反する行為であり、またハプスブルク家の威光を都合よく使って、チェコ人や南スラブ人へのマジャール人支配と、少数民族に対するマジャール化政策を正当化しているようにしか映らなかったからである(同様の批判はオーストリア側にも存在した)。
あるいは皇太子閣下がチェコ人貴族の娘と結婚されていたのも、影響していたのかもしれない。殿下は帝国内部のマジャール人の専横を牽制するため、南スラブ人やチェコ人の自治権を引き上げ、ハプスブルク家の領域を再編することを訴えておられた。
これがドナウ連邦構想であるが、当然ながらアウグスライヒ(妥協)をドイツ人との同盟の対価だと考えるハンガリー王国のマジャール人貴族には受け入れられない。皇太子殿下とハンガリーの緊張関係は、1914年まで続いた。
皇太子殿下の暗殺によって立ち消えとなったドナウ連邦構想を、チェルニン伯爵は殆ど根回しも折衝もなく、撤回が事実上不可能な「勅令」という形で復活させた。その意図は、この勅令により各民族のハプスブルグ帝室に対する支持を取り付け、国内外の革命勢力と民族主義者との分断を図ることにあった。
また戦争に勝利しつつある現状であれば、亡き皇太子の構想を勅令という形で既成事実にしてしまえば、他の民族の賛成を得ることによってハンガリー政府(マジャール人貴族)の反発も抑え込めると、チェルニン伯爵は考えたのかもしれない。その点でいえば、彼もまた帝室への絶対の忠誠心を持った、典型的なハプスブルクの貴族であった。
『物事には段階というものがあります』
トレンティーノ人民党の悲願が達成されたにもかかわらず、当事者である道化師ですら戸惑うほどに、バーデン勅令は唐突過ぎた。対外的な軍事圧力と、国内からの民族主義と革命勢力による突き上げ。その双方と対峙していたチェルニン伯爵の心労は察するにあまりあるが、惜しむらくは伯爵に、政治的な手腕が欠落していた点、そしてマジャール人貴族の皇太子殿下に対する鬱積された感情を過小評価していた事だろう。
非主流派のチェコ人・南スラブ人と連携していたフェルディナンド殿下と、民族派が主導するハンガリー政府は激しく対立していた。サラエボ事件直前には、皇太子殿下がハンガリー民族主義者で保守派のティサ・イシュトヴァーン首相を罵る場面もみられたほどだ。
そして大戦を通じてその地位を保ち続けた老練なティサ首相率いるハンガリー政府が、今さらドナウ連邦構想に賛成するはずもなかった。
マジャール人に次ぐ勢力をもつチェコ人と南スラブ人は、真っ先にバーデン勅令に賛成した。そしてチェコ人や南スラブ人が主張していた自治領には、ハンガリー王国が「固有の領土」と考える地域が含まれていたことから、ハンガリー政府と議会は「マジャール人の正当な権利に対する重大な侵害である」として、勅令の内容に正面から反発。皇帝陛下の威光は少なからず傷ついた。
ハンガリー政府の強硬姿勢に加え、ロシア内戦におけるチェコ軍団の取り扱いという政治問題もあり、チェコ人への自治権付与は先送りされた。これにより、チェルニン伯爵はチェコ人からの支持を失った。
そして南スラブ人の自治領を巡り、ハンガリー王国議会は紛糾。痺れを切らした南スラブ人の指導者であるアントン・ラディチが「クロアチア王国」の建国宣言を強行したことで、チェルニン伯爵は、ハンガリー王国のティサ首相と共に辞任に追い込まれた。
共通閣僚会議議長の後任に就任したのは、ハンガリー出身のシュテファン・ブリアン(共同財務大臣)である。1915年にベルヒトルトに引導を渡し、そしてチェルニン伯爵に引導を渡したティサは、ブリアンの後見人としてハプスブルク帝国の最高権力者に上り詰めた。
保守派のマジャール民族主義者であるティサ前首相は、チェルニン伯爵とは異なり、複雑なハプスブルク家の政局を統制する豪腕の持ち主であった。マジャール人の専横にオーストリアから批判が高まる中、ティサ前首相は皇帝陛下の意向に従い、表向きの強硬意見とは裏腹に、水面下でクロアチア政府との政治的妥協点を見出そうと交渉を重ねた。それがハンガリー王国の国益と、正面から反する行為にも関わらずだ。
しかしバーデン勅令から1年が経過したにも関わらず、クロアチア問題はいまだに解決されていない。にもかかわらずチェコ人も、「クロアチア王国」の南スラブ人も、彼らに反対するハンガリー人も含めて、表向きの勇ましい言動や強硬姿勢とは裏腹に、具体的な直接行動に出ることは避けていた。
その大きな要因は、バーデン勅令に参加した32名の指導者達が、しっかりと民族主義者の手綱を握り締めているからであろう。
……それが純粋な帝室への忠誠心からくる行動であれば、どれほどよかったことか。
各指導者はバーデン勅令による「皇帝陛下の慈悲深さ」を称え、帝国の団結と結束を訴えた。ハプスブルクの歴史が続く限り、それは優しくて単純で、誰もが安心するおとぎ話のような美しい物語として、諸民族に語り継がれ、読み継がれることになるだろう。
「帝室の存在がなければ、どうなっていたか」
「誰しも勝ち馬に乗りたいものです。勝敗は決したのですから、尚更ですな」
デ=ガスペリの言う通り、現実は美しくもなければおとぎ話でもない。戦争に勝利した、勝利しつつある状況であるからこそ、ウィーンの政治的失策があったとしても、各民族の不平や不満は抑えられたのだ。これが中央同盟が敗北しつつある状況ならどうなっていたか。私はぶるりと身を震わせた。
バーデン勅令により、各指導者は将来的な展望を持てるようになった。戦後の領土交渉次第では、ハプスブルク帝国は領土拡張も期待出来る。5年に及ぶ大戦の負担に耐えた以上、貢献に応じた見返りを受けるのは当然。そのためにはハプスブルクに留まり、「戦勝国」で居続けなければならない。
彼らが帝国の団結と結束を声高に訴えるのは、少しでも多くの見返りを獲得するためだ。
彼らが皇帝陛下を称えるのは、バーテン勅令の内容を自分達の政治基盤の強化に繫げるためだ。
彼らが強硬派を押さえ込んでいるのは、他の民族主義者に論功行賞の場で付け入られる隙を与えないためだ。
彼らには帝室への忠誠心など、最初から有りはしない。全ては自分達の立場を維持し、戦後の利益配分で優位に立つため!自ら利益に反すると判断したのなら、彼らは全く同じ政治的情熱を傾けて、ハプスブルクを諸民族の牢獄であると糾弾しただろう。
一見すると、自国に不利な交渉を引き受けたハンガリー政府にしても、それは同じことである。二重帝国の事実上の宰相である共通閣僚評議会議長は、ここ最近はハンガリー人貴族の指定席であった。現段階で他の民族に妥協しても、戦勝国の宰相の地位をハンガリーで確保出来れば、どうとにでもなる。ハプスブルクの宰相をハンガリー王国の指定席にすることも、不可能ではない……
「相手のある事だ。そう簡単に自分の思惑通りばかりに動くはずがないではないか」
私は国家と帝室への忠誠を蔑ろにしながら、あまりにも自分達に都合のよい薔薇色の未来ばかりを語る民族指導者達に対する苛立ちを……得に、亡き皇太子殿下がハンガリー政府に対して感じたであろう感情について理解した。
私は彼らの身勝手な振る舞いに、どうしても1917年のベルンで臨み、そして失敗に終わった協商陣営との和平交渉が思い起こされてならなかった。交渉がまとまりかけるごとに、本国からの命令によって振り出しに戻らされる。ヤン・スマッツと顔を突き合わせながら、幾度となく煩悶させられたことか。
私個人としては、ティサ前首相に含むところはないが、どうしてもその時の事が、私の脳裏を支配するのだ。
そして案の定というべきか、ハンガリーの政治家としてはあまりにも当たり前で、それ以外からすればあまりにも虫の良いティサ前首相の思惑は、シュテファン・ブリアンの辞任と、私の共通閣僚評議会議長就任により、あっけなく破綻した。
私がメンスドルフ家は、独仏国境の
つまり「フランス系ドイツ人貴族」と言えなくもない。
父上の頃、先帝陛下の御代ならいざ知らず、現在のハンガリー政治を主導する保守派貴族とつながりのない私が、共通閣僚評議会議長になれる時代ではない。まして私の15歳年上の義弟であるアポニー伯爵は、頑固な自由主義者であると同時に、ハンガリー議会におけるティサ前首相の政敵である。これではティサ前首相の支持を得ることは不可能だ。仮に就任出来たとしても、ハンガリーの傀儡となるか、それとも短期間で辞任に追い込まれるか……
ところが、そうはならなかった。
「国内問題に注力するのは大事だが、目の前のことが疎かになっていてはな」
私をこの地位に押し上げたのは、イタリア情勢の急変と、目の前の青年を通じて獲得したカトリック人脈のたまものだ。旧イタリア王国領において現在も続いている激しい内戦は、イタリア連邦における保守派勢力を糾合するカトリック人脈の重要性を、いやが応にも高めている。
あるいはハンガリーとしては、イタリア問題という失敗する可能性が高い難題の解決を、外様の私に押し付けたつもりなのかもしれない。戦後の自治領交渉を考えれば、最も厳しい立場に置かれるハンガリーとしては、これ以上の政治的な失点を重ねるわけにはいかない。ティサ老人であれば、そう考えてもおかしくはないだろう。
「戦争は終わったかもしれませんが、戦闘は続いております」
デ=ガスペリの言葉には、軽い皮肉と、強い苛立ちが含まれていた。帝室と教会に忠誠を誓う彼であっても、現在のイタリア情勢には思うところがあるらしい。そのどちらに重きを置いているか、今のところ尋ねるつもりはないが。
8月1日のローマ条約*1調印により、旧イタリア王国は、正式に中央同盟に降伏した。我が帝国のイタリア方面軍は、その大部分がフランスの継戦派が支配するマルセイユ包囲へと向かい、イタリア半島における戦闘は終了した。
ところが同時に発表されたローマ条約の内容と、8月2日のローマ暫定政府の「共和国宣言」を受けて、イタリア半島の秩序は急速に崩壊へと向かった。
ローマ条約により、サヴォィア王家はイタリア王位を失った。旧イタリア王国の領土は新たに創設される「イタリア連邦」に継承される事になっていたが、その内容が問題であった。 イタリア連邦はその名前の通り、半島の統一を維持しつつ、緩やかな連邦制の導入を志向していた。その下で王政復古や自治権拡大が約束されていたのは、南イタリアでの両シチリア王国、北イタリアではパルマ公国、トスカーナ大公国、モデナ公国の復活……
『これでは、リソルジメントの否定ではないか!』
戦争を指導したサヴォイア王家への民心は失われていたが、統一イタリアへの支持は失われていなかった。まして旧パルマ公国は今のオーストリア皇后の実家であり、トスカーナやモデナの王位請求者は、ハプスブルク皇族として健在だ。オーストリアのイタリア侵略が鮮明となったことで、戦争で疲弊しきっていたはずのイタリア世論は、再び激高した。
条約内容を詳しく知らされていなかった議員や経済界からも、条約に調印した暫定政権への批判や反発が高まった。再交渉を前提として調整を図ろうとした自由党のジョヴァンニ・ジョリッティ首相であったが、暫定政権内部の主導権争いもあり、敗戦による未曾有の混乱全てに対処することは、この老練な政治家をもってしても、事実上不可能であった。
最も強硬に「条約廃棄」を訴えたのは、旧王制下で抑圧され続け、自由党主導の政権の枠組みから排除されてきたイタリア社会党であった。同党はその党名通りの社会主義政党であり、大戦中も一貫して反戦を訴えていた。彼らは『統一されたイタリア共和国』を訴え、労働者や退役軍人と共に、ローマの政府を突き上げた。
この状況下で、8月2日にローマで暫定政権の閣僚による「共和国宣言」がなされた。
事態収拾を図った窮余の一策は、内戦開始のトリガーとなった。
8月6日、北イタリアのトリノで「サルデーニャ・ピエモンテ王国」の建国を宣言した王党派クーデターが発生する。サヴォイア家の王族の多くが前国王に従いポルトガルへと亡命する中、アオスタ公爵エマヌエーレ・フィリベルトはローマの暫定政権に反発。王党派と共に、北イタリアのピエモンテ州で決起したのだ。
このサヴォイア王党派の悪あがきは、現地警察や治安部隊にわずか1日で鎮圧された。アオスタ公爵は支持者と共に、地中海のサルデーニャ島へと逃れた。
こうした状況を受け、王党派クーデター鎮圧の中心的役割を果たした社会党では、トリアッティやアントニオ・グラムシらの急進派が主導権を獲得。反ハプスブルクと統一イタリアの堅持を訴え、ミラノで第2次革命開始を宣言した。大戦で疲弊した北イタリアでは、労働者や兵士を中心に急速に支持が拡大し、全域が騒乱状態に陥った。
8月11日には、ジャコモ・マッテオッティ(社会党非常対策委員会委員長)がトリノで「イタリア社会主義共和国」の樹立を宣言。魔女狩りのような王党派狩りと戦犯狩りの狂気と騒乱は南下を続け、12日にはローマ市内でアントニオ・サランドラ(開戦時の首相)が、デモ隊による壮絶なリンチを受けて虐殺された。
こうした状況にも関わらず、オーストリア軍は具体的な行動をとらなかった。
ヴェネツィアで旧イタリア王国軍の武装解除を指揮していたフランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ元帥は、8月6日のアオスタ公爵のクーデター未遂事件以来、繰り返しウィーンに北イタリア全域の危機的な状況を打診していた。
折悪しく、皇帝陛下はフロトウ外務次官と共に、旧ベルギー王国スパにおけるドイツ皇帝との首脳会談への途上にあった。シュテファン・ブリアンは8月3日からハンガリーのブタペストで、クロアチア王国の代表者との交渉に臨んでいた。軍部の最高責任者であるシュトラウセンブルク参謀総長は、バルカン戦線への視察に出かけていた。
まさにウィーンにとって、イタリア半島は「終わった」戦場であったのだ。
8月15日。ハプスブルクの首脳陣が事態の深刻さに気が付いた時には、すべてが後手にまわっていた。既に西北イタリアは社会主義者に制圧されつつあり、フィレンツェやジェノヴァといった大都市では、共和派と革命派による悲惨な市街戦が始まっていた。マルセイユを包囲中であったオーストリアの第3軍は、本国との連携を断たれて孤立した。
イタリア情勢に対する対応を批判されたシュテファン・ブリアンは、共通閣僚会議議長を辞任。カトリック人脈を通じて、早くからイタリア情勢の情報を得たことで警鐘を鳴らしていた私に、お鉢が回ってきたというわけだ。
「閣下の仰る通り、厄介ごとを押し付けられたとみるべきでしょな」
「押し付けだろうが責任回避だろうが、そのような事はどうでもよい。この帝国を纏め上げ、陛下を輔弼することこそが、私の職務である」
淡々とした口調で指摘する「道化師」に、私は意図的に冷淡な口調で答えたが、少なくともデ=ガスペリに伝えた言葉は、建前ではなく私自身の本心である。
結果的にチェルニン伯爵は失敗したが、私には彼を嗤うことは出来ない。器量や才覚が人よりも抜きん出て優れていると自惚れるほど私は若くなかったし、賞賛よりも批判を、成功よりも失敗を重ねる事で生きてきた人間だ。器量に似つかわしくない仕事であろうと、私に出来ることは、正面から取り組む事しかないではないか。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々としている。そこから入る者の、なんと多いことか」
「……また聖書かね」
私はいささか倦厭しながら、顔の前で手を振る。だが、それは「道化師」には通用しなかった。
「マタイによる福音書、第7章です」
「そういう事を聞いたわけではないのだがね?」
長らく人々の道徳の中心であったカトリックの教えは、確かに素晴らしいものだろう。だが今、私と帝国に必要なのは、道徳論でも神の言葉でもはなく、目の前の情勢への対応策だ。そして、この男は、それがわからない人物ではない。
にも関わらず「道化師」は更に続けた。
「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見い出す者は少ない」
「苦しくとも楽な方向に流れるな。一見すると狭く険しい道であっても、王道を歩めか」
そのような意味だと理解していると、私が内心の不機嫌さを隠さない口調で答えると、デ=ガスペリは私の反応を確かめるように頷いた。
個人的にはデ=ガスペリという青年を理解しているつもりだが、彼を個人的に使う以上、あえて言葉にしなければならないこともある。
私は帝国のイタリア人である彼に対して、改めて念を押した。
「イタリア連邦を旧イタリア国民が拒絶したのは事実だ。だがハプスブルクのイタリア半島における影響力放棄することも、そして社会主義革命や、過激主義者によるイタリア統一を認めるわけにはいかない」
そのようなことを認めてしまえば、何のために私が今の地位に就いたのかということになりかねない。地位に恋々としがみつくつもりはないが、何も成さず、何も遺さず、何も為さずに去るつもりもない。
デ=ガスペリは「承知しております」と応じて、続けた。
「ヘッツェンドルフ元帥に、旧イタリア王国軍の再編を急がせているとお聞きしましたが」
「……彼らが裏切らないという保証は、どこにもない」
イタリア半島の現状をこのまま看過する選択肢は、私も含めてウィーンの人間は誰も考えてはいない。しかし、この状況で帝国軍が内戦に介入すれば、むしろ社会主義者はイタリア人の民族意識を煽ることで、革命体制を強化するだろう。そのため帝国軍は直接の武力衝突を避け、ヴェネツィアまで前線を後退させている。
騒乱状態となったローマを脱出し、ミラノに逃れた暫定政権の旧保守派を支援する構想はある。ヴェネツィアで新たな臨時政府を発足させ、彼らの要請という形で軍事介入の大義名分とする。しかし彼らがイタリア国民から裏切り者として支持を失う可能性を考えれば、迂闊には動けない。
「決定打がないのだ」
そう、決定打がないのだ。帝国軍が軍事介入するにしても、このままでは「侵略者」のレッテルを張られるだけだ。あの軍国主義者が支配するドイツですら、CGTが支配するフランスへの介入を躊躇っているのは、そこに理由がある。
北イタリアの社会主義者は烏合の衆だが、祖国防衛戦争という何物にも変えられない勢いがある。万が一、帝国軍が敗北するような事態が発生すれば、ハプスブルク領邦内の民族運動に悪い影響を与え、革命勢力に材料を提供することにもなりかねない。それは、ハプスブルクのナポレオン戦争におけるトラウマを刺激するには十分だった。だからこそ、ローマ防衛のために軍事介入を主張される皇帝陛下ですら、最終的に踏み切れていない。
北イタリアの社会主義者の勢いは目覚しい。イタリア国民は熱病に浮かれたように、彼らの快進撃を賞賛している。このままではいずれ南イタリアにも混乱が波及するだろう。その前に、手を打たなければならない
それを押しとどめる何か。決定的な何かが、現状では欠けている。
「勝利ですな」
そう、勝利だ。どれほど小さくてもかまわない。誰の支援もない、イタリア人の手による明確な勝利だ。
イタリア人が自ら立ち上がり、社会主義者に対して「No!」を突きつけたという事実。
それさえあれば、武力介入の口実は出来る。
「閣下、私は手紙を預かってまいりました」
それまで私の話を瞑目して聞いていたデ=ガスペリは、革鞄から油紙に包まれた手紙を取り出した。
私はそれを受け取りながら、彼に手紙の送り主を誰何した。
「ナポリのルイージ・ストゥルツォ司祭です。現在司祭は、南イタリアで反社会主義者の民兵集結に取り組んでおられます」
ストゥルツォ司祭について、私は目の前の人物から何度も聞かされていた。現在の教皇の信頼が篤い聖職者として、フランス革命以来、延々と続いてきたキリスト教と民主主義の対立に、キリスト教民主主義という新たなアプローチを切り開いた人物として、イタリア政界では著名な人物だ。
そして目の前の人物以外からも……つまり外務省や現地の軍からの報告の中で、私は幾度となく、その名前を見聞きしていた。カトリックの聖職者でも、その行動や性格は多種多様である。そしてストゥルツォ司祭という人物は、報告書や目の前の人物の言葉を信用するならば、自らの独断で民兵を集めるような人物ではない。
「自ら狭い門を選び、細い道を歩くことを選んだ人の強さを、社会主義者は知らないのでしょう。かつての教皇の如く逃げ出すか、スイス人傭兵に守られた籠城を続けるか。その程度の認識なのです」
「……だからこそ付け込む隙があると?」
トリノの革命政権も、今すぐ地元の教会と事を構えるほど愚かではないらしい。だからこそ、情報がローマに集まる。デ=ガスペリの薄汚れた格好は、自ら各地の教会を駆けずり回ったことの証左なのだろう。
その答えが、今まさに私の掌中にあるものの正体というわけか。
私は知らず、息を飲んでいた。参謀本部の慎重姿勢にもかかわらず、皇帝陛下は猊下の救出とローマの防衛のため、武力介入を主張され続けている。事はあまりにも重大だ。だからこそ、慎重かつ迅速に対応を決定しなければならない。
そして手紙の中身次第では、その前提条件が覆りかねない。
私は意図的にゆっくりとした口調で、しかし語気を強めながら、デ=ガスペリに確認した。
「……使徒ペトロの後継者は、自ら囮となられるおつもりか」
「なすべきことはただひとつ。 後ろのものを忘れ、 前のものに全身を向ける」
再び聖書を引用しながら、道化師は恭しく一礼した。
*
ブラッチャーノ湖の戦いは、イタリア内戦の転機となった。
1919年9月10日、ジョヴァンニ・メッセ大佐率いる3000に満たないカトリック民兵は、2万を越える革命軍を散々に破った。
その直後、ボルボーネ=シチリア家のフェルディナンド・ピオは「両シチリア国王フェルデイナンド3世」として、ナポリで即位を宣言。リソルジメントで歴史の中に消えた王国の復活を内外に宣言した。同日、暫定首相に任命されたルイジ・ストゥルツォは、北イタリアの社会主義者に対する対決姿勢を鮮明にした。
こうした状況を受けて、ミラノに逃れていた暫定政権は「イタリア共和国」の建国を改めて宣言。ハプスブルク家に軍事支援を要請した。
要請を受け、帝国軍は北イタリアへの本格的な軍事介入を開始。ポー川で革命軍と激しい戦闘を開始した。
*カイザーライヒでは、イタリア共和国への改名はオーストリアの影響が低下した1930年のイタリア連邦解体後であり、それまではイタリア連邦に加盟するロンヴァルト=ヴェネト王国(あるいは共和国)という設定のようです。